闇の中に潜む者 11
「それは迂闊としか言えないね。ああ、本当に迂闊だ」
無警戒に右手を伸ばしたイーリス。それに対してミスター・ブラックが反撃をするのは至極当然と言えるだろう。
といっても、ミスター・ブラックにイーリスを倒せるわけもない。ミスター・ブラックは策略家だ。配下に戦わせることはあっても、自分自身が戦うことはない。
故にミスター・ブラックが選ぶのは逃走。ブラック・ボックスから出た瞬間に強烈な光を放つ閃光と、十分間はその場に留まり続ける煙を放つ煙幕の魔法を発動。それを目眩ましとして、その場からの逃走を図ったのだ。
無論ミスター・ブラック自身も何も見えなくなるが、問題はない。ミスター・ブラックができないことは、他の誰かが補うだけだ。
「頼んだよ」
ミスター・ブラックにできないことは、常に控えている側近の女性が補う。潜入、暗殺、扇動など、ミスター・ブラックに足りないあらゆることを補う有能な側近は、その戦闘能力もなかなかのものだ。さすがにイーリスに敵うレベルではないが、ダイアナ程度ならば互角に戦えると、本人から聞いている。
その側近にかかれば、この混乱した状況でミスター・ブラック一人を連れて部屋から抜け出す程度造作もない。集まった生徒たちはおろか、イーリス、カイル、そしてダイアナも、この状況に混乱し、立ち竦んでいるのだから。
であれば後は簡単だ。ミスター・ブラックはブラック・ボックスの中に引っ込み、側近がそれを持って人の森を走り抜けるのみ。時折邪魔になる生徒には申し訳ないが強制的に退いてもらった。
そしてミスター・ブラックが動き出してから三十秒後。ようやく光と煙は消え去った。自然経過で消えたのではなく、生徒たちが対抗魔法を使って打ち消したのだ。
しかし、三十秒もあれば行動を終えるのには十分すぎる時間だ。そのわずかな時間で、ミスター・ブラックとその側近はイーリスの部屋から見事に姿を消していた。
あまりにもあまりな結末だ。ここまで苦労して追い詰めたというのに、最後の最後で、覇王勇者自身のミスで、憎き怨敵を取り逃してしまったのだ。
場を冷たい空気が支配する。ほぼ強制的に手伝わされたというのに、手伝わせた本人の失態で、目的の人物に逃げられてしまったのだ。
だが、その本人はどこ吹く風。ほぼ全員に睨みつけられているというのに、涼しい顔で窓から外を眺めているのだ。
実際イーリス自身も自らのミスで取り逃がしたとは思っていない。逃げられたのであれば仕方ないと、そう思っているのだ。きっと逃げるだろうと、イーリスは信じていたのだ。
イーリスの部屋からは逃げ出すことができるだろうと、イーリスは信じていたのだ。
「本当に迂闊なのはどちらかしら?」
だからこそイーリスの口から出てきたのはその言葉。ボソリと呟いたその言葉は、隣に立っていたカイル以外の耳には届かなかった。
そして、その場からダイアナが姿を消していることにも、誰一人気がついていなかった。
◆
「逃げられるかな? ああ、逃げられるといいね」
側近の動きをミスター・ブラックはブラック・ボックスの中から見つめていた。五感ジャックの応用で、側近の視界を共有しているのだ。
ミスター・ブラックは全て見ていた。一から十まで、一から百まで、この学園でのイーリスの動きを全て見ていた。
じわじわと、嬲るかのようにミスター・ブラックを追い詰めていくさまを、ミスター・ブラックは全て見ていた。
だから、知っている。見ていたから知っている。自分の末路を知っている。
魔法学園理事長の魔法により、ミスター・ブラックの居所は筒抜けだ。どこに逃げようとも、イーリスが、カイルが、ダイアナが、生徒たちがすぐに追ってくる。
きっと今も追っているのだろう。理事長のマッピング改の魔法でミスター・ブラックの居場所は筒抜けなのだから、それを頼りに追っているはずだ。
では逃げるためにはどうすればよいか? 隠れ場所のないこの学園で、一体どこに隠れればよいのか?
