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S098 鏡の悪魔

今回も魔導学は好きに置き換えてください。


その者はいつもどこかで暗躍する。

その日が暖かなひだまりであっても。

燦燦と降り注ぐ日の光らも嘲笑い、夜の闇を引き裂き魔の正体を暴く月光すらも恐れない。

なぜならその者の住む場所は鏡の中。光は反射して鏡の中には届かぬもの。

そして鏡の悪魔は今日も鏡の中から誘惑する。



ケビンはいつもの様にデミに指示を出した。


「アリアナの所にいつもの様にケーキを運んでくれ。」


届いたばかりのケーキを満足そうにケビンは眺める。

有名店のショコラケーキ。

シュガーパウダーで雪化粧したボリュームのある質感。白と黒のコントラストを彩るフルーツとチョコレートで出来た飾り。ケーキのデザインなどケビンには良く分からないがそんなケビンでもこれはなかなか、と思えるものだ。

1ホール丸々大きなこれをケビンの愛の証として贈るのだ。甘いものが大好きな彼女は間違いなく喜んでくれるだろう。

ケビンは届いたケーキに合う容れ物も眺める。

今回限定の有名デザイナーが手掛けたパッケージは確かにこのケーキに相応しい。

黒を基調に白で女性の姿を形どったこのデザインならケビンが彼女を想う気持ちが伝わるだろう。ケビンはそう思いながら次に彼女に会った時、彼女はどんな反応をしてくれるだろうと期待に胸を躍らせながら部屋を後にした。


部屋に残されたデミはいつもの様に作業を開始する。

まずケビンが確認の為に開けたままのケーキの入った容れ物からケーキを慎重に、型崩れをしない様に取り出した。こういった細やかな芸当がデミの真骨頂だ。手先が器用だからと雇われたデミにとっては多少難しい程度で済む事だ。

額の汗をぬぐう振りをしながらも調子よく鼻歌を歌いながらケーキをカットする。


16等分に。


デミの器用さは本人も自認する程に正確だ。綺麗に16等分にしたケーキを眺めるデミは一仕事終えたという感でフン、と鼻を鳴らした。

さて、ここからだ、とデミはニヤリと笑う。

パレットナイフを持ち出したデミはそっと慎重に掬う様にケーキを持ち上げ容れ物である箱へと戻していく。デミの器用さはバツグンで、ほとんど崩れる事無く15個のカットケーキが僅かな隙間を空けて円を描くように並べ直される。カットする前とさほど変わらない、とデミは満足げに頷く。

無事にケーキをカットし終えたデミは箱を閉じトムを呼んだ。


「おい、トム!これをアリアナの所に持って行ってくれよ。」


トムは嫌々ながらもデミの言葉に従い箱を持って出かけた。

道すがらトムは考える。

デミが頼まれた仕事をなぜ俺がやらないといけない。ちょっとあいつはケビンに好かれているからって調子に乗ってる。代わりにするんだ。少し位良い目を見ないと損するだけだ。

とばかりに人気の少ない所で箱を開け、少しくらいならバレないと思いチェリーを1つばかり頂いた。思いのほか旨く、トムはもう少しだけとメロンも一切れ頂いた。

そうしてトムが歩いているとアリアナの所の下男を見つけた。これを押し付ければすぐに帰れる、シメたとばかりに下男のデイブを呼び止めケビンからアリアナへの贈り物だと告げて渡して帰る。

いきなり荷物を押し付けられたデイブはびっくりしたものの箱の中身を見てシメシメと思う。

贈り物なんてどんなものが贈られたのか贈られた側が詳細を知っている事なんてない。届いた時の形が贈られた物だと思い込むものだ。よっほど酷い時は疑うだろうが多少疑わしい程度なら問題ないはずだ。

そう思いながら、デイブはケーキの上に載っている綺麗にデザインされたチョコレート菓子を2,3個失敬して食べながらアリアナの所へ戻って行った。


デイブから贈り物を受け取ったアリアナはとても喜んだ。ケビンがプレゼントをくれる事は良くあるが大好物のケーキともなると話は別で、いつもどこかズレているケビンの贈り物でも今日ばかりは期待できるだろうと期待に胸を膨らませながら箱を開けた。


するとどうだろう。わざわざ大きな箱だから1ホール丸々だと期待させておきながらカットケーキが円状に並んでおり、1ホールだから綺麗なデザインが売りのケーキが台無しだ。更に切った時なのだろうか、店の売りの一つであるチョコレートで人形を形どったお菓子がないし、載ってるフルーツも少なくてみすぼらしい。しかもなんだこれは、と思えるくらいなぜか器用に個数が15という奇数で切ってあり、切る時に大きさを間違えて後でどうにかサイズを合わせたと言わんばかりの状態だ。しかし綺麗に大きさが揃っている15個はこれが意図的なのか手を抜いたのか良く分からないと思わせる。


載っているはずのお菓子が無くてモヤッとし、バランスが悪く少ないフルーツの盛り付けでモヤッとし、スッキリしない数のケーキでモヤッとする、結局は何か欠けていてモヤッとするだけのどうにも後味の悪そうなケーキを見ながらアリアナは思う。

これがケビンの愛という事かと。

それとも私の態度がそうだとでも言うのだろうかとも思う。いつもアリアナなりにケビンには愛想を振りまいていたのだがそれでもまだ足りないとでも言いたげなこのケーキはやはり当てつけなのだろうか、とも考えながらアリアナはケーキを口にした。


ケビンはデミに聞く。


「おい、ケーキは届けてくれたんだろうな。」


「はい。勿論です。」


「そうか。それでアリアナは何て言ってた?」


「それが丁度留守でして、家の者に渡しておきました。」


「そうか。アリアナが喜んでくれると良いんだがな。次会った時が楽しみだ。」


そうして数日後、ケビンは怒って家に帰って来た。


「くそ!あの女!あのケーキにどれだけ手間を割いたと思ってる!予約を入れるだけでも苦労したのにあの特別製のケーキでも満足しないだと!何が『あなたの愛が良く分かったわ。私をあんなので口説けるなんて思わないでね』だ!お高く気取りやがって!前からそうだ。どれだけ手間暇かけてると思ってるんだ。」


怒るケビンに興味も無さそうにデミは澄まし顔で立っていた。



町長は町を誇る。今日も我が町は平和そのものだと。

綺麗な並木通りに、平和そうに行き交う人たち。どこにも後ろ暗い所などないと満足げに町を眺めているといつも良く見かける少女が歩いていた。

花売りだ。そこの孤児院で暮らしていて町長も孤児の居ない町にしたがっていたがそこまではどうにも出来ずに居るのが現状だ。事故でなくなった者や犯罪被害に遭った者などが子供を残して居なくなる。そうなるとさすがに町長も親は作れないから孤児院に住んでもらう事になる。町が親代わりとでも思って貰うしかない。

そう思い町長はメアリに話し掛ける。


「やあ、メアリ。今日も元気だね。お花は売れているかい?」


「はい、町長。気に入って買ってくれる男性も居るんです。」


「そうか。少しでも孤児院の為に働こうとして偉いぞ。じゃあ私も買おうかな。」


「え・・・、えっと。このお花ですか?それとも違うお花ですか?」


「ん?いつもは違う花も売っているのか。そのお花で良いよ。」


「はい!ありがとうございます!」


メアリの嬉しそうな声を聞き満足気な町長はその場を立ち去ろりながら、後ろでメアリに話し掛ける男性の声を聞く。


「やあ、メアリ。今日は別の花は売っているのかな?」


「あ・・・、はい。売ってます。」


町長はその声を聞き、どうやらメアリの花は人気で良く売れてるようだなと思い、わざわざ買わなくて良い花を買って、皆メアリに頑張ってもらいたいんだろうと思いながら帰路についた。


メアリに話し掛けた男性が聞く。


「前は月のものでタイミングが合わなかったからな。今日は大丈夫なんだろう?」


「・・・はい。銀貨1枚です。」


「へへ。じゃあ楽しませてもらおうか。」



ジーンはコルニに椅子作りを依頼した。


「綺麗でしっかり座れる良いのを頼むわね。足の長さが違うとか止めてよね。」


「ああ、分かった。良いのを作るよ。」


コルニはそう言い、ジーンが返った後に作業を始めた。

まずコルニは桐を使う事にした。桐は綺麗で軽い。女性にも扱える重さになるだろう。

そこそこ強度もある。という事にしておいた。ジーンに話す分にはこれ位で充分だろう。


コルニも職人としての意地がある。手を抜いた作業はしない。作業だけは。そこを指摘されると手抜きだどうだと値切る奴が出てくる。それでは儲けにならない。職人としては何度も依頼してくれる方が儲かる。なら手を気づかれない様に手を抜いた方が良い、のだがその気づかれないというのが意外と難しく、粗探しをする奴がいるのでなるべくここでは手を抜かない。


桐を使い、薄くニスを塗りツヤ出しして、背もたれもまっすぐだが革張りで背当てを作る。柔らかい木材なのでそこまで文句を言われないだろう。足の長さがそろっているのは勿論、ねじ止めもしっかりしているのですぐにガタは来ないだろう。


そうして完了報告をしてジーンにコルニは椅子を見せた。生木の美しさを損なわない木目調に桐の白さが目に映えるそれをジーンはいたく気に入った。肌ざわりのゴツゴツしておらず持ってみても軽い。これは良いものだと思ったジーンはコルニに感謝する。


