S097 弱き者よ、汝の名は男なり
前半がSSになってますw。
今回も魔導学を自身の置き換えたい言葉に置き換えてください。
2人の女が話していた。
「ああ、どこかに良い男居ないかしら。」
「だよねー。でも良い男ってどんなの?」
「そりゃあ勿論ハンサムで逞しくて教養があってお金持ちよねー。」
「あなた夢見過ぎじゃない?」
「良いじゃない、夢なんだから。どんな夢見ても良いでしょ?」
「そうじゃなくって、そこいらに歩いてる男の中で捕まえるならどんなのってことよ。」
「自分の都合であからさまに誰かを贔屓するような事しない人かな。それで時々甘えさせてくれたり。」
それを聞いた通りすがりの男性が思わず口にする。
「なんだよそれ。皆を平等に扱ってくれる公正な奴で、でも甘やかしてくれるって矛盾してるだろ。贔屓されて特別扱いされたがっておいてその男には特別扱いするなってさあ。」
その反論を聞いた女が答えた。
「良いのよそれで。どこかで妥協するんだから。男だって似たような事言うじゃない。処女の様に貞淑に恥じらう様に男に接するのを期待しながら事に及べば娼婦の様に淫らに振舞う女を求めるじゃない。それと同じよ。」
「・・・」
男は言い返せなかった。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。自身の求める条件を並べ立てますが良く考えてみれば矛盾していて現実味がない話になっているという事ですね?」
「概ねそう。」
「私達は大なり小なりそういった考えをしている事があります。それは世界の事が良く分かっていないからです。より小さい規模としては自身がいる社会環境が良く分かっていない為に、その状況毎に自身から見て最も良いと思われるシチュエーションを求めます。その状況が終わって違う状況になればまた同じ様にその状況で最も自身から見て良いと思われるシチュエーションを求めますが、ある状況におけるシチュエーションが成立すると仮定した場合に別の状況のシチュエーションが成立出来なくなる様なそれぞれのシチュエーションに一貫性がない場合でも私達は行動出来ます。
なぜ行動出来るかと言えば、知性が低いから、若しくは欲望を満たすにはそうでなければならないからです。
私達は私達から見た世界を生きています。以前に言いましたように『なんだか良く分からない』ものから『恐らくそうだ』という過程を経て『ほぼ間違いないだろう』という段階に至り、それを便宜上『正しい』と定義して争いの無い状況を作ろうとします。その過程を『ほぼ間違いないだろう』という結果に辿り着かせるには3通りの方法があり、1つ目は知性を育み多くの知識を得て推論の結果、その結果へと到達方法、2つ目はチャレンジアンドレスポンスでその結果へ到達する方法になります。3つ目は誰かの行動を真似る事です。
私達にとって最も簡単で効率の良いのは真似る事です。誰かが既に成功させており、その結果を得る手順が解明され、その手順が自身にも出来るのであればそれこそが最も効率良いものになります。成功とは数ある組み合わせの中から私達に都合の良い結果が得られる条件の組み合わせであり、それ以外は失敗になります。数多くの思考錯誤の末に成功が生まれ、ようやく利益が得られる様になります。真似るという事はその過程をせずに結果が得られるという事であり、知性が足りなくとも出来、そして能力が低くとも行動を真似るだけの能力があれば結果を得る事が出来ます。
そして既成事実として成立している成功となる結果を得られる行動というものは誰から見ても信用出来るものでもあります。それを突き詰めたものが魔導学です。誰からも信用出来る行動と結果を基準にして世界を解き明かそうとするアプローチです。しかしそのアプローチが保証するのは物理現象のみです。私達は概念世界を定義して社会概念を定義し、行動に行為を重ねて概念世界を実現させます。魔導学は物理現象を得るための行動の種類を保証しますが、行為の種類を保証しません。その事実を理解していなければ真似る事で常に一意に、無条件に行為が成立すると錯覚してしまいます。
魔導学に限定しなくとも行為と行動が一致しない事は簡単に分かります。襲い来る暴漢に被害を与えられない為に相手を殴ったとします。それは襲って来た暴漢が殴った結果と同じでしょうか。襲われた側の反撃は自衛の為であり、襲った側の加害は少なくともその状況において自衛の為ではありません。
ではそれが本当にそうかとなると私達の社会の高度さによって複雑になります。襲われた側が常に襲った側を社会のルールを悪用して加害し続け、ついに被害し続けた側が加害した側に物理的手段を用いてでも加害行為を止めさせようとした、という結果の場合、行為としては襲った側が自衛の為であり、襲われた側は加害行為を続ける為に相手を屈服させる行為になるかそれとも相手のその物理的手段を行使するのを待ち受けた更なる加害行為かも知れません。しかしその背後関係とも呼ばれる事実関係を知らなければその状況だけを見てどちらが加害したのかを決めるだけになります。その襲った状況自体は確かにそれ単体で見ても悪い事でしょうが、それ以外に追いつめられない為の選択肢が残されていなかった場合、追い詰めた側が誘発したとも言えます。相手に悪事をする様に唆したとも言える状況において、社会の中で悪事を成して周囲を加害した者とそれを止めようとした者、誰が本当に罰せられるべきかをその状況だけで判断する事が難しくなっていきます。
この様に行動を見て行為を一意に決める為にはその定義が必要であり、錯覚させて悪用するのでなければそれぞれに一意に手順を割り当てて行為を区別する事になります。しかし定義はそれを目に見える形にするだけの情報しか持たず、そして行動そのものがその情報を表すわけでもありません。
例えば、礼を考えましょう。礼の仕方で男女の区別があり、地方により方法も変わります。上下関係が伴う礼は、相手が上司だとしれば相手より頭の位置を下にして、相手が自身より少し上にいると示すのが習わしです。その始まりにおいて、指導者は指示する配下より知性において優れていた為に相手の方が知性において上だと示す行動が元になります。
