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S096 弱き者よ、汝の名は女なり

前回の続きにしました。後半部分です。

今回は長ったらしい上に女性に対して不快な内容になっている可能性があります。


「というような事は起きるのじゃろうか?」


「ある状況において、それに関わる個々人が見ている視点の違いにより生じる争いですか。」


「概ねそう。」


「個々人がある状況で異なる視点でその状況を見ているのは元々が個々人が見ている世界、認識している世界に違いがあるからです。まず人という種族である事、男女の違い、地域の違い、老若の違い、そして体験した出来事の違いがそれぞれの価値観を変化させて何を基準に物事を考え、何を求めて行動するかに違いが生じます。

私達は役割分担をする事を選びました。まず男と女という分担があります。私達が知性を得て社会を維持向上させていこうとすると世代継承して知識や技術を引き継いでいく必要があります。それがなければ人の寿命が80年なら80年で到達出来る知識量や技術力が上限になってしまいます。どれだけの天才が現れてもその上限はあまり私達の生活を向上させてはくれないでしょう。そしてその天才がいなくなればその天才がいない状態へと戻るのです。それではいつまでたっても私達は私達の望む世界を作り出す事は出来ないでしょう。

私達は子を産み育てる事で衰え行く私達をもう一度若返らせて生命を維持します。若返る時にはどうしても弱くなる時が存在し、それを守る存在が必要です。同時に守る事だけをしていては生命維持に必要な資源を得る事が出来ません。その為に私達は資源を得る行為を男が、子を産み育てる行為を女が担う様になりました。それぞれの行為行動が違う様になると視点や考え方が違う様になります。

男は資源を獲得するにはどうすれば良いのかという視点で行動し、時には敵対し、時には協力します。その繰り返しにより、どこまでならして良いかを経験して蓄積し、勘と呼ばれる判断基準を得ます。資源は有限であり、取り過ぎれば誰かを犠牲にして数を減らす必要が出て争いは激化し、しかし資源を取らなければ飢えて死ぬ為にそのバランスが必要になります。資源が豊富にある様に見えてもそこにいる全員が同じ様に資源を消費すればすぐに枯渇するかも知れない基準を漠然と成功と失敗の繰り返しで得ます。取り過ぎて争うしかない状況になり争った結果として生き残った者がその体感を得て、同じ過ちを繰り返さないで済む感覚を養います。

女は子を産み育てるにはどうすれば良いのかという視点で行動し、時には叱り、時には甘やかします。その繰り返しにより、どこまでならして良いかを経験して蓄積し、勘と呼ばれる判断基準を得ます。教育とは加害行為と放任に条件を付けた限定的なものであり、厳しくしすぎれば加害行為であり反発を招き、緩くしすぎれば放任になり指示に従わない様になり守るべきルールを軽視する様になります。うまく行っている様に見えた為に躾を緩めればいつの間にか放任と同じ状態になり、どこかから間違った知識や考え方を手に入れていたり指示に従わない様になっていたりして、その成功と失敗の繰り返しでバランスを保てる基準を得ます。そうして育った者がその受けた教育の成功や失敗を体感で得て、次の世代を育てる感覚を養います。

それぞれがそれぞれの役割において感覚を養い、勘と呼ばれる判断基準を得ます。それは個々人で差が現れ、その者が経験してきた結果から生じているのでその者の能力次第で勘の鋭さが変わります。それは明文化されていない知識と言えます。その中で明文化出来た者が共有できる知識として広まり一般化します。そしてたくさんの主観による結果として生じた教訓が集まりほぼ間違っていないだろうという客観的知識になります。そして勘においては明文化された客観的知識より部分的に優れたものが存在します。それは状況に対する識別能力であったり、対処方法が多岐にわたりそのどれを選ぶかの判断基準を持っていたりと、どの様にその状況を識別出来ているかを明文化出来ない為に勘という言葉で表します。しかし同時に明文化出来てもその知識を受け取る側の知性によっては正しく受け取る事が出来ません。それぞれがそれぞれの知性により育まれた識別能力で認識した世界を生きており、その知性が低ければその人物の概念定義は酷く曖昧なものになり根拠が少なく、場合により、誰かが行為して形として目に見える行動をしたものを見てその行動が行為そのものだと思い込みます。

例えば朝に教訓を読み上げる習慣を強制されたとしましょう。その目的を知る人物にとっては忘れない為の重要な習慣と言えるでしょうが、目的も知らず、自身の目的や欲求と合致しない人物にとっては無駄なものに見えるでしょう。そしてその教訓を単なる言葉の羅列の様に唱えて終わるだけの日々を過ごすでしょう。

例えば日々の生活で役割分担したとしましょう。その分担が社会の中でどの部分でどの様な効果を出しているかを考えた者は知っているでしょうが、その様な事をしなくともそれを知って行動してきた者の行動を真似れば同じ結果は得られるでしょう。そうして行動だけを真似て実行する者が増えます。しかしその行動が行為として正当性を持ち、役割として充分な成果を出しているかは、他者がその環境を維持する事でしか期待できません。環境が概念で定義した社会とズレ始めると行動を真似るだけの行為はその効果を失い始めます。そしてその精度でしか行為を実行出来ない為に新たな環境に合わせた調整が出来ないままになります。

例えば料理を考えましょう。同じレシピを使っても出来上がりに差が生じます。材料を選別する能力、材料を斬る精度、材料を煮込む時間、味付けの分量など、レシピに書かれた行動や量に対してのそれぞれの持つ概念の精度の違いがその結果に現れます。更に手順や分量がなぜそうなっているかを知っているなら、もし材料が手に入らない、手順通りに実行出来ない場合でも応用する事が出来るでしょうが、そのレシピのままにしか料理出来ないのであれば料理出来ず、強引に料理すれば失敗するでしょう。


誰かの行動を真似て行為する事や与えられた知識で行動する者はその行動がなぜそうなっているかを知ろうとしなければいつまで経ってもそのままで、真似た時のまま、与えられた時のままになります。時折、真似た行動よりも優れた方法を手に入れ改善される事はありますが、それも他者依存でしか行われません。与えられた知識というのは行動する為に最低限必要な知識は保証されますが、応用が出来る保証はありません。真似た行動や与えられた知識で行う行動では達成すべき基準を達成出来ない時に応用する事が出来ません。なぜそうなっているかの根拠が分からなければ手順や材料や器具を変える事が出来ずにそれ以上の精度や効果を出す事が出来ません。


しかし一定以上の知識を集める事が出来なければ何が正しいかの判断も難しく、行動しなければならない状況においては他者の取る行動というのはそれが罰せられないなら、自らが罰せられない行動が分からない時には真似るという選択肢が魅力的なものになります。そうしてその状況でのリスクを回避してしまえば、知性の低いものは問題が目の前からなくなったのでそれ以上の行動はしません。そして同じ状況で同じ様に繰り返すだけになります。目の前から問題がなくなれば自身を苦しめるものはなくなりそれ以上の何かをする理由がないからです。しかし、同時にその問題が表面的なものでより複雑な問題から発生しているものであるなら、いつまでも同じ状況に陥り続け、やがて問題の発生の仕方に変化があった時、それに対処出来るかは分かりません。その時に、誰かが先に対処して罰せられず失敗ではない行動をしていなければ真似る事も出来ずに自身で分からないなりの行動をするという賭けをする事になります。この様に他者の行動を真似る者や与えられた知識で行動する者は誰かが成功しない限り、延々と失敗し続ける事になります。しかしそれは逆に言えば、誰かを犠牲にして多くの失敗の結果として成功を得てしまえば、自身は自身で何の努力をせずとも簡単に少なくとも間違いではない結果を既成事実として手に入れる事が出来るという事になります。


