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霧中の怪異 2

 慌てて自分の手を見る。握って、開いて。見た目も感覚もどうにもなっていない。


 そして、女も子供もどうにもなっていない。始めと同じように、手を合わせて座ったままだ。頭から足先まで健康ではないものの、ちゃんと人の形をしている。


 コルトは生唾を飲んで立ち上がり、もう一度女に手を伸ばした。今度はそっと頭に手を置こうとした。が、やはり触れなかった。見えているにもかかわらず、そこには何も存在していない。空間を手でかいただけだった。それは触れる対象を隣の子供にしても、同じだった。


「おかしいよ……おかしいって!」


 狂気の人が居るだけならともかく、これはどういうことなのか。異能の幻術か、精霊が霧で見せる影か、それとも――幽霊か。


 コルトは尋常でない寒気を感じた。体は冷えているのに、頭には熱がこもってぼうっとしてくる。くらくらと視界が揺れ、血がうまく巡っていないような、嫌な気持ちの悪さだ。自然と息が浅く速くなる。得体の知れない不安にのしかかられながら、それでも必死で冷静さを保ち、状況を考えようとした。


 もしや、この集落すべてが幽霊で、この世に存在していないのだろうか。それとも、マオの言いつけに反して結界の外へ出たから、自分だけが変な世界へ入り込んでしまったのか? いや、一番あり得そうなのは、誰かが異能で自分を驚かせようとしている可能性。実体のある幻影を作り出し馬車を引かせていた異能者を知っている、理屈はあれと同じことなのでは。


 コルトはハッとした。ノスカリアの件が記憶に蘇る。悪意のある異能者が仕掛けているのなら、自分たちを分断してどうするつもりか。


「ラフィスは……ラフィスは、無事!?」


 気づいた瞬間、走り出した。しかし立ち上がった瞬間ふらっとくるし、手足がうまく動かせない。こけつまろびつだが外へ出て、猛然とあばら家へ向かう。件のかがり火は変わらず燃えていて、ちゃんとコルトを導いてくれた。


「ラフィス!」

「コルト!?」


 姿を見せるか見せないかでとどろいた叫び声だ、ラフィスは身をすくめた。かたちの違う両目が揃って点となり、コルトのことをしかと見ていた。そうやって単に驚かせただけで、あばら家の中に異常なことは起こっていなかった。護符もだいぶ燃え進んだが、まだ白い部分が残っている。


 コルトは安堵の息を吐き、息を整えているラフィスの隣へふらふらと足を進めると、腰が抜けたように座り込んだ。


 ひどく疲れた。果たして外でなにが起こっているのか、今見たものから真相を考えないといけないのに、それがわかっているのに思考がまったくできない。やっぱり自分の頭も変になってしまったのか。


 代わりに口から無意識に言葉がこぼれた。


「お腹すいたな……」


 ぽろりと呟いた言葉に、コルトは自分の空腹を自覚し、そしてなんて馬鹿馬鹿しい理由で焦っていたのだと苦笑いした。


 トパゾは食事を用意させると言っていたが、外のあの様を見てしまった以上、信用することができない。事実、ずいぶんと時間が経つのに人ひとり訪ねて来やしないではないか。


 コルトは空腹感に煽られるがまま、自分の背負かばんへ手をかけた。色々と保存食が入っている中で、一番はじめに目についたドライフルーツの袋を取り出して、乱暴に開き中身をつかむ。


 一つ、二つ――ああ、おいしい。手が一瞬たりとも止まらず袋と口を往復する。だんだんと咀嚼するのも煩わしくなってきて、手で押し込んだフルーツをそのまま喉へ流しこむ。


「うっ……エッホ、ゲホ、ゲッホ……」


 胸を押さえてむせ込んだ。見ていたラフィスが慌てて荷物から革の水筒を引っ張り出し、コルトの目の前へと差し出した。コルトは間髪入れずにひったくると、水を喉へと流し込む。大事にしなければいけない、頭の隅でそうは思いつつも、なかなか口を離せず水筒の半分くらいを飲んでしまった。


 コルトは口の周りを腕で拭った。おかげで喉のつかえと呼吸の苦しさは取れた。しかしフルーツも水も腹に入れたのに関わらず、空腹感は変わっていない。むしろひどくなっている、今は吐き気もしてきた。食べ物を求めて、胸のあたりまで胃液が押しあがってきているようだ。


「気持ち悪い……」


 コルトはぐったりとテーブルに突っ伏した。その丸まった背中をラフィスがさすってくれる。だが、なんの解決にもならない。もっと、もっとちゃんとした物を食べないと。なんでもいいから何か食べ物を、何か食べたい。食欲だけが今のコルトのすべてだ。


「もし、お客さま――」

「……え?」


 誰かの声が聞こえたような気がして、コルトは重たい頭をあげると、聴覚を研ぎ澄ませて声の中身を探った。


「もし、お客さま、お食事をお持ちしました。こちらまで、取りにお越し願えますか」


 ――食事だって!


