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亡者の思念 3

 体が動かない。しかも宙に浮いているような奇妙な感覚だ。チクチクと痛む目を凝らしても何も見えず、耳も詰まったようにゴボゴボと濁った音しかとらえられない。そしてとにかく息が吸えない、鼻も口も見えない何かに塞がれて。


 この感じ、水の中にいるのだ。真っ暗な水の中に。死の足音が寄り添い恐怖に駆られる中で、コルトはそう思い至った。


 ――って、そんなはずないだろ!? また幻だな!


 自分はちゃんと土の上に立っていた、突き落とされもしていない。周りは水じゃなくて空気だ、息もできる、大丈夫だ。コルトは自分に繰り返し言い聞かせた。


 すると浮遊感が無くなって、自分が二本の足で立っている感覚が戻って来た。呼吸も一気に楽になり不安も和らぐ。ただ視界だけは、暗闇から戻らない。


「怖いよ、助けて……」


 どこからともなく頭の中に響いたかそけき言葉は、コルト自身のものではなかった。


「トパゾ!? ここに居るの?」

「死にたくないんだ……怖いよ……」

「待ってよ、どこ? 近くに居るんでしょ、出てきてよ!」


 コルトの足元に白い影が浮かびあがった。手足を縛られた状態でうずくまり、空気を求めるように喘ぎながら喉を押さえ、光を失った目を苦しみに泳がせる、そんな少年の姿が。彼が口を動かすと発せられた言葉は直接頭の中に響くが、同時にゴボゴボと水がうごめく音が耳をつく。


 贄に捧げるなら簡単だ、手足を縛って精霊の泉に沈めればよい。トパゾがそれを言った時、コルトはとんでもないことを考えるやつだと憤った。でも、違う、それは自分が昔されたことだったのだ。彼はそうやって溺れて死んだ、殺されたのだ。コルトはぶつける先が失われている怒りに拳を握りしめた。


「助けて、苦しいよ。死んじゃう、死にたくない……助けて、お願いだよ、死にたくないよ……」

「だめだよ。僕には無理だ」

「どうして!?」

「だって、君はとっくの昔に死んでいるんだもの。もう手遅れなんだ」


 トパゾは絶望に目を見開いた。しかとコルトのことを見ている。


「違う。ぼくは死んでない、精霊様の一部になって、なんとしてでも雨を止めて、みんなを救うんだ」

「君は精霊じゃない。幽明の民だって、もうとっくに滅んだんだ。君たちはみんな死んでしまったんだよ」

「嘘だ! だったら、ぼくはなんのために……なんのために、こんな苦しい目に遭わなきゃいけなかったんだ……どうして死ななきゃいけなかったのさ……」


 トパゾは泣いていた。幼子のように声をあげ、咽び、肩を揺らして。そうしながら本音を吐き出した。もはや凛々しくあった幽明の民の長はおらず、ただの一人の少年でしかなかった。


「大人は、みんな嘘をついてた。精霊様に命を捧げるのは幸せなことだ、怖がることなんてないって、みんな言ってたのに……。力のあるぼくが精霊様のところへ行けば、それが、ぼくもみんなも救われる、一番いい方法だって言ってたのに……ひどいよ……。知らなかったよ、死ぬのがこんなに苦しいなんて、こんなのなら、死にたくなかったよ……」

「だったら、なんで、なんでもっと早く気づかなかったんだ! 遅すぎだよ! 生きてる時に気づけよ!」 


 コルトは叫んだ。その声は、自分でも気づかない内に涙色に染まっていた。


「転んだら痛いし、息を止めると苦しいだろ? 自分が元気でも、他の人が病気や怪我で苦しんでいたら、怖くて、不安で。それで死んでしまったら、悲しくて寂しくて……。だから、誰かが死ぬことが幸せなんだって、そんなことあるはずないって、ちょっと考えたらわかるじゃないか!」


 コルトは思いのたけをぶつけた後、激しくしゃくりあげた。目からあふれ出る水を乱暴に腕で拭った。


 しかし叱咤しながら同時に思っていた。自分もトパゾと同じだったかもしれない、と。


 コルトが生まれ育った村も教会が社会の中心であった。もしその教えを鵜呑みにし村では普通の信心深さで育っていたとして、その場合、ラフィスの手を引いて外の世界へ逃げだすなんてことをしただろうか? きっと違う。大人たちの言うことが正しいものとして、ラフィスを教会に渡していた。それが永遠の別れになっても全然気にせず、村の小さな世界の中で変わらない日常を送り続けていただろう。


