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S074 召喚勇者の農業改革

どこかにありがちな異世界召喚ものを題材にしただけです。

バカにしたいんじゃないのでその辺りはご了承を。

異世界召喚ものを楽しんで読んでますので。自分のがなんでこんなに蘊蓄だらけなんだろうと嘆きたくなりますw。緩いのは緩いので酷い仕掛けがなければ楽しめます。


ヒカミタツヤは悠然と佇んでいた。

見渡す限りの耕された畑。

タツヤが来た時には荒れた土地だったこの場所が今や一面の畑だ。

用水路を作り溜池を作り区画分けして農民を誘致し4輪農法を実施して生産力もうなぎ昇り。

それをやっかんでか隣国の貴族が暗殺者を送り込んできたが返り討ちにしてやった事もある。


その貴族が最期に残した言葉が「貴様は何をやっているのか分かっているのか」だった。


そんな事は分かってる。食料を増やし食べる事が出来ない弱者を救っているのだ。タツヤがここに来た時に比べれば食料事情が改善したお蔭か痩せこけた者が少なくなって人口も増え始めているそうだ。そういえば隣のハンナの所も子供が生まれたとか言っていたっけ。

あの貴族は何を逆恨みしたのか知らないがどうせ自分の領地の食糧が売れなくなったから商売敵を消そうとしたんだろう。そんな精神だからうまく商売も出来ないのだ。この俺の様に開拓に専念すればこうやって実績なんて簡単についてくるのだ。

まあ、異世界の知識があっての事だが。

召喚された時はどうなるのかと不安だったが中世ヨーロッパ風なのが良かった。俺の知識でも充分役に立ってくれた。

元の世界じゃあここまで頼られる事もなかっただろうな。


この世界を魔王の手から救う為に異世界からタツヤは召喚された。しかし実際にこの世界を眺めてみると魔王軍と戦えるだけの軍隊がなかったのでまずは食料からだと考えてタツヤは今現在に至る。なんだかんだで竜が出ただの魔人がどうだの海辺でバレーだのと色々あったがどうにかここまでこぎつけた。

そんな事を考えながらタツヤが畑を眺めていると後ろからタツヤを呼ぶ声が聞こえた。


「タツヤ!大変よ!姫様がまた押しかけて来た!」


話し掛けてきたのはタツヤと一緒に暮らしているマリーだった。何かあるとマリーはすぐにタツヤの身の周りの世話をしたがり最初は対応に戸惑っていたタツヤも慣れてくればなんだかんだで悪い気もせずに今の状況に落ち着いている。そんなこんなでいつの間にか一緒のベッドに寝るようになったのはタツヤが押しに弱いのか悩む所なのだろう。

そんなタツヤの今一番の悩み事がやって来た。この国のお姫様だ。剣技大会で優勝した時からタツヤに何かとつきまとい何かと城で王様と会う機会があるので良く顔を会わせ、顔を会わせなくとも向こうからやってくる。何かと国の為に貢献するタツヤには自分こそが相応しいと自負するお姫様の扱いをどうしたものかとタツヤは頭を抱える。


「仕方ない。とりあえず茶でも出すか」


タツヤは肩を竦め、あのお姫様は今度はどんな厄介事を起してくれるのかと思いつつマリーの話を聞きながら家に向かった。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。その世界にはない知識を持ち込む事で他より優位に立ち成り上がるお話ですか。失礼な言い方をすれば一般人の良く見る夢というものでしょうか。『俺にもあの武器があれば』、『俺にもあんな道具があれば』、『俺も金持ちの家に生まれていれば』、『俺も銀のスプーンを持って生まれてきていれば』というようなものですね。自分が幸運に恵まれて他者より優位になれるものを持っている状況に憧れる話ですね。往々にして子供に良くある事です。『あのお菓子とこのお菓子を合体させたらサイキョー』などというものの類です。そう夢見るのがまず現在においてその状況にない、持っていないからこそそれに憧れる、という事であり思春期に『あれがあればこうなっているのに』とその実現性を考慮せずに思慮に耽る『たられば』の話です。思春期における人格の形成には必要不可欠ですがそれを過ぎれば単なる妄想の類になってしまいます。それが周囲に迷惑をかけないならば構わないのですが。」


エールトヘンのいつになくキツイ話し方に若干引き気味のローレンシアだが聞かないわけにもいかずとりあえず聞いてみた。


「なんかいつもより棘があるようじゃが?」


そのローレンシアの問い掛けにエールトヘンはハッとして少しすまなそうにしながら答える。


「申し訳ありません。つい召喚勇者という事で以前に『農業改革をするから俺に指揮を取らせろ』と言ってきた勇者がいたもので。そういった勇者は時々現れるのです。最悪だったのは『王国は不当に国民を苦しめている。俺なら彼らを救ってやれる』と言いながら帝国と共に攻めてきた事がありました。結果、東部の畑がいくつも焼かれる事態になる嫌な出来事でした。その勇者はこう言いました。『大事の前の小事だ』と。」