その方法として簡単に頭を下げる、相手に頭を下げる事は服従を意味するとして頭を下げずに"立ったまま"、つまりは自身の権利は放棄しないという主張を表す為に膝を曲げて頭の位置を下にする、などになります。相手より頭の位置を下にする事で、相手との上下関係を分かりやすく周囲に示す方法になります。この行動は主には女性が取る事が多く、それも古い社会において、男性は能動的に社会を維持する為に行動し、自身を相手の下に位置する様に示せば良い様に操られる為に男性同士ではあまり行われません。女性は膝を曲げる礼をする時があり、その時は同じく女性である事を示す為のスカートの裾を地面に付けないためにスカートを持ち上げるやり方になります。その後にもいくつかの改良がされますが基本的にはそうなります。
男性においては膝を曲げるという事はせずに自身が能動的に行動し、相手の下について操られる事がない、という意思を示す為に自らの手を心臓の上に載せ、心臓とは血を全身に行き渡らせる行動の要となる器官であり、自身の行動は自身の意思により決めるという礼をして自身の立場を示します。また、頭に手を置き、礼をする場合は胸に手を置くより更に条件を限定し、体の維持など生命を維持する為の保身的な行動よりも自らの意思を優先するという意味を持ち、主に兵士など戦いをする者に使われます。
しかしその上下関係に大きな開きがあると男性でもその立場上女性的になる為に、膝を曲げるという行動の末として膝をつく行動で上下関係を示します。
付く膝によって意味が変わり、それは握手においても同じです。右と左の違いは、左は心臓に近く、その主義思想や主張に結びつく事が多く、右はその逆になり、主義思想などを拝してでも物理的な利益を求める場合に使われます。右膝を付く時、利害関係の一致により服従している事を表し、左膝を付く時、その理想や主張に共感して服従する意味を持ちます。両膝を付くのはどちらにも服従する事を意味し、良く見られるものは権力者に対して民衆が慈悲を乞うなどの場合になります。
握手においても同様で、左での握手は互いの理想や主張において連携を取る事を意味し、右での握手は利害関係の一致により連携する事を意味します。
しかし、その行動自体にそれを意味する情報はなく、行動を見ても左だから右だからという意味をその行動の根拠を知らなくとも見て分かるわけではありません。
結果としてその方法は慣習化する事でその根拠を知らずとも行われ、真似るだけでその意味を知らない者が実行し、しかしその意味を知る者はその行為をその行動に付随させ錯覚をします。形だけの礼を実行する者はそれで礼としての行為が出来ていると錯覚し、その錯覚した行動を見ている者はその行動者が行為として行っていると錯覚出来ます。そして、実際にその意味を知らずとも問題なく手順は完了します。その為、行為を表したはずの手順は形式だけを真似る事になり、その根拠とされた条件を失くします。これを『形骸化』と呼びます。
形骸化したもののどこに問題が発生するかと言えば、その忘れられた根拠部分にこそその行為の重要な要素があり、それを実現するための行動であったものが単にその状況をしのぐだけのものになり、元の効果を与えないからです。
敬礼として頭に手をかざす兵士と言えど、それが形骸化してしまえば自身の主義主張とは関係なく欲望のままに行動する様になっても敬礼するでしょう。同じ様に国家の都合良く操られたとしても敬礼するでしょう。その礼には本来の意味の礼は既に無く、単なるその状況をやりすごすだけのものに成り下がるでしょう。
同じ様に、宣誓が必要なものも単なる『なんだか良く分からない呪文のようなもの』でそれさえ唱えれば楽して生活出来る魔法の言葉と言った程度のものでしかないという認識にまで下がるかも知れません。その様な者にその宣誓の意味する内容は期待出来ず、また、その履行が本来の姿であっても履行しないので履行を促しても、その本人はそんな履行する義務があるなどと思っても居ないので拒否するでしょう。
そして、真似する事で相手が錯覚すれば自身は余計な義務を負担しなくて良いと思う様になり、その結果として楽して利益を得る事が出来れば、効率の良い手段として快感原則に従い多用します。それを抑制する根拠部分は既に忘れ、歯止めが効きません。
私達は正しく行為する者とそうでない者をその行為を表す形を見て、本物か偽物かを判断する必要に迫られます。それに失敗した時、与えた役割を悪用されるリスクを持つ事になり、欲望のままに行動されたなら社会を混乱させる要因になります。より重要な役割程それを悪用された時に大きな影響を与え、より大きな役割程その行使する権限を利権として悪用する事で大きな利益を稼ぐ事が出来るので、本来の目的やそこに付随する義務を知らない者程、天秤の片側に載せる労苦や損失が少ない為により良い選択に見えてそれを求め、そして実際に得た後に求められる基準を達成しない為に役割を果たしません。しかしその権力を用いて批判する者を黙らせるのでその方法が使えなくなるまではその本人に深刻な影響は与えません。
魔導学においても同様です。それぞれの事象を魔導学で解釈したものを魔導学現象と定義し、その現象を解釈したものを定義として明文化したとします。しかしこの世の全てを明文化出来るわけでもなく、仮にその現象を解釈して定義した時の条件を全て書き記したとしても便利に使用出来るものでもありません。それを扱うには膨大な情報を読まなければ使えないなら読んでいる間に人生が終わるでしょう。
そうならない為に私達は共通認識と呼ばれる共通の基準を基礎としてその上に明文化されるべき情報を載せます。その共通認識の分だけ明文化されるべき情報を省く事が出来ます。
