最後の涙 3
父は一人であるようだ。布の袋を肩にかけ、腰には革の鞘に納められたマチェットを帯び、今しがた単独で山を降りてきたばかりという雰囲気だ。
だからといって、何も変わらないが。父とてイズ司祭と同じ側、ラフィスを教会に引き渡せと言ったから、コルトにとってはもう敵だ。今すぐにもラフィスをむりやり捕まえて、連れ帰ってしまうかもしれない。そう思うと、自然と身が警戒にこわばる。
それにしても。コルトは警戒の中に弱々しさを交えて言った。
「どうしてここがわかったの」
「おまえの考えることなんてだいたいわかる」
ぶっきらぼうに、しかしきっぱりと父は言った。その目はまっすぐにコルトを見つめている。
ふとコルトは感じた。父は、そんな素振りを見せないようにしているが、その実かなりくたびれている様子だ。普段との微妙な空気感の違い、自分の父親なのだからそれくらいわかる。かつ、原因が自分にあることは間違いない。そう思うと直視に耐えられなくなって、コルトは浅くうつむいた。
沈黙がやってきた。とても気まずいし、何を話せばいいのかすらわからない。再会を喜ぶべきなのか、再会を悲しむべきなのか、それすらも判断できなくなってきた。コルトは父の靴先を見たまま、目を泳がせていた。
すると父の方から口を開いた。
「コルト。村に戻ってくる気は、本当にないのか」
「……戻れるの? あんな風にみんなに逆らっておいて、それでも帰らせてくれるの?」
「おまえ一人なら。おまえは操られて巻き込まれた哀れな被害者、イズ司祭はそう言って、おまえを許してくれようとしている」
「なんだよそれ」
操られてなんかいない、自分の意志でやったこと。それなのに勝手に気持ちを決めつけて。理不尽さに怒りがわいてくる。父も母も司祭のことも、生まれ育った村とそこに暮らす人たちも、全部信頼していたのに、全部裏切られた。悔しいし、悲しい。
がたり、とゼム爺さんが立っている方から音がした。見れば、ラフィスがパーティションの裏から出て来て、口元に手をやり心配そうにこちらを見ている。本当は傍に飛んで来たいのかもしれないが、それができないよう、ゼム爺さんに肩を押さえられている。そしてゼム爺さんは一切口出ししようとせず、厳しい顔つきでなりゆきを見守っている。
コルトは再び父親の方へ向きなおった。見慣れた仏頂面は、今は何を考えているのかわからない。だからコルトは遠慮せず、自分の意志を力いっぱい投げつけた。
「そんなのやだ! 僕だけじゃなくて、ラフィスのことも許してくれないとだめだ。それができないのなら……そんな人たちと、僕はもう一緒に居たくない!」
「だったらおまえはどうしたいんだ。この先一人で、一体どうするんだ」
どっしりと構えて、かつ厳しく、父は問うた。
コルトは一度深呼吸してにわかに高ぶった心を静めると、一生懸命落ち着いた口調にして、しかしはっきりと父に答えを示した。
「ラフィスと一緒に大きな都市へ行く。村の人も、父さんだってもう追っかけてこれないような、遠いところへ行くんだ。たくさんの人に会えば、僕たちの味方になってくれる人が見つかるよ、絶対に」
「……彼女は、世界を滅ぼす使徒かもしれない。それでもいいのか」
「そんなの、わかんないよ」
「わからない?」
「ラフィスが何者なのか、わからないから確かめに行くんだ。ラフィスの行きたい場所に行って、知っている人を探して、それでどうなるかはわからないけど……でも僕は、今は一人ぼっちのラフィスの力になりたいんだ。一緒に本当のことを確かめに行く。その後で、ラフィスも含めたみんなが幸せになれる方法を探すよ」
父はくっと目を細めた。そしてただ一言、
「そうか。わかった」
とだけ告げた。
それから不意にテーブルへと歩み寄る。肩にかけた布袋に手を突っ込んで、取り出した物をそのままテーブルの上に置いた。一つ目は、コルトのベルト付きの小物入れ。二つ目はコルトの愛用のマチェット、これはきちんと鞘に納められている。
