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S076 ジャングルから来た王者になりたいタージャン

食物ネタをやったので簡単なのをもう一つ。

けっしてグルメ小説ではございません。

書いていて思ったのですが、今回はどうにも上手くかけておらずモヤッとしており書き直しもうまくいかず書き直すなら一から書き直すことになり長い時間かかりそうなので突っ走りました。


この回の後半の半分くらいは精神論的なものですので。

ここは民衆側の悪意について書いている部分もあるので前話との対になるかも知れません。


ーー>今回の曖昧な部分。ソースなし。

また、餌とするものが違えばたんぱく質の構成も変わる為に感染しづらくなります。

ー>これを防ぐ為に食べるものを変え、家畜と人との隔たりを広げ、家畜から人へ、人から家畜へ、という感染の拡大を防ぎます。

<--ここまで。過去の慣習からの推測。


全体として食肉あたりの栄養関係は曖昧な部分が多いので可能性の示唆だけだと思ってください。


ガラガラ・・・。


タージャンの横を拳大の石が落ちていく。先程足を滑らせて落ちそうになり片手懸垂でようやく態勢を取り戻したと思ったらこれだ、とタージャンは冷や汗を流す。

しかし、退くわけにはいかない。



それはある日の事だった。ジャングルで無双していたタージャンの元に探検隊がやってきた。タージャン目当てではないだろうがタージャンの住処であるジャングルに来たのだからタージャンに会いに来たと言っても過言ではない。

そうしてタージャンは探検隊の前に姿を現したのだが探検隊は驚いてタージャンに攻撃してきたのを覚えている。『ゲンジュウミンカヨ』とか言っていたのを覚えているが変わった戦いの合図だと思ったのは遠い過去の話だ。その時の探検隊は撃退したが懲りずに今度また来たらやけに下手に出て色々と食料を土産にしてきた。

『顔は良いけどせめて体くらいきれいに洗ってからにさせてよ』と騒ぐ女共々ごちそうになっていると彼らが地元民の言葉で話し掛けてきて、ジャングルの奥にある植物が欲しいとかなんとか言ってきた。ごちそうになったからそれくらいならと話をした後に、彼らを案内する事にした。

キャンプ地から出発した先遣隊がたいした苦労も要らない道を色々と騒ぎながら付いてくるのにうんざりしながらもタージャンは地元民の言葉を話す男と仲良くなった。なんでも彼は地元民とどこか遠くの民族のハーフなんだそうで、だから地元民の言葉を話せ見た目が彼らに近いから雇ってもらえたらしい。彼らの言葉もがさつで乱暴な父に教えて貰ったらしく、と言っても命令に従わないと殴るから覚えるしかなかったらしい。

『成人の儀式で父を倒したのか』と聞いたら『なるほど、その手があったか』と彼はほくそ笑んだ。


そうして何日か一緒に歩いていると連中が小さく四角い物体を皆で見ているのを見つけた。何を見ているのかと思えばその小さい物体の中で人が動いているではないか。噂には聞いていたが見たものを封じ込めて鏡写しのように出来る代物があると以前にジャングルの外の地元民に聞いた事がある。そんなものを見てどうするのかと思った事もあるタージャンだがなるほどよくよく見て見れば動き回るそれは面白いと思い直し、いくつか見せた貰った。

そこで見たあるアニメ。色々と刺激的だった。世界のあちこちに旅して強い獲物を倒して食材を手に入れ、それを食い、また、それを料理して皆に馳走して自分を認めさせる男気溢れる内容だった。そのトップに君臨するのが味王者という存在らしく、タージャンはその存在に激しく心を揺さぶられた。



そして今日に至る。

その時仲良くなったスーザンと半ば結婚したような関係になっていて、『あなたってバカでどうしようもないけど、純真で嘘をつかないから好きよ』とまるで子供を扱うような態度を取る事もあるがタージャンはタージャンでスーザンに嫌われたくないから大人しく受け入れていたりする。

探検隊で出会った彼、ジャミルとスーザンに教わりながらジャングルを出て都会の洗礼を浴びた。慣れない事も多かったが皆、『タージャンだからな。仕方ない』とどこかあきらめ気味に許してくれた日々を過ごしながら最近ようやくまともな日常を送っていると実感出来ている。

慣れるまではジャングルの案内をしその報酬で生活して、そのせいかやけに探検隊はタージャンに親切にしてくれた。

そして味王者。遠い存在だった。どこか遠い夢のような存在だった。なら諦めるか、いやそんな事はない。居ないのなら自分が成れば良い、タージャンはそう思った。そう思ってしまった。

その日からタージャンは味王者になる夢を抱き世界各地を飛び回る事になった。その成果もあり最近では『食の探検家』と噂されてタージャンが何か珍しい食材を取ってきたら是非食べたいと言ってくれる者も増えた。スーザンやジャミルが応援してくれ、そしてタージャンが持ち帰る食材を目玉にしてレストラン経営をしてうまくいっているようでスーザンなど『あなたと出会った私は変われたわ。あなたは最高のパートナーよ。愛してる』などと喜びを体で表現してくれる。

スーザンに関しては何も不満はない。むしろ早く会いたいくらいだが皆の評判については不満がある。そうではない。タージャンが欲しいのは『味王者』だ。

皆にそう思わせる為に今日もここにいる、とタージャンを思い、ハーケンを打ち込み崖を登る。

この崖の上に求める食材がある。怪鳥ゼルビリスの卵が。

ゼルビリスがその特徴ある声で一度鳴くとその声を聞いた者は皆一目散に逃げるそうだ。だがその卵はかなり昔に食べたチャレンジャーが居たそうで大変美味らしい。この地域の食物連鎖の頂点だ。さぞ美味しいものを食べているのだろう。


そして遂にタージャンは崖を登り終えた。そして目の前にゼルビリスの巣があり卵があった。

さすがに怪鳥の卵なだけあって大きい。あれだけの大きさなら10人いや20人分はいけるか?とタージャンは興奮を抑えつつも巣の中に入っていった。

近寄ってみて見れば卵は本当に大きく1mはあろうかというサイズでマジックバッグを持ってきていなければ持ち帰るのも難しかっただろう。卵に触れて生温かさを感じながらタージャンが目的の物を手に入れた感動の余韻に浸っている時、ひとしきり大きな鳴き声が辺りをつんざいた。

その鳴き声に恐る恐る振り返ると親鳥が、ゼルビリスが凄い形相で戻ってくるのが見えた。

『あ、鳥だから目が良いんだね』と半ば思いながらも逃げる場所もないから覚悟を決める事にした。せめて人語を解してくれたら『この卵がどうなっても良いのか』と脅すつもりなタージャンではあったが。

ゼルビリスは巣に着地し、その勢いで起こった風で吹き飛ばされそうになりながらもタージャンはこらえて身構え対峙して言い放つ。


「さあ、俺とお前。どっちが食物連鎖の頂点か決める時だ」


勝つ。勝ってスーザンの元に戻るのだ。この卵を持って。


タージャンは決意をみなぎらせ、ゼルビリスに必殺パンチをお見舞いするために腰を落とした。



タージャンの活躍はこれからだ!