魔導学に限らずどの様な知識もその基本的な部分を共通認識としての知識に頼る様に定義されます。以前にも言いましたが、例えば『運ぶ』という行為を行ったとして、その『運ぶ』にも運ぶものによって方法が変わりますがあるものをある地点から別の地点に移す行動を定義している事には変わりありません。その汎用性はある程度の種類の『運ぶ』という行為を見る事でそれぞれの違いを省いて残ったものを概念上の『運ぶ』と認識する様に再定義されていきます。カップに入った水を『運ぶ』という行為をしている行動を見て、運ぶとは『カップに入った水をある地点から別の地点に移す』事だと定義したとし、次にお皿を『運ぶ』という行為をしている行動を見て、どうやら『運ぶ』というのは『カップに入った水をある地点から別の地点へと移す』事ではなく、『カップに入った水若しくは皿をある地点から別の地点へと移す』事だと再定義出来ます。その繰り返しにより、どうやら『運ぶ』というのは『ものをある地点から別の地点に移す』事だと定義される様になります。
こういった定義を日常の中で行いながら成長し、新たな知識の基礎とします。より多くを経験し、より詳細に定義された概念程応用が利く様になります。色々なものを運んだ経験があれば次にこれまでに運んだ事がないものを運ぶ事になってもある程度は運び方の予想がつくなどは良い例です。棒状、球状、蓋の有るもの無いもの、ロープなどが必要なもの、手袋などで手を保護する必要があるもの、それとは別にものを保護する緩衝材が必要なもの、振動を与えてはいけないもの、という様にある経験からそれに類推するものを運ぶ時に求める結果あるいは求められる結果を達成する条件を推測する事が出来る様になります。逆に経験が足りないと運んだ事のあるものについての状況だけで判断するのでそれまで運んだ事のないものや違った状況でリスクを発生させる事になります。頑丈なものばかり運んできた者が壊れやすいものを同じ様に扱って運んで壊したり、揺らすと品質が劣化するものを何も気にせず運んで目的地についた時には品質が劣化していたりという結果になったりします。その時、運んでいる者の概念の中には運ぶだけで壊れるようなものがあるという概念がない、揺らすだけで品質が劣化するものがあるという概念がない、という事になり、気づけない場合があります。勿論忘れている場合もあります。
では『運ぶ』という行為で多種多様なものを運ばないと『運ぶ』という行為で応用が利かないかと言えばそうではありません。私達は数多くの行為をします。その中にある行動の部分的な要素を分離して覚えており、ある行為で行った行動で得た経験を他の行為に再使用出来ます。
例えば『水』を飲んだ事がある者は水は何か器に入れないと扱えない事を学びます。それを経験した後に、『水を運ぶ』場合には『水』を扱う為に器を用意するでしょう。水を一度も運んだ事がなくとも他の行為で水を扱った経験を利用できます。また、ガラス製品を壊した事がある者は、ガラス製品が壊れやすい事を知っているのでガラス製品を運ぶ際にはより注意を払う様になるでしょう。
そうやって私達は日常の中で、水なら水、運ぶなら運ぶ、それぞれの情報を集めて『水』とは何なのか、『運ぶ』とは何なのか、という様に、概念を再定義していきます。
しかしそうやって覚えていく過程が概念の定義に必要だとしても、失敗する経験を行えば損失となり失ったものは返ってきませんし、損失分を補填する為に時間もかかります。その為に知識として失敗した時の結果を知る事で代わりにして同じ効果を得る方法を行います。
しかしその方法は体感を得ないので本人が培ってきた体感を伴う経験で知る事は出来ず、新たに知識として与えられる経験を積み重ねる必要があります。体感は、痛いなら痛い、熱いなら熱い、という様に本人が今まで得た経験に結びつきやすく、その際に対応する行動が何かを判断しやすいものになります。知性を得る前から続く遺伝子上にその情報は蓄積しているからです。
私達は知性を得て行為する様になり、行動が直接行為に結びつく状況ではなくなりました。その時から体感した情報に対応する行動が複数の選択肢を持たなければならない状況が作り出され、それまでの経験を基にした判断だけでは対応を決める事が出来なくなりました。
例えば、ワクチンを注射する時に針を突き刺します。自身の身体に痛みを与える行為であり、かつ相手に悪意があれば死のリスクまでつきまといます。得られる体感や状況判断だけで行動を決めるなら自衛の為に注射されるのを拒むでしょう。しかしそれがワクチンを注射して未然に別の死のリスクを回避する為であり、また、ワクチンを注射する事は加害しようとしているのではない、という知識を持っていれば針で刺されてもそれほどの抵抗感はないでしょう。
しかしこの時、まずはじめにワクチンを注射するのは加害行為ではない、そして注射は酷い怪我を負わせる行為ではない、という事を教えなければなりません。
その為には知識を与えられる事が体験する代わりになる様に受け入れられるだけの知性を育み知識を得てそれを解釈する経験が必要になり、初めから持っているわけではありません。私達は生まれ変わった時には外界から遮断された状態になります。持っているのは遺伝子に蓄積された情報のみでその情報を生まれ変わった後の新たな世界から得られる情報と合わせていく事になります。
自身の中にある基本的な行動から合わせていく事になり、『食べる』という行為を行う事は出来るでしょうが、それが新しい社会ではどういった方法で行うか、そして『食べる』という行為をどう言葉で表せば良いか、『食べる』欲求がある時にはどう表せば良いかという様に自身の意思と欲求をどう表せば良いかを学んでいきます。
成長する過程で体感し、その情報で世界を『なんだか良く分からない』ものから『恐らくそうだ』という過程を得て『ほぼ間違いないだろう』という状態にまで確定させていきます。その際にリスクのある行為は受け入れられません。それをどうやって受け入れさせるかという問題に行き着き、実際には社会の中では危険ではないものでも『なんだか良く分からない危険なもの』を受け入れさせるには経験させるしかありません。その結果を体感させて行為を受け入れる事が出来る様になっていきますが、それをするには保護者の信用が必要になってきます。
