一睡の隙間 2
馬車は街道を駆けて行く。疾走中に頭を出して確認する勇気はないが、速度の割に大きな揺れが少ないから、整備された道を進んでいるのだと伝わってくる。
出発してからの時間は、およそ時計が二周するくらい経ったというところ。さすがに出発時の高揚感も冷め、なおかつ真っ暗な幌の中ではやることもなく、コルトは膝を抱いたまま船を漕ぎ始めていた。
が、突如として心地のよい眠気を蹴散らす衝撃が襲って来た。コルトの体が浮き、斜め前の壁に叩きつけられる。ワンテンポ遅れて上にかぶさって来たのはラフィスの体だ、キュウと漏れ出た声が腰のあたりより聞こえた。外からは、車輪が叫ぶけたたましい不協和音が響いて来た。
そして馬車は完全に停止した。今までになく乱暴な急停車だった。
コルトはそろそろと身を起こしながら、小さなオレンジ色の光を頼りにラフィスと顔を見あわせた。どうやら、お互いに怪我は無く済んだらしい。
困惑したまま待っていても、空気は静まりかえったまま変化しない。試しに幌ごしでジャスパを呼んでみたが、返事も無かった。雑音が多い走行中ならともかく、声を完全にシャットアウトしてしまうほど分厚い幌ではないのに。
「……ジャスパさん、どうしたのかな。ちょっと見て来るね。ラフィスは、待ってて」
「コルト」
「ここで、待って」
今までジェスチャーを交えていたおかげか、最近は「待って」という言葉は伝わるようになってきた。ラフィスは大人しく馬車の隅に座りなおす。
急に動き出した時の安全性を考えて、コルトは床を這って幌の入り口へと向かった。真っ暗だから手探りだ。幌に当たったところでよじ登るように立ち、幌の閉じ目を探して開こうとする。
しかしコルトが糸口を発見するより先に、幌が外から開け放たれた。月すらも無い原っぱの夜だ、外は暗黒の闇に包まれていて状況を視認することはできなかった。でも幌が開いたのだから、確実に人が居るはずだ。
「ジャスパさん、何かあったんですか?」
コルトは自分たちの様子を見に来たのだと思い込み、声をかけた。しかし返事は無い。
代わりに馬車の中、コルトのやや後方へと、何かが投げ込まれてカタンコトンと音が立った。
コルトはその物を目で追った。しかと追えた理由は、火がついて光っていたから。同時に強い煙の臭いが鼻をつき、当然のように咳こんだ。
そこまでで、コルトの脳は記録を取ることを止めた。
起きて、と女の声がした。コルトはそれを夢の中で聞いた。母親の夢だった、そしてラフィスもそこに居た。しかし声の主はどちらでもない。だからコルトは夢を夢だと自覚して、意識を取り戻すことができた。
目を開ける。青い空を背景にして、化粧をした大人の女性の顔とたわわな胸が眼前に迫っていた。
「わあっ!」
のけ反った背はもう地面についていて、女との距離をはなすことはできない。だからコルトは両手で後ずさりをした。朝露でしっとりと濡れた青草が手に絡みついた。
言葉を失くしているコルトの耳を女の、いや、女たちのかしましい声が打った。
「あ、起きた起きたー」
「マジで寝てるだけだったの!? あり得ない!」
「死体の方がよかったわけぇ? あんたそうゆう趣味ぃ?」
コルトを取り囲みキャハハと笑う女は計三人、揃いも揃って布地の面積が少ない派手な服を着ている。
また近くに居るのは彼女たちだけではない。少し離れた石で舗装された道の上に大型の箱馬車が停まっており、その周りで別の男女数人がこちらの様子をうかがっている。馬車も人も全体的に派手な感じであるが、攻撃的ではない。
ただし、何ひとつ誰一人、知っているものが無い。ラフィスもジャスパも、乗っていた幌馬車の車輪一つすら視界に存在していない。
――なんだこれ……なんだこれ!?
