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若き夏を追う

あるときは、和久山がぼそっと呟いた。


「どこか、行かねえ?」


浮かない顔つきの和久山をちょっと見つめてから、うん、と古永は頷いた。

迷いのない手つきで、微妙に下げて穿いている制服のズボンのポケットから、革の財布を引っ張り出す。

和久山もそれに倣い、せーの、で二人は財布の中身を見せ合った。

そして、互いにぱちくりと瞬きをして、もう一度、手にする金額を確認した。


「お前、なんでそんなに持ってんの」

「和久山さんこそ……」


札入れに納められているのは、千円札どころではない。

和久山の、そして古永の財布には、万札が何枚も無造作に突っ込まれていた。

それぞれバイト代を下ろしただの、小遣いを貰っただの、ささやかな理由が重なったようだ。

合わせれば、高校生にとってはなかなかの大金となる金額を前に、二人は少しの間だけ途方に暮れた。




「どこまで行けるんだ、これ」

「どこまでも行けそうっスね」

「だよなあ」

「ははっ」


笑いを抑え切れなかった古永が相好を崩したので、和久山もにんまりと悪戯っ子のように唇を吊り上げる。

頬が上気しているのは、照りつける暑さのせいばかりではないだろう。


「じゃあ、行くか」

「はい、行っちゃいましょう」


ひどくもったいない金の遣い方だとも思ったが、二人とも止めようとは言い出さなかった。




古永がおかしそうにくすくす笑いながら、財布をポケットに戻す。


「俺、交通費で万単位なんて、使ったことない」

「俺もない」


真面目な顔で答えて、楽しい気分が込み上げてきたらしい和久山が、大口を開けて笑った。

暗色のフレームの伊達眼鏡を外して、こめかみを流れる汗を拭いながら、古永も白い歯を見せて破顔する。


「馬鹿だな、俺たち」

「ほんとっスよ」

「もったいないな」

「うん、もったいない。すげー無駄遣い」


愚かな浪費をあげつらいながら、それでも中止の声は上がらなかった。

笑顔を見合わせて、真っ直ぐに見つめ合う。


「どこに行こうか」

「どこにでも」




-----




青く透きとおる空に、濃い白を散らす入道雲が遠く鮮やかに浮かんでいる。

寄せては返すさざ波の繊細な泡沫が、遙か頭上高くに輝く太陽の白光を反射して、眩しく煌めいていた。

平日の真昼間の海辺に人気はなく、飛翔する海鳥の羽ばたきが大きく響く。

ばたばたと騒々しく制服のシャツをはためかせる潮風は涼しいものの、暴力的なまでの夏の熱を十分に孕んでいた。


明るいばかりの世界を、二人の少年はゆっくりと歩いていた。

浜辺はなめらかな砂地ではなく、安物のローファーの底を圧迫する石や砂利の感覚がひどく鮮明だ。

海岸まで下りるのも一苦労だと、足に刺さる石や黒くふやけた流木を蹴り上げながら、灰色のテトラポッドに寄りかかる。

終わることなく繰り返す波音にも、ようやく耳が慣れてきたようだ。




ふう、と一息ついた古永の横で、沖に出た船を見渡していた和久山が、額に滲む汗を乱暴に拭って言った。


「マジ暑い。ていうか海とか、青春の逃避としてはベタだよなあ。前も来たし」

「いいじゃないっスか。今日は天気いいし、風が気持ち良い」

「まあなー。よし、あれか、海まで競争でもするか」

「しねえし」

「うるせえ、する。はい、よーいどんっ!」


勝手に掛け声をかけ、一人で海へとひた走る和久山の後ろ姿を、古永はコンクリートを背にぼんやりと眺めていた。

照りつける夏の日差しの眩しさに、伊達眼鏡の奥の瞳をうっすら細める。

そしてひとつため息をつくと、制服のポケットに手を突っ込み、猫背気味の姿勢で長い足をのろのろと運んだ。




波打ち際についた和久山は、そんな古永に構うことなく、波から逃げたり割れた貝殻を拾ったりと忙しい。

放っておかれるのもムカつくので、夢中になって海に石を投げている和久山の背後に、古永は歩み寄った。


初めは水平投げを試していたらしいが、上手くいかなかったので、今度は遠投に挑戦しているようだ。

丸く弧を描いて飛んでゆく石の行方を追うと、それはたいした距離も出せずに、波打つ紺碧の海面で白い飛沫を上げた。


「へたくそ、ぜんぜん飛ばないじゃん」

「うっせえなあ。石が悪かったんだ、石が。ちょうどいい大きさじゃないと」


次はもっと良い石にする!と意気込んだ和久山が、石探しとやらにすっ飛んでゆく。

思いつけばすぐ実行、が和久山の基本的な行動パターンだ。

マイペースでのんびり屋の古永には、とてもついていけない。