そんな事情があるなら仕方ないかなとローレンシアは思いながらも感想を聞いてみる。


「じゃあ、起こらない?」


「ええ、まず王国では起こりません。ですがそうですね、帝国では既に起こっていますし増産と言う面では確実に効率の良いものです。しかしその後に待つ状況をコントロールする事が出来なければ悪手なのです。と言いますか、もしかしてお嬢様、召喚勇者の成り上がりの方でしょうか」


「いや、両方。異世界の知識で成り上がるのと農業改革で国力増強。後、ハーレムものなんて夢もあったり?」


ローレンシアの問いかけにエールトヘンは微笑みながら答える。


「なるほど。おまけも含めて3つですか。そうですね。まずは異世界の知識で成り上がるというものは現実的か、という部分からですね。

偶然にも技術の進んだ世界から異世界にやってきたのでしたらうまくいくかも知れませんがそのような偶然は少ないでしょう。そもそもが同じ生態系であるかが分からなければどうにもなりません。そして自身がその世界に合わせて適用できるだけの知識を持っているかになります。そこにいる集団と友好関係を築く所から始め、権力を持ち信頼を得て指導する、という状況になるにはかなりの年月と幸運がいるでしょう。こういった夢でそうなった時の事を考えて勉強するのは良い事だと言えます。知識を蓄えその過程で難しさを知り大人になっていくというのが程度の差はあれほとんどの者が通る道だと言えます。

ここで注意が必要なのは物語として語られるのはサクセスストーリーです。それが稀であればある程に、その結果に至るには数多くの失敗者が存在しているという事であり、そこに注意が向かないなら危険な事になります。やれば必ず成功すると考えて軽率に行動すれば失敗した時の損失は大きいでしょう。例えば歌手になるのだとそれしか考えずに、そして必ず成功するのだと楽観的に実行して失敗した時の事を考えれば想像がつくかも知れません。数万人に1人、数十万人に1人に自分が成れるかどうかをまず考える事が出来るか、それだけの知性を得る事が出来ているかが重要になります。サクセスストーリーで語られる人物がいとも簡単にやっている事が実際にはどれだけ難しく、そして大抵においてその状況がレアケースだと気づけるかという事です。

また、歌手などのように誰でも歌う事が出来るので誰でも成れそうだから自分もそうなれるのではないかと思うのは当然かもしれませんが、誰でも出来るからこそ誰もが出来るようなレベルでは通用しないという事にも気づけるかどうかとなります。そして、人の歴史というものは遺伝子に刻み込まれているとも言えます。その1世代で数世代をかけて目標としている者を超えられるかという問題も生じるのです。自身が数世代を歌手などの職種をしていたのなら有利でしょう。体がそれを経験として刻み込んでいるからです。しかし逆に他の職種からいきなり歌手になろうとしてもそれだけの蓄積がないと言えるために不利になります。そして表面的な華やかな状況と違ったその職種ならではの苦労がある事も場合によっては思いつかないでしょう。

周囲でそういった職種になるように勧める者にも注意が必要です。なぜなら極普通の職種を競う相手が1人減るから勧める場合が多いからです。倍率1倍の募集には余程の失敗をしない限りは必ず合格し競争相手の側から辞退してくれるというなら喜んでその状況を受け入れるからです。また、そういった職種はハイリスクハイリターンで成功すればその周囲もおこぼれに与かる事が出来ます。自身は安全な場所に居て他者にリスクを押し付ける事で楽に利益を得ようと考えていると思っても良いかも知れません。本当に能力があるから勧めているのか自身の保身や利己益の為に都合が良いから勧めているのか判断する必要があり、後者なら仲間意識が希薄で容易く騙すでしょうから付き合い方を考えねばなりません。騙し方にも色々あり、教えない事で自身の利益につながるなら教える必要のある物事も教えない事でその差を利用して利益を得るでしょう。このように目に見える形の行動を混同させて行為を錯覚させる事が良く行われます。


次にハーレムと言いますか、子孫を確実に残す為にスペアを設ける事は確かにあります。貴族でも次男を用意して嫡男に何かがあれば次男を嫡男にしリスクを回避するという方法を取り、また、一般人でも行う時があります。争いが過激であればある程にそのリスクは高くなるので多くのスペアを作る事はあるでしょう。そして、劣化していく私達においてはその中から最も優秀な者を次の世代として認め後継者にする方法も取られます。劣化を最小限に抑える、場合によっては現世代より優れる者を残せる可能性が生じます。より優秀な者程、特に周囲は同じ能力を持った者を欲する為に数多くのスペアを作りその中の誰かが同じだけの優秀さを持っていてくれれば以前と同じようなバランスを維持する事が出来、支障なく生活が出来るのです。


