決意の夜 1
気が付いたら一日が終わりを迎える。今日はいつになく短い一日だった。
ラフィスと一緒に聖典を眺めながらしばらく過ごした後、コルトは一旦ひとりで母の手伝いに向かった。畑仕事と夕食の準備、それを母と一緒にやり終え、汚れた衣服を着替えた頃にはもう日没であった。
草木で染めた緑色のズボンに、生成の長袖シャツという装いで階段を駆け下りる。
すると、玄関先で母が父と話しているのが見えた。父が帰って来たら、一緒にこれからのことを話しあおう。そう母と取り決めてあったから、コルトも急いで玄関先へ向かった。
しかし、父はコルトのことなど眼中にもないようで、おまけに家の中に入ってくることもせず、再びどこかへ行ってしまった。
今日、父は村の付近に出没するようになった大熊への対策として、村の他の男たちと共に罠をしかけに山へ出かけていた。太陽が落ちてから森を歩くのは大人でも危ない、だから、日没を過ぎても仕事が続くということはないはずなのに。
「母さん、父さんはどうしたの? もう夜だよ、どこへ行ったの?」
「急な寄合があるんだって。遅くなるって言っていたよ」
「寄合って、なんのことで?」
「色々あるからね。ほら……熊のこととか、他にも。さあさ、待ってても帰ってこないから、先にご飯食べちゃいなさい」
母に背中を押されて台所の方へやられる。少し強引だった。
――寄合って、たぶんラフィスの事なんだろうな。
察したコルトは寂しい気分になった。不思議な少女の歓迎会を計画するための寄合、というわけではないだろう。それならはぐらかされる必要がない。まるで他人を襲う獰猛な熊と同列の扱いで、腹が立つし悲しい。そんな風に恐れる必要はないことは、隣に居ればすぐにわかるのに。
「待ってよ、母さん。ラフィスも一緒に、それでいい?」
「えっと、そりゃまあ、ご飯くらいもちろんいいけれど……」
「じゃあ今から呼んでくる!」
「待ってコルト。あの子……普通にご飯食べられるのかい? あんな金属の体で、さ」
声をひそめてなされた母の質問。それはコルトも密かに抱いていた疑問であった。
結論から述べると、食事に関しての心配は杞憂だった。
豆とバジルのスープと、皮つきのままじっくり焼いた芋、そしてピクルス。質素だが量はそれなりにある夕食メニューを前にした時、ラフィスははじめ、恐縮した表情を見せた。こんなにもらってもいいのか、食べてしまってもいいのか、といった風に。
しかしいざテーブルに着くと、遠慮がちながらも料理を口に運ぶ。行儀よく椅子に座り、食べ物にがっつくことはなく、かといって上品すぎもせず、普通の村の人と同じ食べっぷりであった。
食べているものを飲みこみ、にっこりと笑いながら、
「グリーミャ」
と明るい声で発する。「おいしい」か「ありがとう」のどっちかだろう、とにかく悪い反応ではない。食事は気に入ってもらえたらしい。これにはコルトも母も揃って胸をなで下ろしたのだった。
食事を終え後片付けをし、それから少し母と喋って、コルトはラフィスと一緒に自室へ戻った。窓越しの村は夜の帳に包まれていて、コルトの部屋を照らすのも、窓から差し込む月の光のみであった。今の時分は紅月の季節だから、景色もほんのりと紅く染まっている。
普段ならベッドに入る時間だ。だが、今日はまだ眠る気になれない。父が戻ってくるのを待ちたいし、そうでなくても興奮することがたくさんあったのだから、どうにも寝付けなかった。
ラフィスはどうだろう、知らない土地に放りだされて疲れているだろうから、早く休みたいのではないか。ただ、あいにくコルトの家には家族の分のベッドしかない。だからラフィスにベッドを使ってもらって、自分は眠くなったら床に寝っ転がればいいや。コルトそんなつもりでラフィスをベッドに誘導し、使ってくれとジェスチャーで伝えた。
だが、ラフィスはふるふると首を横に振った。それから右手を握って、ぐっと腕を上に突き出すポーズを取った。さて、これは――
「えーっと、まだ元気……ってことかなぁ」
いまいち確証が取れない。ただ、コルトがむうと唸っている間に、ラフィスはワンピースの裾を翻して机の方へ向かい、椅子を引っ張りだした。それを窓辺に運んでいく。途中でコルトの方を振り向いて、「ベッドはきみが使ってよ」と言わんばかりの手の動きを見せた。表情も無理をしている風ではなく、ぱちっと明るいものであった。
それならば。コルトはベッドの縁に腰かけた。同時にラフィスは窓辺に置いた椅子に座った。
静かだ。ラフィスは窓の外の景色を見て、物思いにふけっている。完璧に一人の世界に浸っていて、無闇に声をかけるのをはばかられる。村の景色の中に一体何を見ているのだろうか、何を思っているのだろうか、表情からは読み取れない。
コルトはそんなラフィスの右顔をじっと眺めていた。時折強く吹き込む夜風に吹かれ、彼女の金色の髪がさらさらと踊りきらめく。綺麗だ、と思った。これが紅い月の夜ではなく、透き通った光を放つ白い月の季節であれば、より一層清らかに見えたことだろう。
ぼーっとラフィスのことを見つめながら考える。もう何回も考えた、それでもやっぱり自然に沸き起こる思考を止めることはできない。――ラフィスは一体何者なのか?
