S092 彼女の信奉者たちでさえ
確かダリ?の作品の一つに付けられた邦題だったはずです。
ネットで検索しましたが分からずじまいでした。その名前がついたエピソードが他より目立つものでした。
アリッサは窮地に追い込まれていた。ほんの些細な事だったはずなのだ。アリッサは特に悪い事もしていないのだが悪い事も言っていない。しかしそれが誰かに都合が悪かったらしくアリッサの立場は日に々に悪くなっていた。
彼女の国は戦争を始めた。テロリストがこの国の重要な施設を爆破したと報道され彼女の見た新聞にもそう書いていた。テロリストは隣国に匿われており、今もこの国を責める為の強力な兵器を持っているとまで書かれていて、報復と国内に発生する被害を未然に防ぐ目的で隣国への戦争を決意したと国のトップが宣言していた。『我々はテロリストには屈しない』と声高らかに宣言しているトップの写真が一面に掲載されたその新聞はどこにもテロリストと隣国の友好的な関係を実証する証拠を示していなかった。そもそもが強力な兵器とは何なのかとアリッサは思う。どこにどの様な物をどれだけの量隠しているのかすら分からないものを"所有している"と言い掛かりを付けて押し入る事が出来るなら、どんな事も許されてしまう。例えばアリッサの家にも包丁はある。そんなものを理由に家宅侵入されても困るのだ。例えばアリッサも護身用のナイフは寝室に持っている。そんなものを理由に他者を加害する意図があるとされても困るのだ。しかしそれを当然の如く行おうとしているこの国の上層を異常だと思ったアリッサは、周囲に反戦を訴えたのだ。
それがいけなかったようだ。アリッサの行動はこの国の権力者に疎まれた様で、ある日突然雇われていたスポンサーから解雇通告がされた。理由は雇用契約上に記載された"好ましくない不謹慎な態度や言動を取った"事らしくアリッサがそんな事実はないとどれだけ言っても聞く耳も持たずにお払い箱になった。
その日から彼女の周囲は変わってしまった。以前はアリッサの反戦の訴えを聞いていたファンや知人もアリッサを避ける様になり、アリッサの耳にも聞こえる様に悪口を言う様になった。その彼らも以前はアリッサの歌う愛や平和の歌がとても良いと言っていた者達でありながら、今やアリッサは酷い人物でアリッサの歌う歌も酷いものだと平然と言っているのだ。
「アリッサは何て平凡な歌を歌う奴だったんだろう。歌手廃業になって良かった良かった。騒音公害にしか思えなかったからね。」
「そうだな。あんな小娘の口ずさむ愛にどれだけの価値があるってんだ。そんなものはそこいらのオウムでも出来らぁ。何が『愛こそ全て』だ。」
道を歩けばあからさまな言葉が聞こえる様に話され、それがかつての知人なのだからアリッサの心は沈む一方だった。更に今までアリッサの事を知らなかった様な者達までアリッサを見ると嫌な顔をする様になりアリッサが何か悪い事でもしたと思っているのか露骨に避ける。
新たなオファーを得る為に知人を頼っても良い返事は貰えずに距離を取られ、仲の良かった者まで言葉を濁して断りを入れてくるのはアリッサにも堪えた。
そうして一月程経った後、ようやくオファーが入った。今まで付き合いのなかった事務所で丁度企画に参加させるアーティストが足りなかったそうだ。色々な所に足を伸ばして行動した甲斐があったとアリッサは喜び、話を聞く為に事務所を訪れた。
事務所に入り案内されるままに会議室らしき小部屋について待っていると依頼してくれた人物がやって来た。
「やあ、今回の話を受ける気があって安堵してますよ。」
「ええ、勿論。こちらからお話を頂いて大変助かっています。それでどの様な内容なのでしょうか。」
「ああ、今回の件を話す前にね、あなたに言っておきたい事があるんだ。」
「どういった事でしょう?」
「何、簡単な事だ。アリッサさん。今のあなたのままではこの先、歌手としてはやっていく事が難しいと私は思っている。しかし、アリッサさん。あなたにはまだ眠れる才能があると思うんだ。だから、これから自分を変えていく必要がある、と私は強く思う。どうだろう?」
「いきなりそんな事を言われても。私にどんな才能を見出してくれているのか分かりませんが、それでもっと人気が出るなら努力はさせて頂きます。」
「本当かね!それは良い心がけだと思うよ。君みたいな才能の卵を放置するなんて皆どこを見てるんだろうと思うよ。そうでなくとも最近は不作で良い歌手が少なくなってる。あなたもそう思わないか?」
その言葉にアリッサは、同業者をバカにするわけにもいかず曖昧な表情と言葉ではぐらかした。しかし目の前の人物、チャドと名乗った男は先ほどのアリッサの言葉を聞いて上機嫌なのか気にせず話を続ける。
「それでだ。今回の件なんだが、この国も発展目覚ましくもっと国外にアピールしていく必要があると思うんだ。あなたもそう思うだろう?」
「はあ。話が大きすぎて良く分からないですけど今回の話に関係があるのでしょうか?」
「ええ、勿論。今回の話はね、国が企画に関わっていて国威高揚を兼ねて自国のアーティストに歌ってもらう企画なんだ。この国は素晴らしい国だと、戦争しても負けない強い国だと歌って欲しいんだ。」