「ありがとう、コルニ!良いのを作ってくれたのね。」


「ああ、ジーンからの頼み事だからな。でも、ちょっとな・・・」


「え、何?」


「ちょっと材料が手に入りにくくて値が張るんだ。ちょうど金貨1枚。」


「金貨1枚!?高すぎるわよ。」


「でもなぁ、もう作っちゃったからなぁ。」


「・・・良いわよ、それで。ほら。」


「へへ。毎度。でも良い座り心地だと思うぜ。」


「でしょうね。そりゃ金貨に座る様なものだもの。たっぷり堪能させてもらうわ。」


そう言ってジーンは帰って行った。ジーンの居なくなった場所でコルニはニヤつきながら一人呟く。


「へへ。本当に毎度どうも。しばらくは良い座り心地だと思うぜ。まあちょっと他より壊れやすいかも知れないけどな。」



ゴルディはスティーブにヴィンスの食事を作れと指示されたのでいつもの様に料理する事にした。予算は貰ったが普通に作れば幾ばくも残らない。ならゴルディの腕の見せ所だ。


ゴルディはいつも行く市場へ買い出しに行き、品定めをする。


まず野菜を見る。

いつもの様に捨て値で売られている見映えが悪かったりするもの、ぶつけて折れた人参、皮が青みがかったジャガイモ、虫食いがあるキャベツといったものを買う。

次は肉だ。

肉を綺麗に切り取った後に骨の周りにどうしても残る骨の曲がりに付いている肉をこそぎ落としたくず肉を安く買い取る。後は店が早く売ってしまいたがっている傷みかけ寸前の肉も捨て値で買い取る。ミンチにしてしまえばくず肉かどうかなんて分からないし、傷みかけかどうかなんて調理してしまえば食う側には分かりもしない。大丈夫、あいつの腹は頑丈だ。

そして最後に魚だ。

表で売られるのは見た目良い売れやすい魚だ。だが漁師の持ち込むのはそういったものだけではない。見た目がグロいのや、どこか変な魚、いわゆる奇形魚だ。そういったものは表には出されず、まともな見た目のものと違いがない部位を切り身にして売る。店が積極的に売る場合もあるがまあ、そういった需要もあるのだ。普通の価格では買えない者向けに売っている。需要があるなら売る。それが商人だ。そして俺の様な奴が有効利用する。世の中上手く出来ている。


ゴルディは食材を調達して調理場に戻ると早速調理を始める。食材を見られたら何を言われるか分からないから急ぐに越した事はない。


まず水だが綺麗な水は高いので安い水を使う。どうせ味を付けてしまえば水の不味さなんてわかりゃしない。

くず肉はどんな形をしていたか分からない様にミンチだ。ハンバーグとか肉団子とかそんなので充分。パン粉もボソボソのパンを刻んで作れば処分も出来て一石二鳥。

見た目が悪い程度なら切ってしまえば問題ない。どんなものだったかなんて元を見てなけりゃわかりはしない。切れ端だってそのままならバレるがすりつぶしてマッシュドポテトで大丈夫。しなびてヘタっているのなら煮込みだ。元から柔らかいのか煮込み過ぎて柔らかいのかなんてその時にはわかりゃしない。文句を言われても煮込み過ぎたと言って誤れば大抵は大丈夫。

魚も一緒で、すり身で団子。これが一番。勿論そのまま食えそうなのは形が分かる様にしておかないとさすがに怪しまれる。

とりあえずなんでもかんでも鍋に放り込んでおけばよい。ごった煮なら肉でも野菜でも魚でも大丈夫だ。

傷みかけで危なそうなのは油で炒める。良く火を通しておけば食当たりもまあないだろう。傷みかけて不味そうなら味付けを濃くすれば良い。鼻を刺激するような匂いで誤魔化せばバレない。


要はバレなければ良いのだ。バレてヴィンスがスティーブに報告すればマズイ事になるが、ヴィンスが気づかないならスティーブに告げ口をしない。その絶妙な具合を加減するからこそ私はこうして料理出来ている。ヴィンスは腹が膨れ私は懐が膨れる。どちらも良い思いをするだけだ。そうゴルディは考える。


そうしてヴィンスに食事が振舞われる。肉団子とすり身団子を野菜と一緒に煮込んだ鍋、油で揚げた唐揚げ、香ばしい匂いの立ち込める焼きそば、サラダはマッシュドポテト。ヴィンスはそれを見て言う。


「今日もなんか組み合わせが変だけど一杯だね。いただきます。」


普段からゴルディの料理を食べているヴィンスにはいつもの食事だった。



ペテロはテッドに指示した。


「小国と言えば王子は王子。王子らしい食事を用意しろ。」


「はい。」


そう答えたテッドは早速買い出しに行き、王子に料理を振舞った。

食事後に王子はペテロにこう言った。


「ペテロさん。あなたが私をどう思っているか扱いで良く分かったよ。残念だ。」


「え、ちょっと待ってください!私はちゃんと持て成して・・・」


「いや、もういい。これで失敬する。ではまた。」


そう言って王子は帰って行った。

王子を見送ったペテロはテッドを呼びつけた。


「おい、テッド!俺はちゃんと王子に王子らしい食事を用意しろと言ったよな?どうやったんだ?」


「はい。勿論王子らしい食事を用意しました。」


「言って見ろ。」


「はい。実は近くに最近チェーン店『王子』が出来まして。『王子らしい』食事という事なのでそこからテイクアウトしました。」


「なぜそれで良いと思った?そんなのは簡単に分かりそうだと思うんだが?」


「それならそれで言って貰わないと。私は『王子らしい』食事を用意しろと言われただけですので。」


ペテロは呆れて何も言えなかった。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。俗に言う悪魔の契約というものですね?」


「概ねそう。」


「提示された条件は満たしているが、そのやり取りで成立させているルールをお互いの信用で補っているのを悪用して明示されていない条件を自身に都合良く解釈して私腹を肥やす、という方法ですか。」


「やっぱりあるんじゃろうか?」


「残念ながら起こります。人間とは保身をしてしまう為に、ほんの僅かの優位差を手に入れて問題ないならそれを求めてしまいます。しかし、そこに知性がなければ容易く悪用して他者の利益を侵害する様になります。そしてそれが成功してしまいかつ罰せられなければその者の性質次第ではそれが他者の利益を奪っているとしても実行してしまいます。

知性が低く他者の利益を奪っている事に気づけない場合やその様な者に成る様に洗脳されて育ってしまった場合などがありますが割愛します。

私達は『ほぼ間違っていないだろう』という所まで物事を識別し、お互いに共通認識にします。私達が完全で世界の全てが解明されて明文化出来るなら問題もないのですがその様な状況に至っておりません。ですので基本的なルールはあっても全てのケースにどういった対応がされるべきかという明示はされていません。ですので明文化されたすべてのルールに臨機応変に対応する余地があり、また、その義務が課されますが同時にそれは都合の良い様に解釈出来る隙が存在しているとも言えます。


私達が生活する中でルールを使用していますが、それで全てに対応出来ないのは全ての可能性を知らないからです。それはどういった事かと言えば、まだルールは詳細に定義する必要性があるという事実を表します。

簡単な例えとしては、本物の絵と偽物の絵を比較してどちらが本物か識別する際に、偽物の出来が良い為に区別がつかないという状況になれば、新たに本物と偽物を識別するための条件を見つける必要があります。

定義したルールを悪用されて不正に利益を得られてしまうなら悪用されない様にルールを厳密にする必要が生じます。しかしどれだけ定義をしても、どれだけ制限をかけて不自由にしても私達はルールを完全には出来ていません。そこには根本的な問題として私達が"行為"している事が在り、それはつまり行動だけでは表せない"何か"が存在しているという事です。私達は概念を定義しそれを表現する為に体を使いますが、どう体で表現すれば良いかを決めて共通の認識とします。挨拶や食事をする際の言葉などで行為を表したりしますが、それは互いが同じ認識をするからこそ通用するものです。同じルール上にお互いが存在しているとも言えます。

ルールは定義した時には問題無く通用しますが、全ての状況に対応出来るかは分かりません。対応出来ない状況が存在した場合、ルールは変化する必要に迫られ変わります。対応出来ない状況が根本的にそのルールでは対応できない場合はルールそのものを変える事になり、また、似た状況でも違う結果になる場合などはより詳細に、より厳密に変化してルールを適用すべきかどうか、ルールをどの様に適用するかという多様性で対応します。

例えば、挨拶はお互いが出会っても無関心のままでいるとやがて相手を軽視し敵対行為を取っても問題無いと思う様になる事を防止する為に普段からの意識付けの為にあります。互いが互いに干渉し合う事で相手は自身の世界に居る人間であり、世界の中にある自身が何をしても文句も言わない物とは違うという事を認識させる為にあります。挨拶をして相手に意識させる事で、相手がもし仮にこちらに対して良くない感情を持っていればその反応で分かり、お互いに不満を持つ部分を話し合い、未然に争いを回避する為の方法とも言えます。

その挨拶ですが、挨拶が朝昼晩で違う様に、私達が朝にすべき事や昼にすべき事などその時間帯によって行なう行動を挨拶によって思い出したりする事があり、私達が制限を失くしていき朝も昼も関係なく行動するのを抑止する様にもなっています。夜にするべき事をしようと考えている時に朝の挨拶を聞いて、朝にするべきではないという罪悪感を感じて躊躇する様な状況を期待しルールが細分化されます。

しかしその挨拶によって、するべき時ではないと思われる行動を抑止する効果も、そもそもがそう思わない様な環境においてはその効果を成しません。そうなると挨拶を時間帯によって変えるのは無意味なものになり形骸化します。そうして抑止力の1つを失った為に容易に行動が行われる様になれば別のルールを決めて同じ効果を期待する様になり、ルールは増える事になります。

これは例えるなら服を縫う際の待ち針と同じです。服を縫う為に先に形を出す為に待ち針で縫いやすい様にしますが、1つで足りなければ2つ使い、目的に合う様に行います。

私達においては針で縫っていくという代わりに行為の繰り返しが徐々に目的とする形へと収束させていく事になります。大きな布から服を作ると考えて、それぞれの場所から徐々に皆で縫っていく状況を考えれば分かりやすいかも知れません。私達の精神がそういった成り立ちをしている為に私達の社会もその表現形として同じになる傾向を示します。私達はそれ以外の的確な方法を自身の経験や推論で知る事が難しいからです。同時に、私達の表現形としての社会が私達の在り方と同じであれば、社会からの経験により私達の在り方に対しての情報を強化する事が出来、情報強度の維持が出来ます。

