S091 銭の力で倒すのも考え物
ヘイジーは計画を建てた。周りにうだつの上がらない警官だと言われ続けてもう20年。そろそろヘイジー自身も周りからのいわれのない扱いに思う所があった。ヘイジーとて頑張っているのだ。もう少し皆に褒められても良いはずだ。いつも見回りお疲れ様、とか声を掛けられても良いはずなのだが一度もそんな場面に会った事はなかった。ヘイジーはそんな場面の同僚を見る事はあっても自分がその場面の中心に居た事はなかった。
だから、皆にはもっと自分を見てもらうために計画を建てた。とても簡単だ。
盗みをした犯人を現行犯で捕まえる。ただそれだけだ。
それを見た皆はヘイジーを褒め称えるだろう。その日からヘイジーはちょっとしたヒーローになるだろう。元々そうでなければ頑張って来た甲斐がないのだ。
そうやって今日もヘイジーが思っていると叫び声が聞こえた。
「ひったくりだー!誰か捕まえてくれ!」
ヘイジーは待ってましたとばかりに飛び出し犯人を追いかける。ヘイジーが現場に駆け付けると逃げる男とそれに怒鳴る男が見えた。運良くヘイジーは逃げる男の前に飛び出した様で、逃げる男もヘイジーの登場に驚きはしたが気にせず突っ込んできた。ヘイジーを押しのけようとする男をヘイジーはヒラリを躱しつつ足を引っかけると突っ込んできた男は綺麗に転がった。転がった男はなんとか態勢を整えて逃げようとしたがそうはさせじとヘイジーは組み付く。
ヘイジーと男は揉み合いながら倒れ込むと男がヘイジーに小声で話し掛けた。
(ヘイジーの旦那。約束は守ってくれるんでしょうね?)
その言葉にヘイジーは驚きつつも苦い顔をして答える。
(今話すんじゃねぇよ!聞かれたらどうすんだよ!?)
そんなヘイジーの焦りも気にしないで男は続けて話す。
(いや何。ダンナ。ちょっとうちのカミさんが出来ちゃったようでね?報酬多く弾んでくれないと捕まって上げられないなーなんて。俺もカミさんに良い服とか御馳走とか買ってやりたいんですよ)
ヘイジーは押し倒した男の上に馬乗りになり胸倉をつかみ上げて顔を近づけ、睨みつける様に話す。
(分かったよ・・・。2倍にしてやるよ。後、出所するまでカミさんの面倒は見といてやる。どうせ数日から数週間だ。ちくしょー!?俺の懐に穴が開きやがる!これでどうだ?うん?)
「あたた!参った!降参!降参!」
馬乗りされた男は大きな声で叫んだ。様子を伺っていたひったくられた男や何事かと駆け付けた野次馬達は抑え込まれた男がどうやら大人しくなったと分かり、騒がしかった雰囲気も静まりちらほらと解散し始めた。そんな中、大人しくなった男をヘイジーは手錠で拘束した後に、ひったくられた男に満面の笑顔を見せてこう言った。
「ご安心ください。悪者はとっ捕まえました。奪われた物もこちらに。すみませんが後日でもいいので詰め所で事情聴取させて頂けますか?いつでも構いません。」
そんなヘイジーのにこやかな笑顔を見ながらも不審そうな顔つきでヘイジーを見る被害者は曖昧な返事をして立ち去った。
その後ろ姿を見てヘイジーはシメシメと思う。後で誰が事情聴取してもヘイジーの手柄をあの被害者が皆に申告してくれるのだ。そして今日の捕り物劇を見た野次馬もヘイジーの噂を流してくれるだろう。これでしばらくはちょっとしたヒーロー扱い間違い無しだとヘイジーはにやけそうな顔を引き締めつつひったくり犯を引っ張って詰め所に戻り、牢屋に丁寧にぶち込んだ。
牢屋に入れられたひったくり犯は牢屋に入る時、ヘイジーに言う。
「旦那。ちゃんと飯も出してくださいよ?約束破ったら全部話しますからね?」
「わかってる、わかってる。飯はともかく差し入れしてやるよ。軽いのと改心してる振りがあれば2週間ってとこだ。大人しくくつろいでくれ。この街は平和で牢屋にはあまり人が居ないから暇だろうけどな。」
「いやいや、誰か居ても居心地悪いですから。俺はカミさんへの土産でも考えてゆっくり過ごしますよ。」
「ああ、そうしてくれ。じゃあな。」
ヘイジーは牢屋を後にした。
そして1日後、へったくりの被害者が詰め所にやって来た。最初見た時は一体誰か分からない服装をしていたがたまたま詰め所で休憩中のヘイジーを見つけて「事情聴取に来た」と言ってようやくヘイジーにもそれが昨日の被害者だと分かった。