異界で出会った男の言葉が思い起こされる。
『行く先は彼女が知っている。導いてくれ、無垢なる者よ』
ラフィスはどこかへ行かなければならない。だが、どこへ? 今のところ、どこかへ行きたがっている様子はない。色々で一人にした時も、勝手に居なくなることはなかった。そんな風だから、導いてくれと言われてもどうしていいかわからない。ずっと着いて来てくれる、それで目的が達成されるというのなら、それはそれで構わないけれど。
一つだけ、ラフィスに関するキーワードを得ている。使徒エスドア、それだ。その存在に対してラフィスは際立った反応をする。教会でもそうだったし、聖典を見た時もそうだった。なおかつ、好意的な雰囲気を持って。
もしかしたら。ラフィスは使徒エスドアに会いに行きたがっているのだろうか。
――でも、一体どこに居るっていうんだよ。神様みたいなもんなんだぞ。
神ルクノールは、遥か天上にある神々の世界から地上の民を見守っているとされている。だとしたら、他の使徒や、それによって封じられたエスドアも、天上の世界に居るのではないか。
ラフィスには翼がある。正確には、翼みたいな骨のような金属の何かが背中から生えている。本人がその構造物を特別気にかけている様子はない。
だが。もしかしたら何かの拍子で金属の骨の間に膜が張り、大きく開いた窓から、コウモリのようにひらひらと飛んで行ってしまうのではないか。今まさにそうしたいと思って、窓の外を、遥か天高くに浮かぶ星月を眺めているのではないか。
ラフィスが天上へ去っていく。そんな幻想を抱いた時、コルトは言いようのない寂しさを覚えた。時間としてはごく短い付き合いだった。それでも確実に傍で温もりを感じた人が、二度と会えない場所に行ってしまう。それはとても辛く悲しいことだ。例えラフィスがそれを望んでいたのだとしても。
――ずっとさよならは、嫌だな。
コルトは背中をベッドへ倒し、暗い天井を見つめながらぼんやりと思った。
そんな時だった。部屋の外から、階段を上る足音が響いてくる。静かだが力強さの感じられる足取りだ。
父さんだ、帰って来たんだ。コルトは察するなりベッドから跳ね起きた。
同時に部屋の入り口に父の影がぬっと現れた。
「コルト、起きているか」
「うん」
「その子のことで話がある。降りてきなさい」
言葉はコルトに向けつつも、父の目線はラフィスに向いている。月明かりに浮かぶ異形の姿を見ても、取り立てて変わった反応はしていない。ぶっきらぼうで真面目くさった面持は常のことだ。
ラフィスも一緒に行った方が良いか。コルトが訊ねたところ、答えは否定だった。だからコルトはラフィスに手の動きで「待っていて」と言い残し、父の背を追って階下に向かった。
夕食をとった時と同じテーブルに、コルトの向かいに父、その隣に母が並ぶかたちで着席する。父は山から帰ってきた格好そのままだ。しかし疲れた様子はまったくなく、真剣な顔でコルトを見ている。
コルトは椅子に座るなり、ごくりと唾を飲んでから口火を切った。
「父さん、お願いだ。ラフィスのこと――」
「おまえの言いたいことはわかるが、だめだ」
みなまで言い切らない内に一刀両断にされて、コルトはしゅんとうなだれた。父のことは大木のような人だと思っている。ちょっと揺さぶったくらいじゃびくともしない、大風が吹いても動じない、そんな人だ。厳として言い切る以上、どんなに頼み込んだとしても結論を覆すことはないだろう。
事実、父はまっすぐとコルトを見据えながら粛々と告げる。
「おまえ一人、うち一軒の都合じゃないんだ。村のみんなで話し合って決めた。あの女の子のことは、教会で保護してもらう」
「教会は……だめだよ。ラフィスが嫌がっている。そんなのかわいそうだ」
「かわいそうだから、おまえはどうしたいんだ。現実的な話として、うちで面倒を見続けることはできない。もう一人家族が増えるんだ、父さんはおまえと母さんと、これから生まれて来る子の三人を守るだけで精一杯だ」
