エピローグ・イン・ノスカリア
ノスカリアで最も大きな屋敷、ラスバーナ家の邸宅兼商会の事務所だ。その三階にある商会の令嬢の寝室にて、ゆったりとしたネグリジェ姿のまま天蓋付きベッドの縁に腰かける部屋の主に対し、立ったまま報告を行う従者の姿があった。黒い礼服を着た、長い金髪の若い男だ。
「例の少年について、『虹色』『三日月』『幻想街』それと『銀燭』、コンタクトが確認できたギルドは以上です。ですが――」
「あれだけ大騒ぎしていたのよ、他にも居るはず」
「お嬢様のおっしゃる通りです。探りを入れたところ、静観を決め込んでいるだけで、有力ギルドはみな情報を掴んでいたようですね」
「だったら情報を上書きするしかない。例の少年は探していた子と無事に再会し元気にノスカリアを離れました、と」
「ご安心ください、既に完了しております。その上で本件を楔として打ち込んで来る輩が居たら、それはその時に我々が対処します。私がお伝えしたかったのは、お嬢様は大人しくしていてくださいということです」
「……わざわざそんなことのために来たの?」
「ご理解いただけるまで、何度でも。お嬢様のためなら労力は惜しみません」
従者は意味深な笑みを浮かべ、座っている主人の膝の上へ視線を落とした。投げ出すように置かれた右手は、包帯が巻かれて何倍にも太くなっている。手首からがちがちに固められていて、指一本すら動かせない有様だ。それだけでなく左手の甲に擦り傷があるし、額にもガーゼを張り付けて、一目瞭然の怪我人である。
当の本人、商会の令嬢サシャ――もしくは世間にシェリと名乗っている彼女は、むっとして従者へ苦言を呈した。
「時間はもっと大切に使いなさい」
「無駄と思ったことは一度たりともありません。それでは、失礼します」
従者はうっすら笑みを浮かべ、踵を返し去っていく。しかし、部屋を出る直前に扉の前で足を止め、もう一度振り返った。視線は彼女の肩の向こう、開け放たれた窓へ向けられている。レースのカーテンがそよ風にゆらめいていて、その向こうには、青い空と屋敷の裏にある緑の林の風景が切り取られている。窓から覗きこめば、ずっと下に裏庭が見えるだろう。
「お嬢様。これも常々申し上げておりますが、お客様には門よりお越しいただけるようお伝えください。防犯上問題があります。門番たちも嘆いておりましたよ」
シェリは肩をすくめた。それを見た従者は一礼し、今度こそ去っていった。扉を閉める直前に、くれぐれもおとなしく、ともう一度言い含めて。
部屋の外から足音が完全に聞こえなくなってから。シェリは腰をひねって窓へ向いた。
「だってさ」
「正面から来たところで、入れてくれないだろうが」
カーテンの向こうより人が飛び込んで来た。異能者ギルド「銀の灯燭」の長、アイルだ。わずかにせり出した窓の枠を足がかりとして、屋根の上から降りて来たのである。並の人間ならやらないしできない侵入方法だが、彼が屋敷を訪ねてくるときはいつもこうである。
アイルはベッドまで来ると、シェリが居るのと反対側の縁に腰かけ、仰向けに上体を倒した。斜め後ろを向いたシェリの顔を右から覗きこむ位置だ。
「あいつは何も言っていなかったが、兄貴の方は問題ないのか?」
「ええ、なにもかも大丈夫よ。お互いに過保護な人たちに囲まれているから、勝手に『何もなかった』方向で落ち着くはず。今ごろは、そうね、ラフィスを売りに来た闇商人の方へ八つ当たりしようとしているんじゃないかしら」
シェリは小さく肩を揺らした。
昨日、コルトたちを逃がした後なにがあったのか。シェリに言わせると、小競り合いが続いていた、となる。相手側は得る物どうこうではなく鬱憤を晴らすことが目的になっていて、しかしこちらも素直にやられてやるわけがなく、抵抗を続けていた。
転身したアイルが現場に戻り着いた時には、ちょうど商会の関係者や治安局の巡察隊が駆けつけたところで、商会の嫡子たちは双方、自分の取り巻きに保護され、応急手当を受けている最中だった。もっとも、目に見えて怪我をしていたのはシェリの方だけであったが。