私達の目的を達成する為に教育やミサを行い、私達の持つ情報を強化し、その強化された情報でもう一度教育やミサを改善して更に情報を強化する、という循環を私達は社会を作り行います。


わざわざ教育とミサを上げましたが、ミサについて分かりにくければ、教授若しくは先生を含めて行われるデスカッション、もしくは輪講とでも思うと分かりやすいかも知れません。宗教と言えば偉い人からの偉い教えを受ける場所というイメージがありますが、元々の目的は個々の生活の改善の助言をするものです。集団の中で集団全体と利害を一致させてかつその制限の中で個人の利益を最大限にする方法の模索と言えば聞こえは良いですがそういったものです。しかしその為には多くの制限が付きまとう事になり、教えを乞う側のイメージはこれになります。ごみ問題などに見られる様に、個人が軽視してしまう事も蓄積してしまえば問題になる様な事を制限するのが宗教の目的です。誰もが誰かに気づかぬままに加害している状況を失くして生活して向上させる事が出来れば、互いに争う事もなく目的へと皆の意見を一致させながら進む事が出来、もしかすると目的を達成できるかも知れない、というのが宗教のアプローチです。宗教は私達の精神を重きに置いて、魔導学は物質に重きを置きます。宗教は行為の重要性に焦点を当て、魔導学は行動の重要性に焦点を当てます。だから魔導学的な考えは時には私達の在り方と逆になります。数多くの行為から1つの行動や結果に縮退したものを、1つの縮退したものから行為を逆算しようとする事があり、情報の不可逆性により再現出来ない場合にはそれを扱う者の知性に信頼性が依存し、つまりは裁量を任す事になり、利権を生みます。それが"妥当"だと言える程の数多くの結果の蓄積の末でしか、悪用されて捻じ曲げられたものかどうかの判断が出来ません。


ルールを決める際に対象とした問題の全てを把握出来ているか分からない事に加えて、ルールを定義した事で状況が変化して、ルールを決める前とは違う環境になる可能性があります。形骸化する前と後では状況が違う様に、挨拶の効果は挨拶が習慣化した後に期待出来るかは明確ではありません。その習慣の効果を最初は実感するかも知れませんが、それが日常になった時、その作り出された日常では既に実感を伴わない可能性があり、また、真似をするだけの者も現れ効果を期待出来なくなります。内面を隠して表情は友好的にして挨拶すれば挨拶の目的などは失われ、しかし同時にそういった行動をする必要がある程に既に敵対的であるなど、1つのルールが正しく機能する為にはその定義をした時の状況が与えた根拠部分が必要になります。


しかし私達は『なんだか良く分からないもの』から『ほぼ間違いないだろう』というレベルにまで識別出来る様にする過程で、どれかをその基点にして積み重ねなければなりません。

服を縫う際の待ち針の様に形にしやすい様に留めておくものが必要になり、それがそれぞれの概念やルールの根拠になります。しかしそれぞれがそれぞれに根拠を持ち、実際にはその定義がされた状況が違う場合には違った世界から集めた寄せ集めのルールセットになっている可能性があります。そこに生じる不整合を失くしながら互いの根拠部分として整合性を成立させてようやく客観性を持つものになり、より多くの概念と整合性が取れたものほどより客観的なものになります。そうして大きな客観性を持っていくという事は、それだけその場しのぎのものではなくなっていくという事でもあり、特定の個人の主張に偏らない普遍性を持っていくという事でもあります。

例えば人物Aが人物Bを殴って物を奪ったとします。人物Aは利益を得てその行動を正しいとしたいですが人物Bは損失を被るので間違いだとしたい。それだけなら強い者が勝つという道理で人物Aの主張を支持する者が多いかも知れません。強ければ弱い者から奪い返されない為に、自身が強いなら絶対的な優位を持つ事が出来るからです。奪われるより奪う方が多い間は相対的に利益を得るのでその主張を支持するでしょうが、逆になれば支持しないでしょう。しかしです。その状況を繰り返す限り、互いを信用して出来る行為は何一つ行う事が出来ません。奪われるなら誰も作ろうとはせず、効率良い方法として奪う事を選択するでしょう。奪われるなら持っている事を隠す必要があり、誰も取引が出来ないでしょう。

そして役割分担して取引する事で優位に立てるなら相手を暴力で脅して物を奪うという行動は自身と自身を含めた集団を不利な立場にしていく行動という事になり、それまでの行動が示した行為とは違う行為になります。一方で取引において悪事を行い相手から不正に利益を奪う者が居ると取引は行われなくなります。不正に利益を得た事が判明し返還を求めても相手がそれを拒否する場合には物理的手段を行ってでも不正に奪われた利益を奪い返すでしょう。この物理的手段で相手から奪い返す事が出来ず、相手の不正を止めさせる事も出来なければ相手が優位なままではいつまでも不正に利益を得させる結果になるでしょう。

物理的手段で相手から物を奪うといっても、一方は純粋に相手から"物"を奪うという行動で、もう一方は相手から"相手に不正に奪われた物"を奪うという行動になり、一方は取引を成立させなくする行動で、もう一方は取引を成立させるための行動になります。取引という行為を日常に追加する事で優位性を得る事の代わりに、"物"という概念に"相手から不正に奪われた"物という状態を追加する事になり、その識別が必要になってきます。また、取引が成立する環境を成立させる為に暴力という物理的手段で相手から物を奪う行為を同じ様に”不正に”相手から物を得る行為だと定義する事になります。

その定義の変化で物理的手段を用いる場合に制限を加える事で、取引が成立する環境と両立出来る様になり整合性が出来ます。


しかし私達が概念の整合性を得る時に問題とするのは、概念は目に見えるものではなく、概念を表現したものを通してしか見る事が出来ない事です。抽象概念に至っては見る事が出来ず、誰かの行動として表現されたものでしか表す事が出来ません。


『歩く』という概念ならまだ分かりやすいでしょう。その行動を表す概念です。

しかし『愛』というものになると難しくなります。花束を贈っても愛になる時もあればそうでない時もあり、抱きしめたら愛になる時もあればならない時もあります。『愛』という定義を他者の行動から推測する事しか出来ず、数多くの愛の表現からおよそ愛と呼べるものを導き出す事になります。

そうして作り出された客観的な概念の定義を基準に私達は私達の行動を推し量ります。

この行為を『鑑に取る』と言います。

私達は概念を体現した者に対して『〇〇の鑑だ』という言い方をします。意味合いとしては『お前こそ〇〇だ』という様な意味になります。定義した概念の条件に合致する場合に使われます。『お前こそ戦士だ』や『あなたこそ弁護士だ』や『あなたこそ王だ』などと言う言い方をします。役割を与えられたとしてもそれに相応しい者ではない場合があり、そういった者が居る中で役割を果たす為に定義された条件を満たし、かつ役割に支障をきたす様な枠組みから外れた行動をしない者を表します。


この『鑑に取る』という行為が問題になります。共通認識や基準として提供された概念を個人の能力で判断する事になり、その個人の識別能力で精度が左右されます。同じ人物の行動を見ても個々人が違う精度でその行動を識別する事になります。

例えば誰かにとって『歩く』とは『足を動かして前に進む』かも知れませんが、別の誰かにとっては『背筋を伸ばし腕を軽く振りながら足を動かし前に進む』かも知れません。また、『背筋を伸ばし顔をまっすぐ前に向け、腕は体の側面に伸ばし手先までまっすぐにして歩幅に大きな狂いなく一定間隔で足を踏み出し前に進む』かも知れません。しかしどれも広義において『歩く』と言え『歩く』という概念定義における最低限の条件を満たしていると言えます。

ではどこに問題が発生するかとなると、その『歩き方』などの条件以外の部分になります。片足で跳び跳ねる様に前に進むのも『足を動かして前に進む』事であり『歩く』と呼べるかも知れません。ほとんど前に進んでいない様な、亀の歩きに例えられる様なものでも『歩く』と呼べるかも知れません。後ろ向きになり進行方向へと進めば『歩く』と呼べるかも知れません。しかしそれらはあえて必要のない行動を足している為に、目的を達成する為に支障となると判断された場合は『歩く』とみなされません。

どの様な行為も目的があり、その目的に適した行動が望まれます。遊んでいる時なら先ほど例に挙げた歩き方をしてもうるさく言われないでしょう。しかしそれが何か目的があり、物を運んでいたり作業している時などは指摘されるでしょう。その余分なものが目的に支障をきたす恐れがあるからです。

より大きな概念を実現する時にその要素として単純な概念が使われ、その目的に合わせた条件が組み合わされる要素となる概念に方向性として付随する事になります。

作業などでは効率を考える事になり、その最中に後ろ向きに歩いたり片足で跳び跳ねたりすれば、多少なら目的に影響しないでしょうが過度になれば支障をきたすでしょう。また、私達は互いに互いの精神など見る事が出来ません。そのため、他者に信用して貰えない若しくは他者を信用出来ない場合は逐次確認をしなければならない状況になり、余計な付け足しは信用して良いか疑わしくなる為に好まれません。子供が親に保護されている状況で言われた事に従って行動するがその結果そのものに執着しない状況と同じに感じて不安に感じ、もしその余計な付け足しを容易にしてしまう者が何か問題が発生しないかと常に気を配る事になり周囲は不安になります。


その為、他者と共同作業したり役割を与えられたりする時には信用が必要になります。個人でするならしても構わない様なものも他者と一緒に行なう場合、誰かがするが他の誰もしない、という様な状況になれば不平等になり、誰もが楽をしたい為に収拾がつかず混乱し共同作業の効率が上がりません。ですので最低限のルールを守れる様になってからしか作業や役割に参加させる事が出来ません。