あとを追うのを諦め、錆びたテトラポッドの間をちょこまかとうろつく小柄な人を、元の場所で待つこととなった。




両手いっぱいの石を捧げ持ちながら、ようやく戻ってきた和久山が小走りで駆け寄ってくる。


「見てろよ、古永。次は飛ばすから」


無造作に切られた短髪が潮風に舞い上がり、明るい光を弾いた。

――彼は戻ってきたのに、自分に声をかけてきたのに。

その眼球を刺すまばゆい光源が、どうしてか古永には、己を拒む盾のように感じられた。


だからだろうか。

楽しそうに石を投げはじめた和久山に、唇が勝手に動き出した。


「あんたは、すぐにどっか行っちゃうね」

「どこにも行ってねえっつーの」

「俺なんか置いてけぼりにされちゃうんだ」


なんて女々しい台詞だろう、と古永は後悔の一文字を苦く飲み込んだ。

意志とは無関係に下らない言葉を紡いだ唇を呪った。

少し和久山の単独行動が過ぎると、古永はすぐに皮肉な態度で不安がってしまう。


低くはないプライドは、素直な気持ちを吐露することを良しとしない。

だが、なにも感じていない振りを出来るほど、達観している年齢でもなかった。


「いっつもあんたは先に行こうとする」

「なーに言ってんだよ。んなことねえよ」


和久山が簡単に流そうとするので、古永は少し腹を立てた。

むっと唇を尖らせると、和久山がぶはっと吹き、そのまま腹を抱えて笑い出した。

古永の杞憂を笑い飛ばそうとするかのように、真っ青な空に和久山の晴れやかな笑い声が響き渡る。

なんて似合いの光景だろうかと見惚れてしまいそうになり、古永は唇を引き結んだ。


「笑うなよ」

「だってお前、馬鹿なんだもん」

「あんたサイテー」

「怒るなよ」




面白くなくて、ますます顔をしかめて足元の小石を蹴っても、相手はこれっぽっちも気にしない。

いい加減、先輩だろうがなんだろうが一発お見舞いしてやろうと決めたときだった。


「おら」


唐突に右手を差し出され、古永は訝った。


「なにそれ」

「約束。どこにも行かねえ。ほら、小指出せ」


太陽と青い空の似合う笑顔に、じんわりと胸が熱くなった。

思わず動いてしまった腕を慌てて押さえつけ、首を振る。


「……いらない」

「は?」

「約束は破るためにあるから」


変なものでも食べたような顔で、和久山がなにそれ?と尋ねてくる。

いつも現実的でクールな古永には似合わない、やけに文学的な表現に戸惑ったのだろう。




なにかの本で読んだことのあるフレーズだ。

約束はしない。

それは必ず破られるものだから。

破るために約するものだから。

だから約束はしない。

だから代わりに、ずっと側にいる。


でも、と古永はため息をつく。

でもそれは、どんなに非現実的な話だろう。




「絶対やだ。俺は約束なんてしない、絶対しない」


古永が拗ねた子供のように小指を隠すので、和久山は苛立ったらしい。


「馬鹿。約束ぐらい、なんだ」


少し鋭い調子の声にも、古永は顔を背けて海を見ている振りをした。

だが、次に続いた言葉には、思わず瞠目して振り返ってしまう。


「そんなこと言っていると、本当にどっかに行っちまうぞ」


途端、繰り返し聞こえていた波の音が、不意に遠くなった。

ようやく振り向いた古永に、今度は和久山が俯く。

馬鹿なことを言ったとばかりに、唇の端をきゅっと結んでいる。

わずかに口ごもってから、覚悟を決めた潔さで和久山が顔を上げた。


「おれ、東京にいる父親のところに、引き取られるかもしれないんだ」


固く握られた拳をぼんやりと見つめながら、古永は頷いた。


「知ってる……」

「えっ、なんで?」

「家の前に高級車が停まっていたとか、あんたの母親が店で愚痴っていたとか。こんな小さな街だ、噂なんていくらでも聞こえてくる」


元から和久山の家の事情は、なにも変化のないこの鄙びた街では、恰好の噂の的であった。

母一人、子一人の母子家庭。

キャバレーで働くホステスの母親。

父親の影はなく、子供はどうやら認知もされていないらしい。


今の日本ではさして珍しくもない話だが、こんな片田舎では和久山の家は人の目を引いた。

幸い、天真爛漫な性格の和久山は級友たちに好かれ、理不尽な差別やいじめに遭うことはなかった。

だが、和久山は放課後の遊びに繰り出すことに消極的であったし、噂話はどこにでもついて回っているようだ。




「俺の父親だっていう人はもういい歳なんだけど、本当の奥さんとの間にとうとう子供ができなかったみたいなんだ。だから、今頃になって俺を引き取りたいって言い出したらしい。養子よりは、自分の血を引いている子供の方がまだマシだって」