実際に行動して結果を見る事が出来れば、数多くの思考を巡らすよりも速く成功に辿り着きやすくなります。実際に行なわないのであれば類似の結果から推測するか純粋な思考実験からより詳細な概念定義により漠然とした結果からより詳細な結果へと焦点を合わせていく必要があり、時間がかかります。それに対して実際に結果を出せば何も考えずとも良く、その結果を集めてある程度の予測が出来る状況にしてしまえばそこから推測してもかかる時間は大幅に短縮出来ます。これは大きなマトリクスにおいてその全てを、勘や今までの経験や知識に頼ってある程度は調べなくとも良い部分はあってもそれを除いた全組み合わせを調べる事にかかる時間を、更に結果を得る事で恐らくはこの組み合わせの中に求める結果が得られる組み合わせがあるだろうという範囲にまで収束させる事でもあります。しかしそれはルールやモラルを無視してしまえば人体実験として成立し、自身は安全な場所に居て他者にリスクの高い行動を取らせた結果として成功したならその結果を真似る事で自身はリスクを回避しながら更なる利益が得られる状況を手に入れる方法になってしまいます。


そしてそれを行うだけの権力を持つから許されると錯覚し、また、その地位に上り詰める事が出来たのだから自身は有能であり、その地位に上り詰める事が出来ない低能だからこそ新たな知識や技術を求めなければいけない状況に追い込まれ、そうなるのが当然だと思い込める者を生み出します。

これも知性が低く自身の行動の根拠や社会環境が成立する根拠を考えない者の特徴です。


私達個々人は自身から見た世界で生き、取り囲む環境から与えられる情報で行動を選択しますので、取り囲む環境の与える情報で偏りを持つ様になります。そして役割において更にものを見る視点が変わり同じ場所にいてもものを定義する概念の違う部分を見ている事が良くあります。

例えば男と女では誰かに会った時に見る所が違います。男は争いながら社会を形作って来た為に、常に相手が武器を所持していないか、怪しいものを隠し持っていないかを確認する癖が身についている場合が多く、それは自身の周囲の環境を維持する為に必要な行動です。

女は相手が自身の地位を脅かさないかを確認します。似たような容姿の女であれば警戒もするでしょうし、考え方が違う女も警戒するでしょう。自身の居場所を脅かさない考え方が同じの女なら親近感が湧いて同じ場所に居ても良いと思うでしょう。

男は役割として資源の確保が出来る状況を維持しようとして争いのない状況を作り出すための視点でものを見て、女は役割として安定した居場所が必要なのでそれを得るための視点でものを見ます。

この様に役割において見方が変わり、持つ概念の条件も変わります。

例えば、男の「愛」は女を含めた環境を維持し、女が幸せで居られる世界を作る事であり、女の「愛」は男の子を産み育てる為に1人の男を選び選んだ男を裏切る様な関係を他の男と持たない事になります。

男と女という形で種族として存在した時に避ける事の出来ない差を与えられ生じた役割によってある程度の考え方が決まりますが、私達は生存する可能性を高める為に集団を形成し、集団の中で集団を維持する為の役割を担います。その役割でもものの見方が変わり、持つ概念の違いが生じ、見ている世界に違いが生じます。

誰かに会った時、商人なら相手が裕福かどうか、護衛なら武器を所持しているかどうか、一般人なら襲い掛かって来ないか、などのそれぞれが違う部分を見て相手を認識します。商人にとっての世界では、相手が商売に関係する者で同じ世界、商売をする世界に存在しているかが重要であり、護衛にとっては相手が護衛をする原因になる争いのある世界の住人であるかどうかが重要であり、一般人にとっては同じ常識が通用する相手かどうかが重要になります。

分かりにくければ、一枚の絵の上に透明度の高い紙を重ねて修飾するものを思い浮かべてください。その薄い紙に絵の必要な部分のみを写し込み、その内容を調べる事に似ています。背景の特定のもののみを選んで書き写してそれを調べる、特定の人物のみを描き出してその人物について調べるというような方法だとも言えます。

単純にレイヤーを重ねて一枚の絵を形作ると思っても構いません。ある一場面というのはそこにある情報を抽出する事で必要な情報のみで構成されたレイヤーを自身に都合の良い様に組み立てる事でもあります。大元の絵があって、そこから分かる限りで情報を分解して必要な情報のみでレイヤーを再構築するようなものです。例えるなら絵をレイヤーとして分離しRGBの三色に分解出来る事実を知っている事で、絵から必要であれば赤や青などを選んで抽出するのと同じです。自身に必要な情報をその情報の根拠となる事実を用いて抽出するという方法です。

先程の例では商人なら、相手が高いアクセサリーを身に付けている、服の質が良い、話し方が上流階級に見られる様に上品、仕草や立ち居振る舞いもしっかりしている、金払いが良いなどの情報で相手を識別して自身の対応を決める要因にします。


私達は役割分担する事で、自身が得なければならない知識や知性を他者を信用する事で知識や知性を得ずとも本来個人として持つべき知識や知性を得た時に得られる利益を得る事が出来ます。しかし役割分担した時には覚えていた、自身が担当していない役割の知識もやがて忘れてなぜ役割がその分担になり役割における範囲が決められたのかの根拠を失っていきます。すると自身が役割を担う際に他の役割を考慮しないなら必要のないルールなどがあり、忘れてしまったがために必要ないと判断して省く様になります。自身はルール違反をしているつもりがなくとも実際にはルール違反であり、また、それがルール違反だと知るには役割分担した当初の分担を決めた根拠を知るか成り立ちを知るか、もしくは他の役割について充分な知識を知っている必要があり、大抵においてその様な知識を持ち合わせない為にルール違反に気づきません。他の役割の者も相手の役割についての知識がなければそれがルール違反かどうか指摘出来ず、指摘出来る者に見られないか罰せられない限りルール違反に気づかないまま変化し続けます。

そうして自身の役割に特化し続け可適応と呼ばれる状況になります。条件や根拠を省くのは効率が良くなり、同時に快感原則を満たすための条件に合致し、より楽により簡単に快楽が得られる状況へと変化しているという事になります。蛙が目の前を横切り飛行する小さなものに舌を伸ばしてしまう様に、その対象が何であるかを考える前に条件反射として行動する様になります。環境が変化しなければそうして忘れて条件を省き最適化する事で効率の良い行動で行為を行う事が出来るでしょう。あくまで環境が変化しなければです。

環境が変化すれば今までの行動を今までのままで行う事が徐々にリスクを伴う様になります。極端な例えをするならカニが人間に捕まえられてもハサミを振り回すしか出来る事がない様に、それまで通用して生存に寄与してきた行動が今までと違う状況で何の役にも立たない様になります。

そのため、私達は私達の定義した概念が現実と乖離していないかを確認しながら日常を過ごす必要があります。それを怠れば環境が変化した事で自身のしている行動が自身の思っている行為とズレていても気づけないままに繰り返し、問題を起こすでしょう。その際には2通りの結果を発生させます。1つは自身が損害を受けてもそれに対し何の対処も出来ない状況が作り出される、もう1つは自身の間違いの結果が役割分担において他者の行動との間にズレを生み出し、小さな問題を蓄積させやがて表面化する形で自身も含めた全体に損害を与え、既に起こっている為に未然に防止する事も出来ない状況です。

簡単な例えとして相手の言葉を信用して私利私欲を満たす者を権力者にさせてしまうと1個人の力では簡単には対抗出来なくなる状況があります。相手がどういった目的で権力者を望んだかを判断する能力が低下する事でこういった間違いに繋がります。

また、日常生活をあまり深く考えずに行動しながら徐々に忘れていく事で現状を維持する為に必要なルールや根拠を忘れてしまい、社会のルールを捻じ曲げられてもそれに気づけない様になり、知性を育みなおしてその事実に気づける様になるまで延々と搾取され続ける状況もあります。

また、役割分担における境界となる物事において、利益は自身の側に、損失は他者の側に偏らせる様になれば、お互いがそうするなら利益に関しては争いになり、損失に関しては互いに放置となりどちらもやがて問題へと発生します。自身がそれに気づいていても居なくても相手の利益を奪う形になるなら争いになり、相手に損失を押し付ける形になっても争いになります。自身が行動しない事で損失になる場合は他者が気づかない限りは損失になっても指摘されず罰せられず、この場合は問題が蓄積され表面化してから争いの原因になります。こういった事を防ぐ為に自制は求められますがここでは割愛します。


