悪意の渦 3
闇雲に走り逃げ続けていると、思い起こすのは故郷の村から脱出した時のこと。あの時はうまく逃げおおせたが、今回は状況がまるで違う。せめて夜だったなら、自然がつくる暗闇が身を隠すカーテンとなってくれたのに。薄暗くも隠れる場所がない路地裏を抜け出しつつ、コルトは悔しく思った。
分かれ道ではなるべく人の気配がない方向を選び、曲がりくねった路地を進む。いま真後ろに付いている追手は居ないものの、建物ひとつ挟んだ向こう側や大きな通りの方から捜索の騒ぎ声が聞こえてくる。警鐘も相変わらず打ち鳴らされているし、城壁の尖塔にて上からの監視もなされている。まだ追跡が終わったわけではない、油断すれば即捕まる。でも、そろそろ体力の限界も近い――
「うわぁっ!」
前方の曲がり角からぬっと人影が出てきた。驚きの声をあげたコルトはその場で立ち止まり、肩で息をしながら人影を凝視する。
そして二度目の驚きを受けた。その人は知った人だった。一昨日、ギルド「青き王国」まで案内してくれた陽気な男だ。表情もその時と変わらない明るいもの。ただ違うのは、弓矢を背負った狩人の装いをしている点だ。しかし町の中で一体何を狩ろうと言うのか。コルトのこめかみに冷たい汗が伝った。
後ずさりして来た道を引き返し、逃げる。考えると同時に動きだす。だが、狩人の嗅覚は敏感だ。一歩も踏み出さないうちに大きな声で制止がかかる。
「おいおいおい、ちょーっと待った! そんなに慌ててどこへゆくつもりだい」
「敵なんだろ!?」
コルトがばっさりと言い切った後も、ギルドの男はとぼけた顔をしていた。しかしニヤケ面はそのままで手を背に回し、弓矢を取る。さっとつがえられた矢の先は、まっすぐにコルトの眉間へ向けられた。弓を引き絞り、いつでも放てるところまで行っている。
ラフィスがコルトを守る形で前に出る。ゆるく握られた右手の指先には既に電光が走っている。狙いをつけたら、こちらもすぐに撃つだろう。
その矢先、ラフィスの眼前に屋根の上から落ちてきた、否、飛びおりてきたものがあった。
――黒猫だ。
コルトもラフィスも気を取られて一瞬固まった。
その一瞬に起きたことだった。黒猫はサッとラフィスの背後に回り込む。と同時に、大きく、人型に姿かたちを変えた。女だ。細くしまった格闘家といった雰囲気だ。
そして猫女はラフィスの横っ面を思い切り殴り飛ばした。その上、壁際に倒れ込んでいるラフィスに追撃を加えにかかった。片手で左右の手首をまとめて捕まえひねり上げ、もう一方の手で喉をわしづかみにして壁に押さえつける。もがいていたラフィスが気絶して動かなくなるまで、寸分もかからなかった。
「ラフィスを離せ!」
カッとなったコルトは腰のマチェットを抜き、女に挑みかかろうとした。が、その手を掠め矢が飛んでいった。熱く走った痛みにマチェットを取り落としそうになったが、それはすんでのところでこらえた。しかし手の甲を染める赤い血を見たら、肝が冷えて足がすくんだ。
「次に動いたら、今度は足をもらおうかな。自慢の逃げ足みたいだし」
男は喋りながら次の矢を準備した。単なる脅し文句でないことは既に証明されたもの。目に見えない鎖がコルトを拘束し、もう一歩も動けなくする。ガチガチになった首をどうにか回して、視線だけをラフィスのもとへやる。
ラフィスはぴくりとも動かない。命まで取られたわけではなさそうだが、頭を殴られたのだ、首や脳にダメージがあっても不思議じゃない。そんなラフィスの体を、黒猫の女がぞんざいに担ぎ上げた。見ていて怒りが沸いてくる光景だ。
――あいつだったんだ、あいつだったんだ!
