砂嵐の向こう
行きついたのは二階の掃き出し窓であった。慌ただしい雰囲気を立ち昇らせながら、人が何人か集まっている他、伝令のように付近を飛びまわっている者も居る。
窓の横にマオが居るが、床にへたりこんでいる。青ざめて茫然としている上に衣服が崩れ、肩のあたりには焦げた跡がある。両手はしかと笛を握りしめて、なおかつカタカタと意志とは関係なく震えている。心身共にダメージを負って居ると明らかだ。
そんなマオだったが、シャヤクの姿を認めると悲鳴に近い声を上げて立ち上がろうとした。だが、傍らの亜人に慌てて押しとどめられた。
シャヤクがマオの前に立つ。するとマオは顔を上げた後、謝罪の雨を浴びせた。
「ごめんなさい、お師様、止めようとしたんです。わたしが止めないといけないと思って――」
「おまえがここに来た所から順に話せ」
「ラフィスさんは、わたしと一緒でした。通りかかったんです。たまたま定期観察のタイミングで、ラフィスさんは窓を見て、そうしたら急に窓の方へ行って、二人から窓の操作を奪って出て行こうとするから、まずわたしが後ろから羽交い絞めにして――」
「つまりラフィスにやられたわけだな。三人とも」
混乱したマオの説明を遮って、シャヤクは大窓を操作する石柱の近くにしゃがみ込んでいた亜人二人へ問いかけた。彼らにも争った形跡があるが、マオよりかは元気そうだ。
その二人はマオの言ったことを肯定しつつ、多少は抵抗したのだと弁明と補足を入れた。ラフィスの方はかなり本気で牙を剥いてきた、足止めしようにも電撃でまともに近寄れず、無理に飛び込んだマオはもろに雷を食らったあげく吹き飛ばされて頭を打って気絶していた。
何より間が悪かった。普段ならシャヤクが精神体であることを利して館全域に意識を拡散し、トラブルがあればすぐ対処できるようにしている。だが肉体に収まっていた上に墓所の扉を封じて閉じこもっていたため、外に拡散させる意識がかなり薄くなっており、完全にラフィスの気質が空間より消失するまでの大変化が起こるまでシャヤクが気づけなかった。
亜人たちは主を糾弾しないし、主の側も言動で詫びを入れはしない。しかし眉を顰めて影を落とすシャヤクの面持ちには、忸怩たる思いが透けていた。
そしてシャヤクは再びマオを顧みた。
「ラフィスは正気だったか」
問われたマオは軽く視線を落とした。
「……なんとも言えません。行動は何かに取り憑かれているようでしたが、笛の音で触れた心は確固たる意志があって、他者に汚染されている風ではありませんでした」
「わかった。おまえは休め」
「でも、わたしが――」
「今おまえに何ができる。回復が優先だ」
マオはきゅっと唇を噛みながらうなだれた。
シャヤクの方は落ち着き払って次の行動へ移っていた。有事だと駆け付けてくる者、ただ混乱して飛び回っている者へ指示を出す。何を確認しろ、どこへ行け、誰と交代だ、そんなような事を相手に合わせた言語で次々と。
そしてコルトはと言うと。蚊帳の外で話を聞いたまま、唖然と立ち尽くしていた。単に出ていったわけではなく、タルティアの者たちへ危害を加えた上での強行突破だと。しかも一人で。ラフィスがそんな事をするなんて、よっぽどの理由があるはずだ。窓の向こうに何かを見たのかもしれないし、何かを思いついたのかもしれない。
今、大窓の外は暗い黄土色の砂嵐になっている。ラフィスが出て行った時には、世界のどこかの地上が映し出されていたのだろうが、それがどこだったのかもう見えない。
『行き先はラフィスが知っている。導いてくれ、無垢なる子よ』
ふとカサージュの声が頭をよぎった。記憶が創り出した幻聴と思いこそすれ、コルトは衝動的にあたりを見回した。ここに見えるタルティアの連中は、誰もコルトのことを気に留めていない。ラフィスの出奔はそれほど大事らしい。
――この脱走がラフィスの意志なら、僕の役目だって終わりじゃない。そうでしょ? カサージュ。
それからコルトはもう一度、大窓に向かって目を見張った。マオの説明によれば、座標を決めずに窓から外へ出ることは自殺行為。標をもたない身で時空の狭間へ飛び込めば、どこへもたどり着けず永遠に彷徨うこととなる。
――ラフィス。君が僕の標だよ。また会えるって信じているから、僕がそこまで行く力を貸して!
