悪意の渦 2
青天の霹靂である。頭の中が真っ白になった。気圧されるがまま、コルトは震える両手をあげた。
青年も同じくさっと手をあげた。しかし口では毅然とした弁明で抵抗する。
「人違いか、通報した人の勘違いじゃないですか。この子たちはちゃんと入城の許可を得ているし、やましいところはなにもない。昨日からうちに泊まってもらっているけど、その間変なことは何もなかった。俺がピンピンしてるのが一番の証拠ですね。ハハハ」
青年はこれ見よがしに手をふってみせた。古い火傷の後はあるが、昨日今日できた傷は一つもない。昨日カラクリを触って感電していたものは、幸いなことに大きな怪我にならなかった。
証拠がないのに罰する道理はあろうか。被害者がいなければ加害者もいないわけだから、事件として取り立てる必要がない。だから常識的には、治安局はせいぜい注意ぐらいを言い渡して引き下がるのが筋である。
ところが、逆に隊長は憤怒の色をあらわに激した。
「とぼけるな! その亜人娘がアビラを使う現場を見たと通報があったんだ」
「……なんだって? 誰が」
「通報者の安全をはかるため、秘匿させていただく」
青年とコルトは思わず顔を見合わせた。どちらともが戸惑いと焦りを隠せないでいる。昨日地下室に集まった人々の中に裏切り者がいた、実質そう告知されたのだから。
昨日の様子では、職人仲間たちの結束は強いようだった。なおかつ皆一様に今のオムレードの体制に反感を持ち、部外者のラフィスが希望をもたらしてくれることを願い、喜んで受け入れてくれた。それなのに、翌日にはこの手のひら返し。口ではなんとでも言うが、やはり心の底では人間でない異端の者だと蔑み、恐れていたのだろうか。それとも本当は変革を既に諦めていて、自分の保身と一時の平穏を得るために政府へ媚びたのか。
希望を持たせておいて突き落とす。一人か多数かはわからないが、いい歳の大人が子供に対して行うとは思えない酷い仕打ちだ。ふつふつと怒りがわいて来る。
だが、コルトはそれ以上に悲しく思った。昨日感じた未来へかけるあの熱気も嘘だったんだ、と。
感情に押しつぶされ、泣きわめきたくなる。しかし一つだけ救いがあった。隣に居る青年も悔し気に唇を噛んでいる。コルトと同じ気持ちだ。どんな薄っぺらな言葉を重ねられるより、それが伝わって来た。心は同じだ、孤独じゃない、それでなんとか潰れずに耐えられた。
「政府の正義のもとに、オムレードの平和を乱す亜人とその帯同者を逮捕する。かかれ!」
問答無用と治安局の男たちが迫ってくる。手には罪人を拘束する手枷を既に用意している。腰に帯びた剣の存在は、下手に抵抗すればこの場で叩き切るぞと暗に主張している。
こうした場において、統治者に反抗するのは愚かな行為である。仮に冤罪であったとしても、抵抗して暴れた時点で反逆者の烙印を押され、処罰を与える正当な理由を与えてしまうから。
だがラフィスがそんなこと知るはずない。突然現れた見知らぬ男たちが、物騒な物を持ちおっかない顔で迫ってくる。こんな状況にあって抵抗するなという方が無理だ。
ラフィスが上に向けて開いた右の掌上に雷の球が現れた。まばゆく光りパチパチと音が弾けるボールを、治安局員の足下に思い切り投げつけた。
瞬間、工房の中が光と爆音に支配された。衝撃は建物自体を揺らし、壁に立てかけてあった工具がガタガタと騒ぎ声をあげた。着弾点からは幾本もの電撃が走った。幸いにもそれらは人を直撃しなかった。しかし鼻先を掠めただけでも、ザワッと身の毛が逆立つ強大なエネルギーを感じ取れた。
「てっ、抵抗する、抵抗するんじゃない! こここ、こいつを、捕まえろ、誰か、早く!」
隊長がしどろもどろに後ずさりする。その命令に従う部下は誰も居ない。みんな腰を抜かしているか、手の物を取り落とし放心しているか、一人としてまともに動ける状態でないからだ。
その間にラフィスが動いた。身をすくめていたコルトの手を掴み、引っ張る。なにも言わないが、目線で示すのは開きっぱなしの出入り口。今の隙に逃げよう、ということだろう。今ならば恐々としている横をすり抜けて外に出られる。
コルトは少し躊躇した。逃げられるのはいい、捕まって牢屋に入れられるなんてごめんだ。しかしここで逃げてしまったら、青年に迷惑がかかるのではないだろうか。さっきまで被害者扱いだったのが、亜人と共謀して政府に刃向かった犯罪者として責められてもおかしくない。