「あんた、東京に行くの?」

「さあ。それにしても、都合の良い話だよなあ。認知もしていなかったくせに、今さらなに言ってんだっつーの!」


おどけて笑う和久山に、古永はぼそぼそと同じ問いを繰り返した。


「行く、の?」

「分かんねえよ。俺はこれっぽちもそんな気ねえけど。……ただ、母さんは乗り気らしくて」


ぐっと息を吸い込み、和久山は手にしていた石を、靴の先を濡らす波濤に向かって投げつけた。

小石はとぷん、とかすかな水音を立て、飲み込まれるように波の狭間に姿を消した。


「和久山さん」

「俺を引き取る代わりに、援助金とか貰えるんだってよ。あのクソババア、最近浮かれまくって酒浸りで酒量増えすぎ。これって俺、人身御供みたいじゃね?」

「和久山さん」

「なんで俺がババアのための生贄になんなきゃいけねえんだよ。おかしいったらねえの。――なんだよ」

「あんたは大丈夫?」

「ああ……。悪い、突然話し出したりして。俺の家、ちょっとおかしいんだよなあ」




明るく話好きな和久山はどうでもいいことはよく喋るのに、内面にまで深く踏み込もうとすると、すぐに口を閉ざしてしまう。

古永が、たった一つの年の差を意識するのはこんなときだ。

年上のこの人に信じてもらえていないのかと、悔しくてたまらなくなる。


でも今は、自分の悔しさよりも、和久山の抱える痛みが気になってしょうがなかった。

少しでも大丈夫だと伝えたくて、心の不安を消してやりたくて、古永はあえて軽い言葉を選んだ。


「あんまり思い悩まないほうがいいっスよ。色々と事情があるのは、どこの家も同じだろ」

「うーん、まあな。その通りかも」

「そうそう。俺んちなんか、こないだ親父がリストラされちゃったらしいよ。急遽、お袋がパートで家計を支えている」

「えっ、それこそ大丈夫なのか?」

「親父もまたすぐ再就職するとは思うけれどね。あの人、仕事人間だし」


心配げに見上げてくる和久山を見て、古永はすぐさま己の失敗を悟った。

これでは、余計な気がかりを与えてしまっただけではないか。

なんでこうも、自分は気がきかないのだろう。




暗い空気を追い払いたくて、古永はわざとあけっぴろげに笑いかけた。


「だからさあ、一応、俺も働いた方がいいのかなあって。和久山さん、バイトやってるっしょ? いい給料のとこがあったら、紹介してくれない?」


ああ、と首肯しようとした和久山は、しかし首を横に振った。


「やっぱ、やだ」

「は? なんで?」

「お前がしないなら、俺だって約束なんかしねえ」

「なんだよ、それ」

「しねえよ。それに、こんななまっちろい手でバイト? オシゴト舐めんなよ」


古永の傷一つない滑らかな手の平を掴み、鼻で笑っている。

どうやら先程の仕返しらしい。

約束などしないと、今度は和久山が首を振る。