決意を胸にコルトは窓へと歩みはじめた。
はからずともマオの前を通りかかる。そこでマオに声をかけられた。
「コルト君……ごめんなさい、あなたからラフィスさんを遠ざけるつもりはなかったんですが、わたしではとても敵いませんでした」
「いいんだ。ラフィスが自分の意志で出ていったならそういうことだよ。こちらこそごめん、ラフィスが怪我をさせて」
「いいえ。わたしの場合は自業自得です」
「そっか……じゃあ」
そのまま早足で窓へ向かった。木の枠を全力で押せば、かなり重い手応えはあったが、ゆっくりと窓は開いた。向こうの景色は変わらず砂嵐で、音は聞こえないが風がうねり渦巻いているようだ。見下ろしても床や地面の類が見えない。
縁に足をかけるコルトの背中を、マオの叫び声が貫いた。
「コルト君、いけません! 早まらないで!」
声で辺りの全員が気づいた。シャヤクはホールを四半周した廊下の交差点あたりで部下からの報告を受けていたが、にわかに顔を歪め、周りを押しのけコルトの方へ向かってくる。
「止まれ! 座標がずれている、今出たところでどうにもならんぞ!」
コルトは肩をひねって振り向き、シャヤクの事を睨んだ。
「ここに居たってどうにもならない。ラフィスがここに居たくないって決めたんだから、僕も一緒に行くんだ」
「そういう問題じゃあない! 外を見てみろ、出れば死ぬぞ! もう少しだけ待て!」
「待っていて何が変わるんだ! 僕は運命も未来も自分で作る!」
「ッたく、ちったあ聞けよ、クソ坊主……!」
シャヤクが両手を胸の前に構える。目が一瞬光ったような気がすると同時に、コルトの内側で波紋が立つような感覚が生まれた。
――まずい、止められる!
さっきの二の舞にならない内に、コルトは縁を蹴って自由の世界へ飛び出した。それと時を同じくして、シャヤクが放った黒い光線が背中を打った。傍から見ていたら、ほとんど押し出された様であった。
一瞬だけふわりと浮き、すぐさま落下する。長く長くどこまでも、みるみる速度を増しながら。コルトは凄まじい暴風の音を聞きながら虚空に足をばたつかせる。視界は日没と等しい薄闇に覆われていた。
気が遠くなる時間落ち続けた後、下に地面が見えた。だが、重力に従った加速は止まらない。喜ぶより焦りと恐怖が先に襲って来る。
――ぶつかるッ……!
大木の天辺から落とした果実がどうなるか。想像するまでもない。コルトは反射的に目を閉じ、全身に力を込めた。
しかし、思ったような恐ろしいことは起こらなかった。衝突間近で急に減速し、目に見えないクッションで受け止められたように空中で静止する。それから、優しく地面へ下ろされた。コルト自身の感覚では、自分で着地しようとしたのではなく、着地させられたのだ。
恐る恐る目を開ける。近くの地面は見渡す限り砂で覆われている。砂の大地に自分の両脚で立っていて、どこも痛くないし、誰も近くに居ない。
辺りは相変わらず薄闇に包まれていた。だが風景が暗いのではなく、コルトが自分を中心とした闇のドームの中に居るというのが正しかった。ドームの外側では今も変わらず砂嵐が渦巻いていて、荒れ狂う風の音も遠巻きに聞こえる。ドームの壁は手を伸ばしても手のひら一つ分くらい届かないし、コルトが歩けばドームも一緒に動いて外へ出ることは叶わない。これは、あの黒い光が原因だとしたら。
「もしかして、守ってくれているの?」
なんとも言えない歯がゆい気持ちで空を見上げた。天も砂嵐で埋め尽くされ、自分がどこを落ちて来たかはわからない。そもそもあの窓から出たら館へは戻れないという話だったから、晴れ空でも見えたとは思えないが。
いや、今さら後悔して何になる。コルトは頭を振り乱し、それから自分の頬を叩いた。終わったことを悔やむより、やらなければいけないことがあるだろう。
「ラフィス! どこに居るんだ!? 近くに居るんだろ? ラフィス!」
砂嵐の中へ呼びかける。ラフィスが窓を開いた時からゲートの位置はずれたと言っていたが、駆け付けるまで時間はそれほどかかっていないから、あまり遠くにはなっていないはず。少なくとも地続きの場所には居る、それなら再会できる。
コルトは歩き始めた。四方とも砂嵐でどこに何があるかわからないから、直感に従って決めた方角へ真っ直ぐに。
