第一章
たとえば殺したいほど憎い相手がいたとして、どれだけの人間が理性という概念を忘れて行動に移すことができるのだろう。逆にどれだけの人間が腹の中を黒く染めながら、唇を噛んで日々を耐えているのだろう。
法律とは人間を縛り、人間を腐らせるためにあるのか。それとも憎悪に犯された化け物を生み出すためにあるのか。否、彼女は法律を責めているわけではない。欠陥だらけの人間が掲げた言葉に嫌悪感を抱いているのだ。嗚呼、そういう言い方をしてしまえば法律も悪になってしまう。けれど、誰かを責めたいわけではない。誰かを憎みたいわけでもないのだ。ここで彼女の意見に矛盾が生じてしまう。誰かを責めながら、誰も責めたくないと唇を噛んで日々を送る。誰かを憎みながら、誰も憎みたくないと嘆いている。
彼女自身、この感情の遣る瀬無さにほとほと困りきっているのだ。けれど、こればかりはどうしようもない。前述した通り、人間は欠陥だらけなのだ。それを認めて初めて、この物語の主人公は本来の彼女に成れるのだ。
「遠田さん、また昔の事件なんて調べているんですか?」
散らかりきった机の上で、冷めたコーヒーを啜っていると後輩である小江田雅也が眉を顰めて声を掛けてくる。
「また」という言葉に多少の毒を感じたのは、きっと気のせいではないだろう。と、言葉を受けた遠田彰夫は怪訝そうな表情の後輩から手元の資料に視線を落とした。
彼が言わんとしていることは彰夫も解かってはいるのだ。
今更、昔の事件なんて調べなおしたところで警察にとって有益な情報があるとは限らない。寧ろ、手元に広がった事件資料の中には逆が多いだろう。それでも彰夫には調べずにはいられなかったのだ。
「調べるのはいいですけど、もうすぐ例の彼女きますよ」
小江田は手元の資料に釘付けになった彰夫に呆れて受付けにでも行ったのだろう。
腕時計を確認すると『例の彼女』との約束まで、まだ少し時間がある。扉の閉まる音とともに訪れた静寂の中で、ようやく事件の資料を頭の中で整理できる。
決して、彰夫が小江田を邪険にしていたわけではない。ただ彰夫の偏見だらけの未熟な推理を聞かせるのは良くないだろうと彼なりに気を利かせたつもりだったのだ。
今回の事件の被害者は野々村真莉亜(22歳)キャバクラ嬢だ。真夏日に冷房と暖房を間違えた為に熱中症になり亡くなっていたようだ。
つい数日前に野々村真莉亜の家族より通報があり、事件と事故、それから自殺での捜査が行われているところだ。しかし「捜査が行われている」とは言っても警察上層部は事故の方面でしか捜査を進めてはいないのだろう。故に現在、彰夫が見下ろしている事件たちは「事故」と断定され捜査が打ち切られているのだ。彰夫にはどうしてもそれが納得できなかった。刑事の勘と言ってしまえば聞こえは良いが、ただそれだけではなかった。すべての事件が繋がっていれば良い。そうすれば非現実的で面白い。そう考えて興奮を覚えてしまうのだ。けれど、実際に彰夫の願い通り、面白い事件など起きたことはなかった。いつも日常で終わってしまうのだ。だからこそ、彰夫は今回の事件を深く考えたかったのだ。
彰夫の考える筋書きでは、始まりの事件は6年前。市濱廣瀬・当時16歳だった女子高生が自転車事故を起こしたところまで遡る。
下校中、校門前の下り坂を自転車で走行していた際の事故だ。一見、不注意かと思われそうだが、明らかに「事故」ではない点があった。これは公には出回らなかったことだが、彼女の自転車のブレーキが何者かによって壊されていたのだ。
当時、警察も「事件」であると断定して捜査を進めようとしたが、被害者である市濱廣世から「大事にしないでほしい」との申し出があったために「事故」として処理したようだった。つまり、始まりの事故は既に「事件」だったというわけだ。
その一年後に自転車事故の起きた高校の教師・久隅弥生が自殺している。自宅での首吊りだったので捜査も短かったようだが、体内より覚せい剤の成分が検出されたこともあり、当時は自殺よりもそちらの捜査の方に力を入れていたようだ。それ故に久隅弥生の事件は闇に消えてしまったのだ。
結局、久隅弥生がどこから覚せい剤を入手していたのかも分からず仕舞いにこの事件は幕を閉じた。それに加え不可解なのは久隅弥生の身体には注射痕がなかったことだ。もしかしたら、第三者が久隅弥生に覚せい剤を飲ませていたのではないか。彰夫には誰かが裏で糸を引いているのではないかと考えずにはいられなかった。
それにどちらの事件も同じ高校・県立箕川高等学校が舞台で、更に久隅弥生は2年連続で市濱廣世のクラスの副担任であった。この2つの事件が繋がっていないわけがない。それに事件はこれだけではない。今回、起きた事件も6年前の事件と繋がる。
