最後の涙 2
はあ、と響いた溜息はゼム爺さんのものである。
「本当は、ラフィスちゃんを異能者ギルドで保護してもらおうと思っていたのだが」
「えっ……?」
「変わりものの人間でも、ギルドなら普通に受け入れてくれるだろうて。これから生活していくには、そういう社会的な支えがどうしても必要なる。一人ではとてもやっていけまい」
それなら僕が居るし、ゼム爺さんだって一人で暮らしているじゃないか。そんな風に食ってかかりそうになったのを、コルトはすんでのところでこらえた。そして逆に、ゼム爺さんの言うことがもっともなことだと思い改め、噛みしめる。ゼム爺さんは大人で、こちらは子供、同じようにできるはずがない。現に自分一人ではどうしようもなくなったから、助けを求めて山を降りてきたのだ。
なんと無力な存在なのか、間接的に言い聞かせられてほとほと嫌になる。それでも、ほんの小さなことでも、ラフィスのためにできることはあるはずだ。
「ゼム爺さん、サムディ以外にも、ギルドはあるんだよね」
「もちろん。大きな都市に行けば、一つとは言わずたくさんあるはずだ」
「じゃあ、僕、そこへ行く」
きっぱりとした口調で言うと、ゼム爺さんは戸惑いの色を示した。その顔をまっすぐな目で見ながら、コルトは膝の上で拳を握って宣言した。
「ここでじっとしていたってしょうがないでしょ。ラフィスを好きになってくれる人を見つけながら、僕はエスドアに会いに行く。それでエスドアと直接話して、本当の事を確かめるよ」
ゼム爺さんは呆気にとられた顔をしていた。そりゃそうだ、とコルトは思った。子供が偉そうに何を言いだしたんだ、そう思われてもしかたがない、自覚はある。しかし、譲る気はさらさらない。
ちょうどその時、パーティションの向こうからラフィスが戻ってきた。着ているものは自前の白いワンピースから変わっていない。彼女の登場とほぼ同時に、
「ゼムじぃ、ベッド借りるよ、縫い物させて。この家椅子がないんだもの、やんなっちゃう!」
と、声が響いたから、新しい服にはこれから手を加えるということだろう。
ラフィスはかなりくたびれた様子だった。なんとまあ、山を下ってきた直後よりも疲れた雰囲気を漂わせている。
ゼム爺さんが立ち上がって椅子を譲ろうとした。しかしラフィスは首を横に振って固辞し、コルトの背後にある棚の前まで来ると、棚を背もたれにして床に座りこんだ。ふうと長い息を吐いて、全身の力を抜く。
「ラフィス、大丈夫?」
声をかけると、ラフィスはふっと笑顔をつくって頷いた。大丈夫か、大丈夫か、そう尋ねるのはこれまでに何度も繰り返したから、どういうニュアンスの声かけなのか、彼女も察したようだ。
疲れているのは、慣れない風にベタベタと構われたせいだろう。しばらくそっとしておいたほうがいい。コルトもゼム爺さんもそう判断し、示し合わせたわけでもないのに、同時に姿勢を正して話し合いに戻った。
「ゼム爺さん、僕、決めましたから。絶対に行きます」
「いや、それ自体に反対するつもりはないが……エスドアに話を聞きに行くというのは、あまりにも現実的ではない。知っているだろう、あれも神に限りなく近いもの。神話上の存在だ。使徒に会いに行くなど、そんなことができようものなら……まず教会の者がこぞって押しかけているだろうて」
「でも、エスドアは今、地上のどこかに居るって。イズ司祭がそう言っていた。地上に居るなら、時間はかかるかもしれないけど、会いに行くことはできるでしょ?」
ゼム爺さんは苦いうめき声をあげた。それからしばらく黙って、そして。
「個人的には、その件も教会の妄言だと思っているのだが……しかし、まあ、コルト君が信じるのなら、それもいいじゃろうて」
「知っているなら詳しく教えてよ。どんな話なんですか」
食らいつくと、ゼム爺さんは重たげに口を開いた。