隠れ場所がないのだから、どこにいようと同じことだ。ならば、一か八かまっすぐに駆け抜けるしかない。万が一の可能性にかけて、ひたすらまっすぐ走り抜けるしかない。
イーリスが迫ってくる前に、何とか学園から脱出し、逃げ切る以外にミスター・ブラックが生き残るすべはない。
だからミスター・ブラックは命令した。側近にまっすぐ駆け抜けろと、人のいない方向へまっすぐに全速力で駆け抜けろと、ミスター・ブラックは側近に命令した。
忠実なる側近は淡々とソレに応えてみせた。シノビであるダイアナに迫る速度で、疾風のように人の姿のない学園をまっすぐに、ひたすらまっすぐに側近は駆け抜けた。
そうして迫ってくるのは、魔法学園を覆う重厚な壁だ。圧力すら感じるほど重厚な、人の侵入を阻むその壁は、物理的な結界だ。魔法を用いずに、人の心理に巧みに働きかけ、人払いの結界と同様の効果をもたらす。
だが、どうしたことかその結界が一部だけ破れているではないか。偶然壊れていた? 点検していなかった?
否。
追われているとわかっていて、何の対策もしないなどありえない。イーリスがミスター・ブラックへの対策をしたように、ミスター・ブラックも追い詰められた時の対策をしていたのだ。
ミスター・ブラックは情報がないと途端に弱くなる人間だ。イーリスが魔法学園に潜んでいる自分を見つける可能性があると知っていても、最適な対策を考えられなくなるほど弱くなってしまう人間だ。
だが、そんな状態でもできることはあるものだ。
隠れ家を作る。逃げ道を作る。そういった典型的なことであっても、逃げるための有効な手立ての一つとなり得るのだ。自らの有能な側近に命じて、逃走の準備をさせることくらいはできるのだ。
万端とは言えないが、ミスター・ブラックも逃走のための準備は進めていたのだ。イーリスの情報を得て、最高のタイミングで脱出するべく機会を待っていたのだ。
まあ、結果はご覧の通り這々の体で逃げ出す羽目になったのだが、それはそれ。準備していたものの一つである、壁の抜け穴を使ってミスター・ブラックは逃げるつもりであった。
だが。
だが……。
だが――。
「なんて周到な……」
準備していたその抜け穴。壁に人が一人通り抜けられる程度の大きさの穴を開けて、その後簡単に壊せるほどの脆さを保つ程度に補修することで作り出した逃走用の穴。
ミスター・ブラックの目論見通り、その穴を通って魔法学園を抜け出すことはできた。後は見つからない内に逃げるのみ。いざ進まんと側近が駆け出そうとしたその瞬間、ミスター・ブラックと側近はそれに気がついた。
魔法学園を覆っている巨大な壁。そのすぐ外側を、魔法学園全体を包み込むように結界が張られているのだ。
その結界の効果は、内からも外からも出入りを禁ずるというシンプルなもの。シンプルが故に、真正面から破るしか結界に対処する方法はない。
しかし、こんな結界が張られることがあり得るのか? 魔法の知識の集結する魔法学園だが、究極的には学園であり、その第一の目的は勉学だ。生徒たちは魔法を学ぶべく登校するし、教師や理事長への来客もある。だから、このような結界を張ることは通常あり得ない。
一体誰が張ったのかは不明だが、結界を破らない限り、ミスター・ブラックが逃げ切ることは不可能だ。結界を破るべく側近が攻撃を仕掛けるが、その程度の攻撃では結界はびくともしない。蟻が巨象に挑むように、結界は悠然とその場でミスター・ブラックの行く手を阻み続けている。
右を見ても、左を見ても、結界はどこまでも続いている。上を見てもやはり結界は続いており、きっと地中にも結界は続いているだろう。
360度ミスター・ブラックは完全に包囲されてしまっているわけだ。まさしく文字通りに逃げ場はなく、壁の穴から学園内に戻ろうにも、そろそろイーリスたちがミスター・ブラックに追いついてくる頃合いである。
「待っていましたよ、ミスター・ブラックさん!」
更に、ミスター・ブラックの作り出した穴から彼女が登場したことで、ミスター・ブラックの状況は加速度的に悪化する。
アリス・イル・ワンド。イーリスへの病的かつ倒錯的な愛に生きる少女であり、愛というもの一つだけでイーリスにも匹敵する強さを手に入れた世界最強の一角である。
結界とアリス。前後を阻まれたミスター・ブラックは、ついに笑うことしかできなくなった。あまりにも絶望的すぎて、手のうちようがないのだ。
