決意の夜 4
全身の緊張を少し緩め、息を整える。そうしながらにこれからどうするか、思いを馳せた。
最終目標はエスドアのもとへラフィスを送り届けること。それが「導いてくれ」と頼まれたことに対して正解しているかはわからないが、現状、ラフィスに繋がる手がかりがそれしかない。少なくともラフィスはエスドアのことを慕っている様子だし、憧れの対象に会えるだけでも十分意味のある行動になるはずだ。
とはいえ、使徒エスドアはどこに居るのやら。イズ司祭によると、地上のどこかで暴れているらしい。だが、具体的にどこに居るのか、それはなんとも言っていなかった。ウィラの村や、麓のサムディの町の近郊という可能性だけは消せる。教会の情報網は広いのだから、大陸の果てか海の向こうか、それくらい途方もなく遠い場所での出来事かもしれない。
いずれにせよ、情報収集と旅の準備をする必要がある。
コルトは無計画に麓の町へ向かって逃げ出したわけではない。サムディの町に、一人だけ頼れる心当たりがある。ゼム爺さん、と村のみんなが呼ぶ人だ。長いことウィラの村で司祭をつとめていた人で、コルトも幼いころに色々と世話になった。温厚かつ実直な人柄で、村人からの人望も厚かったのだが、コルトが五歳になった頃、突然「教会を去ることになった」と言って村を出ていってしまった。なお、その入れ替わりで派遣されてきたのがイズ司祭である。
ゼム爺さんがサムディの町へ移り住んでから、一度だけ会いに行ったことがある。父が買い出しへ行くのに同行した時、ついでに訪ねたのだ。ゼム爺さんは町の外れで畑を耕し、一人で細々と、しかし元気そうに暮らしていた。どうして村から居なくなってしまったのか、幼いコルトの無邪気な質問には明確な答えをくれず、「世の中には、神の教えに忠実に従っているだけではダメなこともあるんだよ」と曖昧に教えてくれるだけだった。後から思い返したり、村で噂を聞いたりするに、どうやら教会の偉い人たちとトラブルがあり破門にされてしまったようだ。
優しかったゼム爺さんなら、きっと話も聞かずに悪者扱いなんてしない。教会と縁が切れているゼム爺さんなら、きっとイズ司祭と同類ではない。だからコルトはひとまずサムディの町へ行き、ゼム爺さんに助けを求めることにした。
休んだおかげでだいぶ息が楽になってきた。それと同時に、興奮していた頭も少しだけ落ち着いてくる。吹き付ける涼しい夜風も役に立った。
すると、にわかに今の状況が怖くなった。周りのどこを向いても闇。道を照らす唯一の光は妖しい紅の月。暗がりの中から何かがこちらを見ているような、風が揺らす木の葉に紛れて何かが頭上を駆け巡っているような、本能的な恐怖感を夜の森に抱いた。着の身着のまま飛び出してきて丸腰だ、その現実も心を押しつぶす。
だからといって立ち止まるわけにはいかない。待っていたって誰かが助けに来てくれるわけではないのだから。いつ捕まるかとビクビクしながら暗い森の中で朝を待つのも嫌だ、まだまだ朝は遠い、とても耐えられない。
ここで勇気だ。ほら、勇気を振り絞れ。そう自分にエールし、深呼吸をして立ち上がった。
「行こっか」
言葉をかけるまでもなくラフィスも立ち上がっていた。言葉が通じないけれども、行動からある程度の意思疎通ができる。裏を返せば、伝わらないのだから話しかける必要はないのだけれど、なんとなくその方が伝わる気がして普通に声をかけてしまう。
コルトとラフィスは連れだって道なき道を歩き始めた。
山は静かで、追手が現れる様子はない。それでも警戒を緩めることはなく、山道から少し離れた場所を進んでいく。地面がでこぼこしているし、生い茂る藪を払う道具も持っていないから、スピードをあげることは困難だ。安全を優先して着実に進んでいく。時折空を見上げ、月の位置から正しい方角へ向かっていると確かめることも忘れない。
