一時の安息 1
長い夜が明け、陽が天高く昇りきった頃、コルトたちはようやく山のふもとにたどり着いた。普通より倍以上の時間がかかったが、原因は色々だ。主な移動が夜間であったこと、明るくなってからはたびたび休憩をはさんでいたこと、周りに注意しながら歩いているとどうしても進みが遅くなること。極めつけは、途中で崖に阻まれ山道沿いの最短ルートを進めなくなってしまったことだ。かなりの大回りを強いられたし、正規の道から離れて不安でもあった。そう思えば、迷子にならずにたどり着けただけで御の字だ。
熊の一件以降、コルトにもラフィスにも大事は起こらなかったし、起こさなかった。ラフィスが熊を一撃で屠った異能の力を再度見せてくれることもなく、普通に歩いて山を進むだけであった。ただ、山に慣れているコルトでも途中で辛くなった道のりを、彼女は顔色一つ変えず、ペースはぴたと合わせ、なんら危なげなく踏破した。むしろ疲れをあらわにするコルトを気遣う素振りすらあった。同じ年頃の女の子なのに気力も体力も圧倒的に上、このあたりで人間離れしたものを感じた。
なにはともあれ、無事にサムディの町までたどり着いた。コルトは平らになった地面に立ち息を整えながら、木立の合間より、目の前に開けた風景を清々しい気持ちで眺めていた。
すぐ前方には農地が広がっている。青々とした麦畑、こんもりと茂る豆畑、ところどころに作られたため池には鴨が浮かび、草地では山羊が草をはんでいる。ウィラの村にある畑をすべて合わせても全然及ばない広さだ。
農地の向こうに行くほど建物の密度が高まる。そちらがサムディの町の中心だ。家屋がずらりとならんでいて、ウィラの教会より立派なお屋敷もある。遠くからでも目立つ鐘塔は、この町の教会の屋根でもある。広い町でたくさんの人がいるから、大きく目立つ鐘で無いと役にたたないのだとか。とにかく村育ちのコルトから見れば、凄まじい大きさの町だ。しかしサムディの人たちは、「小さな町だよ」と自称する。
「コルト……」
背後からラフィスの不安げな声が届いた。振り向けば、憂いを顔に浮かべて、木陰に隠れながら前方の町を見ている姿があった。
「シーア、ユレンテ?」
町を指さしながら尋ねてくる。あそこへ行くのか、そういった意味だろうか。
コルトは首を横に振った。今のところサムディの中心部へ向かうつもりはない。頼ろうとしているゼム爺さんは町のはずれ、山の近くに住んでいるからだ。
それに、サムディの人々がラフィスに対してどんな反応を見せるかもわからない。そういう意味でも、人の多い町の中心部に近づくのは避けたかった。
青空の下ではラフィスの姿は目立つ。磨かれた金の腕が、脚が、太陽の光を反射してピカピカと輝くから。町を目指さずとも、このまま林から出れば、農地にて作業をしている人々に見つかる可能性は高い。
山裾に沿って、木々の間に隠れながらゼム爺さんの居住まいまで近付こう。コルトはそう決めると、身振りでラフィスを先導しながら歩みを再開した。
少し進むと、林のほど近くに山小屋のような小さな家が見えた。あれがゼム爺さんの住まいである。他の農家からも離れていて、どことなく厭世的な空気を漂わせている。
コルトたちは林をつたって家に近づいた。
ゼム爺さんはちょうど山羊の世話をしているところで、外に出ていた。久しぶりに見る翁は、髪も髭も真っ白で顔もしわくちゃでこそあるが、足腰は今も頑健であるようだ。修道士が着る装飾の無い黒い服を纏っている。教会とは縁を切ったものの、神への信仰まで捨てたわけではないのだ。
ゼム爺さんはまだ林の中に居るコルトたちに気づいていない。なおかつ、近くに他の誰かが居る様子もない。