作業や役割をこなす基準を満たしていると判断した時、資格を有していると言います。"資"とはリソースを意味し、能力や材料などを指し、"格"とはそれ単体で基準を満たしている事を指します。"資格"とは役割や作業を行う際に、誰かに頼る事なく問題なくこなせる能力がある事を証明するもので、誰か信用の出来る人物が他者を評価して判断するものです。

"資格がある"とは役割や作業をこなして目的を達成出来ると思われるだけの能力や道具や材料を提供出来る事を指します。

かつては資格があるかどうかは信用出来る者が判断してきましたが、私達の精神は目に見えず、どの様な判断で資格の有無を判断しているのか分からず、だからこそ悪用されてきた為に、より客観的に判断出来る様に形に見える条件を作り、達成した者に資格を与える方法へと変化しました。

しかしその方法にも悪用出来る部分が存在し、いわゆるカンニングによって以前の基準から見て能力が劣っていても資格を得るための試験に合格出来てしまう状況になります。以前は信用出来る者が判断し、その判断によって資格の有無が決められ、その判断基準は分かりにくいことで、何を重点的にすれば試験に合格するのかがわからない事で、資格を得ようとする側は試験に合格する為の特化が出来ずに、地道に経験を重ねる事で、資格を得ようとする役割の知識に隙がない様に積み重ねていきました。

簡単に言えば、どの問題が来るか分からないなら全てのカテゴリーを学ぶしかない、という状況だったと言えます。しかし誰でも見て分かる様に形を決めると、その形に合わせて合格できる様に真似すれば良いだけになり、効率を求めるならカンニングが一番になります。問題に大きな変化があっては試験毎に難易度が変わり、受ける者と利害関係が一致しているかどうかで難易度を変える事が出来、わざわざ形に見える試験にした意味がなくなります。そうなると難易度を同程度にするために問題も似たような問題ばかりになり、試験を受ける側は予想が出来てしまいます。そうなると試験に出そうな知識は得ますがそうではない知識はほとんど得ずに合格し、以前の基準から見て劣化した資格保持者が生まれます。


資格を目に見える形にするという事は、与えられた役割をこなすだけの基準を満たしているという考えの『鑑を取る』事になります。

しかし鑑に取れるのは明文化出来るものだけです。私達の精神の詳細な部分まで定義出来ず、その定義の代わりに詳細なルールを設定して代用しようにも私達の能力がそれを難しくします。定義する為の多くの蓄積と定義した内容を履行出来るだけの能力を必要とし、詳細に定義した為に多くの手順を踏み手間がかかる事で効率が低下するという状況によりその方法は実現不可能になり、そこから段階的に下げた劣化した妥協案で安定します。妥協した時点で定義は曖昧な不確かな部分を持ち、個々人の識別能力に依存する事になります。

私達は精神を見る事は出来ません。ですのでルールに『誠実に』などと条件が付加されていてもどういったものが『誠実』かそしてどれだけの基準を満たしていれば『誠実』か明確に決める事が出来ず、出来るのは多くの定義で個々の持つ変化量を誤差の範囲にまで収束させる事だけです。『誠実』とは『騙して物を売らない』事だ、と定義したとして次は『騙す』、『物』、『売らない』を定義する必要になり、『騙す』を『相手を錯覚させて不正に利益を得る』と定義すると、今度は『相手』、『錯覚』、『不正』、『利益』、『得る』という定義が必要になります。それら全てを個々の資格で定義していては状況の変化で内容も変えなければならず、効率は上がらず、そして変化した際の定義変更の差により錯覚を生み出し混乱し争いの元になります。

これは役割や作業で定義しても同じです。ですので、自身の属する社会において新たな知識や新たな技術が導入される事がなくなるまで、私達は詳細な定義で問題を解決する事が出来ません。

例えるなら料理して鍋に物を放り込んだら水面は波紋が広がるし影響も出、放り込んだものが煮えるまで食べる事も出来ない、つまりは用に足りる様にはならない事と同じです。一緒に煮詰めてある物は暑く別の物は冷めたままというバランスの悪い状態ではなくなって良い味に仕上がったら冷まして食べる、という事です。勿論、放り込む方法を変えれば多少の問題はなくなります。煮えた鍋に少量の材料を追加しただけならあまり待たずに食べる事が出来るでしょう。ですが大量の材料を追加したなら温度が急激に下がり、もう一度煮えるまで時間がかかります。つまりは新たな技術や知識を社会に導入する際に、一度に導入すればそれだけ急激な変化が起こり、少しずつ導入すればその変化も少ない為にルールの変化なども少なくて済み、混乱も少なく争いも生じにくいという事です。


そうして詳細に明文化出来ない定義部分に、個々人の解釈を許してしまい、その個人が利害を基準にして解釈すると、妥当だとされる客観的な解釈とズレが生じます。そしてその基準で実行すれば、本来求められる結果とは違う結果が生じます。

そうなると"資格"というものには追加の定義が必要になってきます。役割や作業をこなして目的を達成出来ると思われるだけの能力や道具や材料を提供出来る事を指しているだけでは足らず、そこに"目的を最優先する"という条件が付加される必要があります。

これは物の定義は静的であっても構いませんが、行為の定義は方向性がなければ個々人の解釈が目的に合致していなくとも許容されてしまう為に必要になります。


全てを完全に解明出来ている状況でルールを定義するのは座標系に形を決める事に似ています。全ての概念を位置として定義出来る座標系を定義出来るからこそその定義は成立します。しかし私達は全てを解明していない為に既存の範囲を含む座標系しか定義出来ません。つまりは新たな知識や新たな技術など変化した状況というのは新たに座標系自体を取り直す事になり、変化した状況はその中における概念の位置もズレる事になるという事です。

私達の精神は目に見えず、概念も目に見えません。その為、『ほぼ間違いないだろう』という認識になるまでぼやけた輪郭を正確にする様に、焦点を合わせていく様に確かなものにしていきます。ですので、新たな知識や新たな技術を得たり環境の変化があれば、その影響を受ける概念は変化前とは違う状態になります。変化後の概念に対して変化前の認識をしている事になり錯覚しますので、もう一度焦点を合わせなおす様に、問題ないレベルでぼやけていないかを確認する必要が出てきます。

しかし概念は目に見えません。どこまでの影響があるかを何度も繰り返してきた結果の蓄積が充分にあればどこまでの影響が起きるかをおおよそ知る事は出来ますがそうでないなら全体を見直す必要があります。そしてその新たな知識や技術が内部に挿入されて膨らみ、全体の位置をもう一度見直す事になります。簡単に例えるなら今まである区間を単位目盛り通りに計測しているつもりだったが、実は間違っていて、更に細かく目盛ったものが単位目盛りと同じ尺度だった、という様なものです。今まで1目盛り間隔で測っていた部分が実は0.5目盛り分で1目盛り分の尺度があったと判明する様なものです。そうなると挿入された部分の前後でつながりのある概念は新たに位置関係を決め直す事になる、という表現が出来ます。

これは更に例えると、私達は木の成長で例えます。木の細胞が細胞分裂し、小さな細胞が成長して大きな細胞になる事で新たな状態になります。以前までに存在した各細胞の距離は増えた細胞の分だけ変わります。

この例えの見方を変えて、予め到達する規模を想定し、その規模を基準としてその内部を埋めていくものとして表現すると、大きなスペースに目盛り代わりに小さな細胞が均等に並んでいる様に表現出来ます。その数が少ない細胞が細胞分裂しながらも増えていきやがて隙間を埋める様に内部を埋め尽くしていきます。

今なぜこの例えをしたかですが、私達は集団、社会、国などの集団を成す形態で勃興と崩壊を繰り返しています。その度に苦しい思いをし、同じ過ちはしない様にと反省します。そして新たに社会を作り直す時に同じ過ちを繰り返さない為の目標を決めます。分かりやすいものなら平和と繁栄になります。しかしその具体的な条件は分からず、試行錯誤を繰り返しながら実現しようと行為行動する事になります。目標とした大きなものの条件を達成する為に、世界を見て概念を定義し、曖昧な定義から徐々に詳細な定義へと細分化していき、それぞれの整合性を見つけ目標とした大きなものの条件を確定させ達成して満たしていき、その結果として目標を達成しようとします。


私達は木の様に概念を成長させ、そして目標となる結果に到達出来る様に条件を整えながら目標を達成していくと言えます。


そして私達はここに錯覚を起こしてしまいます。私達がそういったものを実感できるもので推測しようとすると、例えば国の拡大が考えられます。国が新たな領地を得て外に広がりますが、その時は単に外に広がっただけでその中における位置関係に影響はありません。私達が形に見る物質界はものを別の場所に動かしてもそのものを動かしただけの影響しか起きません。実際に影響が起こっていても私達の五感はそれを認識出来ませんから、そのものをものとして形作るだけの情報のみに限定して扱う事になります。

これは視覚で考えてみると、生まれた時に既にある感覚器が与える情報で世界を見て、感覚器が与える制限により世界を見ている事になりますが、同時にそこに意思の介入する余地がなく無条件に成立してしまうものです。同じ共通認識を持つ者同士で一方が『赤い』と判断したものはもう一方も『赤い』と認識するでしょう。多少の感覚器の違いで青か緑かなどの特殊な例がありますが、そういった他と明確に違うと言える特徴がなければ同じ様に見え、同じ様に認識します。感覚器で認識されたものを無条件に受け入れるしかなく、受け入れたが為に世界は感覚器から得られる制限された情報だけで出来ていると思い、概念世界も同じだと錯覚してしまいます。

しかし概念は違います。それぞれの概念がそれぞれの根拠として別の概念につながり、その整合性がその概念の正当性を与え、その概念が正しいからこそ他の概念の根拠になり得ます。