「バイトなんか紹介してやらねえ。だって俺だけなんて不公平だ。嫌ならお前も約束しろ」

「しない。破られるくらいなら、約束なんてしねえ」

「臆病者」

「なんとでも言えよ。約束しなきゃ、嘘つかれるかもってビビる必要ねえもん」


本当に俺は弱いなあ、と古永は自分の言葉に虚しくなった。

和久山も同じだったのかもしれない。

掴んでいた古永の手を握り締め、不機嫌に眉を寄せて唇を尖らせた。


「小心者、弱虫、いくじなし、ビビリ、ヘタレ、フニャチン野郎」

「言い過ぎだろ」


ぷりぷりと怒る和久山の子供っぽい暴言に、いつも古永は笑ってしまった。




-----




高台に座ってぼんやりと海を眺めているうちに、頬を撫でる潮風が夕刻の冷たさを帯びてきた。

あんなに水面を眩しく輝かせていた真昼の光は、薄ぼんやりと照る赤い夕日に取って変わられていた。

海沿いにあるらしい小学校からトロイメライのメロディーが、子供は帰る時間だと途切れ途切れに鳴り聞こえてくる。

行きと同様、またいくつも線を乗り継いで、電車に揺られながらあの街に帰らなければならない。


和久山が落ちていたガラスの破片を靴先で転がしながら、尋ねてくる。


「なあ、そろそろ帰る?」

「帰るって言うの、やめてくれない」


なんとなく、その語感が癇に触った。

意地悪く返して、古永は和久山の反応を探る。

案の定、隣に座った人は眉をしかめて首を傾げている。


「じゃあ、なんて言えばいいんだよ?」

「自分で考えれば」


すげない台詞を返すと、和久山はうんうん唸って考え込み出した。

正しい解答なんて用意していない。

ただ、この心地良い二人の時間を、いつか終わらせねばならない、一時的なものとして扱って欲しくなかった。

自分が本当に帰ったという気持ちになるのは、今この時をおいて、他ないのに。


ぐずぐずと悩む和久山の答えを待たずに立ち上がり、古永は赤い残照の沈む海を背にした。


「おい、待てよ」


慌てた声が追ってきたが、構わない。

いつも置いていかれるのだから、たまには古永が先に行ってしまっても許されるだろう。

どうせ追い掛ける役は、いつだって自分だ。




帰ったら、最近常に気が立っている父親と、ひどく疲れた暗い顔の母親の間で、神経を削らなければならない。

立ち向かうべき現実は色褪せ、苦しさばかりを増してゆく。

無為にもがくことも出来ず、解決の糸口さえも見つけられないまま、首回りに巻かれた真綿がじわりじわりと締まってゆく。


今、戻る場所は決して楽ではないけれど。

また退屈で変化のない苦い日常の繰り返しだろうけれど。


後ろからついてくる人の気配を感じながら、古永はこっそりと心の中で呟いた。


(一緒に、行こう)




あんたがいれば、俺は平気。



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