冷たき秋を慕う
あるときは、古永が静かに囁いた。
「どこか行かないっスか」
和久山は少し考えてから、うん、と頷いた。
初めて誘いを断るかどうか迷った。
今の古永の家の状況を人づてに聞いていたからだ。
傷痕の残る唇、伊達眼鏡の奥の鈍い光を宿す古永の暗い瞳も、和久山を不安にさせた。
だが、ここで首を横に振ったら、彼が一人で行ってしまう気がした。
誰も知らない、遠い遠いどこかへ。
同時に財布を見せ合い、二人はげんなりと顔を歪めた。
「なんでそんなにしけってんの?」
「和久山さんだって……」
彼らの懐事情は、まさしく季節同様に木枯らしが吹きそうな惨憺たる有様だった。
まず、財布が薄い。
それもそのはず、万札どころか、紙幣さえ入っていないのだ。
ちゃりん、と寂しい音を鳴らす小銭さえ、心許ないほどに少ない。
「高校生が持つ金額か? 最近の小学生だって、もう少し持ってるぞ」
「あんたに言われたくない」
「あーあ、お前の金で豪華ないい旅ぶらり旅したかったのに」
ため息をついて後ろ頭に腕を組む和久山を、古永はじと目で睨んだ。
「俺はけっこう前に、ゲーム買うために貯めてた金、全部使われたんスけど」
「それを言うならお前、この前は俺だけ万札が飛んだんだぞ」
「お互い様」
不毛な言い争いを一旦終了させて、どちらも難しい顔つきで考え込んだ。
「どうする、電車にもたいして乗れねえぞ」
「んー……、バスにでも乗ってみますか」
「いや、ここは歩くぞ!」
「マジっスか!?」
目を剥いて嫌がる古永に構うことなく、和久山は歩き出した。
どんな交通機関にも頼らずに自力で進む。
それは、一種の男のロマンではないか?
自転車で世界一周とか、ボートで太平洋横断とか、と考えて楽しくなった和久山は、鼻歌を歌いはじめた。
曲はもちろん、男たちの活劇浪漫を描く某冒険番組のテーマソングだ。
唸りながらあとをついてきた古永も、やがて諦めたのか、大人しく和久山の隣に並ぶ。
伊達眼鏡の奥の憮然とした表情がおかしくて、からかい半分に尋ねてみる。
「そんなに嫌なら、俺ひとりで行くけど?」
「誘ったのは俺だし!」
噛み付くように返ってきた台詞に、肩を竦めて笑いを押し殺した。
目を合わせようとしない相手の顔を、悪戯っぽく覗き込む。
「どこに行く?」
「どこにでも」
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どこまでも続くような長い沿線沿いの道を、えんえんと歩く。
次第に見覚えのないものに変わってゆく景色をぼんやりと眺めながら、二人は無言で足を進めた。
忘れ去られた自転車や、焼けた線路を照らす夕焼けは薄く陰っていて、どうしてか少し寂しい。
晩秋の風に、古びた民家に飾られた風見鶏がからからと回っていた。
歩む度にかさこそと音を立てる落ち葉の道を踏み締めながら、和久山は古永の影に擦り寄った。
「おい、寒い。手え貸せよ」
「手袋を買わないあんたが悪い」
「うるせ」
少しはしゃぐと、和久山はすぐに手を繋ぎたがった。
寒いからというのは、少し嘘だ。
制服のポケットに手を突っ込めば済む問題だし、和久山は古永と違って指先が冷えやすいこともない。
和久山はただ、古永と手を繋ぎたかった。
手を繋いだだけで、なにも怖くないような気分になれるのだ。
なのに古永は嫌そうな顔をするので、和久山にはそれが少し切なかった。
諦めずに、ちょっとだけ冷えた手を突き出す。
「なあ、手、繋ごうよ」
「あんた、ここ外だよ。無理言うなよ」
「でも」
しばらく渋る振りをして伊達眼鏡に指をかけてから、古永は差し出された和久山の手の平を握る。
古永の手は予想通り、すっかり冷え切っていたけれど、和久山は微笑んだ。
重ねれば温かかったし、嬉しかったし、勇気が湧いてきた。
今の自分は本当に無敵だと思った。
RPGゲームでよくある、無敵状態になるボーナスタイムだ。
誰よりも早く走れるし、誰よりも強くなれる。