「・・・それは出来ません。私にも思う所がありますので。」
そう答えたアリッサに、突然チャドは態度を翻し冷たい目線で見下ろすかの様に見つめながら話し出す。
「さっきの言葉は嘘だったのか?そうなのか?お前は変われるんだ。折角のチャンスを無駄にしたいのか?今のままじゃあ、どこに行っても今のままだぞ?大人しく従った方が利口なんじゃないのかね。皆そうやって大人になるんだ。賢い大人にな。お前はどうする?このまま続けて大丈夫なのか?今のお前のままじゃ歌手を辞めたってどんな職業だって長続きしないだろうさ。そんな事はもう充分分かっているだろう?」
そのチャドの言葉にアリッサは黙る。そうか、なるほど、とアリッサは思った。どうにも皆の様子がおかしいと思ったら既に根回しは済んでいる様だ。そして、アリッサが才能に目覚めて変わらない限りは今のままなのが確定しているのだろう。彼らの望む才能とはつまり国の良い操り人形になる才能らしい。
アリッサは今日、人生の大きな分岐路に立った。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。自身は正しい主張をしたはずが、誰かにとっては不都合な主張であった為に主張を変えさせられる状況に陥るという事ですね?」
「概ねそう。」
「なぜその様な事が起きるかと言えば、私達は社会の中で他者に干渉してしまう行為を行なうと、その行為の過程や結果が他者に悪影響を与える時には影響を与える他者から指摘を受け、行動出来ない場合があります。同時に他者に悪影響を与えない場合は指摘されずに行動出来ます。その為、ルールにおいて、互いの所有物を奪ったり、他者に危害を加えたりしない為の取り決めを行います。主体となる対象に"権"という存在して良い為の資格を定義し、主体が行為行動する事自体を許可する為に周囲が損失を出しても主張して良い"利"を定め、それを権利と呼びます。
しかし私達は1人で生きているのではなく集団行動をしています。それぞれが権利を主張して行動しようとすれば、同じ対等の権利を持った者同士で衝突し、それぞれが自身の正しさを主張して行動しようとします。どちらも個人だけを見れば権利において正しいですが、それを理由に争えば集団行動が成立しません。私たちは集団行動を受け入れた時から自身と同じ権利を持つ存在を受け入れる事を選択しました。多少の差はあれど、集団行動をする際に守らなければならない集団を維持する為のルールを受け入れた時から、自身の持つ権利と同じ権利を他者にも認める事を受け入れる事になりました。
自身の生存権を集団の中で主張する為に他者の生存権を認め、自身の所有権を主張する為に他者の所有権を認めました。集団の中で自身が危害を受けない為に他者を加害しない選択をしました。
ですから自身の権利を主張する行動が他者の権利を侵害している場合には侵害される他者から批判や私的を受ける事になります。また、他者の権利を侵害していないのであれば他者から批判や指摘をされないでしょう。そして、他者の権利を侵害していてもその他者が批判も指摘もせずに黙っており、後になって批判や指摘をしてきた場合、行動した者は『なぜその時に言わなかったのだ。』と主張する事が出来、黙っていたのだから行動を受け入れた、つまりは黙認したのだから権利の行使が相手の権利を侵害していたとしても相手が黙認して行為を受け入れたのだから正当性を有すると主張出来ます。
大抵は自身に危害を加える相手に対して何らかのレスポンスをするので、何もレスポンスをしないのは行動に問題無く、その行動で権利が侵害されないからだと客観的には判断されます。
また、共同作業においても、皆が権利を持ち寄り集団としての意思決定を行うので、そこで批判や指摘もしくは意見をしないという事は黙認して決定を受け入れたとみなされます。
つまり、本人の意思とは無関係に相手を黙らせる事が出来れば、本人がある主張に対して何の不満もなく黙認しているとみなす事が出来ます。典型的な方法では恐喝があります。力関係を利用して発言出来ない状況に追い込み黙らせる事で都合の良い主張を押し通す手法になります。何が間違いかと言えばそれはかつて集団行動を受け入れる前の個の強さで生き残ろうとした時の考え方だからです。相手の権利を尊重しないで良い状態とは集団を作らずに自身の権利すら考えずに"出来るからする"という考えで行動している事になります。
なぜそうなるかと言えばやはり知性が足りないからです。生まれた時から社会の中になり、社会という環境がある事自体が当たり前であり、それがどの様なルールを守る事で維持されてきたかを知らない為に起こります。その社会の中で自身が他より腕力がある、知能がある、権力がある、財産がある、という根拠を持った時、かつての個の強さを追求していた時の成功体験を模倣して、欲しい結果を得ようとしてしまいます。ではそれは強さかと言えば、その生成過程において問題があります。皆が同様に強者であれば何をしても許されると思って他者と争いながら生じた差であるならそれは強さと呼べるでしょう。しかし集団行動する中で、他者は欲しい結果を得る為にかつての個の強さを根拠とした勝ち方で欲しい結果を得る方法を集団行動する選択を受け入れた事で放棄している状況です。