「近年、『バダ・クライカ・イオニアン』という名前の、亜人の新興宗教が生まれて、そこでエスドアが神と崇められているそうだ。実際にエスドアと名乗る者が、信徒たちと共に世界のあちこちで暴動を起こしている。それで政府と教会に目の敵とされているらしい。が、この辺りに現れたという話は聞かない。もちろん私も、エスドアはおろか、新興宗教の信徒だという人にすら会ったことがない。教会が往来でわめいているのを聞いただけだ。連中に詳しく聞けば、もう少し詳しくわかるかもしれないが……」
「いいよ。あんまり怪しまれたくないし、ゼム爺さんも嫌でしょ、教会と関わるの」
ゼム爺さんは困ったような笑みを浮かべた。しかし、コルトの言葉を否定はしなかった。
そして、背後から、「バダ・クライカ・イオニアン」と小さく繰り返す声が聞こえた。かそけきその声は、ラフィスのものだ。
「……知ってるの、かな」
「もとは亜人の言語だとの噂だ。ラフィスちゃんも亜人のようなものであるし、何か通じるものがあったのかもしれないが……いやはや、運命を感じるのう」
エスドアの名を聞いた時とは違い、ラフィスが明確な感情を見せることはなかった。ただ単に、知っている言葉が聞こえてきたから呟いただけ、という雰囲気だ。しかしそれだけでも、コルトに心を決めさせるのに十分であった。
これからの方向性が確定した。まずは異能者や亜人が居るような大きな都市へ行く。そこでならラフィスもある程度受け入られるだろうし、その道のプロフェッショナルたるギルドの人々なら、ラフィスに関わる何かを知っているかもしれない。エスドアのことも都市で情報収集すればいい。そうやっているうちに、自然と次に行く先、旅の終着地が決まっていくだろう。
コルトの気持ちはすっかり軽くなっていた。何をすればいいのかわかっていれば、あとはやるかやらないかが問題。これからは動けばいいだけだから簡単だ。
だが、浮つく気分に水を差すように、家の玄関たる戸が外から叩かれたのだった。
にわかに緊張が走り、小さな家は静まりかえる。静寂を割るように、再度扉が叩かれる。あまり激しくはないが、確かな力強さがある。訪問者は叩くばかりで、自分から名乗る気はないようだ。
「どなたか知らんが、すまん、いま着替え中だ。すぐに行くから、ちょっとそのまま待ってくれい。開けてはいかんぞ」
ゼム爺さんが声を張り上げながら、コルトに目配せをした。
コルトは物音をたてないように椅子から降りると、ラフィスの手を引いて誘導しながら、寝所を区切るパーティションの裏側へと隠れた。万が一誰かがやって来たらここに隠れるように、留守番中からそういう手はずになっていた。パーティションの裏側で二人小さくなり、息を殺す。ベッドに腰かけ縫い物をしていた女性も、一度動きを止めて存在を気取られまい、怪しまれる隙を与えるまいと気を付けている。
家の中にはゼム爺さん一人。外からそう見える状態になったのを確認すると、ゼム爺さんが玄関へ向かった。
パーティションのこちらには、ガタガタと木の戸が鳴る音だけが聞こえる。ゼム爺さんと来訪者がなにか喋っているようだが、声が小さくてはっきりわからない。コルトの耳に入ってくるのは、けたたましく鳴る自分の心音だけだ。
やがて、ゼム爺さんの足音がパーティションの方へやってくる。そして。
「コルト君。きみにお客さんだ」
「いぃィっ!?」
突然の名ざしに驚かずに居られるか。思わずひっくり返った声を漏らし、そして声を出してしまったという失敗への自己嫌悪でもう一度肩が跳ねる。
一体どういうことだ、隠れてろって話だったはず。コルトは混乱しながらも、ゼム爺さんの手招きに応じてパーティションから姿を現した。
閉ざされた戸のこちら側に立つ第三の人影を見た時、コルトはまず自分の目を疑った。パチパチと何度もまばたきをして、それで夢や見間違いでないことを確かめる。それでもまだ、信じがたい光景だった。なぜならば、立っている大きな人影は――
「父さん!」
紛れもなく自分の父親だったから。