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「今回はどこに焦点があるのかお聞きしたいのですが。勇者と言える行動をする事でしょうか。価値を創出する事でしょうか。それとも食物連鎖と食物についてでしょうか。」


ローレンシアは自分でもどこにどうというでもない話をしてみたが、あえて言うなら少年スポコン漫画のノリが好きだからそういったアツイ展開があるのかという意味を込めたつもりではあったがどうやらエールトヘンには届かなかったらしい。代わりに色々と違う視点で問いが返ってきたから大人しくそれを聞く事にした。


「いあ、えと、こうアツイ展開というかじゃな?志に燃えて夢をつかみ取るというか、な?そんなものをな?聞いてみたかったんじゃが。でもとりあえずエールトヘンから見た視点で話を聞いてみたくなった。」


エールトヘンはエールトヘンでローレンシアの意向を正しく捉えられなかった事に残念に思いながらもローレンシアが聞きたいと言ったのでエールトヘンが思った話の感想を述べる事にした。


「そうですね。この話の主人公の男性はあまり知識などが高くない社会に居た所為で価値観が未熟ですがその性格は真面目で周囲も好感を抱くような人物と言えるのでしょう。しかし、周囲は周囲で彼のその性格に甘えている部分もあり、それは別の視点で言えば彼を良い様に利用しているとも言えます。お嬢様が話に盛り込みました隠し味として登場する女性の素性ですが、主人公の男性からすればその事情はそれほど考慮するような事ではないのかも知れませんし、もしかしたら気づいていないのかも知れません。それでも恐らくはその社会での価値観ではその女性を選ぶという選択肢は他の女性を選ぶ選択肢があれば選びにくいものかも知れません。それでも選ぶタージャンに『男気』を感じるとも言えると思います。細かい事は抜きして気に入った相手を選ぶという部分は見方によっては度量が広いなどと言われます。


次にジャングルの案内でしょうか。商人らしい取引として、その本来の価値観を知られておらず実際より有利な条件で取引出来るならあえて教える事もないと考え取引を優位に進めようとしています。恐らくはその植物はレアなもので特有の成分が抽出出来るか他では手に入らないからコレクションとして価値があるなどの付加価値があるのでしょう。しかしそのどちらもその事実を知らないものからすれば良くて綺麗な植物、悪ければそこらにある雑草と同じなのです。しかし主人公は性格がお人好しなので、何か裏があるとは思わずに案内までしています。そういった意味で彼は確かに話の主人公に相応しいのかも知れません。


次にレストラン経営でしょうか。そこには主人公による価値の創出が存在します。他の誰かとは違う特殊性を生み出し価値を持たせる事で差を作り出し他より有利な条件を作り出す、その主人公の行動こそが本来あるべき差の作り方であり、商人とは違う行動と言えます。その差は自身の努力の成果であり、他者の権利を不当に侵害する事もなくあえてリスクを選ぶ事で利益を得る方法を生み出しています。ハイリスクハイリターンと言えあまり良いとは言えませんが、どのような行動も多少なりともリスクは存在します。それを選択した個人からの見え方の違いはありますが。そして見え方の違いにより遅延して発生する問題というリスクへの対処は甘くなりがちですので行動する時には良く考える必要があります。

ここでは問題点と言える程問題点ではありませんが、主人公の周囲の人物が主人公の持つ価値、付加価値を利用して取引をしている所かも知れません。運命共同体で主人公への還元が不当と呼べないだけあるのなら話は別ですが仮に主人公への還元がなくその利益だけを受けているなら主人公を都合良く利用している、という見方が出来てしまいます。今回の話では主人公と女性の仲が良さそうなので問題はないようにも見えますが簡単に関係を断ち切る事が出来るなら注意が必要でしょう。ある意味でこれも周囲は主人公に甘えている状況になります。


成人の儀式についても言っておきましょう。元々成人の儀式として父や強い者を倒すのは彼らという先達、社会を担う者達に認められるだけの能力を身に付けたかを試されるものです。単に年齢を重ねて体が大きくなったから成人した、という事ではありません。『人として成る』とは能力を持ち知性を持ち社会を担う者になれたという事を指します。これに対してその域に辿り着かなかった者を『成らず者』と称し、大抵において不良な素行を繰り返す年齢的に成人したと呼ばれる者を指します。

社会が求める構成員としての『人』とは単に年齢を重ねただけの者でしょうか。それなら皆が知性のない獣でも問題ありませんがそれで構成出来る社会とは何かを考えれば分かるでしょう。私達が甘い考えとその誘惑に負けて、誰もが当然の如く生きていける社会を夢見ても資源や環境がそれを許しません。それを克服して実現するには能力が必要という矛盾を見出すだけです。私達は資源や環境に対して受動的である限り、そのような甘い夢を実現出来ません。そしてその実現出来たとしてその状態を維持するには能力が必要になります。これには環境そのものの獲得競争と資源の奪い合いが原因となり、同じ権利を持つ者が増えれば増える程に能力が必要になり、しかし実現するためには多くの人物が必要となる矛盾があり、そのバランスを追求する問題へと発展します。

自身を無条件に認める、そして認められる社会は夢のようなもので甘い誘惑に駆られますが同時に他者を無条件に認め、認めさせられる事になり生活環境を悪化させます。その時点で甘い夢は見る事が出来なくなり資源と環境を手に入れる為に能力を競う事になります。その競争が過度にならないためには社会における最低限必要な能力と、社会において個人がある期間に手に入れて良い資源の制限が必要になり、これらを行うシステムは全体主義とも呼ばれる事があり、個人主義や資本主義の対になります。

個人主義は個人で物事を計画して行っていく主義であり、研究などを個人で行う思想を持つ者などに適用される呼称で、集団で役割分担して行う方法の代表例となる全体主義の対とされる事があります。資本主義も資本を持つ者が優先して活動出来るために全体効率を無視する部分が全体主義と対になります。

しかし社会の中で弱い立場にあるものはそれを夢見ます。自身を肯定できるだけの何かを持っていないからです。持っていても大抵は『他者より強い』からに留まるでしょう。本来は社会の中にあり基準に達し『成人した』と認められるだけの能力を持った、という証明とその自信により自身を肯定するのが基本です。しかしどこにその基準があると言えるのか、となり、社会の中で明文化出来ない以上は曖昧なものになり、そして曖昧なものは不安でしかないために確実なものを求め、そして周囲に求めます。例えその確証が得られなくとも、他の『誰かより』優位であれば、社会の中で資源枯渇による口減らしが発生しても生き残れるという安心感を得、それが手に入らないなら保身の為にさきほどの夢を見ます。弱い立場だからこそ夢を見、その夢の実現には強いと言えるだけの能力が必要である矛盾は考えないのです。

そして、そのような者達の行動基準として大抵は『考えない』為に、その批判をする者は大多数の弱者ではない者達である事も多く少数になる傾向があるので、リザルトセットを見て条件反射的に集団心理で大多数の強みを活かして加害して利益を得る口実にするのです。そしてその夢を肯定する強いとされる能力を持つ者を擁護して、良い様に利用されるのです。その擁護された人物が善良ならその擁護した集団の望む結果に少しでも近づくかも知れませんが、大抵においてこのような甘い幻想を夢見る者を擁護する者はその大多数の支持という強みを利用して利益を得ようとする者です。そのような人物にとってはその大多数の夢の実現など関係ないでしょう。しかしその表面的な言動には善良であるか悪質であるかの区別は出てきません。記録に残る実績も時間が経過すればそこに記されない情報が消失してその実績を補完する情報がなくなる為に推測する事になり、それがどのように実現されたかを知る術を失い、錯覚させるために用意されたものかどうかの判断が出来なくなります。