つまりは他者がその分野で能力を高めようとしていないからこそそれだけ他より有利に能力を高める事が出来た事になります。言わば競争相手が少ないからこそ有利に勝てた状況になります。その状況は集団行動をしているがために発生している状況であり、純粋に個の強さで競争を勝ち抜いた事にはなりません。ですので、それを個の強さと錯覚してはいけません。
また、では同じ分野での競争なのだから強さを主張出来るのかと考えても同じ事です。集団行動せずに個の強さで勝った時に得られる欲しい結果を求めて集団生活の中で競争する事に間違いがあります。集団行動を選んだのだからその環境を維持する必要がありそれを破壊する事になる報酬を要求する事に間違いがあります。そして、他者はそれが分かっているから多くの報酬が得られないと考えて自身の生活とのバランスを調整して努力している状況ですが、それが分からない者は勝てば望むだけの報酬が得られると思い込んでいる為に競争に力を入れ、能力を向上させる傾向にはありますが、それが分不相応の報酬かどうかは考えません。
この感覚は小さい規模の社会では成立していた過去のものです。村社会を考えてみましょう。村の収益の規模は小さく、個人からでも予想出来る範囲です。そして個人が自ら積極的に情報を集めなくても得られる情報で出来ています。欲しいだけ要求しても欲張っていないかも比較的分かりやすく、また、それに対して他者も村の収益という総量が分かりやすい為に多くを持っていこうとしてもそれが分不相応かどうか判断出来るので指摘が出来ます。
では社会の規模が大きくなった時にその様な行動を取ればどうなるでしょう。ほとんどの個人は社会そのものの収益を知りません。また、報酬の確定は結果を待つ以外に方法はなく、過去の事例からほぼ間違いないという報酬が決定されるのですが大きくなるにつれ全体の収益を把握する事自体が難しくなります。どれほどの報酬が妥当なのかを把握が難しい状況で欲しいだけの報酬を要求する事になり、それが相応かどうかの判断が自身にも他者にも難しくなります。要求は強引でも無根拠でも成立し、批判や指摘を黙らせる事が出来ればさも合法であるかの様に成立してしまいます。
社会の規模が小さい場合、総量が分かりやすい為に本来貰う予定だった多くの利益を要求しても総量としての利益がそれを資するに足るだけの量がなければ得られない事は分かり、それがもし誰かの過失での損失があったとしても、手に入れられなかった利益を非情に強奪する様に過失した者から奪う様な事も出来ません。お互いにそれ程の敵対関係を築いているなら集団を成しておらず、また、それが出来る者とは集団を成す事もありません。
しかし社会の規模が大きくなり、離れた個人同士の関係が希薄になり、より機械的になり私達が生活する上で必要なルールやモラルよりも、ルールやモラルを基本として明文化された法律が優先される様になり、明文化された概念の定義が曖昧な為にルールやモラルが反映されずシステマチックに処理が行われる様になると、自身が収益を得る事でそれに対応して誰かが損失を被る時に相手側の事情が見えずに躊躇する事なく要求する様になります。村などの小さい規模では分かりやすい為に自身の要求がどの程度の要求かは分かりやすく、相手を追い詰める様な事もしにくいですが、大きな規模の社会というものは制度が作り上げるシステムにより遠くの人物とも共同体を形成し、システムという個人から見たブラックボックスの向こうに私達が生活しているという問題を追いやり見えなくさせ、そこで扱われる処理に必要な情報以外をそぎ落として機械的に行動しても問題ないと錯覚させます。そこにはシステムを形作るルールに従っていれば考える必要がないと錯覚出来ている事も要因の一つとなります。
社会が大きくなるにつれ、そこから得られる利益の分配の根拠を厳密に定義するのは難しくなり、そこに争いの原因ば生じます。結果はより遅延がかかり、根拠には様々な要因が絡みます。そしてそんなものを出来る限り問題のない様に交渉していては行動する事も出来ません。なら多少の分配における不平等があっても効率を優先して定義しているのが現在の社会です。しかしその荒さに付け込む隙があり、そしてここでも言いましたように社会を成立させる根拠を考えない者にとっては競争に勝つ為の要因に過ぎません。
そして社会の規模が大きくなるにつれ全体の収益やフローが分からない為に小さい規模での経験や慣習を使って制度や報酬を決める事になります。するとこれまでに言いましたように、個々の状況に対して定義を行う為に全体の整合性がなくなり、瑕疵を作り悪用されますし、また、悪用しなくともそもそもがそれぞれの定義や制度に矛盾を生じさせ争いを生みます。
この際に必要なのはやはり知性であり、体感での経験ではありません。体感での経験は得られるなら有用なものですが、それは成功しても失敗しても事後の結果から得られるものです。取返しのつかない物事に対して体感を求める事は出来ません。その為、個人は個人の規模から自身の権利に基づいて行動を決定しますが、実行する前にその個人として正当性のある行動が社会の規模から見て正しいかを考える必要があります。