「よし、ラフィス、ちょっとここで待ってて」
体の前で両手を立て、制止の意を見せる。ラフィスはきょとんとしながら、おずおずと頷いた。数歩進んで、もう一度振り向いても付いて来ていない。しっかりと意図は伝わったようだ。念のためもう一度「待て」のジェスチャーを見せてから、コルトは一人で林を抜け出た。
「おーい、ゼム爺さーん!」
大声で呼びながら走っていくと、ゼム爺さんも気づいてこちらを振り向いた。はじめは何が来たかと怪訝な顔をしていた。が、少年が目の前に来る頃には破顔していた。
「おおコルト君か! 大きくなったなあ、一人でここまで降りてきたのか」
はじめはおおらかに笑っていたが、息を切らせるコルトが疲れ切った深刻な顔をしているのを見て取ると、さっと真面目な表情になった。
「大丈夫か。何ぞあったのか」
「助けてください。村の人に、追われているんです」
「なにっ!? 一体どうしてそんなことに。とりあえず家に入ろう、さあ――」
「待ってください。僕、一人じゃないんです。あの子も、ラフィスも一緒に、いいですか?」
そう言ってコルトは林の方を指さした。遠巻きながらも、木立の隙間にラフィスの姿ははっきり見えた。金色の腕足も、背中から生える鉄骨の翼も。
半人半機の異形の娘。ゼム爺さんもウィラの村人同様、驚きの色を隠さなかった。しかしすぐに冷静な面になり、コルトに向き直る。
「急いで連れてきなさい。ここには人もほとんど来ないから、人目につく可能性も低かろう。それよりも、コルト君、林の中に女の子一人置いてきてはいけないよ。次はもうやらないようにな」
それは優しい声音だった。コルトは自分の体がポッと温かくなるのを感じた。自然と頬も緩む。
ゼム爺さんはじゃれついてきた山羊をいなしてから、先んじて自分の家に向かった。慌てている素振りはなく、悠々とした歩みだった。
コルトは早速ラフィスを迎えに行くと、彼女の手を引き、ゼム爺さんの後に続いて家に入った。
木造の小さな家の中は、大人が一人で暮らすのに必要最低限の物だけがある質素な様相であった。小型の暖炉があり、その前に小さなテーブルがあり、少しの食器やその他雑貨が収められた棚が一つある。パーティションで仕切られた奥に、ベッドと、神に祈りを捧げるための簡易的な祭壇があるのが見える。広さは外から見たときの三分の二ほどしかない。壁でしきった残りは、外から入る山羊小屋兼農具置き場となっているためだ。
ゼム爺さんは二脚しかない椅子にコルトとラフィスを座らせると、
「腹が空いているだろう、こんなものしか用意できないが、食べなさい」
と、山羊のミルクとパンと蜂蜜とを出してくれた。山の中で口にしたものと言えば、野イチゴを少しつまんだのと、沢で水をすすったくらい。まともな食事は昨夕以来だ。もちろんお腹はぺこぺこ、コルトはありがたく食事に飛びついた。ラフィスもペコリと頭を下げてから、おいしそうに食べ始める。
そうしながら、ゼム爺さんにこれまでの経緯を説明した。信じてくれないかもしれないけれど、というコルトの前置きをゼム爺さんは否定して、適度に相槌を打ちつつ親身になって聞いてくれた。ラフィスが時忘れの箱庭と呼ばれる異空間からやってきた神代を知る少女であることも、きっとそうだろうと無条件に肯定してくれた。
しかし彼女がエスドアに連なる者で、この世に破滅をもたらすかもしれないとの推測を聞いた時は、肯定も否定もせず深く考え込んでいた。そして村の大人たち、特にイズ司祭がラフィスを悪と決めつけて捕えようとしたことには、強い憤りを示した。
最後、コルトは自分の不安を吐露するようにこう締めくくった。