例えば注射は痛く怖いものです。痛みを感じるという事は死のリスクがあり、いずれ死のリスクにつながる可能性があるとも言えます。そのリスクを受け入れなくて済むのなら誰も受け入れたくないものです。その注射がワクチンだとしましょう。今、少し痛い思いをする事と将来病気に感染して重大な後遺症を得る若しくは死に至る結果になる可能性とを比較してどちらが良い結果に結びつくかを分からせる必要がありますが、幼い者にそれを分からせる事は難しいので、保護者の信用で受け入れさせる事になります。痛くて怖いものだが、保護者が今までその幼い者に大きな危害を加えずに保護してきた信用で、新たな行為も今までと同じ様に大きなリスクを与えるものではないと信じさせて受け入れさせます。
被保護者は保護者の態度で『なんだか良く分からないもの』の与える影響を知り、自身にまだ世界の情報が足りない代わりの判断材料にします。親が怒るなら怒られる事をした、親が誰かに怒るならそれは怒る様な事、という様にその行動から基準を学びます。
また、自身の遺伝子から得られる情報によっては、注射を怖がらないかも知れません。社会の中では基本的に加害行為は行われないという結果の蓄積があった場合は、注射されるという事に対してそれほど抵抗感はないかも知れません。これは同時に信用しやすいという事でもあり、悪質な環境ではその子供は騙される事が多くなります。
感情の起伏とはその状況の感じ方の差とも言え、また、その大きさはそれがどれだけの大きさとして感じるかになります。悪人にとって些細な悪事から受ける感じ方はそれほど大きくなくとも善人にとっては悪人よりも大きな感じ方をします。悪人はそれが日常だと言える為に悪事に対するレスポンスは少なくなります。私達が息をするのに一々驚かない様に、ものを食べるのに一々驚かない様に、悪人は些細な悪事には同じ様に無反応です。
本来ルールやモラルを守るのであれば悪事を行えば何かしら感じる必要があるのですが、不感症と呼べる状態になっていると言えます。しかしそもそもがその様な状態なのは初めからその様な状態であったのかは現状からは分かりません。
その様な感覚は社会の中で生活する上で体感して身に付けていくものです。ですのでその体感を得られない環境で世代を重ねた者はその感覚が無いか精度が低くなります。また、死のリスクを回避する為に犯罪行為を行う事を受け入れる時、今まで守って来たモラルやルールを破る事になり、制限を失くす自由と共に、自身を肯定する為に状況から目を逸らし判断する事を止め、その諦めと共に判断能力の元になる感覚を鈍らせて精度を低くする事があります。
更に、その感覚は社会の中で積み重ねていくものです。権力者が社会を自身に都合良く改変しようとして、犯罪行為を行う事が利益を貪るのに都合が良いと考えれば、社会を改変してモラルやマナーを失くす様に社会を作る事が出来ます。
その様な環境で、合法とはされているが、自身はそれをモラルやマナーの面で抵抗感を感じるのはかつてそれが合法とされない社会に居た可能性があり、その差を感じるのであれば、なぜその差を感じるのかを考え、知性を育み、その感覚の原因を追求し違いを知る事で現環境においてその行為はして良いかどうかを判断する事が出来ます。それをせずに周囲に合わせる形で自身の感覚を無視して行動しつづければやがてその感覚は薄れ、もしその感覚こそが正しい在り方を示すものだとすれば判断能力を得る機会を失う事になります。
一方で私達は未成熟な段階ではなぜルールがそうなっているのかが分からず、しかし行動しなければならない為にルールをまず受け入れ行動します。その時にルールを受け入れた後でもそのルールがなぜそうなっているかの根拠を知る様に行動する事でルールが本当に正しいかを判断出来る様になります。環境の変化でルールが現実に合わない様になった時に、現実に合う様に基準を劣化させずに改善する必要に迫られてもルールの根拠を知っていれば問題なく対応出来ます。そしてその経験が遺伝子に蓄積され、次代において勘や感覚といったものとして自身が今までの生のなかで最善としてきたものとの違いを見せた時、それを感じる様になります。しかしそれがどの様に表現されるのかは漠然としか分かりません。それをもう一度現世代において明確な識別能力とする必要があり、知性を育み、物事の違いを知り、より詳細に識別できる様になって、自身の得ている感覚がどう表現されるかを確定し、なぜそう感じたのかの理由を知る事で、前世において得た自身を生存させるに有益となる情報をもう一度再確認できます。そしてそれを怠るということは情報強度を弱め、やがてその感覚を失う事であり、かつての過去においてその感覚の元になる経験を無駄にするという事でもあり、失ってしまえばもう一度するかそれと同等の推論が出来る知性を育む必要が生じます。仮にその感覚がもう必要のないものだったとすれば、それを判断するまでの時間は必要としますが失くすだけで済みます。
もし仮にその様な感覚が操りたい人物を操れる様にする為には障害になると言うなら、そう出来ない状況へ追い詰めてしまえば良い事になります。競争、対立、なんでも構いませんが、それに割く時間を与えず、そしてその者が生活する環境からそれに気づける情報を排除してしまえば、より間違ったままに行動させる事が出来、本人は生きるためのルールを遵守する事にリソースのほとんどを割き、間違いに気づけないままになるでしょう。その繰り返しにより、徐々に社会からある特定の者にとって不都合な概念や考え方を消し去っていく事が出来ます。
それは魔導学の発展に見れば分かりやすいかも知れません。動物を甚振る事を良しとはしなかった風潮が、モルモットという大義名分を得て、動物を活かさず殺さず甚振り続ける事を容認し、また、殺す事に何の罪悪感も抱かない様に社会を作り変えていきます。細菌、虫、鳥類、魚類、げっ歯類、哺乳類と徐々にその状況を変化させつつ受け入れさせているとも言え、哺乳類をモルモットとして扱える様になれば次は私達という種そのものに区別をつけ、扱い始めるでしょう。それは奴隷制度の始まりであり、その間違った遷移の仕方を止める為に弱者を甚振るなどを避けていた風潮があります。
それを失わせてしまえばその流れを止める事は出来ないでしょう。細菌だから私達とは違う、虫だから私達とは違う、鳥類だから私達とは違う、魚類だから私達とは違う、げっ歯類だから私達とは違う、哺乳類でも犬だから私達とは違う、猫だから私達とは違う、クジラだから私達とは違う、イルカだから私達とは違う、犬と称される様な人物だから私達とは違う、私達は高貴であいつらは卑しいから私達とは違う、から非人道的に扱ってよい、なぜならあいつらは人と呼ぶには卑しいから、と遷移するでしょう。