私達は忘れる事の利点を用いて、必要のない情報を忘れながら最適化して効率を上げますが、同時に忘れる事の欠点として本来必要な情報すらも忘れて個人の効率を上げる事は出来ますが役割分担における効率を下げる事になる可能性もあり、もう一度忘れた根拠を思い出し修正する事が出来ればまた安定した行動を取り続ける事が出来ます。

こうした繰り返しにより行為を表す行動はある一定の範囲に収束して行き、より大きな環境の変化がなければ自身の能力の及ぶ範囲でほぼ間違いなく対応出来るようになります。それは鍋を煮詰めて凝縮して味を濃くする様に、性質を高めてその行動を選択する可能性を高めるもしくは密度を濃くする事でもあります。その結果が遺伝子として残り、血統という形でその目に見える形で表れます。しかしその収束に善悪はありません。ただ忘れ、忘れながらも習慣として忘れない様にして行動を定義し続け、やがてその根拠をなくしても習性として身に付け、その習性を集めた行動セットが性質としてその人物に刻み込まれます。

やがて忘れて知性もなくしたとしてもそこに刻み込まれた性質は残り、知性があった時の判断能力のままで定着し可能性を失い枯死するでしょう。言い方を変えるなら成長を終え完成するとも言えます。

その時、どの様な人物になっているかが問題になります。知性を得て育み知識を得て世界の判断基準を知り判断能力を身に付けリスクを排除出来る能力を身に付けますがそこに善悪の基準はありません。ただ生き永らえたという結果があり、それが善である事や強者である事を保証しません。

その時、私達はその個々人の考え方とそこから生まれる行動により偏りを受けて完成されます。その姿がどの様に例えられるものであるかは個々人の行動の結果とも言えます。

例えば、ネズミと称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。ネズミと称される性質というのは、人の目を避け、闇夜に紛れ込み、他者の食料などの財産を奪い、強者からは常に逃げ回る性質を表します。

例えば、ハイエナと称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。ハイエナと称される性質というのは、腐肉漁りと言われる様に、誰かが戦った後に敗者を標的にし、敗者というのは勝負に負けて死んだ様な状態、つまりは誰に何をされても既に力を使い果たしている為に対抗出来ない状態でありそこまで弱った所を狙って襲い掛かり相手が持っている残った僅かばかりの財産も奪う性質を表します。相手が弱った所を付け狙う性質としても表され、例え数を成しても強者には挑まず逃げ回り、勝てる弱者や強者が屈服させた後の弱った者を狙って襲う性質を表します。

例えば、ワシや鷹と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。猛禽類と言えば聞こえは良いですが同じ鳥類を襲う同じ種類において裏切り者と呼べる性質を示し、しかし襲う事で得られたアドバンテージで強くなる性質を表します。

例えば、豚と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。ただ目の前の餌を食う事しか考えず、口に出来るものならなんでも食べてしまう性質を表します。その意地汚さからルールなどをまるで理解せず無視し、尊厳なども持たず行動する性質を表します。

例えば、鹿と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。鹿は寄生虫を持ちやすく、臆病ですぐ逃げますが暴力を行う様な事はまずしない性質を表します。

例えば、犬と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。飼い主の指示に従順で地面に鼻を付けてでも命令に従い、場合により命令で他者に襲い掛かる様な性質を表します。その命令の貴賤を問わず善悪も問わずに従う様な性質を表します。

例えば、猫と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。猫は気まぐれで、飼い主が餌を与えてもなつくかどうかは気分次第であり、飼い主の言う事を聞かずに自由に行動する様な性質を表します。場合により移り気な性質を表し、『猫また』と言われる様な2つに分岐した尻尾を持つ猫で不倫をする女などを表す場合があります。

例えば、猿と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。猿と称する時、社会活動をせずに動物としての欲求に忠実な行動を取る様な性質を表します。行為せずにかつて行為を実現した行動の形だけを真似、欲望を満たすような性質を表します。

例えば、熊と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。鮭と呼ばれる魚は回遊魚であり海で寄生虫に寄生されて川に帰ってきますが、熊はその鮭を食べてもアニサキスで食中毒にならず平気に行動出来、力も強いですが、同時に、鮭を他者に見立ててその他者に寄生する人物が居てもその他者を受け入れ平然としている若しくは気づけない性質として表されます。

例えば、馬と称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。馬は従順であり、人間の指示に従い人間の代わりに良い労働力となりますが、同時に誰かにそれだけ労働力として使われる状況を甘んじて受け入れる性質として表されます。

例えば、ライオンと称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。ライオンは雄は悠然に暮らし、雌が狩りをして生活をしています。これは表面的な部分がそう見えますが、男がその高い知性で女にルールや方法を教えて役割分担している性質として表されます。男は何もしないのではなく、自身より知性が低く間違いやすい者に指示を出し、そして他の男が生活を脅かした時にだけ戦い、群れを暴力で支配しないという性質を表します。しかしそういった見方をする習慣を嫌うものがあえてこれに別の見方を付け加え、男は何もせずともハーレムで悠々自適に生活する性質を表すなどと上書きする場合があります。そうなると以前は『ライオンの様な生き方をしろ』と教えたならリーダーとして集団を守れるくらい強くなれ、という意味の内容が、女に養われる様な生き方をしろという意味に捻じ曲げられます。


私達はいずれ可能性を失うでしょう。その時、どの様な性質になっているかを何か物を選ぶかの様には選べません。出来るのは思考して行為を繰り返しその性質の在り方を示す事だけであり、その結果として行き着いた最後の状態がどの様に例えられる者になっているかが決まってしまいます。欲しい結果を得られる様に行為しないなら結果は得られず、自身がそう思っているだけでは欲しい結果は手に入りません。その行為を選択する事が、その行為を思いつく発想が、その行為を考える事が、その性質を表していると言えます。例えばネズミの様にウロチョロと他者の目を避けて這いまわり誰にも気づかれない様に他者の財産を盗んで金持ちになった後に自身は強者でライオンの様な存在だと言った所でその性質は『ライオンの様な』と言われる性質ではありません。それを認めるのは同じ様な他者に媚びれば利益を貰えると思う卑しい者だけです。どの様な思考をし、どの様な選択をし続けたという結果が遺伝子に蓄積し最後の形を決めます。


可能性を失うのは能力の限界を迎え、複雑化したルールを覚えて履行するだけで自身のリソースを使い果たし、それ以上の発展が出来なくなる事でもあります。ルールを履行出来れば現状で問題なく、ルールを履行できなければ現状に問題が発生します。そうなるとルールの根拠を覚えるもしくは維持する為に割くリソースを削ってでも、つまりは忘れるかそもそも覚えなくともまず社会の中で行動出来るだけのルールを覚えてしまう必要が生じ、そして社会が高度になるにつれ、ルールの根拠を覚えている事が出来なくなり、割くリソースも尽きてそれ以上のルールや手続きを覚える事が出来なくなり、限界を迎えます。個人の意思はその限界を迎えない様にするために、自身が扱う知識や概念に統合と派生を繰り返しながら効率よくコンパクトに覚える事が出来ないかと模索する様になります。いわゆる哲学上の真理と呼ばれる普遍性を持つ揺るぎようのないものを求めます。学術的には統一理論と呼ばれるものです。選択肢があるという事は、それだけ状況に変化があり、その状況判断が必要になり、結果に対しての対処も変化しそれだけ多くの物事を覚える必要があります。しかしたった一つの手順に従い判断すればその状況から生じるどの様な問題にも対処できるとすれば効率の良い方法になります。


また、私達は忘れ、それが能力の限界にも繋がります。忘れる速度と新しく覚える速度が均衡すればそれ以上覚える事が出来なくなります。

忘れる要因には2段階あり、1段階は物理的な細胞の死です。知識を保有しておく細胞そのものが死んでしまえば覚えていた知識もなくなり、もし代わりの細胞が生まれないなら容量そのものが低下する為に能力の限界が低下します。細胞の死には老いによる細胞の再生回数の限界、脳の機能に使用している物質の不足もしくは別の物質により本来の機能が阻害される不全と壊死があります。

