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半機の少女 ラフィス ―古の少女と導きの少年の物語―  作者: 久良 楠葉
第三章 悪党の町と記憶見の魔女
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エピローグ・イン・エグロン

 静けさと魔石の薄明かりに包まれる山羊のツノ区の洞窟に、黒髪の魔女の影が浮かんだ。野暮用を済ませて帰宅したところだ。両手とも何も持っていない。得るものも失うものも何も無い、実につまらない用事だった。


 十数年来住み慣れた我が家だ、ノックは不要、なんの感慨もなく扉を開く。


 中と外が繋がった瞬間、ピャイッと悲鳴じみた小さな驚き声があがった。壁際に置かれた大きな鏡の前で、小さな少女が怯えたように玄関を振り返った。


 しかし彼女は、シトリンは訪問者の姿を確認すると、みるみる表情を緩めた。胸元に持った仮面も、両肩の余計な力が抜けたことで少し位置を下げた。


 珍しいことだ。シトリンが自ら素顔を晒している、しかも鏡に向かって現実と見つめ合っているなんて。オブシディアの顔もふっと緩んだ。今しがた済ませて来た事で伝えなければいけないこと――例えばシトリンが糞を投げつけた連中の件は、その更に上層と話をつけて遺恨が無いようにしてきたとか――色々とあったが、どうでもよくなってしまった。


「そんなに良かったかい?」

「うん、嬉しかった。だって、あの子が堂々と歩いているんだもの。どうしたって普通じゃない姿だよ、いろんな人から変な目で見られるのに、そんなこと全然関係ないみたいで、わたしは、その」

「勇気をもらえたかい?」

「そう。少しだけね。あと、手をつないでくれたのも嬉しかった。こんな手なのに。逆に、痛くなかったかって、謝られちゃった」

「それほどなら、その顔も見せてあげればよかったじゃないか。また今度、なんて言わずにさ」

「……それは、やっぱりちょっと。どんな反応されるか、怖いし」

「そうかい」

「知らないほうがいいことだってあるんだよ」


 そう言いながら、シトリンは鏡写しの自分と向き合った。


 知らないほうがいいこともある。それはオブシディアが常々口に出す言葉だ。記憶を見られる物として客への忠告をする、それと同時に、自分自身への戒めとして。その上で、他人の記憶を暴くろくでもない行為を仕事として割り切るのだ。


 そして仕事と割り切っていても、時々本当に後悔することもある。知らなければよかった、見なければよかった、そう思わせられる記憶の持ち主が稀に現れる。


 直近で見た半機の少女――ラフィスの記憶がそうだった。四十年を超える人生で覗いてきた数多の記憶の中でも一位二位を争うほどの、色々な意味でとんでもない記憶の持ち主だった。


「エスドア、ね」


 ひとりごちて、調理台の方へ歩いていく。シトリンの方はあえて見なかった。彼女に仕事で知り得た記憶の話を積極的に聞かせる事はしない。必要ないからだ。これは誰のどんな記憶でも同じである。


 最も、小さな家の中のこと、別室に居たところで否が応でも話し声は聞こえるし、シトリン自身も察しが良いものだから、あえて話さずともなんとなくは伝わっていると言った方が正確かもしれない。


 調理台の上に放置されていた自家製ハーブの瓶を、元々の在り処である棚へと帰す。その背中に、かそけき呟き声が刺さった。


「世界にとっての疫病神?」

「……どうだかね。どっちにせよ、あたしはこれ以上深入りするつもりはないよ」


 オブシディアはハァとため息をついた。しかし面持ちはなんとなく浮かないままだった。


「与えられた分だけ与えた、それで貸し借りなしだ。わざわざ関わるなという取引までしたんだ、だから、藪をつつくような真似はしない。あたしにだって守りたい平和があるさ」


 オブシディアはシトリンの方を振り向いた。すると意外や、彼女と目があった。鏡の前に立ったままだが体ごとこちらへ向けて、ニヤニヤと笑っている。


 少しむず痒くなって、オブシディアはまた棚の方へと向いた。とっさに持ち上げた手が意味もなく棚の前をさまよう。ややして本を探していた事にすると決めてから、適当な本を一冊抜き取った。タイトルも見ず、無闇にパラパラとページをめくる。