『人は思いつくもののほとんどは実現できる』という言葉もこれを後押しします。ですが、誰もその言葉ばかり言っていれば実現出来るとは言っていません。集団で同意すれば実現出来るとは言っていません。それを実現するためには何をすれば良いかを考えるというプロセスが抜け落ち、そして実現したい物事の難易度に比例した能力が求められるという事態になり、そこでようやく夢を見ていた事を知るのですが、やはり考えない為に分からず、そしてそれを受け入れたなら自身の実状を改善して打開する方法を得られない為に、その事実からは目を逸らします。そしてまた考えない様になり条件反射的な行動を繰り返す悪循環を行います。そして自身が目を逸らした問題部分を誰かに依存する事で解決して実現しようとし、強い指導者や権力者に縋りつくようになります。これも言ってしまえばブラックボックス法です。ブラックボックスの中を自分ではどうにか出来ないが誰かにその部分をしてもらえば自身の理論は完璧だ、という主張です。その『誰かに』という部分に欠陥があるとは考えないのです。


こういった事態を避ける為に『成人』という基準が必要になりますが、私達の精神は形に見えないものです。その基準に達しない者、知性の低い者からすればその基準は『どこかの誰かに都合の良い基準』の様に見えてしまい、それが例え客観的な事実に基づいた基準だとしても、自らの保身の為にはその主張を無条件に受け入れます。私達はこのように見たいものを見ます。それを超える為の基準が、客観的に判断する能力を持っているという基準こそが『成人』という基準です。このように客観的な事実から基準を導き出してもその客観的な事実を根拠にしている基準を、客観的に分析判断する事が出来ないためにその基準を受け入れないという状況に陥ります。そして自らに損失を与える基準を否定するために分かりやすい物理力に頼ります。また、分からない者にそれを強制すればその状況を表面的に捉えると自分達に都合の良いものを押し付けようとしている、とみられ、それもまた争いの原因になります。分からないものには分からないし、それを押し付ける事も難しい。かつてのように信仰と称してもそれを押し付ける根拠にして悪用する者もいるためにそれも何の問題もないとは言い難い。結局はそれまでの教育の過程で、『卵が先か鶏が先か』という問題と同じように知性を育み客観的な判断能力を得させる事でしか対処出来ず、教育においてマニュアル的にチェックリストを全てチェックしたからと言って客観的な判断能力が得られたとは言えません。それは行動出来る保証であり、それを検証する能力ではないからです。

『高みに達すれば分かる』という表現にあるようにそれが『分かる』ようになれば良いのですが分からない者にとっては何が言いたいのか分からないのです。『山の頂きから見た景色は山に登ってみないと分からない』という例えも山の頂に登る事が出来ない、つまりは登れない者にとっては自身を騙す為の方便にしか聞こえません。それを受け入れると損失を被りリスクが高まり最終的には破滅する状況を受け入れられません。


そして『成人』したかを認める習慣は、個人単位で問題を発生させない為のシステムであり、社会の基本単位である個人から問題を発展させないためのものです。理想論で言えば構成員全てが社会の行動基準から相対的に見て高い能力を持っていればエラーを発生させる可能性はほとんとなく、発生させても互いにカバーし合って調整出来るでしょう。ではその能力がなければ誰かにカバーしてもらい調整してもらうしかなく負担を増すという結果になります。そうならない様にサブシステムを組み上げるとも言えます。

ではこれを悪用するにはどうすれば良いか、と考えた場合に、誰かの子供を貰ってきて養子にして教育も不充分に育て、能力の足りないままだが『成人した』とみなして、その権利を利用して利益を荒稼ぎし、その人物が後でどうなろうと気にせずに私腹を肥やす、という方法が行われるでしょう。そのためにも、『成人』という基準が必要になるとも言えます。しかし判断能力を持たない者を操る事で得られる利益というものは自らは行動せずとも"勝手に"利益が生じるというとてつもなく甘い蜜のようなものですので一度成功して体験してしまえば大抵の者は忘れる事が出来ずに、絶えず魔の誘惑に晒されます。

結果的に個人を社会で管理するしかないが、社会は悪人が権力を奪い腐敗し個人の管理を私腹を肥やす為に悪用する、という事態になり、どの方法を選んでもそれを扱う私達自身の問題へと帰結するのです。制限をかければ知性の足りない個人の集団を扇動して自由などの権利を保証すると甘い囁きで操り制限を撤廃させ死角を作り出し、基準を作ればそれが一部の特権を得る者達の利益を得る為に決められていると扇動して基準を撤廃させるか緩めさせ死角を作り利益を荒稼ぎします。その際に客観的な根拠は必要なく、知性が低い者達が自身から見た世界での出来事として真実だと錯覚出来さえすれば良く、また、その際にはリザルトセットを見て、どうすれば利益を得られるかの欲望も加味され、集団で襲い掛かれば相手が抵抗出来ないと分かれば根拠がなくとも主張を無条件に肯定して実行します。

『言い掛かり』というものです。それはまだ成立していないが相手を屈服させてしまえば事後承諾で成立させてしまえるというものです。正しい使い方はその主張はまだ過程であり成立していない、という状況に使われるべきものですが大抵において強引に物事を押し進めようとする場合に使われます。


こうして、夢が実現出来ない事を知るだけの知性を得た後に、ようやく"夢は実現する"土台が出来上がります。甘い夢を見ないようになった時から、夢がどういったものだったのかを"考える"様になるのです。それがどれだけの難易度か把握出来るようになった後に、それでもどうしても実現したいと思った者がその実現の難しさの要因となる条件を達成して夢を実現させるのです。誰かに頼るでもなく、しかし出来ない事は押し付けるのではなく頼む事で役割分担し、相手に受け入れがたい条件を押し付ける事なく成立させ一つずつ問題を解決しやがて実現させるというプロセスを辿ります。これを民主主義などの大規模な夢で行うには正しい教育を行い知性を育み判断能力を付けさせ、そしてそれを教える側はその見本として強制するのではなく押し付けるのではなく、導くようにその行為行動の在り方を実際の姿として見せる必要があり困難な方法と言えます。そうやって甘い夢を見る者がいなくなった時にようやく本当の実現性が可能性を生じさせます。しかしそれは先ほど言いました様に困難を究めます。競争原理においてそのような厳しい条件を課しては生き残れないからです。そうして社会において実現しようとする主張に合った方法というのは限られておりその実状にあった施策が必要だと知る所までたどり着けばまずは最初のステップをクリアした、と言えるでしょう。社会において行う競争原理はそもそも実現したいとする主張と矛盾していないか、などその根本的なプロセスを解明し、主張そのものもどのような条件がそろえば実現出来るかという考えを持てる段階まで昇華させる必要があります。

曖昧なもの程そこに錯覚を生み出し、甘い夢を見る事が出来ます。だからこそ曖昧なままにして置きたい者が存在する事を忘れてはいけません。

これは救世主という存在が世界を救う事が出来るかという問題でも同じ事だと言える話ですがここでは割愛します。


では食物連鎖についてです。食物連鎖とは簡単に言ってしまえばフィルターシステムです。植物性プランクトンを動物性プランクトンが食べ、動物性プランクトンを魚が食べる、また、植物が光合成と土壌から得られる栄養素により繁殖しそれを動物が食べる、これが合流し魚を動物が食べ、より弱い動物から強い動物へと食べる存在が変わり、ここでは人間を最上位として考えておきましょう。そうやって数の多いものを数の少ないものが食べる事により作られる生態系を食物連鎖と呼びます。上位にいくほど数を減らすのは単純により大きな個体を支えるだけの下位の小さな個体が足りないからです。個体として大きくなればなる程に必要な食料が増します。これもある意味で私達の食料不足の原因と言えます。物理的に争う事なく知性を元に知識とその能力で優劣を競うのであれば体が大きくなる必要性はなくそれだけ食料の消費も少なく済み多くの人口を支える食料がある事になりますが、私達は争う事を止める事が出来ずにその可能性すら放棄している現状です。