2段階目は私達は忘れる事で環境変化に対応出来る能力は得ましたが同時に情報強度を維持しないと忘れる欠点を持ちます。情報強度の維持として覚え直しや再認識をしなければやがて情報強度が薄れいつの間にか忘れる事になります。これは怠惰、諦め、真似といった行動で発生します。

怠惰であれば社会を維持する為に必要なルールの根拠を考えずに、そしてそれを覚えているための労力を惜しみ楽をしてやがて忘れるでしょう。そして社会を維持するルールであっても、それが規模の大きな社会を維持するためのルールであるなら自身の生きる小さな規模の社会には必要のないものですから楽をする為に更にルール自体を省いて効率を上げ楽をするでしょう。複雑なルールを覚えているという事は本人が受動的であったとしても知性を維持する行為をしていた事になり、それを省いていく事で知性を低下させる要因となり、その個人の見ている世界はより曖昧な未分化の状態になり、状況を判断する情報を失っている為に正しい判断が出来ず、問題に対処する能力を低下させる状態になっていきます。その低下が止まる所は、争いになり楽が出来ないのでそれ以上ルールを省く事も出来ず根拠も忘れる事が出来ない状態であり、そこで行われる活動自体が正しいかを保証しません。その判断をする情報は既に失われているので判断自体が出来ません。

諦めは情報強度の維持そのものを止めるのでやがてそこにあった判断出来る情報も消え、判断の出来ない状態へと辿り着きます。だからこそ相手に諦めさせて有利な状況を作り出そうとする悪人が存在します。

真似はそもそもが行動の根拠を考えない為に、かつてルールの根拠を覚えて行為の表現として行動していたものがやがてルールの根拠を忘れて行動のみを覚えていて環境が大きく変化していないからこそ行為として成立している、いわゆる形骸化した状態と同じですから情報強度は維持出来ず、怠惰である時の末期の状態と同じ状態になります。


私達は進化の末に居ます。それが実際は退化ではないかという問題には触れません。その進化の過程において、鹿を考えれば分かる様に、その可能性の無さから、その食生活において寄生虫の感染を避ける事が出来ず、また、肉食動物により捕食されるリスクも回避出来ません。鹿にはそれまでの進化で得た判断能力を用いても最早その食物が寄生虫の卵や幼虫を付着させているかの判断が完璧に出来ず、その身体能力では肉食動物から完全に逃れる事が出来ません。そしてその失敗に対しての対処も出来ません。鹿は鹿としてその運命を受け入れる、つまりは常にリスクを抱えて生きていくしかありません。

では私達はどうなのかと考えると、私達はそういった形質が、つまりは肉体が与える制限を排除する為に知性を得て行動する様になりました。数多くの失敗の末に成功を生み出し、成功を模倣する事で失敗から逃れます。食物に寄生虫が付着しているなら水で丹念に洗い、火で加熱処理してから食べるという手法を得て鹿と同じ様な運命から逃れる事が出来ました。同じ様に柵で守り、道具で襲い来る肉食動物からも身を守る様になりました。しかしそれでもまだ私達は同じリスクを抱えます。

ルールの根拠を知らず、社会全体を俯瞰するだけの知性や能力もない為に、何が間違っているかの判断が完全に出来ず、間違ったルールであっても目に見える形として現状に問題を発生させなければ、ルールが正しいと錯覚する可能性があります。実際に問題を生じさせていてもそれが当然だと思い込めもし、『皆が従っているから』、『他に方法がないから』と惰性と諦めにより現状を受け入れてしまいます。もしそれが私達の中で誰かを犠牲にする状況であるなら、それはあたかも肉食動物が草食動物を狩り捕食する様子を捕食された草食動物の仲間が成す術なく見ている状況と同じになります。或いは災害で誰かが死んでいくのを成す術なく見ている状況とも言えます。


私達はそれぞれがそれぞれの見ている世界の中に生き、その考え方に収束していきます。悪人はより悪人に、善人はより善人に、知性の足りない者はより知性の足りないままに、知性ある者はその限界に行きつくでしょう。そうなると私達の中にまだ罰せられない悪人が居れば社会のルールを捻じ曲げ、それがさも当たり前の様に錯覚させようとするでしょう。そしてその結果として、善良な者で気づける者が悪人の手によって全て排除されてしまえば、残るのは知性の低い、捻じ曲げられたルールが正しいかどうかを判断出来ない者だけになります。その時、私達の姿は、悪人が肉食動物、善人が草食動物と例える事が出来、善人は成す術もなく悪人に虐げられ搾取される状況になり、動物の世界で肉食動物が自身の欲望を満たしたい時に好きに草食動物を襲う状況と同じになるでしょう。


もしこれが仮に善人だけで構成される社会に行き着いたとしましょう。なら私達はそのままで居られるかと言えばこれまでに私達は失敗しています。まず、善人だけで構成される世界が作れるかという問題については限定的には作れます。そこに居る人物の性質を長い年月をかけて改善し、悪事をする者やルールを容易く破る者を淘汰した後、残る者達が成長した後の状況がエラーを発生させない程度の社会レベルに限定する事で、善人だけで作られる世界は作る事が出来ます。その場合、そうなる前に世界環境を調整して限定された社会レベルであれば維持し続ける事が出来る様にする必要があります。

簡単に言えばそれはかつての世界でした。生活習慣、ルールを規定してそこから逸脱しない様に生活する事で、自然のサイクルが社会環境を支えてどちらにも異常が発生しなければそのまま永遠に私達は楽園の中に居られました。しかし一度作られた世界環境である自然はわずかながらに綻びを見せ始めます。

私達の住む場所の外から異常は起こります。彗星が私達の住む星を横切り、初めに作った環境にはなかったものを私達の住む世界へと落としていきました。私達の住む環境は新しい要因を得てそれまでと同じではなくなり、私達の社会へと影響を与え始めます。与えた影響はそれまでの生活習慣やルールを守ってもそれまでと同じ生活を約束出来なくし、私達はかつて決めたルールを変えるしかなくなり、そしてその社会をもう一度作り直せるだけの知性と知識を持ち合わせていなかった私達は、生きる為にその変化が元の社会の基準を低下させたとしてもルールを改悪するしかなくなり、結果として生活圏を狭め、生き残るための争いを生み出し、やがてそこに生きる為にルールを破る悪人が生まれます。


もう少し規模を小さくして考えましょう。私達は限定された環境を作る事が出来たとして善人はそこで暮らしていたとします。大逸れた盗みをする者が居ない為に管理コストは低く、相手を騙して取引をする者もいないので裁判所などのコストもかからないでしょう。皆が基本的に善人ですから社会の維持コストは最低限で済みます。軍隊は要りませんし、小さな争いはあっても裁判所などを必要とする事なくその近しい人物達で解決して後に問題を残さないでしょう。社会の管理コストが少ないという事は対価となる労働も少なくなり、苦労する事も少なく楽園と呼べる状況が作られます。

しかし、私達は不完全であり、間違いを犯します。自身にその気はなくともその行動がルール違反になったり、ルールを軽視してルール違反をします。さらに軽い気持ちで他者に助言しているつもりで他者を唆しルール違反をさせる事があります。そのルール違反によって手にいれられるのは禁断の実であり、本来手に入れてはいけないものです。その小さなルール違反が積み重なり互いの不信を煽り、自衛のためのコストを生じさせ、資源がより必要になり奪い合いになり、他者から奪われない為のコストを支払い、それでも奪い合いになる為に治安維持機構にコストを支払い、労働を強いられます。


こうして善人だけで構成された社会は崩壊します。そしてそこにいた者達は苦役を強いられる様になり、つまりは楽園を追放される事になります。ほんの僅かな傷からやがて宝珠が割れる様に社会は社会概念を構成するルールが破られる事で崩壊します。