治安局が居る場に異能の身で近寄ることはできず、アイルは遠目でシェリが生きていることを確認すると、そのまま遠巻きで商会の面々が引きあげていくのを見守っていた。
その最中フォウトの面も見た。彼は治安部隊に問われても、シェリ側の従者に詰められても、冷めた目つきと皮肉めかした口もとを変えることはなかった。おともに囲われて夕闇に去る最後まで、わずかたりとも頭を垂れなかった。
昨夕の事を思い出し、アイルは不満げに鼻を鳴らした。
「『何もなかった』では気にいらない?」
「ああ。道理にそむいて、しかもなんの反省も無いやつには、相応の報いがあるべきだ」
「残念だけど、この世界では亜人と異能に人権無し、兄様が言った事が正しいのよ。仮に事が露見しても法的には罰せられない、法が味方なら世間にも筋が通せる。兄様は理解して事に及んだ。不器用だから、粗も多いけれど」
「治安局の世話になるのは、正義面して屋敷に侵入して暴れ回った方、か。わかっていても、法律ってのは腹が立つもんだな」
「コルト君やあなたに罪を着せないためには、ラスバーナの身内の問題にするしかなかった。ちょっと派手な兄妹喧嘩、それなら治安局に介入させず内輪で解決することにできる」
「その結果が嫡男様への甘やかしか」
「今を守るためよ。納得はしなくていいけど、わかってちょうだい」
アイルはすぐ近くにあるシェリの右手を包帯の上から掴んだ。まるで綿を手に取るように、どこまでも優しく、だ。それでもシェリは刺激に眉をひそめた。怪我の内訳は手首の打撲と手のひらの深い切り傷。傷は縫合されているが一日二日ではくっつかない、しばらくはペンも持てないだろう。
「おまえだけが割を食っているのがおもしろくない」
「いいえ、一番損をしているのはあなたよ。私のわがままにつき合わされて、体張って怪我までして。いつだってそうよ」
「俺は好きでやっていることだ。おまえと違って、怪我もすぐに治る」
「じゃあ私も好きでやっていること。だから気にしないで」
シェリは左手で思いやりの手をほどいた。アイルのため息が寝室に響いた。
そして彼は体を起こした。一旦立ち上がり、シェリが居る側へ回り込みながら話しかける。
「コルトたちは西へ向かった。ラザトへ行く。それでよかったんだよな?」
「ええ。この政府の統治下に居るより適しているはず。私も現状を知らないから、希望的観測だけれどね」
「それはいいが、どうやって入国させるつもりだったんだ」
「私は無策。現地の状況を知ってから考えるより他ないもの。でもコルト君なら大丈夫、道を見つけるまで挫けはしないでしょう」
「……なんだ、評価していたんだな」
「思慮の不足はともかく、強大な敵を前にしても臆せず、かつ自分なりに考え実際に行動を起こすことができる。すばらしい気質よ。サーガの主人公にもなれる」
シェリは表情を柔らかくしてアイルを見あげた。
「頑張る子は報われて幸せになってほしいと思う。だから惜しみなく助ける。誰だってそうじゃないかしら」
「そうだな。だがシェリ、それなら一つ言いたいことがある」
アイルはシェリの真正面に立った。真剣な金色のまなざしは、あてられた者をにわかに畏まらせた。
「たとえ嘘でも、策でも、死んで構わないなんて言うな。言われた方は傷つくんだ。本人はもちろん、それを守ろうと必死になっている方も」
「……わかった。今後は気をつけることにします」
シェリは膝に手を置いたまま目を伏せ、その顔をアイルがじっと見つめる。少しの沈黙が訪れ、風にカーテンがはためく音がいやに大きく響いた。
やがてシェリが目を開き、静かな声で告げた。
「私も一つ、教えてほしいことがある。そもそもどうしてコルト君はラフィスと一緒に? なにか知っている?」
「どうして気になる」
「場合によっては私の提示した道が誤りになるかもしれない。自己反省のきっかけになるなら、知って損はないでしょう」