それを止めるには知性が必要であり、なぜ駄目なのかという根拠を知っている必要があり、それがなければルールで制限をかけるしかありません。しかし私達は快感原則に則って自由を尊び制限を外そうとします。しかし自由の権利を主張するにはそれと同等の義務が生じ、義務を正しく知るものは殊更自由を主張しません。制限があるからこそ一定の自由が確約されており、その制限を外せば現状の自由さえも失う可能性が高いからです。
私達が他者に加害する際に最も簡単に口実を得られる方法は敵と認定する事です。殺し合いをしてきた蓄積が敵は殺しても良い、という錯覚を与え、殺すのは相手を死に至らしめる事であり、それよりむごい事などほどんとないから大抵の事は許容される、という錯覚を行いどの様な行為も行ってよいと思い込みます。殺す殺さないというレベルで争わないとしても、敵と認定した時点で、仲間だからこそ適用するルールを適用しなくて良いと思え実際にその様に扱います。また、欲望基準で行動する者は欲しい利益を得るが為に該当する利益を持つ者を攻撃して良い者、つまりは敵と認定し、そこに欲望以外の根拠は必要ありません。欲望を満たす為の障害とみなして敵と認定するのです。
自身がその物を得る条件として欲しい物を持っている者は邪魔なので排除してしまえばその物の所有者はいなくなるので自身が手に入れても良いと思い、それが出来ないなら脅してでも譲渡させれば良いと思います。
明確に敵と認識しなくとも良く、単純に"味方ではない"、"仲間ではない"と思う事でも構いません。殺す程ではないにしても、味方でなければ気にしなくて良い事もあり、その程度の分だけモラルやルールを無視出来ます。味方でなければ困っていてもあえて助ける義務はないと考える事も出来、味方でなければ相手の事情を考える必要がないと思う事も出来ます。そうして、私達は個々人で他者を認識する時に差をつけて認識しています。それが利害から来るものであったり、肉親の様に利害ではなく同じ運命共同体として認識しているものもあったりします。勿論、その遺伝子に積み重ねてきた蓄積によっては肉親であるかどうかは運命共同体と呼べる程に強固なものでなく単なる利害関係であったり、利害関係が優先される様な認識である場合もあります。それぞれが同じ認識をしていないという事をまず知っておく必要があります。そしてその認識の差が同じ行為をしても行動の違いを生み、言うなればそれをパラメータで表す事が出来ればその数値が違う事を知っておく必要があります。
欲望はこの、徐々に制限を取り払う方法を助長します。味方であるなら困っていれば助ける義務があるからしたくなくても味方であるなら困っていれば助けなければならない、なら、味方でないなら助けなくて良い、そうすれば楽できるし助ける事で生じるリスクを回避出来る。他人であるならわざわざ困っていても助けなくとも良いが加害するも同然に物事を押し付けるのはモラルが許されない、他人であるならわざわざ困っていても助けなくとも良いが加害するも同然に物事を押し付けるのは周囲が許さない、なら押し付けられても当然だと言えるような人物だとしてしまえば自身のモラルも周囲も文句を言わず、楽して利益を得られる。この様に快感原則に従った行動が出来てしまいます。モラルやマナーでしなければならないという状況ならそもそも該当する様な状況でなくしてしまえば良く、相手が悪人なら助けなくとも良いのなら悪人に仕立て上げれば良く、相手が困っていても味方でないなら助けなくとも良いなら味方ではないと思えば良いだけになります。
こうして、それまでの状況に都合が良いから味方だと認識していた者を、状況が変われば途端に見捨てる者が現れます。その者にとっては、社会のルールやモラルを守って社会を維持するという義務は欲望よりも軽く、利益になるから味方であり、利益にならないなら味方でなくなるという判断をします。非常時程その者の性質が現れやすく、その者が自身の利己益のみを考えて行動して、社会の維持向上などの義務を果たしていたのは単なる利己益を得るための真似や模倣だったという事が顕著になる可能性があります。しかしその行動であればある程、周囲が錯覚していてくれれば利益を得る事が出来、自身はリスクを回避しながら行動出来ます。
しかし同時にそこには欠点があります。自身が他者にとって利益になるだけの能力や資源を持っていないならそもそもがその集団の中に入れずいつまでも困窮する事になります。その困窮の中で互いを助け合いリソースの節約や有効活用、個人のバッファでは対処できないものも集団のバッファで受け止めて個人の死のリスクを回避しながら徐々に状況を改善していった後が、そもそもの社会の実状です。そこでそれまでの経緯を全て捨ててモラルやルールを軽視するのはそれが自身で築いたものではないなら、他者の作り上げたものを潰しながら利益を得ている事になります。
もしモラルやルールを軽視する選択をした者がその社会の中で維持向上する役割を果たしてきた者であるなら、それは社会がどの様に作られてきたかに対する判断能力を退化させて精度を低くしたとも言えます。
また、集団に属する時に、その集団に入れたのは自身の能力のお蔭だと思っていても実際は違う場合に問題になります。自身の能力で集団に属せたと思っている者は助け合いなどをせずとも自身はその集団にいても良いと思っていますが、それだけの能力がないのであれば基準に到達しない人物であるという認識を本人が自覚しないままになります。能力が足りないにも関わらず、助け合いをせず、しかし自身は能力があると思って行動し、自身は能力があるからこそ優遇されるべきだと考え、自身が不利な状況に追い込まれれば助けられるのが当然だと思い、他者が不利な状況に陥れば助けなくとも良いと考えかつその状況を自身に有利に使おうとするでしょう。