自分たちを売った裏切り者は居なかった。工房の地下室に入り込んできた黒猫、あれが今目の前に居るそれだった。斡旋所を出た時や、路上でギルドの男たちに絡まれた時にも黒猫が居た。あれも同じやつで、始めからつけまわしていたということではないか。オムレードではたくさんの猫がうろついているし、特に黒猫なんて色柄で個体を識別するのは難しい。行く先々で出くわしてもなんら不思議に思わないから、尾行にはぴったりの姿だ。
「なんでこんなこと……」
コルトは小さな声で漏らした。心の中にとどめたはずなのに、無意識のうちに口に出していた。
呟きを聞きつけて女が答える。あはっと小馬鹿にした笑い声をあげて、無知な子供に言い聞かせるように。
「わかりやすく言えば、キミがさっき言った通り、敵だから。っていうかねぇ、政府からも招集がかかってるわけだし、キミたちがアタシらの敵で悪者なの。外から来たアビリスタが町で暴れたらやっつける、それがアタシらの仕事。アタシらが正義でキミたちが悪。これだけ言えば、おわかり?」
女はキンキンとまくしたてた後、フフンと挑発的に鼻を鳴らした。
そうこうしている内に、治安局の一隊が現場にやってきた。ギルドの者たちが捕物を成功させている現状を見て、あっという顔をし、距離を置いて立ち止まる。罪人を引き渡せとギルドの二人に呼びかけるでもなく、かといって痛めつけられているコルトたちを助けるでもなく、遠慮がちに突っ立っているだけだ。
女が今度は挑発的な笑い声を彼らに手向けた。
「あらあらあら、今さらのご到着ご苦労様でーす。ご覧の通り、ターゲットはアタシらが先に捕まえちゃいました。このまま引っ張っていくんで、皆さまはどうぞお帰りください」
「この後はどうされるのですか」
「いつも通りの流れに決まってるでしょ、いちいち言わないとわかんないわけ? わかったら、ほら解散解散」
治安局は一礼すると、大人しく回れ右して去っていった。
それを見届けると女も逆方向へと歩き出した。ラフィスのことは軽々と肩に担ぎ、鼻歌まじりでスキップもしかねない、腹立たしいほどにご機嫌な足取りだ。
一方のコルトは男に首根っこを掴まれた。
「ほら、さっさと歩け。大人しくしてりゃ痛いことはしないからな」
「どこに連れてこうって言うんですか!?」
「そんなの決まってるだろ。オレたちの女王様んところだ」
「なんのために……」
「そりゃあまあ、女王様の命令だからな。後は女王様がお情けをかけてくれることを祈ってな」
軽い調子で言ってから、男は再度コルトに歩けと促した。舐めているのか、無理に拘束するつもりはないらしく、武器たりえるマチェットを取り上げられることすらもなかった。だが後ろにぴったりとついて離れないし、矢を一本手に掴んだまま。おかしな動きを見せたら即刺されるから、逃げることは叶わない。第一、一人で逃げようものならラフィスが何をされるかわからない。
今は言うことを聞くより他がない。コルトは渋々と重い足を動かし始めた。
いつの間にか警鐘が止み、町には日常が戻りつつあった。閉ざされていた戸や窓が開き、往来に一般人の影が現れる。息を潜めていた噂好きなおばさんたちの話し声や、遅れを取り戻そうと走り回る配達屋の靴音、他、数多の雑音が鐘の音と入れ替わりに帰って来た。
そんな通りの真ん中を連行されていくコルトたちの様子は、当然ながら注目の的になっていた。明らかに異常な雰囲気の四人が近づくと、誰もが一度は視線をやる。
反応は色々だ。関わりたくないと露骨に目を逸らす者。ほっと安堵する者。ちらちら見ながら隣の友に耳打ちをする者。ギルドの二人におべっかを使い、わざとらしい大声でねぎらいの声をかける者まで居たし、幼子なんかは純粋な好奇心から行進についてくる始末。しかし、捕まっているコルトたちを見て同情の言葉ひとつ呟いたり、明らかな哀れみをみせたりといった擁護の反応は一切なかった。
もはや絶望的だ。オムレードの町全体を巻き込む悪意の渦、これでは誰の助けも見込めない。しかもあろうことか、これからその渦の中心へ行くのである。気が重く、吐きそうなほどに胸が苦しい。
祈れ。状況を打破するためにコルトができることは、それしか残されていなかった。祈る、女王イネスが情けを見せることを。願う、神が救いの手をさしのべてくれることを。そして、
――エスドア様、どうか、ラフィスだけでも助けてあげてください。
と。