時々ラフィスの事を呼ばわりながら、長らく歩き続けた。慣れない砂の地面に苦戦しながらも進み続けた。
やがて砂嵐がおさまって、急に辺りが明るくなってきた。
そして砂のヴェールに隠されていた世界が明らかとなった時、コルトは愕然として足を止めた。
「嘘だろ……」
世界は遠く明るく開けていた。どこまでも続く黄金色の砂漠として。無限に広がる青空と砂の大地以外の物は、どこを向いても何ひとつとして存在していなかった。自分が歩いて来た足跡すらも、砂嵐に飲まれて消えてしまっていた。
コルトは不安と一緒に唾を飲み込んだ。
――進もう、それしかない。
そして足を動かす。今は何も考えないようにした。
砂漠に点々と跡をつけながら黙々と歩いて行く。コルトを守る薄闇のドームはしっかりと付いて来てくれる。
ただし、徐々にドームの力が弱まっているとは明らかだった。進めば進むほど、闇が薄れて反比例的に体感気温が増してきている。あたかも夜が明けるようだが、まったく嬉しくなかった。
暑くなると共に焦燥感が煽られる。不慣れな足もとで疲れがたまるのも早く、膝が笑い始めていた。だが行けども行けども砂で、ちょっと腰をおろして休める場所すらもない。
無理矢理心を無にしながら、コルトは歩き続けた。限界を超えてでも歩かなければならない。それしかできないし、それしか救われる道はない。
そんな中、不意に低いブウンという音が耳をついた。不自然な風の音とも、虫の羽音ともつかない、コルトの記憶に無い音だった。それが聞こえた方、空の上を見あげる。
「あれって、昔の世界に居た……」
鉄の鳥。ラフィスの記憶やシャヤクが見せた過去の世界で飛んでいた、生物ではなくカラクリの鳥。それが二羽、頭の上の空を飛んでいるのだ。自分が立つ現実の世界で。ならばここは――。
「ッあぁッ!」
鳥を見あげていたらコルトを守っていた魔法が完全に切れ、刹那、太陽の光が顔面を刺したのだ。コルトはたまらず頭を垂れた。
だが、もはや立っているだけでも上から下から容赦のない熱が襲って来る。トルル近辺で感じた強い日差しの比ではない、みるみるうちに体が沸騰しそうになっていた。体にこもった熱を逃がそうとジャケットを脱げば、今度は肌を刺すような日差しから守るものが無くなって、全身を火で炙られているようなヒリヒリとした痛みを感じる。
このままでは死ぬ。水だ、水と日陰が必要だ。コルトは犬のように熱を込めた息を荒く吐き出しながら、必死で足を動かした。
だが、体は長くもたなかった。ぐらりと強い目眩と共に足の力が抜け、そのまま倒れた。柔らかい砂にコルトは熱く抱き留められ、そのまま立てなくなった。
這いずってでも進まなければいけない、前に進まなければいけない、気持ちのままに手を伸ばしても砂をかくだけで、体を引っ張る力は残っていなかった。
視界にカラフルな靄がかかったようになったところで、近くに鉄の鳥が二羽とも降りて来た。はっきりとした輪郭はわからないが、近くで見ると思った以上に大きく、そして背中に人を乗せていたことがわかった。二羽のそれぞれから一人ずつ降りて来た、ゆらめく人型のシルエットがコルトへ接近してくる。
「生きてるか!? 生きているな! 耐えろ!」
「外側の子供がどうしてこんなところに?」
「話は後だ。おいで、ベースへ行こう」
声はコルトの心に沁みて、少しの安心を呼び起こした。未知の彼らの言葉がわかること、自分が独りぼっちではないこと、それがわかったから。
コルトは自分を抱きかかえる腕に縋り付いた。気持ちの上で、だ。実際に体が付いて来たのかどうか、朦朧とする意識で自覚はなかった。
それと、知らせなければいけない。一人で困っているのは自分だけじゃない、助けが必要なのはもう一人いる。彼女もこの砂漠のどこかで、一人ぼっちで居るはずだ。
「ラフ――ど、こ……近、に」
少しの間、二人の救助者はごにょごにょと話し合っていた。それからコルトにもわかる言葉が届いた。
「ここがラザトだ。大丈夫。話は後で聞く」
大丈夫、ダイジョウブと繰り返され、コルトの気が少し緩んだ。その緩みでギリギリで耐えていた意識が飛んでしまった。
気絶する直前に覚えのある地名が聞こえたこと、思いがけず目的地だった西の果ての国に立っていることをコルトが知るのはもうしばらく後、眠りから覚めた時となる。
(第六章 狭間の館と超越者の系譜 終)