例えば、団体競技で考えると、まずプレイヤーはその競技に参加できるだけの知性を持っている必要があります。ルールを理解しルール通りに参加できるかです。次にルールにはないその基盤の上に出来る役割やマナーやモラルについて知る必要があります。競技のルールというものは競技を行う上で必要なルールを定義するのであって、団体競技をする基盤である私達の生活を定義するのではありません。その基本的なルールは前提条件として存在している事になり、ここで本来はまず基本的なルールやモラルを身につけてから競技にルールを覚えて参加するのが正しい事が分かります。
しかし私達は生死のサイクルを繰り返し、その始まりを規定する事が出来ません。常に社会の中にあり、社会における集団行動を取り決めるルールを守る様に制限されながらも、同時に基本的なルールやモラルを覚える必要があります。争いを生まない為にまずルールに従う様に指示され、次にモラルやマナーを覚えてその精度を高める様に社会の中で要求されます。争いを生まない為のルールの根拠となる基本的なルールやモラルやマナーはその行動の中で覚えていく事が前提になります。しかし、ルールに従っていれば良いと思う様になればその要求を満たす事もなく、ルールだけを遵守しその根拠を考えないままになります。
幼い内はそれで良いかも知れません。保護者の躾けと教えがその者の行動を制限します。しかしやがて保護者は居なくなります。外部から抑制を受けて欲望を制限していた者は最初の内はそれまでと同じ様に行動するでしょうがやがて躾けや親の教えなどで与えられたルールを破っても罰せられない事を知り、徐々にルールを破る様になるでしょう。その際、それまでルールがなぜ存在していたかを考えない者はそこに親のしつけや教えという制限の代わりになるものを作らず、更に外部の社会の与える法律という体感出来る明文化されたものだけを守る様になるでしょう。こうして合法ではあるが社会の持つ欠陥を悪用する者が現れ社会を混乱させます。
社会に属する構成員はその成長の過程で、親の躾けや教えによって保護されている間に社会を形作る制度とその根拠となるルールがなぜ存在するのかを自身で知る必要があり、それを体験しながら成長する事でやがて保護者から独立した時に、保護者が与えてくれた自身の行動が社会に適合する様に作られた制限がなくても自身が自身の行動を律する自制を身に付ける事が出来ます。
これを個人の意が中心にあり、意が今までの経験と思考により世界を識別するための情報が中心から伸びて絡まり合い意識になると仮定します。そこに欲求というエネルギーが流れ方向性を得て意思と成ります。それを親の躾けや教えがそれを包み込み、社会に適合する行動をする様に流れる欲求のみを外部へと流出させて社会にとって問題ない行動をさせている状況が最初にあり、やがて保護者がいなくなり自身の意識を包み込み制限を与えていた親の躾けや教えという疑似自制膜は親の監視と賞罰を失い効果を失くし、そのままでは社会に適合しない様な行動も欲求によりエネルギーを与えられる事で枝を伸ばす状況になります。そうなる前に自身で知性を育み、間違った枝を伸ばさない様にし、伸ばしてしまったとしても親の躾けや教えにより作られた疑似自制膜の代わりになる自制膜を自らで作り出して間違った行動を抑制する必要があります。マイルール、ハウスルール、典型的なルールを欲して宗教などの何らかの指針で自らの欲求を制御する必要が生じ、それがなければ罰せられなければ何をしても良いと思ったままになります。こういった理由で自制は求められます。
成人すれば誰もが自身の判断で行動し親の指示に従わなくて良くなり自由を得ますが、それは同時に親の与えてくれた保護を失くし、親の躾けや教えに代わる何かで自身に自制を課す必要がある事を示します。
こうして、社会に参加する為に本来考えるべき事を考えずに成長した者はその考えなかった程度により、自身の行動を抑制する指針を持たず欲求のまま行動するが罰せられなければ良いと考える様になります。しかし私達は社会の中で権利を得て行動し、また、親が常に子供を監視する様に、刑務所で常に囚人を監視する様に、個々の人物に注意を払う事など出来ません。するとその表面上に見えづらい本来あるべき状態との違いにより偽装している様に見える状況のまま、社会の中で罰せられない様に欲望を満たし続ける様になり、それが当然だと思う人物が出来上がります。
明文化された部分だけを考慮し罰せられない様に行動し、社会が成立する根拠に配慮せず欲望を満たす事を基本として行動すればその行動は社会の利益と一致しない様になるのはすぐでしょう。制限を外せば外す程により快感原則に従う事が出来、快楽が得られる結果と強く結びつきます。集団の中に在り集団のルールやモラルを守る事なくその差によって優位に立ち、集団に属さずに個の強さで競争に勝った時の報酬を要求出来れば、最大限に快楽を得られる効率の良い結果を得られます。そして社会の規模が大きければ大きいほどに報酬などの要求が分不相応でもそれを指摘出来る者はほとんど居なくなり、そして監視し続ける事は出来ない為に、罰せられない様に悪事を成して黙らせる事で問題ない様に振舞う事が出来ます。
