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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

敵だったり恋仲だったり~余り物王子と変わり者伯爵令嬢の恋物語

作者: 桐坂数也

 パーティを抜け出して、イリーナは中庭に逃げ込んでいた。

 大人たちのパーティは、十歳の少女には退屈に過ぎた。誰もかまってくれないし、自分がいなくたって何も困らない。


 その事実に多少へそを曲げながらうずくまっていると、ふいに近くの茂みががさっと鳴った。

 突然のことにイリーナは身をすくめる。どきどきしながら息をつめていると。


 茂みから男の子が出て来た。


「……おや、きみもパーティを抜け出してきたのかい?」


 イリーナは答えられずにいた。


 男の子は同い年くらいだろうか。栗色の髪に紫の瞳がちょっとかっこいいかな、とイリーナはぼんやり思う。


「パーティは退屈だったかな? でもきみがいなくなって、みんな心配しているんじゃないかな?」

「誰もわたしの心配なんかしてないわ」


 ちょっと拗ねたように、イリーナは答えた。それは常々感じていたことだから。


「どうして?」

「わたしみたいに可愛げのない子は必要ないのよ」

「そうかな? ぼくは可愛いと思うけど?」

「なっ!?」


 ごく自然にしかもストレートに言われて、イリーナは瞬時に真っ赤になった。


「な、なななに言ってるのよ!? わたしみたいな変わり者が可愛いわけないでしょ!」

「そんなことないよ。可愛くなろうと頑張ってる子が可愛くないわけないって母さまが言ってた」

「な……」


 イリーナは言葉を失う。

 そんなことを言われたのは初めてだった。あわててしまって、なんて答えたらいいかわからない。こいつ一体、なんなの……。


 呆然と立ち尽くすイリーナの耳に、別の声が聞こえてきた。


「殿下! クラウディードさま! どちらにおいでですか?」

「あ、まずい……」


 目の前の男の子はいきなりイリーナの手を取って、茂みの中へもぐりこんだ。

 突然手を握られてびっくりし、またもどうしていいか分からず、なすがままに茂みの中で一緒に息を潜めているイリーナ。なんなの、こいつ何なのよ? わたし何やってるの?


 茂みに隠れた二人の前をメイドらしき人物が通りすぎていった。

 充分に離れたことを確認したあと、男の子はほっと息をついてイリーナに笑いかけた。


「ふふっ。やりすごせた。ありがとう」


 無邪気な笑顔にどきっとする。

 なんだか変なヤツだけど、今の笑顔はちょっと可愛い……かも。

だがそれ以上に、もっと重大なことがあった。


「ねえ、あなた……王子さま?」


 さっきの人物は彼を探していた。「殿下」と呼びながら。

 そしてクラウディードは、この国の第三王子の名前だ。


 問い質すイリーナに、男の子はばつが悪そうに頭をかいた。


「うん、まあその、なんと言うか……」

「それで、あなたもパーティを抜け出してきた口なのね?」


 男の子、クラウディードは口をつぐむ。イリーナは腰に手を当てて、呆れたような声を出した。


「あなたも人のこと言えないわね。でもまあ、しょうがないか」


 くるりと振り返って、館の方へ向かう。


「あの……」

「わたし、やっぱり戻るわ。それから、あなた」


 イリーナは笑顔を向けていった。


「せっかくだから笑いなさいよ。さっきの笑顔、よかったわよ」


 その言葉を聞いたクラウディードの表情が、ぱあっと晴れる。

 さっき褒めてもらったお礼よ、あくまで儀礼なんだからね、と心の中で思うイリーナに、クラウディードは輝くような笑顔を見せた。


「ありがとう! きみも、今の笑顔、素敵だよ!」

「なっ……!」


 無邪気な反撃にイリーナは再び真っ赤になってしまった。顔を見られまいと背を向けたまま、急いでその場を立ち去った。



 ◇



 ひとりベッドに身を投げ出し、イリーナは今日のことを思い返していた。


(変なやつだったな……)


 年の離れた上の王子たちの評判は上々だったが、それに比べて第三王子は……という話は時々聞いたことがある。


 確かに、なよっとした感じだったかな。

 でも歳を考えたら、まだ仕方ないかも。


(それにちょっと……かっこよかったかも)


 自分を褒めてくれた屈託のない笑顔を思い出して、イリーナはまた顔がほてるのを感じた。


(なんなの……なんなのよ! かっこつけちゃって!)


 やり場のない感情をこめて、枕をぽかぽか叩きつける。

 イリーナは褒められることに慣れていなかった。だからこの時も、どんな感情を現せばいいのか、よくわからなかった。


 でも。


 可愛くなろうと頑張ってる子が可愛くないわけない、か。


 自分は女の子のくせに野山を歩いては変なものばかり集めている変わり者で、女としての幸せなんて縁のないものだと思っていたけど。


 もしも頑張ってみたら、少しは変わるのかな。

 大した家柄でもない伯爵家の令嬢、それも次女のわたしでも。

 枕に顔をうずめて、ぼんやりとした考えに浸るのだった。



 ◇



 でも頑張るって、なにを?