いかんせん足元が不安定だから、ラフィスの手を引いて歩くことができない。うっかり転んでしまった時などに手を繋いでいたら大変だ。それに、手を繋ぐ意義が低いのもある。そんなことしなくたってきちんとついてくるし、コルトの方からしても、ラフィスの宝石の目がうっすらと光っているおかげで姿を見失うことがない。
ただ、時々ふと心配になる。ラフィスは無理をしているのではないか、と。短い間と言えど確かにまどろんでいたコルトと違い、彼女は少しも眠っていない。本当は疲れきっているのに、先導に合わせて無理矢理重い足を動かしているのではなかろうか。いいや、疲れていないはずがない。きっと気づいてあげられないでいるだけだ。
ちょっとした段差を飛び降りたところで、コルトは進みを止め、ラフィスの様子を伺った。
足取りはしっかりしている。金色の足で力強く地面を蹴り、ぴょんと段差を飛び降りた。着地にも危なげはない。顔にかかった長い髪を払いのける、そんな小さなしぐさもしゃきっとしている。薄明かりに見る限り顔色も悪くなく、辛いのを我慢している風でもない。
じっと見ているコルトのことを不思議に思ったのだろう、ラフィスはきょとんとした顔で小首を傾げた。
心配しすぎなのだろうか。でも相手は女の子、守ってあげなければ、優しくしてあげなければ。こういう時、気づかいの言葉をかけてやれないのがもどかしい。いっそまたこの場で座り込み、休憩をとってしまったほうがよいのかもしれない。コルトはそんな風に考えた。
と、その時。ガサガサと落ち葉を踏み、ペキパキと藪をへし折る音が耳に届いた。
はっとして音の方向を見る。追手の村人か、いや違う。整備された道とは逆方向だし、灯火もない。それに人間の立てる音に比べるとずいぶん重い。耳を澄ませば荒い鼻息が感じられる。闇に目を凝らせば、黒の中にうごめく黒い小山が見えた。
「熊だ……」
声を潜めて呟いた。熊。嫌なものに出くわしてしまった。鋭い爪牙を受ければひとたまりもない。追い払う道具の一つすら持っていないから、襲ってきた時点でアウトだ。
普通なら熊も積極的に襲ってきやしないのだが、この紅い月の季節は特別に気性が荒くなっている。近くで見つかってしまったが最後、向こうからとびかかってくる。だから村では熊を近づけないために、罠を仕掛けたり、夜通しの番を立てかがり火を焚いたりしていたわけである。
幸いまだ距離があり、向こうもこちらに気づいていない。ここで音を出せばこちらの居場所を知らせるだけでなく、無駄に熊を刺激することになる。だから熊が明後日の方向へ去ってしまうことを祈りながら、身を固めてじっと待つことにした。尋常でない緊張だ。自分の心臓の音がうるさく聞こえ、非常な焦燥感に駆られる。
ラフィスも熊の存在に気づいたらしい。くっと顔をこわばらせ、コルトと同じものを見ている。対処はしっかりと心得ていたようで、取り乱した様子を見せることなく、その場でじっと静かに立っている。
待つ間、一瞬が永遠にも感じられた。早くどこかへ居なくなってくれ、石になった体を汗でべっとりと濡らしながら必死で祈る。
だが、祈りは通じなかった。熊は周囲を嗅ぎまわりながら徐々にこちらへ近づいてくる。そして家一つ分ぐらいの距離に至ったところで、行く手にある人間の存在に気づいた。
熊の咆哮が地を震わす。自分を大きく見せ威嚇するように後ろ足で立ち上がった。振り上げられた腕は木もなぎ倒せそうに太く、体長は人間の大人よりずっと大きい。
それが一直線に突進してくる。
熊に出会った時、背中を見せて逃げてはいけない。父からはそう教えられてきた。だがそんな教えも、尋常でない恐怖にかられた頭からはすっかり吹き飛んでしまった。コルトは悲鳴を上げながら、一目散に逃げだそうとする。が、足の向きを変えるなり、草葉を踏んで足を滑らせ、派手に尻餅をつくはめになった。
迫り来る黒く大きな影。コルトの目はそこに釘付けになり、頭は真っ白になっていた。
そんな視線の中に、ラフィスの姿が割り込んできた。真っ向から熊に立ち向かうように、そしてコルトを身を呈して守るように。
――だめっ、逃げて!
