遅き冬に笑う
「よっ、久しぶり」
にひっ、と白い歯を見せて和久山は笑った。
マフラーに顎を埋め、赤くなった頬をゆるめている。
「……久しぶり」
驚いた古永は、少し間がたってから挨拶を返した。
コートの裾を揺らす北風が、過ぎた時間を教えていた。
何ヶ月ぶりの再会だろう。
同じ街にいたとは思えないくらいだった。
どちらも理由は違えど、しばらく学校に通っていなかったので、会う機会がまったくといってなかったのだ。
連絡を取ろうにも、和久山の家の電話線は切られてしまっていたし、古永の携帯はずいぶん前に解約していた。
電波を介した人と人の繋がりは、ときとしてあっけないほど簡単に途切れてしまう。
そして二人には、目を合わせて、手を繋いで、言葉を交わす――それだけの時間が、なかった。
冷たい街の片隅で出会ったのは、本当に偶然だった。
久々に見た顔を前に、どちらも少しぎこちなかった。
「元気だった?」
「うん。あんたは?」
「ちょー元気」
聞きたいことも、話したいことも、喉から溢れ出そうなぐらいある。
だが、口から飛び出す言葉は一つしかなかった。
「どこか行こうか」
「俺なあ、東京に行くよ」
「ふうん」
和久山の開口一番の言葉にも、古永は静かに頷いた。
予想していたことだ。
ふわふわと話しながら、色のない冬の街を二人で歩く。
「学校休んで、しばらく父親の家に行っていたんだ。本妻の人がいるから、母さんも一緒に行くことはできないけれど、父親からの援助で生活はだいぶ良くなると思う」
「そうなんだ……」
「母さんがさ、言うんだ。さっさと行けって。こんな家よりずっと良い暮らしさせてもらえるし、良い学校にも行かせてもらえる。自分は援助で楽に暮らせるし、俺がいなくなって清々するから、どちらにとっても損のない話だって」
そこまで言い募って、和久山は泣く寸前のように短く息を吐いた。
「でも違うんだ。あの人、言うんだよ」
「うん?」
「泥酔状態で帰ってきて、言うんだ。援助なんかいらないから、行くなって。俺と一緒にいたいって、泣くんだ」
「……和久山さん」
「あんなでろでろに酔っ払った状態で言われても、信じられるわけがない。母さんの言葉が本音かは分からない。でも。邪魔だとかいなくなれとか言われたり、殴られたりしたけど。俺も、あんなクソ女、さっさとくたばればいいとか思っていたけど」
「うん」
「なんでだろうな。――あの言葉で、そういうの全部、消えた感じだ。許せる気がした。俺も、許してもらえた気がした」
「そっか」
古永はただ頷くだけだったが、和久山は微笑んだ。
嬉しそうに。
「あんなババア、どうでも良いって思っていたけど、あの人はやっぱり俺の母親なんだなあ」
「そりゃそうだよ」
「うん、そうなんだな」
おかしそうに笑って、和久山はコートの襟首を立てた。
首に巻いたライトグリーンのマフラーが風にひらひらと踊り、たなびいた。
「お前がお袋さんを大事にして大事にされているのを見て、俺の家と比べて、正直クソ羨ましかった」
ひるがえる緑の帯を追いかけるように、古永は足を踏み出した。
「へえ、知らなかった」
「お前に言うわけねえし。でも、違った。比べることじゃなかった。たった一人でガキ育てるのがどれだけ大変なのか、俺はちゃんと見ていたよ。もっと大事にしてあげれば良かった。あんなに頑張ってくれた人を、俺は憎んだりもしたんだ。どうして俺を産みやがった、って。馬鹿だな」
「そうかもね。あんたはいつでも、良い意味でも悪い意味でも、真っ直ぐにしか進めない人だから」
「うん、馬鹿だった。――でもさ、これまでみたいなドン底の生活から、ようやくあの人を解放してやれるんだ。顔を腫らして帰ってくることも、自棄になって浴びるように酒を飲むこともなくなる。俺のせいで散々になっちゃった人生から、ようやく……」