 イリーナは困った。真剣に困った。


 女の子らしいことなんて、全然してこなかった。何をどうすればいいのか見当もつかない。


 姉さまや母さまに訊くのもなんとなく気恥ずかしくて、イリーナは侍女のヴェロニカにそっと尋ねた。


「ねえヴェロニカ、可愛くなろうと頑張るって、何をどうすればいいの?」


 ヴェロニカの歓喜といったらなかった。


「ああ、お嬢さま。ついにお嬢さまにも運命の殿方が現れたのですね!」

「そ、そんなんじゃないから!」

「不肖このヴェロニカ、あらん限りの知恵と技でもってお嬢さまを立派なレディに育ててごらんに入れますわ!」


 目に涙を浮かべて語るヴェロニカに、


「でも山歩きはやめないからね?」


 と釘を刺す。好きなことを嗜んでこそのレディでしょうが。そこは譲れない。


 だがそこはヴェロニカも心得たもの。お仕着せのドレスにテーブルマナー、などというのは後回しにして、イリーナが興味を持ちそうなものから始めることにした。


 イリーナが野山で集める虫や野草の隣に、ヴェロニカは香水や化粧水を置いた。錬金術も好きだったイリーナは面白がってそれらを研究し始め、やがてそれを自分でつくるようになった。


 薬品や化粧品を調合するには素材に関する幅広い知識が必要だ。イリーナは夢中になって本を読みあさり、化学の知識を吸収した。

 そうして作り上げた化粧品の出来栄えはなかなかのものだった。


 しかしせっかくの化粧品も、身にまとう衣服のバランスが取れていなければ充分に魅力を発揮しない。イリーナはヴェロニカに教えを乞い、衣服のコーディネートも学んだ。ドレスであっても派手でなく、気品がありながら動きやすく――レディになったってフィールドワークは譲れない――自分の魅力を引き立ててくれるもの。

 衣服だけではなく、それに見合うアクセサリーを追加してみる。だがそれをまとう本人に魅力がなければお話にならない。イリーナはせっせと肌を磨き、立ち居振る舞いを学んで優雅に見える所作を覚えた。こうして野性的で奔放な魅力を持つレディが出来上がっていった。


 それでも山歩きや錬金術のような、女の子としては変わった趣味は途切れることがなかった。化粧品や薬品を作るうちにイリーナはそれらを売ることを覚え、ついには事業を立ち上げてしまったのである。関連会社も買収にも手を出し、事業はどんどん拡大していった。


 イリーナが十六歳になる頃には、貧乏貴族だったカリンシア伯爵家はけっこうな収入を確立していて、それを成し遂げた才色兼備の風変りな伯爵令嬢はちょっとした噂になっていた。

 しかし当のイリーナ本人はそんなことにまったく気づいておらず、相変わらず思案し続けていたのだった。


(可愛くなろうと頑張るって、どうやるのかしら? わたしは上手くやれているのかなあ?)



 ◇



 クラウディードが十六歳のとき、第二王子の結婚披露パーティが開かれた。


 第一王子も第二王子も知勇兼ね備えた王者の器量と謳われ、すでに国王の補佐として国政に関与する身だった。今回の結婚で私生活でも一人前となる王子の祝いに訪れる人は数多く、パーティは盛大なものだった。


 その中で第三王子クラウディードは、自分の居場所を見出せずにいた。上の兄二人に比べて存在感が薄いことを彼は自覚していた。

 これでも努力してはいるのだ、自分なりに。だが兄の出来が非凡に過ぎた。それが二人もいるのだから、もう充分足りていると人々が思ってしまうのも無理からぬことだった。


 長兄と次兄にあいさつしようとする人々から離れて、クラウディードは壁ぎわに立ち、そっとため息をついた。自分が不憫だとは思わないが、こうも露骨に比較される場に立たされると、やはりちょっといたたまれない。


 またここから抜け出してしまおうか? 昔やった時みたいに。


 その姿を遠くから、イリーナは見つめていた。

 大した家柄でもない自分はここでの主役ではないと承知していたから、彼女は出しゃばらず、あいさつにも出向かず、回りの人を観察していた。もともと父のおまけでここに来ているようなものだし、彼女があいさつしたからと言って大した影響があるものでもない。


 そう思ってイリーナは、せっかくのチャンスだからとがっついて獲りに行くようなこともせず、疲れていそうな婦人に椅子を勧めたり、不景気な表情をしている人の愚痴を聞いてあげたりしていた。


 そして今また疲れた表情の若者を見つけた時、イリーナは胸が締めつけられるような感覚を味わった。


 クラウディード第三王子。初めて会ったのは何年前だろうか。

 その時に言われた言葉は今でも覚えている。いや、今や彼女の行動原理そのものになっていると言っても言い過ぎではなかった。

 そしてその言葉をくれた王子自身にも、いつしかイリーナは惹かれるようになっていた。


 王子は背も伸び、まだ子供っぽさは残るものの、凛々しい若者へと変貌を遂げようとしていた。いや、今さら言うまでもない。だってイリーナはいつも学園でひそかに王子を見つめ続けていたのだから。

 正装が思いのほかお似合いだわ、と思ったのはイリーナのひいき目だろうか。でも彼の表情はさえなかった。それはあの日――パーティを抜け出してイリーナと出会った時と同じように思えた。