コルトは複雑な面持ちで青年を見た。彼も度肝を抜かれて、腰かけにすがりへたり込んでいる。額には冷や汗が流れ、指先はかすかに震えている。だが、目はしかとコルトの方を向いていた。なおかつニヤと笑って、小さく頷いた。
迷いが切れた。
「昨日と今日とありがとう、それと、ごめんなさい! さようなら!」
それだけ言い残し、ラフィスと共に駆け出した。もう後戻りはできない。大事な道具やお金が入った小物入れとマチェット、これらを持っていたのは幸運だった。宿舎に残してある背負い鞄も惜しいが、こちらは諦めるしかない。
「にっ、逃がすな! おまえたちも、逃げるな! 許さんぞ!」
口だけは威勢のいい隊長に尻を叩かれて、部下の男たちが追いすがってくる。だがその歩みが続いたのも、ラフィスが首をひねってキッと睨みを利かせるまで。宝玉の瞳をギラギラ輝かせ、開いた手のひらから紫電の障壁を張ったら、もうその先へと進むことはできない。稲妻を恐れるのは生物の本能で、触れたらどうなるかは実例を見なくても想像できる。
治安局がうろたえているうちに、コルトたちは工房の外へ出た。
ここは高い城壁に囲われた町、外へ脱出できるルートは正門か水門の二択である。しかし船を持たないコルトたちにとっては一択、正門をくぐるしかない。目指す先は昨日に引き続き、入る時にもくぐった城門である。今度こそまっすぐにたどり着かなければ。
水路沿いに駆け、橋を渡り、路地裏を抜け、大通りに出て。城壁の方角めがけてひた走る。
その道中にて、都市に火急を知らせる鐘が鳴った。ガランガランとけたたましく響く音は、各所に建てられた鐘塔に伝播し、波紋のごとく都市全体に広がる。警告される内容は当然コルトたちのこと。
次に人の騒ぎ声がそこかしこからあがる。警鐘に戸惑う市民の声。彼らに警戒と避難を促す役人の声。そして、
「異能が暴れてるぞ! ギルドを呼べ! 政府への反逆者だ、捕まえろ!」
と鼻息荒く叫ぶ治安局の人々の声。ただし、いずれもまだコルトたちに直接刺さる距離であがったものではなかった。だから誰にも邪魔されることなく町の中を突っ切ることができた。
無我夢中で足を動かして、とうとう城門が視界に入った。入城のときに通ったあの門である。
しかし城門の光景は一変していた。跳ね橋が上がり、門が閉ざされている。しかもその前には治安局の役人が並び、万全の体制で逃亡者の訪れを待ち構えている。大盾を並べて壁を作り、その隙間からは発射準備の整ったクロスボウの矢先が覗いている。
「嘘でしょ……」
コルトは最後の橋を渡りきったところで足を止めた。ぜえぜえと肩を弾ませながら、せめてもの抵抗として門兵たちを睨みつけた。だが、それでどうなることもなし。工房に押しかけてきた連中と違い、動じて空回りする様子はなく、完全に防御に徹している。
強行突破は厳しいだろう。ラフィスの力で人は蹴散らせるとしても、その後、閉ざされた門を破ることが簡単ではない。
どうするか。迷っている間に、後方から馬の蹄が迫ってくる。騎乗した警邏隊だ。勢いよく駆けて、このまま容赦なく突っ込んでくるつもりではないか。
工房の時と同様に後ろからの襲撃を防ごうと、ラフィスが手を伸ばし身構えた。しかし、撃たない。ためらっている。
原因はすぐ近くの水上に浮かんでいる小船だ。乗っているのは釣り竿を持った老人で、たまげた顔で騒動を見ている。もしも橋上に居るラフィスが電撃を放てば、水面を伝わって老人をも感電させかねない。
無関係な一般人に怪我を負わせたら、いよいよ本当の悪者だ。そんなことできないし、したくないし、させられない。コルトはラフィスの腕を掴んで引いた。
「ラフィスあっちだ! 行こう!」
再び走り出して行く先は、城門に向かって左側。馬の入ってこられない家と家の隙間に飛び込み、反対側の路地に抜け、そしてまた町の中へと向かっていく。この後の行き先は決まっていない。
城門が閉ざされた時点でもはや逃げ場はない。走り続けられるはずもない。どこか人目のつかない場所に隠れて、不思議な力で脱出したとでも諦めてくれるのを待つか。絶望的な根比べであることはわかっている。でも、捕まりたくない、終わりにしたくない。その一途な思いがコルトを突き動かしていた。