コルトはパニックに陥って顔を蒼白にしつつ、取り急ぎ自分の体を確認した。
こちらは何一つ変わっていない。着衣も着慣れたシャツと買ってもらったばかりのジャケットだし、小物入れも腰に装着されているし、鞘に納められたマチェットもそのままある。まさかこれもまた夢の中なのか、そう思って頬を打ち、再度目を閉じて覚めろ覚めろと願ってみても、目を開ければセクシーな女たちに囲まれたまま。
わけがわからず頭を抱えるコルトの顔に、再びしゃがみこんだ女の顔が迫ってきた。強い甘さの花の香りが漂ってクラリとする。そんなコルトに彼女は優しくほほえんでいた。
「ねえボク、天気のいい夜だからって、こんなところで寝たら危ないよ。せめて街道沿いの小屋を使わないと。魔獣に食べられちゃうよー」
「ね、寝てた!? ここで!?」
「うん、とってもぐっすり。最初は死んでるのかと思ったけどー」
「ううん、死んでない、死んでないと思うけど、これなに、ここどこ? また異世界!?」
赤茶の髪を振り乱しあんまりな慌てよう、女たちも異常を察して緩んでいた空気がたちまち消えた。
「ボク、ちょっと落ち着こうか。――ごめーん、誰か馬車から甘いもの持って来てー」
「こんな平地で遭難でもした? それとも記憶喪失とか?」
「何があったかさぁ、お姉さんたちに話してごらん」
「そっ、それが僕にも全然わからなくて……! 気づいたら、こんなので」
ごちゃごちゃになっている頭で経緯を話すには時間がかかったが、女たちはきちんと聞いてくれた。途中、馬車からビスケットと蜂蜜水が届けられ、話を中断させれられてまで強引に食べさせられた。どちらも甘いはずなのに、ろくに味を感じなかったが。
セルリアからノスカリアへ向け、夜中に馬車で移動している最中だったこと。馬車の運転手の男と、親友の女の子が一緒だったこと。馬車が急停止して誰かが幌を開けた直後に気を失って、気づいたらこの状況に陥っていたこと。たどたどしくも知りうる限りの状況をコルトは伝えた。ただし話がややこしくなると思って、ラフィスとジャスパの詳しい人となりと、エグロンから来たことは伝えなかった。
話を聞いた女たちは、お互いに困惑顔を見合わせていた。うち一人が急ぎ足で馬車の方へと向かっていった。
「とりあえずね、ワタシたちが見つけた時には、キミは一人でここに寝ていたよ。それだけは間違いないからー」
「じゃあラフィスは? ジャスパさんは? だいたい、ここはどこなんですか?」
「セルリアとノスカリアの中間くらいかな。あたしたちもセルリアから来たの。だからまあ、『神隠し』にあったって思ってるなら、その心配はないから安心しなさい」
コルトは中途半端な声を漏らした後うつむいた。神隠し、すなわちラフィスと出会った時のように、自分だけが異界へ放り出されてしまった可能性を考えていて、いっそそれが正解であって欲しいとすら思っていた。それならば、あとの二人は無事だと確信できたから。だが、現状が地続きの現実だったと言うなら――
「じゃあ、僕の乗ってた馬車はどこへ消えてしまったんだよ」
女たちは揃ってコルトから目を逸らした。一瞬の沈黙のあと、かわいそうだけど、と口を開いたのは、先ほど神隠しの話を出した方だった。少し気が強そうな女である。
「状況からして、盗賊に襲われたんだと思う。馬車ごと奪われて持っていかれたんだよ」
「だったら二人は……」
「一緒に連れ去られたか、それか……殺されたか」
「そんな! だって、僕は生きてるのに!」
「そこが不自然だよねー」
ふー、とどこか甘ったるい息を吐くのは、一番最初からコルトの目の前に居る方の女だ。
「キミの話だと、あの辺の道の上で馬車止まったんでしょー? なのに、キミはこんな離れた草っぱらに寝かされていた。犯人がわざわざ運んできたんだよー。強盗目的なら、普通は殺しちゃうよねー」
「それは男の子だったからでしょ。女の子ならそれだけで金になる、ろくでなしの盗賊ならそう考えるさ。不自然じゃない」
「あー、そっかー」
「そんな……」
「ついでに馬車と御者は大事な道具だ、少なくとも盗賊どもがアジトに帰るまではね。戦利品を血で汚すのも避けたいし、不要と判断したものは生かしたままで捨てていくのも不思議じゃない。目を覚ます頃にはどうせ全部闇の中だし」