話を聞くと犯行自体は極普通のひったくりなのだが、被害者がとある貴族の従者だと分かったからさあ大変。昨日はたまたま買い物を頼まれて普段歩かない場所を歩いていたそうで、運悪くひったくりに遭い、そしてひったくられた物が貴族の命令で買って来たさして値段は高くないが珍しい置物だったそうだ。しかしその置物にわずかに傷が付き、新しい物が入荷するのはかなり先になるので貴族がカンカンに怒っているそうでヘイジーはその話を聞いて背筋が寒くなった。そんなヘイジーに男はこう言う。
「あの犯人には厳罰を処す様に要請します。当家に喧嘩を売ったのです。舐められたままでは他の者に示しがつきません。それとヘイジー・ゼニグァータ殿を夕食に招待したいそうです。当家の名誉を守ってくれた方をもてなしたいと仰られていました。ご都合のつく日がありましたらご連絡ください。では私はこれで。」
そう言い残して男は帰って行った。その後ろ姿を見ながらヘイジーは呟く。
「あ、これ、アカンやつや。」
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。欲しい結果を得たいが普通に待っていては中々起きないから自作自演で状況を作り出して欲しい結果を得るという事ですね。」
「概ねそう。」
「これも既成事実を得るという方法になります。既成事実そのものに善悪はありません。最も私達が慣れ親しんでいる既成事実は習慣です。かつて誰かが行動した結果として良い結果を残した若しくは残しやすい行動を集めたものが習慣になります。決められた時間に起き、決められた時間に寝る。定刻通りに食事を取りリズムをつくり、怠惰な状況から脱却し生活の向上を図る目的で習慣として利用します。その根本的なものとして私達が普段行う行動も既成事実だと言えます。物を食べる事も歩く事も以前に成功したからこそ、その結果が得られる事が分かっているから行動しようとします。もちろん傷んだ食べ物を食べた事もあるでしょうから注意するでしょうし、間違えば落下して怪我をする場所を歩く場合にも注意するでしょう。それらの行動は過去の失敗例から対処する方法を知り、失敗する確率を下げて安全だと言える状況にしてから行動する方法が選択されます。身近な行動程、失敗例も多く、また、体感できる為に行動した結果が予測しやすいものになります。
しかし、知性の低い者は与えられた環境が当たり前だと思っているのでどの様な行動をしても環境を壊す事がないと思い込みがちで、モラルやマナーがなぜ存在するかを自身で考えた事があまりなく、モラルやマナーがなくなればどの様な結果を生じさせるか、つまりは知識として得たモラルやマナーが現実とどの様な関係を持っているかを知らない為にしばしば間違った行動をします。
この話にありますように、元々のリザルトセットにある原型は、盗みを働いた者を捕まえる事で周囲から褒められる、認められるといったものです。その結果が欲しい為にあえてその結果が得られる過去の事例を探し、その形を真似る事で同じ結果を得ようとしていますが、そこにモラルやマナーがなく自身がどう間違っているかを理解出来ていません。形だけは同じなので、周囲がそこにある悪意に気づかないなら同じ結果を与えてしまう可能性があり、そうしてしまうと更に似たような事を他でもする様になるかも知れません。
保護者に守られ社会のルールに従って行動し、間違っても怒られるだけで済み、怒られなければしても良いと思って行動してきた者が成人年齢に達した後に今までと同じ感覚で行動する場合に良く生じ、もはや誰も自身の行動を律してはくれないにもかかわらず、心のどこかでまだ甘えたまま「少しだけ」という感覚で行動してしまいます。元々ルールに従っていれば良いと思っているだけでなぜルールが決められているかを考える事もないので、ルールの根拠を知らない為に何をしてはいけないかが良く分かっておらず、ルールに応用を効かせようとしてルールそのものを破ります。そして罰せられればしてはいけないという結果を得て、罰せられなければしても良いと思い、その繰り返しによりルールという基準が示すラインを越えても罰せられない範囲を経験で得て、その差で優位になり競争に勝とうとします。罰せられない理由が単に個人をそこまで管理出来ないからという理由である事にも気づかず、ルールが決めたラインがどの様な条件を成立させる為に決められたのかには注意しません。
そして話の様に、気づかれなければ罰せられないという根拠を元に、欲しい結果を得る為に既成事実を得ようとします。更に悪質になると、気づかれても罪を立証する証拠を残さなければそれが非合法でもしても良いと思う様になります。