だが、道の先に見えた人影に、ようやく触れた指先はすぐに離れてしまう。
無敵の時間は嘘のように終わった。
残った手の平に当たる風が、風見鶏と一緒に和久山の心も揺らす。
自然と、俯いて歩みの鈍くなった和久山に、古永は眉をしかめた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
そう吐き捨てて、そっぽを向いた古永も辛そうな顔をしている気がしたので、なにも言えない。
人通りの少ない裏道とはいえ、完全に無人となることはないのだ。
仕方なく和久山は、ひそかに古永の影に手を伸ばした。
アスファルトに伸びる古永の影の手の部分に、ちょうど自分のそれも重なり合うように位置を調整する。
遠い昔に見た映画だ。
許されない恋仲の二人が、一緒に歩いている。
手を繋ぎたい、繋げない。
だから、せめて隣の愛しい影に、己の影の手を重ねる。
あなたと私、影の世界でなら、手を取り合うことも許されるでしょう。
でもそこには、温もりも存在も、なにもないのだ。
「なあ、もっかい繋いで」
おずおずと呟くと、古永は面倒くさそうなそぶりで、けれど冷たい指をしっかりと絡めてくれる。
人が来ると離してしまう指先が冷たくて、和久山にはそれが悲しかった。
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何度目に手を離したときだろうか。
沈黙を守っていた古永が、唇を開いた。
「おれ、学校やめるかも」
「えっ……」
「このご時世、再就職は難しいらしくってさ。親父、歳とってるし、職なしのままなんだ。生活保護なんて雀の涙みたいなもんだし。お袋の入院費も馬鹿にならなくて」
古永の母親の姿を思い出し、和久山は胸を痛めた。
彼によく似た整った面差しの、綺麗な人だった。
以前は、何度か古永の家に遊びに行った。
街の変な噂になっている和久山を、温かく迎え入れてくれた人だった。
疲労のあまり倒れたと聞いていたが、入院するほど酷いとは知らなかった。
言葉を無くして立ち竦む和久山に、古永は口元だけで笑ってみせた。
唇の傷も、ゆっくり歪む。
「なんかさー、正反対の境遇になったね、俺たち」
「は……?」
「水商売の母親との二人暮らしで蔑まれていたあんたは、資産家の父親に引き取られる。エリートの父親と優しい母親の円満な家庭で育った俺は……」
「ふる、なが」
「オヤジは職が見つからなくて酒浸り。お袋は働きすぎて倒れた。――俺の家、めちゃくちゃ」
「古永」
「おかしくなったのは、俺の家だ」
自分自身を傷つける言葉を吐き出す古永が痛ましくて、和久山は止めようと名前を読んだ。
だが、唇の歪みは直らない。
「俺たちの幸せは反比例をするね。俺が幸福だと、あんたは不幸。あんたが幸せだと、俺は不幸せ。量の限られた幸せを、奪い合っているみたいだ」
線路沿いのフェンスにがしゃん、と寄り掛かり、古永は秋の高い空を見つめた。
今日は雲一つない快晴だった。
だが、その瞳はどんよりと曇っていた。
「二人で幸せには、なれないのかな」
かすれ声で呟き、ふっ、と自嘲の滲む笑みに顔を歪める。
「今度はあんたが恵まれる番らしい」
あまりにも古永らしくない卑屈な物言いに、和久山は驚いた。
不安をかきたてられ、思わず彼の頬に手の平を当ててその暗い双眸を覗き込む。
古永も気付いたようだ。
泣きそうな表情に大きく顔を歪めた。
「……ごめん。ひどい、八つ当たりだ。汚い妬みだ、やっかみだ。ごめんね……俺は、ものすごく嫌な奴だね」
「そんなことない、気にすんな」
和久山は必死で首を振る。
古永の痛みが胸の奥に刺さるようだった。
苦しげに浅く息を吐いて、古永は額に拳を当てた。
「ごめん、和久山さん。ごめんなさい」
「古永、大丈夫だ」
「ごめんね。最低だ……俺が、嫌いになった?」
「嫌いになんかならない。絶対にならない」
