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S088 マッチ売りの老男老女(後編)

村長の様な村人の様な状態から始め村長になる様に、民主主義者のような社会主義者のような封建性の住民であった時のような共和制の市民であった時のような存在から始めて、知性を育みながら民主主義者になり、民主主義社会の中に生きる個人へと知性を育み成長する必要があるという事になります。

私達は主義思想を変える時、暴動やクーデターもしくは戦争の結果として変える事があります。この場合は既に誰かが実践した主義思想に乗り換える様に主義思想を変える為に、その成立過程を知る事がありません。高い知性があれば考える事により、経験せずともそれと同等な知識を得る事が出来るでしょう。しかし普段からものを考える習慣がなく体感する事で経験として蓄積する者には同等の知識が無いでしょう。しかし新たな主義思想はその考え方を与え知識を与えます。言うなれば、載っている事項が多い辞書もしくは取り扱い説明書を誰の手引きもなくただ渡されて読んで理解しろという状況になります。その辞書を充分理解するには能力が必要でそれが足りなければ足りない分だけ間違った答えを得てしまいます。分からないから従わない、けど利益が出るから根拠は知らなくとも従う、分かる部分には従う、などと言う書かれた内容に対してケースバイケースで対応する様になりその行動は主義思想から外れる事もあるでしょうがそれがその個人の限界であり、個人は保身の為にそれが正しいのだと主張するしかありません。破滅しない為にはそう主張するしかないからです。

つまり急な方針転換ではその新たな計画の基盤が出来ていないのと同じでその基盤を改めて造る必要があります。先程の村長の様な村人の様な状態から初めて村長になった者が持つ蓄積と同じだけの知識を得る必要があり、足りない部分を満たす為に知性を育み、成長した後に与えられた環境に相応しい判断能力が身に付く事になります。


本来なら戦争や暴動の類がない社会において、知性の成熟と共に体制が移行していきながらやがて高い知性の元に構成員の権利が大きくなりその権利が国により保護され、与えられた利便性の恩恵を維持していく為に保護された権利を構成員自らが保護される事が出来る状態を維持する努力をする状況へと辿り着き、そして保護された権利の元に構成員それぞれが互いを尊重し争わない様に主体性を示すというのが民主主義の見る到達点です。

その到達点へと辿り着くための方法として誰かが行った成功例を見てその途中であるが出来上がった形を真似て始めた場合、最初の部分を経験していない為に同じ形を得て知識を与えられたとしても足りない部分が存在してしまいます。ですから与えられた権利が何もせずとも維持出来ると錯覚したり、誤った使い方が出来てしまいます。この様に途中から参加した者は言ってしまえば参加した段階ではツケを持つと言え、言うなれば宿題をこなして能力を向上させる意思があるとみなし、基準に到達する見込みで参加する許可を貰ったと言えます。しかし暴動やクーデターや戦争の結果、そして他者が勧めた主義思想に幻想を見た者はこの宿題部分がある事を理解していませんので知性を育むことなく過ごし争いの要因を作り出します。それを指摘しても自ら見た世界における出来事としての主義思想にはそんなものはないと否定し、それでも受け入れなければならないなら場合により放棄します。


この様にクーデターなどの物理的手段により達成を阻害していた要因を排除して成された主義思想というものは達成された段階ではまだ問題を多く含み、その解決を主義思想を維持しながら吸収しやがてようやく基準点に到達し本当のスタートを始める事が出来ます。こういった物理的手段により正しいとされる状況へと強引に変える手段を"エクスカリバーを振るう"と表現します。

|強制較正[ex-calibration]とは、本来あるべき状態に戻す為に本来は論理を説き矛盾を指摘し相手に自らの間違いを認めさせた後に同意の元にあるべき状態へと変える方法を、相手が何らかの理由により了承しない、間違っている事を知りつつも了承しない、そして間違いを指摘する者を排除する事で指摘されない状況を作ろうとする時に物理的手段を持って行われる方法です。

"較正"とは標準器と比べて正す事を意味し、|強制較正[エクスキャリブレーション]は神の教えや集団自身で話し合って決めたルールを基準として元に戻す為に物理的手段、端的に言えば暴力も辞さない覚悟で臨む事を意味します。それは暴力でしかなく本来なら許される事ではありませんがそうでもしなければ最早元に戻る可能性すらない程に腐敗した社会を正す為に行う者が現れます。

|強制較正[エクスキャリブレーション]は敵対する者を排除した時に終わるものではありません。目的は基準とした状態に戻す為に行われたのであって、敵対する者を排除しただけでは未達成のままです。結果として支配者として君臨できたとしてもそこがゴールではなく、支配者としての権限を使い元の基準に戻す行為を続ける義務があり、その義務を、覚悟を受容するからこそ|強制較正[エクスキャリブレーション]はその結果を以てして緊急避難的措置として認められるのです。

こういった意思を示す為にあえて実物で明示される状況が作られます。社会が荒廃し最早通常の手段では元に戻る可能性が潰えた時、例え重い責任と義務を背負っても社会を基に戻そうとする高貴さを示す者は居るか、と|強制較正[エクスキャリブレーション]する権利を行使する者は居るかと、実物の剣を台座に差し、その意思を全ての構成員に問いかけます。

そして剣を抜いた者に、社会が荒廃し困窮した者達は従うかどうかの意思を示す必要があり、その者に従って社会を元に戻すかどうかの選択を迫ります。そこからは誰も逃れられず、従うか従わないかで示す以外に選択肢はなく、従わないなら代わりの意思を示す必要があります。現状が私利私欲を満たすのに適合している者は反抗するでしょう。従わない者はその者の側に属したとみなされる可能性が生じます。そうして剣を抜いた者に従って勝利し社会を基に戻そうとする展開になり、敗北すればまた次の|強制較正器[エクスカリバー]を振るう者を待つ事になります。

こうして、クーデターや内乱や革命により大きな変化をした後には本来あるべき方法により行われる継続的変化から齎される状況との差がある事を認識する必要があり、その差を埋め合わせる必要がある事を知ります。


しかし私達はリザルトセットにある結果を知る事でここに新たな選択肢を生じさせてしまいます。エクスカリバーを抜かせる事が出来れば戦争になり、その混乱に乗じて責任転嫁し無罪を主張出来ると考えたり、社会を混乱させた後にエクスカリバーを抜いた者に故意に権力を譲り渡し自分達が荒らした結果を改善させて、自分達は償わなくて済む様に画策する様になります。


私達はどこまでも正しさを積み重ねる事が出来る様に、どこまでも間違いを積み重ねる事が出来ます。


この様に主義思想によって体制を変える際に、クーデターや革命などの手段は緊急避難的措置でしかありません。


最小の政府の部分で話しましたように、構成員の能力が低ければ社会の高度さを代償に成立し、また、外部との状況を考慮しなければ支配力の低い政府は戦争の口実になります。この事から、自分達だけが能力が高ければ良いわけでもない事を知ります。民主主義として成立させるには、知性を育み、押し付ける事なく社会を成立させながら外部に相手が仕返ししないのは弱いからだと錯覚して攻めてくる様な集団を残さない様にして達成する必要があります。つまりは全体のレベルを上げた後に主義思想を主張する事が出来る状態になります。そしてその為には個々人の能力が必要であり、他者を貶めて差を作る事は矛盾を生み出し争いの原因になり、いかなる主義思想においてもその前提に平和と繁栄があるならば受け入れられる事ではありません。


同じ様に魔導学により知識を与えられる場合も、与えられた知識はその成立過程で生じた問題や条件が残っていない場合があります。故にそこには与えられた知識とは別に宿題としての部分が存在し、その足りない知識を補完する事で知識を扱う判断能力が身に付きようやく社会活動として他者の監視がなくとも行使出来るレベルへと到達します。


そして取引や契約における、条件を省いた時間や資源で制限された緊急避難的措置は本来なら|強制較正[エクスキャリブレーション]で話しました様に、後に証明期間が必要となり本来の求められる結果と同じになるかを確認する必要が生じます。しかしみなし行為というものの扱いを間違う為にこの証明期間を取る事無く実行されその場しのぎの方法やあえて意図的に制限を排除された方法が実行され、不当な利益を得る方法が実行されます。


