古城の都市 1
故郷で浴びた冷たい風が幻であったかと思うほど、旅は平穏かつ順調に進んでいた。コルトもラフィスも健康で、荷物を失ったということもない。途中の町村で多少お金を使ったものの、食料や道具はまだ充足している。
もうかなり西までやってきた。いつの間にか風景がかなり変わっていた。コルトがよく知っているのは視界を覆い隠す深き森林や、起伏のある山や丘陵が続く景色。だが西に来て目にする景色は、とにかく平坦だった。どこまでも続く青々した野原、ずっと遠くにある人家の影も見えてしまう。自分の歩く道の先が地平線の先に消えていく、それをはっきり見て取れるのが不思議だった。
もう一つ、西に来るにつれて変わったことがある。それは会う人々の反応だ。みなラフィスのことを見ても、好意的にとまではいかないが、執拗に恐れたり排除しようとしたりはしない。何度か立ち寄った農村では何事もなく一宿一飯を得ることができたし、旅人とすれ違っても、普通に挨拶を交わして情報交換をすることができた。むしろ、子供の二人旅なんだね、と感心されたり気遣いをくれたりしたぐらいだ。
要するに、とても楽しい旅路であった。見る物すべてが新しく、そして穏やか。一人でないからなおさら楽しい。困った時は助けあえるし、これからのことを無闇に不安がる気持ちも湧いて来ない。
少し汗ばむような陽気の中、コルトとラフィスは今日も平原の道をいく。まだ見ぬ城郭都市を目指して。
それは小さな林を抜ける場所を通りかかった時のことだった。大人の男性の悲鳴が遠くから耳を打った。
「……コルト!」
「うん、聞こえた! もう少し先だ!」
方角としては前方、ゆるくカーブしている道の先。繁る草木に妨げられて、声の主の姿も、彼が叫ぶ原因となった物も見えない。だが、大人が悲鳴をあげるなんて、よほど悪いことが起こったに違いない。コルトはラフィスと一緒に走った。
人影は見つからない。だが、道の傍らに放り出された背負子を見つけた。悲鳴の主の持ち物だろう。どうやらここで切り株に座って腹ごしらえをしていた最中だったらしい、地面に食べかけのパンが落ちている。
それでは男性はどこへ消えてしまったのか。それを先に発見したのはラフィスだった。声を上げ、びしっと一点を指し示す。今の場所から少し林の中に入ったところにある、幹が曲がった木の上。
行商の男は木の上に居た。必死な形相で、手が届く葉や枝をむしっては下に投げ、を繰り返している。よく見れば、木の根元に狼が三頭たかっている。やや小型だが、牙や爪は鋭い。それで木の幹をガリガリと引っかいている。男の抵抗はものともしていないし、獲物を諦める気もまったくないようだ。
「助けないと……!」
そう焦りこそすれ、コルトの足も完全にすくんでいた。狼三頭がこちらに向かって来たら、ズタズタにされるのは自分だ。助けようにも力がない。
一方で、ラフィスは次の行動に移っていた。金でできた右手を高く掲げ、その掌から稲妻を放つ。山中で熊に対して使ったものを、もう少し細くした具合だ。斜めに角度がついた落雷が重低音と共に狼たちの足下を襲った。
雷は自然にある災害だ、その恐ろしさを狼たちもよくわかっていたらしい。雷撃が直撃することはなかったが、三頭ともぴょんぴょん飛び跳ねながら、尻尾を巻いて逃げていった。
はああという安堵の息が木の上から響いた。コルトが近づいていくと同時に、行商の男は木からさっそうと降りてきた。
「ありがとう、助かったよ。獣避けの煙幕を忘れてしまってね、あのまま根競べをするしかないと思っていたところだ。本当に助かったよ」
「僕は何もしてないです。お礼なら、ラフィス……彼女にお願いします」
ラフィスはコルトの数歩後ろにいた。胸に手をやり、少し緊張した面持ちで。また怖がられるかもしれない、不安だ、そんな心の声が顔に書いてある。
ラフィスの心を知ってか知らずか、行商の男はずかずかと彼女に歩み寄った。
「いやあ、本当にありがとう。助かったよ」
「ア……」
「あの。ラフィスは、言葉が喋れなくて」
「そうなのか」
すると男は言葉をかける代わりにラフィスの左手を取り、ぎゅうっと気持ちを込めた握手をした。
「ところで、きみたちはどこのギルドの人なのだい?」
問いかけは、コルトの方へ振り返った上で行われた。
コルトは首を横に振って答えた。すると、今までラフィスのことを見ても驚かなかった行商の男が、ここで初めてびっくりした素振りを見せた。
「ええっ。じゃあギルドにも入っていないのに、きみたち二人だけで旅をしているのか」
「今はそうです。でもこれからオムレードの異能者ギルドに行くんです」
「なーるほど。『輝石の女王』の知り合いってことか」
「輝石の女王?」
「あれ、違うのかい? そんな目しているから、てっきりあの人の親族かなにかかと」
「目……?」
「この子の目だよ。ずいぶん変わってるからさ」