 いままで当たり前だったことに疑問を覚えたか、そうでなかったか。気づいたか気づけなかったか、コルトとトパゾの違いはそれだけだ。


 だからなお悔しい。コルトはまた涙を頬に伝わせた。もしも、彼が生きている時に出会えていたら、ここが過去の世界だというのなら、そんなのおかしいぞって正面から言ってやれた、化け物のような大人たちを敵に回してでも彼を泥水から引き上げたのに。


 だがすべては終わった後のこと。過去を覗き見ることはできても、変える手段までは存在しないのだから、嘆くばかりではどうしようもないのだ。コルトは最後に流れた涙を静かに指で拭った。


「僕は、君を生き返らせることなんてできない。だけど、君がもうこれから苦しまないでいいようにはしてあげられる」

「どうやって?」

「こうするんだ」


 コルトはマチェットを頭上高く振りあげ、それからトパゾの手足を縛っているロープ目がけて振り下ろした。あたりは真っ暗闇だから、マチェットの刃先がどこにあるのかも、果たして狙いが定まっているのかも見えなかった。だが、そうなれと願って手を動かしたら、一太刀でロープだけがプツリと切り落とされた。


 トパゾはその場にへたり込んだまま、自由になった手を見つめていた。


「これで動けるでしょ? もう溺れ続けなくていい、泳いででも歩いてでも別の所へ行けるよ。どこでも好きなところへ」

「だめだ。幽明の民は、ミョノフの外に出てはいけないんだよ。ぼくはここに居るしかない、みんなと一緒に……」

「そのみんながどこに居るんだ。幽明の民はもう存在しないし、実際に君がここで苦しんでいたって誰も助けてくれなかったじゃないか。なんで君だけが、いつまでも昔の信仰に縛られて苦しみ続けなきゃいけないんだ? もういいんだよ、トパゾ。君はもう長でもないんだから」


 トパゾは目を震わせながら、縋る様にコルトを見あげていた。


「だって、どこに行けばいい? ぼくはミョノフ以外の場所を知らない。どこに行っていいのか、わからないよ」

「それは……」


 コルトは口ごもった。しかしすぐに返答を見つけ、明るく笑いかけた。


「大丈夫、マオさんの笛の音が、ちゃんとした場所へ連れて行ってくれるよ。ほら、よく聞いて。笛の音が聞こえるでしょ? 音が流れていく方向へ、一緒に進んで行けばいいんだよ」

「……一緒に来てよ。ひとりぼっちは嫌だよ。優しいきみなら、助けてくれるよね?」


 トパゾが手を伸ばしてくる。コルトは一瞬、手を取りかけた。しかし、すぐに腕に力を込めて耐えた。


「それだけはだめだ。僕はまだ、君と同じ場所には行けない。僕はラフィスと一緒に行かないと」

「そんな!」

「ごめんねトパゾ。ごめん……さよなら。笛の音をしっかりと聞くんだ、悪いものに騙されないように」


 コルトはトパゾに背を向けた。マオの奏でる笛の音がより大きく聞こえ、同時に背後に居た存在が流されていく気配を感じた。気を抜けば感情をかき乱されて、涙が溢れそうになる。それをコルトはぐっと歯を噛んで堪えた。


 やがて、人の声が聞こえた。


「――コルト君、聞こえますか。一度目を閉じて。そう、そうです。深呼吸をして、では、目を開けて」


 マオに言われた通りに目を開く。瞬間、視界が白くなった。


「まぶしっ!」


 コルトは顔を伏せながらよろめき、挙句その場で足を崩した。尻餅は繁った草に受け止められて衝撃は少なかった。


 もう一度、今度は細くゆっくりと目を開いた。


 そこには、さざなみに太陽の光を浴びてきらめく精霊の泉が広がっていた。空を見あげると嘘のような快晴で、もちろん霧なんてかけらも存在していなかった。泉の向こう岸に広がる林までくっきり見え、かつ生き生きとした緑に輝いていた。耳をすませば鳥の歌声も聞こえるし、爽やかなそよ風がくたびれた頬を撫でてくれた。


 草地に手をついたまま目を見張っている、そんなコルトの肩へ黄金色に輝く手が置かれた。そしてラフィスが隣に座った。光に満ちた目でコルトにほほ笑んでいる。


 コルトは自分も頬を緩めながら、ラフィスへ肩を寄せた。温かい、生きている人の体温を感じる。ああそうだ、こちらは生きている。精霊の泉は済み切っていて、どれだけ眺めていても不快な霊の声が聞こえてくることはなくなった。やるべきことは、無事に終わったのだ。

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