その様な人物を"揺りかごに揺られたままの子供"と表現する事があります。親に守られていた時は何をしても親が保護してくれている状況で居られ自身を取り巻く環境がどの様に出来ていたかを考えずに済み、しかし保護者が居なくなってもその時と同じ考えのまま自身がどの様に行動しても環境は壊れず何をしても良いと思い込み甘えたままの人物を表現します。その人物の行動の結果、かつて親がしていた後始末を社会の誰かがする事になり、表現として赤子の世話で糞をした後に尻を拭いてやらないといけない状況を表して尻拭いすると表現される状況を生み出します。
しかしその行動はその人物のズレた知性の高さ次第でより巧妙に合法な行為行動になり、しかし社会を維持する配慮はない為に、得た利益に比例して誰かに押し付ける様に損失は発生し、社会というブラックボックスを通して無関係に加害する事になります。その被害を受けない者は居ないですが、同時に加害もしていればトータルの収支で利益が勝り競争に勝つ事が出来る状態が出来上がり、悪人が権力を持つ構造へと発展します。ルールやモラルを守る善人は不正をせずに行動する為に被害するばかりとなり、ルールやモラルを守らない悪人は同じ様に被害しながらも誰かに加害し損失を上回る利益を得る事が出来ます。
簡単に例えると『殴られる回数より殴る回数の方が多ければ勝ち』という状況が生まれます。そうなれば本来の社会の目的は失われ、争う事が日常となり、しかしルールを守って社会を維持する明確な基準は誰にも分からず、どこかに基準を求める必要が生じ、分かりやすい個人の視点から見た世界の基準を用いて行動しますが、それが間違いだとしても間違いを指摘出来ずに欲求のままに行動する状況を許してしまい社会は争い始めるきっかけを得ます。
その状況を止めるには交渉や取引において互いの合意があって初めて行為が成立する状況を作る必要がありますが、先ほどから言います様に、罰せられなければ何をしても良いと思い込んでいる者は相手を黙らせる事で強引に"合意が成立した"と表面上は見える状況を作り出しますので、ストッパーが効きません。また、時間の制限やリソースの制限により熟慮出来ないままに結論を急かす事で欲しい結果を得ようとするので不満の残ったままにみなし行為で合意を出し、とても合意出来た場合に得られる状況とは言えない状況を作り出します。
ではその様な人物にならない様に教育出来るでしょうか。それは限定すれば可能ですが、まず、だからこそその様な状況は作り出されません。なぜなら欲望を満たす事が出来る状況を、現在欲望を満たす事が出来る人物が排除するはずもないからです。
教育の安定を阻害する大きな要因は争いです。社会の混乱は安定した生活を維持出来なくし、安定した生活が出来ないなら教育も安定出来ません。そしてその最たるものが戦争であり、戦争によりがれきと化した場所というのは文化も崩壊しており、局所的にその時代の基準となるルールやモラルが通用しない場所になります。するとその地域で生き残るにはルールやモラルを遵守しない必要があり、その行動が基準になります。その人物が社会の復興と共に行動を改善する事は稀で、幼い頃からの習性のまま行動し続け、そして他の社会にも移動して同じ様に行動する事で競争に勝ち混乱を巻き起こします。その混乱がなくなるのは世代をまたいでまた一から成長する中で、ルールやモラルを守りながら成長する必要性があるのが一般的です。途中で知性を育んで自身の間違いに気づき改心する事もありますが過去の成功していた自分を否定する事は生き残って来た実績と根拠を否定し生存のリスクを高め不安を煽るので難しく稀です。
しかしそれも実現しない場合があります。数が多くなるという事は、全ての人物が全ての人物とかかわりを持つ事がないという事です。自身の生活環境に居る人物とだけ関係を持ち、その狭い世界の中で生活し成長していきます。つまり、悪人は悪人だけで固まる状況が作り出されると、その悪人の世界ではルールやモラルを破る事は当然として環境が構築され、その中で成長した者はルールやモラルを軽視する様になり、それを幾世代も重ねる事で性質としてしまいます。日々の繰り返しの中で何千何万と行動を選択してその選択をするという情報を強化し続けるのです。他の環境に移ったとしてもすぐに消えるものではありません。
ではその様な例外的な環境がない場合に教育でその様な人物に育たない様に出来る為にはその対象となる本人の努力がどうしても必要になります。私達はたんぱく質からなる形質を持つ生命体ですが、私達の中では全て同じ性質を持つと言える状況ではなく遺伝子により違いが生じます。誰も明確に違いを判別出来る状況になく、その違いをより詳細に知るのは本人そして血統を同じくする者です。
社会が与える知識というのは客観的な知識になり、統一規格とも言えます。しかしそれを受け入れる側のソケットの形に違いがあるので、そこに出来る隙間を埋める努力が知識を得る側には必要です。隙間に足りない知識を充填するかソケットの形自体を変えるかして対応する必要がありますが、場合により社会の側を変えて対応しようとする者もいます。