こういった問題から生じる争いを失くすためには暗記により詰め込みという与えらえた知識に従っていさえすれば良いと錯覚する者を減らす必要があり、誰もが従っていればそれだけで楽に生活させてくれる状況を誰かが自身の為に作ってはくれない事を理解する必要があり、その為に求める基準を達成する為の知性が求められます。


しかし私達は間違い錯覚します。快感原則では到達出来ない状況を望んで知性を手に入れたはずであるのに快感原則に負け快楽の誘惑に克つ事が出来ず欲望を満たす為にあえて知性を否定し自身が欲望を満たす為に必要な適合する知識を集めて主張し強引に押し付けようとします。そうして混乱し争いは激化し、やがて社会を崩壊させるでしょう。


そしてその後に崩壊した社会が庇護を与えてくれず権利を失い不当な暴力により苦しむ結果を体感する事でようやく間違いに気づくのです。私達は未だ知性により推測する事も理解する事も出来ず、ただその痛みによってしか間違いに気づけない精神性しか持ち合わせていません。

その間違いの結果を裁かれる事を恐れて受け入れられずに逃避して、自身は間違っていない、これで合っていると強引に思い込もうとし、自身が間違っているのではなく社会が間違っているのだと主張し始め自身の主張の瑕疵や矛盾を指摘する者や知識を排除し、場合により隠蔽し自らは正しいのだと主張する様になります。しかし間違いは間違いであり、やがて蓄積した問題に対処しきれず表面化し最終的に裁かれます。しかしそれまでに死んで逃げる事が出来れば罰せられる事はないと開き直り行動し、どうせ罪を認めるか嘘がばれたのなら罰せられるのは一緒なのだから『行ける所まで行ってやれ』と自棄になり暴走し社会を混乱に落とし込むのです。社会が潰れ再生する際にそうやって誰かの暴走により矛盾が押し付けられ、正しい知識は隠され、誰かに不当に利益を齎す社会が作り上げられる事になります。しかしその矛盾を含んだ社会もその矛盾から寿命は長く無くそもそもが裁かれない為にその場しのぎのように逃避する者によって作られる社会ですから寿命が長くなることはありません。100年、200年といった長さを長いと感じるのは私達の生の長さから感じる事ですが、そもそもが社会とは1000年、2000年、それ以上の年月を安定して暮らせる為に作られるものです。それが私達の願いでありそれを根本から覆そうとする者は常に居ます。1000年に均等に分配した資源ではこれといった浪費は出来ないが100年で均等に分配すれば余りある資源で浪費して快楽を貪る事が出来ます。そうした後に誰かに責任を押し付け逃げる事が出来れば大きな利益を生み出します。


さて、私達は快感原則による行動ではその生に限界を感じ、知性を手に入れ、個の強さに限界を感じ、集団を成す事を受け入れました。


初め、私達はけものでした。


私達はけものであった時の苦しさから逃れる様に知性を得てより快適な環境を手に入れました。しかしその過程で役割分担をする様になり、自身の経験による知性の成長だけでは全ての知識を理解する事が出来なくなりました。しかし疑似体験や抽象概念によりそれぞれの知識を体系化して対処する事でそれを乗り越えようとします。しかし全ての構成員が全て同時に全ての行動の中から選択した行動を実行し、そこに瑕疵が存在する事まで把握する事が出来ません。足りない知識に欲望を満たす余地を見て誘惑に負け行動する可能性があります。そうして高度に発展させた社会も僅かな瑕疵から亀裂を生じさせ崩壊に至ります。何度も繰り返し、構築しては崩壊し、その痛みで間違いを体感し正しい行動を取る様になっていくでしょう。

しかし何事にも例外があり、ここに諦めた者は含まれません。自らが構成員である事を忘れ、社会を維持する役割を放棄し私利私欲を貪ろうとする者はその痛みを知ってもその痛みの原因を他者に押し付け自身は利益だけを得ようとします。集団を成しながら集団を乱し、集団としての強さで権利を得ながらその内部にあって個の強さで不当に利益を要求します。一度失敗してもその利益から生まれる快楽の誘惑に抗う事が出来ず、何度でも間違いを犯し、要求を押し通す為に私達が生きていく為のルールを否定します。


私達が遺伝子と称されるものから構築されていて親から子、子から孫へと、その性質と形質を受け継ぎながら次世代へと続く生命でありながらも、自身に都合が悪いからと現世代は現世代であるからと親の行いを否定して自身にかかる不利益を回避しようとします。同時にその性質から親やそれ以前の世代が犯した悪事に対して『俺の先祖はそんな事はしない』と主張する性質を示すかも知れません。そして子や孫に負担になるとは分かっていても『自分ではない』から苦痛を味わおうと構わないと思うかもしれません。しかし今世代に自身が自身であると認識した性質をまたその子も表し、それはもう一人の自身である事には違いないのです。性質は受け継がれ、子供の時の自身と大人の時の自身が違う人物だと主張する者は居らず、それが親であろうとも子であろうとも違いはありません。しかし、もし親の世代での実績により不利益を生じるとすればそれを否定したがるでしょうし、子の世代に利益を残さなければならないとすれば快楽を得られない要因となる為に否定したがるでしょう。そうして自身は今世代の自身のみであると主張する様になります。勿論他者から執拗に親の責任を取れなどの要求がありそれが過剰である理由からそういった制度になる可能性はあり、私達の間違いが要因として本来はそこに同一性を見るべきものを否定する必要が生じます。

社会の成長に合わせて個人の能力も成長させる必要性があり、当世代の個人単体で能力が完結するとするならば早々に能力は上限に達し社会は高度な社会を形成出来なくなるでしょう。何世代もかけて能力を向上させ精度を高める事でより高い技術に到達出来る可能性があり、それを否定すれば能力はいつまで経っても望む基準に到達しないかも知れません。

そして当世代の個人で生が完結するなら遺伝子というものは存在してはならず、何の根拠もなく生まれ、何の根拠もなく知識を持っていなければなりませんがその様な矛盾は起こりません。それは単に知らないか理解できない物事なだけでしょう。その求める姿は知性をなくしたけものです。

継続して発展し知識や技術を蓄積して成長してきた社会というものは、個人が能力や性質を親から受け継ぎながら前世代から知識や技術を受け継いで出来たものです。親から受け継いだ能力や性質を受け入れながらその能力を有するに至った過程で生じた不利益は受け入れないと言うのでは自身に都合の良い主張をしているだけに過ぎません。自身とは当世代の個人のみとして認める事で親世代で行なった間違いを否定して了承されるなら、その間違いは修正される事なく続けられ更に性質として身に付き、また、間違っても免罪にされるのだからその間違いを多用して不当に利益を得る方法を実行して良いと考える様になる可能性があります。そして親世代に行なわれた間違いを否定する事で当世代では罪を免れる事が出来るという結果から、条件を否定して相手に受け入れさせれば自身の罪は消えてなくなると考える性質をも濃くするでしょう。そこで本来求められるのは間違いの原因となった性質や能力などを修正し間違いの原因を取り除く事ですが、性質そのものが間違った偏向を起こしてしまえば期待出来ない様になります。

何かの失敗が親の世代で起こりその結果として環境が悪くなったとして、それに対して『親が悪い』と言う。その一言で済ませて自身とは関係ないと言いながら、親の代以前から受け継がれた知識などの恩恵に浴します。そしてその一言で済ませた為に親の失敗の原因を調べもせずに自身はその失敗の原因を含む遺伝子を継いだまま行動し、何も改善しなかった為に親と同じ失敗をする可能性があり、そして失敗した後に子を成しその子が後を継ぎ、受け継がれた状況に対して『親が悪い』と言う。その悪循環から逃れ、間違いを修正するには自身がその血統に連なる者だと認めて間違いを修正しようとしなければ不可能です。間違いを受け入れなければ問題を認識しようとせず問題を解決しようとはしません。しかしそれを認めなければ恩恵だけを受け快楽に身を委ねる事が出来るのです。