「うん」
風に舞う緑のマフラーは、すぐ目の前にあるのに。
どうしてこうも遠く感じるのだろう、と古永は不思議に思った。
和久山がちょっとでも立ち止まってくれたら、いいのに。
そうしたら、すぐに捕まえてしまうのに。
この手に握って、離さないのに。
その緑が、自分の手の平に落ちてくる瞬間を、古永は笑ってしまうぐらい強く欲した。
「これで、俺もちょっとくらい、あの人の役に立てたことになるかな」
「さあね。結局、家を出ていく不良息子なのに変わりはないけど」
「あー、たしかに」
和久山は情けなさそうに眉を落とすけれど、その表情はどこか清々しい。
そして、歩む足を止めることもない。
「行くなって言われたけれど、でも、親父の元に行くよ。俺が母さんに寄りかかったままじゃ、また同じことの繰り返しだ」
「うん」
「自立したら、母さんを迎えに行こうと思う。それまでは辛抱だけど」
「辛いね」
「そうだな」
そうだな、ともう一度呟いて、和久山は笑った。
強い笑顔だった。
彼はやはり、どこまでも真っ直ぐな人なのだ。
あの日、突風みたいに線路を走り抜けた電車のように、手の届かない遠くの地上まで、力強く進んでゆくのだろう。
一本に伸びる緑に、手袋に包まれた手を無理に伸ばそうとして、古永は途中で止めた。
そして、ちょっと笑う。
真っ直ぐに前を向いた和久山が、その表情を見ることはなかった。
戻した手の平をコートのポケットの中に突っ込んでから、古永は柔らかく語りかける。
「ねえ、和久山さん。俺の話も聞いてくれる?」
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「俺ね、帳簿を初めて付けた。保険や法律も勉強した。洗濯や掃除も初めてしたよ。買い物も、けっこう難しいんだよな」
「ははっ、そうだな」
「和久山さんが、あんまり遊びに行かなかった理由も分かった。本当に忙しいんだね、家のことって。入院してる母さんの世話もあるから、俺なんか合間にバイトするだけで精一杯。俺、やったことなかったから知らなかったよ。なんにも」
両手をコートのポケットに突っ込んだまま、肩をすくめて古永は苦笑する。
バイトという言葉に、和久山の視線が、ダークグレイのコートの布地に隠された腕の先へと吸い寄せられた。
若く美しかった、白い手。
痛々しく傷ついた、幼い手。
今の彼の手は、どんな様子なのだろう。
いつでも冷たくかじかんでいた古永の手を思い、和久山は囁くように唇を動かした。
「お前は、それでよかったんだよ。なんにも知らないままで……」
俺と違って、綺麗な子供のままでよかったんだ。
その一言を、和久山は飲み込んだ。
つまりは、裕福で幸福な家庭に生まれた古永に、和久山は自分には叶わなかった夢をみていたのだろう。
古永には幼いまま、無垢なまま、なにも知らぬまま、生きてほしかった――。
和久山にとって、古永は眩しい理想そのものだったのだから。
悲しげに瞳を伏せる和久山を、古永は黙って見つめていた。
やがて穏やかな微笑みを浮かべ、言う。
「でも、なにも知らない俺は、なにも見ていなかったよ」
「え?」
「父さんは働いて家族を養って、母さんは家で家事をしているのが当然だと思っていた。真っ昼間から酒ばっか飲んで、現実逃避して働かない父さんのことを、人間のクズだと軽蔑していた。入院した母さんは可哀相だけど、でも面倒を押し付けられたようで、正直、すごく煩わしかった」
「古永……」
「ひどいでしょ。親不孝者なんてものじゃない。思いやりのかけらもない、自己中だよ、俺」
そんなことはないと首を振り、冷えた手をさすり温めることで、いつも和久山は古永の傷や痛みを慰めてきた。