既にある感覚器が与える情報を疑う事は稀であり、疑った場合、信頼出来る検証方法がなければ情報を信用出来ないと考えると、何も信用出来なくなり、まず、知性を育んで数ある例外を知って状況によって対処を変える事が出来るまで信用するしかありません。その感覚が私達の行為にも影響を与えます。物は右から左に動かしてもそれ自体に影響はありません。また、何か物を得るもしくは新たな領域を得て広がっていける状況では、今ある自身の環境にそのまま取り入れる事が出来、外部に付け足す感覚で行えます。ですので、概念世界を感覚器で得られる物質世界のルールで扱うと今ある自身の行為はそのままに新たな知識や技術を得られると錯覚出来てしまいます。そしてその知識や技術を理解する為の知性が足りなければ、自身の持つ概念の整合性が得られず、実際には矛盾していてもあたかも同時に成立するかの様に錯覚してしまいます。

これは個人の権限においては問題ありません。その行動の責任は個人においてのみありその結果も個人へのレスポンスとして発生するだけだからです。例えば普段の食生活を安定させたいと思っていて浪費を抑えようとしながらも欲求に勝てずに物を購入して、足りなくなった金銭では目標とした食生活のレベルが維持出来ず、食費を削った結果として以前より低下した品質の食生活を送る事になる、という状況などがあります。しかしこれもその影響が個人に収まる限りは個人の権利により許容されます。しかしそれが共同作業や役割に影響する様では問題になり、社会における役割とは基本的に継続的なものであり、その実績に対して報酬は支払われますが、それ以降の継続性も考慮して支払われています。社会はある時刻に終わりある時刻になれば始まるといったものではありません。ある区切りでその区切りでの役割を終えてもまた次の区切りで同じ役割を行なう事になり、ある区切りでは問題なく作業するが、別の区切りではあまり作業に意欲的ではなく効率が落ちる、といった不安定要素は好まれず、個々人が継続的に役割を果たす為に状態を維持する義務があります。状態を維持して安定した結果を出すからこそ役割を任す事が出来ますが、但しここでは知的作業は含みません。している事が違うからで、定型作業は手順通りに行なえば安定した結果が得られる実績があり、"純粋な"知的作業は安定した結果を出す実績が確約されませんがここでは割愛します。


個人の権限においては浪費も過食も許容されますが、役割に影響を与えるなら良くない結果に結びつく事になり、その影響が個人の範疇で収まればまだ許容されますが、周囲に悪影響を及ぼす様では改善を求められます。アルコール中毒症になり酒を飲まないと禁断症状を起こし作業中でも酒を飲む、遊びで徹夜して体調不良を繰り返す、などの状況ではその者を役割から外すか改善させるかのどちらかにならなければ悪影響を出し続けます。先程の例では、改善を迫られた結果として購買欲を満たしながらも食生活で一定の品質を維持する配分を見つける事になります。しかしこれももし暴力などの物理的手段で強引に相手にその状況を受け入れさせてしまう事が出来ればこの調整は行われません。

調整が行われないなら整合性はなく、役割を安定して果たす事と自堕落な生活を過ごす事を論理的に結び付ける事が出来ませんが、それを物理的手段で周囲に受け入れさせる事であたかも矛盾がないかの様に行動出来てしまいます。この人物が不利になる状況と言うのは、自堕落な生活をして集中力を欠き失敗する事であり、そしてその失敗により役割から外される事です。失敗した時は周囲から指摘され、役割から外される時は周囲の誰かから告げられます。なら失敗しても周囲から指摘されなければ、役割から外されなければ自堕落な生活をしても何の問題もありません。こうして購買欲を抑えるか食事の質を下げるかのバランスを調整する問題をその影響で失敗した時に指摘を受けて責任取るか取らないかの問題に移す事で、暴力行為を行えば解決する状況を作り出します。

以前から言っています様に、私達の身体は簡単に壊れます。死んでしまえば、死ななくとも重度の障害を受けてしまえば日常に大きな支障をきたし生きる事が苦しくなるので避ける事になります。そうすると大きな被害を受けるか多少の譲歩をしてそのリスクを避けるかの選択肢になり、場合によりリスクを避ける為に譲歩する選択が成されます。そうなると譲歩させた側は有利な選択が出来るので、相手に与える被害の想定が大きければ大きい程に、相手から引き出せる譲歩も大きくなり、得たい条件が得られる様な暴力行為を行うと脅すか、実際に実行して相手に譲歩させる選択肢が有効になります。

簡単な例では、強盗などが分かりやすいでしょう。凶器を用いて相手を加害すると脅して普通であれば受け入れる事のない要求を受け入れさせます。


客観的な概念というものは数多くの成功と失敗から生じた結果を見て、それぞれの概念の条件がどうであれば矛盾をなくして誰もが受け入れられるものに出来るかを追求して出来上がるものです。しかし、個人から見た世界の狭いと表現される、世界の中にある数多くの結果と蓄積からは少なすぎると言える個人の持つ経験と知識では矛盾を抱えていないと思っても、その知性のレベルによっては本人が気づかないだけになる可能性があります。

他者と合意の上で交渉出来たと思っていても、その状況が優位だから他者に押し付ける様に実行出来ただけの可能性もあり、それを認識する自身の知性のレベルで、自身が行っていると思っている行為と実際の行為が違う状況が発生します。未熟な子供に多く、まだ経験も知識も足りない為に何をすれば行為が成り立たないかを分からずに行為して、保護者に叱られるという状況がよくあります。そのチャレンジアンドレスポンスで経験を得て、おおよその"してはいけない"と表現される禁止事項を学んでから社会へと参加するのですが、時折それが出来ていないままに社会に参加する者が居ます。

かつての社会では成人したと認められなければ資格なしとしてそれに見合う権利を与えませんでした。しかし環境によっては、肉体が成長を終えた年齢を成人したとみなして社会に参加する権利を与える状況になり、基本的な考え方と知性を持たずに社会に参加する者が増えます。

その者の見る世界とは、他の者に比べて未分化で、見るもの全てに付随する概念が粗い為に矛盾を内包出来る状態のままの時があります。そして問題にならなければ、知性を育む機会がないままに実際にどうにもならない問題の直面するまでそのまま過ごす事になります。

そして問題になった時、どう対処するかという問題に発展し、概念が未分化な為に、問題を正しく認識して解決できる能力が無い為に、自身から見た世界にある概念の中で分かりやすいものを選んで実行します。それは同時に、他者からすればより未熟で子供じみた行為を行う状況になります。その結果として暴力などの物理的手段で物事を解決しようとし、出来てしまえばその者の知性は育まれる事なく、同じ行為を繰り返します。

しかし問題のない行為ではない為に、争いの原因となり、条件が崩れた時に争う事になります。圧政に対する反乱やクーデター、政府が不況に対処しない為のデモなど、それまでが問題を抱えていたが、権力などの相手に服従を強いる事が出来る根拠によってさも問題がないかの様に表面的には見えていたが実際には問題を抱えたままだったという事になります。


個人の場合も同様で、暴力で相手に譲歩を促していたなら老いと共に条件が崩れ反抗されます。また、理論武装して相手に譲歩させていた場合も条件が崩れると反抗されます。


個人から見た世界とはその者の知性と経験と知識量によって正確さが変わります。しかしその世界に存在するものがそこに存在する為には、ある程度の整合性を持った概念の集合が存在した結果が必要になりますが、個人から見た世界にそれだけの整合性を持った概念が付随しているとは限りません。そしてもしその個人が権力を持って自身から見た世界を押し付ける事になり実際に成功すれば、常に争いを発生させる要因を持った世界が出来上がります。


こうして物質世界を見て得た経験を反映させて概念世界を扱おうとする為に、部屋の中に新たなものを追加する様に、外部に外付けの部品をつける様に、自身の望む条件を維持しながら他の条件を調整して達成しようとしてしまいます。しかしそれは個人から見た世界だからこそ成立するものであり、他者との関係性を維持する条件を付加したなら他者も同様に同じ方法を行ったなら、互いの欲求を押し付け合う事になり争うしかなくなる事を知る事が出来るだけの知性が必要になります。その知性が無い為に概念の整合性を考慮しないからこそ成立すると思え、また、欲望を満たす為に整合性を無視して強引に押し通し、矛盾は他者に押し付ける形で矛盾がないかの様に成立させてしまいます。


この時、まだその者の識別能力や判断能力は求められる基準に対してまだ未熟と言えます。空間上の物の関係は5感で把握する事で共通認識として把握出来ますが、概念は分かりません。概念は5感の代わりに、感覚器を用いて得られた情報の関係性を用いて概念同士がどう識別されるのかを把握出来る認識能力が必要になります。これを場合により第6感と呼びます。


物質世界のものを扱う様に概念も扱おうとしても、そこにはやはり違いが存在し、やがてその問題を解決するか生じた問題による不都合を受け入れたままにするかの選択肢が生まれます。

例えば、国の例では、国の中心となる都市があったとして、国が拡大した後に、位置が国全体を管理するには効率が悪くなる時に、国の中心となる都市を変える事で効率を上げて国が拡大する前と同じ様に安定させようとします。これは経済活動自体が概念を伴うものであって、ものを扱う様に関係性がどうでも良いというわけではないという事を示します。

例えば、部屋の中の物を個人の趣味で配置してしまえたりしますが、効率を求める様になれば自然と配置は限定されていき、ものをどの様に扱っても同じ効率になるとは限らないという事を示します。しかし個人にとっての効率は集団にとっての効率ではなく、もしそれを公の場で個々人が自由に行えば争いになるでしょう。この効率の例えですが、共用の道具や設備を考えれば分かりやすく、まず個人の専用道具に出来てしまえば効率は最大になります。そこからその道具の使用時間や権限や距離などが自身に有利であればある程に効率は上がります。しかしそれは誰もがそう思う事であり、公の場、つまりは社会で自由に行なえば争いになるのは確実です。