これは媚びや賄賂を使って成り上がる者にも適用されます。そういった者達は自身に能力があるから媚びや賄賂で上手く取り入る事が出来ると思ってはいますが、実際に能力があればその必要もなく、しかしそれに気づけないという事になります。同時に、そういった者で社会が構成されてしまえば、どれ程の能力があっても媚びや賄賂がなければ集団に参加する事が出来ません。個人の能力とそれまで社会に貢献してきた者達の功績の総量を比べて個人が勝てる可能性はまずありません。その功績を社会に属する事で悪用して譲歩を促す、端的には媚びや賄賂を要求する者は後を絶ちません。
しかしそうやって元々の根拠を知らずにいる者や基準を維持する事を止めた者が真似をしていても行動自体に違いが現れる事はほとんど無く、その違いは日常が変化する時に現れ、また、非常時に近くなる程に顕著になります。
仲間だと思って助けていたがいざ自身が不利になれば簡単に見捨てられる、混乱して誰が行なったか分からなくなった時に襲い掛かる若しくは襲い掛かられる、と言った状況が起こり得ます。
何度も言いましたが私達は『ほぼ間違っていないだろう』という所まで識別できる様にしてそれを『正しい』と認識します。曖昧な立った世界の輪郭が、徐々に焦点が合う様に精確になっていきます。しかしそれは自身から見て『ほぼ間違っていないだろう』という段階にまでなればその精度を上げる事を止めます。そして先程言いましたように、状況により諦めて精度を下げます。下げた精度により制限が外れ選択肢が増えますが、例えば味方の様な他人の様な人物だと識別してしまえば助ける事も助けない事も選択出来、助ける事で生じる問題が不都合であればそうして助けない事で問題を回避出来ます。結果として助ける事で生じる問題は常に考慮する必要がなくなり、それ以上の識別能力は必要なくなり、また、その部分でそれ以上の知性を育めば問題から目を逸らす、つまりは問題を意識しない状況には出来ませんので、常にその部分では知性を育まない選択をします。
例えば、そうしなければ生きていけない状況でモラルやルールを捨てて行動した者が、モラルやルールを考えれば自身が罰せられるべきで破滅するしかない事を再認識してしまう為にモラルやルールから常に目を逸らしてしまう状況などがあります。そうなってしまえば、そのまま生活出来ていたとしてもやがて感覚は麻痺し、世代を重ねる事にもなれば倫理観などを持ち合わせず欲望に忠実な者が生まれてくる事に繋がります。
社会の成長ともにその知性を育まなかった者はその精度を持ち合わせず、未熟な状態のままと言えます。その認識精度で世界を見ていますが、個々の認識はその本人の都合の良い様に優先付けされた条件で認識されており、その認識した概念同士が状況に適用しようとした時に矛盾を生じさせない限り、そこに整合性はありません。それは同時に知性を育む機会がない事でもあり、真似をして日常を生活する限りはあまり機会がありません。日常というのは失敗の中から成功を選び続けて集めた集約でもあり、それだけ問題がない状態になっており、真似をして問題が発生しない限り、なぜ真似した行動で良いのかの根拠を知る事が出来ません。問題が発生すればなぜそうなっていたかの要因の1つを知る事があるかも知れませんが、それでは損失を発生させるだけになります。そして日常ではない非日常の状況で、既に問題が発生している所に更に問題を発生させる要因を持ち込むのは状況を悪化させる事になります。
例えば、火事の時の火事場泥棒、品不足で価格高騰時の便乗値上げ、経過措置の悪用、救済措置の悪用、など本来対処すべき問題に上乗せする形で問題を発生させられては対処出来るものも対処出来なくなります。
その為、真似しているだけのものかどうかの判断は必要であり、そして自身が真似しているだけの偽物だと判断されて排除されない為にも知性を育む必要があります。
その知性が社会が求める基準に達していない分だけ、その者が認識している世界はそこに存在するものの概念が曖昧で、かつ曖昧であるからこそ条件が少なく条件が少ないからこそそれぞれの概念に矛盾があっても存在出来、矛盾は全てその曖昧な条件に隠して見えない様にしていると言えます。
簡単な例えでは、あるものの概念のパラメータがX軸とY軸上に存在していたとして、実際にはそれを関係する別の概念をその本人の知性の低さからA軸とB軸上に存在しており関係ない様に思っている状態とも言えます。しかし私達の世界は1つであり、どこかでつながっています。無関係に定義した概念も同時に扱う必要性が生じ、その時に矛盾は露呈し矛盾を解消出来なければ問題に対処出来ません。
その時に強引に対処する事で問題を解決出来ますが矛盾を押し付けられた何かがあり、それが次の問題になります。すぐに問題にならなくとも問題の発生要因となり潜在化し、矛盾を失くせない者は常にそうやって問題の発生要因を増やしていきます。
しかし、強引に解決出来たとすれば問題は目の前から排除出来、今までと同じ問題の発生する前の状況になりあえて対処するべき状況ではないので今までと同じ行動が出来ます。問題は強引に矛盾を押し付ける形で解決したままであり、その結果から反省して知性を伸ばさなければいつまでもその人物を起点としてある問題を解決する度に別の問題が発生し続けるでしょう。
そういった者が増え、問題を変えながら押し付け合った結果として誰も解決しないで放置された問題が社会を劣化させ崩壊に導き戦争へと至ります。
しかし矛盾は全て自身から見た世界に存在するものを認識して定義した条件の差の中に埋もれて隠してしまっています。その人物からすれば罰せられないのだから自身には何も問題がないと思い込み、しかしそれが押し付けや強引な手法によって行われた際には問題を別の問題に移し替えたに過ぎない場合が発生し、その発生を失くすにはその本人が知性を育む必要がありますが、知性を育むには時間がかかり快感原則に反し、その必要性を理解させなければ期待は出来ません。
例えば、物理的手段を用いて暴力により相手に押し付ける形で問題を解決してきた者にとっての世界とは酷く曖昧で未熟であり幼稚だと言えます。どの様なものも暴力で済ます事が出来、食べたいから食べ、寝たいから寝て、遊びたいから遊び、それらを全て物理的な暴力で解決出来ればそれぞれに整合性は必要なく一般的な共通認識も必要なく、その共通認識の代わりに暴力するという概念のみがある事になり、そこから本来ある認識を得る事もなく、場合により暴力の仕方で精度を高めるだけになり、本来あるべき認識を得る事もなく成長させる事もありません。