初めは血統としての考えを受け入れ、その恩恵に与かり利点を享受しますがやがて積み重なる解決出来ていない問題により欠点としての部分が増し、その欠点は利点により発生する恩恵から与えられる快楽を阻害し始めやがて恩恵を上回る様になります。その過程で不利益だと感じたものが、その原因を追求する事も解決する事もせずに自身の利己益のみを見て遺伝子の表現の一つである血統を否定するのです。これは犯した罪が抱えきれない重さを持つ時に良く行われ、戦争の引き金を引いてしまった場合などの大きな罪というのはその払いきれない償いにより自身の生より長く場合により永遠とも言える対価の支払いを求められる事があります。それは利点を受け取りながらも同時にその利点を打ち消し上回るだけの不利益であるため常に苦しめられる事になります。しかし知性を得たのは苦しむ状況から逃れる為であり知性を持ち続ける事で苦しめられる状況に陥っている為に知性を維持する事を無駄だと感じ、また、知性を持ち続けようとするからこそ苦しむのだと思う様になり知性を維持する事を諦めて知性を手放すのです。この解放感は大きく万能感を伴う事もあります。それは知識を解明し新たな選択肢を得て苦しみから逃れられる自由な状態に近づいた時の達成感や万能感に似ていますが方向性は逆になります。

前者は知性を手放しルールを手放し制限を撤廃し生き残る選択肢を得て、後者は知性を成長させルールなどをより厳密に守る様になり制限を増やす事で生き残る選択肢を得ます。前者は社会の質を低下させ、後者は社会の質を向上させます。しかしどちらも個人としては快感原則に則った生き残る為の選択肢であり、その違いは主観においてしか正しくないルールを受け入れたかどうかです。集団を成す恩恵を受けながらも発生する不利益をどうにか回避出来ないかと模索し、そうすれば集団を成す為のルールを履行せずにその恩恵を受け、集団を成す為のルールを履行しない事で損失をなくし相対的に有利になり競争に勝つ事が出来ます。

そしてこの主張が受け入れられれば競争に勝てる為に、生き残り競争はこの選択をする者が増え、皆が同じ主張をする様になり、誰も元のルールを守らず、そのルールを守る事で維持されていた状態は崩壊し始めます。

状態が崩壊し、利点を形作っていた根拠が一つ減る事になれば利益は減り更に環境的に追い込まれます。するとまた同じ様にルールを破り競争に勝とうとし、その主張が罰せられなければ皆が同じ主張を受け入れるしかなくまたルールを守る事で維持されていた状態が崩壊します。

その繰り返しの結果、社会は混乱し、制限を失くした為に正当な行為と不当な行為の判別がつかなくなり詐欺行為などの悪事が横行する様になり混乱は深まり争いは激化し、何が正しいかを厳密に追求出来ない為に押し付け合いが行われ、これ以上は破滅するしかないという状況に追い込まれれば、自身の過失により発生した状況なら受け入れる者でも相手側の不正により発生したのであれば受け入れられないと結論し物理的手段を選択し争う事も辞さず、そしてそれを見た者がその方法は許されるのだと思いデファクトスタンダードと化し、争いは続けられる事になります。

その状況は常にルールを破る側の優勢で進められ、ルールを守る側は劣勢となり破滅するしかない状況で暴力行為などの犯罪をする事になり、ルールを破る側はその犯罪を咎め、ルールを守った側は咎められる状況が作り出されます。しかし裁かれるのは明確に罪だとされる行動を行った者であり排除され、ルールを破るものが生き残りその結果がデファクトスタンダードとなり誰もルールを守ろうとせずに競争を続け、社会の恩恵から生じる利益を社会を潰す事で失くしながらも自身の元には利益が集まる様に行動し続け集団そのものを破滅に追い込み構成員の数を減らしながら続けられ、やがてその悪影響が表面化し社会は体裁を保てなくなり崩壊するか戦争を選択する様になります。


ではその方法はなぜ出来るかと言えば資源が枯渇していないからです。

資源が枯渇した状況では損失から逃れられず、本来貰えると予測した報酬を貰う為に『自分は悪くない』と言い訳した所で成立せずただ損失を受け入れるしかない為に誰もその様な言葉で不当に利益を得る方法を選択しなくなり、また、資源が枯渇すればするだけ破滅のリスクに直結する為にその選択をする者は集団から排除する事になり、排除出来なければ破滅するしかない状況である為に、不正に利益を得ようとする者は淘汰されます。不正に利益を得ようとする者は集団を混乱させ他者を攻撃し集団を成立出来なくするために生かしておくことが出来ません。その余裕がある時は資源に余裕がある時で、だからこそ甘える者が発生すると言えます。

また、資源が枯渇するといままでは速度が効率の面では優先されていた為に多少の浪費は許容されていたが資源の枯渇で速度よりも資源の確保が優先となり効率の在り方も変わります。資源が無ければ何も出来ず、1の資源を1の速度で1の成果を出すよりも1の資源を以前と比して2,3倍の遅さで実行しようとも1以上の成果を出す事が求められる様になります。速さで、つまりは時間の制限で誤魔化す事が出来なくなり、皆が問題を真剣に考える様になり、悪事の手口は暴かれやすくなります。資源を浪費してよければ杜撰な方法も許されますが枯渇した状態ではより正確な方法が求められ、環境に追いつめられる様に否応もなく最低基準が引き上げられて行き、高い能力が求められる様になります。

そして高い能力を有し知性を高めるしかない状況になれば逃避して否定し続けた問題から逃避し続ける事が出来なくなります。当世代のみを自身として考え、制限を取り払い快楽を得たがその結果としてその血統はその末裔において資源を早々に枯渇させ、資源が豊富にある事で生じる恩恵を受ける事が出来なくなります。すると社会の不利益のみが大きく残りしかし受け入れなければ破滅するしかなく、破滅したくなければ今までの主張を変えるしかなくなり以前の血統を基準とした考えを受け入れるしかなくなります。今の自身の置かれた苦境は自身が遺伝子により構成され作られ世代間で継承しているが為に生じており、自身が当世代のみが自身だと思い込んだ為に各世代で後の世代の事を考えない為に起こった問題だとここでようやく気付く事が出来ます。この様に知性がなければ痛みで体感する事でしか結果を理解できず、理解した時には体感しているので手遅れになります。しかしその考えから生まれる快楽は血統や遺伝子という概念を受け入れて制限を増やして生活する場合では手に入らない快楽であり、その誘惑に克つ事は難しいのです。

そしてそれにもかかわらず誘惑に負け各世代で自身が当世代の個人のみだと主張する者がいれば社会は当然その影響を受け劣化するかもしくは社会の質を向上させる事も出来ず資源の枯渇により苦しめられたままになり、その快楽に克つ事が出来ない人物を存在させておくわけにはいかなくなります。世界は常にエネルギーを失う方向へと展開し、何もしなくともエネルギーは失われ増々資源は枯渇し苦境に立たされる状況で、いまだ自身を含む集団を苦境へと追いやろうとする者をいつまでも生かしておくわけにはいきません。こうして、悪事というものが社会から見ればテロ行為である事が分かります。


しかしテロ行為を行う者を排除しようとすれば、その者も自身の知性においては間違っていない行動をしているつもりにはなれているので争いに発展します。


ここには私達の在り方より生じる罪により別のケースが存在します。社会が発展する際に中枢に居座ってしまえば社会が発展する恩恵を受けながら、自分達に都合の良いルールを作り出し相手に押し付けながら利益を得ようとする者が居る為に、抵抗する意思として不服従を示し表面的には怠惰を示す者がいます。中枢に居座る時に犯罪や詐欺行為を行ない権力を得て、一度システムが出来上がってしまえば中々変える事が出来ない欠点を悪用して利益を得ようとする者が居る為にあたかも快楽を貪る為に怠惰である様に見える者が出ます。この似た状態を判別出来ないならいつまでも同じ過ちを繰り返すでしょう。


悪人は不正により中枢で権力を得て利益を貪り、末端でルールを破る事により利益を貪り、その両方を相手にしなければならない構成員はより不利になるでしょう。


では血統が途絶えるなら、子を成さずに死んでしまうのなら快楽を貪って良いのでしょうか。それも単に当世代のみが個人だと主張するに過ぎないのですから、それを主張して制限を外して快楽を貪ろうとするならそもそもが社会から与えられる知識や技術を使ってはいけません。社会は継続的な成長を条件に作られ、その構成員には目標を達成する役割が課されます。よって社会からの与えられる知識を使うならルールを順守するのが権利と義務の関係になります。そしてその中で自身が得る利益を次の世代の事を考えずに使うのが正しい方法となります。その利益も不利益も自身で責任を持ち享受するのが正しい在り方です。