しかしその隙間とはそれぞれの概念定義の精度の低さを表し、本人は概念定義が明確に出来ていると錯覚する場合がほとんどで、出来ていない事に気づく時は主には失敗した時であり、稀に誰かの失敗や誰かの成功例から知識を得て間違いに気づける場合もあります。
この様にやがて社会に参加する者には社会で必要な基準を満たす為に自助努力が必要であり、それは"なぜ"そう定義づけられているかと問い続ける必要があるという事です。自分を取り囲む環境が与えるルールを学んでそれが"なぜ"そうなっているのかを知り、やがてその根底にある根拠に辿り着き、その繰り返しが私達の性質や形質の抱える制限にまで到達すれば社会のルールがなぜ定義付けられるかを把握する事が出来、ルールを盲目的に遵守しなくとも自身の合理的な行動がルールに合致したものになるでしょう。
しかしそれは物理上において非効率を意味します。行動すれば結果が必ずついてくるならば行動しない事は損する事になり非効率になります。しかし行動すれば結果が必ずついてくるという状況つまりは利益が得られる根拠を作り出し維持するにはまずその非効率な作業を行なわなければならないという事です。求める結果が得られるかどうかは計画の段階でほぼ決まっているという例えと同じ事です。闇雲に行動しても良い結果は得られず、計画的に行動してこそ予想した利益が得られ、それと同じで利益が得られる根拠を維持出来ると判断出来たからこそその繰り返しにおいて行動すれば結果が必ずついてくる状況を作り出せます。この思考訓練を怠ったものは利益が得られる根拠を維持出来るか分からないままに行動し根拠を破壊し、やがて同じ行動をしても同じ結果が得られない状況を作り出しますがそれがすぐに分からないのは、他者が利益を得られる根拠を維持しようとしている為にすぐには影響が現れないからであり、他者に自身の行動の間違いで生じる影響を押し付けていると言えます。
ですが社会の規模が大きくなるにつれ、高度になるにつれ、実際に思考を繰り返して社会のルールの根拠を知り知識に整合性を得ようとしても熟知していると言える状況に到達するのは難しくなります。そうなってくると社会の中での活動が実状に適合して利益が得られて良い状況になっているかが曖昧になっていき、その様な人物が増えるにつれ社会の制度は現実から乖離し始め、制度上の出来事が現実とマッチせず維持が出来なくなります。その曖昧な状況になれば正当性があるかどうかの判断がつかない状態になる為に、どこかに明確な基準を求める事が出来ずに、個々の判断で行動に正当性がある、つまりは利益が得られる根拠があると信じて行動する以外になくなり、それは欲望により報酬を決めている状況と違いを判別出来ない状態になります。
こうして曖昧な状態が維持されると実際に現実に即した利益が得られる根拠が成立した状態で社会活動を行って利益を得ているかどうかの判断が出来なくなり、その状態が更に現実の世界と、制度を通して活動する私達の世界との乖離を大きくして混乱を招き、やがて修正し切れなくなり崩壊します。
では能力が足りず知性の高さが求める基準に足りなければ諦めて良いのかとなります。本来必要とされる、社会が高度になったからとはいえ、個人が社会活動をする上で必要な水準に達していない状況を個人の独断で許して良いはずもなく、しかし基準に満たない者を排除出来る権利というものは危険を孕み正しい根拠もなく実行して悪用される可能性がある為に実行出来ず、そして高度になればなるほど、誰もが社会活動としての行動に瑕疵を持つ様になり、誰もが裁かれる側に立つ状況が作り出され事実上実行不可能になります。しかしそうしなければ規制も出来ず社会の維持も難しいという問題はここでは割愛します。
故に社会の中でその一生において、求められる基準に到達しないとしてもそれを甘んじて受け入れ怠惰に過ごす事は好ましいとは言えず、だからこそ基準に足りない行動を少しでも社会活動に適合させる為に最善の努力が求められます。自身の行動が基準に届いているか分からないなら届く様に最も良いと思われる行動をして少しでも基準に到達する様に努力する事が、自身が社会の中に参加している担保として唯一提供出来るものになります。最善と言えば強制とも言える行動を取らされる気もしますが自身の弱さに甘えない様にして出来る限りの行動をする事から始め、維持出来る程度の行動こそが求められます。社会は短期間で社会に適合しなければ排除される様には組まれず、また、私達の生のサイクルが短期間で社会に適合しなければならない根拠を成立させません。私達は例え今回の一生で求められる基準に到達出来なくとも、幾世代をかけてもその性質を改善して向上させ、やがて求められる基準に到達出来る可能性を残しています。しかしその可能性は自身が能力を向上させる可能性がある前提で成立しそれ故にほんの少しでも自助努力により最善を尽くす行動が求められています。
社会人格というかつての能力のある者達が作り上げた法人格から見て私達個人は子供の様なものです。子供が求める行動が出来ないからと言ってすぐに切り捨てる親は少ないでしょう。しかし子供が何の努力もしないなら親は子供を叱りつけるし罰も与えるでしょう。親は子供が自身で生きていける様に導き、子はそれに応えていつか求められる基準に到達する様に努力する。そしていつか求められる基準に、自身の知性を高めて知識とその整合性を得て基準を達成出来るだけの条件を満たし到達する事を願うのです。