「おー、さすがスラム生まれ、ワタシとは発想力がちがーう」
「嫌味か!」
「誉めてるんだよー」
眼前で麗しい女たちがじゃれあっているが、コルトの目には壁を隔てた向こうの出来事にしか映らなかった。賊、強盗、人身売買。絶望へしか繋がらない言葉が乱舞しているのだから。
ただ、辛うじて希望の糸は繋がっている。なぜなら死んでしまった姿を見たわけじゃないから。まだ二人とも生きているかもしれない、すぐに助けに行けば間に合う、日常を取り戻せる。その希望に縋りつけば、辛うじて理性を保っていられる。
盗賊のアジトとは一体どこにあるのか。コルトの頭の中で真っ先に思い浮かんだのは、悪党の町、エグロンだ。だが直後に否定した。ジャスパはエグロンでは名の知れた存在、暗黙の了解で互いの仕事を邪魔しないと取り決めているエグロンの悪党だったら、一目でそれとわかるジャスパの馬車を襲ったりしまい。
――急いで探さなきゃ。そんなに遠くじゃないはずだ。もしかしたら、もう逃げ出したかも。ラフィスは戦えば強いんだし、ジャスパさんだって、たぶん危ない目には何回もあってるだろうから。
ぐるぐると考えていると、先ほど馬車の方へ行った女が戻って来た。立ったままコルトに話しかけてくる。
「ウチの御者にも聞いてきたよ。けど、やっぱセルリアからの道中で他の馬車なんて、全然見かけなかったって。一応異能でも調べてもらったけどぉ、今パッと行ける範囲に人が居る反応も無いって」
「アビラって……」
「ああ、ウチらノスカリアの異能者ギルドなの! 興業専門でやらせてもらってて、昨日もセルリアで一発でかいのやって来たってわけ」
意図せずして昨夕の祭りの正体がわかったわけだが、それはさておき、ノスカリアと聞いてコルトはハッと顔をあげた。ほぼ反射的に立っている女の生足にしがみつく。
「えっ、ちょっ――」
「お願いします、僕もノスカリアまで一緒に連れて行ってください! 僕たちもノスカリアに行く途中だったんです、もしかしたらもう逃げて、先にノスカリアに行って――あわっ!」
「はーいはい、踊り子さんに抱きつくのは禁止よー」
「置いてくなんてしないから、ちょっと落ち着こうか」
二人がかりで引きはがされて、ようやく自分がとんだ失礼を働いたことに気づいた。抱きつかれた女も少し怒ったように目を尖らせ、腕を組んでいる。
「ご、ごめんなさい……」
「普通なら許さないけど、かわいそうだから特別よ。まったく男の子って」
「まーまー、混乱してたんだから、気持ちはくんであげよーよー」
「ここらは政治的にはノスカリアの管轄だから、なんにしたって犯罪は治安局に通報しといた方がいいでしょ。今さら一人くらい増えたって困らないし」
「じゃ、とっとと行きましょ」
プイと右回れして起こっている女が歩き始めた。一歩遅れて、他の二人も付いていく。
コルトもふらふらと立ち上がって、少しだけ距離を空けつつ女たちの後ろへ続いた。もう一度あたりを見渡して、望むものが視界に無いことをしかと確かめた。
興業ギルドの馬車は二頭で引く大型のもので、様々な道具と十名近くのギルドメンバーが乗ってもなおゆとりがある。確かにコルト一人が増えたところで、スペースになんら不都合は無かった。
頑丈な造りの箱馬車は街道を北へ進んで行く。ジャスパの馬車に慣れたせいもあり、コルトにはカタツムリのごとき歩みに感じられた。だが遅いのは言い換えれば穏やか、揺れは少なく快適だ。壁面にもいくつか窓が開いているから、外へ頭を伸ばせば景色も一望できるだろう。ギルドの人々も気を使ってか、ちょっとした芸を見せてくれたりおやつを食べさせてくれたりする。こんなに快適な旅路は他にないだろう。
それでもコルトの心は少しも浮上することが無かった。一睡の隙に天から地まで叩き落とされ、泥の中に深く深く埋もれてしまった。
興業ギルドの見目麗しい女たちの誰より愛おしい、いつも傍に居た彼女の温もりがどこにも無い。すうと肩をなでる風が一層寂しさを強調してくる。
――ラフィス、ごめんね。どこまでも一緒に行くって誓ったのに。……先に待っててくれているよね。
今はただ無事を祈りながら。コルトは単身、大都市ノスカリアの土を踏む。