しかし大抵においてそんな在り方では求めるだけの快楽を得られない為に自身に都合の良いルールを持ち出し、この方法こそが自身には合っていると妄信し実行し社会を混乱させます。そして不利益を他者に押し付け、逃げる様に死んでしまえば責任を取らなくて良いと考えます。

これは苦境に立たされている時は苦しみから逃れる為にルールを与えてくれる者に従うがやがて環境が豊かになり苦しむ要因から遠ざかり苦しむリスクが低下した者が考えずに体感でしか理解できない場合に起こります。最早自身から見た周囲にはルールに従わなくとも生きていける環境があり、ルールに従わなければより多くの快楽を得られる事が分かる為に起こります。

そして自身の主観で行動を実行しますが、もし社会が競争をしているのであれば、その1人分の行動力が失われ不利になり、環境が悪化してやがて主観で行動していた行動も利益を得るのが難しくなり快楽を得られなくなります。そしてその者は考えない為に『誰がしたのだ。俺は間違っていない。俺は悪くない』と主張します。自身の行動が集団に与える影響などを考慮せず、誰かがなんとかしてくれると制御を放棄した為に起こります。

結局、死んでしまえばそれで終わるから後の事を考えなくともよいと思い込んで快楽を得ようとしてもその状況を維持するにはルールを順守するしかありません。但し、その悪影響が表面化するまでに死ぬ事が出来る様な、資源の消費の前倒しによる浪費が許容される状況や社会の技術力が高い為に簡単には社会が潰れない状況であれば、表面化する前に逃げる事が出来ます。しかしそれは誰かに損失を押し付けて逃げるに等しく、自身が思っていた様な、誰にも迷惑らしい迷惑を掛けずに快楽を得たという思い込みとは違います。そうやって他者に押し付ける事が可能だと思う様になれば他者に押し付ける事が当然であるかの様に社会は歪められ、他者が不当に利益を得て自身が不利益を被る状況を受け入れるわけにはいかない為に誰も努力をしない様な社会へと変わります。そうして、その様な人物を社会に存在させる事で社会は到達する高度さに限界を得てしまいます。


こうした状況を回避するにはやはり知性が必要であり、基準に見合った知性を持とうとしない構成員が居れば居る程に社会はその限界を早く迎えます。では私達が皆平等に低い知性のままであれば浪費して良いのかと言えばそんな事はありません。知性が低くとも資源は消費されやがて生き残る為に知性が必要になり、やがて誰かが知性を育み差をつけ他の者も同じ様にするでしょう。


遅かれ早かれ私達は資源の枯渇から知性を育む事を強制され、知性を成長させて知識を得なければ破滅するしかない状況になります。これを回避するには社会の中で他者を競争により圧倒しない環境とそれを実現する能力が必要になります。競争は勝つために資源の浪費も厭わず資源が枯渇してからのみ資源の節約を行います。勝つ事で得られる有意さで相手に譲歩を促し相手の持つ資源を奪い取る事が出来れば効率よく、そして浪費した資源は補充できる為に浪費され、その成功失敗の如何にかかわらず浪費される様になります。成功しなければ破滅するかそれに近い状態になるなら浪費してでも成功の可能性を生み出そうとし、そして失敗したなら浪費による不利を受け入れる事になり、他者も同じ様に行動するために勝ったとしても当初予定した資源は確保出来ず不利を被り、その不利と浪費した資源を補う為にまた相手の資源を当てにした競争を繰り広げる事になります。


そして資源が枯渇する環境に生まれた者は節約面を重視して効率よく資源を使う事で生き残る競争を行い、その方法が自分達では供給出来ない資源をより長く効率良く活用出来る事を体感します。

この状況になって初めて資源はどう扱われるべきかをそれまでの経緯と共に体感する事で経験とします。

そして資源が枯渇する環境に生まれた者はその不平不満をそれまでに生きた者達にぶつけるでしょう。

ほんの僅かでも今よりも資源に余裕を持たせておいてくれたならこれほど苦しむ事もないはずだと思いその効率の悪い方法を選択した過去を悔やむのです。

それでも生き残るための競争により、少ない資源でも競争に勝つために浪費して他者を圧倒して資源を確保しようとします。

そしてまたその後の世代が同じ様に思うのです。


こうした状況を回避するにはやはり知性が必要であり、今あるあなたがあなたという自我に目覚めた時、そこに社会があったとします。自身の今の環境が豊かならそれ以前に生きた者達が節約してくれたおかげかも知れません。単に数が少なく誰もあえて浪費するという暴挙を行わない為に相対的に資源が余っているだけかも知れません。今の環境の資源が枯渇しているならそれ以前に生きた者達が浪費したのかも知れません。単に環境そのものが厳しいだけかも知れません。しかし資源に余裕がある状況はほとんどありません。あなたが社会に居て資源に余裕があるのなら、それはそれ以前に生きた者達が資源が枯渇した時の苦しさを知り、苦しい状況から逃れる為に作り出した状況である事がほとんどでしょう。現状でそこにあるからと言って、誰も苦労せずにその環境を手に入れたのではないという事になります。


その社会で生きるという事は、誰かが浪費せずに蓄積してきた資源の恩恵を受けながら生活すると言う事です。自身がその苦労をせずに受け取ったものであり、社会の一員として参加したから受け取ったものです。当世代の個人のみが自身だと言ったとしても浪費が許される根拠にはなりません。既に認識されている資源は既知の範囲にあり、計算に含まれています。皆が消費する為に共有する事が決められている資源を個人が勝手に浪費するわけにはいきません。それでも浪費したければ、単に新たな資源を開発すれば良いだけです。今まで活用出来なかったエネルギーや活用が難しかった資源を実用化して資源にしたのなら、外部から新しくエネルギーを供給出来る様にした実績でそれに見合う浪費は許されるでしょう。内部でどれだけ能力の優劣を競っても外部からエネルギーが齎されたわけではありませんので浪費して良い根拠にはなりません。


社会とは皆が資源の枯渇から苦しまない様に、数世代の者が連携して運営されます。若い世代は労働力として頼もしく、しかしやがて年老いて労働力としての能力は低下します。それでも今まで培った経験で社会に貢献するでしょう。各世代の役割分担である範囲で一定の総量を維持して収支を利益側に傾け貯蓄をして緊急事態に備えます。この様に現状の社会というものは維持するのを止めれば途端に崩れる様なもので、維持しようとエネルギーを掛け続けているものです。


そしてあなたを形作る環境があなたに利益を齎すとして、それは私達が世界から条件を押し付けられ苦しむ状況から逃れる為に皆で作り上げたものです。それに対して個人とは当世代の自身のみであり、後の事など考えなくて良いと思って行動したとして、皆が同じ様に行動してしまえばどうなるでしょう。その環境は崩壊し、次にあなたの自我が目覚めた時にはないかも知れません。そこに社会がある事自体が奇跡だという事をまず知るべきです。それは当たり前の様にそこにあるのではなく誰かの努力と犠牲の結晶の表現形です。

成功と失敗でははるかに失敗が多くなります。数ある組み合わせの中から条件に適合した組み合わせのみが利益を齎し成功と呼ぶに値する結果になり、その可能性は社会が高度になるにつれ条件が増し、考慮すべきマトリクスは大きくなり、制限も増してその内の僅かなものだけが成功と呼べる状態を表します。あなたはそのわずかな成功の中にあり、その恩恵を受けています。それをあなたの欲望で壊して良いのでしょうか。


知識や技術、そして豊かな資源を与えられたならその恩恵自体が自身にとっては恵まれたものであり社会の構成員として条件を受け入れ得られたものであり、だからこそ何も与えられないよりも苦しむ事のない生活を送れるのならその状態を継続させる為の行動をして次の世代に渡す努力をする役割を果たす必要があります。維持する事と一から作る事ではその労力の大きさが違います。一度潰してからでは取り戻すのに大きな苦労を重ねて苦しむしかなくそれが自身では作り直す事の出来ないものだとすれば尚更に維持して継続させるべきものになります。これが節制や清貧が尊ばれる根拠になります。

