決意の夜 3
下の階から足音が聞こえる。時間の猶予はほとんどない。コルトはラフィスの手を引っ張って、まずは自分の部屋へと向かった。外へ出るとはいえ、玄関のある一回へ行くわけにはいかない、狭いところで大人二人と対面する羽目になる。ラフィスとは言葉が交わせたわけではないけれど、コルトの緊迫した様子からただならぬことが起こっているとは理解してくれたようで、おとなしく付いて来てくれた。
さて、自室から外へ行くならば出口は一か所、窓しかない。幸いにも大きな窓で、子供がくぐり抜けるのは簡単にできる。問題は二階であること。このまま飛び出せば大怪我をするかもしれない。自分だけならまだしも、他人に怪我をさせるのは嫌だ。
対策はもう考えてある。コルトはクローゼットを開き、底を手で探って蔓を編んで作ったロープを取りだした。山林深くへ狩りに入る時、長いロープを一本用意しておくと役に立つ。父からそんな教えを受け、いつか実際に崖を昇り降りするなどに使うことを想像しながら、自ら蔓を集めこしらえておいた物だ。まさか森の中じゃなくて、自分の家から逃げ出すのに使うとは思わなかった。
机の上に投げ置いてあった鞘入りのマチェットを掴み、ロープの片端に結んで留める。こうして錘をつけておけば、まっすぐ垂れ下がってくれるだろう。
そしてロープのもう片端の処理だが、こちらはベッドの脚にくくりつける。部屋の中でロープを結び付けられる場所がここしか思いつかなかった。ロープにぶら下がった時に動く可能性はあるが、窓を通り抜けられる大きさではないから、固く結んでおけば支えの役目は果たしてくれるだろう。
作業を手早く終わらせて、コルトは窓の板戸を思い切り開いた。真っ暗に慣れた目には、紅色の月明かりがいっそまぶしく感じられた。もっとまぶしい朝を迎えるために道を作る。コルトは気合いを入れてマチェットの錘を放り投げた。
狙い通り、ロープはシュルシュルと引きずられ、窓の真下にピンと伸びて止まった。残念ながら地面に届けるには長さが足りず、階段の五、六段分の高さでマチェットが宙に揺れている。まあ、これくらいの高さなら飛び降りても怪我をしないだろう。大丈夫だ、行ける。
一連の作業を怪訝に見守っていたラフィスであったが、ロープを下ろした時点で何をしようとしているのか理解したようだ。下に降りるのか、と問うように窓の外、地面を指さす。コルトは大きく頷いて返事とした。
やることがわかると、ラフィスはすぐに動いた。ロープを握り、背中から飛び出す金属がひかからないよう身をよじって窓を抜け、そのまま壁を蹴りながら下へ降りていく。一歩一歩が力強く、ためらいもない。これにはコルトも舌を巻いた。なんて勇気がある、言い出しっぺのこっちはドキドキしながら手に汗握っているってのに。
最後、ロープが足りない部分に来るとパッと両手を放し、重力に引かれるがまま地面に着地する。ちゃんと両足を地について立っている、痛めたところはないようだ。
「コルト!」
早く来い、窓から身を乗り出しているコルトを見あげてラフィスが強く呼びかけた。急いだ方がよいのは明らか。外の見張りたちが異変に気づいて集まってきているし、家の中からも、階段をのぼる大人の足音が迫ってくる。
コルトもロープを掴み、一つ深呼吸した後、窓の縁によじ登った。
その時、部屋の入り口にぬっと人影が差した。手燭を持った父と、イズ司祭、そして後ろには寝間着姿の母までいる。コルトが動き出してすぐに上がってこなかったのは、騒ぎを聞いて起きてきた母に事情を説明する必要があったためだ。
今この瞬間を目にした大人たちには、コルトが窓から飛び降りようとしている風にしか見えなかった。三者ともさっと青ざめ、叫ぶ。
「馬鹿な真似はよせ!」
「コルト君、目を覚ましなさい! きみは操られているのです、正気じゃない! さあ、早くこっちへおいで、コルト君!」
「コルト、お願い、やめて!」
闇を切り裂く悲愴な声をコルトは聞き流す。
――父さん、母さん、ごめんなさい。……さようなら。
心の中で唱えながら、コルトは窓から飛び出した。うまいこと身を反転させ、ロープと家の壁を頼りに後ろ歩きの要領で一歩一歩降りていく。だが、思った以上に大変だった。力の加減が難しくて無駄に体が前後左右に振れるし、腕にかかる負荷が大きくてすぐに疲れる。集中していないと落ちてしまいそうだ。