オレンジ色の宝石でできているラフィスの左目。奥底から光が湧き上がってくるようなその眼は、確かに特異な物である。しかし、だから「輝石の女王」とやらの知り合いだと思ったとは、どうしたことなのだろうか。そもそもその輝石の女王とは誰なのか。今の世の中は統一政府の役人により治められていて、城郭の町でも例外なく王と冠する人は居ないはずなのに。
コルトは行商の男に詳しく聞いた。すると彼はあっけらかんと、次のようなことを教えてくれた。
輝石の女王とは、城郭都市オムレードにある唯一の異能者ギルドのリーダー、つまりコルトたちがこれから訪ねようとしている人の通称である。宝石をこよなく愛し、装飾品として身につけるのはもちろん、体の一部として石を埋め込んでいる。その宝石一つ一つには不思議な力があって、女王はそれを引き出すことができる。たとえば火を起こしたり、水を凍らせたり。行商の男はラフィスの目を見て、なおかつ金でできた右手から稲妻を放った事実から、輝石の女王と同じような力の持ち主だと思ったのだった。
コルトはいい意味でドキドキしていた。話を聞く限りラフィスと瓜二つとは言えないが、それでも姿かたちに共通点を持つ人がいるという事実。ラフィスの謎を解くために、一筋の光明がさした気がする。
「ねえっ、女王はどうして宝石の体をしているの? そういう亜人なのか、それとも、例えば別の時空から来たとか――」
「いやあ、そんなに詳しいことは知らないけど、たぶん普通の人間だと思うよ」
「普通の人間は体が宝石でできてないよ!」
「まあね。単に亜人じゃないって意味だよ。その子みたいに、翼が生えているってわけでもないしさ。ハハハハ」
食い気味のコルトに、行商の男は苦笑いで答えた。
呆れられているとはわかっても、興奮しないでいられようか。一番近い都市だからとやってきた場所でこれ、運命的なものを感じてしまう。ウィラの村から逃げ出すことになったのも、ゼム爺さんがギルドに世話になれと言い出したのも、すべて神の見えざる手が輝石の女王とラフィスをめぐり合わせるために仕組んだこと、そうであっても不思議でないと思うし、自分たちを見守る神の存在をより強く信じたくなる。その神が、世界にとって光なのか闇なのかはわからないけれども。
――はやくオムレードへ行って、輝石の女王に会わないと!
心の中で強く意思表明しつつ、コルトはラフィスの方を見た。彼女は当然ながら状況をよくわかっていない。ただコルトのキリリとした視線に応じ、困ったような愛想笑いを浮かべていた。
「この林を抜けると大きな川につきあたって、そこで道が二つに分かれている。川の流れに逆らう方向へ進めば、オムレードの城内への渡し場があるよ。もうちょっとだ、今日中には渡し場にたどり着けるさ」
行商の男からそんな情報をもらった。さらに彼は救助のお礼だと、革紐に真鍮のビーズを通したブレスレットを二つくれた。身を飾るためのアクセサリーなんてつけたことないし、そういうのは女の子が好むものだ。はじめコルトはそう思ったものの、いざラフィスと揃えて左手に通して見ると、なかなかいいものだと感想を改めた。派手でないから気恥ずかしくならないし、なにより、善行をした証ができたみたいで誇らしかった。
行商の男はこれからコルトたちが来た方角へ行くと言う。だから、もし誰かが自分たちを探していても知らないふりをしてほしい、それだけ了解をとり、行商の男と別れた。
聞いた通り、よく踏み固められた道を歩いて林を抜ける。すると、目の前がぱあっと開け、一気に明るくなった。
そこでコルトは思わず足を止めた。
「こ、これが川!?」
コルトが知っている川というものは、山の中を流れる急峻な沢であったり、農業用水として引かれた細い小川だったり、ある程度の勢いをもちザアザアと音を立てて流れる水である。
だが行く手の先に現れた水は、とかく静かであった。確かにまだ完全な川辺に入ってはいないものの、それにしたって音がない。風が岸の草をなでる音のほうが強く聞こえるくらいだ。
そして広い、とにかく川幅が広い。向こう岸まで泳げと言われたら、絶対に無理だと言う自信がある。橋がかかっていたとしても、歩いて渡るには結構気合いをいれなければいけない。この幅の間に家が何軒並ぶだろうか、ちょっと想像してみて怖くなった。もしかしたらウィラの村が丸ごと収まってしまうのではないだろうか。
ほとんど同じ幅を保ったまま、川は視界の左端から右端へ、地平線の向こうから地平線の先までずうっと続いている。その先はどうなっているのか、果てが見えない。
これまでも地形の変化や初めて見る動植物に心ゆさぶられてきた。しかしこの川の雄大さは群を抜いて衝撃的だ。いっそ暴力的で、コルトはしばらく目を見張って立ち尽くしていた。
そしてゆっくりと川の上流、正面向いて左へと視線を動かす。
「あれが、オムレードの城……」
ここから見るとまるで水上に大きな建造物がそびえ立っているかのよう。これが遠景の対岸に悠然と浮かぶ城郭都市オムレードの姿、ようやく肉眼にはっきりととらえたのである。