表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

遠き春を願う

数年後、男の元に一枚の封筒が届く。

豪華な装丁のそれに、級友や部活仲間たちはみな沸き立ち、そして祝福した。

届けと同様に、式も相当豪勢なものであったようだが、街の知り合いは誰も招待されなかった。

薄情だなとうそぶく者もいたが、誰もが心の中では分かっていた。

名家へと貰われていった彼の立場が、決して優しいものではないことを。


彼の母親は、すでにこの街には住んでいなかった。

痴情のもつれの末、同棲していた男に刺されるという事件を起こしたのだ。

幸い命に別状はなかったものの、彼女は退院した後、逃げるように街から去って行った。

息子もいない今、共に暮らした場所に留まることに、複雑な思いもあったかもしれない。

彼女のその後の行方は、誰も知らない。




「ああ、送らなきゃ良かったな」


届けを片手に、男は一人ごちた。

彼の元へ送った葉書と、ちょうどすれ違いになってしまったかもしれない。

知らなかったこととはいえ、めでたい雰囲気の漂う家に、水を注すようなものを送ってしまった。


「今さら言っても、仕方ないか」


呟き、洗練された美しいデザインで飾られたカードを、くるりと表に返す。

そこには、若くして結ばれた新郎新婦の写真が、大きく映っていた。

良家の子女らしく、利発な顔立ちの美しく可憐な花嫁。

淡く上気した頬、控え目ながらも花の綻ぶような笑顔に、人々は幸せを見るだろう。

あの頃、自分が痛いほど望んでいた願いを、この女性が叶えるのだろうか。

彼との仲を神の御名のもとに誓い、認められ、そして結ばれた人として。


思わず、男は白く美しいカードから、視線を逸らしてしまっていた。

昔に口走った、幸せの反比例などという馬鹿げた言葉が、ふと頭に蘇る。

不遇に追い詰められながら、もしかするとこれでこの人は幸せになれるんじゃないかと、どこかで安心していた、若く愚かだった自分。


『神様。俺の分の幸せを、どうかこの人にあげてください』


そう、本気で願っていた。

聞き届けられるはずのない、滑稽なまでに馬鹿馬鹿しい願いを。

そんな切り与えられた幸せを、彼が望むはずもないのに。


思い出す、彼と過ごした時間を。

今よりももっと力がなくて、頭が悪くて、打たれ弱くて、――でも、ひたむきな、真っ直ぐな年頃だった。

くすりと苦く微笑んで、男は手にした結婚届けに、再び伊達眼鏡の奥の目を向けた。


新婦と並んで笑う新郎の写真を見て、男はやはりすぐに思い出せた。


「ほら、泣くことなんかないんだ」




-----




広々とした邸宅の一室で、男は届いたばかりの喪中葉書を片手に、物思いに沈んでいた。

彼によく似た美しい女性を思い出す。

街では評判の良くない自分を、心地良く整えられた家に、温かく迎え入れてくれた人だった。

優しそうで、美人で、気がきいて、理想の母親像の体現のように見えた。

幼い自分は何度、実母と比べては羨んだことだろう。

冥福を祈ると共に、想うのは残された彼のことだ。




破るから約束はしなかった。

許されないから影で手を繋いだ。

思い出になるから写真は撮らなかった。

では、自分にはいったいなにが残されたのだろう。

あの時間を失い、そして自分は代わりになにを得たのだろう。


ぐるりと広く手入れの行き届いた部屋を見渡す。

この豪華に設えられた書斎は、自分だけのものだ。

用向きは全て専任の秘書が言付かり、思いのままに果たされる。

財布の中には、学生時代には思いも寄らなかったほどの札束が詰まっている。

カード一枚で用意される、机の上に乗り切らないほど積み重なる札束。

今の男の手には、巨万の富と権力が握られている。

正しくお飾りの身だ、どこにだって行ける。

一般人では、一生あっても知ることのない場所へも、たやすく足を伸ばせるし、また止める者もいない。

男の行動を妨げることのできる立場の人間は、ほとんどと言って良いほど存在しないのだから。


欲しいものを得るための金も、誰かを守るための力も、望みを叶えるための自由も。

あの頃、痛いぐらい望んでいたもののほぼ全てを、男は手に入れていた。

だが、男の胸はひどく虚ろだった。




男はか細い吐息を漏らし、その震える手の平で額から下を覆った。

俯くと、整髪料で流していた長い前髪が乱れ、ぱらぱらと落ちかかってくる。

唇がたった一人を求め、動こうとした――そのときだった。


己を呼ぶ妻の声が、男の耳に届いた。

びくりと男の肩が跳ねる。

夫の姿を求め、鈴を転がすような音が次第に部屋へと近付いてくる。

明るく可愛らしく朗らかな、幸せの声音。


男はのろのろと顔を上げ、老人のように覇気のない足取りで書斎から出て行った。

部屋にはただ、音もなく孤独の澱が降り積もっていた。




-----




約束をしよう。


絶対に破りはしない。

大切に抱えて守り続ける約束をしよう。

そして、二人だけの優しい未来を作り上げてゆきたい。




手を繋ごう。


誰に見られたっていい。

思うまま子供のように触れ合おう。

なににも代えがたい温もりに、ひっそりと頬をゆるめて歩きたい。




写真を撮ろう。


たくさんの思い出が欲しい。

次々に素敵な思い出を作って、写真に納めてゆこう。

それを君と並んで眺めたいよ。




どこかに行こう。


日々の日常からちょっぴり抜け出し、しけた財布のはした金を握って、君と二人、どこへでも行こう。

今しかない時間を、声を上げて笑いながら、手に手をとって駆け抜けよう。

君といれば怖くない。

君がいなければ始まらない。


幸せは、君と等しく分け合いたい。

悲しみは、君と共に癒し合いたい。

君と一緒にいたい。

君と笑いたい。




「どこか行こうか」




今でも僕は、その言葉を待っている。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