エピローグ・イン・タルティア
通行者を送り出し独りでに閉じていく次元の窓を、シャヤクは黙って見つめていた。
――黙示の時か。
実の目が映す荒れ狂う砂嵐の風景の先に、心の目で広大な砂漠とそこに在る国を眺め、頭の中でいつか見た光景と未来とを重ねる。そして観念したように目を伏せた。
偶然ではなく必然だ。今の世でラフィスのルーツを求めるならば、どうあがいてもラザトへ行きつくことになろう。そしてラザトにはすべてが眠っている。最終的にラフィスの方から行ったのも宿命だ、逃れられない悠久のサーガの鎖に彼女もまた間接的だが繋がれている。後はいつ、誰が、どのように引き金を引くかだが……ひどく嫌な予感がしている。
「コルト君は……」
弱々しいマオの声を聞いて、シャヤクは細く目を開けた。マオはいたく不安げにしていた。そしてその不安は、シャヤクのそれとは別の方向にある。そんなものより先に自分の体を心配しろと思いつつ、シャヤクはマオの欲する答えを提示した。
「遮断の呪いをかけた。多少かかりが甘かったとしても、この座標なら、空から見つけてもらえるまでは死なずに済むだろう。もちろん、大人しくしていればの話だが」
「コルト君が大人しくしているわけないです!」
「ならば、端からあいつの命運がそれまでだったということだ。何を言った所でおれたちの言葉は届かんのだから、どうしようもない」
吐息混じりに言って、シャヤクは再び目を閉じた。
コルトと決裂したのは確かに己の力不足もあった、シャヤクは内省していた。身内以外と話す事自体久しぶりで、立場と肩書に甘えていた側面もある。価値観の違いに対する理解と歩み寄りの努力の不足、そう言われたらそれまでのこと。
だが。同じくらいコルトの側も問題児だと感じている。根拠もなく自分が大正義で、一度こうと信じたら修正が利かない。正論で諭そうが、武力で脅そうが、同情を引いて譲歩を求めようが、彼の正義に合わなければてこでも動かない。意志が強い心が強いと言えば聞こえは良いが、言い方を変えればわがままで強情、社会性の欠如だ。もちろん歳若さが要因ではあるが、コルトの場合はそれを差し引いても度が過ぎているし、自覚が無い分たちが悪い。
伊達に数百年もの間世の中を見て来ていないのだ、ああいう化け物みたいに魂が強い人がどのような人生をたどるか、よく知っている。正しい道、世間の人から善き道と思われる道を進めている内はいい、歴史に名を刻む偉業を成し遂げる事も多い。だが、そこから少しでもそれてしまったら。自分の信念が自分の首を締めて道を塞ぐか、人から憎まれ道を断たれるか。あるいは、世界の大敵となり非業を生むか。
『誰かを生贄にしないと未来が手に入らないなんて、そんな世界、僕は要らない』
かっこつけではなく、本気で、正直な気持ちでコルトは言い放った。ゆえに笑えなかった。もし彼に力があれば、あるいは邪神の囁きでもあれば、本当にやってしまうだろう。衝動と暴走の果てを幻視するに――誰ひとり幸せにはなれない。その選択をしたコルト自身も、彼が助けようとしたラフィスも。
だから看過してはいけなかった。コルトを封印して管理下に置き、自分一人が各方面より恨まれるだけで済ませられたなら、それが最もリスクを小さくできたのだ。しかし、わずかに遅れを取ったのである。挙句の果てにラフィスもコルトも手からすり抜けて、一番行かせたくない場所へ到達してしまった。
もはや乾いた吐息しか出ない。偶然にしては色々とでき過ぎている、足掻いてもこうなる定めだったということか。自分より上位の存在たちの意志が働いて、自分より先にあの二人へ道を示した。その一人が偉大なる師なのだから、敵うはずがなかった。
腕を組み瞑目して思索を巡らせていたシャヤクだったが、眼前にやってくるいらだった気配と足音に気づいて薄く目を開いた。マオだ。ダメージから回復しきっていないが、感情をほとばしらせて立ち上がって来ていた。いつになく強気な視線で師のことを責めている。
「どうしようもなくないでしょう! 今からでも連れ戻せばいい、そうでしょう!? お師様!」
「なぜそう怒る」
「だって、止めるつもりで呼んだのでしょう。お二人をラザトへ行かせないために、遠回しなことをしてお二人を連れて来させたのだと言っていたじゃありませんか!」
「その通りだ。だが止まらないんだから仕方ないだろう。なるようにしかならん」
「お師様!」
「おまえもおれを怠け者と言うか?」
「……え?」
勢いづいていたマオがにわかに眉を下げた。予想していなかった問いかけに困惑したのだ。シャヤクがこんな自虐的な一面を、マオを始めとしたタルティアの若い世代へ見せたことはなかった。
シャヤクは自嘲気味に鼻を鳴らして続けた。
「あの坊主に言われたんだ。おれは怠け者で、無責任で、死人と同じだと」
「それは……まっ、まさか、そんな子供じみた悪口であんなに怒ったんですか!?」
「それだけじゃないが、まあいい。過ぎたことだ」
そう言ってもマオは開いた口が塞がらない様で、息の切れた魚のように口をぱくつかせている。シャヤクには彼女の心の内が手に取るようにわかった。一言で言うなら混乱している。子供のような癇癪を咎めるべきか、かといってそんな尊大な発言を師にしていいものか、しかし拗ねているようにしか思えないし、なんとかしてコルトを止める方へ動かなければ、などと考えて、どれから言うべきか決められないでいる。