上からは司祭が「外だ、外へ回るぞ」などと騒ぐ声や、母が悲鳴に近い声音で名を呼ばわるのが降ってくる。が、コルトは頑として上を見なかった。進行方向に集中していないといけなかったのもあるが、それ以上に、窓から両親が覗きこんでいる気がしたから。父母がどんな顔をしているのか、見たくなかった。見てしまったら、きっともっと苦しくなる。
急げ急げ、でも慎重に。矛盾した言葉を自分にかけながら、コルトはロープを降りきった。最後に飛び降りて着地した瞬間、じんと足に衝撃が走ったが、怪我には至らずきちんと両足で立てている。
コルトはちらりと見張りの男たちの方へ目をやった。彼らは遠巻きに経緯を見ていた。コルトが無事に着地したことには、皆、安堵している様子だった。
ところで、なぜ彼らは二人が窓から脱出するのを黙って見過ごしたのだろうか。これには特段難しい理由はない。ラフィスは外に出てきたというだけで、特になにか驚異的なことをしたわけではなく、ただ不安そうにコルトのことを見守っていただけ。そんな無防備な女の子に斧だの鍬だのもった男たちが迫り、力ずくで取り押さえる。想像するだに気が引ける光景だ。訓練された軍兵というわけではない村の男たちには実行できなかった。司祭からは、動向に注意して妙な真似をしたら取り押さえろ、と言われた。だったら何もしない内は見ているだけでいいだろう、そう不動を正当化した。
なんにせよ、コルトにとっては捕まえに来ない事実だけが重要だ。相手の気が変わらないうちに逃げないと。
「おまたせラフィス、行くよ」
大きく手招きして、見張りとは逆の方向へ走り始める。ラフィスもすぐに駆けだした。先導するコルトにぴったりとついてくる。
「あっ、こら、こんな時間にどこへ行くんだ!」
「危ないぞ、戻れ! 熊が出るぞ!」
にわかに騒ぎ出す男たち。そしてその後から、
「なっ、何をしているんですか! 逃がしてはいけません、早く追いなさい! 早く!」
と、司祭の怒号が響いた。
コルトは振り返らず、すぐ後ろにラフィスの息遣いがあることだけを意識しながら村を走り抜けていく。村の出口にたどり着き、山を降りる道に入って、村の影が見えなくなるまで一度も立ち止まらず、一度も後ろを顧みなかった。
やがて。完全に息があがり、自然と足が失速し、止まった。黒々とそびえる木々の間に、ぜえぜえはあはあと苦し気な呼吸の音が響く。十二年生きてきた中で、こんなに長く激しく走ったことはなかった。
コルトが止まればラフィスも止まる。彼女もやはり息を切らしていた。肩を弾ませ、小さく開けた口で荒い呼吸を繰り返している。
追手の気配はまだない。真夜中に明かりを持たずに村の外へ出るなんて狂気の沙汰、村人たちの認識はそんな風だから、すぐには追ってこられないのだ。
コルト自身、明かりはおろか一切の道具を持たずに飛び出してきたことには多少の危機感がある。だが正気を失ったわけではない、ちゃんとそのリスクを負う覚悟で出てきた。こうするより他しかたなかったとも言える。
幸いなのは、月が輝く季節であったこと。紅い月の光は風景を不気味に染めるが、しかし光は光、暗いながらも山道はちゃんと見える。周りの地形もある程度把握できるし、何より隣の人を見失わないですむ。これがもう少し先の時期だったら、紅白二つある月のどちらも昇らない漆黒の夜になって、とても身動きが取れなかっただろう。
今進んでいる道は、山をくだって麓の町まで続いている。村から町へ物を売りに行ったり、逆に町から物資を買って来たり、そういう往復がよくあるから、この道は比較的整備されている。地面は固められているし、間違いやすいところには案内板が建てられているし、まず迷うことはない。日中に元気な状態で歩けば、子供の足でも町まで半日かからないだろう。
ただ、今の状況では普通に道を進む気にはなれない。後ろから村の大人たちが追ってこれば、必ずどこかで追いつかれる。子供と大人では体力も歩幅も違うから。それにイズ司祭が町にある教会に応援を求めていた場合、挟みうちになる可能性すらある。
コルトは向かって右側の斜面を降り、あえて正規の道から外れた。これなら追手が来ても見つかりづらくなる。もとより暗いし、木々や藪の中に紛れられるから。後は自分が迷子にならないよう、常に正しい道を目で追いながら並行に進むだけだ。
降りた先は小さな窪地になっていた。縁にしゃがみこんでしまえば、上の道からはほとんど姿が見えなくなるだろう。しめた、とコルトは思った。
「ラフィス、ごめん、ちょっと休憩させて……ちょっとだけ」
さすがに疲れた。まだ先は長い、ちょっとくらい休んでも罰は当たらないだろう。
コルトはさっそく窪地に座り込む。ラフィスもコルトに習って、膝を抱き肩を寄せて座った。