例え資源が枯渇する環境に生まれたとしても知識や技術がある状況でそれを与えて貰いながら恩恵を受けていないと言う事は出来ません。そして資源が枯渇しているのは自身を含めた周囲の皆が浪費した事で発生したのだからやはり節制は必要に迫られ行なう事になり、資源がない事からそれ以降の世代も同様に節制をするしか選択の余地はありません。その状況は苦しい生活になり、もし資源があるなら状況を改善出来る計画が実施出来たとしても資源が無い為に計画を実行出来ない状況に陥り選択肢の少なさが状況を打開する方法を取らせないでしょう。


さて、今ある自分はどの段階に居るでしょうか。今ある資源は誰が温存したものでしょうか。そして誰が浪費したものでしょうか。自分自身ではどの様な結果が積み重なって現状になっているのか分からない状況でどの様な選択をするのかが問われます。私達が何度も構築と崩壊を繰り返した後に、その経験を蓄積させながらもやはり当世代のみが個人だと主張するのでしょうか。社会の中に継続して蓄積してきた知識を使っておきながら、自身はその社会を潰す様に行動するのでしょうか。

しかし考えない者にはそれが分かりません。ルールに従って行動し、既にそこにある知識や物を同じ様に扱い、現状の環境は、かつて"けもの"であった時に環境は神によって与えられるものであって自分達が干渉出来るものではないと思っていた頃と同じ様に過ごすのでしょうか。木の実を取る様に知識を取り、誰かが不思議な力を与えてくれた鳴き声を上げるだけなのでしょうか。『タスケテ』と呟けば誰かが食料を献上してくれる魔法の言葉や、良く分からないが手順通りにすれば今まで手に入らなかった様な食料が手に入る魔法を、知性もなく快感原則に従って、出来るから実行し、手に入るから手に入れるだけの行動を繰り返すだけの"けもの"のままで居るのが私達なのでしょうか。その行動のままでは充足した社会を維持し続ける事は出来ないでしょう。


自身が破滅するしかない状況で、自身が破滅から逃れる為にルールを破り、競争に勝つ行為により、かつてのルールを認めれば自身の罪は確定し、認めなければ以前の様な高いレベルの環境は実現出来ないとすれば、いずれ資源の枯渇から能力を高めなければならない日が訪れ、自身を取り巻く環境が与える条件を変える事が出来なければ逃れる事は出来ません。その時にいくら自身の主張が正しいと叫んでも誰も聞き入れないでしょうし、それでも自身が破滅しない為には自身が正しいと主張して相手に押し付ける事しか出来ず争いを起こし、場合によっては社会を崩壊させるでしょう。こうして逃避したままの人物が居る限りその人物で社会の成長の限界が決められてしまい、能力の上限を押さえつけられている、クリッピングされているとも言え、かつてその先にあった社会を構築する事は出来なくなるでしょう。


そして個人としては破滅するしかない状況を回避して延命しながら周囲を巻き込み道連れにしてやがて自身は破滅するでしょう。ではその者に子孫が居たとしてその者達の扱いはどうすべきでしょうか。

周囲に大きな悪影響を生み出した者の遺伝子を持った子供であり、同じ性質を有する可能性があります。何かの権力を与えるとそれを足掛かりに問題を起こした先祖と同じ行動を取る可能性があります。今はそのような兆候を示さなくともいずれ何かのきっかけに先祖と同じ行動を示すかも知れません。また、同じ行動をしようと思っているが周囲から警戒されているから偽装しているのかも知れません。そうなるとその子孫達をまともな職業につける事は出来ず低い権限しか与えられない為に低い報酬しか貰えない役割を任せる事しか出来ません。周囲の者は自分達の生死が掛かっているのでそこから生じるリスクを抱えるわけにはいきません。

するとその者達の性質が良ければ、自分達がもう過去の誤った行動を取る事なく理性でそれが過ちだったと認めておりその間違いも修正していく努力をし、それを認めて貰えるまで状況を甘んじるとして受け入れるでしょう。しかし性質が悪ければ、親のした事まで子の責任にするのは間違っている、不当な差別を受けている、と言い出します。ここでは悪用については考慮しません。そして一度自分達に都合の良い理論を聞くと不利益の要因を取り除く為にそれを受け入れて、本来行うべき行動をしない様になります。例えば、親の仕出かした大罪でその子まで罪を受けた後に、個人の正当な権利として親のした罪に対して責任を負わせるのは違法だ、という主張を聞いて自身に都合が良い為に考慮する事なくその主張をし始めるといった状況があります。これはつまり自分の事しか考えておらず、他に似たような主張があればそちらを使うし実際自身の不利益を取り除けるなら何でも良い事を表し、何一つ反省していないという事の表れでもあります。自身の持つ遺伝子上の間違いを起こしやすい罪や汚れを改善して浄化する事なく安易な逃避に逃げ、そしてそれが性質として遺伝子から発現しやすくなっているとも言えます。

しかし快感原則で行動し、考えない者にとっては自身の行動は間違っていないと言えます。


そうして争いを繰り返しやがてまた社会は崩壊するでしょう。


ではその結果、死んだ後、世界が滅んだ後、文明が衰退して私達は私達として居られなくなったとしても、そこで諦めて文明を、文化を捨てたとしても、私達は世界に生きる苦しさからまた必ず知性を育み知識、技術を求める様になるでしょう。私達がそれを望んだのは苦しみから逃れる為であって何一つ問題のない状況で一つを選択したわけではないからです。世界から押し付けられる条件が私達を苦しめ、私達はそこから逃れる事が出来ずに生存確率を上げる為に、苦しみから逃れる為に知性を育みまた同じ様に文化を、文明を築こうとするでしょう。そして以前と何も変わらないのであればまた同じ様に破滅するでしょう。

ならば知性に目覚めなければ良いのでないかと言われても寝ていれば痛みも苦しみも感じないのであればそうなれるのでしょうが、寝ていても痛みや苦しみから逃れる事は出来ません。どうしても私達は知性に目覚める事になります。


私達はけものとして行動し、やがて苦しみから逃れる為に知性を得る事は運命付けられています。しかしそれが求める基準に到達するかは個々人の努力次第です。


私達はたんぱく質から成る生命体です。例え死んで血統が途絶えたとしても、同じ構成を持つ、場合により限り無く近い構成要素の者が出現する可能性があります。それはあなたかどうかで言えばあなたではないとも言えますが違うあなただとも言えます。宇宙に私達の惑星と似た環境の星がある様に膨大な数の試行錯誤の中から同じ組み合わせを持つ存在は発生する可能性があります。そしてその1人が今のあなただとして、次にあなたが発生しない可能性はあるでしょうか。

1度発生したものはまた発生する可能性があります。1度も発生しなかったものだけが再度発生しない確度を持ちます。

代を継ぎ子供に戻ったあなたと、あなたと同じ構成要素で生まれてきたあなた、その違いはどこにあるのでしょうか。

勿論それは天文学的数字になるのでしょうが、それでも可能性が無いわけではなく、形が変わっても遺伝子に蓄積された情報から出現したあなたの意思はもう一度現れるでしょう。

現にあなたはそこにいるのですから。


そして改めてそこに社会がある事自体が奇跡だという事を知るべきです。


私達はけものとして行動し、やがて苦しみから逃れる為に知性を得る事は運命付けられています。獣はほぼ間違っていないという結果が出た成功体験を積み重ね習性とし、世代を重ねる事で性質とします。性質となった行為から得た情報により生命の方向性が生まれ更なる効率を求めて性質となった行動の組み合わせの中から成功と失敗を判別し、行動の取捨選択が成され生存に有利な行動を優先して行う様になります。こうして性質は指向性を持ち、意と呼ぶべき行動を行う根拠に偏りを与え意思となります。意思を持った私達はそれぞれの意思の元に最も生存出来る可能性を模索し、最低基準を満たした者だけが生き残り、それは集団を成しても変わらず環境が与える条件が私達の淘汰を行います。私達自身が争わなくとも絶対的にも相対的にも資源の枯渇が私達を苦しめ追い詰めます。その中で私達は集団を成し助け合う事で生き延びる方法を選びました。

しかしその集団を成すためのルールが個の破滅に繋がる時にそれを否定し、今までの自身の生成過程だった出来事を無条件に否定し、それに合わせた根拠を用意してしまう、生きる為に知ろうとする性質を否定し、けものに戻るのです。