アイルは髪をかきながら長めに息を吐き、のっそりとシェリの隣に腰をおろした。
「俺も気になって聞いてみたんだが、どうも魔法使いを探していたらしい。名前は……カサージュ、だったと思う。心あたりないか」
「ある。クー・レル・ヴェイン、カサージュ」
「知り合いか?」
「有名人よ。『不死者』って」
シェリは意味深に口角をあげた。そしてアイルは腑に落ちた顔をする。
「なるほど、あの兄貴も一応、根拠があってやらかしたんだな」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。根拠がなくたって、ラフィスの姿を見たら『もしかしたら』と思うのは不自然でない」
「どうかな。俺は別になんともなかったぜ」
「あなたは元々特別だし、真っ白な状態で会ってるわけじゃないんだから。会う順番一つの問題よ。それが違ったら……そうね、ラフィスを返せと詰め寄られるのは私だったかもしれない」
アイルは目を丸くした。
「おまえも不死身の身体が欲しいってか?」
「そう思っていた時期もある」
二人の間に得も言われぬ空気が漂った。かける言葉を探して、アイルは目を泳がせた。
「過去のことだけどね」
「ならまあ、いい」
そのまま流すのかと思いきや、シェリは目を細めて言葉を続けた。
「でも兄様は違う。ラフィスのことは諦めても、願望自体を諦めたとは思えない」
「俺はむしろ、まだあの嬢ちゃんのことを諦めていないんじゃないかと少し不安なんだが」
「それは大丈夫よ。事が公になっているし、兄様も無理はしない。家長になってもらわないと困るから周りも無理させない。それと、コルト君みたいなタイプは苦手でしょうから」
いくら金を積んでもなびかないし、権力をちらつかせても屈しない。なら力ずくで脅せば恐怖するかと思えば、多少の痛みも歯を食いしばって耐えるではないか。単純馬鹿なようで自分なりに思考しており、なおかつ自分の理屈が正しいと信じているから、正論も詭弁もほぼ通じない。単純に子供らしい精神とも言えるのだが、普段子供を相手にしないフォウトにとっては扱い辛かったわけである。
なおかつ、簡単に服従させられると下に見ていた相手をひざまづかせられなかった、そんな自分への腹立たしさも多分にあっただろう。
「兄様は自分が傷つくのが怖いのよ」
シェリは冗談っぽく声を立てて笑い、ベッドがら立ち上がると、寝室入り口側の隅にある書記台を兼ねたビューローへ向かった。
その時カーテンが大きくはためいた。同時にアイルがはっとした顔で窓を振り向く。そのまま立ち上がり、窓辺へ向かっていく。
「どうしたの?」
「いや、誰かが見ていたような……」
「そんなところから訪ねてくるのはあなただけ」
シェリは笑った。事実、窓の向こうには誰も居ない。上は屋根、下は三階下の芝生まで、人が立てる足場すら無い。アイルも自分の目で改めて確かめ、勘違いかと息をつく。そしてシェリに呼ばれて戻った。
「はい、アイル、報酬よ。二人を西へ送ったのはとりあえず間違いでなかった。だから依頼案件は無事に完了、お疲れさま」
ビューローにあらかじめ用意してあった、額面まで記入済みの手形を渡す。アイルは内容も確認せず折りたたむと、ジャケットのポケットへしまった。
そしてぐっと背伸びしてからベッドへ倒れこんだ。
「疲れたから休ませてくれ」
「いいけど、ここで?」
「おまえを守れってコルトに命令されて戻って来たんだ、近くにいなきゃならんだろ」
「コルト君が私を……?」
「あいつも、ラフィスちゃんも、おまえに感謝していたぜ」
「そう。……二度と会うかってぐらいに嫌われた方がよかったんだけど」
シェリは複雑な表情を見せた。カーテンのかかる窓を遠い目で見つめる。
だがやがて、ふっとほほ笑んだ。そしてベッドへ歩み寄ると、アイルの手が届く位置に腰かけた。
「あの子の頼みなら、大人しく守られていることにしましょう」
そして静かに目を伏せる。吹きこむ平穏な風だけが、寝室の中で唯一動くものとなった。