側近に命じようにも、側近の戦闘力はダイアナと同程度。ダイアナよりも強いアリスという少女には敵わない。
「いやいや、参ったね。ああ、参ったね」
告げて、ミスター・ブラックはブラック・ボックスから姿を現す。その数秒後、イーリスとカイルが、そしてついてきた生徒たちがその場に集結する。
「全て計算通りかい?」
「……その通りですわ、ミスター・ブラックさん」
集結した生徒たちの先頭に立っているのは覇王勇者イーリス・エル・カッツェその人だ。隣にアリスとカイルを侍らせ、嘲笑うように、だが油断なく刺せそうなほど強くミスター・ブラックを睨みつけている。
それだけで、ミスター・ブラックは察した。五感ジャックを使うまでもなく、全てイーリスが狙っていた状況なのだと理解した。
きっと、イーリスが逃げ出してから全て計算されていたのだろう。
それはまるで追い込み漁のように、イーリスの計算のもとに、全ては誘導されていたのだろう。
学園に来た当初、行き当たりばったりに探し回っていたのはきっとブラフか何かだ。自分自身を油断させるための演技なのだ。そうミスター・ブラックは考えた。
行き当たりばったりで探していただけであるが。
イーリスが考えていたのは、アリスに結界を張らせて誰も逃げられないようにしてから、ゆっくりと探し出すことだけ。具体的に探す方法は、当初思いついていなかった。
もっとも、それをミスター・ブラックが知ることはできない。探し方は行き当たりばったりだったが、行き当たりばったりなのはそれだけだ。思考を読むとわかっている相手に対策をしないわけがない。イーリスたちはミスター・ブラックの五感ジャックに対して万全な対策を取り、自らの思考の一切をミスター・ブラックに読ませることはなかった。
「どうやら側近の彼女の力でも切り抜けられそうにないね。残念だ。ああ、残念だ」
「哀れですわね。側近の名前も知らずに、側近の正体も知らずに……いえ、ここは彼女が上手だったと見るべきですわね」
「何?」
「既に傀儡憑依は解かれていますわ」
イーリスの言葉を不審に思ったミスター・ブラックは、自らが信頼している側近を見る。
側近はいつもと変わらない表情でミスター・ブラックを見つめている。その変わらない表情にミスター・ブラックは安堵しかけて――猛烈な違和感に気がついた。
こいつは、一体、誰だ?
ミスター・ブラックの背中にドッと汗が吹き出す。側近? 何のことだ? 誰のことだ?
コーラル機関を乗っ取ったとき、自分は一人だったではないか。切り捨てられる部下として人を使うことはあっても、信頼できる右腕として人を侍らせることはなかったではないか。
そして、ミスター・ブラックは思い出す。
イーリス・エル・カッツェは、シノビマスターと接触していた。
ミスター・ブラックはダイアナを、次いで側近を見つめる。どちらも浮かべているのは貼り付けたかのような微笑みだけ。感情の伺えないその微笑みは、気持ち悪いくらいに似すぎていた。
「シノビマスターの弟子であるダイアナさんは、元々コーラル機関に所属していたそうですわ」
そして、ミスター・ブラックが信頼していると認識していた側近は……。
夢幻のように、空へと溶けて消えていった。
「ですから、あなたと接触する機会も多かったでしょうね、ミスター・ブラックさん」
そして、ミスター・ブラックは理解する。自らにかけられていたそれを。
「いつ、かけられたのですか? シノビを相手に隙を晒すなど、油断しすぎですわ」
外法・傀儡憑依。相手をあらゆる意味で支配するシノビの技。外道の極地。
シノビマスターの使える術を、その弟子が使えない道理はない。
「そうか……今まで信じていた側近は……」
「ダイアナさんの分身ですわ」
そう告げられた瞬間、ミスター・ブラックは膝をついた。これ以上の抵抗を無意味と悟り、自らの終わりを悟り、呆気なく、潔く、ミスター・ブラックは観念した。
「終わりか。終わりだね。終わってしまったのだね。……ああ、楽しかった。実に楽しかったよ」
たった一人、唯一信頼していた者にも裏切られ、残ってしまったのは己独り。
実に似合いの最後ではないか。世界で遊び、世界を嗤っていた黒幕気取りの愚か者は、ついに世界の全てから見放されることとなった。
たった一人のシノビに全て操られていたことを理解したミスター・ブラックに、清々しいものすら感じながら、なすがままに拘束されるのだった。