その状況を回避し乗り越えるにはやはり知性が必要です。高い知性がなければ何度でも自身に不利益な状況になればすぐにルールを破り集団そのものを劣化させる方法で生存しようとするでしょう。その度に私達は劣化を余儀なくし、その度に争いが起こり、いつまで経っても私達の掲げる目標には到達出来ないでしょう。高い知性を育成する前に破滅する状況に追い込めばいつでもそうなる可能性があり、それが起きない場合はその人物の性質が改善されており善良な部分が大きい為であり、それに頼るのは依存度が高く制御を放棄する事と同じです。故意や過失を除いて手順を順守すれば必ず成功すると言える状況を作り上げるなら性善説に則った基準で手順やルールを定義するのではなく、性悪説に則って手順やルールを定義する必要があります。それが可能であればほぼ間違いなく高い知性を育成出来るでしょうが性善説に則った方法しか出来ないのであれば、私達は間違いなく失敗し争いを起こすでしょう。その成否を自身ではなく対象に委ねるのです。単なる賭けでしかありません。それだけ足りないものが多くなります。

この世界には盗みをするものがいない、とすれば警備員や警察はいりませんし、この世界には物理的な暴力を振るうものがいない、とすれば更に軍隊も要らないでしょう。しかしそのような性善説に則った方法で私達の社会は成り立ちません。私達は間違う事を繰り返してそこから生まれる不当な利益が与える快楽を知ってしまい、その誘惑に常に晒されており、低い知性では抗う事が出来ません。

高い知性を得る為には成熟しなければならず、そこに至るまでの過程では誘惑が絶えず発生します。高い知性に到達するまでの間を、親からの教えや信仰の教えや社会のルールで間違った方向に進まない様に誘導するのが社会と先人の役割です。社会に生きる者達が自身が生き残る為に知性を否定し誰かが与えてくれる知識に縋る状況になれば誰も次世代を育成しようともせず、また、自分達が強引に主張した根拠に合致した者だけを育成しようとして社会は劣化したままになります。その中で、自身が何を選択するかが試されます。

知識を正しく扱えるだけの知性を持つ前に知識を与えると足りない知識と足りない知性で間違った使い方を覚えその結果が本来の使い方より楽に利益を生み出すとそれを繰り返す事を覚えてしまいます。その間違いを繰り返し習慣とし、習慣を繰り返し習性とし、習性を繰り返し性質としてしまいます。


この様に自身がたんぱく質からなる形質を持つ知的生命体の一つである事を受け入れ、自らの性質を宿す形質を維持する環境を自らで整える事で、性質を改善し能力を向上させ、その結果によりより良い社会を実現し、得られる恩恵から形質の品質を高めその結果を用いて更に性質を改善する方法こそが私達の一つの到達点になります。


領主に買い物の指示を受けたメイドの例をもう一度考えましょう。

領主の行動は領地を富ます為に行われます。その状況でメイドが欲望を満たす為に利権を使い、本来あるべき状況と違う結果を出したとしましょう。店Aの方が品質や価格などで正しい選択ですが店Bはおまけをくれたりバックマージンをくれたりしてメイドの利益になるとして店Bを選択したとしましょう。すると領主は本来得るべき品物を得る事が出来ずに行動の効率が低下し、また、資源で損失を出します。その結果として領主は競争に負けるかも知れません。その一つではほんの些細な事でしょうから影響を与える事はほとんどないでしょう。しかし、同じ行為をそのメイドと同じ様に周囲も真似て行ったとします。すると領主の扱う物の品質は全体が下がり、資源も支出が多くなるでしょう。例え0.1の損失でも10倍や100倍になれば影響を無視できなくなるかも知れません。一つ一つの損失が行動の完結を持って清算されるなら毎回リセットされた様になるでしょうが、大抵はそうはなりません。質の悪い靴を渡せばそれを使わなくなるまで長い間影響を受けるでしょう。質の悪い服を渡せば見た目に影響し交渉で不利になるかも知れません。その蓄積でその領主と領地が競争に負け続けると負ければ負けた分だけ領地の収益が低下し、その結果が配下の収益に影響します。

そうなれば配下の者はますます利権により損失を補填しようとし、結果として更に弱体化し悪循環を繰り返します。そして外部との差が明らかになった時、攻められるか破綻するかで破滅する事になります。利権を悪用するのは自身の属する集団を弱らせながら自身の保身と利己益を確保する方法です。

この時、外部に移動できるかどうかで結果が変わる為、最初から外部に移動するつもりで利権を行使して利益を稼ぐ方法がありますがここでは割愛します。


ではメイドが利権を使わなかった場合はどうなるでしょうか。先ほどの店Aから品物を買い領主へと渡します。本来の展開であり、そこに差違は現れません。行為は正当に行われ不当な手段の悪影響による不利な条件は起きません。領主の周囲の状況が変化しておらず領主の能力が低下していなければ以前と変わらない運営を行い、以前と同じ収益を分配する事が出来るでしょう。それが損益分岐点で利益側へ傾いていたなら貯蓄が出来、災害に対しての準備が出来、更に安定して領地は平和になるでしょう。


これはセキュリティの考えの基本です。


常に仮想敵を想定して防衛体制を維持し、いつ防衛圏を侵害する外的要因に襲われても対処出来る様にする方法になります。

現状が外敵に襲われていない、災害に遭っていないのはなぜかという考え方が必要で、起きていない事実をリザルトセットにある結果を見て推測します。

災害に遭っていないのが災害対策を行なったからであれば、その対策を怠れば災害に遭った時に実用出来ずに被害するかも知れません。

外敵に襲われていないのが侵入対策を行なったからであれば、その対策を怠れば外敵に襲われるかも知れません。


攻められないのが、敵がいないからか敵の戦力が防衛力を突破出来ないからかの区別がその状況だけでは分かりません。知るためには外部の情報が必要で内部にその情報はなく、外部を調べて脅威がないかを確認する必要があります。脅威がない事を確認しても、その判断は能力によって行われ能力の高さによって正しく脅威がないかを確認できるか出来ないかの差が生まれ、能力が低下していれば間違った判断をし、脅威を見逃し攻め込まれ破滅する事になります。

自分達の中でのみ評価をしていても、求められる外部に対しての識別を行う能力があるとは言えません。外部が制御不能であるならば、新たな知識や新たな技術で脅威度は変わり、また自身の集団が持つ資源の量によっても脅威度が変化し、そして外部の勢力が持つ資源の量によっても脅威度は変化し、自身の属する集団に変化がなくとも外部に変化があれば脅威度は変わります。自分達の中で評価をしているだけでは皆が同様に低下してしまえばその差はない為に自分達を正しく評価出来ない事も要因になります。

そしてセキュリティは低下して攻められ大きな損害を被るか破滅する事になります。


自分達が自分達だけで評価していく方法に存在する欠陥の為に、本当に維持出来ているのかが分からない状況が出来上がり、その欠陥を無くす目的で補完する方法として自助努力などと言われるやり方で能力を維持し向上させていく必要が生じます。低下しているかどうかの判別がつかないのならば常に向上する様にエネルギーを掛け続ければ、上限値で高止まりし、安定するだろうと言う考え方です。そして、それが難しくとも低下する速度を遅らせる要因になるだろうとも考えられます。


その為に、常に努力する意識付けが必要であり、勤勉などが尊ばれ、利権により集団の弱体化が起こる為にそれを拒み正当な行為を行おうとする誠実が尊ばれます。

その対価は自身の属する集団が弱体化せず、潜在化する脅威から身を守る体制です。

弱体化すればそれまでは脅威として認識しなくて良かったものも脅威として認識しなければならない受動的な立場に追いやられ不利な状況になるでしょう。


この様に私達はそのリザルトセットとそこから生まれた経験則から方向性を導き出し、ほぼ間違いないだろうと思われる方法を作り出して知識とし、現状の生活が失われた場合とそうでない場合の差をリスクと捉えてそれに対処します。

怠れば外的要因に対して受動的になり、対策しなくても襲われないかも知れないが襲われるかも知れないという状況になり、対策しないだけの快楽を得られますが起きた時にはそれの比ではない苦痛が伴います。対策するという事は、日々わずかなコストを払い続けて対価として大きな損失を回避しようとする事であり、対策しないという事は、日々払うわずかなコストを惜しんで実際に被害した時にまとめて損失を被る選択をするという事です。

