流れる時
「ごめんください!」
さっきから何度も声をかけているのに、中からはテレビの音が聞こえてくるだけで、一向に人が出てくる気配はない。
もう一度叫んでそれでも応答がなかったら諦めようと最後の声をあげた時、老婆という形容がぴったりくるような管理人が姿を現した。
「これと……そこのそれ、二把づつ下さい」
「はいはい、ただいま」
管理人は、白と黄色の小菊の束と、緑の樒を新聞紙でくるむ。
「蝋燭とお線香は?」
「あ、それも下さい」
併せて千円ほどの代金を払い、国道沿いにあるその店から左に折れ、そのまま立田山へと続くなだらかな坂道を歩き始めた。
入り口沿いにこそ何件かの家が建っていたが、すぐに道は両側とも林だけで、その奥には神社が見える森閑とした山道となる。
舗装もされていないその道を五分ほど歩き、俺はその目的地へと辿り着いた。
そこは、低くなだらかな立田山の山中に広がる墓地。入学式帰りの俺は真新しい制服に身を包んでいる。
俺は黙って、とっくに干乾びてしまっていた古い花と樒を換えた。
そして、線香と蝋燭に火を点け、暫し目を瞑ったが、改めて前を見据えた。
「俺、済陵に通っちゃったよ。見ろよ、この制服ダッセーの。笑うよな。全然似合わねえよな、こんなん俺にはさ……」
残り少ない花びらが舞う桜の木の下で、俺は墓石に向かって語り掛けている。
「俺だって見たかったよ、お前のブレザー姿。お前だったらさ。緑のネクタイも、あのグレーのセーラー服だってきっと似合ってただろうにさ……」
しかし、何の返答も返してくれるはずもない灰色の石を見つめながら、俺はただ胸が潰れそうだった。
「馬鹿野郎……!!」
通夜にも葬儀にすら出席しなかった俺が今、玲美の墓前に手を合わせる気になったのも、時の流れの故だろう。
しかし、俺は玲美への想いを引き摺っている自分を思い知らされるだけだった。
立田墓所は驚くほど広い。
しかし、ここも立田山中の一角に過ぎない。
晴れた日で、小鳥の囀りが聞こえるが、人の見当たらないこの場所は不気味なほど静まり返っている。
そして、この立田山の端近に済陵は位置しているのだ。
お前の眠る処から俺の姿が見えるか、玲美……。
俺は……俺はまだお前のことが忘れられないよ。
愛してる──────
愛している、玲美……!!
言葉にはならない呟きを心で叫ぶ俺の目の前には、玲美の幻が浮かんで、消えた。
そして、俺は項垂れたまま、玲美の墓を後にするしかなかった。
***
時は流れる。
済陵で俺はひたすら沈黙を続けていた。
戻ろうと思えば昔の自分に戻れるのかも知れなかったが、俺は地味な目立たない普通の一般生徒を装っている。
今更、済陵で人の関心を引こうなどという気はなかった。
遊ぶ分には、昔の仲間がいくらでもいた。
バンドを辞め、打ち込むものを無くした俺は、長身をかわれて誘われるまま気紛れに入ってしまった漕艇部で、放課後汗を流したりもした。
しかし、週末になれば、夜の繁華街を彷徨い歩く自堕落な生活に変わりはない。
学校も勉強も俺にはどうでもよかった。
ふと気がつけば、ざわめく教室の空間で、俺と一緒にここにいるはずだった玲美の幻を見ているのかもしれないような自分を、俺は持て余すだけだった。
そんな俺が。
あいつの存在を知ることになったのも、何かの巡り合わせだったというのだろうか──────
ポニーテイルだった髪を突然、ショートボブに変えていたあいつを見た高校二年の五月の朝、一瞬、我が目を疑った自分を今でもよく覚えている。
髪を切ってやや幼くなったようにも見えた神崎は、あの日の玲美と同じ顔をしていた。
だからと言って、俺はどうするつもりもなかった。
顔が似ていたところで、中身は別人だ。
あいつはクラスのお堅い委員長だった。
隙を見せない徹底した優等生のあいつと、この俺とは、何の接点も有るはずがなかった。
なのに。
奇しくも、あいつと俺との運命は奇妙に重なり合って、そして……。