ではこのシステムはどのような利点があるかと言えば、それぞれに生態が違う事で、それぞれに発生する問題を次の段階に持ち込む可能性が少ない様になっています。私達の近くの問題を考えてみますと病気と寄生虫があります。

もし食物連鎖において食べる動物のかかる病気がそのまま感染する危険性があるなら常にリスクを背負う事になるでしょう。しかし食物連鎖においてはそのリスクを減らす事が出来るようになっています。植物と動物はその生態が違うために受ける脅威も変わり、かかる病気も違うものになり、植物を摂取したからと言って植物の病気にかかる事はまずありません。また、動物でも生態の違いが大きければそれだけ餌となる動物の持つ病気には感染しづらくなります。

また、餌とするものが違えばたんぱく質の構成も変わる為に感染しづらくなります。その為、自由な生活という制限を外した生活ではない場合は、家畜の食糧と私達の食糧は別にします。同じものを食べているとたんぱく質の構成が似てしまい、家畜が病気に感染した場合に、菌はその家畜に接触する飼い主、その肉などを食べる消費者に感染しやすくなります。そうなると元々家畜などから人に感染する可能性のある人畜共通感染症はより感染しやすくなり、場合により、家畜の体内で変異したウィルスが新たな人畜共通感染症として現れる可能性が生じます。

これを防ぐ為に食べるものを変え、家畜と人との隔たりを広げ、家畜から人へ、人から家畜へ、という感染の拡大を防ぎます。

これとは別に菌が大量に繁殖している場所で生活していると菌に感染する可能性が高まります。何回という単位ではなく何万、何十万回、それ以上の回数、菌と免疫系が戦った結果として菌の数の多さに局所的に免疫不全の状態になった時に感染してしまう可能性が生じます。こうして本来は感染するはずのない菌が繁殖条件を満たしてしまい感染します。長期的な免疫不全になった者は極普通に周囲に存在するカビにも感染する危険性を持つのと同じ状態をわずかながらも作り出してしまいます。


では本来どのような食生活が最善なのか、と考える事になります。その際に、哺乳類が哺乳類を食べるという事はそれだけ病原菌に感染する可能性を生じさせます。最も簡単で酷い例を挙げるなら、同じ人間を食べる事を考えてみてください。その対象が感染する可能性のある病気に感染していた場合、その肉を充分加熱して殺菌出来ていなければ感染する危険性が高くなります。

ではそこから少し自分からの距離を離して同種族ではなく牛、鶏、豚を考えてみましょう。この中でブタは人に近くブタに感染した病気が人間に感染するものもあり、こういった理由でブタを食べない習慣が存在します。

牛においては主に役畜という部分に問題があり食べない習慣が存在します。この習慣は私達が錯覚するために取り決められたものです。私達が"共に働く役畜を食べる"という概念を持つことでここに不必要な推論を行い、"共に働く仲間に加害する"という抽象的な概念の発想を得てしまい、役畜を食べる習慣が仲間を裏切り攻撃するという間違いを犯す為の心の中の閾値を下げ、容易く実行するようになる事を防ぐためです。

このように肉を食べる、という事が感染の危険性を持つために出来る限り哺乳類が哺乳類を食べる事自体が敬遠され、そして哺乳類が哺乳類を食べるという事が同族を食べるという錯覚を与える為に敬遠される理由が生じます。

それを考慮して食物連鎖というフィルターシステムを有効に活用したものとして菜食主義というものがあります。植物が栄養を土壌からの吸収と光合成により得たものを私達が食べる事で、病害虫の感染を防ぐという考えです。植物がかかる病気が哺乳類に感染して影響を与える事はほとんどなく生態の違いにより感染を防ぎながら必要な栄養を摂取しています。

そして食肉という行為をなくす事で人畜共通感染症に感染する可能性自体をなくしてしまうのです。そして、哺乳類が哺乳類を食べるという行為がもたらす錯覚を遠ざける効果も狙います。加熱すれば対処出来る、という発想もありますが、人間は間違う生き物です。いつか必ず加熱殺菌処理に失敗したものを食べる事になります。そのようなリスクを元から排除すればその可能性もありません。

また、植物を食べる行為を見て、誰も自分と同じ人間を食べる事を連想したり、動物(人間)を食べるという抽象概念として思い浮かべたりする事はありません。ここに宗教などに見られる戒律の根拠が存在します。

先程も言いましたようにブタは人に近く人畜共通感染症においては注意が必要な動物です。ならその与える錯覚も含めて、そもそもが食べる事を禁忌としてしまえばその危険性を排除できます。そしてそうやって排除して安全を確保している内に知識を手に入れてその根拠を知れば良いのです。

そういった方針で戒律が決められる事があり、例えば『海から採れるもので鱗のないものを食べてはいけない』とは人間とそれに類するものを家畜とみなして屠畜しないようにする戒めであり、そして他者を加害しないための最低限の戒めでもあります。人は容易く欲望に負け、特に食欲に負けます。なぜしてはいけないかが分からない者に欲望を抑えさせるのは難しく宗教では神の教えは絶対だとして行動を制限します。行動を制限されずに哺乳類すらも食べるようになるとそこから同族に襲い掛かるという行為に対する忌避感が薄れやがてその行為に罪悪感を感じなくなります。そして欲望に負けた為に、戒律により制限されていたものを徐々に破るようになり、少しずつ欲望が増していき、鳥など人とは遠い存在から始まり、やがてブタ、牛などを経て同族を対象として考えるようになります。

同様に血を飲むという行為も禁止される事が多いです。『他者の生き血を啜る』という言葉があるように他者の利益を搾取しながら生かさず殺さず利益を得続ける事を禁止するために血を飲む行動とそこから連想される禁忌に触れる行為を禁止するのです。物理上ではそのままの意味で他者を閉じ込め血を啜り生かさず殺さず弱って死ぬまで血を取り続ける事もあるかも知れませんがそれに類似する行為を禁止する為に戒律は作られる事があります。


それではなぜそうまでしてリスクを背負い食肉を行うかとなればそれが最も効率よく栄養を手に入れる事が出来るからです。植物から栄養を摂取してそれを血肉に変えるより直接肉として食べ分解し再利用したほうが効率よくエネルギーを手に入れる事が出来、競争において他者に勝つ事が出来るからです。また、雑食性の私達においてはその旨味が忘れられず食欲に負けて抑制出来ないからです。

この食肉を行うという行為は抽象概念として『他者を襲ってその財産を奪い再利用する』というものと結びつきます。食肉というものが他の生物が自らの身体を構成するために植物を摂取して血肉に変えたものを奪い再利用するからです。自ら作るよりも他者から奪うほうが効率が良い、と意識下に情報を蓄える事になります。勿論、そういった事を考えずに食肉をしている場合もありますがその場合は無自覚に同様の行為を行っても気づかない可能性を含みます。

例えば『食肉しない』というルールを持ったものは行動においてそれを行動の根拠にします。行動する時に該当する場合はルールを適用するという事です。そうすると『食肉しない』というルールを決めた根拠が連想されるようになり、行動の指針として適用され類似する行為を避けるようになります。つまり、逆にルールをルールとして無効にしたければこの場合は『食肉』させれば良いのです。そうすれば一つ制限が外れ、『他者を襲ってその財産を奪い再利用する』行動に何の罪悪感も抱かなくなっていきます。そうやって一つずつルールを改変して作り変えていく方法が存在します。