 彼女はフロアの係の者から水の入ったグラスをもらい受けると、トレイに載せて王子の前に進み出た。


「ご機嫌うるわしゅう、クラウディード殿下。お水はいかがですか?」


 たったそれだけの言葉を口にするのに、イリーナは全身の勇気を振り絞らなければならなかった。全力で維持した笑顔のうらで、ひざが震えている。


「……ありがとう」


 クラウディードはグラスを手に取り、イリーナに言った。


「ぼくとお近づきになってこいと父君に命じられたかな、可愛いお嬢さん?」


 クラウディードが警戒するのも無理はなかった。余り物とはいえ彼も王子だ。まだ婚約者もいない彼を狙っている貴族は多く、近づいてくる娘たちもそれなりの数だった。


「あら、可愛いだなんて。お褒めにあずかり恐縮です。可愛くなるよう日々頑張っていますもの。お認めいただいて嬉しいですわ」


 ちっとも悪びれないイリーナに、クラウディードはむしろ好感を覚えた。われ知らず笑みがこぼれる。


「そうだな。可愛くなろうと頑張っている子が可愛くないわけないか」


 イリーナの心臓が跳ねまわった。つとめて明るく振る舞おうとした笑顔も、王子の不意のひと言で泣きそうになってしまう。

 この人はわたしの心の鎧なんて一瞬で突き崩してしまう。なんて人なのかしら。


(わたしのこと、憶えているかしら……?)


 声が震えないよう気をつけながら、イリーナは言った。


「殿下こそ、笑顔がお似合いと存じますのに……なにか心配ごとでもおありですか?」

「そうだな……」


 イリーナの反問に一瞬虚を突かれたという風なクラウディードだったが、少しは語らってくれる気になったらしい。


「誰も本当のぼくを見てくれないと思ってね。王家の子息、兄さまの弟……。ありのままのぼくを見てくれる人はこの世にいるのかなってね」

「畏れながらクラウディード殿下」


 イリーナの声は、ちょっときつかったかも知れない。細い眉が吊り上がって怒りの表情を形づくる。


「殿下が見てほしいご自分とは、どのようなお姿でしょうか? どのような知恵や技をお持ちなのでしょうか? 他人が評価するに値すると自信を持って言えるご自分をお持ちですか?」


 クラウディードはびっくりしている。仮にも王子に向かってそんなにずけずけと言い放つ者は、彼の記憶にある限りいなかった。


 でもイリーナは少し思ってしまったのだ。しっかりして下さいと。

 そんな不甲斐ない姿は見たくない。あなたはわたしの憧れの人なのだから。


 驚いた表情のクラウディードの目にふっと笑いが浮かんだ。


「そうだな、きみの言うとおりだ。ぼくはまだまだだ。それを受け入れてほしいなんて、甘えていた。許してほしい」

「いえ、そんな。わたしこそ出過ぎたことを申しました」


 むしろイリーナの方が慌ててしまい、急いで頭を下げた。


「畏れながら殿下の努力は決して無駄にはなりません。殿下が一所懸命努力なさっていること、きっと誰かが見ております。認めてもらえる日が必ずやって来ます」


 イリーナは知っていた。クラウディードが懸命に努力していることを。

 ある時は図書館でひとり、遅くまで調べものをしていたり、またある時は剣の達人がいると聞き、自ら尋ねて教えを受けたり。見えないところで頑張っていることをイリーナはよく知っていた。


 きっと大丈夫。頑張って。

 そう手を取って励ましてあげたかった。だけどそんな事は恥ずかしくてとても出来なかった。

 だからとびっきりの笑顔を向けて「それでは」と頭を下げるのが精いっぱいだった。



 ◇



(ああ、わたしってば、なんて意気地なし)


 ベッドでひとり枕に顔を埋めて、イリーナは失意のどん底にいた。

 せっかくクラウディードさまとお話しできる千載一遇の好機だったのに。もうこんな機会は、木っ端貴族の娘である自分には二度とこないかも知れないのに。

 いったいどう思われただろう。きっと生意気な小娘と思われたにちがいない。


 恥ずかしさと後悔と、それでもクラウディードと会って直接話ができた嬉しさとで、イリーナはもうなにが何だか分からず足をばたつかせた。


 でも。


(可愛くなろうと頑張っている子……か)


 あの日の言葉。遠い昔のことを少しは憶えていてくれただろうか。

 もしそうなら……いやいやいや、それ以上を願うのは自分には過ぎたことだ。畏れ多いにもほどがある。


 それでも、と夢見る乙女の胸中も知らず、クラウディードはひとりベッドに寝転がっていた。


 可愛らしい娘だった。可愛いだけなら今までもいくらでもいたが、彼女は臆面もなく自分が頑張っていると言い放ち、でもそれは嫌味には聞こえなかった。むしろ彼には気持ちいいくらいの、快活で生気にあふれた少女だった。

 自分にないものを持っている、と思った。あんなふうに、自分も力にあふれた目で未来を見ることができるだろうか。人々を導いていけるだろうか。


 今はまだまだだ。クラウディードは寝返りを打った。努力はしている。だがまだ何もかも足りない、そういう自覚はあった。もっと頑張らないと。

 その姿を認めてほしいとは思う。だけど、その思いにとらわれては駄目だ。それはただの甘えだ。それではあの娘に笑われてしまう。


(……え?)


 意外な感覚に、クラウディードはびっくりして跳ね起きた。

 なんだ? なんだろうこの感覚? 心臓がどきどきして、胸を締め付けられるようなこの感覚は?