ですが同時に少し注意が必要です。『あれは45番目の妻だ』と言う言葉を聞いて妻が45人も居ると思うのですが、現時点で45人の妻が居るのか、今までの世代継承において45人妻が居た事を覚えているのかの違いを知る必要があります。その覚えている記憶というのも父から子へと受け継がれたものだとは思いますが。この様にある事を知らない事で全く違った発想をしてしまう場合があります。


ですのでハーレム自体はその目的に合致していればしても良いようには見えます。ですが、食料問題に関係する問題ですのでそこに解決策がなければ大きな問題に発展します。自身がするという事は他者もするという事です。それまで1人で済んでいた所に2人居るようになると食料は倍必要になります。食料も含めた資源がそれだけの許容量を持たないなら奪い合いに発展し争う事になり、生死のリスクは増加し、更にスペアを作る事になる可能性があります。そして更に資源を圧迫し争いは激化するという展開になるのが国と国の争いの原点です。人口増加に伴う資源の枯渇により奪い合いに発展するが仲間意識のある相手から奪う事はためらわれる。なら仲間意識の希薄な相手から奪えば良い、と考えるようになり、争いを仕掛ける事になります。生物というのは自死というものに慣れていません。それまでの生命の連鎖が生きる事に集約されているからです。今現在そこにあるという事実が生きるという目的を繰り返した結果として存在しており、それは性質と言えるまでに私達の遺伝子に刻み込まれています。

しかしではそれを肯定して良いのかとなると別になります。相手を襲わないというルールで集団行動を取るようになった生物が一度自身が危機に陥ったからと言って相手に襲い掛かってよいかと考えるとダメな事は分かります。その選択肢ははるか昔に捨て去った選択肢であり、それを今更自身の都合で取り戻して良いとは言えません。簡単に言えば取引をして契約したがその契約が自身に損失を与えると分かった途端に契約を反故にする人物に信用があると言えるのか、と考えると分かりやすいかも知れません。

個の強さのみを追求して生きるのではなく群れを成して助け合う選択肢をした後に、自身の都合でいきなり群れを成す為のルールを破るという事は契約違反も甚だしいという事です。それならそもそも個としての強さを追求すれば良いのですがその強さもないので集団の中に居て、しかし集団の中で強さを誇示して個の強さを追求した時に得られる利益を周りに求めるようになります。どこからどこまでが自身の強さでどこからどこまでが群れを成す事で得られた強さかの区別がついていない事になります。

ではこの場合の個の強さとは何を指すかになります。例えば社会では知識を与えてもらう事が出来、不自由なく生活が出来たりしますが、その知識において生きていくための最低限の知識しか与えて貰わない状況を考えてその先にあるものは全て個の強さとは無縁であると考えてください。以前にも言いましたが世界を自身で見て確認判断し分析して経験として得て自身の知識として得るというものが個としての力の付け方です。しかしそれは社会の中では効率の悪い事でありそのようなやり方では社会の中にある知識のほんの一部しか手に入れる事が出来ないでしょう。個人の能力に偏り、個人の居る環境に依存する部分だけの知識を手に入れて一生を終えるでしょう。それが自身の個としての強さです。そして社会が知識を与えてくれる現状を考えてください。それが群れを成す事で手に入れた強さです。まずこれが原点です。

しかし私達は錯覚します。生まれた時には社会の中にあり、社会を形成する時に必要だったルールも社会の中で生活するにはさほど重要ではない為にルールの必要性が希薄になり、また、社会が与えてくれるものも当たり前だと思ってその価値や維持の難しさを考える事を忘れます。そして社会の中にある知識は既知のものであり、別段特に自らで考えて新たに思いつく必要のないものです。その取得には交渉と教育が主となり、それはまるで物の売り買いと同じ感覚で行う事が出来ます。そして暴力により奪う事も出来るのです。誰かが既に得た知識はそれを奪う事で手に入れる事が出来、何も新しい思いつきが出来ずとも知識を得て有利になれます。