また、悪人は自身に都合の良い考え方を欲望をかなえる為に無条件に受け入れますので、例えば他者が食肉するように仕向けた後に、『他者を襲ってその財産を奪い再利用する』行動を選んだのだから、自身もその対象にされても文句は言えないよね、と言いながら襲い掛かるという言い掛かりをつける事が多々ありますので注意が必要になります。


食肉して再利用するという事は使える部分はそのまま使用する事であり、分解する必要のない部分は分解せずに使う事になり、食べた肉の構成に近くなります。そして食べるものまで似通っているとそれだけ菌にとっては環境が同じになり、感染する難易度が下がると言えるかもしれません。

また、食肉を行う事で生体濃縮された物質を体内に取り入れる事になり障害を引き起こす可能性があります。小さな生物が体内に取り入れる物質は微量でもその個体を食べる個体はそれを蓄積させ、それより大きい個体は更に蓄積させていきます。


このように食物連鎖はフィルターとしてその食料となる生物の感染する可能性のある病害虫が私達に感染する事を避けるためにありますが、しかし完全ではありません。そのシステムは既に綻びを見せ、人為的にも発生させる可能性もあるために完全に信頼は出来ないようになってしまっています。

人畜共通感染症もそうですし寄生虫もそうです。他の生物を最終宿主とする寄生虫などアニサキスのようなものは食中毒を引き起こしますがまだ軽度と言えるでしょう。私達を中間宿主もしくは最終宿主として寄生する寄生虫も存在し、より近い近縁種程、構造が同じなために深刻な影響を与える病害虫を持っている可能性があります。だからと言って植物が安全というわけでもありません。植物に付着する事で中間宿主や最終宿主に摂取され寄生する事もあります。しかしリスクを減らす方法としては有効であり、それに代わる方法がなければ使用するのが適切でしょう。


食肉するにあたり、注意が必要なのは主に食べるのは肉だけにしておくべきだという事です。食肉する習慣が身に付けば、次はそれ以外の部位にと目を向ける事になります。しかし、なぜ食肉するに留まるかと言えば、それ以外の部位にこそ危険が伴うからです。消化器系は寄生虫が寄生しやすい場所であり、その部分を食す事で感染する可能性が高くなります。肝臓なども栄養が豊富であり寄生虫が寄生しやすい部位で病気に感染する事もあります。骨髄などは病気に感染していた場合その病気に感染する可能性があります。しかし食生活というものは収入により決められる部分が多く、貧しい家庭ではより危険な部位や品質の劣ったものを食べる事になるでしょう。その際には何が危険で何が安全かを調べる事でリスクを低下させる必要があります。

サバはピロリ菌を保有する事で有名です。他の食品よりも加熱処理が重要になり、そして早目に食べる事が食中毒を防ぐ方法になります。寿司などでは避け、出来るなら食べる事自体を避けるべきでしょう。

マグロなどの大型魚類はメチル水銀を生体濃縮で蓄積し、それを食べる私達もその影響を受けます。高級魚のように思われがちですが、健康面では高級魚には値しません。食べるなら頻度を落として食す必要があるものです。マグロがメチル水銀を高い濃度で保有していても影響が出ないのはセレンを大量に体内に保有しているからです。セレンがメチル水銀の毒性を緩和している為にマグロはメチル水銀を多く保有していても傷害を出さずに活動出来ます。私達はそれほどのセレンを体内に保有していませんので、メチル水銀は体内に残留しやすく排出は遅いのでマグロなどを食べた時に体内に蓄積し健康被害を出す可能性があります。また、セレンは私達に必須の要素ですが、微量要素でもあり、過度の摂取はケイン公被害を出します。しかし微量に必要な要素でもあります。あえてマグロを食べなくても手に入るのでマグロを食べるのは嗜好目的以外では少ないでしょう。しかし同時に大抵の食品には長所が存在し、食べるか食べないかは他の食品が手に入るかどうかにより変わるでしょう。

鮭は回遊魚で、海で寄生虫をつけて川に帰ってくる魚です。比喩にも使われますが食べる際にはこれも充分な加熱処理が必要になります。

ひじきなどの地方特有の食品はその商品を消費する民族のみに特有の酵素があるために消化可能であったり解毒出来る場合があります。ひじきにはヒ素が含まれており特定の民族はこれを少量なら解毒出来ますが、その他の民族は出来ないので注意が必要です。

また、同じように牛乳などが含有する乳糖も同じです。ほんのわずかなら誰もが酵素を持っているのですが、それで解糖出来る量は少なく100ml程度になりコップ一杯程です。これも牛乳などをよく消費する民族は多くの酵素を持ち少し多めに処理できます。しかし、それも限度があります。牛乳はカルシウムを多く含むと言われて飲む事を推奨されますが、そのカルシウムを得るためには乳糖を分解しなければならず、出来なければ手に入りません。そして牛乳自体が足りないカルシウムを結合させ排出されるためにカルシウム不足の原因にもなります。そのため牛乳を限度以上に飲む事でカルシウムが不足する傾向が見られ酪農が盛んな地方程骨粗鬆症が発生しやすいとも言われています。

質の悪いたんぱく質などは強い身体を作るには向かないでしょうから食べる食品も気を付けなければなりません。対象とした栄養素が豊富だが欠点もある食品が、対象とした栄養素が少ないが欠点の少ない食品を駆逐する状態になれば私達の食生活はある部分で劣化した事になりリスクが向上します。



私達が哺乳類として発生した時に必要だった栄養素は今より少なく、現在ではそれにいくつかの栄養素が追加されています。それは生存競争に勝つために取り入れたものがほとんどだと思われます。そしてこれからも以前とは取り入れる速度が遅くなるかも知れませんが取り入れる可能性はあります。種族としてまだ形態の発達などが起こりうるならですが。

ここに食生活における問題点が発生します。

本来、今まで体を構成する物質を作る為に必要な必須栄養素として取り入れていたものがあり、必須栄養素を摂取する事でたんぱく質などを作り出してきました。それを外部から手に入れる事になればその機能は必要なくなるでしょう。コラーゲンなどがわかりやすいかも知れません。そうすると体は状況に適応しようとして、必須栄養素から作り出さなくても外部から摂取出来る栄養素を作る機能を低下させ、最後には停止させ失う可能性があります。昨日を低下させ必要量に足りなければ外部から摂取する事になり依存する事になります。そうなればその栄養素を供給する側に生殺与奪の権利を握られる事態になります。

それと同じように生物はその進化の過程でミクロの領域で外部の生物を取り入れて体の一部にして進化してきたとされています。も生物として存在しはじめた時は鉄を必要としなかったと言われていますが競争に勝つために多くのエネルギーを生み出す事の出来る機構を手にいれ鉄が必須要素となったと言われています。

そしてそれと同じように菌に感染して保菌した状態が通常の状態になる可能性があります。短期、人の一生だけを見るなら真性と呼ばれる状態になった菌の感染状態がそれにあたります。しかしそれはその人の一生だけに留まる事がほとんどでしょう。しかし、仮に母子感染を引き起こし、生命活動に深刻な影響のない菌を保菌したままであるならその菌は体から見て私達の一部とみなされ免疫系の攻撃対象から除外されるようになるでしょう。そうして保菌した状態が通常の状態になるかも知れません。しかしです。その菌は体を維持する生命活動に必要でしょうか。その菌を保菌している事で得られる利点がなければそれは欠点でしかなく他者との競争に負ける原因になります。悪影響がなくともその菌が生命を維持するために必要なエネルギーを私達が補充されられるのです。そしてこの状態は「変異」した状態と言えます。このような変異において今までより優れた状態を手に入れる事があれば、その個体が優勢になり、他者を圧倒し子孫を増やしてその状態が種族として通常の状態になるかも知れません。