「僕も一生懸命働くから!」
「おまえはまだ子供だ。子供に子供が養えるわけないだろう。それに、さっきも言ったが、うち一軒の都合じゃない。この村はみんなが助け合って暮らしている。あの子を置いておくことは、村の他の人にも迷惑をかけることになる。そんな風に思われる中で暮らすのは、あの子がかわいそうだ。わかってくれ、コルト」
「わかってるけど……」
コルトはうつむいたまま上目で母の様子をうかがった。味方になってはくれないかと。しかし、母は母で口を堅く結んだうえで伏目がちにしていて、異論を持っている雰囲気ではなかった。
こんな風に両親と対するのは初めてだ。重苦しい空気に、コルトの心はもはや押しつぶされそうになっていた。
「コルト。明日になったら、あの子を教会へ連れていくように。わかったな」
コルトは渋々と頷いた。そうするより他がなかった。
「わかってくれたならいい。遅くまで待たせて悪かったな。疲れているだろう、今日はもう寝なさい。父さんも休むとするよ」
「うん……」
父は椅子から立ち上がり、コルトの赤茶の髪を大きな手でわしゃわしゃと撫でてから、寝室へと向かう。母も後を追うように席を立った。
「あっ、待って、父さん!」
「なんだ?」
父が立ち止まり目を細めた。
一つだけ確かめておきたくなった。教会で保護する、その「教会」が何を指すのか。この村の教会で、だとあたりまえのように考え、ここまで話を聞いてきた。しかしいざ気持ちに整理をつけようとしたら、疑念がわいてきた。
「ラフィスはこの村の教会で暮らすんだよね? 会おうと思えば、いつでも会えるんだよね?」
父はすぐには答えてくれなかった。その沈黙がコルトの希望が砕かれた事実をありありと示していた。
「違うの?」
「この村では面倒を見きれない。だから……もっと大きな町の、もっと大きな教会に行くことになる。司祭が連絡を取って、迎えを寄越してもらうことになっている」
「そんな! じゃあ、ラフィスとはもう……」
「明日すぐにお別れというわけじゃないさ。だが、近いうちにお別れするつもりでいなさい」
「なんで、なんで……」
コルトは歯噛みしてその場から逃げ出した。これ以上、現実を突きつけられたくなかったから。
父が「どうしてああも入れ込んでいるんだ」と困惑したように呟くのを背中で聞いた。だがそれに対しては答えない。コルト自身でもはっきりとした答えを持ち合わせていないのだから、答えられようものか。強いて言うなら、友だちと永遠にお別れするのが嫌だという、誰でもあたりまえの感情に走らされているだけ。何もおかしなことではない、と言ってやりたいくらいである。
コルトは階段を駆け上がり、うつむいたまま暗い自室に飛び込んだ。
「コルト!?」
ラフィスが驚き顔で立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。
「コルト……イミナ、ユ、レイ?」
「うん。大丈夫、なんでもないよ」
「キュリアニム……」
「ラフィスのせいじゃないよ、ごめんね。僕、ちょっと疲れちゃった。少し寝るね」
言葉では会話になっていないが、雰囲気で通じ合えている。コルトがベッドに向かうのをラフィスは不安げながら黙って見送り、自分はまた窓辺に向かった。そして窓の木戸を、風が通る隙間だけ残して閉じた。
外からの月光が遮られ部屋が暗くなる。その闇と布団に包まれ隠れた状態で、コルトはラフィスにばれないように目に溜まっていた涙を拭った。
横になっている内にいつの間にか眠っていた。それに気づいたのは、ラフィスに体を揺さぶられて起こされたから。
朝になったのかと思い、目をこすりながらのっそりと起き上がってみた。しかしそういうわけではないらしい。部屋は暗く、木戸の隙間から差し込むわずかな月光の他は、ラフィスのオレンジ色の宝石の目がぼんやりとした明かりになっているだけ。
ラフィスの光はなぜか緊張の表情を映していた。