話を少し戻しまして、概念世界の中のある一点が目標地点として、新たな状況になるとそれぞれの位置が変わる為にそれ以前の位置が指し示した情報は、それまでの概念の数と精度によりますがあまり信用出来なくなります。以前の座標系で各定義から目標までの方向が定義されていたとして、座標系自体が変わっても同じ方向を指し続けるならそこに発生するズレの影響が出ます。例えば(x、y)で(5,5)から(2,2)へ向けて方向が決められている状況で座標軸そのものが変化して45度ズレたとして元の座標軸での方向のままであれば目標が(2,2)のままであったとしても、(5,5)から(2,2)へと方向は向いていません。これは極端な変化ですが、新たな技術や新たな知識を得るというのはこういった例えられ方もします。自身は以前と同じ行動をして同じ行為をしているつもりでもその行動を含めた自身の行為が新たな環境においては自身が思っている行為にはなっていない状況が作られます。

これはルールに従っているだけで根拠を知ろうとしない場合や真似しているだけの場合となり、世界が完全に解明された後ならこの様な座標系自体のズレは起きないのですがその様な世界を私達に用意してくれる者は居ません。


その為、座標系自体がズレても正しく目標の位置を指し示す事が出来る様に、角座標で方向と大きさで示す方法が用いられます。新たな座標系での位置を正しく知らないので以前は(5,5)として表された起点がどこか分からず、目標の位置も曖昧なままに絶対座標としての位置関係を定義する事は出来ません。それが出来るのはほぼ間違いないだろうという結果が得られてからです。

変わった座標に対しての方向を取り直し、それぞれの根拠がそれぞれの根拠で新たな座標での根拠が示す位置に確定しつながり、それぞれの位置が明確になっていく事で、目標と起点の位置関係が判明し、そうして全体が明確になっていく事で、それらを含む座標系を定義出来ます。

この作業を行うには、誰かに与えられた絶対座標、つまりは誰かが作り出した整合性を持つ概念世界から導き出された絶対座標に頼っているだけでは答えを知っているだけであり、その導出が出来ない状態と言え、角座標で表現するという事はそれぞれの起点から見た世界で表現する事であり、以前はどういった方法で方向を決め目標に到達していたかを知っているからこそ目標に達する事が出来たと言えます。ですので新たな座標系になった時も、根拠とのつながり方を知っているから角度や方向を調整して以前と同じ状態を作り出し基準を維持する事が出来ます。

基準を維持し、他の概念とのつながりを把握していく中で目標との位置関係も把握出来る様になれば方向を決める事も大きさも決める事が出来ます。


こうして方向を決める事が出来たとして、その際にその方向を決める根拠を用いる事になります。その根拠に使用された条件は基本的に外す事は出来ず、起点と目標の位置関係を知る為の根拠として必要になります。しかし誰かに位置関係を教えて貰った者はその根拠を知らなくとも位置関係を知る事が出来ます。するとその位置関係を知る為に使用した根拠を知らない事で、自身の選択の自由を用いてその根拠部分と両立しない選択をする可能性が出てきます。

その選択が出来、かつ罰せられずに横行すれば以前の根拠で示された位置関係を維持する事が出来ません。それぞれの位置を把握し大体こういった関係だと確定した位置関係において、その位置情報を抽出する根拠にした根拠のつながりを変える事でそれまでとは違う状況になり、目標はほぼ同じでも起点の位置が変わればそれまでと同じ方向と大きさを示したとしても目標とはズレが生じます。

ですから概念定義には方向性が必要になり、整合性を壊さずに条件を達成する必要があり、根拠が足りなくても問題が発生する可能性があり、余分なものを付け足しても問題が発生する可能性があります。

根拠が足りないものも、言い方を変えれば根拠をあえて省くと言え、自身にそのつもりがなくとも改変している事になります。また、省いた事が分からないからこそ、付け足してはいけないものを付け足す事が出来る場合があり、判断能力が必要になります。

しかしその判断能力というのは高度なレベルが求められ、多くの知識量と概念により得られますが、同時に変化する状況において常に全てを正確に把握する事は難しくなります。しかし大体の漠然としたものだけなら時間をかけて詳細に調べなくとも比較的簡単に得る事が出来、それらを方向性と呼びます。

詳細に調べるという事は細分化して識別するという事であり、一定の確度を得る事が出来れば基準を満たせるのならそれ以上の細分化をせずとも信用出来る根拠とする事が出来ます。


その方向性がなければどうなるかというのが今回の話になり、例えば物を運んでくれと言われた時に気づかれない様に一部を盗むというのも方向性がない概念を持つからだと言えます。ただしここではそれを持ってなお欲望を優先する場合は割愛します。


運搬物を運ぶ役割の者が運搬物を横領するのは悪事です。運ぶ依頼をした者がその物を目的地まで運ぶ"代わり"をするのですから依頼者が運んだ時と同じ結果にする必要があります。今回の話ではケーキなのでケーキで考えますが、依頼者が運搬中にケーキを食べる事があるだろうと考え、それと同じ結果なら良いと勝手に解釈して食べてしまうというのは間違いになります。依頼者がどう行動するか分からないなら最も問題のない結果にする必要があります。もし依頼者が運搬中に食べたとしてもその消費は依頼者が依頼者の所有物に対して行った事なので何も問題ないですが、運搬代行者が勝手に食べてしまえば所有権の侵害になります。依頼者が運搬途中に食べようがどうしようがそれは依頼者の権利であり、運搬者にはその権利がありません。そして、依頼者が食べる可能性があるかも知れないが、贈り物であれば途中で食べてしまう事はまずないと考えるのが妥当ですので、やはり運搬者が勝手に食べるのは間違いです。そもそもが依頼者が食べる事と運搬者が食べる事は物自体が目的地に届いた時の結果としては同じに見えますが、食べる事によって得られる快感とエネルギーを得ている人物が違います。それはその所有者が持っている権利であり、所有者ではない者が得て良いものではありません。

そしてこの人物にはそもそも資格が足りないと言えます。この役割分担になるまでに、お互いを信用して依頼出来るからこその役割分担になった過去があり、この人物は、その誰かが作った環境で役割を真似て行動しているだけだと言えます。ですから成立過程を知らない事で行為の根拠が足りず、その足りない根拠部分に自身に利益を齎す選択が出来てしまいます。


行為の条件として明文化されていない条件部分に足りない部分が存在し、間が存在しているとも言え、それを"かがみの悪[魔|間]"と呼びます。

その者の概念世界がその間を持ち、誰かが管理しないと役割を果たせない状態を表し、資格がないと言える状態であり、その様な者が行動を真似て、資格があるかの様に振舞う事でそのかがみの悪魔が悪影響を及ぼします。


先程のケーキの運搬の例の様に、わざわざ依頼者は『ケーキに手を出さずに運搬しろ』とは言いません。その程度の判断能力はある前提で役割が分担されているからです。しかし明文化されていない、指示されていないという口実と共に、行なっても"自身は悪くない。指示しなかった者が悪い"と考える者も居るという事であり、役割を果たせるだけの判断能力と客観性を持たず、資格が足りない事になります。

この様な状況で、では『ケーキに手を出してはならない』と明文化して条件を追加すれば解決するかと言えばその場しのぎにしかなりません。なぜなら、次は"手がだめならフォークなら良い"と解釈するからです。これはその人物にとって、"手"の持つ概念と"フォーク"の持つ概念に関係性が足りないからこそそう思う事が出来るものです。

この場合の"手"というものはその概念の成立過程において関係性が追加された"手"という概念です。物質としての"手"そのものだけを指すものではありません。単純な世界で手を用いて扱っていたものの内、フォークを使うのが適当だと判断されたものにフォークを使う様になります。"手を出す"という行為の細分化の1つとして"フォークを使う"という行動が生まれます。この基礎の上に積み上げる形で細分化した関係性を知らない事で先程の様な考えが出来てしまいます。その者が役割を見た時、そして社会の中に存在した時に既にルールがあり、そのルールによって"手を使う"時と"フォークを使う"時が既に分けられており、ルールに従うだけで問題なく行動出来ている事に問題があります。それは誰かに作って貰った辞書を貰い、その辞書を引いてそこに書かれた内容をそのまま信用するのと似ています。明文化する事もそうですが、どの様なものもリソースを消費します。全てに問題がないだけの組み合わせを書き連ねる事は出来ません。時間も空間も資源も有限です。どうしても情報の欠落は避けられずその情報を補完する為にそれぞれの概念がどの程度の認識であれば問題なくなるかを判断できるだけの知性が必要になり、ルールに従っていれば問題ないと錯覚すればその知性は得られずそこには足りない根拠で認識出来ていると思う者が居るだけになります。

こうした者でも真似すれば行動を同じに出来、表面上は役割を果たしている様に錯覚出来ます。しかし、資格が足りない為に誰かが監視していない状況で、足りない根拠により自由な選択肢が発生した時に自身の利益を付け足す形で合法だと考えて悪事を行ってしまいます。そして役割を果たす者は誰かに常時監視して貰えるわけでもないので、誰かに気づかれ指摘されない限りはその悪事を続けても良いと思い、また、それが悪事だと気づいていても、それまでに罰せられない経験があればその経験と快感原則に基づいて悪事を続ける選択をする可能性があります。それを防止するには自制する精神を持たせるか常時監視するかのどちらかになり、自身で自身の行為を制御出来ない者はやはり資格が足りないと言えます。


鑑に取る事を簡単に例えると出来たものを型枠に嵌めて見て、隙間がなく充填されているかを確認しつつ、はみ出ているものがあれば型枠が嵌らないので出過ぎたものも付け足していないかを確認する事だと言えます。

役割を果たす上で、もし知性が足りずに行為そのものを理解出来ていないのであれば、自身の欲望を付け足さずに実行する事しか出来ません。ですので最善の努力をするなどの言葉で表され、気づかずに盗みを働かない様にするために、"誠実"などの言葉で行動を制御させます。自身の利益として本来得られるものがあったとしてそれを得ない事で個人の損失になったとしても、型枠にははまります。それは同時に資格はあると言える状況で、問題を発生させる事は少なく欲望を付け足して型枠に嵌らない、つまりは資格がないと言える状況になるよりはマシだと言えます。