いつ来るか分からない敵に備えるのは無駄と思うかいつ来るか分からないからこそ対処すべきかで考え方は変わりますが、私達は対処しない事を選んで破滅した結果を知っており、その結果から自分達がどう行動するかは自明となります。


しかし常に外敵に対してセキュリティを維持し続ける事に意味はあるのかと疑問視される事が多く、セキュリティが有効である事は外敵に侵攻されない事でしか証明出来ません。どれだけの防衛力があれば攻められず、どこまで下がれば攻められるかの判断が難しいものです。下げた結果攻められれば対策をしてきた根拠が大きく損なわれ、反面、高い防衛力はコストに反映されます。これを悪用する方法はありますがそれも割愛します。

では金銭的な部分として表面化しないコストで不足しがちな資源の枯渇などが影響する明示出来るコストを抑える方法はないか、となり、先ほどの事例にあるような日常の行動にその低減出来る部分を求める事になります。不正が無ければ、悪事が無ければかかるコストも減りより高い防衛力を維持出来るでしょう。その差は本来あったであろう結果との差でしかない為に、非常に分かりづらいものであり、だからこそ、個々人の誠実さが求められます。

しかしそれは同時に他者に依存するシステムでもあり、その依存をなくそうとすれば、厳しいルールで制限をかけるしかなく、能力による選民主義の道を辿ります。扱う権力の大きさにより、能力と厳しいルールを用いて分類し、そこから生じる利権などの悪用を防ぐ方法に辿り着き、それは独占や寡占を生み出し、その批判をして暴動が起き崩壊する原因になります。制限を掛けなければ利権の温床と化し、制限を掛ければ独占や寡占の温床となる、私達はその在り方から見直さなければいけません。」


そしてエールトヘンは締め括る。


「現在の王国は貴族制度であり、それはかつての知識人達がこれならば長い間安定して平和な暮らしを営めるだろうと知識の粋を集めて構築したものです。貴族においてもそれを熟知出来る者は少ないかも知れません。故に貴族はルールを厳しく履行する事で与えられた道しるべや方向性から逸れない様に自らを律します。『青い血』と呼ばれるのはそれが所以です。ただ教えられた事に冷徹に従い、そこから逸れる事で生じるリスクを排除します。逸れた先に起こりうる災害のリスクを選択しない事で平穏を得るのです。厳しいと思われる刑罰も、ただ複雑なだけと思われる作法もそうやってリスクを回避する為に組まれます。その制限を外すにはそれが何のために作られたのかを知り制限を外せばどうなるかを知る、つまり"なぜ"そうなっているのかを熟知する必要があります。貴族はそうやって長い間統治をしてきました。その仕組みに慣れ親しみ、そして性質の善良な者はやがて"なぜ"その仕組みがあるのかを考える様になるでしょう。その繰り返しにより仕組みを熟知し、厳しく制限しなくとも自身の知性でもってルールの必要性を理解して、ルールに縛られていなくともルールを守る事で得られるリスク回避が出来ている行動をする様になるでしょう。

これを『法に従い行動し繰り返す事で、やがて自らの行いが法となる』と表現します。主体性を持った個人が法律に沿った行動を選択して、悪事や犯罪を選ばなくなる状況を指します。知性が高ければ悪事を選択する事により生じるリスクを知るでしょう。そして行動を生み出す意識そのものが法律違反になる行動を排除し、法律内だと認識して許容される動作を組み合わせて行動を定義する様になるでしょう。

そうなった時、貴族制度は役割を終えるでしょう。続けるも壊すもその時に自由に選択出来ます。貴族制度であろうと民主主義であろうと社会主義であろうとその根本的な瑕疵は私達の在り方に原因します。その私達の在り方が性質改善される事により変わったのならようやく私達は、貴族制度という卵の殻を破り自分達の手と足で世界へと一歩踏み出す事が可能になります。

お嬢様は貴族です。貴族だからと言って『青い血』のままで良いはずもありません。与えられたルールを熟知し、問題の解決策を得る努力をする必要があります。私達がルールに従っていても誰かが外部環境を操作して私達がルールに従っているだけでは平和に暮らせない世界を作り出すかも知れません。その時の為にも、自らの属する社会を守る為に、さあ、今日も頑張りましょう。」


-->その状況は常にルールを破る側の優勢で進められ、ルールを守る側は劣勢となり破滅するしかない状況で暴力行為などの犯罪をする事になり、ルールを破る側はその犯罪を咎め、ルールを守った側は咎めら

<--ここの話で分かる様に、どうにもならなくなれば外部に逃げれば良いと考える事もデファクトスタンダードです。この発想は商人に多く、性質として身についています。この方法が可能な為に、社会から利益を吸い上げ、どうにもならなくなれば別の場所に逃げるという手法を確立して、より効率よく利益を搾取する為に社会を潰しながら利益に還元します。そして充分寄生して吸い上げた後にドロンとするわけです。


-->こうして、悪事というものが社会から見ればテロ行為である事が分かります。

<--本当は、昔から皆テロ行為だと認識していました。しかしそれでは津語の悪い者がTVなどを使って洗脳して、TVなどでみられる凶器を使った物理的な手段のみが『テロ行為』だと錯覚させて自分達から目を逸らさせて悪事を働くという方法を実行しています。


-->私達は間違う事を繰り返してそこから生まれる不当な利益が与える快楽を知ってしまい、その誘惑に常に晒されており、低い知性では抗う事が出来ません。

<--平和な時でも私達は常に岐路に立たされているという事です。表現としては『私達は常に羅生門の前に立っている』と言えます。


-->「THE YELL〇W M〇NKEYS」というバンドがあって、昔「J〇M」という曲で有名になりました。その曲は人道的な視点やモラルを感じさせる曲でした。そして現在そのバンドは「テント〇ムシ」という曲を歌っています。その曲は麻雀を題材にして入れ墨を入れた男達がガラの悪い事をやっているPVになっていました。

昔のそのバンドと曲を知っている人がその名前を聞いた場合はその曲を思い出し、「昔ファンだった」などと言うかも知れません。現在の曲を聞いて知った世代はその言葉を聞いて「この人はこんなバンドが好きなんだ」とびっくりするかも知れません。こうやって、昔あった出来事を上書きして都合の悪い事を隠蔽しようとする連中が平然と世の中にはいます。バンド活動にはスポンサーが必要で、その金の影響力と話術でどんどん違う方向へと逸らす事が出来るという事です。

新曲を聞いた人でその内容が嫌いな人はそれ以降このバンドの曲を聞こうとはしないでしょう。すると過去の名曲と言われた「J〇M」という曲を知らないままに生活する事になり、自身にとって何かを感じる機会を一つ逃す可能性があります。ツバをつけたり汚して汚くして誰も触らない様にする、というのが根本にあり、やっている事は品性卑しいことなのですが、品性卑しいからこそ効果的です。

そして、例えば「J〇M」という曲が名曲で皆に聴いてほしいと思った者が買い支えようとします。その者達のその思想がある権力者に都合が悪ければ、そのバンドの曲などをモラルなどであまり誉められたものではない曲を作らせて活動させます。そうするとその曲を聴いてほしい者達が買い支えようとしますが、同時にその者達はそのモラルなどであまり誉められたものではない曲が好きなんだと錯覚させる状況を受け入れてしまう事になります。こうして誰かに都合の悪い人物の評価や風聞を下げて排除しやすく出来ます。

昔のそのバンドの状況を知らない者から見たそのバンドのファンというのは新曲のイメージや世界観が好きな連中というラベルを貼りつけられます。ツベさんの所で「J〇M」を聴いた後に「テント〇ムシ」を聴いてみてください。この様に物事は上書きされていくのが良く分かります。



<---ここからヘイトスピーチを含む

悪人が社会を混乱させて利益を稼ぐのは外から見れば内乱に近いです。つまりは外部の勢力が仮想敵だとすれば、その外部に操られているとも言えます。資源を枯渇させて死のリスクを抱えさせる事で判断能力を鈍らせ間違った行動をさせ、また、間違った方法で快楽が得られる事を覚えさせて判断能力を失くさせる。すると自身の属する集団を平然と加害出来る存在が出来上がり、その集団を混乱に陥れる、とも解釈出来ます。環境を仮想敵として考えた場合、彼らは敵に操られて襲い掛かる尖兵でもあり、また、同士討ちを恐れる為に躊躇する相手を自身が強いから恐れているのだと錯覚出来る弱者でもあります。