以前から言っていますように、成功と失敗では失敗の方がはるかに多くなります。成功とは数多くの組み合わせの中から私達に利益を齎す組み合わせのみを成功と呼んで別とします。その成功したものを既成事実として真似る事で私達は成功を重ねる事が出来ている状況になります。その成功している根拠となる初めに成功した方法の、成功できた根拠が失われたならその真似である既成事実は成功する事が出来ず、その方法を真似るだけの者にはなぜ以前と同じ結果にならないのかを判断する事が出来ません。社会とは成功した組み合わせをつなぎ合わせて作られたものであり、それぞれがそれぞれの成功した条件を崩さない様に作られ、それぞれの概念には整合性が求められます。しかし概念やルールの根拠を知らずに形だけを真似て行動すると、その整合性がどの様に保たれているのかを知らない為に、根拠を省き整合性を失わせ、社会概念の集合に僅かな傷を付けます。しかし真似ているだけの為に自身が以前とは違う行為をしている事に気づかず、自身は以前と"同じ"行動をしているのだから同じ結果を得てよいし、以前はそれで正当だとされているなら罰せられないのが当たり前であり以前貰えた利益は当然貰ってよいと思います。その違いを判断する知性が無い為にその主張が正しいと思い込み、他者に指摘されてもそれは他者が間違っているか自身の利益を奪おうとしていると思う可能性があります。そして実際には以前と違う行動を取り場合により間違っていても、自身は間違っていないと主張し合い争いになります。そして互いに主張し合い譲歩せず結果として押し付ける形で強制する様になります。


この状況で相対的に正しいだろうという主張で能動的に行動出来る者を男性的と表します。社会を維持し問題を解決し方向性を示す者の姿がその根本にあり、その役割を担うのが男性であったからそう表されます。しかし先ほどの状況では自身の主張を押し通せる者を男性的と呼ぶ状況になっており、それもつまりは社会概念を網羅出来ない知性の限界とも言えます。

その男性的とされる姿は、より大きな知性から見れば、環境に勝つことが出来ない存在の受動的な行動にしか見えず、その規模からしてみれば受動的な行動、つまり女性的な行動だと言えます。

女性はその元々の役割が子を産み育てる事であり、妊娠時は特にそうですが、誰かに守って貰わないとすぐに死んでしまう状況になりやすいです。子の教育をする時も、その時に男性は社会の維持の為により多くの概念を得てより大きな規模で物事を考えており、女性がその教育を捨てて自身の力で生きて行こうとしても、その時にはそれだけの差が出来ており、不利な立場になり譲歩させられ受動的な状況に陥りやすい為に、受動的な立場や行動を女性的と表します。


では生まれた時から女性が能動的に社会で活躍できるように教育を受けたとして、それで男性的な行動になれるかと言えば不確かなままです。その一代だけは確かに男性的に振舞う為の教育を受けたでしょうが、私達の生のサイクルは一代で完結しません。それまでの世代で繰り返してきた考え方や行動などが性質として現れ、女性的な行動をし続けてきた実績が現世代で能動的に行動する為の教育に施しても、その性質まではすぐには変えられません。

それは転がる重い物体に急ブレーキを掛けるのと同じ事です。すぐにそれまでのエネルギーを消す事は出来ず、強引に行えばその物体そのものに反動を与えます。すぐに止めてしまいたいなら壁にぶつける様に止めるしか無く、その悪影響が物体そのものに与えられます。


私達は知性を得て知識を得ながら同時にそれを忘れていきます。その繰り返しにより、凝縮される様に行動が安定しますがその行動に善悪は関係ありません。そこに善悪を与えるのは社会概念に合致しているかどうかであり、それを判断する為には知性が必要です。しかし知性の高低は相対的なものであり、社会が高度になるにつれ、覚えるルールが増え、その根拠を覚える事が出来ない様になります。そのためにルールだけを覚え行動を真似る事で行動を安定させ生存する方法を選択し、その繰り返しにより精度を上げ他者に競争で勝ち、そして他分野の者とその分野での能力に差をつけます。しかし、ルールの根拠を知らない為に自身が勝ち抜いてきた行動が社会概念と一致しているかを判断出来ません。その判断能力の無さにより判断を省いて得た時間的なアドバンテージによっても有利になり勝ち抜いたためです。すると誰かに社会のルールを捻じ曲げられていても気づけない状況になります。

そして、それまでの世代で女性的な行動をしてきた者がある世代から男性的な行動をする様になった場合、それまでに積み重ねた行動が女性的な視点で女性的な考えで行って来た為に、いきなり男性的な行動をしようとしてもその考え方や見方そのものが女性的なままであり、かつ男性的だと言われる視点や考え方が出来ない場合があります。その為、男性なら気づける様な事も気づけない場合もあり、同じ行動を真似させてどうにかなる間は問題ないですが、異常時にその違いが表面化してしまいます。そして役割とは異常時の対応を基本として組まれるものであり、平常時はそれに対処するための猶予期間でしかありません。ですからそういった者が実際に役立つと言える状況になるまでは長い時間がかかります。


私達が捻じ曲げられたルールに気づけずに次の段階に進んだとしましょう。社会の技術力を次の高さに引き上げたとして、その基本部分のルールに瑕疵があれば、常に悪人が不正に利益を得る事が出来る状況が作り出されます。私達の利便性の為に、大抵においては進めた技術力で増えた人口を減らせない為に、社会を過去も戻させてもう一度やり直すという事が出来ません。そして悪人は社会がどうにもならない状況に追い込まれるまで、寄生虫の様に社会に寄生して潰し続けます。

その際に、根本的な原因に気づかせない為に問題の焦点をずらさせ、気づかせない様にして、時には誰かを生贄に捧げる様に原因の張本人にしながら最大限の利益が得られる様に行動します。

生物が進化すると同時に、それ以前の状態に戻れない事で、想定していなかった瑕疵があり問題に対処出来ずに完全にリスクを回避出来ない状況と同じだと言えます。進化する事で生存する可能性を高め利便性を高めますが同時にその瑕疵によりどうしてもリスクを回避出来ない状況と同じです。

鹿が鹿として進化する過程で得られた利点は同時にその選択が完全でなかった為に瑕疵を持ち、肉食動物の発生を想定していなかった為に進化の過程で想定した状況を手に入れる事は出来ませんでした。


では私達はどうでしょう。私達はけものとしての限界から知性を得て生存する可能性を高めました。その性質は形質によらず、体の形状にある程度影響は受けますがそれで全てが決まるわけではありません。より自由に選択出来る様に前足を手として使い、発想する際の制限を出来る限り外しました。

より自由な発想が出来るアドバンテージを得て私達は競争に勝ち残りますが、やがて役割分担し、社会が高度になるにつれ、能力の限界によりルールの根拠を覚えていられなくなり、つまりは社会概念の整合性をどの様に維持出来るかの根拠を失い、それでも競争に勝つために効率を上げようとして必要ないと思われる根拠を省き整合性を失い、可適応になります。


可適応な状態はその分野では優位に立てますが、それ以外の条件を考慮していない状態と言えます。それが形質から来る問題ならその本人自体が損を被るだけでしょう。

蛙が止まっている物体を認識出来ないのならその損害を受けるのは蛙だけでしょう。その欠点から捕食されるなどの損害を被るのはその可適応な状態を作った本人なのですから。

しかし私達は動物の世界にいるわけではありません。役割分担する事で社会を構成する選択をしました。その選択は自身の間違いが他者に影響を与えて損害を与える選択でもあります。役割を分担するという事は誰かの代わりに作業を行う事でもあり、誰かに委任された状態だとも言えます。

ここに利権の間違いがあります。誰かに委任された作業をその誰かに損害を与える形で実行する差を齎してはいけません。ただ目の前の作業をこなせば役割を達成出来るから、そこに自身の欲望を付随させて偏りを持たせる事で利益を得て良いと考えると、その行動がその役割を委任した誰かの損害になる可能性があり、それは役割分担においてルール違反になります。