被害者・野々村真莉亜は「県立箕川高等学校」を中退しているのだ。つまり、最初の被害者・市濱廣世と同じ学校の同じ学年に在籍していたということになる。
この三つの事件が繋がっていないなど、奇跡以外の何物でもない。そして、今回の事件を含め全ての事件の重要な参考人として、「例の彼女」が呼ばれているのだ。
学生の頃は家に帰るのが億劫だった。暗く寒い家に独り帰ることが寂しくて嫌だったのだ。けれど、学生が故に他に行く充などなくて仕方なく帰宅していたような記憶がある。否、それは今も同じだ。
独り暮らしを始めれば何かが変わると思ったが、心は冷めたままで変わらない。「ただいま」に続く言葉は相変わらず返ってこない。誰も彼女の胸の内を訊きはしない。
気付けばいつも独りになっていた。
血の繋がりを家族と呼ぶのであれば存在はしたが、心の繋がりを家族と呼ぶのであれば、彼女には家族が存在しなかった。それほどまでに彼女は自身を孤独だと思い込んでいたのだ。
それは幼少期を寂しく過ごしたためか、成長とともに周りとの違いに疎外感を覚えたためかは分からない。けれど、彼女は自身に傷を付けるまでに追い込まれていたのだった。その悲鳴を傷口にぶつけ、その傷口から返事だと言わんばかりに赤い液体と痛みが走る。以前までの彼女は、それで安心ができたのだ。しかし、今の彼女には、それだけでは足りなくなっていた。
いつも他人を羨む自分が醜くて、誰かを嫉む自分が気持ち悪かった。こうして、「苑田秋央」というひとりの化け物が出来上がってしまったのだ。
「コーヒーでも淹れましょうか」
受付けから呼ばれ「例の彼女・苑田秋央」と初対面してから数分経ったが、依然として話が進まない。というよりは、どう話を切り出していいのか悩んでいると小江田が珍しく気を利かせて声を上げた。
おそらくは小江田のタイプの女性なのだ。肩まで伸びた髪は綺麗に切り揃えられており、前髪も眉下で切り揃えられている。そのためか、実年齢よりも遥かに幼さを感じてしまい発言に気を使ってしまう。
小江田は普段通りにコーヒーを淹れながら、彰夫に目配せして見せた。これは、彰夫に「早く話を切り出せ」と言っているのだろう。まさか、彰夫が彼女を疑っているなど微塵も思っていないのだろう。斯く言う彰夫も「彼女が犯人だったら面白い」と考えているだけで確証などないのだ。
そうこう考えていると小江田がコーヒーを彼女と彰夫の前に置いた。依然、口は噤んだままだったが、会釈と同時にコーヒーを受け取った苑田秋央が口を開いた。
「私、野々村さんのことで呼ばれたんですよね」
いきなりの質問に小江田は肩が跳ね、彰夫も表情が固まった。
彼女からしてみればそうだろう。野々村真莉亜が数日前に亡くなっていることは知っているだろうし、そのことで同級生を数人呼び出していることも知っているはずだ。となれば、彼女も同じ理由で呼ばれていると推測ができる。けれど、一向に話し出さない彰夫と小江田に痺れを切らして、口を開いたのだ。彼女からすれば、当たり前の言葉を吐いたつもりだったが、彰夫の反応に意図を察したようだ。
彰夫は一瞬、躊躇したあとで頭の中で何度も練習した言葉を彼女へ向けた。
「野々村さんが亡くなった日のことを話して頂けますか」
重い声音だっただろうか。表情は上手く作れただろうか。その答えは彼女の表情を見ればすぐに分かった。
眉根に皺を寄せ奥歯を噛み締めたような表情。彰夫は彼女のその表情に高揚を抑えられなかった。
同窓会と称して、仲の良い同級生が招集されたのは八月も半ばに差し掛かった頃だった。特段、変わったことは何もない。ただ定期的にある同級生の集まりだ。
近況や仕事の鬱憤を吐くだけの食事会にすぎない。ただ暑さの増した真夏日に参加を承諾した自分には叱咤してやりたかった。しかし、当の食事会が始まってしまえば関係はない。冷房の効いた室内で、会話と食事を楽しむ。昔を懐かしむ会話もしながら、しばしの時間を楽しんで誰かの合図でお開きになった。これが誰の合図だったのか、誰がその声に返したのかは思い出せないが、彼女の気持ちとは裏腹に食事会は解散となってしまった。早々に去っていく友人たちの背中にまるで魔法が解けたかのような感覚が襲う。また独りの部屋に帰らなければいけない。急に静寂が訪れて、寂しさに手が震える。痛いくらいに胸が鳴る。
握り締めたこぶしが白くなるほど力を込めていたらしい。その事実が、己の恐怖心を映し出しているかのようで情けなくなる。けれど、他に行く充てなどないのだ。歳を取ったところで、それだけは変わらない。