端的に言えば、今時の権力者の大半は弱者、負け犬の性質しか持ち合わせていないという事です。自身には能力があると思ってしている事の大半が単なる裏切り行為でしかないのですから。そして、その行動を選ぶ原因が、環境に勝てないから、です。環境が与える要因から生じる悪影響が自身の制御しきれない快楽への欲求を満たす事を阻害するから、環境に勝ちその報酬として受け取るのが正当なものも、自身の能力では手に入らないから代償行為として、安易な裏切り行為に逃げる、というのが彼らの逃避癖です。

彼らは主張するでしょう。「では争いばかりしてないで協力しろよ。」と。しかしその足を引っ張る行為と表現される争いはその権力者がその地位につくまでに行った行為と同じであり、言ってしまえばブーメランなわけです。そしてそのブーメランをブーメランでなくすには現状での行動で示していくしかないのですが、能力がなく悪事をするしか能がなかった為に、その様な事も出来ない、そして責任も取りたくない、だから「自分は悪くない」と言いながらその場しのぎの対応を繰り返します。

目標を達成するには計画を決めて行う必要があります。目標に合致しない行動は非効率であり、また、計画に必要な資源を浪費して達成を阻害します。

権力者になろうとしたとします。すると権力者になった時の状況を先に考え、利権を行使して快楽を得られる状況と見るのではなく、その時にどのような状況になっていれば良いのかを知る必要があります。利権を得て快楽が得られて欲望を満たす事が出来る、という幻想はそもそもが間違わせる為に作られます。その時点で既に誰かの誤誘導に惑わされているのですが、そもそもが欲望を満たしたい為に達成出来る現実的な目標を探した結果、その目標が合致しているのでそれに容易く騙され権力者を目指します。

しかし、権力者になった時に、自身がしていたのがかつての権力者になった者に対して妨害や加害行為であるなら、自身が権力者になった時に、自身が同じ方法を実行されてもそれを暴力で止める事は出来ますが、禁止する事が出来ません。どの様に言っても「お前が言うな」と言われるだけです。

ですので、権力者になろうと決めたのなら、なる前から計画の達成の為に合致する行動を取る必要があり、今の権力者にはそれが欠けています。途中からすればよいというものはなく、それで達成出来る算段があれば良いですが、大抵はそんな都合の良いものはありません。そもそもがその判断が出来る根拠がありません。そして、そのまま権力者になれば誰も正当な行動をして従おうとしません。なぜなら権力を得る過程でそういった人物のみを選んで道を選んだからです。そして利権やコネや賄賂や媚びがなければ権力を維持出来ない構造が出来上がり、その悪循環が延々と続き、弱体化の道を辿り破滅へと到達します。その時に権力者が「なぜうまく行かないのだ」と叫んでも、それはその人物の知性の低さとその知性を生み出す性質そのものに間違いがあったとしか言えません。つまり、「あなたという存在が間違いだ」という結論を実証しただけになります。

現状で上手くいかない状況にあるという事は、つまり、外的な要因はあれど、自身の過失が大元の原因であり、それは誰にも言える事です。そこには非情な判断も要求され、「お前を生かしたのが間違いだった」という状況も含まれます。悪人を生かして逆恨みされて今度は負け、苦境に追いやられるなどはよくある事です。相手は誰かに襲い掛かる機会だけを求めれば良く、守る側は生活をしながら守る事になり、そもそもが不利です。その不利を覆せる能力がなければ悪人に甘い判断はしてはいけません。

自身の置かれている状況を、計画の見通しが甘かったのだと認める事が出来なければそのまま間違い続けます。しかし、権力者は弱味を見せたくないから間違いを認めません。間違ったままどこまでも強引に突き進もうとして、周りを道連れに破滅するのがセオリーです。その場合にはそれに従う側にも責任があります。その権力者を存在させた事が間違いです。

その権力者は権力を手に入れた後に、自身の行動を改めないと誰もまともな人間は従いません。従うのはその権力者がしてきた行動と同じ行動をする人物だけです。権力を手に入れたから今日から利権やコネや賄賂や媚びを使用せずにまっとうに行動します、と言っても誰も信じないし、誰も従いません。利権などを目立てに従った者は目的がなくなったから、そうでない者はそれまで行って来た行動を止めると言われても信用出来ないから、となり、初めから破綻している行動になります。

では規則正しい生活もしているし、税金も払っているし、法も遵守していると権力者は言うかも知れませんが、それは権力を持たない一般市民が言えば『まあまともかな?』と言えるレベルでしかなく権力者の基準でありません。その姿はかつての権力者や誠実な人間などの行動を表面的に真似ただけでしかなく、それで充分ではありませんし、そんなもので権力者が出来ると妄想する事自体が不遜です。権力者の基準は、利権に頼らず媚びや賄賂に頼らずコネを利用しない、というのが基本スタンスです。ここから劣化して現在の権力者の行動が生まれます。

コネの原型はそもそもが信用です。信用出来る人物の紹介はその人物の信用度に比例してある程度信用出来る、というものが基本です。そして、同じ血統の人物はその性質が推測し易く間違いやすい部分や長所などが把握しやすいので、時間制限などの要因により血縁者を多く採用するというのが原型です。これを外から見て、権力者になれば能力ではなく自分の好き勝手に判断出来てその判断で賄賂を貰えば多く儲けられる、と妄想した者が今の権力者になります。知性の高い者にとっての当たり前は知性の低い者にとっての当たり前ではありません。彼らは錯覚から妄想して襲い掛かってきます。血統を頼りに信用出来る者を集めた後に、その体制が崩壊するとここぞとばかり悪人はそれを利権を使って快楽を貪ったと言い出します。そして、事実がそうでなくともその口実が自分達に利益を齎すのでその選択が成されます。ですからコネがどういったものかを判断出来るような知性が求められます。


外から見れば、『あいつら勝手に殺し合ってるぜ。弱い種族はこれだから。』と思われているでしょう。それでも快楽の誘惑に抗えないのが、となります。だから悪人などは「本来見るべき視点の一つ下を見ている」などと良く言われます。与えられた知識や権利が何に使用されるべきなのかを考えずにより小さい規模や低い視点で使用して利益を得ようとします。利権もその一つです。それすら分からないまでに劣化した私達ですが、それでも逃避して、本来考えるべき事を考えずに都合の悪い事から目を逸らしていれば、その場しのぎで生きていけます。この状況を「生きている」というのか「壊れている」というのかどう判断すべきでしょうか。そして「壊れている」や「死んでいる」と言われれば条件反射的に「俺たちは間違ってない」、「俺たちはこれで合っている」などと言い出し、相手が間違っているんだと言い始めて襲い掛かって黙らせようとします。その行動が知性のないけものだと言われても既に逃避して考えない為に間違いが修正される事はありません。彼らが取るのはリザルトセットの中から選び出した条件反射に最適な行動だけです。

そして彼らはこう言います。「寝た子を起こすな」と。いつまでも他者に迷惑をかけてでも揺りかごの中で甘えていたいと言い出しますが、環境はそんなものに興味もありません。道端のゴミの一粒の主張など気にする必要もありません。そして資源が枯渇し環境が悪化して、また口減らしをして「仕方がない」、「俺たちは悪くない」、「俺たちはちゃんとやっている」と言い出し問題を見ようとはしません。そしてそれを自身が破滅する状況に陥るまで繰り返し、その時には譲歩に譲歩を重ねた後に対策を行う資源が残っておらず、何も対策を行えずに破滅します。

この自虐的な状況から抜け出すには、正しいとされる行動以外になく、本来見るべき視点より低い視点、本来考えるべきマトリクスの大きさより下の次元だけを見て行動するから自虐的に追い詰められて言い訳を重ねて生きていく事になります。しかし問題の本質を見ないものにはその問題の本当の姿が見えません。ですからその問題がどの規模で考える事が出来ずにその場しのぎで逃げ続ける事になります。とまあ、この部分は精神論になっていますが。

--->ここまでヘイトスピーチを含む


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