霧中の怪異 3
コルトは一度ぴたと動きを止め、ジャケットのポケットを上から叩いた。固いものが確かにある、集落に入る前にマオからもらったビスケット、紛れもなく実体のある食べ物だ。
ポケットをまさぐりビスケットを引っ張りだすと、整った紙包みをはやる心のまま乱暴に引きはがす。だが重ねられていた板状のビスケットは勢いのまま飛んで、床へちらばり落ちてしまった。
コルトは獣のような唸り声をあげながら、床へと手を伸ばした。しかし先にラフィスがビスケットを拾い上げてしまった。
「それは僕のだ!」
コルトは無意識に叫びながら、ラフィスの手から緑色のビスケットをひったくった。手に掴んだ瞬間、思わず笑みがこぼれた。
口を大きく開けて、かじりつこうと。しかし、できない。
『だめだ! 食べたらいけない!』
尋常じゃない恐怖が体を支配する。そして手に持つ物体への拒否感が沸き起こる。
――でも、食べないと。なんで。なんなんだこれ?
おかしなことである。体は死ぬから何か食べさせろと叫ぶくせに、脳の中ではそれを食べたら死ぬぞと訴えているし、さらに心のどこか一部が、今の矛盾した自分の状態に困惑し嘆いている。まるで、自分がばらばらになってしまったような。
自分で自分の意志がわからず、コルトは動けなくなってしまった。意志を確たるものにしようとするほどそれは霧のごとくおぼろげになり、手が震え、体が震え、最後には頭の中がぐっちゃぐちゃになった。周りのなにもかも、特に手に持つ緑の物体が、とんでもなく気味の悪い存在に感じられて、コルトは床へ投げ捨ててしまった。
ラフィスが息を飲んだ。
「コルト!」
「やだ、嫌だっ! 助けて、ラフィス、助けて!」
コルトは半狂乱でラフィスに抱きついた。がちがちと歯を震わせ、全身で彼女の存在を感じた。自分が自分でわからない、だからもう、自分を認めてくれる人にすがっているしかない。そうじゃないと、少しでも離れた途端にラフィスまで消えてしまったら。真っ白な霧の中で飢えは満たされることなく、寒くて、一人で死んでしまう。恐怖だ、恐怖でしかない。
幸いにもラフィスは受け入れてくれる。彼女とて離すつもりはないようだ。横座りで固くコルトのことを受け止めたまま、ただ、上体と腕を目一杯床の方へ伸ばしている。
ラフィスはコルトが投げ捨てたビスケットを拾った。それを自分の口へ入れ、粉々になるまでしっかりと噛み砕いた。
そして不意にコルトの額へ手をやり、強い力で押して顔をあげさせた。
「なんだよ、なに――」
コルトの口が、ラフィスの唇によって塞がれた。半開きの隙間から、かみ砕かれたビスケットが舌で押し込まれた。
コルトは一瞬、無になった。そして――まずい! 苦い、辛い、えぐい! 毒だ! コルトの脳に警告音が鳴り響く。吐き出したいが、ラフィスは頑なに離れてくれない。頭を掴んで、強引に押し付けている。コルトは引きはがそうとラフィスの手をつかみ、だだをこねる幼児のように首を振って、それでようやくラフィスの唇が離れた。
しかし間髪入れずにラフィスの手がコルトの口を塞いだ。しなやかな指をぴったりとコルトの顔に押し当てて、逆の手で後頭部を押さえ、絶対に離さない姿勢だ。
吐くことは絶対に許さないと。コルトは半泣きになっていた。だが、このままでは息が詰まってしかたない。何度もえづきながら、口移しされたものを無理矢理飲み下す。拒絶の念で頭が割れそうになったが、どうにかやり遂げる。
コルトの喉が動いたところで、ようやくラフィスが手を離してくれた。
「コルト、ミズ!」
すかさず水筒が差し出された。掴んで、空っぽになるまで水を喉に流し込んだ。嫌な物すべてを洗い落とすように。
コルトは経験がない苦しみに襲われていた。頭も腹もぐるぐるして、吐き気と寒気がひどく、変な汗が体中から吹き出している。水筒を持っていられなくなって、その場に落とし一緒に床へ倒れ込む。もう目も開けていられない。口は逆に閉じていられず、ぜえぜえはあはあと激しい呼吸を吐き出す。
丸まった背中をラフィスがさすってくれた。それから弱った体を抱きかかえられた。まるで母親のようだった。コルトはすがり、甘えた。