「ごめんなさい。ごめん。俺を、嫌わないで」
「大丈夫だから、古永」
強く握りすぎて爪痕から血の滲んだ拳を解かせる。
和久山は、古永の指の甘皮がめくれ上がり、手の甲に打撲傷が走っていることに気付いた。
白くて綺麗な手だったのに。
働くことを知らない、幼い手だったのに。
どんなバイトをしているのか。それとも他の理由からなのか。
傷ついた口元、冴えない顔色。
荒れた指や色の変わった腕の皮膚を見て、和久山は、いま古永が置かれている状況を思い知った。
「あんた、優しい。甘えるなって怒ればいいのに」
他愛もない悪意の言葉が和久山をどれだけ傷つけただろうと色を失った男は、なにもできない無力な男を救いの神だとでもいうように眩しげに見つめる。
優しいのはお前だ、と和久山は打ちのめされた。
俺はなにも知らず、ただ見ているだけなのに。
ちっともお前を助けてやれないのに、最低の役立たずなのに。
「怒んねえよ。もっと甘えたっていい」
「あとが恐いなあ」
「馬鹿。怒んねえから頼れ」
祈るような気持ちで、古永の傷ついた手の平を両手で包み込む。
落ち着き払った後輩は、普段、必ずと言っていいほど和久山に頼ることをしない。
ときに拗ねて甘えた態度もとるくせに、決して寄り掛かろうとはしてくれないのだ。
なのに、心ならずもこうして涙を見せ、混乱した心情を垣間見せてしまっている。
それほど古永は追い詰められているのかと、和久山は痛くて悲しかった。
和久山は、古永は若いのだとはっきり意識した。
自分よりも年が下だとか、そんな矮小な意味ではない。
大人びた古永は、けれど、まだ未成年の子供でしかないのだ。
彼はまだ、大人の保護を必要とする年齢なのだ。
いいや、歳など関係ない。
こうして両の手に包むように、古永がいくつになっても、無条件に守ってやりたいとさえ思う。
どうしてそのための力が、自分にはこれっぽちもないのだろう。
ねえ、と古永が瞳を伏せた。
四角い伊達眼鏡のレンズが秋の薄い日光を反射し、目元の表情を隠す。
「俺、たぶん今まで優しい日常にいたんだね。親父やお袋や、自分以外の人間の努力のおかげで生きてきたんだ」
さらに首を傾け、古永は言葉を落とす。
その睫毛の伏せられた奥の瞳が、わずかに濡れて光った気がした。
「満足するまで遊んで、自分の好きなことばかりして、どうでもいいことで悩んで。そんなぬるま湯のような穏やかな場所にいられるように、守ってもらっていたんだね……」
それのなにがいけないんだ、と口走りそうになって、和久山はきつく唇を噛み、舌先で言葉をすり潰した。
好きに遊んで、気ままに振る舞って、大人に守ってもらって――それのなにが、いけないというのだ。
彼は、古永は、そうしてしかるべき年齢なのに。
「古永……」
「そんなことにやっと気付くなんて、俺はガキだなあ」
穏やかに、しかし苦しそうに笑う古永を、助けてやりたかった。
だが、そんなことは不可能だった。
和久山にはなんの力もなかった。
金も権利も、古永を助けるために必要ななにもかも持っていなかった。
仮にあったとしても、古永は和久山を拒絶するだろう。
赤ん坊相手のように、やみくもに守りたい、助けたいと言われて、喜ぶ男がいるはずもない。
和久山の施しや同情と呼ばれるたぐいの思い上がりは、青年らしく誇り高い古永の心を鋭く傷つけるだけだろう。
でも、と和久山は唇を引き結んだ。
それでも、古永を助けたかった。
古永が辛いのは嫌だ、古永が悲しいのは嫌だ、古永が苦しむのは嫌だ。
もし二人の幸せが反比例するというのなら、いますぐ不幸になりたい、と和久山は真剣に思った。
古永が幸福になれるのなら、自分はいくらでも喜んで幸せを捨てる。
和久山には、偽善や自己犠牲なんて、難しい言葉は分からない。
だから、古永を幸せにしたいと強く思ったのは、当然で、そしてごく簡単なことだった。
ただ古永が大事だった。
