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エピローグ・イン・ミョノフ

 精霊の泉に響いていた笛の音曲が終わりを迎えた。


 腰掛けにちょうどよい高さの岩を椅子としていた奏者――マオは、笛を膝の上へおろし、泉を眺めて息をついた。


 静かに水を湛える泉だ。耳をそばだてても、誰かが語りかけてくる声なんて聞こえてこない。マオも精霊への信仰は持っているが、話し声は一度も聞いたことが無かった。幽明の民には本当に精霊の言葉が聞こえていたのだろうか。今はもう、確かめる術がない。


 マオにとって精霊とは見聞きするものではなく、全身で感じるものであった。世界に漂う目に見えない気――人によっては魔力とか生命力と言い表すエネルギーとして。そういう意味では、確かにこの場所は強い精霊の存在する場所だ。


 この世界を循環する大きなエネルギーの川がある。それは一本ではなく複数あり、それぞれが流れ、うねり、時には交わりながら、世界中を巡り巡っている。そして大きなエネルギー同士が衝突するような場所では、神秘的な力が働きやすい。この精霊の泉は、まさにエネルギーの大河が淀みやすい場所だったのだ。


 渦巻く力を第六感で感じ取り、偉大なる存在の証だと崇め奉る人々が集まる、よくある話だ。理由なく人が引き寄せられ、摂理が狂ったような不可思議な事が起こる、それもままある話である。負の連鎖でエネルギーの川がねじ曲がったり、滞ったりするのも、それと知る者には理解できる話であった。だからマオは師から任務を与えられた時、さほど深刻にはとらえていなかった。師匠自体がそう説明してくれたのもある。


 想定外だったのは、滞留する死者の念の強さと数、そして統率するものが居たこと。決して信仰を軽んじていたわけではないが、振り返ると確実に油断していた。どれだけ群れようと所詮は死者だ、精神への侵入や魔法的な攻撃を仕掛けてこようが、物理的な干渉はできまい。つまりこちらの武器の笛を奪うことはできないから、心を挫かれなければ負けるはずない、と。


 そして結果があのざまだ。薬の葉を巻いた指を見つめながら自省する。自ら肉体的な痛みを与え自己の生を実感しなければ、あやふやになった意識のまま、亡者の群へ取りこまれていただろう。


――一人でなくてよかった。


 もしも任務をこなす順序が違っていたら。考えると今でもぞっとする。トパゾに殴り飛ばされた時点で頭は真っ白だった、あのまま泉へ引きずり込まれて終わりだっただろう。三対一で、しかも向こうがコルトのことを妙に気に入っていたから救われたようなものだ。


 そうだ、一番想定外だったのはコルトの心の強さだ。はじめ彼がトパゾに魅入られた時は焦った、魔法に対する心得も知識すらも無い無防備な身だ、簡単に飲みこまれてしまう、と。だが、たった十二歳の少年とは思いがたい芯の座り方をコルトは見せた。そのままと彼の何倍もの時間をかけて醸成された思念を真っ向から受け止めて、しかも改心させて送り出してしまうなんて。守るべき人が居ると子供でもこうなるのか、それとも心を鍛えた良い親ないし師匠筋が居たのか、わからないが。


 マオはきらめく水面を眺め、ややして目を伏せた。出立前に師と話したことも含めて、色々と考える。そして思うに。


「お師様が試したかったのは、本当は、わたしの方なのではありませんか」


 ひとりごちて、ふう、とため息をはいた。才能を認められ、尊敬する師の片腕になれるよう研鑽を詰んできたつもりだった。それでもまだ未熟者であると思い知らされた。油断すれば簡単に命を落とすし、師にも、簡単に命を落としたって構わないレベルだとしか認められていないのだろう。厳しいものだ。


 物思いに沈むマオの耳に、蹄の音が飛び込んで来た。びっくりして見れば、紛うことなき自分の愛馬が林から出でてこちらへ歩んできていた。実は霧の中で姿を消した時点で、幽明の民によって命を奪われたものと思っていた。暴れたら折れるような枯れ木に繋いでおいたのが、効を奏したようだ。


 マオは膝の上の笛が落ちるのも気にせず転げるように立ち上がると、愛馬のもとへ駆け寄った。腐っても遊牧民なのだ、馬は大事で愛おしい存在。生きて再会できた喜びは、人に対するそれとなんら変わらない。正面から抱き、頬を寄せる。


