19 農徒神教と漁師の娘
月日が経つのは早すぎる。
暦は一月。
明後日には、猛将ガルキーナがやってくる。
俺は焦っていた。
漁術は小作人である俺にはあまりにも負荷が大きい。
だからといって、言い訳をしている暇などない。
ひと月の間、この場所に滞在して新しいスキル体得を目指していた。
タイプには相性というものがあり、小作人は弱点が多い。
今後、農術だけで渡り合えるはずもない。
この日もいつものように湖の水面は凍っている。
だが関係ない。
右手に光のクワを呼び出すと、奥義――マッハ開墾で水面をたたき割る。
得物を竹竿に握り替え、勇者シローが使ったとされる戦闘漁術の構えをとった。
農民が土の声が聞こえるように、漁師は水の声が聞こえるらしい。
そして熟練した漁師は体内で練り上げた気を水面下に浸透させることにより、水の流れをコントロールできるという。
体内の迷いを払しょくし、釣竿一点に己の気を集中して竿を放つ。
秘儀――一本釣り閃!
だが。
ポトリと針が水面に沈み、釣竿の浮きが湖に浮いているだけだ。
これではただの釣りでしかない。
無駄に気合を入れている分、疲れるだけである。
その時だった。
ガサリと草をかき分ける音がして身をひるがえした。
「だ、誰だ!?」
女?
尖った耳でエルフであることは分かるが、エルフには珍しい黒い髪。
顔半分は髪で隠れており、切れ長の細い目に整った顔立ちをしている。
一般的なエルフは色白が多いが、ダークエルフを連想させる小麦色の肌をしている。
服装は布に紐で腰のあたりを巻いているだけのシンプルなもの。
女は俺の前までやってくると、おもむろに着衣を脱ぎだした。
「お、おい……」
胸には白いさらし、腰から下はまるで江戸時代の男たちが巻いていたふんどしのような布きれだけ。ほとんど肌を晒した姿になると、湖に走っていきそのままドボンと潜った。
いきなり服を脱いで湖に飛び込むなんて、何者なんだ、あいつ!?
それに寒くないのかよ。
水面には氷が浮いているぞ。
しばらくすると、女は水面から顔を出した。
ニカリと白い歯を見せて笑っている。
「おい、わりとデカイのが釣れたぞ。早く火を起こしてくれ」
彼女は銛のような物は持っていない。
素手だけで魚をとったのか!?
彼女が引っ張りあげた魚は、全長3メートル以上はある。容姿はまるでアマゾン川に潜んでいるピラルクのようでもある。
強靭なアゴをしており、簡単に胴体も食いちぎれそうだ。
どうやら腹部に強烈な一撃を叩き込んで仕留めたようだ。
風穴が空いている。
俺が火を起こしていると、彼女は手際よく魚を解体していく。
何者なのだ?
漁師スキルが高いことだけはわかる。
「おい、あんた、腹減っているんだろ? 食うだろ? こいつはうまいぞ」
「……俺は漁術の鍛錬をしていただけだ。別に腹は減っていない」
と、言ったもののここのところまともな食事をとっていない。魚の焼ける香ばしい匂いに不覚にも腹がグゥと鳴ってしまった。
「あはは。なんだよ、それ。
それに随分前から魚釣りをやっていたようだけど、一向に釣れてないじゃないか。いいから来いよ。釣りは素人のようだし、あんた、農民だろ? もしかして農家を追い出されたのか?」
「まぁそんなところだ。それよかいつまでそんな恰好しているんだ。風邪ひくぞ」
真冬なのに胸は白いさらし、腰はふんどし。
なんとも寒そうな恰好をしている。
見ているこっちが寒くなる。
着ている上着を貸そうと近づいた。
「あたしは漁師だ。海で育った者はそんなにヤワに出来ていない。ほら、焼けたぞ! 食え!」
そう言うと、ニカリと笑って火で炙った串を差し出してくる。
「あぁ、ありがとう。でもどうして漁師がこんな森の奥にいるんだ? 迷子にでもなったのか?」