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突然、轟音が二人を襲った。
すぐ側を物凄い突風と金属音が走り抜ける。
驚いて棒立ちになった和久山と古永は、フェンスの金網の向こうを通過してゆく電車を呆然と見送った。
たんたたん、たんたたんと一定のリズムを刻みながら、大勢の人を乗せた鉄の塊はやがて視界から消え去っていった。
二人の間にじわじわと現実が戻ってきた。
突風に煽られたたくさんの落ち葉が、儚い音を立てて、足元に舞い落ちてくる。
「びっくりした……」
「俺も」
小さな笑みを零す古永の目からは、先程の感情の残滓が夢のように消え失せている。
年齢の割に落ち着きのある、いつもの後輩が、そこにいた。
見たくなかった姿だった。
彼が苦しむ光景など、二度と目にしたくはないし、また、あってはならない。
でも、どうしてだろう。
和久山は、嬉しくもあったのだ。
虚勢の楯も意地の鎧もはぎ取られ、剥き出しの姿になった古永を見て、この胸はまるで露を宿す刃に刺し貫かれたかのように、熱い歓喜の血飛沫を迸しらせた。
弱った古永に対し、なぜそんなひどい感情を覚えたのか、自分でも分からない。
許されない喜びを感じた己の心を、和久山は心底醜いと恥じ、どうしようもなく嫌悪した。
日没の早くなってきた季節だ。
辺りの景色はすでに紫紺に染められはじめていた。
家に着く時間を考えると、この辺りが折り返し地点だろう。むしろ遅いくらいだ。
そう分かっているのに、ぎこちなく口を開くまで、少々の時間を費やした。
「なあ、そろそろ……」
そこで和久山は、古永が以前『帰る』という言葉を使って欲しくはないと言っていたことを思い出した。
あのときの自分は結局、答えが出せないままだった。
では、なんと言えば良いのだろう。
戻る? 引き返す? 古永はどんな言葉が欲しいのか。
和久山にとっても『帰る』という単語は、いささか不自然に思われた。
こうして二人でいる時間こそが、帰るべき場所に感じられる。
古永と街を出て、歩いて、話をしていると、ああ、また戻ってきた、とほっとする。
現実からの逃避かもしれないが、和久山には強くそう感じられた。
結局、和久山は無言で古永の手を引いて歩き出した。
相応しいと思える言葉が、どうしても見つからなかったのだ。
古永も大人しく和久山に従い、二人は唇を閉ざしたまま、もと来た道を引き返した。
和久山は一度だけ、線路沿いの小道を振り返った。
ついさっき、すごい音で横を通り過ぎていった電車に二人で飛び乗っていたら、どこまで行けたのだろう、と夢想したのだ。
繋いでいた手に、ぎゅっと力が込められた。
思わず隣の人の顔を振り仰ぐ。
暗がりのせいで、伊達眼鏡のその向こうの表情を窺うことはできなかった。
しかし、和久山はひとつ頷いてから前を向いて、また夕暮れの中を歩き始めた。
影さえ溶けてしまいそうな夕闇に、暗い絵がいくつも浮かぶ。
帰る前にキャバレーに寄って、べろべろに酔った母親を連れ帰らねばならない。
いつ解雇されてもおかしくない状態だが、昔馴染みのママの温情に縋っている。
この頃はとみに酒量が増え、荒れて手に負えなくなっている。
父親が提示した猶予期間までそう間もなく、追求の手もさらに厳しく激しいものとなっていた。
自分を取り巻く世界はいつだって勝手で、無力なこちらを頭から支配しようと都合も知らずに襲いかかってくる。
しかし、救いがある自分は幸せな奴だ。
手を繋いで、温め合って、元気と勇気を貰えた。
愚痴を言い合って、腹に溜めていたものを吐き出して、随分とすっきりした。
充電はきっちり完了だ。
温かく慕わしい時間から離れるのは辛いけれど、今の自分たちには、戻らなければならない場所がある。
そこには辛いことしか待っていないかもしれないけれど。
思いを込めて冷たい手を握りしめ、和久山は一人、心の中で呟いた。
(一緒に、行こうか)
お前がいるなら、俺はまだ大丈夫。