そうして、証拠を残さず非合法な行動をするにはどうすれば良いかを模索する様になり、また、合法でも瑕疵を見つけて行動して、競争を優位に進めて勝とうとします。こうして知性を向上させていく為に、ルールを守る善人よりは知性が高くなる傾向はありますが、以前に言いましたように、知性の高め方がズレています。その知性は法律やルールの瑕疵や既成事実を捏造する為にはどうすれば良いかという、既にある結果一つ一つに対して行なわれます。欲しい結果を中心にどうすればその結果が得られるかのみに知性を伸ばし、欲しい結果を得る為の幾通りもの方法を考えますが、それら個々全てに一貫性がなく、その状況だけを見れば不自然な点はないかの様に見えますがその前後を含めて考えると矛盾がある行動を取る事が多くなります。知性が高くなるにつれ、その状況の前後の整合性は増しますが、それでも欲しい結果を中心に考えている為に全体の整合性には注意しておらず、大きな規模での知識の整合性が必要になるにつれ、矛盾が徐々に浮き彫りになってきます。結果としてその様な人物の行動一つ一つは整合性がなく、ケース毎に主義主張を変えて一貫性がない事が分かります。しかしそれを指摘出来るだけの知性と知識の持ち主も、相手の知性の高さに比例して少なくなり、そしてその指摘はそもそもが難しいものです。
これも以前から言っていますが、相手の主張の間違いを見つけ出すには相手の主張よりも少なくとも1つ上の次元で問題を捉えて考える能力が必要になります。その結果から生じる影響や他の問題から生じる制限などを知っていなければ矛盾の指摘が難しいからです。そして一番の問題は、社会を維持発展させていこうとする者は、法律やルールの瑕疵などを追求する暇もなく社会をどの様に運営すれば正常に機能出来るかに自身の思考の焦点を当てているので、そういった悪人の主張の矛盾を指摘する準備が出来ている状況は多くありません。言うなればある専門分野の研究者が他分野の研究者の主張に間違いが無いかを調べる事と同じです。普段からその分野についての造詣がなければその主張の巧妙に隠された矛盾点を暴く事が出来ません。
もしそうなれば、社会を正常に機能させようとする側は、正常に機能させようとする為の思考だけでなく、悪人が社会の持つ欠陥を悪用して利益を得ようとする方法についても思考する必要が生じ、また、その対策にも考えを伸ばす必要が生じます。
しかし個人の能力には限界があります。また、悪人が善人より能力が低いとも限りません。善人が悪人の悪人に都合の良い主張の矛盾を指摘しようとすると、既に問題が既知であればその事例を知っている必要があり、事例がなければ論理立てて説明出来なければなりません。そしてそれは社会を正常に機能させようとする思考を主として、その余りとなる余裕で行わなくてはなりません。
社会を正常に機能させる為の思考は、社会を維持するためのルールという条件を保ちながら社会活動を定義していく方法になり、全体の整合性が優先されます。それに対して、その場その場の状況に合わせて最も効率の良い行動を求める方法は必ずしも社会活動として厳密に成立していなくとも良くなります。
これは概念定義が完全でない為に生じ、全てが解明されてからでなければ厳密に定義出来ない瑕疵から生じています。
例えば『あの丘の向こうまで桶一杯の水を運ぶ』という指示があったとしましょう。丘、向こう、まで、桶、一杯、水、運ぶ、の概念定義それぞれにあいまいな部分を生じさせます。丘とは何か、向こうとはどこからどこまでなのか、桶とは何か、一杯とはどれだけの量か、水とは何か、運ぶとはどういった事か、など曖昧な部分があり、個人差によりその解釈は変わります。知性の差により定義の精度が高い者も居れば低い者もいるでしょう。そして定義した者に比べてその定義を与えて貰い運用する側はそれを定義した者程の知性の高さがない場合がほとんどです。あからさまな解釈の間違いは指摘を受けますがそれ以外はどうでしょうか。普段用いられる桶より小さい桶を選ぶ。それが罰せられなければ楽が出来、そして運ばなかった分の水は自身で使っても気づかれる事はありません。運ぶとは何か、という部分で誰かに代行させてしまえば丸々楽が出来ます。一杯とは何かという部分でわずかに量を減らしてしまえばその分だけ利益になります。この様に概念定義は完全に定義される事はなく、そして完全と言える程に定義すれば厳しい規制になり、実行出来る者を選ぶために完全に定義される事は特別な状況以外ではありません。概念定義とはそれを運用する側の知性に合わせて定義され、その知性が低ければ低い程に曖昧な定義にするしかありません。覚えられない定義セットを用意しても使われる事もなく、無理に使おうとすれば失敗ばかり生み出します。