 あの娘って誰だ? 自分の問いに、躊躇なく昼間出会った少女の笑顔が浮かんだ。快活な、それでいて初々しい色気をも併せ持った微笑み。どこかで会った気がした。いつかは分からない。でもそれはいい。あの娘にもう一度会いたいと、その時初めて彼は思ったのだった。



 ◇



 少女はクラウディードと同い年くらいに見えた。ということは、貴族の子弟が通う学園で会えるかも知れない。

 クラウディードのひそかな望みはしかし、かなわなかった。

 イリーナは事業が忙しくなってしまい、学園にあまり顔を出さなくなっていたのだ。


 幸運の女神がほほ笑むことはなく、がっかりしたクラウディードだったが、それでも立ち止まることはしなかった。彼はこれまでにもまして勉学に精を出した。政治経済、軍略、将来に必要な知識を必死で学び覚えた。一方で身体を鍛え、剣技の稽古も怠らなかった。ときにはつらいこともあったが、泣きごとは言いたくなかった。それではあの娘に笑われてしまう。あなたが自信を持って言える自分とはそんなものですか、と。


 そんなことはない、と思いたかった。そして彼はいつか成長した自分を見せたいと思い、その自分にあのとびっきりの笑顔を向けてほしいと願い続けた。


 兄たちの陰でかすんでいた少年はその内側で着実に成長を遂げていた。


 その想い人たる少女イリーナは、いまや自分の事業に夢中になっていた。

 もとから手掛けていた化粧品は好調だった。質のいいものをいくつも作り出し、貴族や大商人に好評を得ていた。おなじく薬も順調で、咳止めや熱さましなどでひとつのブランドができるほどだった。それを販売するための販路や物流網を整備する過程で流通事業も手掛けるようになり、さらにその周辺事業で宿泊施設なども運営するようになった。


 新規開拓もしながら足りないところは事業を買い取ったり人を入れたり、イリーナは事業主として目覚ましい成長を遂げていた。一方で自分を磨くことも熱心に続けていた。「可愛くなろうと頑張っている子が可愛くないわけがない」のだ。彼女はそう頑張ることを絶対に放棄したくなかった。それは彼女の大事な大事な、人生の指針だったのだ。それを手放さない限りクラウディードと一緒にいられる、そう信じていた。


 イリーナの事業はさらに拡大し、ついには末端が怪しいところにまで踏み込んでいた。

 麻薬の類いまで扱うようになっていたのだ。うすうす気づいてはいたものの、改めて見た時には即座に対処できないほどの規模になってしまっていた。


 後ろ暗い事業であっても秩序というものは存在する。それをいっぺんに放棄、または潰してしまったら、後には混乱しか残らない。アングラにはアングラの仁義というものがあるのだ。

 ましてその商売で食っている人間は貧困層が多かった。建前と正義感だけで収入の道を絶ってしまったら、飢えた彼らはさらに危険な稼業に踏み込み――例えば盗賊などだ――治安の悪化を招きかねない。イリーナは悩んだ。


 そうこうするうちに、それは国にとっても看過できない規模になってしまい、ついに討伐令が下った。

 討伐対象はカリンシア伯の商会のひとつブルジニク商会。討伐隊の長は二十歳になったクラウディード第三王子だった。



 ◇



 勇躍、現場に乗り込んだ討伐隊は有能だった。

 彼らの目的はふたつ。麻薬売買の関係者を捕らえることと、麻薬製造の施設を占拠、破壊すること。どちらも簡単に遂行できる目的ではない。


 それを冷静にかつ果敢に指揮したのは、いまやたくましい青年に成長したクラウディードだった。彼は王や兄たちの下で城下町の整備や治安維持などの地道な仕事に精を出していたが、おかげで城下の警備隊や人足たちに絶大な人気があった。


 信頼する上官のもと乗り込んだ討伐隊は、しかし苛烈な反撃に遭ってたじろいだ。


 商会の武装勢力を指揮して討伐隊に痛撃を叩きこんだのは、こちらも美しい乙女に成長したイリーナだった。彼女は討伐の情報を入手すると踏み込みの寸前で商会に入り、全員を掌握して反撃の態勢をとったのだ。


 姫とあだ名される有能で美しい雇い主は全商会員の崇拝の対象であり、末端の販売員に至るまで彼女を讃えない者はいないほどだった。絶大な信頼に応えるべく、彼女自身も剣を持って陣頭に立った。その目的はひとつ。できる限り多くの者を無事に逃がすことだった。


 踏み込む討伐隊を激しく迎え撃つ商会の武装勢力は力まかせに戦うだけではなかった。工場ひとつを囮にしてまで討伐隊を引きつけ、その間に人員の脱出を図った。明確な戦略目的のもと動いていることは誰の目にも明らかだった。


「この指揮ぶり、ただ者ではあるまい。いったい誰が指揮しているのだ?」

「どうやらカリンシア伯爵家の令嬢のようです」


 討伐隊長クラウディードは相手の鮮やかな手際に舌を巻いていた。この手練れが女だというのか。きけば自分と同じ二十歳とか。


(上には上がいるものだ)


 苦笑しつつ、クラウディードは剣を取った。彼は自分の能力にそれなりの自信を持っていたが、その彼をへこませてくれる相手は久々だった。その相手を見たくもあり、また自分が出て立て直さなければ損害が増える一方だろう、と思ったのだ。


 陣頭に立って彼は剣を抜き放ち、声を張った。


「我が名はクラウディード! 第三王子にして討伐隊の長である! 指揮官との一騎打ちを所望する!」


 呼応して進み出てきた女性を見て、彼は驚きのあまり言葉を失った。


「な……」


(何故きみがここに?)