シャヤクはわずかに口角を持ち上げながら、組んでいた腕を解いた。
「安心しろ。おまえなぞに発破をかけられなくても動くつもりだ」
そう。先人たち、暗躍する神々には敵わない。かと言って静かに道を譲って悪い方へ流されるがままになっていられるほどに、人らしい心が枯れてしまっては居ないとシャヤクは自負していた。
マオは一瞬、呆けた顔をした。それからあからさまに動揺を示した。なおかつそれはマオだけではなく、近くに居たタルティアの同胞たちもみな驚嘆と緊張に染まっている。タルティアの主が自ら動くと宣言することがいかなる意味を持つか、彼らはよく理解していた。すなわち、黙示録で暗示される終焉の時がすぐ背後に迫っている、と。
色めき立つ部下たちに、シャヤクは「早まるな」と釘を刺した。
「動くのはおれ一人だ。まだどう転ぶかはわからん、機を誤るな。事がラザトの内で進む間はこれまで通り、もしも世界へ破滅が拡散するような事でも起これば、その時はおまえたちにも死力を尽くしてもらう」
いずれ来たる滅びを打ち破り未来を導くため、各人の役目と体制は明確に作ってある。動かすタイミングがすべてだ。最高の機にすべてを賭けなければならない。超越者なる存在が歴史の流れを変えようとする、それは神として君臨する存在に楯突く事と同義であり、ゆえに機会と手段を誤れば、自らを神と称したシャヤクの兄弟子と同じ轍を踏むだろう。流れる時をあるがまま見守り、歴史の証言者たる存在に極力徹すること、それがタルティアの始祖の代から続く神との線引きなのだ。
「だったら、お師様は何をするつもりなのですか」
マオが当然のように疑問を呈した。他の者も困惑気味にシャヤクの返答を待っている。
「会いに行ってくる、あの女に。クソ坊主にゃ、奴の言葉じゃないと届きやしない」
「あの女って……まさか……! だ、大丈夫なのですか!?」
「さあな。あっちがどう出るかも読めん。今の肉体は無力な枷、だが魂は昔のままだ、出会い頭で叩き切られてもおかしくない。そういう女だ、あれは。おまけに近づくだけでも厄介な状況だ、生身で行くにしろ精神で行くにしろ邪魔が多すぎる」
「そんな危険を侵してまで、今行くのですか」
「ああ。この瀬戸際で動かなかったら、それこそ怠惰でしかない。それに――」
――みすみす放置して第二、第三のエスドアを世に出すことになっては、親父も浮かばれんだろう。
最大の不安要素はマオには言わない方がいいと判断し、口をつぐんだ。マオはコルトとラフィスのことを善良な友人だと思っている。それが排除対象になると知れば、パニックになるか断固拒否の構えを取るか。マオも根が頑固で感情的ところは割とコルトに似ているのだ。
思案を隠す代わりの方便として、シャヤクは私情をそのまま表に出した。
「さすがに腹が立ってんだ。おれが怠惰と叱られるなら、あの女も同じように糾弾されるべきだ。記憶が無いわけでもなかろうに黙っていやがって、ラフィスも哀れになあ。本当にあの女は……大いなる罪人、その名がまったくふさわしい」
苦々しく言い捨てたシャヤクはマオに背を向けて歩き始めた。後ろから足音がついてくることは意に介さず、壁に立てかけてあったハルバードを取った。そこで背後にぴったり付いてきた者から声がかかった。
「わたしも連れて行ってください」
「今はおまえの出番じゃない。おまえが動いていいのは最後、未来が確定した時だ」
「それは、わたしが力不足だからですか!? わたしだって、お師様と同じで、黙って見ているのは嫌なのです!」
「マオ」
「お師様だけが身を危険に晒さなくても、わたしにだってそれくらいの覚悟はあります! お師様の盾でもいい、ですから一緒に――んん!」
「マオ。聞けよ」
ターバンの上からマオの頭を手で押さえつける。マオはそのまま上目遣いでシャヤクの事を見上げた。
「おまえはまだ力不足、その通りだ。一人前とも思っていない。盾になる? 偉そうな事をよく言う。おまえにそんな役をさせられるか」
マオがぐっと唇を噛んだ。それを見てシャヤクは手を優しく置き直した。
「だから甘えておけという話だ。おまえを一人前に引っ張り上げるのは師匠のおれの仕事だ、力不足と思うならおれに責任がある。おまえが何もしなくて世界が滅んでも、そうしていろと命じたおれの失態だ」
「しかし……」
「いいじゃねぇか、甘えられるうちに甘えておけよ。今しかできないことだぜ? なあ」
シャヤクは鷹揚に笑うと、ハルバードを肩に担ぎ廊下を歩き始めた。後ろをついてくる足音はしない。しかし、やたらと湿っぽい気配が漂っていた。振り返らなくても、俯いたまま静かに涙して肩を震わせるマオの姿が目に浮かんだ。
シャヤクは深い吐息と共に足を止めた。そして背を向けたまま語りかける。
「安心しろ、おれはまだ消える気はない。たとえ首だけになろうが、ここに戻ってきてやる。おれが役目を果たし、マオ、おまえに『超越者』の名を託せるようになるまで、おれはここに存在し続ける。わかったな」
言い終わったら返事を待たずに歩みを再開した。そうこうしている間にも外界の時は刻まれ続けているのだ、動くのなら早くなければ意味がない。腹はくくった、後は気の持ちようである。
――さて、覚悟しろよ、クソ坊主。おまえが迂闊な事を言ったんだからな、余計なもんを呼び起こしたと悔やんでも知らんぞ。
皮肉に笑みながら、シャヤクはもう一つの外界へ繋がっている扉へと足を進めた。