その為、例えば『運ぶ』であれば、石を運ぶ、水を運ぶ、武器を運ぶ、料理を運ぶ、などの『運ぶ』という定義で一括りにしてその解釈に幅を持たせています。逆に言えば運ぶという曖昧な定義でもそれを補完する方法を用いれば問題なく運用出来る事になります。水を運ぶのならその器を厳密に定義する、料理を運ぶというなら冷めない時間内に運ぶなどの条件を付加する事で補完出来ます。
しかし同時に『運ぶ』という定義には色々な解釈が出来てしまう事になります。料理を運ぶと聞いて料理の定義が曖昧なら一部を食べてしまうかも知れません。それでも『料理』は『料理』です。運ぶ方法も運ぶという定義が客席に到達しさえすれば良いのなら投げてしまうかもしれません。しかしそれらを失くすために厳密に定義したとして、石をAする、水をBする、武器をCする、料理をDする、と定義をした所でそれらを覚えられるとは限りません。一つでその様に対応するという事は他も全て同じ対応をするという事です。それらを覚えられるのならそもそもが元の定義でもその根拠やルールを熟知して行動出来るはずです。
厳密に定義する事は実行出来る者を制限しますが同時に効率を上げます。一度にやり取りできる情報量を増やしているからで、その違いを理解できない者を切り捨てる結果になります。しかし競争に勝つ為に、そしてより効率良く行動する為に行われます。
この様に、社会で使われる概念セットは曖昧な部分があり、そこに解釈の違いから瑕疵が存在する場合があります。ルールを定義する側の使っている概念セットとそれを運用する者の概念セットが違う為にそこに解釈の違いと精度の違いがあり、その違いがルールや法律の死角や抜け穴を生み出します。先程の例で言えば『運ぶ』という行為についてどこまでが『運ぶ』でどこからが『運ぶ』ではないのかの定義が個々人の解釈で微妙に違う場合があります。簡単に言えば数字の端数を四捨五入するか四捨するか五入するかの違いだと言えます。誰かにとっての『運ぶ』は『片手で雑に』運ぶのが基本かも知れませんが別の誰かにとっては『お盆に載せて両手でお盆を持って』運ぶのが基本かも知れません。しかし、それが用いられる状況次第では問題ない行動になります。いわばその状況とセットだからこそ許されるものだと言えます。
この解釈の違いを悪用して相手に責任を押し付ける方法もありますがここでは割愛します。
簡単な例えでは料理を考えて見ましょう。材料を調理しやすい様に切り、煮込んで加熱処理し、味付けをする方法を考えます。まず材料を切る時に、面取り及び煮込みやすい大きさに切らずに雑に切ったとしましょう。そして煮込みますが充分に火が通らない内に加熱処理を終えたとします。更に味付けも分量をさして考えずに味付けしたとすると恐らくはまずい料理が出来上がります。これはそれぞれが雑な基準で行動を定義しているからです。料理として求める基準に達するには材料を煮込む時に適した大きさに切り、面取りをして煮崩れを防ぎ、煮込む時には煮込み過ぎず生煮えにならず適度な時間をかけて、味付けもどの段階で行えば良いかを適切に対処する必要があります。料理においては材料段階での下味付けや煮込み段階での調味料による味付け、その上で最後に香辛料などの追加処理を行います。それぞれの手順から見た方法が全体の目的に合致していなければ問題になるケースです。
では3つの手順を別々の人物にさせたとします。それぞれが連携を考えずに行動するとどうなるか。材料霧は材料が切れていれば良いと思えば煮込みを考えずに自身の切りやすい大きさに切っていきますし、効率重視なら形も不揃いで面取りもしないでしょう。それを次の手順である煮込みに渡すと問題が生じます。不揃いの材料を煮込むと煮崩れと生煮えが起きる可能性があるので、煮込む時間を変える為に同じ大きさの材料をまとめて煮込む事になります。また、面取りしていないなら角から煮崩れするので繊細な煮込み時間の調整が要るでしょう。しかしそれでも雑すぎるとどれだけ煮込み時間や火力を調整しても煮崩れを避けられないでしょう。そしてこの煮込みについても味付けの事を考えないなら最後の手順の味付けでは最早味付けが出来ない状況というのもありえます。煮込み料理については煮込む段階で味をつける事が多いのでここで最終的な味になるように調整する必要があり、味付けは最後の担当に任せると言った考えで雑にしてしまうと、最後ではどうやっても調整しきれない味になる可能性があります。