 頭が真っ白になった。何も思い浮かばなかった。四年前パーティで出会った少女。再び会いたいとずっと願い続けていた、その人物が今、目の前にいる。剣を携えて。


 だが彼女の表情に、あの快活な笑顔はなかった。深く憂いを帯びた、哀しそうな表情に、しかしクラウディードは強く惹かれた。


 なんと美しい女性なのだろう。


 それでも自身の思いに囚われている時間はほんのわずかだった。彼は隊長として隊員の生命に責任がある。目の前の事態を打開しなければならなかった。

 唇をぎゅっと噛みしめ、彼は剣を構えた。次の瞬間、目にも止まらぬ速さでの踏み込み。


 その剣を、イリーナは確実に受け止めた。


(受けた!? ぼくのフェイントを?)


 斬り結ぶ刹那、彼はフェイントを入れた。その動きに騙されていれば、彼女の首はすでに飛んでいた。

 それを一瞬で読んで遮った。あり得ない読みと剣さばきだった。


(さすが、クラウディードさま……)


 一方のイリーナも、クラウディードの剣に感嘆していた。これでは並のレベルが何人束になってかかってもかなうまい。

 驚きつつもイリーナは嬉しかった。あのちょっと頼りない少年がこれほどまでに成長するなんて。もう誰にも「おまけ」なんて言わせない。実力に裏打ちされた堂々とした風貌に、イリーナはしばしうっとりと見惚れた。


 同時に、これほどまでに立派になった自分の想い人と剣を交えていることに、イリーナは深い悲しみに囚われた。なんという皮肉な運命だろう。わたしが望んだのは剣ではない。この人の腕に抱かれることだったはずなのに。

 その胸に飛び込みたい、我が身の全てを預けたいという甘美な欲求に、あやうくイリーナは剣を取り落としそうになった。だが今そうすれば、抱擁の代わりに彼の剣が自分の心臓に突き立つだろう。


 短いが苛烈な剣の応酬。ふたりは剣を弾いて離れた。


(なんという運命の皮肉か……)


 クラウディードは深く嘆いた。イリーナの表情は哀しみに彩られていて、その美しさに彼は狂おしいほどの愛着を覚えた。

 彼女も自分と同じ心持ちでいるのだろうか? だが言葉を交わすことは許されなかった。


 その間にも容赦なく彼女は打ちかかってきた。鋭い斬撃は奔放で意外性にあふれていた。並みの男では一刀のもとに斬り捨てられていただろう。それほどの腕への賞讃と、それを振るう美しい女性への思慕の情とで、彼の心は乱れに乱れた。


 美しく成長した少女は、振るう剣の美しさと相俟って、妖しいほどの魅力を振りまいていた。その均整の取れた肢体を、細くくびれた腰を抱き寄せたいと、抗いがたい誘惑が首をもたげる。

 だが今そうすれば、抱擁とともに彼女の剣が自分の背中に突き立つだろう。なんと危険で、甘美な誘惑だろうか。

 もういっそ、彼女と刺し違えようか。そんな思いが頭をよぎった。


 彼の身体は冷静に判断してもいた。今の自分の腕ではイリーナは倒せない。刺し違えるのが精々だ。ならばこのまま、ふたり共に天に召されて、結ばれようか……。


 そうと察したイリーナは、あやうくその誘惑に乗りそうになった。


 だめだ。


 彼女は剣を振り払った。クラウディードさまを死なせるわけにはいかない。

 そして自分はここにいる全員の生命に責任がある。みんなを逃がさないと。


「リアム! カヤ! 爆破!」

「はっ!」


 飛び退ったイリーナの命が下るや、建物の天井が吹き飛んだ。

 上から崩落する煉瓦の雨に、討伐隊は怯んだ。

 その隙をぬって、イリーナは舞い踊るように落下物を避け、奥の隠し通路に逃げ込んだ。


「……なんて女だ」


 副隊長が、忌々しさ半分、感嘆半分の複雑な声を上げる。

 クラウディードは呆然と彼女を見送った。身動きが取れなかった。土壇場での身のこなしですら華麗で、彼の心を虜にするには充分だった。

 そしてそれを失ったことに、彼は大きな喪失感を覚えていた。


 クラウディードは王宮に戻り、戦果を報告した。

 商会の人間には逃走を許したものの、施設の物品は押収した。

 王は王子の働きを称え、近く褒賞を与えんものと宣言した。


 ひとり自室に戻ったクラウディードはベッドに倒れ込み、泣いた。

 ただ悲しかった。自分の欲していたものが、手の届かないところへ行ってしまったことに。


 彼に求められていた者もまた、ベッドに倒れて悲しみの涙を流していた。

 イリーナは悲しかった。自分が、愛する者の敵になってしまったことが、ただひたすらに悲しかった。どこで道を間違えてしまったのだろう?