「お姉、照れてる?」

「誰が。ちょっとあの子らの事を考えてるだけさ」

「何を? もう関わらないって言ったのに?」

「あー……」


 今日のシトリンは絶好調だ。オブシディアですら舌を巻くほどに。今振り向くと、またくすぐったい笑顔がこちらを見ているだろう。そういうのは、苦手だ。


「まあ、あれだ。よりにもよって『夜駆け』に拾われるとは、ついてない子たちだねって考えてたのさ」


 とっさに引きずり出した言い訳だが、しかし気がかりであるのは事実である。シトリンも「あぁー……」と間延びした相槌を打った。


「あたしと違って、あれはエグロン生まれのエグロン育ちだ。情にほだされるほど甘っちょろくない。悪党の町での有名人だなんて、ろくなもんであるはずがないだろうに」


 思い起こすのは別れ際の光景。少年コルトは、いやにジャスパへ懐いていた。明らかに表情が違った。それこそ、親兄弟が助けに現れたかのように。この分ではどんな忠言をしたところで聞く耳を持たないだろう、そう思ってあの場では何も言わなかった。


 怪しい雲行を見つつも示唆しなかった理由はもう一つ、エグロンでの暗黙の了解があるからだ。競合時を除き互いの仕事の邪魔はするな、私情で妨害するならば相応の報復を覚悟しておけ、と。自分と大切な家族か、行きずりの少年少女か、支え切れるのはどちらかだけだとなれば、どちらに天秤が傾くかは自明だ。どちらも守り切ってみせるなんて言えるほど優しくないし、それができるだけの力も無い。


 だから、コルトが少しだけ羨ましかった。なんの恥ずかしげもなく行きずりの少女を守ってやると豪語して、何者も恐れず突き進んで行ける、あの純朴さが。歳を食う内に失ってしまったものを見せつけられたような気がした。


 ふふっとシトリンが笑う声が耳を打った。


「心配しなくても、きっと大丈夫だよ。あの子は強いから」

「だといいがね」


 オブシディアはため息混じりにパタンと本を閉じた。奇しくも神話関係の本で、生命の輪廻がどうとか、死者の生まれ変わりがなんだとか語る文言が目に入ったが、今更それを読み込んだ所でどうなると言うのか。もう手を離した案件だと言うに。


 本を元あった場所にさす。その背にシトリンの声が届いた。


「お姉」

「ん?」

「私はお姉に拾われて良かったよ」

「そうかい」


 オブシディアは振り向いた。すると、気恥ずかしそうに笑っているシトリンと視線が結ばれた。顔の皮膚も哀れな程に爛れ、事情を知らない人が見れば目を背けたくなるくらいに歪んでいるが、鳶色の目は宝石のようにキラキラと輝いている。


「シトリン。あたしもあの時おまえを拾って良かったと思っているよ。あんたがなんであれ、ね」


 市場の中でうずくまっている幼子に手を差し伸べたのは、打算のない衝動であったこと、傍から見れば馬鹿馬鹿しい行為であったことは自分で認める所だ。しかし後悔だけはしていない。


 そして遠からぬ未来に別れが来る事も明らかだ。だが今のところ不安や恐怖は無い。それまでに連綿と続く現在を全力で守るだけである。


 外の、玄関の前にある階段を踏む音が聞こえた。


「お客か」

「だね」


 シトリンがさっと仮面を持ち上げ、顔に装着した。慣れた手付きだ。続けてフードを深くかぶり、ローブを引きずりながら奥の部屋へゆっくりと走っていく。


 オブシディアは逆に玄関へと歩いていく。ドアをノックする音には取りたて特徴がなく、来訪者を特定することはできなかった。勝手に押し入ってこないあたり、エグロンらしからぬ大人しい客だ。


「さて、今度は神も悪魔もない、くだらない仕事ならいいけどね」


 胸につかえていた悩みの種を吐き捨て、オブシディアは自嘲気味に苦笑した。

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