例えば、いくつかのパン屋と1つの鍛冶屋があって、役割分担していたとします。鍛冶屋はパン屋のどれかを好きに選べますがパン屋は選べません。鍛冶屋には利権があると言えます。では鍛冶屋が自身に賄賂を、つまりは鍛冶屋だから他の者よりサービスを多くしてくれるという理由でパン屋を選んだとしましょう。すると他のパン屋は役割分担している不利益を被ります。鍛冶屋を存在させる為の役割をはたしているにも関わらず、鍛冶屋からの還元がない事になります。また、サービスしてくれるパン屋だから作った製品を特別に安く提供するなどを行えば、優位な立場を使った加害行為とも呼べ、役割分担の欠点を使った方法と言えます。

ですから本来は、そういった利権の間違いにならない様に、選択はその役割における能力で選択される必要があり、それが出来なければ不和の原因となり、争いの原因になります。

その状況で役割Aと役割Bに何人かの担当が居た場合にはそれは利権の間違いにならない様に思えますが、今度はその利権の使い方で派閥を形成し、派閥の属す属さないという理由で優劣をつけ、その分野の能力を持っているかどうかとは違う判断基準でその分野に居場所を得られるかを決めてしまう様になります。自身の生活に還元のない派閥へ支出する事は自身の属する派閥の影響力の減少に繋がり弱い立場になり、その立場の違いを利用して強要し譲歩を促す者が現れるという事です。その役割と居場所を与えて貰っている状況にありながらも、社会に属し負担している相手にその役割に居る事を根拠に強要している状況というのは、そもそもの役割分担における目的と制限を忘れ可適応になっている状態と言えます。


そして可適応な状態は、自身の分野での自身の優劣のみを考慮するまでに至り、他の分野での悪事を考慮しなくなり、また、効率を重視する事で自身の分野を維持する為の行動のみに特化し、その他の条件を考慮しません。自身の分野ではモラルやルールを優劣に影響しないものは軽視し、他分野での悪事があってもそれは自身には関係ないものだと思う様になります。

本来は役割分担とは社会を維持向上させる為にあるもので、社会の中での基本的なルールを順守した上で役割分担をするものであり、その基本を失えば役割分担の正当性は失われ、自身が自身の行動を正当なものだと主張しても不確かなものになります。

国の方針が間違っていると知っていても国の援助と方針を受け入れ研究を行う研究者、国家が暴走していると知っていても命令に服従する兵士、それが悪法だと知っていても履行する役人、これらの例に挙げた様な者は、役割から外れている事すら気づいていません。国の援助を得て研究するなら国の方針が間違っておらず社会のルールに反していないか、国家の指示で他国へ武力行為を行うなら国家が間違った行為をしていないか、法律を遵守して行動するならその法律が間違っていないか、をそれぞれが主体性を持ち考えて行動する事が本来の在り方です。しかし既に可適応となった者にそれは望めません。

蛙の様に、動物の様に、行動して行為を考えず、そして考えずとも生活が出来、欲望を満たせる段階で、それ以上の知性を得ようとはせず、ただ自身の生活がより向上する様に、欲望を満たせるように行動するだけであり、それが合法だとされているからそう行動するだけであり、それが本来の役割と違う事などは考えません。既にそこに求められる知性を持った人物ではなく、求められる基準に届かない知性の低いけものがいるだけになっています。かつて居た誰かの行動を模倣して真似る事で大抵の物事はそれが実際に解決出来ていなくともその判断が出来ない者の中では罰せられる事もありませんので何事もなく生活出来ます。

そしてその分野の優劣では勝てもします。ルールの根拠や他分野との整合性を知る事にリソースを割く事は現状のルールだけに特化するには無駄なものであり競争に負ける原因になり、省く事で優位に立てる為にそこにストッパーが存在しないならやがて可適応になります。自身で自制をかける事の出来ない者が居る集団はやがてそうなります。

そして可適応になった者は自身が悪人に操られていても気にする事もなく行動出来てしまいます。例えば私利私欲を満たす事に躊躇のない権力者が予算を与えてくれるから研究する研究者が技術開発し、その成果でもって自身は生活を保障され、その成果は国家の利益とならずに一部の既得権益層の利益になるという事が平気で起きます。

権力者は利権を使い利益を得、研究者はその権力者に利益の元になる利権を提供する事で本来得られない利益の分配を受け、研究者は他の研究者に勝つために国の予算を使い、それは利権を使うがために、その予算の元になる税金を支払った者に還元される事がない状況になります。

本来国家事業として行われる研究や開発はその国全員の利益になる目的でなされるものであるのが本来の在り方ですが、利権を使う為に一部の既得権益層の為に予算を割り当てているのと同じ状況になります。

この場合の本来のあるべき未来は別にあり、もしかするとその様な不正がなければ他者が研究成果を上げている可能性もあり、間違った状況は更に間違った状況へとつながります。

国家事業として行う研究は予算の元になる税金を払う皆から委任で行われるというのがその基本的な根拠です。しかし可適応になるとそれすら忘れ、それを扱う者は明文化出来ている部分を守ればそこに自身の欲望を付け足しても合法だと考える様になり、その根拠は満たされず争いの原因となります。


これは以前も言いましたが、成績が良くなればご褒美を上げる教育の弊害でもあります。利益が得られるからするだけでは、その成果が求められる根拠を知ろうとはしません。そこに判断能力の欠如、判断能力の未分化が存在する様になり、その先を考えない為に、他者への無理解へとつながり、また、考えない為に都合良く操れるからこそその立場に居られる状況が作り出されます。


では今までとは違う役割をする場合はどうなるかとなります。言ってしまえば役割に特化すると言う事は少なからず可適応になるという事です。その分野で求められる効率や考え方に偏向する事であり、新しい分野がそれほど違いのない分野であるなら問題も少ないでしょうが影響がないとは言えません。


女性が社会進出する様になった場合、その女性は今まで女性的な行動をしてきた事に対して新たに男性的な行動を求められます。その違いを理解出来ずに行動しようとすれば気づかない内に間違いを犯すでしょう。また、もし仮に子を産み育てる事と働く事を両立しようとすれば、それだけ覚える事が多くなり、2つの役割にリソースを割く為にどちらの能力も低下するでしょう。女性が子を産まない事にしてもそれまで子を産み育ててきた蓄積からいきなり社会を維持向上させる役割へと切り替えるのは難しいと言えます。

それでも女性が社会進出して活躍しているという状況は作り出されるでしょう。そもそもが社会において全ての男性が社会活動を能動的に行っているわけではありません。模倣し最低限の行動を取っているに過ぎない場合が多く、それと同じ事が出来ているだけの可能性があります。つまりは男性の質が低下して女性的な行動、つまりは与えられた役割をこなすだけの受動的な行動を取っているだけの状態であるなら、同じ様に与えられた役割をこなすだけの受動的な行動が女性にも出来る事であるなら、形質の性別として男性と同じ事が出来るのは当たり前になります。つまりこの場合は女性の能力が向上したのではなく男性の能力が低下した、もしくは単に分野を変えただけという事になります。

しかし、女性は子を産み育てるという状況を長く続けた後に社会進出した為に、男性が行うような社会全体を俯瞰する習慣があまりなく、自身の能力で競争に勝ったと思い込めます。その見方を身に付けるまでは行動は未だ女性的だと言えるでしょう。自らの行動は誰かの模倣であり、それが正当性を持つのは誰かがルールを定義し、それが維持できる様に社会を作ったからだと言う根拠を自らの行動を通じて知る事が出来るまでは誰かに悪用される危険性を抱えたままになります。


私達の精神の在り方を考えてみましょう。自身から見た世界はどの様に作られていくかを考えると、まず世界は『なんだか良く分からないもの』として認識されます。その中から体感とそれまでに遺伝子上に蓄積した経験による方向性を得て物事を認識していきます。概念はその対象とそれ以外にものを分けて定義し、『なんだか良く分からないもの』から『大体こんなものだ』という状態になり、やがて情報が追加されていき、『ほぼ間違っていないだろう』という定義になります。

それは自身にとって識別する必要がある所まで行われ、それ以上は行われません。失敗すればまだ識別が足りないから更に識別出来る様に知性を伸ばすという過程の繰り返しになります。