この様に、それぞれがそれぞれの効率のみを考え個人の利益を最大に考えると全体の整合性がなくなり効率が低下します。結果としてこれが商売ならその料理店は売り上げが落ちるでしょう。この時、材料を切る担当は、自身が材料を煮込みに適した大きさに切る事が個人の効率を低下させる要因なので嫌がり、煮込みは加熱処理に問題がなければ味付けを気にしなくて良いから繊細な味付けを嫌がり、それらの不都合は全て最終過程に押し付けられています。最後の味付けでも味付けだけすれば良いのなら客の満足度は関係なくコストや効率重視で味付けするでしょう。嫌がった作業や配慮をしなくても、定義があいまいなら雑に行動してもその担当の作業をこなしている事になります。
社会で役割分担するという事は一つの結果を得る為に手順を分けて分担するという事です。それぞれの役割を理解していなければ自身の役割だけを見て効率を考えて作業し、自身の手間を省き材料費も削減しますが、それが他にどれだけの影響を与えているかを考えない事と同義になります。先程の例では、材料切りの手間を省いた影響が煮込みへと影響しているのが良く分かります。また、下味付けなどがあったら最後の味付けで調整する段階でより品質の高い味付けが出来るでしょう。
では社会の中で関係が密接ではない者達による役割分担に連携はどれだけ期待できるでしょうか。競争の名の元に、個々の効率を考えコスト削減し効率を求めるとそれぞれの役割では効率が上昇していますが、それは全体の整合性を考えずに行われ、結果として全体の効率が低下し実績に悪影響を与え、現在の効率が良いとされる方法よりも以前の効率が悪いとされた方法の方が良い実績を残す事が出来る結果へとつながります。個人の利益を最大限に求める方法はそれが単体で完結するならともかく全体の中の一部であるなら全体の利益と合致するとは限りません。以前に団体競技の例で言いましたように、各役割を理解して連携しないと実績も良くならず、また、監督の意向を理解しないと目標に合わせた行動も出来ないでしょう。競争を理由に速度を優先して資源を多く消費するのが良いのか資源を優先して速度低下を受け入れるのかと言った判断を個々が行うと全体としての品質に影響が出ます。速度で早いとは言えず、コスト削減で効果があったとは言えない中途半端な結果になるでしょう。そのバランスでの実績を求める事もありますが状況次第と言えます。
しかし、社会の中に居てルールを与えられる側はルールを作った側と同じ知性を持っている事は稀でそのルールがなぜ取り決められているのかを良く理解しても居らず、また、ルールを作った側と同じ精度で行為の定義を持っているわけではありません。そして気づかれないなら、罰せられないなら多少のルール違反をしても良いと思っているなら、個々の状況で個人の利益を最大限にする事を優先して自身に都合の良い結果が得られる行動を、リザルトセットの中にある多くの結果から抽出するでしょう。結果として本来その役割でやるべき事も他の役割へと押しつけ、そしてその役割で行わない為に他の役割では多くの手間を生じさせても自身は役割を果たしているから無関係だと主張する様になります。
こうして、小さな違いを持つ多種多様な価値観の概念が生じ、それらは罰せられると言うわけではないが厳密に言えば好ましいとも言えないものであったりし、ルールを定義した側が少数に対し、運用する側は多数である事から誤解を生みだします。その解釈の持つ幅をリザルトセットから学び、個々の状況に合わせて組み合わせる事で自身の欲しい結果になる様に調整しようとする者が現れます。
その調整の仕方に問題があり、誰かの良い点を見習って改善するなら良いのですが、あえて間違った例を見習って真似、利益を得ようとする者もいます。間違った振り、知らなかった振り、味方の振り、敵の振り、第三者の振り、正直者の振り、善人の振り、へりくだる真似、媚びる真似、怒る真似、笑う真似、泣く真似、さまざまな間違った行動が生まれます。
それらの行動は本来なら無い方が良いですが、それらの行動から生み出される悪事を周囲に知らせるには役立つ場合もあり、悪事として演技が使用される為に、その悪事が起きる事を忘れない為に間違った行動である演技を行って社会の維持をする事になります。