さて、私達は免疫不全になれば周囲にいるカビにすら侵食されます。


アミノ酸が豊富と言われるキノコ類は菌の塊であり、大抵においては無害でしょう。しかしそれは健康な状態ならです。栄養状態が悪く体が弱っている場合も一時的に免疫が弱っている可能性があると思われます。人間は常に同じ状態を維持出来ないのでリスクは避けるべきかも知れません。

そして常に菌に接触させ続ける事で変異する事を狙っている者のいるかもしれません。なぜならそれが可能であればその差で優位になれるからであり、また、私達は変異して変わってしまい致命的な状況に陥る事を嫌います。そのため変異した者を差別し、そして差別出来るからこそ変異させたがるかも知れません。種族として子孫を残す際に有利なのはどちらか、という面で選別された場合に余分なものを持っている側が選ばれる事はまずありません。


食物連鎖とは関係がないですが質の悪い食べ物という事でうどんなどの麺類を考えてみます。それを自分で作る場合はそれほど問題にはならないのですが、それを誰かに調理して貰い対価を払う場合には注意が必要です。試してみれば分かるのですが小麦粉に水を混ぜて捏ねて形にする際にその比率が2:1になります。そして、この比率を水側を多くしても同じように捏ねる事が出来ます。結果として比率が2:1から水の量を多くする事で柔らかい生地が出来上がり、それを製麺すると見た目は同じですが水分量の違うものが出来上がります。そして小麦粉の量を減らしたければ混ぜ物をする事で小麦粉の量を減らせます。このように完成品として麺に対価を払う際には水分に対価を払っているとも言えます。その水の価値が高いものであるなら妥当と呼べるかも知れません。」


そしてエールトヘンが締めくくる。


「このように食に関してはリスクを伴うものもあり、どのような食生活を送るかを考える必要があります。手に入る食物でバランス良く栄養を取る為に場合によってはリスクの高い食物を選ぶ事になるかも知れません。その場合に対処法を知っておけばリスクを回避して栄養を手に入れる事が出来ます。そして基本は食物連鎖を使ってフィルターシステムを活用すればリスクは減るでしょう。そして自由が保障されているとするならばその範囲内で欲求を満たす嗜好目的のものを食べるのも良いかも知れません。食の基本は旨いものを食べるのではなく、リスクを回避して必要な栄養を摂取する事です。味だけなら偽装出来てしまい栄養の少ないものを高値で買う事になりかねません。真贋を見分ける判断能力を得ましょう。さあ、その為にも今日もがんばりましょう。」


--->『人として成る』とは能力を持ち知性を持ち社会を担う者になれたという事を指します。これに対してその域に辿り着かなかった者を『成らず者』と称し、大抵において不良な素行を繰り返す年齢的に成人したと呼ばれる者を指します。

<--では普通に生活しているが『成人』したとは言えない人物を何と言うか。その行動に高い知性を備えていない為に、行動の整合性がなく条件反射的に行動するなどその場しのぎや場当たり的と呼ばれる行動が多く、リザルトセットを見たままに罰せられない様に行動し、その行動の根拠や正当性の理由を考えない者であり、その根拠の部分に、信仰や先達の教えとしての慣習などで盲目的に従い行動を支える根拠と行動の間につながりがなく、"ワープ"しているつまりは"間"が存在している者、つまりは『人間』と呼びます。

ここでひと昔前に『ワープ』だどうだと言って人気を得たアニメがあります。これも、ワープは悪い事じゃないんだ、むしろ良い事、すごい事なんだと錯覚させて逃避したい連中が居た実証でもあります。そうして錯覚させればそういった『人間』を無条件に肯定出来、そしてそれに該当する人物は劣等感から解放されます。そして反省する事なく行動するようになりカモになります。また、そうやって劣等感から解放されると同時に知性が低いなら、それまでそれを劣等感の元となる批判をしていた物達を『利益を得る為に嘘を教えて不当に搾取していたのだ』と錯覚し襲い掛かるようになります。こうやって知性の低いものを操る者達がいます。

これを書くとかなり友愛されそうですが、ブンカクなんてその良い例です。かつて自然のサイクルに合わせて行動し個人の単位でシステムを完結できるように組んだものを科学という名の元に崩した影響でそれまでの方法と矛盾が生じ、見た目として科学が優れている様に錯覚出来たがためにそれまでが間違いだったと決めつけ襲い掛かる口実にし、それに便乗した者達が相手を殺して奪う口実にしたというのがあれの真相です。簡単に言ってしまえばまだまだ民度が低いから科学なんて早すぎた、というべきでしょうか。その結末にならずに話し合いで進める方法も"選択出来た"はずですが、相手を殺して奪うという簡単に利益を得られる方法の魅力に抗えない者達によってあの結果になりました。

原因は条件反射的な行動を繰り返す血統は『考えない』からです。


この作品の中では「人」と「人間」は同じものを指していますのでご了承を。語呂が良い方で文をつなげています。


ちなみに、『人に達する』と書いて『達人』です。こう考えると求められるレベルというのが高みにある事が嫌でも分かります。とりあえずは若いうちはそこを目指すという意味くらいに思っておけば要らぬ劣等感も持たなくて良いでしょう。どのみちこの世界は『人間の世界』であり、人間がもう自分達を反省する事なく悪びれる事もなく、だだをこねて喚き散らしていればマウントポジションが取れて幸せな生活を送った後に死ねる、そして後の事はどうでも良いという考えで構成されています。その中でグノーシス派のようなストイックな考えで自戒だけしていても損をするだけです。

グノーシス派が悪いとは言いませんしむしろ尊敬したいですが、それだけの自戒をするには高い能力が必要になりそれが出来る者は限られます。自身が他の誰かの悪事に加担して共犯になっていないかも考慮に入れた場合も含めて。

自分の行動だけを自制するのは子供の内に身に付ける習慣であり、成人してからは別です。それに加えて社会の中で自制出来ているかという考えが必要になります。映像に残る部分は個人としての自制が中心となり、それでは不完全です。三食をしっかり時間通りに食べて運動も怠らない、者が悪事をしないか、と言えば確かではありません。これは善良な者がそのような規則正しい生活をしていて利益を得る結果がリザルトセットにあるから、悪人がそれを真似れば同じように利益を得る事が出来ると思って行動する様になったからです。だから政治家や権力者や表向きそういった生活を心がけます。そこにある姿では善人か悪人かの区別がつかないから悪人でも偽装がばれなければそのまま居座る事が出来るからです。そのような偽装で損失を出し続けてその対処として結果論が持ち出され個人主義や能力主義が唱えられますが、その定義も曖昧な為にまた悪用され偽装され、結果論とは名ばかりのその場しのぎで対処されるようになり、その悪影響、つまりはその場しのぎも本来あるべき行動の偽装でしかないために対処として、個人の行動に左右されない全体主義的発想が唱えられます。