最善の努力義務や誠実という言葉で制限をかけてでも資格がある状態を維持させ、欲望による付け足しで資格を失わせて役割を混乱させ争いを生み出す原因を排除します。


こうして概念が関係性を持ち、細分化される過程でその方向性が決まっていきます。"手を出す"という行為の細分化の一つが"フォークを使う"という行動であり、『ケーキに手を出さずに運搬しろ』と指示されたなら"フォークを使っても"駄目だという事だと判断出来なければ資格が足りないと言えます。これが分からない知性であるなら、そこに"フォークを使う事も禁止する"と追加されても何の意味もありません。次は"スプーンを使う"、"箸を使う"、となり、"食器に分類されるものを使う事を禁止する"とすれば今度は食器以外を使い、そこに付随される概念の条件をどこまでいっても理解しません。

この概念の明文化されていない条件や根拠を"意味"などと呼びます。ものの形を定義した時に味は形に関係しませんがそのものを判断する重要な要素になります。概念を"意"としてそこに付随される形にはない重要な要素としての味として意味と表現されます。これは私達が概念を取り入れる状況をものを食べる状況と錯覚する為にこう名付けられます。意味が付随していないと味がないのと同じで、意味が付随している状況を美味しいと同列に扱い、意味に反していると不味いと同列に扱います。


しかし私達は『鑑に取る』為の『鑑』の条件を誰もが少なくともその条件は満たしていなければならないという基準でしか作れません。数多くの事例を集めて『これでほぼ間違いないだろう』と言えるものでなければ客観性を有さず、不確定要素を含むものは加える事が出来ず、必要だとしても省かれ、また、全てを明文化出来ない為に曖昧な条件になります。記載して用途に足るだけの細分化を行ってそれ以上の細分化は個々に努力に任せる事になります。

それは株分けで例えられます。良質な木が生み出した種から育った苗木を分け与え、その木を充分に育てる事が出来れば"結果"して果実を得る事が出来ます。ですので分け与えられた株を良く手入れして成長させる事が出来なければ美味しい果実は出来ません。悪心という病気から守らなければ病気にかかった木に成長するでしょうし、育つ前の未分化の状態に干渉して都合の良い様に細分化の方向性を捻じ曲げようとして加害する他者の様な害虫を排除出来なければ荒らされた木になるでしょう。結果を得る為に自身の悪心で汚染する事なく、他者の思惑でねじ曲がったり荒れた状態にならない様にする必要があると言えます。


しかし概念は目に見えません。ものの形を判定する様に型枠を使っているつもりでも、つまりは鑑に取っているつもりでも、それを識別出来るだけの判断能力がなければ実際に識別出来ているかが分かりません。明文化出来ていない部分にその判断能力が求められますが、目に見えず、そして判断能力が不足している状態でも判断は出来てしまうので、細分化が足りずとも鑑に取って評価しようとした行為行動を"正しい"と評価してしまいます。


先ほどの話の例に戻りまして、ケーキを盗んだ人物は気づかれないなら罰せられない方法を実行し利益を得ています。その為、役割を果たすには常時監視する必要があり資格が足りないと言えます。盗んだ人物は、かつてもしくは周囲にいる他の同じ役割を果たす人物が築いてきた信用を悪用して、運搬する物を保全する義務がある前提で交渉が行われている所を、自身の判断で役割が与える権限を逸脱し越権行為をしています。明文化されていない、集団行動をする上で不文律になっているものをあえて曲解していると言えます。

これは役割の定義を鑑に取った時に、その明文化されていないルールを守れるからこそ役割を任す事が出来る部分において、その様な考えなどなく、役割の表面的な行動だけを見て真似る事が出来れば役割を行う事が出来ると思い込み、その真似た行動さえ出来ているなら他は自身の自由で行動を選択して良いと解釈してしまっている事に問題があります。そしてその問題は、そもそもが役割を任せるだけの資格がない者に役割をさせている事に起因しており、それを更に遡るなら教育の失敗や教育の機会の喪失に起因し、その要因として更にそれまでの世代継承においてその様な性質を積み重ねてきた実績に辿る事になるかも知れません。

言わば源流として存在する問題から流れ出る派生した問題をせき止めて被害の拡大を防ぐ事が出来ない結果として、役割を任すだけの資格がない者に役割を任せた問題が発生しています。これに対してルールを厳しくする事で対応しても対症療法の様な効果しかなく、常時監視出来なければどこかにルールの瑕疵が存在すれば、誰も見ていない時にルールを破り同じ様な悪事を働くでしょう。


良く行われる悪事として、後見人若しくは管理者における被後見人若しくは管理対象の財産の横領があります。これは被後見人が未成熟で悪事に対抗出来ない場合やそもそも財産などの静物には管理者の悪事を指摘する様な事はありません。管理者などの役割は対象となる資産を保全する事であり、後見人の役割は被後見人の権利の代行であり、どちらも対象の権利侵害をしてはいけません。しかし、知性が足りず自身の都合の良い様に解釈した定義を用いる者はそこに都合の良い間を見つけてしまいます。

例えば後見人が成人で被後見人が子供であり、食事などの世話をしているとします。後見人は被後見人に食事を提供する際に、後見人は被後見人に食事を提供する必要がある、という条件を鑑に取って見て、なら食事さえ提供すれば良い、と考えて粗末な食事を与えたりして良いかと言えばそれは間違いになります。もし後見人が被後見人の財産を権利と共に預かっており、その財産から食費などを支出し、支出した額から想定される食事の品質と実際に与える食事の品質に差を作り、その差を利益として着服するという悪事を行なったならそれは資格が足りないと言えます。しかし、気づかれにくい為に行いやすい悪事になり、鑑に取る時に生じる悪[魔|間]の誘惑に負けると実行してしまいます。

こうして役割においては高い自制を求められるものが存在し、それを理解せずに安易に任せると、そもそもがその悪[魔|間]の誘惑に負けたからこそ役割を望んでいる者に役割を任せる事になります。

政治家になれば利権を使いたい放題だと考える者やリーダーになれば配下に自身の都合の良い命令が出来ると思う者などがこれになります。

役割を行う者を常時監視する事が出来ない為に、役割を行う結果が最大限の成果を出す選択とは違う選択をする自由が与えられてしまう事を、役割を行う時には最低限の条件さえ達成すれば後は自身の都合の良い利益を上乗せして良いと思うのではやはり資格が足りません。

それが自身の財産などから生じる権利であればその結果が最大限の成果からあえて低下する選択はしないはずです。間違った選択が出来るのは自身の財産ではなく、そして役割を行う際にはそれ以外の間違った選択をあえて行わないという信用が前提にあり、それを悪用するから出来ると言えます。役割分担した時に他者の権利を委任されたという事を忘れると、自身が利己益を得る為に、委任した者に相対的な損失を与える事になります。


話を次に移しまして、今回の話で花売りの話がありますが、隠語と呼ばれる通常用いられる意味とは別の意味を付加された言葉があり、『花売り』もそれに該当します。花とは実を作る為に咲き、受粉する事で実を作ります。その花を人間に当てはめると妊娠する為の部分を指し、受粉は性行為を表します。そして『花売り』には売春を意味する別の意味があります。

元々、花自体はあってもなくても生活には困りません。ですのでそれを買うのは特別な事情を持つ者です。葬儀や結婚式や祝賀会などの事情がなければわざわざ花を買いません。花売りとはその花を売るしか生活をする術がない者であり、弱者の中でも更に弱者と言える存在です。花は買っても買わなくても良いもので、それとは対照的に食料は買わなければ生きていけません。生活するにはどうしても花を売らなければならず、しかし誰も花を買ってくれないという状況は容易に起こるでしょう。その際に売れるものが他にあるとすればどうでしょう。需要があり供給出来るとするなら商行為は成立します。例えそれが本人にとって受け入れがたい行為や大事な物を失くす行為だとしても買い手の倫理観がなければ関係ありません。その弱者の弱みにつけ込んで非合法な行為を受け入れさせる際に、周囲に気づかれては罰せられ問題になるので、隠語を使い、罰せられない様に狡猾に立ち回ります。売らなければ生活が出来ないという追い詰められた状況では例えその売価が対価として不満を持つ額だとしても、売りたくなくとも売らなければならず、買い手の有利な交渉が出来ます。

隠語をなぜ使うかと言えば非合法だと知りながらも欲望からそれを求め、しかし罰せられない様にするために用いられます。売春させようとする買い手がその非合法な行為を誰かに指摘されても『そんなつもりはない。単に花を買おうとしただけだ』と言い逃れが出来る様にしています。売春する側は買って貰わなければ生活出来ないので買い手の望む話し方を受け入れる事になり、それが白昼堂々と行われても現行犯でなければ罰する事も出来ないが、いわば強制されて売春している被害者とも言える者がその違法行為に協力的な態度を取るしかない為に、摘発そのものが難しいものになります。では誰もそれに気づかないかと言えばそうではなく、その問題を根本的に解決するにはその花売りをしている女性を経済的に助ける必要があり、それだけの財力がなければ出来ず、また、それだけの負担を背負うリスクを冒せない為に黙認する事になります。その行為を止めさせれば生活出来ずにその女性は死ぬかもっと明白な犯罪行為をするしかなくなり、止めさせようとする者は同時にその女性を更に追い詰める事になるので誰も指摘や批判が出来ない状況だと言えます。

この場合は隠語の意味で花を売らなくても良い状況を作り出す必要があり、つまりは売春をしなくとも生活出来る環境を作る必要があります。役割が足りないなら役割を、能力が足りないなら能力を与える事が出来るシステムを作り維持する必要があります。そして困窮した状況ではその状況から脱する為の時間と労力すら捻出出来ないので経済的に支援する必要も出てくる事もあります。残念な事に、この支援を悪用して不正に利益を得ようとする『弱者ビジネス』というものが存在しますがここでは割愛します。


