遠き春を願う
数年後、男の元に一枚の封筒が届く。
豪華な装丁のそれに、級友や部活仲間たちはみな沸き立ち、そして祝福した。
届けと同様に、式も相当豪勢なものであったようだが、街の知り合いは誰も招待されなかった。
薄情だなとうそぶく者もいたが、誰もが心の中では分かっていた。
名家へと貰われていった彼の立場が、決して優しいものではないことを。
彼の母親は、すでにこの街には住んでいなかった。
痴情のもつれの末、同棲していた男に刺されるという事件を起こしたのだ。
幸い命に別状はなかったものの、彼女は退院した後、逃げるように街から去って行った。
息子もいない今、共に暮らした場所に留まることに、複雑な思いもあったかもしれない。
彼女のその後の行方は、誰も知らない。
「ああ、送らなきゃ良かったな」
届けを片手に、男は一人ごちた。
彼の元へ送った葉書と、ちょうどすれ違いになってしまったかもしれない。
知らなかったこととはいえ、めでたい雰囲気の漂う家に、水を注すようなものを送ってしまった。
「今さら言っても、仕方ないか」
呟き、洗練された美しいデザインで飾られたカードを、くるりと表に返す。
そこには、若くして結ばれた新郎新婦の写真が、大きく映っていた。
良家の子女らしく、利発な顔立ちの美しく可憐な花嫁。
淡く上気した頬、控え目ながらも花の綻ぶような笑顔に、人々は幸せを見るだろう。
あの頃、自分が痛いほど望んでいた願いを、この女性が叶えるのだろうか。
彼との仲を神の御名のもとに誓い、認められ、そして結ばれた人として。
思わず、男は白く美しいカードから、視線を逸らしてしまっていた。
昔に口走った、幸せの反比例などという馬鹿げた言葉が、ふと頭に蘇る。
不遇に追い詰められながら、もしかするとこれでこの人は幸せになれるんじゃないかと、どこかで安心していた、若く愚かだった自分。
『神様。俺の分の幸せを、どうかこの人にあげてください』
そう、本気で願っていた。
聞き届けられるはずのない、滑稽なまでに馬鹿馬鹿しい願いを。
そんな切り与えられた幸せを、彼が望むはずもないのに。
思い出す、彼と過ごした時間を。
今よりももっと力がなくて、頭が悪くて、打たれ弱くて、――でも、ひたむきな、真っ直ぐな年頃だった。
くすりと苦く微笑んで、男は手にした結婚届けに、再び伊達眼鏡の奥の目を向けた。
新婦と並んで笑う新郎の写真を見て、男はやはりすぐに思い出せた。
「ほら、泣くことなんかないんだ」
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広々とした邸宅の一室で、男は届いたばかりの喪中葉書を片手に、物思いに沈んでいた。
彼によく似た美しい女性を思い出す。
街では評判の良くない自分を、心地良く整えられた家に、温かく迎え入れてくれた人だった。
優しそうで、美人で、気がきいて、理想の母親像の体現のように見えた。
幼い自分は何度、実母と比べては羨んだことだろう。
冥福を祈ると共に、想うのは残された彼のことだ。
破るから約束はしなかった。
許されないから影で手を繋いだ。
思い出になるから写真は撮らなかった。
では、自分にはいったいなにが残されたのだろう。
あの時間を失い、そして自分は代わりになにを得たのだろう。
ぐるりと広く手入れの行き届いた部屋を見渡す。
この豪華に設えられた書斎は、自分だけのものだ。
用向きは全て専任の秘書が言付かり、思いのままに果たされる。
財布の中には、学生時代には思いも寄らなかったほどの札束が詰まっている。
カード一枚で用意される、机の上に乗り切らないほど積み重なる札束。
今の男の手には、巨万の富と権力が握られている。
正しくお飾りの身だ、どこにだって行ける。
一般人では、一生あっても知ることのない場所へも、たやすく足を伸ばせるし、また止める者もいない。
男の行動を妨げることのできる立場の人間は、ほとんどと言って良いほど存在しないのだから。
欲しいものを得るための金も、誰かを守るための力も、望みを叶えるための自由も。
あの頃、痛いぐらい望んでいたもののほぼ全てを、男は手に入れていた。
だが、男の胸はひどく虚ろだった。
男はか細い吐息を漏らし、その震える手の平で額から下を覆った。
俯くと、整髪料で流していた長い前髪が乱れ、ぱらぱらと落ちかかってくる。
唇がたった一人を求め、動こうとした――そのときだった。
己を呼ぶ妻の声が、男の耳に届いた。
びくりと男の肩が跳ねる。
夫の姿を求め、鈴を転がすような音が次第に部屋へと近付いてくる。
明るく可愛らしく朗らかな、幸せの声音。
男はのろのろと顔を上げ、老人のように覇気のない足取りで書斎から出て行った。
部屋にはただ、音もなく孤独の澱が降り積もっていた。
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約束をしよう。
絶対に破りはしない。
大切に抱えて守り続ける約束をしよう。
そして、二人だけの優しい未来を作り上げてゆきたい。
手を繋ごう。
誰に見られたっていい。
思うまま子供のように触れ合おう。
なににも代えがたい温もりに、ひっそりと頬をゆるめて歩きたい。
写真を撮ろう。
たくさんの思い出が欲しい。
次々に素敵な思い出を作って、写真に納めてゆこう。
それを君と並んで眺めたいよ。
どこかに行こう。
日々の日常からちょっぴり抜け出し、しけた財布のはした金を握って、君と二人、どこへでも行こう。
今しかない時間を、声を上げて笑いながら、手に手をとって駆け抜けよう。
君といれば怖くない。
君がいなければ始まらない。
幸せは、君と等しく分け合いたい。
悲しみは、君と共に癒し合いたい。
君と一緒にいたい。
君と笑いたい。
「どこか行こうか」
今でも僕は、その言葉を待っている。