しかし同時に自身に必要な所までしか識別能力を向上させない事でもあり、社会の客観的知識と同じになる必要もなく、そして知性が低いなら客観的知識を求める事もなく生活する事になります。

識別能力が足りなくともその違いを認識する必要がなければ識別能力は向上せず、また、諦めてしまえばそれ以上の識別能力は身に付きません。

では女性が子を産み育てる状況というのはどういった状況でしょうか。自身と子供、その生活の周囲にいて関係を持つ同じ女性、そして夫がその世界の構成員でしょう。社会がどうなっているかという情報は夫の状態を通じて得られ、自身の生活が不安定になるかどうかは夫に依存する状態になります。子を産み育てるには夫が収入を得続けられるかどうかだけが必要であり、その収入で生活出来るかどうかだけが主要な焦点になります。この様な世界観を持つ女性にとって、夫が悪人であるかどうかは関係なく、自身の生活を保障してくれるなら相手が悪人であっても自身は役割をこなしているから何も悪い事はしていないと思えます。

では自身の生活を良くするにはどうすれば良いのかとなり、女を大事にする子供を育てれば良いという結論に至ります。女の言う事をよく聞き、女を大事にしてくれ、女の都合良く収入を家庭へ運んできてくれる男が女性にとって良い男になります。

しかしそこに社会を俯瞰した客観的知識は付随していません。そうなると、その教育は『自身の世界を豊かにする』教育であり、その女性が居る集団を含めた社会を豊かにする教育であるとは言えない可能性が出てきます。どんな手段でも収入を得て来れば良いとするなら非合法も許され、それをモラルやマナーで許さないとしてもグレーゾーンの行為は許される事になります。そういった行為行動をしても自身の所に利益を齎す男を育てる事で、社会には利益優先で社会の実状を考慮しない男性が増える事になります。そういった男性が社会を混乱させながら利益を稼ぎ、社会を劣化させる事で社会から得られる恩恵が低下し、その様に男性を育てた女性はその影響で自身の生活を低下させるでしょう。極一部の例外として、利益を稼げる男性を夫にした女のみが夫がどの様な手段を用いてでも集めてくる利益で何不自由ない生活を過ごす事が出来るでしょう。

そこに女性の見る世界と男性の見る世界の違いがあります。長年女性が積み重ねてきた利益の在り方は『なんだか良く分からないが夫が外から手に入れてきたもの』でした。その考えで子供を育てると、子供は利益さえ得てしまえば良いと思い、それが社会活動として正当性を持つかどうかを考える事をしないままに育つでしょう。

女性を大事にするという事は、その特定の女性以外を大事にしないという事でもあり、直接行為しなくとも普段の日常の行為が他の女性の事をどうとも思わない行動を選択出来てしまう事になります。

女性に都合良く動くという事は、女性の都合が最優先であり、社会が混乱しても構わないという事でもあり、女性に気に入られない事はしないという事であり、社会の問題は放置されます。

女性が得るべき客観的知識は、自身の生活している世界の外にも同じ様に女性が生活しており、同じ様に思っているという事です。自身の求める利益を得る為に育てた子の行動が、他の女性に対してどの様に振舞われるのかを知ることが出来るか、それを知る事は社会の客観性を知る事でもあり、自身の欲望をそのまま社会の規模へと押し広げようとしてもお互いの利益が相反して争いになる事を知る必要があります。自身が育てた子が利益を得るのにどの様な行動をしても良いと思って他の女性に対して暴力をふるったとして、それは同時に自身が同じ様な状況に陥るリスクを抱える事でもあります。

しかし自身から見た世界だけを生きる者はその客観的事実を自身の行動に反映しようとしません。してしまえば楽に利益が得られる可能性もなくなり、また、知性を伸ばすという苦労や教育に時間をかけると楽が出来なくなるからです。女性にとっては夫が甘えさせてくれ、夫の指示したさほど苦労しない役割をこなしつつ、勝手に子が育ってくれて、その子は女性を大事にしてくれさえすれば何も問題ないという狭い世界が一番快楽を満たせる世界です。

そして子が客観性を持ち社会活動するという事は依怙贔屓などをしないという事であり、女性としては甘える事が出来ません。そういった社会を維持向上するための行動をしようとする男性の妻になればそれだけ楽が出来ず、女性の視点で言うならば、出来ればその役割は他の女性に、そして自身は自身を大事にしてくれて甘えさせてくれる男性の妻になりたいと思います。

そうして、世の中には、女性に都合の良い男性が溢れかえり、社会の維持など考えずに行動する、考え方の基本が女性的な男性が多くなります。社会における行動で利益を得られる根拠は分からず『なんだか良く分からない』ままに行動し、しかし利益が得られるから良いと思い、そして、実際にそれで利益が得られるかどうかは分からず、利益が得られる根拠は過去の事例で利益が得られていたからで、そして形を模倣して真似すれば同じ利益を得て良いと思い、強要して押し付ける男性ばかりになります。誰も社会を維持出来る根拠、利益が得られる根拠を考えない様になります。

その結果として社会は社会を潰す行為が合法であれば許されると錯覚する者により潰され、その影響はその者を育てた女性達の生活を劣化させる事になります。


かつて私達は男と女の役割を決めた時に争いをしないと誓いました。その約束がある為にその誓いを受け入れた女性の前で争いをする事を禁じました。『ヤドリギの前で争いをするな』という言葉で表されますが、女性が男性を自分達の都合の良い様に育てようとするために今やそのヤドリギが争いの原因を作る様になってしまいました。


女性が社会を安定させ、男性の持つ愛、社会を維持して女が幸せで居られる世界を与えてくれる様な男性を育てる為には女性の持つ認識を変えなければいけません。自身は女に都合の良い男性を育てて良い思いをしようとしながら、誰かがきっと社会を守ってくれるヒーローを育ててくれると甘い考えを抱いているなら、そういった女性ばかりで構成される社会が出来上がり、いつまでも社会にヒーローは現れません。誰もあえて労苦を受け入れたいと思わず、結果として誰もそういった男性を育てないからです。それでもヒーローを望むなら皆が最低限のルールを守る必要があります。


このお話の女性は、自身の見ている世界において、夫の位置に、夫より自身に良い思いをさせてくれる男性を代わりにすえ、自身は子を育てる役割と母のとしての役割をし、何不自由ない生活が出来ればそれはとても素晴らしい世界だと思って行動したのだという推測が出来ます。それは子を産み育てるという役割だけを見たなら最も良い状況だと言えるでしょう。しかし夫の側から見れば自身を裏切り他の男と通じる危険な女であり、その様な女を妻には出来ず子を任せる事は出来ません。女性が女性として居られる世界を得る為にも最低限のルールは存在するのです。」


エールトヘンは締めくくる。


「お嬢様は貴族です。貴族はその役割上、男性的な振舞いが求められます。民衆は指示を受ける側であり女性的な役割を持ちます。貴族は貴族の役割として、その民衆が自分達で自分達の住む世界を壊してしまわない様に教え導く必要があります。知性を育めるように教育を施し、やがて知性を高め自分達の手で社会を維持向上させる役割が出来る様になるまで見守る事も責務の一つです。次に続く者を育成し、今の役割を任せるに足る様になれば自身はその次の段階に進むというのが多くの者に忘れられた私達の社会の在り方です。望む未来があるなら誰かに押し付けるのではなく自ら求めていくからこそ高貴であると言えます。さあ、自らの望む未来を掴むために、今日も頑張りましょう。」


-->しかしそれは逆に言えば、誰かを犠牲にして多くの失敗の結果として成功を得てしまえば、自身は自身で何の努力をせずとも簡単に少なくとも間違いではない結果を既成事実として手に入れる事が出来るという事になります。

<--これが現代社会の真相です。チャレンジアンドレスポンスと言えば聞こえが、実際には肉壁爆弾処理作戦が実状です。詐欺行為や犯罪行為で財を得て権力者になり、自身は安全な所に居ながら、社会の発展に必要なものは「冒険者」、「バイオニア」、「挑戦者」などの聞こえの良い言葉でモルモットになる者を量産して投げつけるかのように浪費して成功をつかみ取り、その結果の恩恵を受ける、というのが現代社会です。