「……ゼム爺さん、僕がしたことは正しかったんでしょうか」
ゼム爺さんはゆっくりと頷いた。それだけでコルトは救われた気持ちになった。肩の力も抜けて、思わず空の食器の前に突っ伏す格好になった。
そんなコルトにゼム爺さんは静かに説いた。
「イズの言うことにも一理ある。が、一つの推測でしかない。疑わしいだけの段階で断罪してしてしまっては、真実が明らかになることもないだろうに。無条件で人を断罪してよいのは、我らが絶対の主、ルクノール様のみ。この件は、自らが神と同格になったつもりでいる、今の教会の傲慢さの表れだ」
細められた目の奥には、静かな怒りの炎が燃えていた。昨日今日が起こりというわけでなく、かねてより胸中に抱いていたのだろう。深い遺恨により、見る者にぞくりとしたものを覚えさせる目つきだった。
「そもそも黙示録を理由にすることが間違っている。あれは人によって解釈が揺れるもの。多くは預言であるとするが、過去に起こった事実の記録でしかないと言う者も少なからず居る。教会の中にもな。ことによっては、あれは偽書、つまり神の啓示でもなんでもないと主張する者すら居るのだ」
「ゼム爺さんはどう思う?」
「肯定も否定もせんよ。真実がどうであれ、神の子としてやることは変わらない。神の教えに従い日々暮らし、祈りを捧げるのみだ」
ゼム爺さんはごくわずかに口角をあげて答えた。そして、ラフィスの方を見ながら続けた。
「ラフィスさんが何者であるのか、どうして今の時代に送り込まれたのか。それも神のみぞ知ることだ。本当に破壊の使徒かもしれないし、ただの亜人かもしれない。ただわたしには、今すぐにどうこうしなければならないものだとは思えん」
「僕も、そう思います」
「うむ。だからコルト君、今はきみが思う通りにしなさい。それが正しいことだ。もしもその結果悪いことになったとしても、それが神の定めた運命、誰の力でも及ばぬこと。そう思えば、幾分気が楽になるだろう?」
「はい!」
コルトは晴れやかな気持ちで答えた。自分が間違っていないと、尊敬する人から太鼓判を押された。ラフィスに対して楽観的な見方をしてくれた。自責の念でつぶされないよう逃げ道を作ってくれた。だから、心の中にあった雲がすべて吹き飛んだ。
コルトの表情が明るくなったのを見て取り、ゼム爺さんは鷹揚に笑った。
「コルト君。行くあてがないのなら、とりあえずはうちに居なさい。ここには町の人間もほとんど来ない、ほとぼりが冷めるまで隠れていられるだろう」
「あ、ありがとうございます!」
ゼム爺さんを頼ってよかった。コルトは万感の思いがこもった笑顔を浮かべて、バッとラフィスの方を振り向いた。
「やったよラフィス。ゼム爺さん、助けてくれるって」
その言葉が通じたわけではないだろう。単にコルトの笑顔につられたか、はたまた空気感を読み取ってか、ラフィスもニッと笑った。屈託のない、かつ優しい笑顔だった。
はっはっは、とゼム爺さんの笑い声が小さな家の中に響いた。
「しかしまあ、驚いたよ。ちびで泣き虫だったコルト君が、まさかこんな大胆なことをしでかすようになるなんて。しかも、こんなにかわいい子の手をきちんと引いて、なあ。立派な男になったものだ」
途端、コルトはきゅっとむずがゆさを覚えた。からかわれたわけでなく、純粋に褒めてくれたのだろうけど、それが逆にこそばゆく、ほんのりと顔も赤くなる。
それと。
――ちびで、泣き虫……。確かに、そうだったけど……。
恥ずかしさを胸に、ちらとラフィスの様子を伺う。彼女はすました顔で、わからないなりにも話に耳を傾けているようだ。
言葉が通じなくて本当によかった。コルトは今に限り、そう思ったのだった。