「漁師は迷子にならない」と威勢よく言い放ったが、ひとつ溜息をついて、「と、言いたいところだが、それは海での話だ。相当迷っている。ここはどこだ?」
「エスタレンゲの湖だ。森を下るとエルサの村がある」
「え、え! もうそんなところまで来ていたのか! あたし、エルサの村に用があるんだよ。飯の礼に案内しろ!」
「お、おい。えらくぶしつけだな。まぁ、山を下るつもりだったから別に構わないが。ところで何の用があるんだ? 大抵よそ者は嫌われるぞ」
「そんなことはない。エルサの村は世界一の楽園だ。あたしはそこを目指してアルザレスの港からやってきたんだ……」
「楽園?」
「あぁ、エルサの村はこの世の理想郷だ」
「は?」
「おまえ、何も知らないのか? あの村の連中は独裁者を叩き潰して理想郷を作ったんだろ。そんなことも知らないのか? 本当にお前、農民なのか? 農民なら誰だって知っている粋のいい話だろ」
「どこで聞いた?」
「他の村ではもちきりだ。あたしはローザ様から聞いた。天使のようなお人だった。実はあたしの村……」
そこまで言うと、急に沈んだ顔になった。
彼女が言いかけた村の話も多少気にはなったが、それ以上に俺の心を支配したのは言わずと知れたローザだった。
ローザが?
どうして?
「おい、お前、どこでローザに会った!? ローザは今、何をしているんだ!?」
「お前、お前ってあたしはお前じゃない。親父につけてもらった大事な名がある。それで呼べ。あたしはクナだ」
「ク、クナ。
ローザはどうしているんだ?」
「ローザ様は天使様だ。どうしてローザ様を気にかけている? もしかして、お前、役人なのか! いや、役人にしてはみすぼらしい。分かった! お前だろ! ローザ様を困らせているダンとかいう下劣な百姓代は!」
「ち、違う。俺は、アキ――」
「ダン! あたしはあんたを許さないよ。あんただって農民だろ! なぜ農徒神教を弾圧してるんだ! ダン! お前、ローザ様に踏み絵をさせただろ! 全部、知っているぞ」
「お、おい。違う! まったく分からんし、俺はダンじゃない。なんだよ農徒神教って。踏み絵ってなんだよ」
「しらばっくれるな! 農徒神教弾圧がお前らの目的。ここにはあたしとあんたしかいない。百姓代のあんたを殺しても誰にも咎められない! あんたは最低な奴だ」
クナの右頬を覆っていた前髪が風で揺れた。
大きな刀傷がある。
クナはそれに手を添えて鋭く笑う。
「これね。海の男なら勲章っていうらしいね。だけど女だと勲章にはならないってね。女としての価値が落ちるだけ。親父がそう教えてくれた。
あたしの親父がこれをつけてくれたんだ。あたしが売られそうになった日。あたしが売られないように涙を流しながら刀で刺した。翌日、クソのような領主に殺された。
そうだよ。あたしの村は領主に滅ぼされた。
デタラメな取り立てと悪法の数々で、みんな飢え死にしたり、売り飛ばされたり。
領主の名はガルキーナ。
お前が組んだ下種の名だ」
山にこもっていたたった一カ月の間で、ふもとでは、いやその周辺を巻き込んでとんでもないことが起きている。
この子の村はガルキーナに滅ぼされた。
強い恨みを抱いているのは分かる。
だが俺はダンじゃない。
それにローザ。
君は何をしている?
農徒神教ってなんだ!?
クナは拳をうならせて咆哮を上げて突進してくる。
大魚を仕留めたあの技を放つつもりか。
今、倒れるわけにはいかない。
――ゴメン。
俺はクナの背後に周り込むと、軽く手刀を落とした。
「……ダ、ダン……。こんなところで負けるわけには……」
「俺はダンじゃない。アキヒコだ」
「ア、キ、ヒ、コ……。何バカ言ってんの? それ、神様の名前じゃん……」
気を失って前方に倒れゆくクナを抱きかかると、背中に背負い山を下りた。