どの様な問題も矛盾を排除せず強引に解決しようとする時、私達は知性を育む機会を失ったと言え、その状況は私達という種族が知性を育み社会を構成して平和と繁栄を求めた過程において敗北を意味します。しかし個人としては誰にもそれを止められないなら、個人でなくとも一部の特定の集団としては誰にも止められないなら、問題は解決したと思い込めるものになります。自身若しくは自分達が見ている世界の中から問題はなくなっているからです。しかしそれが矛盾を抱えたものなら単に見ている世界を定義した概念の条件の差に問題を隠しただけであり、しかし本人にとってはその差を判断するだけの知性もない為に自身に間違いはないと思い込めます。
高い知性を持っていれば整合性を取って同じ座標上に位置を決めるものもそこに整合性がないなら別の座標系に位置を決める事が出来、整合性がなくて良いなら矛盾も発生しないのでどの様な主張でも出来てしまいます。
自身の知性の低さから生じているのか分からない場合や既に諦めたから追求しなくなった場合や追求すれば自身が罰せられる為に追求しない場合など知性を育まない状況は数多く発生します。
低い知性のままというのは客観性を持たないという事であり、欲望のままに自分に都合の良い見方をして概念を定義した世界をそのまま押し広げようとしている事になります。個々がそうして自身の欲望を押し付けようとすれば争いになるのは当然です。
客観性を得るにはその個人から見た世界に存在するものを表す概念の精度を高め整合性を持たせる事でしか得る事が出来ません。それがなければ状況に合わせて誰かの行動を真似るだけになり、状況の変化で求められる行動をしない状況を作り出します。
自身の抱えた矛盾を排除しながら知性を高めるには強引な押し付けをなくす事から始める必要があります。強引に押し付けるという方法はいわゆるワイルドカードであり、どの様な問題にも適用出来ます。それが出来る時点で知性を成長させる機会を失う事になり、その者が権力者ならその権力者が居なくなるまでその問題は真に解決する事はないでしょう。
そしてその方法はけものが自身の前から敵を追い払う行動とさして変わりなく、その状況になるまで放置しているとも言え、外界からの影響に対して受動的であり、女性的な行動であると言えます。受動的である為に根本的には解決しておらず、また発生し、それをまた押し付けてその場しのぎをする状況を繰り返す事になります。
しかし逆に言えばその場しのぎでこなして自身が死ぬまで繰り返せるならその者にとっては快適な生活を送る方法とも言えます。しかし、この時点で自身とは現世代の自身のみという定義にまで退化している事は留意する必要があります。つまりはこの様な者にその考えでは維持出来ないものを任せる事が間違いになります。
自身が新たに生を受けた段階では自身から見た世界における情報だけでは自身の『生』の定義を個人のみかその血統そのものだと考える事は出来ずに未分化状態と言えます。自身の中にはその情報があったとしてもそれを知性を育んで認識出来る様にしなければその情報を活かす事が出来ず、また、自身の居る世界を知ろうとしなければ自身の持つ情報をどの様に表して良いのかも知らないままになるでしょう。そうすると自身とは遺伝子の表現形として存在し、その血統の末に居るのだという事実を知らぬままに、もし知っていてもそれがどういった事なのかを知らずに行動するでしょう。そして現世代の個人のみが自身だと思い、制限を外した行動をします。それまでの社会が維持出来たのはその様な考えをしない者達が居たからだという事実は分からず、社会を潰す側に回り、社会を劣化させます。
状況が自身に都合良く幸運に恵まれた者は社会の不都合に遭遇せずに生活します。その中で、社会の決めたルールで競争しているとそれだけで社会は維持されていると思いがちになり、生活するに足りるだけの『ほぼ間違いないだろう』という識別能力で全て問題なく行動出来ると思い込み、それ以上の識別能力を得るだけの知性を持つ事はありません。そして競争により効率よく与えられた問題のみをこなす習慣により必要以上に知性を伸ばす事もなく、成績によりご褒美を貰う習慣により利益がなければ知性を伸ばす事もしなくなります。しかし、それらの行動でどうにかなるのは与えられた枠組みの中だけです。与えられたルール、与えられた役割をこなしていれば何の問題もなく生活出来るという誰かに与えられた箱庭の中でのみその考えは通用します。つまりその行動は受動的であり、誰かにその行動で問題ない事を保証してもらわなければならない、つまりは親の保護の元での行動と同じ基準で行動し、しかし親の保護がない状態でもあると言えます。
その考え方は女性的であり、男と女の役割を決めた時に女性が役割を果たす為に必要な状況でもあり、誰かが外部から利益を齎し、その中で優劣を決めるだけで良いという依存の元に成立します。
男性の役割とは社会を維持し、出来れば向上させ、私達という種族が平和と繁栄を享受出来る様にする事です。その為の枠組みを作るのが役割であって、誰かの作った役割の中で優劣を決めて多くの利益を獲得するのが役割ではありません。
社会の中で役割をこなし優劣を競いトップになれば多くの利益を得る事が出来る、権力を自由に使う事が出来る、というのは、与えられた役割や与えられたルールの中に居さえすれば問題が起こっても誰かがなんとかしてくれるという無条件の思い込みの中に居る事と同じになります。そしてその様な者が権力を得た時、自身の役割を錯覚して行動し、本来求められる行動より少なくとも1次元下の行為を行う様になってしまいます。