「ああ、よく戻ってきましたね、無事でよかった。えらいえらい」

『無事を喜ぶくらいなら、最初から離れた場所に繋いでおくべきだったろうが』

「ひょえっ!?」


 マオは驚きおののき尻餅をついた。腐っても遊牧民で小さなころから馬と共に暮らしてきたが、会話をしたこと、声が聞こえて来たことなんて一度もない。


 魂を抜かれたようになっているマオを見おろして、なおも馬が語りかけて来る。


『かわいそうになあ、悪い霊に怯えきって山の中を逃げまどってなあ、怪我までしてんだぞ』


 よく聞くと、声は頭の中に直接響いてくるものだった。それに、よく知っている声だった。どっしりと貫禄のある話し方も思いあたる。


「お、おぉ、お師様ぁっ!? 獣に入るのはご法度なのでは!?」

『愛弟子の緊急事態だからな。二度とやらん』


 ぶるると馬が笑った。一度気づいてしまえば、顔つきまで違って見える。こんなに悪そうな顔の馬ではなかった。


 マオは地面に腰を据えたまま、座る姿勢を正した。萎縮して小さくなり、おずおずと師匠のことを見上げる。


「あのう、お師様。わたしは試されたのですか。もし、わたしがあのまま霊に食われて――」

『長くなる話は戻ってからだ。おれをこのまま留めておけば、おまえの馬が死ぬぞ。一つの体に魂は一つ、大原則だ』

「はっ、はい! すいません!」

『使命を果たしたのなら早く戻って来い。おれは先に帰っている。言うことは以上だ。じゃあな』


 途端に馬の顔つきが見慣れた優しいものに戻った。


「……あっ、怪我って!」


 急いで愛馬の体を確認すると、後ろ足を擦りむいていることがわかった。だがきちんと四本足で立っているし、師匠の意識に頼らずとも歩けている。とにかく折れていないなら良し。マオは安堵の息をついた。


 自分の指の消毒にも使った薬草の葉を摘み取ると、よく揉んで馬の傷口に塗りこめた。少し痛がるから、胴をなでてなだめながら。


「ごめんなさい、わたしが至らないばかりに。帰ったら、もう少しきちんと手当てしましょう」


 今すぐ帰ろう、師と同胞が待つ場所へ。考え込むなんて後でいい、見放されていないことがわかっただけでも今は十分だ。


 マオは落としていた笛を拾うと、馬を引いて泉のほとりへ向かった。水際も際、靴先が水面に触れるかどうかまで迫る。


 そしてマオは笛を吹いた。楽譜にして二小節の短いフレーズだ。


 するとそよ風にさざ波を立てていた泉が、一瞬にして水鏡へと変貌した。なおかつ水面が映す木々や雲の像は、時を止めたように固まっている。


 マオは立ったまま水面に向かって呼びかけた。


「わたしです、マオです。お師様から与えられた二つの使命を果たし、館へ帰還します。門を開いてください」


 答えるように鏡像が歪み、泉は一面灰色の雲に覆われた。その雲の一部がマオの真正面にせり上がり、アーチとなる。中は霧で満たされていて、アーチをくぐった向こうになにがあるか、此岸からうかがい知ることは不可能だ。


 もしこの場にコルトが居たなら、何が起こったのかと興奮して聞いてきただろう。正確に答えるなら、ぶつかる気脈のエネルギーを利用して空間の道理を捻じ曲げ、かつ行先にいる同胞にも協力してもらい、空間を超越する道を通した、と。でもそんな言い方をすればコルトは言っただろう、「また全然わからないことばっかり言って」とかなんとか。


 ――要するに、異次元へ飛ぶ門を引っ張り出したのですよ。なんて、簡単に言っても、今度はわかってもらえないかもしれませんね。


 静かに笑みをたたえたまま、最後にもう一度周りを確認する。幽明の民は一人も残っていない。ほとんどが気脈の循環に同化して、まだ個として残留していた思念は、輪廻を司る使徒がどうにかするだろう。そして、生きた人もここにおらず、きちんと西へ向かった。使命は果たした――二つとも。


 マオは師匠から二つの使命を与えられていた。一つはここミョノフに滞る悪霊を散らして、狂った気脈の流れを正常化させること。


 そしてもう一つ。あの二人――コルトとラフィスに接触し、それとなく実力と素質を試したうえで、西へ来るよう仕向けること。実際はマオが仕向けるまでもなく西へ向かっていたのだが、それはともかくとして。


「それではコルト君、ラフィスさん。お先に西の地で、お師様と一緒に待っていますね。また会う日を楽しみにして」


 この素直な思念は、世界を巡る気に乗って彼らに届くだろうか。そんなことを重いながら、マオは馬を引いてアーチをくぐった。マオの姿が向こう側の霧に隠れると、一瞬にして泉の姿は元に戻った。


 そしてミョノフには誰も居なくなった。


 かつては幽明の民が暮らし、今は枯れ木と枯草に覆われた集落も、すぐに正しい自然の循環に飲まれて緑の山に還るだろう。精霊の泉も同じだ、誰もそうと呼ばなくなり、これからはただの泉として山の一部であり続けるだろう。また勝手な信仰に囚われた者が現れない限り、ずっと穏やかに。

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