リザルトセットの、過去の教訓の間違った使い方で生じる個人の利益を最大限にする行動は社会の利益と一致するかとは関係なく、その個人の知性の低さを補う形でルールやモラルが決められていますが利益を得る為に、快感原則に則って少しずつルールを破る様になり、その行動は本来あるべき社会活動とはズレていきます。分かりやすい例は利権です。本来利権とはあるべきものではなく、私達の不完全さ、時間の制限や資源の制限により受動的な行動を余儀なくされた時に純粋な能力による競争の結果ではない基準での選択が発生し、それが習慣化して利己益を生み出す為に使用して良いものだと思われています。理由が要るなら作れば良いと考え、時間の制限があれば自由に選択出来る範囲が増え、付加価値が生まれる選択をしても良いと考える様になります。これもリザルトセットの中から自身に都合の良い結果を抽出してその欲しい結果を得る為に行動している事になります。
結果として、社会の維持は困難になります。元々、役割分担とは、それぞれの専門分野をそれぞれが健全に維持する事で高度な社会を維持するのが基本になりますが、そのそれぞれの部分で重大な違反が生じる為に、全体として維持出来なくなります。ルール違反する一人が生じ、それを真似る者や同じ様にルール違反する者が生じ、その差を用いて競争に勝ち生き残り数を増やし、全体が劣化します。その集団が一部を成し、精度を下げますが役割分担によりすぐには分からないか気づけないままに違いを判別出来ずに社会は継続しその違いから損失を出し続けます。
集団を大きなマトリクスの一部のサブマトリクスとして変化があったとします。そのサブマトリクスを構成する集団は自分達が変わったと認識出来ておらずに以前と同じ活動をしていると思っていたとしても、それを含む集団からすれば変わってしまっている為に以前と同じ状態を維持出来ません。また、認識していてもそれが以前までとほぼ変わらない程度だと認識していれば実際にその影響が大きくても行動を変えないでしょう。そして最も問題なのは、自分達のその「ほんの少し」ルール違反した事実が影響を与えないと思っている場合は、自分達以外の場所で同じ様な違反が起きていないと錯覚しています。するとどうなるかですが、3×3のマトリクスがあったとして、その一つ一つのマスが集団を表したとします。その一つが以前と変わり1から0.9の実績になったとします。しかし全体への影響は小さいとします。実際には9が8.9になった程度です。しかし、そのマス全てが同様に考えていたらどうでしょう。実際には9が8.1になってしまいます。しかしそのマス一つ一つの集団の認識ではまだ8.9のままでそれほど影響がないと思い込めるのです。規模が大きくなるほどにその微差と考える量は大きくなり続けます。ここに構造の欠陥があるのですが、小さい規模での成功体験に従い、考える事なく予測して行動する結果、常に個人から見た世界の状態と全体の総量から見た世界では不一致が生じます。
そして、社会の高度さはその自制が効かない状態では、「止まれない経済」に代表される様に不自然な程に高度を増します。そうするとその誤差は大きくなり、誰かを殺せるだけの誤差になり、その誤差の押し付け合いが始まります。
社会とは役割分担をする事で高度さを増しますが、自制出来ない状態で高度さを向上させていくと、能力の限界まで向上させる事になります。そしてその限界とは、収拾がつかなくなる一歩手前になります。その際に、トップから末端までの役割のこなし方が問題になります。トップは高度さを向上させる中で、小さな条件まで把握出来なくなってきます。全体のマトリクスの荒い条件を定義し、また、厳密な定義をスナップショットを扱う様に定義します。この時点で全体のマトリクスの次元を下げているとも言えます。しかし荒いマトリクスの内部のサブマトリクスの定義はしており、そしてその配下はその荒いマトリクスの内部のサブマトリクスの定義を維持する様に行動して、全体として精密なマトリクスを維持する方法が現在の役割分担を用いた社会構造になります。つまり末端の者の役目は社会が維持出来るように与えられた定義を維持出来る様に努める必要があるという事になります。