 考えに考えて、イリーナは父にとりなしを依頼した。

 なりゆきとはいえ、自分は国に仇なすことをしてしまった。その罪を深く悔い、件の商会は解散する。自分は伯爵家を出て謹慎する。今回の件にカリンシア伯爵家は何の関係もないので、どうかお咎めのなきよう――。


 むろん実の父親がそんな言い分を認めるはずもなかったが、イリーナは頑として聞かず早々に家を出てしまった。


 それを知ったクラウディードは密かにイリーナを探したが、その行方はつかめなかった。

 あまり大々的に捜すこともできず、クラウディードは焦燥にかられたが、どうすることもできなかった。

 イリーナの事業は非合法部門は清算されたものの、縮小しつつも活動していた。だがイリーナ自身がどこにいるか、詳細は知れなかった。



 ◇



 月日は流れて三年後、王国に激動の時代が訪れた。


 革命である。


 天候不順で飢饉が続き、景気が悪くなっていた。働き口が減り、民衆の不満が高まっていた。

 その働き口にイリーナの商会が少なからず貢献していたことは皮肉であった。


 国はいろいろと手を尽くしたが、天候までは操れない。

 国王の苦労をよそに、民衆の不満は高まる一方だった。


 やがて民衆の武装蜂起が始まり、それは大きな時代のうねりとなって王宮に押し寄せた。

 烏合の衆である民兵はしかし、よく統率され、王国の武装拠点を着実に落として行った。その手際は鮮やかにして苛烈であり、目的の最短距離を走っているのが明らかだった。


 その部隊を指揮していたのは、イリーナだった。


 初め、イリーナは革命軍には加わらなかった。今の不況は天変地異、人の手でどうにかなるものではないことが明らかだった。たとえ誰かが代わったとしても状況が改善する見込みはない。なにより王家に、クラウディードに歯向かうようなことを、彼女は二度としたくなかった。


 だが熱にうかされたような民衆の情熱は、もはやイリーナをそっとしておいてはくれなかった。縮小したとは言え彼女の財力はまだ革命軍にとって大きなものであったし、軍事力としてもまた期待できるのものだった。拒み続ける彼女に迫る圧力は説得からやがて脅迫になり、彼女は協力せざるを得なくなった。拒否し続ければまず彼女が粛清の対象になりかねなかった。彼女は薬を売っていた。それは高価なものであり、病に伏せる弱者からむしり取っているとの逆恨みが根強く残っていたのだ。


 進撃を続ける革命軍に対し、王国軍も粘り強く戦った。士気上がる革命軍に押されながらも、怖れず、諦めず、冷静に拠点を守り続けた。


 その指揮を執っているのはクラウディードだった。

 今や指揮官としても成長した彼は、ともすれば諦めがちな自軍を鼓舞し、兵站を維持し、あらゆる策を用いて頑強に抵抗を続けた。


 時に奇策を弄して敵を出し抜き、時に正攻法で正面から圧し、クラウディードは革命軍を翻弄した。イリーナですら策を読み切れず、敗退することがあった。


 さすがはクラウディードさま、と口には出さず心の中で賛辞を送りながら、だが彼女の反撃は苛烈だった。


 さすがはリイーナ、と姿の見えぬ愛しい人を思いながら、彼も粘り強く防御に徹する。


 クラウディードの策の数々にはイリーナでなければ抗し得ず、イリーナの苛烈な攻勢はクラウディードでなければ受け切れない。


 そんな抗争が何か月か続いた。



 ◇



 王宮前の広場。

 縛めに囚われたクラウディードが引き立てられてきた。


 抵抗を続けた王国軍もついに力尽きた。クラウディードはその指揮官として断罪されるため、今ここに立っている。


 言いたいことはあった。だが、自分は全力を尽くした。

 その自分の全力を、愛しい人はありのまま受け止めてくれた。持てる全兵力と知力の限りを尽くして。


 その愛しい人に、自分は断罪される。


 彼は満足だった。多くの兵を死なせてしまったが、残りはできるだけ家族とともに逃がした。

 愛しい人をこの手に抱くことはかなわなかったけれど、それに等しい思いを、自分自身を受け止めてもらえたという確信があった。それでいい。


 彼が見やる先には、その人が剣を携えて立っていた。


 戦闘服に身を包んですら美しい、革命軍の戦乙女。

 イリーナは今、深い悲しみの淵にいた。


 愛する人と幾度となく剣を交え、そして今その命を奪おうとしている。


 だが彼女は、大きな歓びに満たされてもいた。


 やっと終わる。すべてが完了する。

 愛する人の首を刎ねた後、その剣で自分もすぐに後を追う。今生で結ばれることはなかったけれど、天上でわたしたちは永遠に一緒にいられる。

 長い長い回り道だった。もうすぐだ。


 わずかの間です。先に行って待っていて下さいまし、クラウディードさま……。


 だが彼女の思いは叶えられなかった。


「なんの真似ですか?」


 両脇からがっしりと押さえこまれて、イリーナは硬い声を投げかけた。

 返答を聞くまでもなく、彼女は自分が生贄にされたことを悟った。


 どれほど手柄を立てようと、革命軍にとって自分は憎きブルジョワの娘、倒すべき敵のひとりでしかなかったのだ。それをまんまと利用して敵を倒した。我ながらうまいことを考えたもの、と首謀者は手を叩いて喜んでいるに違いない。


「イリーナ・カリンシア。革命軍の貴重な戦力を任されていながらいたずらに軍をそこない、尊い同志の命を散らせた。その罪万死に値する」


 おやおや。思わずイリーナは苦笑いした。わたしがいなければ軍をそこなうどころか、潰走していたくせに。


「そう。その通りですね。わたしもずいぶんとしてやられました。それもこれも、ここにいるクラウディードさまが優秀過ぎたからですわ」


 イリーナは薄笑いを浮かべながら、回りを見回した。


「あら、にっくき王族が優秀だなんて認めるのは業腹かしら? ああもちろん、あなた方が無能だったことも否定しませんよ。うふふ」


 イリーナの薄笑いに、幹部連中は顔を真っ赤にして怒号をあげた。

 ふふっ、ざまあみろ、だ。ちょっとすっきりしたわ。


「こやつを断罪しろ! しょせんは倒すべきブルジョワの者だ!」


 もはや乾いた笑いしか出ない。と思ったら、別のところからそんな笑い声が届いた。

 クラウディードだった。


「きさま! なにを笑うか!」

「いや、実に滑稽だな。きみらは自分の手足を切り落とそうというのか? それもとびきり優秀な手足を。まあいい」


 クラウディードが笑みを浮かべる。


「きみらが要らないなら、ぼくがもらい受けるよ。前から欲しかったんだ。いいだろう?」


 イリーナの心臓がひときわ高鳴った。

 なんて言った? この人は今なんて言った?