そしてその繰り返しを延々とする事になり、その理由は主義思想に問題があるのではなく私達の在り方とその繰り返しで利益を得ようとする者達が居るからです。個人主義を唱えたらそれを悪用し、全体主義を唱えたらそれを悪用する。悪用するには個人主義のほうが裁量も自由も大きいから主には個人主義、能力主義が唱えられ、それでどうにもならなくなったら戦争をして有耶無耶にして逃げる。そして社会はその反省から全体主義的発想になり、そして時間が経過したらそのリスクも忘れてまた個人主義的な利己益を求める行動を、根拠や理由や原点を忘れて行動し、またそれを悪用される、という繰り返しになります。

以前から言っている様にこれを自然の流れで、当然の事だ、として考えさせない為に『相克』や『円環』などの言葉で誤魔化し考えなくさせるか問題の焦点をずらして悪事を重ねる、というのがスタンダードです。主義思想とはある部分の特徴を強調する事であり、その結果として重みづけで優先順位が下がるものが存在し、その部分のセキュリティを突破されて徐々に主要な物事まで変異させられます。

個人主義と言えば全体主義は敵だ、という事で全体効率から目を背けさせそこに死角を作るなどよくやる手法です。結果として、前話で書いたようなマクロと言える規模での詐欺行為を把握出来ない集団を作り出し、不正に利益を得る、というのもスタンダードです。そしてその個人主義者は自分の能力があると思っているのです。単に都合が良いから選別されただけのXXXという扱いかも知れないのに。

こういった事を考えるのが個人主義の土台となる民主主義です。自分達の事は自分達で決める。この言葉がどれだけ重い言葉なのかは自由だけ見て楽出来ると考えている間は分かりません。自由という権利に対して自由とは何かを考える、そしてその自由を維持していく義務が生じている事をすぐに忘れるのが人間です。


ーー>自ら作るよりも他者から奪うほうが効率が良い、と意識下に情報を蓄える事になります。

<--聖書の話になりますが、だからカインとアベルの内、農耕をして捧げものをしたほうが誉められた、という事です。神からしてみれば人も獣も同じ哺乳類です。そしてその境を勝手に作ったのが人間です。そして獣を食べなくても生きていけるはずなのに、安易に獣を殺すその性質を好ましく思わない、という事です。



これも宗教の話ですが、ユ〇ヤ教の教えで先ほど飲血についてのタブーを書きました。

当時の言語とコミュニケーション能力から詳細な伝え方が出来ないためにそうなった、と言えます。

例えば『海から採れるもので鱗のないものを食べてはいけない』という戒律では、後半部分を暗唱する程に覚えていたら、海産物でなくとも『鱗のないものを食べてはいけない』という部分で連想して忌避感が生まれるでしょう。してはいけない行為、から連想してその項目に『鱗のないものを食べてはいけない』を連想すれば、例えば他者を襲い掛かろうとしている状況でそれを止める事になるかも知れません。そしてなぜこのような漠然とした言い方をしているかとなりますが、そこに名称を決めてしまうと、例えば〇〇と決めたとして、欲望に忠実に行動したいものは〇〇とは違う部分を執拗に探し、「あれは〇〇ではなくXXだ。だから食べてよい」などと曲解するからです。だからそういった者の行動を抑止するために大まかな規定にせざるを得ないという事になります。

さて飲血もそうですが、時代が経過して現代においてそれをそのまま守っていれば良いのかと言えば話は別になります。飲血の例に挙げたように、禁止されたのは「生き血を啜るように他者の利益を搾取する」事です。単純な社会において他者を害する理由は食べる為である事から単純な戒律で済んでいたのですが、高度な社会を作るようになり、それだけでは行為の全てをカバーできなくなります。その際に信仰を持つものはその解釈を客観性と善性に基づき発展させる必要があります。だから戒律に「飲血をしてはならない」とあるだけだから他者から搾取しても良い、とはならないわけです。

しかしではなぜ戒律はその時代に合わせて改善されないのかと言えば、それを書き換えてよいなら欲望のままに書き換えるものが大多数だからです。だから信仰を持つ者は何度生まれ変わって世代を重ねても同じように戒律を現在に合わせて解釈する行為を繰り返しその精度を上げていく必要があります。


ーー>これを防ぐ為に食べるものを変え、家畜と人との隔たりを広げ、家畜から人へ、人から家畜へ、という感染の拡大を防ぎます。

<--一方で商品は貶める差を用いてでも利益を得て、自分達はその利益でもって良い物を食べて隔たりを作り、貶められた側はより畜生に近いものを食べる事になる。そういった連中に一般大衆がどう思われているかが良く分かりそうだ、と邪推できます。


最近どこかでアルミニウムがアルツハイマーにはあまり関係がないという話を聞いた事がありますが、その根拠を私は知りません。私が知っている情報は、お米の国の方が昔調査した事で(昔のお米の研究は生粋の研究者がいただろうから少し信用出来ます)ジャワ島(だったか活火山のある島)で認知症患者が多いから調査をした所、水に含まれるアルミニウムの含有量が多かったそうです。残念ながらソース自体をどの本だったか忘れたので話半分に聞いておいてください。私は危険だから避けてます。なにせ「精神病患者は自身が精神病である事に気づけない」なんて状況はやはり怖いです。アルミの鍋?だれだ?それをはやらせたのは。何の目的で?となります。軽い?それを利点として商売して隠した欠点は教えたのか?となります。後、人工透析とアルミニウム辺りで検索すると関連した情報が出てきそうです。後、社会的な影響(主に権力者の懐への直撃具合)を考えて、代用品が出来るまで誤魔化し続けて代用品が出来れば切り替えながらうやむやにして後になって責任問題がうやむやになったら実はこうでした、という手法は常套手段ですので、お抱え学者が安全だと叫んでも(彼らは権力者側の人間ですので自分達に不利な言動は避けます)あまり信用しないでセキュリティの基本に従ったほうが良いでしょう。以前に活動報告で「爆弾ゲーム」を説明しましたが、自分の所で爆発せずに次に渡し逃げきれればセーフという考えをする事が多いです。

今の主流とは違う、という事であまり強くは推奨しません。昔はN〇Kでもアルミニウムが鉄の代わりに結合するが鉄と違って分離される事なく結合したままになり細胞が死滅する、という内容のものを放送した事がありました。さて、何を信用して行動すれば良いのか分からなくなりますね。だからセキュリティの基本に戻ってみるのが一番でしょう。そして機会があればアルミニウムは影響がない、と主張する方々の生活も見る事が出来ればよいかも知れません。恐らく避けてますよ。というか良いものを食べてそうだから気にしなくともよいレベルかも知れません。アルミ摂取と一緒にアルミの影響を抑える物質を同時に摂取させてアルミの影響はありませんでした、とかなんとか捏造も出来そうですし。セレンとメチル水銀のように。カモを量産するのに軽度の認知症というとてつもなく使える手法をどのように扱うかを考えてみると自身の対応も決まりそうです。


どのような食品にも大抵は長所が存在し、同時に短所も存在します。そして既に廃れた商売感覚においては、売れるようには宣伝するがその危険性についてはあえて情報統制して隠蔽する傾向にあります。詳しい機序が分かっていない、から風評被害になり営業妨害だ、というわけです。本音は単に他者に欠点のあるものをその欠点を教えずに素晴らしいのだと錯覚させて高く売りつけ、その利益で自分達は安全で良質なものを食べる、という目的の為です。

こういった事は良くあります。食べる事は出来るがそのままなら廃棄しなければならず損失でしかないものを食品として売り利益に変える事が出来れば丸々儲けになります。廃棄費用も少なくて済みます。つまり、それを食べる私達が廃棄処理係、残飯処理係というわけです。