とっさに叫んだはずだった。しかしその音は誰の耳にも届かなかった。
コルトの声に覆いかぶさって、空気を割る雷轟が響き渡った。同時に閃光が走り、森を一瞬だけ昼に変えた。
光が静まり、重い地響きが一度あった後、森は夜の静けさを取り戻した。
コルトは愕然として今目を眩ませながら見た光景を思い返した。ラフィスが自分の前に立ち、熊に向かって手のひらを向けるように両腕を突き出した。すると手のひらから雷が放たれ、熊の巨体を貫いた。そして熊はその場に倒れピクリとも動かなくなった。かすかに焦げ臭いにおいも漂ってくる。
ラフィスがゆっくりと振り返った。何事もなかったかのように平然としている。コルトが腰を抜かしてへたり込んでいるのを見て、初めてうろたえた素振りを見せたくらいだ。とはいえ、大丈夫か、怪我でもしたのか、そんな風に心配そうな表情を浮かべて屈むだけで、見せた異能の力に対する釈明の色は一切ない。
「……あ、ありがとう」
コルトがようやく絞り出した言葉はそれだった。何はともあれ命を救われた形なのだから、感謝の言葉を述べるべきで間違っていないはず。
しかしラフィスはなお不安げにしている。
コルトははっとして、慌てて立ち上がった。
「だっ、大丈夫だよ! ほら、立てるし、怪我ない」
無理矢理笑顔をつくり、その場で足踏みするなどして五体満足であることを見せてやる。するとラフィスもようやく安心した笑顔で頷いた。今しがた熊を屠ったばかりの少女とは思えない、純真でかわいらしい笑みだった。
「えっと……とりあえず、進もう。今ので居場所がばれたかもしれないから……とにかく、なんでもいいから行かないと」
半ば自分に暗示をかけるように口走りながら、コルトは足を動かした。ざくりざくりと土を蹴り、町の方角へとひた進む。後ろは振り返らなかった。そうしなくとも、ラフィスがすぐ背後について来ていることは足音でわかるから。
走っているわけでもなければ、歩くのも困難な悪路ということもない。それなのにコルトの心臓は激しく脈打ち続けていた。
この世界には、魔法みたいな不思議な力を生まれ持っている人が居る。話にはそう聞いたことがあったが、実際に見るのは初めてだった。だからびっくりしたというのは事実である。
しかし、それだけではない。
『コルト君、あのものはきみを利用して自らを蘇らせ、エスドアと共に世界を滅ぼすつもりなのです』
イズ司祭の推論が正しい可能性、コルトは初めてそれを思った。もしも、万が一そうだとしたら、自分は取り返しのつかないことをしている。そう思うと背中がぞくぞくして鳥肌が立つ。
自分の決意は間違っていたのではないか? その問いに答えられるものは周囲に誰も居ない。
すっと辺りが暗さを増す。なんのことはない、月が流れてきた雲の向こうに隠れたのだ。雨雲ではないがそれなりに厚く、しばらく途切れそうにもない。まったくの闇というわけではないが、歩みを続けるには色々と勇気がいる。一番恐ろしいのは、進むべき道を見失ってしまいかねないこと。
コルトには引き返すという選択肢はなく、一度立ち止まって明るくなるのを待つ心の余裕もなかった。雲居にかすむ紅月の位置を確かめながら、自分が決めた進路が正しいものとひた信じ、黙々と夜闇の中を進んでいった。