 頭の中に雷が落ちた心地だった。今までの疲労感は遠くへ吹き飛んで、コルトは並ならぬエネルギーと共に飛び起き、あばら家の入口へと走った。


 入り口には幽明の民の女子供が詰めかけていた。四人、五人、いや霧に紛れて見えないが、後ろにもっと集まっているようだ。みな輝く身なりをしてふっくらとした顔でニコニコと笑い、それぞれが両手で木製のトレイを持って来ている。トレイにはめいめい豪勢な料理が乗っている。緑が鮮やかなサラダ、ほかほかのポタージュ、こんがりと焼けたローストチキン、みずみずしいのフルーツの盛り合わせ――次々と現れる料理の光景に目が釘付けになる。よだれが口いっぱいに溢れて止まらない。


「ああ、ああ……」


 幽明の民たちは、自分からはあばら家に入って来ようとしない。だからコルトは渇望のまま手を前に伸ばし、自らの足で幽明の民のもとへ向かった。


 が、外に到達するより先に、ラフィスの金色の手によって思い切り胴を引かれた。背中から床に倒れ、一瞬暗転した視界に星が散った。


「いッた……ッ! ラフィス、何するんだよう!」


 ぎりりと歯を噛んで、コルトは跳ね起きようとした。その体をラフィスが飛び越えて、入り口に立ちふさがる様に先回りする。


 そしてラフィスは寸分のためらいなく女子供の群へと雷撃を放った。


 ――嘘だろ!?


 一瞬、弾けた閃光に浮かんだラフィスのシルエットが、骨の翼を広げた悪魔の後姿に見えた。


 幽明の民から甲高い悲鳴があがる。いくつもいくつも重なって、耳をつんざくように響く。コルトは思わず耳を塞いだ。それでもなお頭に女と子供の悲痛な声が反響し、恐怖と嫌悪を覚えた。


 そして雷光の中に、すべての人影が霧散するのを見た。彼女らの手元から宙に跳ね上がる料理も同じく。妙なことだが人より、料理の方が鮮明に見える。コルトは魂を奪われたように、舞い散る料理の映像から目が離せないでいた。


 誰かがコルトの脳に囁いた。


『ところで、お腹がすいているでしょう?』


 ――お腹がすいたよ。なにか食べないと、死んじゃいそうだ。


『だったら、早く取らないと』


 ――ほんとだ、消えちゃう! だめだ、キャッチしないと! こっちに飛んできたものだけでも!


「どいて!」


 コルトは声を荒げながらラフィスを押しのけて這い出た。家の中へ転がり込んでくるものだけでも、今から間に合う物だけでも確保しなければ。ただでさえ食料は大事だ、今はこんなに空腹なのだからある物全部食べても足りないくらいだ。


 しかし、弧を描いて飛びこんできたチキンも、地面を勢いよく転がって来た果物も、護符の置かれた境界を越えた瞬間、霧が散るように消えて無くなってしまった。なにもかも、だ。


 そしてコルトの目の前に最後に残ったのは、真っ白な霧の風景だけだった。人も料理も、夢のように消え去った。


「うぅわああああ!」


 知覚した途端、コルトは恐慌状態に陥った。飢えている。なのに目の前で食べ物を失った。振り返るとさらに異常な空腹感が襲って来る。――もう一歩も動けない、早くなにか食べないと死んでしまう!


「コルト、コルト、ダイジョブ!」

「大丈夫じゃない! 嫌だ! お腹が空いて、死んじゃう! 死んじゃうよ!」


 精神が幼児に退行したように、なりふり構わず喚き散らす。そんなコルトを、ラフィスがテーブルまで引きずり戻す。入口から遠ざかるほど、コルトは霧へ手を伸ばしながら暴れた。だがテーブルの方が近くなると、諦めたようにラフィスにされるがままとなった。


 そしてテーブルところまでくると、コルトの目に留まるのは背負袋だ。ドライフルーツは食べたが他にも保存食は入っている。それに、さっきと違って消えてなくなりやしない、こちらはずっと持って来たものなのだから。だから、コルトは袋に飛びつこうとした。しかし、またもやラフィスに邪魔された。正面から抱きつかれ、袋からも引き離される。


「なにするんだよ! 離してよ!」


 ラフィスは何も言わない。全身に力を込めてコルトを確保したまま、唇を噛んでいる。彼女も混乱しているようだ、何かを探すようにしきりにあたりを見回して、変な汗をかいている。


 まるで理由なく自分の邪魔をしているような様子、コルトは憤慨し、息を荒げた。だったら離せよ、食べ物を出せ、死んじゃうんだぞ。そんな風に荒い言葉が、普段なら絶対に出てこない罵倒の言葉までもが、意志と関係なくとめどなく口をつく。


 だが、食料の袋を欲して暴れているうちに、コルトはぽっと思い出した。


『これを渡しておきます。もし死にそうなくらいお腹が空いた時には、迷わずかじってください。いいですね』


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