そして、しばらく。
「……あれ」
コルトはぱっと目を開けた。前ぶれなく頭がすっきりとして、寒気や吐き気、恐怖や空腹感は一切なりを潜めてしまったのである。普通は一度体調を崩すと尾を引くが、まったくそんなことはない。あれ全部うそだった、夢を見ていたのだ、そう言われたら信じてしまいそうなほどに健康そのものだった。
とぼけた顔できょろきょろと周りを見る。あばら家の中に変わったことはない。自分だけが一瞬で変わった。
抱き留めていたラフィスの腕も緩む。コルトは自力で抜け出し、這って進みながらそっと入り口を覗く。やはり外の様子も変わりない、白い霧に覆われた静かな世界が延々と広がっているだけだ。
テーブルのところへ戻り、コルトは床に落ちたままのビスケットを拾った。見ても触っても嫌な感じはしないし、特に食べたいとも思えない。そのまま口へ運んだら、抵抗なく齧れた。固くてぱさぱさとして、噛めば噛むほど草の味が広がり、はっきり言っておいしくない。だが、さっきのように苦みや辛さといった嫌な味もなく、飲みこめば普通に胃へと流れた。しばらく待っても体調変化はない。
コルトは頭をがりがりとかき、ため息をついた。ようやく頭が回って、なにが起きたかを察した。だが、なにより先に言わなければならないことがある。コルトはラフィスに向き直る。
「……ごめん。ありがとう、助かったよ、ラフィス」
「ダイジョーブ?」
「うん。もう大丈夫だよ。いつも通りだ」
ラフィスは床に座ったまま、安堵に目を細めてコルトを見あげていた。
要するに、また油断をして敵にしてやられ失態を晒したのである。そしてまた、ラフィスに助けられたと。己の力不足を感じるのは今にはじまったことではないし、良くも悪くも慣れてしまった。ただ今回は、見せた醜態がかなり恥ずかしかった。明らかにおかしくなっていた間の記憶もしっかり残っていて、映像が脳内でリフレインする。コルトは全身が熱く、特に口の周りがむずがゆくなって、ラフィスから目を逸らした。口の中が妙に酸っぱく感じる。
やってしまったことはしかたないとして、考えなければならないのは、おかしくなった原因だ。間違いないのは、コルトが外に出たせいであること。霧に隠れて異能だか魔法だかによって思考を操作されたか、それか、見たり聞いたり触ったりした幽霊たちが影響しているのか。どちらにせよ、この集落、幽明の民には単に宗教の違いでは済まない異常さがあり、自分たちにとっては危険な敵である。
とすると、だ。
――マオさんも、いま危ない状態なのかも。
幽明の民の群はあばら家の中へ入ってこられなかった、だからマオが説明した通りに護符は機能している。だから本人もなにかしら身を守る術を持った上で霧の中へ出て行ったのだろう。しかし、彼女は一人だ。霧に飲まれそうになった時にすがりつく相手がいない。
コルトは焦りながら護符へと目をやった。もう指先ほどしか残っていない。マオの忠告に従うならば、一刻も早くこの集落から逃げ出すべき状況である。今や幽明の民より彼女の方が信用できるのも確かだ。
しかし、だからこそ。
――助けなきゃ。僕たちばかり助けてもらったら、不公平だよ。
コルトは自分にうなずいた。もう一度、逃げるわけでなく霧の外へ出る覚悟ができた。
今回も大きな荷物は置いていく。身軽さが最優先だ。荷物なんて後で取りにこればいいし、もし無くなったらその時はその時だ。いつも身に着けている小物入れと一緒にマチェットを腰に帯び、散らばっているマオの薬草ビスケットを紙に包み直してポケットにしまい、持っていくのはそれだけである。
ラフィスが半分腰を浮き上がらせながら、コルトのことを見あげていた。
「イコー?」
「うん! 行こう、ラフィス。マオさんはあの長のところだ。あいつが全部握っている」
幽明の民の中で唯一トパゾだけが、まともな人らしい言動をとっていた。マオを助けるためにも、そして集落の真実を知り無事に抜け出すためにも、もう一度トパゾに会って問い詰めなければ。
マオの残した護符が灰になりきった。それと同時にコルトとラフィスはあばら家の外へ出た。行く先は向かって左、長の家だ。