しかし私達はそう行動出来ません。ほとんどの者は個人として民衆などの大多数側にいますがそれは同時に大きな権力を持たない事を意味します。生活の不安や保身の為にここでの話にある様に日和見的な態度を取る事で死へと結びつくリスクを回避しようとします。そもそもが行動の全てが保身で出来ているかも知れません。その場その場で誰かに指摘されて他と区別され集団から弾き出される事を恐れているかも知れません。その行動は誰かの模倣を組み合わせただけのもので何か例外が発生すれば途端に対処出来なくなるかも知れません。しかしそれでも互いが互いの保身の為に指摘せず指摘されない様に馴れ合いで行動出来ている間は何も問題なければ不都合無く生活出来ます。しかしそれは最善の努力を忘れ、社会の維持という義務を忘れ、誰かに依存して発生する問題に受動的になっているだけで本来求められる事は何もしていないのと同義になります。そして実際に問題が発生しても今までの慣習上の結果を使って、時には生贄を捧げてその場しのぎをして『あれは不幸な出来事だった』と感傷に浸ってまたその場しのぎを繰り返すだけかも知れません。
その行動は女性的であり、社会も高度になるにつれ、肉体の性と精神の性が一致する必要がなくなり、だからこそ問題を発生させます。能動的な行動をするという意味での男性的な行動が出来る者は少なくなり、肉体的に男性であってもかつての様に主体性を持って行動出来る根拠を失い、日和見主義と呼ばれる保身を重視した行動を取る様になります。それは状況に合わせて行動すると言えば聞こえは良いですが、状況次第で対応を変えるしかない態度を受け入れており、あくまで自身の行動は受動的であり、女性的である事を受け入れています。
しかしその行動にも一部の利があります。同じ様に保身を行う者や誰かの失敗を悪用して利益を得ようとする者の存在が居る為に、最善の努力をして失敗する可能性や付け込まれる隙を作るわけにはいかず自身は最善の努力を続けたくとも環境が許さない状況が存在します。社会が高度になるにつれ、リザルトセットは豊富になり、かつ整理されなければ混乱し、相手の言葉を都合良く解釈し批判する者が現れ、既成事実を使ってリザルトセットを悪用します。
その状況が慣習化すると不用意な発言も出来ず、また、悪し様に指摘する方法も使えなくなります。相手に相手自身のしている事を分かりやすく伝える方法も出来なくなります。相手がとても酷い事をしていても『お前のしている事は卑しい』などと言えば既成事実を用いて『あの人物は他者にすぐ悪し様に文句を言う』とラベル貼りを行われる可能性があり、付け込まれる隙を与えてしまう様になればその言葉を用いるわけにはいきません。
こうして私達は言葉の効力の半分を失います。今まで『良い』から『悪い』まで全域に情報の変化を示していたものが半分になります。プラスマイナス10の範囲で幅を取っていたとして、それがいきなり半分の0~10までの範囲でしか表せなくなったとすると私達の示す情報の精度はそれだけ低下します。しかも『悪い』側を表現する事が出来なくなり、もし指摘してもどれだけ悪いかを示す事が出来ず、相手によっては酷く悪いものも少し悪い程度に認識して発言の効果が得られない場合も発生します。
例えば『悪い』と発言した時はマイナス5より下を表すとしてそれを発言出来なくなったとします。それでも発言しようとして『良くない』という言葉で代用したとします。『良い』がプラス5以上だったとして、『良くない』はプラス5未満であるという表現になります。そうなると『悪い』という表現以外にも『少し良い』も含まれ正確に伝えたい情報を伝える事が出来なくなります。『少し良い』が0~5の範囲だとして『少しも良くない』と発言したとしてもそれが表すのは0未満でしかなく、『少し悪い』という範囲を含めて情報の正確性を失います。この様に私達の在り方自体が言葉の可能性を減少させます。
そしてこの場合の問題点は言葉を錯覚させる可能性があるという事です。『悪い』状況に対して『良くない』と表現したとして言語の文法上で肯定に修飾すると仮定すれば、『悪いある』と言う発言が成立し、それはつまり、錯覚すれば『良い』と『悪い』の意味が逆になる可能性が生じると言う事になります。こうして私達は言葉の効力を低下させながら場合により錯覚する方法を受け入れる事しか出来ない状況を作り出します。
そしてこの結果を用いて言葉を逆に錯覚させて、行動を間違わせて利益を得ようとする者が生まれます。相手が勝手に間違ったのであって自身は何も間違っていないと言えるならそれが相手の失敗を根拠とした利益の稼ぎ方でも相手を誤認させて騙した証拠がなければ他者に追及される事はありません。