 わたしを欲しいと? こんなわたしを?


「へらず口を! 囚われの身で何ができる! さっさと首を刎ねてしまえ!」


 クラウディードは平然としていた。

 死地にあってもこの態度。その不敵さが今のイリーナにはこのうえなく頼もしかった。

 ああ、この人に寄り添うことができたなら。


 だが回りは全て敵だった。一人の味方もなく、武器も取り上げられたイリーナは数瞬の後に哀れな骸となり果てるだろう。


 そう思った彼女は、忘れていた。

 広場にこの足場を組んだ者は誰なのかということを。


 刹那、イリーナの足もとに真っ黒な穴が開き、彼女を飲み込んだ。

 彼女だけではない。囚われのクラウディードも共に、広場中央の舞台の中に飲み込まれてしまった。



 ◇



「お嬢! 無事ですかい!?」

「へへっ。おれらの仕掛けは大成功だね」

「えっ? えっ?」


 薄暗い場所で、イリーナは呆然としていた。もう死んだものとおもっていたのに……。


 彼女を取り囲んでいるのは見知った者――麻薬を扱っていたブルジニク商会にいた者たちだった。

 商会を整理した後もイリーナは彼らを気遣い、生活の面倒を出来る限り見ていたのだ。表向き行き場を失くした彼らだったが、イリーナのおかげでなんとか生きながらえることができた。


 それに恩義を感じていた者たちは、動乱にあってイリーナの下に参じ、彼女につき従ってきた。ついに最後まで戦い抜いた彼らだったが、革命軍内での地位は高くなかった。主人であるイリーナと同じく、日陰者という扱いをされていたのだ。それゆえこの舞台の設営という雑役を命じられたのである。


「みんな、どうして……? いつの間にこんな仕掛けを?」


 呆然と問いかけるイリーナに、男たちはにこにこと口々に答える。


「そりゃあ、お嬢のためでしょうが」

「そうそう、お嬢の想い人がここで処刑されるって聞いて」

「これを助けずにどうするんですかい」

「まさかお嬢まで助けることになるとは思いませんでしたがね。共に救出成功だあ」

「なっ!?」


 いきなりど直球な返事をくらって、イリーナが赤面する。


「な、なななにを。何を言っているの? わたしの想い人って誰よ?」

「そりゃ、今お嬢を抱き上げているお方でしょうが」

「ひうっ!?」


 首を傾げた間近にクラウディードの顔があって、イリーナは仰天した。飛び退ろうとして、自分の脚が宙に浮いていることに気づく。

 イリーナはクラウディードの腕の中にいた。二人ともに落下するわずかの内に、クラウディードはイリーナを抱き止めていたのだ。そしてイリーナの腕はクラウディードの首に回され、しっかりと抱きついていた。