男性の役割は、与えられたルールで問題無く日常が過ごせ、与えられた役割が与えられた役割のままでも正常に機能出来る様に制御する事であって、与えられたルールや与えられた役割にただ従っていれば良いものではありません。本来の行為を忘れた為に制限が外れ、その制限を外して自由になった部分に間が潜み、本来得られるはずのない利益を生む根拠となり、その利益を得たがために正常な機能は失われ劣化し、問題を別に移し替える形で生じさせ混乱を招きます。制限を外す事はそれだけ効率よく動ける事でもあり、そうして競争に勝ち、更に上位の権力を得る事を繰り返し、社会を壊す者が権力を握るパターンは良く起こります。
しかしそういった者は知性が低い為、根拠を考える事なく、誰かが与えてくれたルールや手順を真似るだけで良いと思っている為にそれ以上の識別能力を持たず、自身の行動に何の問題もないと考えます。しかしそれは誰かが与えてくれたルールや役割に依存しているだけであり、日常というものは非日常に制限を加えて作り出しているものでしかなく、その役割を担う者は、非日常に制限を加えて日常を作り役割を定義出来る様に制御して役割を実行する義務があります。しかし常にそれだけのリソースを割くだけの労力は快感原則に反する為に、ルールを定め問題を一つ一つ排除して日常におけるルールだけで問題なく役割を実行出来る様にします。その非日常から日常にするだけの過程の情報を持って日常は行動すべきであり、しかし日常だけを生きる者は知性を育まずにその情報を得ようとはせずに過ごせます。そしてルールは明文化出来ているものだけがルールとして定義されている為に、知性がなければそのルールの定義自体から曖昧なものとして扱っている事にもなります。
体感もしくは知性を得て概念を定義し行動する者とそれを見て真似して行動する者ではその概念そのものの正確さが変わり、それはつまり非日常を知り根拠を知り概念の定義を詳細にする者と日常の中で与えられたルールを真似る者との差とも言え、真似る者はそれだけ制限のない為に自由に行動出来ているとも言えます。真似るだけの者の方がそれだけ競争に勝ちやすく、そしてそういった者が大多数を占めるまでになった時に、根拠を満たさないルールの履行により社会は問題を蓄積させてやがて表面化しますが、その真似してきた者達はその原因が自身にあるとは思わず、そしてルールは守って来たのだから自身は間違っていないと主張します。
酷い例えとしてその姿は、ルールの根拠を知り行動してきた者からすれば、ルールの根拠となるものを守ろうとせずに自堕落に行動し、利益を貪る事だけを追求し、誰かに管理されなければ自身の環境すら汚して悪化させる様子から、浅ましい家畜若しくは豚と称されます。しかしそんな呼ばれ方をした者もルールは守り行動しており、呼ばれた側はその侮辱に対して当然の如く反論します。どちらにも見えている世界が違うという事です。
男性というのは女性に育てられ成長します。その成長の中で男性から男性へと男性の在り方を伝えてきた習慣がありますが、その男性を育てるのは女性です。女性が女性に都合の良い様に男性を育てる事で女性的な男性ばかりになる結果、男性が男性としての在り方を教える習慣は女性的な男性の在り方を教えるものへと変化していきます。結果として社会を形作るルールやモラルや役割を定義出来る男性の数は減り誰かに作って貰った枠組みの中でしか正しく行動出来ない者が多くなります。その者達に現状の社会を維持する事は難しく、しかしその影響はすぐには表面化しない為に、誰もが自身が能動的に、男性的に行動出来ていると錯覚しながら女性的な行動を取ります。かつて生きた知識人達が決めたルールや役割の根拠を知る事でかつて男性的に行動した者と同じ基準にまで到達出来、そこでようやく男性的と言える行動を行う事が出来ます。周囲、若しくは現在の世界に居る者達の中でトップに成っても男性的に行動出来ているとは言えません。積み重ねた歴史の中の人物達の中でそのトップ集団に属する事が出来て初めて男性的と呼べる行動が出来ます。ルールの根拠も分からずにただ受動的な行動をしている者は男性的ではありませんし、誰かに与えて貰った枠組みの中で暮らす者も男性的ではありません。男性的、能動的と言うのはその環境自体から作る者の事です。そこが基準、そしてそこから段階的に限定的な能動的な行動が定義され、それぞれの狭い枠組みの中で男性的と呼ばれる行動になります。男性的に行動する者はその行動が果たして求められるレベルで男性的であるかをまず知る必要があります。行なう行動のレベルが相対的に見て未熟なら男性的に行動していても『子供じみた』と言われるものにしかならない可能性があります。」
エールトヘンは締めくくる。
「ルールを守っていれば何の問題もない、と考えそのルールの根拠を考えずに上手く行く場合は世界の全てが完全に解明された場合のみです。全ての問題にたいして対処出来るからこそルールで対処出来ます。問題に対処する為にルールを明文化して、その明文化のレベルで問題に全て対処出来るという実証の結果としてその状況が作り出されます。つまりは慣習法は元より判例法を使った所で、ルールを守っていれば何の問題もない社会が与えられる事はありません。慣習法なり判例法なりを使って何の問題もない社会を作っていく必要があるという事であり、それを誰かがしてくれると思い込んでいるならいつまで経っても望む社会は作れないでしょう。未来とは『未だ来ぬ』ものです。それを『来るかも知れない』ものと考えそこを目指すか誰かが与えてくれると錯覚していつまでも『未だ来てくれないもの』と不満を上げて『いつまでも来ないもの』として定義するかはそれを求める者の在り方にかかっています。自らが一緒に居たいと思う者が居るなら一緒に居られる社会を作る為に、さあ、今日も頑張りましょう。」
-->真似るという事はその過程をせずに結果が得られるという事であり、知性が足りなくとも出来、そして能力が低くとも行動を真似るだけの能力があれば結果を得る事が出来ます。
<--だから科学が万能だという錯覚を見せたがります。科学が万能で全てを解決してくれると錯覚させる事が出来れば、知性を育ませない事が出来、そこに埋め込んだ瑕疵を使って長く利益を稼ぐ事が出来ます。科学は物理現象としてその手順を実行すれば同じ結果になる事を保証するものです。しかし科学は物理的な結果が同じである事を保証してもそれを行う行為そのものを保証しません。