こうした隠語、もう少し抽象化して暗号を用いて会話するとその対応表を持つ者にしか分からない様に話す事が出来、それが日常の会話に偽装されて行われると悪人が目の前で暗号を用いて話をしていてもその悪事の対象となる者は気づけないままに何の対処も出来ずに加害されるという状況が起きます。こういったものも使い方次第で、例えば接客業で客に状況を知られる事なく情報を伝える方法などに応用されますが、それは同時に客の目の前で客には分からない情報のやり取りが行われているという事実であり、悪用しようとすれば相手を騙す方法として使用出来るという事でもあります。


次の話にある椅子作りですが、役割分担を悪用している話になります。専門知識というのは役割分担する事を選んだ時に生じてしまうものです。それぞれが特化してその分野での能力向上と共に細分化されていく知識は他の分野の者が同じだけの知識量を得る事を難しくさせます。その知識を得る機会は役割として行う者は日常の中になり、他の分野の者にとっては非日常の中にあります。ですのでその差を利用して悪事を成すのは簡単な事です。相手の知らない事を使って悪事を成すのですから、相手に気づかれる可能性は小さくなります。先程の暗号でもそうですが、人間は認識出来ないものに対処出来ません。問題として考慮すべきものもそれを認識出来なければ気づかないままになり、放置した事で問題が表面化して受動的な対応をする事になります。ここでの話では桐という材木の利点と欠点において、商人が良くやる様に利点は伝えるが欠点は伝えないという方法を行っています。桐という素材はそもそも桐という樹木が比較的成長が早い為に密度が低く柔らかい素材になってしまいます。そのため、耐久消費財には向かず、良く動かす道具や家具には不向きなものです。多々ある利点も欠点が強調される状況では効果も低減してしまいます。ここでの悪事は耐久消費財には不向きな素材で作っている事で、それだけ早く壊れるでしょうから、そうなれば、買い替えのスパンが短くなり、製作者は本来より短い期間で次の依頼を受けて利益を得る事が出来るという状況になります。それは同時に本来ならもっと長い年月の間その椅子を使い続ける事が出来、その分のコストが相対的な損失として発生する事になるとも言えます。耐用年数が10年だとしてそれが5年で壊れたなら5年分のコストの損失になり、買い替えも同額払うなら2倍のコストを払う事になります。こうして役割を悪用して利益を稼ぐ方法も存在します。

また、この話では、普段より高い価格になると分かった時には事前に相談をしてから作るべきものを事後承諾の形で半ば強制的に買わせてしまっている所に悪意が存在します。依頼者は依頼してしまった為に、そこに悪意がないなら、最初に予算を告げなかった自身の過失に負い目を感じて多少は損失を受け入れようとする可能性があります。これは役割分担して互いに助け合おうとする精神からくるもので、それを悪用していると言えます。しかしここでもそうですが役割分担は委任されているだけの状態と言えるので悪事により不正に利益を得る事は間違いになります。


食事の話ですが、先入観というものが錯覚を与えてしまいます。義理の両親をそうと知らずに実の両親だと思い育ってから真実を聞かされて初めて義理の両親だと知る、などの状況が先入観の例と言えるでしょう。周りが同じ様に行動して、自身から見た世界で親子の日常を繰り広げられ、誰もあえて事実について伝えなければ恐らく周囲にある親子関係を自身に当てはめるでしょう。

勿論身体的特徴の不一致でいずれ気づくかも知れませんが、そうした違いを知るまでは恐らくはそう思い込んだままでしょう。

それと同じ様に食事なども錯覚している可能性はあります。生まれた時から続けられたもので、最初に保護者から与えられる信用で受け入れてしまっているものはそれが基準だと思い込み、違いを知るまでそこに不満がなければ問題なく生活するでしょう。しかしそれが実際に社会全体の基準となるものかどうかは分かりません。成長するにつれ知性を育む事でより多くの情報を得て初めて妥当かどうかを知る事になります。逆に言えばその情報を与えなければ、現状に不満を抱かない状態より上の状態が基準だとしてもそれを疑わせない事が出来ます。この話と同じ様に、本来ならもっと良い食事が提供されるのが妥当である状況においてもそれが不満を抱かせない程度に最低限の状態を提供したなら、情報が足りず知性の低い者は本来与えられるべき品質の食事を知らない事で、現在のあえて品質を落とした食事が一般的な食事だと思い込み、多少の不都合は受け入れます。多少味が悪くとも好まない味だとしても、皆がそうであり、それが基準だと思えば1人だけ不満をあげてあえて争いの原因を作る事を避けるでしょう。多少不味くとも生きていけ、状況がそうせざると得ない状況だと思い込みます。

また、信用の出来る者からの紹介や代行であるならば、その信用の出来る者の信用を根拠として代行者を信用するので、もし代行者が利己益を求める様な人物であれば悪事をさせてしまいます。


最後にお話しされた王子と食事の話ですが、先ほどの資格の話と関係があります。ルールを厳しくする事で制限をかけて悪事が出来ない様にしてもこの話と同じ様に状況が変化してしまえば悪事が出来る隙間が出来てしまいます。

例えば、ある人物Aが褒美を与えるとしましょう。人物Aは人物Bに命じて人物Cに褒美を与える様指示したとします。人物Bは人物Cに褒美を与えても何の利益にならないので、利己益が得られる方法を考えるとします。するとBはCに与える褒美を少なくして与え、その差を自身で着服するかも知れません。また、BはCと同じ名前の人物Dと交渉して、その者に褒美を与えるかも知れません。Dが利害関係を一致する者なら自身の派閥の強化にもなり、減額すれば利己益も得られます。そして報告において『Cに褒美を与えたか』と聞かれたら『はい』と答える事によってあたかもCにAが想定しただけの褒美を与えた様に思わせる事が出来ます。この様な偽装報告は良く行われます。褒美の額が受け取る側にも事前に伝達されていないならこの様な悪事も出来てしまいます。

褒美を減額する方法は状況変化させていませんが、もう一つの方法は新たな人物を加えて状況を変化させる事で、指示が示す意図された内容を捻じ曲げる事が出来てしまいます。あえて状況を変化させる事で指示された内容に選択肢を増やし利己益が得られる方法を選択する事が出来る様になります。

つまりはどれだけ厳しくルールで制限したとしても状況を変化させる事で瑕疵を作り出す事が出来る可能性があり、全てを把握していなければ悪事を許す結果になります。

こうして常時監視するか自制が出来る者に任せるかのどちらかしか選択肢が無い様になります。もしくは環境を変化させずにその環境上で瑕疵が発生しないルールで厳しく制限するかとなります。

役割分担する事で実績報告が行われ、その報告は個人のみで作業を完結する場合には必要のないものです。そして個人のみで完結する状況でそういった悪事は単に配分を変えただけで何の利益になりません。しかし集団の中で役割分担する事で報告が必要になり、その報告をする際の主要な事項に付随する報告されない部分に自由な裁量を与えてしまう可能性があり、自制の出来ない者に役割を与えるとその部分も含めてより詳細な報告をさせる必要が出てきます。それが管理コストの増大になって経済活動として成立しなくなっても放任は出来ません。

この話の者の様な報告の仕方をする者を『揚げ足取り』などと呼びます。

『揚げ足取り』の由来は、昔強い人物が居て対戦者に『俺を倒して見せろ』と言って戦ったところ、相手はその強者が足を揚げた時にその足をつかんで地面に転がせてから『倒して見せた』と言った話からきています。強者の『倒す』は『戦って勝って見せろ』の意味で、相手の『倒す』は立っている物を横にする意味ですが、言葉上は同じ『倒す』であり、あえて間違う事で自身に都合の良い様に錯覚させようとしている事になります。これも細分化による関係性を知らない若しくは考慮しない場合の事例となります。


役割分担し誰かに役割を任せる時、管理側の役割が重要になります。役割を指示して報告を受ける際に、報告内容を検証する手段を持っていないと、報告が正しいかの判断が出来ません。全ての報告に対して行わなければならないですが管理コストとのバランスにより疑わしい時に逐次検証する機会を作る事で、抑止力となり不正を行う者を取り締まる事が出来ます。この検証方法がない場合は、役割を実行する者の信用に依存する形になり、不確かな物となり、自制が出来ていない者を信用して報告に間違いがないと判断している可能性があります。

しかし常時監視するわけにもいかず、報告を信用する事になれば、明文化されていない根拠部分の差で問題を発生させている可能性があり報告内容通りだから問題がないという事にはなりません。」


エールトヘンが締めくくる。


「お嬢様は貴族です。配下の者全てがモラルやマナーを守るという無根拠な条件を信じる事は出来ません。管理する側の能力が足りなければ明文化されていない部分を悪用されてシステムにとって有用な人物が損をし、悪用する人物が利益を稼ぎ、やがて誰も社会の為に貢献しようとしなくなります。貢献しなくなるから代わりに報酬などの利益でどうにか誤魔化そうとしても、悪人が劣化させた社会からは充分な利益は出てきません。しかし報酬になる利益を社会から徴収すればそれは重税や不当な搾取として実行され、より民衆の心は支配者から離れていきます。悪人にとって税と福祉のシステムは博打と同じです。集めた金を勝った者が多く分配されるという単純な発想で行動している為に、勝ちさえすればよいと考え社会を混乱させ崩壊させます。しかしその悪人は自身が何をしているかなど実際には分かっておらず、合法的に行動していれば何をしても許されると思い込んでどれだけ暴れても誰かが社会を何とかしてくれると思い込んでいます。そういった者はまだ資格が足りないと言え、そういった者に権力を与えれば与える程に社会は劣化していくでしょう。評価する対象がどの様な人物かを誰かが与えてくれた知識をマニュアルの様に使って調べるだけではそういった人物を排除出来ない可能性があります。その為にも、普段から自身で考えその結果を基に推論し次の行為に活かすという繰り返しをして知性を育む必要があります。本物か偽物かの識別が出来る様になる為に、自身がまず本物になり本物とは何なのかを知る為に、さあ、今日も頑張りましょう。」


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