仕方なく駐車場へ足を向けたところで見知った顔を見つけた。
本来であれば見なかったことにするだろう。何せ学生時代は好んでいなかった相手だ。寧ろ、嫌いな人物に分類されていただろう。けれど、それは叶わなかった。何故なら、目を逸らす前に彼女・野々村真莉亜と目が合ってしまったからだ。
「秋央じゃん、久しぶり!」
馴れ馴れしい呼び方に頬が引き攣りそうになる。けれど、面倒は避けたい。なるべく穏便に済ませようと口角を上げて、相手に合わせる。
「久しぶり、元気そうだね」
なるべく感情を押し殺した声に真莉亜は機嫌を良くしたのだろう。高いヒールで器用に歩き、秋央に近付いてきたかと思えば近況を延々と語りだす。秋央からしてみれば、高校時代は特別に仲が良かった相手ではない。そんな相手の近況に笑顔で受け流すだけの力量も精神力も今は持ち合わせていなかった。
「ねぇ、家まで車で送ろうか?」
申し出たのは秋央だった。
暗がりであれば笑顔を作る必要はないし、帰りながらであれば話に終わりが見える。真莉亜から、微かに匂う酒の香りからして家に帰るところだというのは容易に推測ができた。それ故の申し出に真莉亜は2つ返事で頷いた。
「ありがと!」
弾けるような笑顔だが、秋央からしてみれば不愉快なだけだ。
真莉亜が車に乗り込んだ途端に酒と香水の混じった独特な嫌な匂いが車内に充満して思わず嫌悪感が顔に出てしまったが、幸い真莉亜は気付いていないようだった。
目的地を訪ねて車を発進させても真莉亜の詰まらない近況報告と愚痴は続き、秋央はそれをただ相槌だけで返していた。そのためか、詰まらなくなったのだろう。真莉亜は乗車十数分で規則的な寝息を立て始めた。
正直、かなり迷惑だが隣で詰まらない話を延々と続けられるよりはましだろうと声を掛けずに目的地まで車を走らせた。しかし、目的地に無事に辿りつけても彼女を下ろさなければいけないのだ。秋央はそのことを完全に見落としていた。
「野々村さん、着いたよ」
身体を揺すって、真莉亜を夢の世界から引きずり出す。
別に早く帰りたいわけではないが、彼女と一緒にいる方が苦痛なのだ。運転席を降りて、助手席の扉を開ける。
「部屋まで送っていくから」
仕方なしに吐き出した言葉だった。手を差し出して、車を降りるように促すと真莉亜は大人しく従った。こちらが迷惑だという意図を汲み取ったのだろうか。
そんなはずはないと学生時代の彼女を思い浮かべて、自分の考えを否定した。
彼女がそれほど敏感であれば、学生時代に秋央を苦しめなかったはずだ。きっと真莉亜は忘れてしまっているのだろう。忘れているからこそ、旧友として声を掛けてきたのだろう。けれど、秋央には簡単に忘れることはできなかった。否、忘れる努力もしてはいなかったのだろうか。
高校2年生に上がったばかりでクラスに馴染めない秋央を更に追い詰めた張本人だ。それも無意識にしたことだろう。だが無意識が故に性質が悪いのだ。
真莉亜が寝ぼけ眼で車を降りたのを確認して、ふらつく彼女に肩を貸した。寝ぼけていても帰巣本能はあるのだろう。ゆったりとした足取りではあるが、しっかりと部屋へと向かっていく真莉亜に安堵する。
本当を言えば、もう二度とは会いたくないのだ。否、会いたくなかったというならば一度も会いたくなかったのだ。
学生時代にクラス全員の前で変な言いがかりをつけられて、反論さえも受け入れて貰えなかった。否定したところで「言い訳をするな」と怒鳴られる。けれど、全く身に覚えのないことなのだ。秋央がそれを認めるまで数人で咎めつけられて結局、折れて諦めた。そのために秋央はクラスでの居場所を更に失い精神的に追い詰められてしまったのだ。
きっと、このことを今更覚えているのは秋央くらいなのだろう。秋央が教室の真ん中で泣いていたことなど、もう誰も覚えていないのだろう。
悔しくて、下唇を強く噛み締めると肩口から真莉亜が声を出した。
「ここだよ」
車内で聞いていた声よりもしっかりとした口調だ。解錠し、部屋の中まで送り届けると真莉亜はベッドに腰掛けたままで秋央を見据えた。
「変わったよね、秋央」
母親にでもなったつもりか。優しい声音を上げた真莉亜を振り返ると、申し訳なさそうに微笑まれた。それは家まで送ってもらって申し訳ないという表情だろうか。それとも昔のことを少しでも悪びれているのだろうか。
一瞬の沈黙が流れたあとで、真莉亜がまた口を開こうとしたが背中を向けた。
「それじゃあ、帰るね」
微かに動いた唇は数度開閉を繰り返したが、諦めたようにまた綴じられた。背中で、空気の揺れる気配と音を感じながら秋央も短く息を吐いた。
「それじゃあ、またね」