しかし、先ほどから言っています様に、その状況に合わせて利己益を得ようとし与えられた定義であるルールやモラルから違反しようとする者はその本来あるべきスタンスを取る事はありません。するとその人物の属する集団からトップの描いたマトリクスとは違う状態へと遷移してしまい、先ほど言いました誤差を生み出し社会は争い混乱する事になります。小さな規模では誰かが多少損をする程度のものでも大きな規模ではその損失は誰かを殺すだけの量になる可能性があり、誰もが破滅から逃れる為にルールを破る可能性があり、更に社会は混乱していきます。そして元々が限界ぎりぎりで収拾のつかない状態になる一歩手前であるために、簡単に収拾がつかない状態へと遷移し、それだけ不安定だという事になります。
そして同時に、そのトップがその立場になるまでに行って来た行動がその配下の行動を決める要因にもなり、自身のしてきた事が現在の状況を破綻させる行動であった場合、自身はかつてのトップを破綻させる事で立場を奪った事になり、また、自身がその立場にいる状況で配下も以前の自分と同じ行動をしますが正論を用いて正す事が難しくなります。」
エールトヘンが締めくくる。
「以前も言いましたように、上の立場になろうとする時は、計画を建てた段階でその立場になった時にどの様な状況なら正常に機能するかを考えて上の立場になる前から行動する必要があります。上の立場になり強権を用いて批判する者を黙らせれば一時的に問題ない様に見えますが、その対応を見た配下はそれを真似て良いと思うでしょうし、被害した側も表面的には従っても内実は従いません。その時点でその者が上の立場に立った時から状態は変化しており、後は変化した状態に合わせて状態が変化するのを待つだけになります。ですのでお嬢様。上に立つ者として、その考え方から自身の在り方を目的に合わせ、利己益を求めすぎるのではなく目的に合った行為行動をする様に心がけてください。貴族とは社会の維持向上を目的に考え方を特化させた者とその血統です。その意思を受け継ぐ事が出来る様に、さあ、今日も頑張りましょう。」
かなり前になりますし、被害者の事を検索して傷をほじくり返すような真似をしたくないので概略だけにしますが、過去に、似たような手口で殺人事件に至ったものがあります。被害者の女性を数人の男が取り囲み脅す状況に一人の男性が助けに入ります。そして助けに入った男が取り囲んでいた連中を追い払い、女性に感謝されます。その後、どの段階か知りませんが女性が男の家に行くと、取り囲んでいた連中が家で女性が来るのを待っていた、という話があります。その後女性は監禁されている間に死に、死体遺棄した後に発見され、男達は捕まったという顛末です。
どこぞの歌詞に「華のお江戸は 八百八町」とありますが、八百の意味を知っていれば意味深ですw。分かりにくければ、町を長に変えて2つ目の八を抜けばわかるかと思います。
これはあくまで個人の意見として捉えて貰いたいのですが、前話で書き忘れてしており、弁才天は言語の才能、ではありません。天部の一のサラスヴァティーさんは、社会全体の制御の才能の持ち主を意味します。今で言えば経産省が天部の一、と言ったところでサラスヴァティーさんはそこのトップ、という位置づけでしょう。女性、男性の部分はセックスではなくジェンダーとしての女性という意味で、受動的な立場にある存在という意味です。凹凸の凹の部分という意味です。経産大臣が凸です。社会の流れを水に例えて、形で表して知性の低い者にも分かるようにしている、という事です。
サラス=水、ヴァティー=それを見る者、です。ヴァティーについては個人解釈なので疑問を持ったら個人で調べてください。
七福神と言えば弁財天さんです。しかしその前はその位置には吉祥天が居たとされます。功徳天と言われる吉祥天は、その名の通りに、ルールを守っていれば社会が豊かになってその恩恵が回り回って利益として齎されますよ、と説きます。弁財天はもっと直接的で、今で言えば、不景気なら景気対策として雇用対策や規制緩和などの方法を行い目に分かりやすい対応をします。どちらに人気が出るのかは分かりやすいです。貰えるのかどうかわからないものより直接に貰える可能性がある側を崇めるのが人間です。そして七福神は吉祥天から弁財天にメンバーチェンジされます。しかし雇用対策や規制緩和はカンフル剤でしかなく、何度も使えない手段であり、根本的な原因が解決されない限り意味はなくその場しのぎの対策になります。そして行えば行う程に効果がなくなり、やがて効き目を失います。