そして更にその結果を用いて自身の悪事を隠そうと世代や時代で言葉が逆になる様に徐々に変化させて罰から逃れようとする悪人が生まれます。例えばかつての伝説や逸話において、悪事を働いたとされる悪人の行動を『悪い』と記していても、『悪い』という言葉の指す意味が『良い』と逆になっていれば後の時代でその悪人の悪事を指摘する者も居なくなります。そうなればリスクを回避する為に教訓として悪いものを教える事はあってもわざわざ必要もないのに良いものをあえて教える事はありませんのでやがて風化し誰もその悪人の悪事を語るものはいなくなり、事実上その悪事が成された記録が消える事になります。そうなれば、かつてもし自身の血統が行った悪事であっても責任を取る事なく、罰を受ける事なく逃れる事が出来、悪人は益々悪事を止める事はなくなります。
この様に付け込まれない為に話術というものは必要ですが、その用法においてそこに私達の不完全さが作り出す根拠がある事を忘れてはいけません。どれだけ話術が巧くなろうとその根底にある間違いは消えません。話術が優れていて能力があると自負するならまず『良い』も『悪い』もどちらの表現も的確に使いながらしかし悪用する者がいない社会を作り出してから的確に言葉を使って能力を示す必要があります。そう出来なければどれだけ巧みに言葉を操ろうとも、自身を含めた社会が本当の在り方を実現出来ない状況での巧みさであり、求められる最善の状況とは常に違う状況でしかありません。」
エールトヘンは締めくくる。
「貴族とは民衆の到達する基準を示すモデルに成れるように行動する必要があります。その為には高い知性と能力を必要とし、それを得る為により高い最善の努力が求められます。無理をする必要はありませんが怠けて良いわけではありません。苦しいと思う時は、自身が共に居たい者を思い浮かべてください。その誰かが居ればその誰かと一緒に居られる世界を作るための努力だと思えば苦にならないかも知れません。勿論最終的に貴族の求める高みは誰かと一緒に居たいからという誰か個人に偏りを持たせた世界を作るのではなく、配下に居る万民全てに平等な客観的な基準で形作る世界です。その為にもさあ、今日も頑張りましょう。」
とある戦争の時に攻め手になる国で反戦を訴えた女性歌手がその後に「マンイーター」という曲を出す羽目になった事実がある世界です。何とも美しい世界だと思いませんか?
今の世の中、「合理的」の言葉の使い方はあえて間違えて使われます。その言葉が正当性を与えるからですが、そもそもが私達が生きていくために必要なルールやモラルを詳細に明文化出来ない為に曖昧な状態にある法律や制度において、法律や制度に効率を重視して合致したからと言って「合理的」なわけはないです。合理とは『理に合致した』という意味であり私達が生活するためのシステムが私達が生きていく為に必要な条件から作り出されたルールやモラルを欠落させた状態で『合理』なわけはありません。私達の理に、私達の性質と形質に合致したシステムである事が「合理」の最低条件です。しかしそれを解き明かした者も居らず、また、解き明かされては悪用する抜け穴や死角がなくなるので解き明かされない様に形作られる、そんな世界が現状で存在します。
-->そしてこの場合の問題点は言葉を錯覚させる可能性があるという事です。『悪い』状況に対して『良くない』と表現したとして言語の文法上で肯定に修飾すると仮定すれば、『悪いある』と言う発言が許され、それはつまり、錯覚すれば『良い』と『悪い』の意味が逆になる可能性が生じると言う事になります。
<--だからアニメで「良いアル」なんて発言がされます。そういった所から悪人の作りたい世界が作り上げられているという事になります。本人がそれに気づかないとしてもそれを咎めずに自身に都合の良い発言だから放置して自身の欲しい世界を手に入れ、自身の欲しい世界を作るには不都合な発言は黙らせる、というのがセオリーです。
最近「U〇A」というオヤジくさい曲が人気があると誇大宣伝されています。実際に人気がなくとも国や権力者の意向でさも人気があるかの様に宣伝される事があります。その時に同じ利害関係者としてサクラが大量に導入されるのが良くあります。なぜこの曲が今人気がある事になっているかと言えば、どこぞの国の影響力が低下してこの国の位置的に以前と同じ様にどこぞの国の影響力に頼る事が出来なくなってきたからです。ではなぜそうまでして影響力を残そうとするのかと言えば、彼らがかつてしてきた行いがあります。大多数の側、権力者の側に立って、少数を、弱者を踏みつける様に快楽を貪って来た彼らは、今度は自分達がその迫害してきた弱者の側になる事を恐れます。なぜなら、かつて自分達が相手が弱者だからという理由で行って来た行動を、今度は自分達で受け入れる事になるからです。自分が相手にしておいて、相手からはされるのは駄目だと主張しても都合の良い話で受け入れられるはずもありません。そこに錯覚なく、間違いなくしてきた行為行動であれば、誰もその者を庇おうとはしないでしょう。彼らには今、彼らの為のガブリエルが見えるでしょう。だから彼らはこう言います。「争いからは何も生まれない。許し合う事こそが大切なんだ」と。自身は相手を加害して利益を貪った後に、自身は相手からの同じ加害を逃れようとする、その場その場の状況で都合の良い結果を求めてリザルトセットを悪用する典型的な例です。