-->ひじきなどの地方特有の食品はその商品を消費する民族のみに特有の酵素があるために消化可能であったり解毒出来る場合があります。

<--ひじきは「非食」です。虫除けと言いますかそういったものですが、やはり私達は貧困にあえぎ食べるようになったものと言えます。同じものにおはぎがあります。その表面のあんこは食べるためのものではなく中の米を守るためのものだった(はずです。私も既に曖昧です)。しかし昔の基準で作られたものは安全性を重視して、食べられるものに接触するものは同じように食べられるもので行うようになっていました。だから、それを忘れた者(戦争により知識が正しく伝わらなくなった、etc)がそのまま食べて現在に至る、と言えます。飯をササの葉で包む、とかと同じ考え方です。


<--それと同じように生物はその進化の過程でミクロの領域で外部の生物を取り入れて体の一部にして進化してきたとされています。

-->ソースとなる本を忘れました。確か哺乳類として?だったと思いますが最初は12,3種類の栄養素だけで良かったのが、現在では21種類程度にまで増え、そしてそこから23,24、と増えて行っているそうです。


-->その菌を保菌している事で得られる利点がなければそれは欠点でしかなく他者との競争に負ける原因になります。

<--ものによっては菌に感染して大量にエネルギーを消費するが腹筋がバキバキになりやすい菌とかあるかも知れませんよ?カブトムシのような関係になったり。私はあまり欲しませんが。それより知性を向上させるのだったら僅かに欲しがるかも知れません。


-->このように完成品として麺に対価を払う際には水分に対価を払っているとも言えます。その水の価値が高いものであるなら妥当と呼べるかも知れません。

<--これ、なぜ巷でラー〇ン屋ばかり出来るのかという理由です。利益率が高いそうです。豚骨にしても本来は捨てる部分である骨(骨髄)が出汁だったり、店の味は配合比率に頼り別段高品質なもので客寄せしているわけでもない、というのが通常でしょう。これを書くと営業妨害扱いされて攻撃されるのでここまでにしておきます。以前にTVでこの発言をした芸人さんが後に自分の隠していた事を暴露されて引退しておりました。その人物自体それ以前から長いものにまかれろ状態だったように思える部分が多かったですがその状態で同じグループの他のメンバーを攻撃したから切り捨てられたともいえるかも知れません。世の中怖いものです。情報弱者から金を巻き上げる事が正しい金の稼ぎ方らしいです。同様に、回転〇しさんが多いのも似たようなものです。養殖しない限り、場合によっては養殖しても一定の割合で奇形魚などは釣れるでしょうし、似た魚を出している場合もあるかも知れません(こちらは風評被害になるのであくまで「かもしれない」です。実際には一般人には食べて判別できる差がない場合があります)。奇形魚などは切り身にしてしまえばそれが奇形であったかどうかは分かりませんしすり身にしてしまえばなおさら分かりません。そうやって消費者がイメージする本来の商品と錯覚させて利益を得るのが現代社会です。


発酵食品などもどうだろうか、と考えてみた事はありますでしょうか。これはまた宗教がらみになりますが、新年において、無発酵パンを食べる習慣などがあったりし、それは「昔、私達はこれを食べていたんだよ」という事を教えるためだったりします。発酵パンで膨らましたものと無発酵パンでは腹の膨れ方、満腹感が違います。その場しのぎとも言えますが。無発酵パンを作ってみるのも良いかも知れません。配合は上に書きました(強力粉を使いましょう。欧米のflourは日本でいう中力粉以上であり薄力粉ではありません)。それだけで良いです。ボウルに小麦粉を入れ、水を足しながら混ぜ込んで捏ね、粉がなくなると後は程よい伸びが出るまで捏ねてだけです。それをオーブンを使い180度で余熱なしでも15分から20分程度入れれば出来上がります。表面がわずかに焦げて色がつくくらいで良いです(パンのあざやかな色は卵を塗っているから)。固いですがしっかりした歯ごたえで切れも良く歯にこびりつかないです。

この捏ね方を一度経験すると後は普通のパンを作りたければそこに"砂糖"とイースト菌を入れて数時間放置するだけでパン生地になります。フランスパンとかもここから焼き方が変わるだけです。後は好みで何を混ぜるかでしょう。

発酵させずに麺棒で伸ばすしてきしめんのような平麺にして切るかパスタ用の製麺機を使うかします。麺棒で伸ばす時は片栗粉を使い、台にまいて生地がひっつかないようにし、伸ばして折り返す時に表面に薄く塗りつけ縁切りします。それを繰り返し数段重ねたものを包丁で切ると伸ばすと麺と呼べそうな状態になっています。わざわざ製麺機を使う必要は(見た目や完成度を抜きにすれば)ないです。

この状態だと茹でた時に表面から小麦粉の流出が多いので、レシピなどに書かれているとは思いますが、生地を捏ねる時に油を混ぜます。塩は元々保存料です。どこぞの食品会社が保存料無添加とか言いながら塩は保存料ではないと錯覚させそうなCMをしていた事はありますが、塩、砂糖は基本的に保存料です。油は180度まで温度が上がります。なので茹でた時に表面が固まりやすくなり小麦粉の流失が少なくなります。巷で売られるパスタなどは油と塩が入っていると思います。

片栗粉を使う理由はコスト削減です。混ぜ物としては有効で、今回は縁を切るだけで茹でた時に水へと溶ける量が多いので小麦粉はもったいないので片栗粉で説明しています。グルテンを垂れ流すとそれだけ環境に影響があるので、と言い訳しておきます。小麦粉からグルテンを取り除いたら片栗粉と同じような成分になりますので。

似た手法で、例えばジャムを砂糖で水増しする場合があります。イチゴは高く砂糖は安く手に入る状況だとこういった方法が行われます。


後、塩がある種のたんぱく質を溶かすので、グルテンも溶けます。ネットを調べれば分かると思いますがガムが作れます。

ネットを調べると塩が水分を奪いグルテンの塊が大きくなるから粘り気が出てコシの強い生地になるそうです。軽く調べただけなのでどうかは知りません。塩が強いコシを作る、という部分は本当のようです。

後、パスタを茹でる時に水面に油を垂らしてパスタの表面に油をつけて温度を上げるようなこともする場合があるそうです。そういったのは基本が分かればお好みで良いと思います。

コシ云々に関連しそうな用語は「水 油 でんぷん 乳化」かも知れませんが私はパスタ職人ではないので詳しく知りません。科学に強い方は「親水基 疎水基」でも良いかも知れません。

ついでに「界面活性剤 細胞 破壊」というのも暇があれば調べてみるのも良いかも知れません。昔、ボウルに水をためてそこに洗剤を入れ、悪びれもせずに私に「手を突っ込んでみて」とか平気で言う人がおりました。悪人は気づかれないなら罰せられないから平気で他者を加害する良い例です。


-->味だけなら偽装出来てしまい栄養の少ないものを高値で買う事になりかねません。

<--アミノ酸が旨いと感じさせるそうです。それを振りかける事で質の悪いものもおいしく感じるようになるそうです。元々、旨いと感じるものは私達が栄養豊富であると判断出来たもののはずで、それを錯覚させる事で商売する、という事です。ただ一点だけ補足するとそういった調味料が売っていますが、それは騙すために売られていたのではなく、戦後、質の悪い食物を食べる事になり、子供が食べてくれないのをどうにかして食べてもらうために開発された、のだと思います。ただ、その結果を悪用する現在が出来てしまってはいますが。功罪なんて呼ばれたりしますが悪人にとってはどのようなものも欲望を満たすための道具になります。


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