 その体勢に気づいた時、イリーナは瞬時に耳まで真っ赤になってしまい、その姿勢のまま硬直して動けなくなってしまった。


「あ……………………」


 何を話そう? 何か話さなくちゃ……。

 けれどそんな努力はもう彼女にはどうでもよくなっていた。

 ずっと思い続けてきた人が、夢にまで見た笑顔を向けて自分を見てくれている。自分を抱き上げてくれている。ああ、なんてことかしら。


「……あ…………あの、重く…………ありませんか?」


 おずおずと問いかけるイリーナに、「ふむ」と思案顔のクラウディード。


「さすが鍛え抜かれた筋肉だ。少々重い」

「まあ! ひどい!」


 よりにもよってレディにその答えですか。いくらわたしでも傷つきますよ。


「だがきみを抱いてなら、千里の道も飛んでいけそうだ」


 笑いかけるクラウディードの笑顔に、イリーナは再び顔が火照るのを感じる。


「お楽しみのところすみませんが、お嬢」

「だっ! 誰がお楽しみよ!」

「続きはここを脱出してから、ということでね」

「だから続きってなによ!」


 恥ずかしさに大声を上げるイリーナを囲んで、薄闇の中を男たちが移動する。残念ながらこの舞台は敵の真っただ中にある。一歩外へ出れば回りは敵ばかりだ。


 男たちの表情が引き締まる。これから、敵となった革命軍の中を切り抜ける。

 容易でないことは想像がついた。


 やはり無理だ。イリーナは思った。

 イリーナを降ろすクラウディードに、彼女は語り掛けた。


「あの……クラウディードさま?」

「ん? 何だい?」

「わたしと一緒に死んでくださいますか?」


 もう充分だ。最後にクラウディードと一緒にいられるだけで満足だ。

 これ以上自分のために人を死なせたくない。


「いやだね」

「はっ?」

「ぼくは生きてきみと幸せになりたい。きみはいやか?」


 そう言って彼は、とびきりの笑顔を向けてくれたのである。


「そんな、いやだなんて……」


 真っ赤になるイリーナの頬に、クラウディードは手を伸ばした。イリーナはその手をそっと自分の手で包み込む。

 暖かかった。胸が苦しかった。心があふれる思いでいっぱいだ。

 好きな人と一緒にいられる。これが幸せという感覚なのだろうか。


 クラウディードは空いた手で剣を受け取ると「さあ、行こうか。わが姫君」とイリーナに笑いかけた。そして顔を上げた瞬間、戦士の顔になると男たちに号令したのだ。


「さあ者ども! 我らが姫を守りまいらせよ! 姫の幸せはひとえにお前たちのはたらきにかかっているぞ! 者ども、奮え!」

「おおう!!!」

「は、恥ずかしいからやめてください!」


 恥ずかしさに身もだえするイリーナにからかい半分、祝福半分の視線を投げ、男たちは勢い込んで白日のもとへ飛び出した。


 クラウディードを先頭に当たるを幸い、敵を撫で斬りにしていく。

 広場は大混乱におちいった。


「遅れるなよ!」


 後ろを振り返らなかったが、クラウディードは確信していた。後ろにはぴったりと、イリーナがついている。剣をかまえて。


 クラウディードの天衣無縫な剣につき従う、イリーナの激烈な剣。ときに絡み合い、ときにかばい合い、二振りの剣は生まれついての一対の武器であるかのように生き生きと奔り、革命軍を翻弄した。

 何度も刃を交えて、二人はお互いを知り尽くしていた。クラウディードの変幻自在な技についていけるのはイリーナだけであり、イリーナの破壊力を使いこなせるのもクラウディードだけだった。


 それでも数にものを言わせた革命軍は、力にまかせて二人を押しつぶそうとする。その時。


「お嬢さまあっ!!」


 場外から敵陣をぶった斬って飛び込んできたのは、特大のハルバートを手にした侍女のヴェロニカだった。


「不肖ヴェロニカ、お嬢さまと未来の旦那さまをお救いするため、参上いたしましたあっ!」

「恥ずかしいこと大声で叫ばないでよ!」


 自分の上半身ほどもある凶刃を振り回し、主人の血路を開かんと暴れまわるヴェロニカに続いたのは、クラウディードの侍従に率いられた王家親衛隊の生き残りだった。


「殿下! 殿下はいずこにおわしますか!?」

「ここだよルカ。相変わらず無茶をする」

「殿下に言われとうございません! して、未来の奥さまとの首尾は?」

「恥ずかしいこと、訊くな」


 同時に赤くなるクラウディードとイリーナを全員が祝福の目で眺めやり、いたたまれなくなった二人は再び鬼神のごとく敵に襲い掛かったのであった。


 百人を斬られるころには、革命軍に戦意の残っている者はいなかった。

 もはやクラウディードとイリーナに剣技でかなう者はいなかった。それ以上に、二人がかりで繰り出す変幻自在の剣は、どれほどの人数でも止めることはできなかったのである。



 ◇



「やっと二人きりになれたね」


 そう言って、クラウディードは自分の言葉に照れてしまう。


「もう……そんなご様子では、わたしの方が恥ずかしくなります。しっかりしてください、クラウディードさま」


 そう言うイリーナの頬も真っ赤だ。


 首都を脱し、王国の北西の果てで落ち着いた一行は、そこで改めてクラウディードとイリーナを冷やかしにかかり、さんざんいじり倒した末に、二人きりでテントに放り出したのである。


「でも、長かったなあ……本当に、長かった」

「ええ」


 二人ともどれだけの回り道をしたのだろう。

 自分のたどってきた道、努力してきた日々、そしてお互いを思い続けた日を思って、二人はしばし物思いに沈んだ。


「でも」


 イリーナがぽつりと言う。


「すべてが無駄ではなかったと……そう、思えます。これまでの日々がなければ、わたしはクラウディードさまに胸を張って会えなかった」


 可愛くなろうと頑張っている子が可愛くないわけがない。


 その言葉がいつも自分を力づけてくれた。だから頑張れたのだ。この人に相応しい自分になれるようにと。


「そう……だな」


 短く答えるクラウディードも、彼女に見てほしいと、そういう自分になりたいと思い続けてきた。それが今の自分を作ったのだ。彼女を支えられる自分に。


「これからもよろしく頼む」

「はい。それで……あの……クラウディードさま?」


 イリーナはもじもじと、頬を染めている。


「あの、名前を呼んで……くださいませんか? イリーナ、と……」


 第三王子にして変幻自在の戦士もこの攻撃にはまったく抗えず、しばし硬直したままであったが、


「……イリーナ」


 このうえなく優しい声でその名を呼ばれた伯爵令嬢は、苛烈の剣との呼び声もどこへやら、手も足も出ずにあえなく沈められたのであった。



 ◇



 その後、内部抗争の果てに十年ともたず瓦解した共和国に代わり、北西に興ったちいさな国が全てを支配下に収め王国の復興を宣言した。まだ年若い王と王妃は、戦場にあっても王宮にあっても常に共にあり、手をたずさえて困難を乗り越えてきた。


 すべては遠い日の、お互いの言葉。

 何年も経って、その言葉は花開いた。

 そして今、実を結ぼうとしている。


「おめでとうございます、王妃さま。可愛らしい王子さまですよ」





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