だが、この瞬間はそうすることを許されなかった。
古永が、ポケットから手を出さないのだ。
まるで、もう和久山の救いは必要がないと、甘い癒しからの断絶を示すかのように。
柔らかな庇護を捨て、ぬるま湯の子供時代から、抜け出るように。
淡い微笑みを取り払い、古永は揺るぎのない光を伊達眼鏡の奥の瞳に宿らせた。
「でも、違うんだよな。父さんも母さんも、俺の両親なのと同時に、一人の人間なんだ。前に進むのが辛いことも、休んでいたいと思うことも、あってふつうなんだね。今はちょっと疲れてしまったけれど、俺のために今まで、頑張ってくれていたんだ」
「…………」
「それが分かって、すごく嬉しかった。ありがたかった。俺は、知ることができて、よかったって思うよ」
視線を真っ直ぐに据えて、噛み締めるように言葉を紡ぐ古永の手の平を、和久山は握りたかった。
ポケットに仕舞ったそれを、もう一度出してはくれないだろうか。
そうしたら、すぐにでも握ってしまうのに。
この手に包み込んでしまうのに。
古永がポケットから手を出す瞬間を、和久山は呆れるくらい熱心に待っていた。
「大人はすごいね。強いんだね。俺ももう、子供はやめるよ。色んなことをようやく知ったから。今度は俺が、父さんと母さんを守って、支えてあげたい」
「そっか」
「うん、俺が頑張る番だよ」
「偉いじゃん」
「ははっ」
くすぐったそうに唇をゆるめ、古永は微笑む。
無垢な笑顔だった。
彼は、大事に抱かれ、守られる立場には、もはやいない。
あの日、広く豊かに輝いていた美しい海のように、なにもかも穏やかに包み込むのだろう。
ポケットから、冷え性の手が出されることは、とうとうなかった。
和久山は、ちょっと笑った。
風にはためく緑のマフラーに気を取られた古永が、その表情に気付くことはなかった。
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どうしてか酷くひるがえるマフラーを押さえつけてから、和久山はにこやかな表情を古永に向ける。
「二人で、子供卒業だな」
「なにそれ」
「記念に写真でも取るか」
「嫌だよ。思い出になんかされたくない」
本当に嫌そうに顔をしかめて、古永が首を振る。
なんの歌であっただろうか。
写真に納められてしまうと、思い出にされてしまう。
だから写真に撮らないでほしい。
それよりも今、目の前にいる自分に触ってほしい。
子供のように幼くて、大人のように狡猾な願いだ。
まばらな人込みの中、二人は、ようやく立ち止まった。
風はやみ、マフラーがひるがえることはない。
冷えた手は、ポケットに突っ込まれたままだ。
冬の街には、色がない。
歩道の緑は枯れ、行き交う人々の服装も落ち着いた色合いが多い。
居並ぶショーウインドーの装飾も寂しげで、街には鮮やかさが欠けている。
どこに向かえば良いのか、ふと見失ってしまいそうだ。
だから、無色の世界に取り残された二人は、しばし呆然と佇んでいた。
長い時間の途中の、一瞬の奇跡。
枝分かれする未来。
唯一無二の正しい選択。
手繰り寄せた運命の瞬間に、そうと知らぬまま出会う。
――それは、どんなに果てしないことだろうか。
「いってらっしゃい。どうせ俺は、ずっとこの街にいると思うから」
「ああ」
「和久山さんが帰りたくなったときに、帰ってくればいい。俺は、おかえりなさいって言ってあげる」
「うん」
「ちょっとはあんたのことを忘れるかもしれないけど、顔を見たら、きっとすぐに思い出す。待っててはやらないけど、ずっとここにいるよ」
「うん……」
「だから、あんた」
「うん、うん」
「なんにも泣くことなんて、ないんだよ」