ここでの要点は、つまり社会を成立させる個々の行動は既成事実を基に報酬を成功する信用を得ているという事です。つまりは報酬の事前確定を行っているという事です。実際にはまだ結果が出ていないから払うタイミングではないが過去の結果から確定して良いだろう、という推測の元に行なわれます。つまり、そこの根拠となった過去の事例と状況が違うなら成功しているかどうかは分からず、報酬を得てよいかも不明になり、事前の報酬を得るのは正しくない状況になるという事です。だから社会が不況になっている状況はどこかで根拠が失われているという事です。根拠のない行動で報酬を得ているのだから足りない分で誰かが損をしないと駄目になります。根拠のある行動をしているつもりの一般人の集団が実際には根拠のない行動を取る事で、結果から生じる次の状況はそれまでより収入の根拠のない、総量の減った状態になります。勿論総量を減らすのは悪人の悪事もあります。だから、元々その規模により報酬の受け取りは遅延した結果が反映されて確認出来た時に行なわれていました。ですが小さい規模、つまりは個人の規模で行ったものの反映は多くの参加者の行動の結果なので分かりづらく、また報酬を払わないと飢えて死ぬ可能性もあるので、すぐに確定して払われる様になっています。その習慣に従っていただけの人物が権力を持つと、大きな規模の計画でも、既成事実として過去の事例があるから行動が済めばすぐに報酬が貰えると錯覚し、そうなれば後の事など考えずに表面の結果だけを見て行動する様になります。
こうして、悪人が大好きな頼もし講の考えで社会が作られます。国の形の悪用と言えますが、皆が生活を向上させる為に集めた資金を一部の者がさも全体の利益になるかの様に装って自分達の利益になる様に計画し、利益を得られない為に脱落する者達は切り捨てて生存を図る、弱者の卑しい生き方が行われます。これを皮肉を込めてスペースシャトル方式と言います。到達するゴールすらない状況で都合の悪くなった部分を切り離しながらどこまでも飛んでいこうとする目的を失い、手段のみになった集団という表現です。スペースシャトルは宇宙に到達するために使用されますが、宇宙に到達しただけでは利益を生みません。それは利益を得るための前段階です。そこに利権が発生するのはその実用段階での利益を予測してそれが得られる可能性に対しての信用取引です。ですのでスペースシャトルはスペースシャトルとして利益が得られる根拠を前提に使われなければ実際には利益が出ません。しかし、現在の社会で行われている行動で作り上げられる構造はその利益が得られる根拠のないまま、目的のないままに行なわれているという皮肉です。社会での利益の確定は結果が付随するから事前に確定されるのであって、結果の不安な先物取引で結果を確定して事前に報酬を得て良いわけではありません。しかし、快楽の誘惑に勝てない私達は今日もそれを行います。利権を使えば楽に利益が得られ、その負担は誰かが何とかしてくれると思っているからです。
不況が原因が分からないもの、という固定観念はその為に作られます。誰かの不正で失われた損失だから、全体で調整しなければならず、それはつまり一度得た報酬を返す事になります。そして報酬を多く取ったのは金持ちと言える者達で、返す事を喜ぶ事もなく、また、権力を持つので返さなければいけない状況自体を失くして捻じ曲げてしまえばよい、として作られたのが現代社会です。
というわけで利益を得られる根拠が必要と書いていますが結構無理難題と言いますか至極困難な事です。だからこそ利益の元になると言えるのですが。それを得ずに自分達の中でだけ成立した事にして他者に損失を押し付けて利益を強引に得ているのが現代社会です。しかしこれを指摘してもまず従いません。なぜならそんな事はどうでも良いからです。元々が社会が正常に機能しているかどうかはどうでも良く楽が出来るか出来ないかだけで判断している人物に、その行動が社会に支障をきたすと言っても対した効果は出ません。彼らは個々の場面や状況で最大限の利益を得る事しか考えていないからです。そしてその行動は、その場面や状況に最適な過去の結果を模倣する事で欲しい結果を得ようとするだけであり、個々の状況で使用した主義主張に一貫性はないのが一般的です。その矛盾はその考えをより大きな規模へと押し広げる事で他の概念が持つ根拠と現在の主義主張の持つ根拠で同じとされるものに相違が出ている事で判明するしかありません。しかし大きな規模になった概念の条件と整合性を理解できる者は少なく、そこに悪事を働く余地があります(例えば利息の様に)。