口をあんぐりと開けているコルトに、父は背中を向けながら言った。
「じゃあさよならだ、コルト。元気でな」
「父さん……」
「母さんも、生まれてくる弟妹のことも心配しなくていい。俺が守る。三人で仲良く暮らすさ。おまえが居なくなっても、村は別に何も変わらない。これからも今まで通り、平和にやっていくだろう」
突き放すように告げて、父はそのまま去っていく。
しかし、出口の戸の前で立ち止まり振り向いた。ただし、コルトのことは見ていない。父の視線はゼム爺さん、いや、その傍らにいるラフィスのことをじっと見ていた。
「息子を……コルトを、よろしくお願いします」
父は静かに言って、深々と頭を下げた。
ラフィスは戸惑いながらも、応えるように大きく頷いた。
それを見届けると、父はコルトにはもう一瞥もくれず、さっと家の外へと出て行った。コルトの方も、ぱたんと閉ざされた戸をじっと見ているだけだった。
しばらく立ち尽くした後、コルトの目線はゆっくりとテーブルの上へ向かった。父が置いていった、小物入れとマチェット。横長の小物入れは、最後に自室で外した時と違ってパンパンに膨らんでいる。
もしや、と思って中身を確かめる。まずは見覚えのあるもの。一つは小さなナイフだ。これは木の棒を削ったり、果実の皮を剥いたりといった、マチェットではできない細かい作業に使うため、いつも持ち歩いている。そしてもう一つは笛。楽器として音階を奏でるためのものではなく、吹けばピィィと高い音が鳴るだけのもの。山の中で他人に居場所を知らせたり、動物をおどかして追い払ったり、ここぞという場面で役に立つから、これもいつも小物入れに入れてある。
それら以外の、体積にして八割近くをしめている物品は、自身で入れた覚えのない物ばかりだ。火打石と火打ち金、短く束ねた麻の紐、そして大きな袋と小さな袋。大きな袋には、イモや山ブドウを乾燥させたものがたっぷり詰まっていた。これは、コルトの母お手製の保存食である。そして小さな袋には、少しばかりの銀貨銅貨が入っていた。
つまり、これは、旅立ちに際する餞別ということだろう。
父は最初からコルトがもう村へは戻らないことをわかっていて、送り出すためにわざわざやって来てくれたのだ。かつ、コルトがきちんと覚悟したうえで、自らの足で次のステージへ進もうとしていることを確かめるために、どうするんだとあえてたずねた。最後、親子とは思えない冷たい言い草で去って行ったのは、一切の未練を残させまいという不器用なはからい。
「父さん……」
じわりとコルトの視界がぼやけた。熱いものが頬を伝い、ポタポタとテーブルの上に落ちた。優しさへの感激、別れの悲しみ、認められた嬉しさ、親不孝をする申し訳なさ。色々な感情が混ざっていて、どれが原因かはわからない。ただ、涙が後から後から溢れて止まらない。やがてむせぶ声もこらえきれなくなった。
そんなコルトの隣に、そっと寄り添ってくる影がある。ラフィスだ。
「コルト……ダイ、ジョブ?」
覚えたての言葉をたどたどしく紡ぎながら、ラフィスはコルトの隣に立った。
おろおろとしているラフィスの方へ振り向いて、「大丈夫だよ」と言おうとしたものの、まったく言葉にならなかった。代わりに涙で歪んだ音が、フニャフニャと口から漏れ出た。そんな自分が情けない気がして、目からさらなる涙をあふれさせる。
あんまりな状態を見かねてか、ラフィスはコルトの体を包み込むように抱き寄せた。柔らかく、優しく、胸に抱きとめる。
とても温かだ。その腕の中で、コルトは恥も外聞もなく泣きじゃくった。ごめん、これで最後だから、と心の中で謝りながら。
そう、泣くのはこれで最後。この先はもう泣き虫の子供じゃいられない。強くなってラフィスを守らなければいけないし、どんな困難が起こっても、全部自分で立ち向かっていかなければいけないのだから。
だから、この場で全部の涙を流しておく。そんな勢いの泣き声が、長いこと小さな家の中に響き続けた。そしてそれを邪魔する人は、誰一人としていなかった。内からも、外からも。