コスモス->

c->物理法則(私達から見た世界の法則)

o->男性形。(能動的に行動する)

s->表面的に

m->

os->能動的に行動する者(男性形。正しくはos、口語短縮でsのみ、変化形にusがある。)。

<--物理法則に囚われて目に見えるその表現形の世界に存在しその運命から逃れられない者。故にそれに抗う為に法を作り集団で挑む(<-ここが能動)者。


カオス->

ch->物理法則を否定

os->能動的に行動する者

<--物理法則に囚われる事なく自由に行動する者。最も単純な意味では純粋なエネルギーの奔流。よりカオスであるという事はより自由である事であり、しかし自虐的にはならずに行動する強さを持つ事であり、詐欺行為などの弱さの表れからくる行為はせず、自身の欲求を満たす為に押し付けはするが欲望に流され暴走する事もない者を表す。


ゲヘナ->

g->混ざった者。人を指す場合はgroup.一般的にはグロス

h->否定する。(母音がoで入らない事に注意)(尚、口語的にはa,i,u,e,oが母音だが文章的にはこれらは子音、補助音)

n->行動

a->女性形。状況に流される者や与えられた役割をする者、自身の気づかないうちに操られている者などの受動的な者を表す。

<--集団を乱し否定し行動する(詐欺行為や犯罪行為)者。


大抵のカオスを自認している者は単なるゲヘナです。カオスとはその大小あれど、基本的にそんな事を言って自尊心を満たす様な事はしません。出来て当たり前の事をして自分が偉いなどとは思わない。しかしその行為は他者からすれば能力があるからこそ出来る行為というのがカオスの行動の仕方です。カオスは自身の要求を押し通す事はあっても自身の弱さを前提に行なう詐欺行為などはしないのが通常です。


詐欺行為というのは自身が弱いから出来る事です。能力があるからではありません。それがなぜしてはいけないかを分からない、それが他者の利益を奪う形で、つまりは誰かに利益を得て貰わないと奪う事が出来ないという甘えの世界にいる事が分からない、そんな程度でしかない事も分からない知性の持ち主だから出来る事です。しかし出来てしまうのは社会を維持するうえで、どうしても欠陥と呼べる部分が生じてしまうからです。つまりは自分達の能力の低さを悪用して利益を得る方法を能力があるからこそできるとは言いません。単純な例では、計画倒産は能力があるからこそして良いのか、浪費した後に破産法を悪用出来るのは能力があるから出来るのか、となります。本当に能力があればそんな事をせずとも生きていけます。あえて犯罪行為をせずとも誰に対しても後ろめたい気にならず、後ろ指を指される様な事をせずとも生きていけます。しかしそれが出来ない。能力があるなら自身の欲求に満たすのに問題がありません。何かを開発しなければならないなら開発し、何かを作らなければならないなら作り、社会を維持しなければならないなら維持するだけの事です。しかしそれが出来ない。だからこそ自身の欲求を満たす為に詐欺行為や犯罪行為が必要になり、欲望に流されるだけで自身を制御出来ない為に必要なだけではなく、そうしなければならない、という状況になります。

しかしそれすら分からない。出来るのだから実行し、罰せられないからしても良いと思う。その結果が自身の属する社会を潰す結果だとしても、誰かがその損失を補填してくれると甘えた考えで行動する。そしてその考えはけものであった時の、自然が食料を、自身が何もせずとも自身が何も考えずとも生産していた時の考えのままの甘えだという事です。自然の枠組みから外れ、自分達で社会を維持する事を選択したのに、まだけものであった時の様に自然が、神様が何とかしてくれるという甘えを抱えた行動が詐欺行為などになります。



-->例えば、ネズミと称される様な性質を持った人物として完成するかも知れません。

<--宗教上の都合のよりこっちに書きますが、

象は、大きな動物でありながら性質は穏やかで、肉食動物の様に同じ哺乳類に襲い掛かる様な事もせず、しかし力持ちで社会の役に立つ、というシンボルです。だからとある宗教では神聖だと言われます。


-->しかし、私達は不完全であり、間違いを犯します。自身にその気はなくともその行動がルール違反になったり、ルールを軽視してルール違反をします。さらに軽い気持ちで他者に助言しているつもりで他者を唆しルール違反をさせる事があります。

<--これが宗教上で、私達がエデンを追放された理由です。間違いを犯したからこそ不完全だと認定されたとも言えます。以前にインターネット上で解釈を間違わせようとしていた持論を述べているサイトがありました。禁断の実がいつでも自由に採れる様になっていたのは、失敗させる為に神が仕組んだ事で、神は追放する前提で禁断の実を配置した、という曲解をしていました。とりあえず、この方は自身の利益の為にどうしても宗教が悪だとしないといけない方の様に思えました。妥当な解釈といいますか、昔からの解釈で言えば、例え禁断の実を厳重に隔離して、不用意にルール違反をするものはやがてその厳重に隔離した場所でさえも立ち入る様になりいずれ禁断の実を手に取る事になる。なら目の前にあっても、(食べるに満ち足り何の苦労もない場所で)ルールを守れるなら禁断の実に手を出す事もなく居られるでしょう。その禁断の実を食べずとも食に満ち足り手を出す理由がないのですから。しかし手を出す理由がなくとも欲望を抱きそれを自制出来ないならばやがてルールを破り禁断の実に手を出す。厳重に隔離するかどうかは手を出すのが遅いか早いの違いに過ぎず、隔離自体は問題の解決になりません。ここで神が問題の焦点としていたのは、ルールを破る根拠足り得るだけの生命のリスクを抱える事のない状況でルールを守れるかどうかです。

しかし私達は間違えました。その日から、上の文章にある様に楽園を実現する事が出来なくなりました(つまり楽園を追放された)。治安維持のコスト、相手を信用出来ないためには払うコスト、ルールを守れない私達は多くのコストを負担する事になり、本来ルールを守れていれば負担しなくて良いコストを自分達の不完全さ故に負担する事になります。

これはまた別の所で取り上げるかも知れませんが、何一つ不自由ない状況で、誰かに唆される事無く欲望のままにルール違反する者は一度その間違いをすると、それが罰せられてもやがて体感は薄れ、いずれもう一度間違います。だから"1度した者は2度する"という言葉があります。そうならない為には自制が必要で、そして残念な事に、その自制がないからこそ間違いを犯しました。だから普段から自制を求める様に行動する習慣を付けないといつまで経っても同じ繰り返しをする事になります。しかしその自制のないものに自制を身に付けさせるのは容易ではありません。自堕落に生きていれば良いと思い込んでいる者に自身の意思で規制を掛けさせる様に生活を変えさせるのです。しかも誰かにご褒美が貰えなくともそれが出来る様にする必要があります。これが教育の大きな問題で、暗記がどうこうはその後の問題です。これをせずに暗記させるだけでは単に欲望のままに与えられた知識を使うだけの者を生産するだけになります。

どれだけそれが難しいかと言えば、宗教を信じているつもりの者もそれが単に生活する為に、食べる為に必要だからという理由でしており、自ら知性を育み社会を良くしていこうと思っているから宗教に入っているわけでもない場合があります。言ってしまえばある宗教者がその行動をして喜捨を貰い生きていける行動を見て、ああすれば金を稼げるのだと思いその行動を真似る為に宗教に入る者というのはいつでもいます。そういった者に自制を求めても効果はなく、そうしても金を稼げず食べる事も出来ないのになぜするのだ程度にしか思いません。誰も見ていないと思えばすぐに自堕落な姿を晒し、また、気づかれず罰せられないなら悪事やルール違反も行います。

だから新約聖書にはこういった言葉があります。「どうしてお前たちは命じられたほんの僅かな間ですら約束も守れず寝るのか。」


とまあ、ある作品を読んでも知識量の違いでどういった印象を受けるのか、どういった事まで派生させる事があるのかなどの一つの参考程度にしてください。

世界には自分とは考え方の違う人間がいるという事を漠然を分かっていただけると幸いです。


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