教育により与えられ得て、交渉し得て、奪い得て、周囲の者より能力的に上になり、そしてその実感が自らの能力で手に入れたと思わせ、自身が強いと感じさせる錯覚の原因となります。その実績で自信を持つのは良い事ですが、それが傲慢と言える程になってはいけません。それらのほとんどが社会が与えてくれた強さであり、周囲も同じように社会が与えてくれた強さで競い合っているのでその優劣を誇っても良いかも知れませんが、それが社会のルールを無視して良い理由にはならないのです。なぜならその強さは社会から与えて貰った強さだからです。簡単に言えばその時の勝負の相手は今まで存在した全ての者達であり、勝手に基準を下方修正して自分の周囲の人物に勝てば何をしても許されると考えてはいけないという事です。

しかし私達は考える事を忘れる生き物です。そのような事を言われたとしても手に入るものは手に入り、勝てるものは勝て、勝ってしまえばその言葉を使って批判する人物に従わずとも良く、排除できます。それはあたかも獣が集団行動において自らの強さをもって他の獣を排除する行動の様になりますが、実行出来てしまえば相手は逆らえず、成功体験として記憶され、行動の基準としてマウントポジションが取れれば勝ちで何の問題もないと思っている人物にはそういった類の言葉は届かないのです。負けたから悪し様に罵っている状況と、間違いを指摘している状況を混同して見て、悪し様に罵っているのだと思い、そうでないとしても既に実行力を失った側が何を制圧した側、マウントポジションを取った側に文句を言っているのだと思います。ここに周囲との意識の差がありますが自身が勝って優位なポジションに立った事への妬みや恨みや負け犬の遠吠えの様なものだと錯覚する可能性もあります。

こういった人物はチャレンジアンドレスポンスの結果として条件反射的に行動する事が多い為に、結果として損失を被ったという経験がなければ止める事はありません。そしてリザルトセットから情報を得てどのような状況なら相手が間違いを指摘しても従わなくても良いかを知っている為にその状況に出来てしまえば間違いであろうとも成功に変えてしまえると思っています。

簡単に言うなら罰せられないならしても何をしても良いと思っており、その時点で行動の基準が自分の中になく外にあり、自身では自身を律する事が出来ていない、つまり自制出来ていませんが考えない為に気づいていません。例えるなら子供がパパやママに叱られるからルールは守るが、パパやママに見つからないならルールを破っても叱られないからしても構わない、と思っていると言う事です。この際にチャレンジアンドレスポンスの結果として、あの方法だと叱られた、この方法でも駄目だった、ではこの方法ならどうか、と繰り返し試行した結果、どこまでなら叱られずどのような状況なら気づかれないという一定の価値観を形成します。そして望ましい状況を作ればパパやママに叱られないからしても問題ないと思い悪さをします。行動の基準がパパやママに叱られるか叱られないか、つまりは罰せられるか罰せられないかになっており、自身でそれが正しいか正しくないかの判断基準を持たないか精度が低いままになっている状態だと言えます。

そしてパパやママがいなくなれば自身を制限するものがないから自由に出来、ルールを守らないという結果になります。


この様に考える事を忘れ、行動の基準が罰せられるか罰せられないかになってしまい、条件反射的に行動する人物は相手より優位に立った時に、個の強さとはどういったものかを考えない為に個の強さと集団から与えられた強さを混同して考えます。子供の時に子供同士で勝ち負けを決めたら相手より上だから言う事を聞かせられるという考えのまま育ったと表現も出来ます。そこにある違いは子供は誰かに作られた環境の中で育ち、社会人はその環境を作る側だと言う事です。子供は持っている権限も小さい場合が多い為に個の強さで得られるものと集団の中に居る事で得られる強さを混同して利益を欲してもその影響力は小さく、その間違いが周囲に影響を与えるような場合は保護者が制限をかけますが、社会人はそうではありません。子供の時にテストで優秀な成績だったからご褒美を貰った、から社会人になってから成果を出したから必ずご褒美を貰ってよい、と錯覚してはいけません。ご褒美を貰えるかどうかご褒美の量が適切かどうか客観的な判断が出来るようになっている必要があります。子供の時にテストで優秀な成績を取ったらご褒美をくれと言ってご褒美を貰ったからといって、社会人になってから優秀な成績を残したらご褒美が必ず貰えると思ってはいけません。子供の時のご褒美が子供に少しでも勉強をさせたいからという理由でありそもそも貰えないのが当然であり、そして貰ったご褒美がその内容と比較して過分だった可能性が高く、ご褒美を貰えるかどうかご褒美の量が適切かどうか客観的な判断が出来るようになっている必要があります。

ご褒美目当てで勉強するようでは知性には結び付きにくく、ご褒美がなければ勉強もしない者を作り出します。結果としてご褒美が貰えない事を考える事なく子供の頃の習慣のまま社会人になり子供の頃の甘やかされた基準で物事を量ります。

これは公私の区別がつかない事とを同じ問題ですがここでは割愛します。


こうした人物は、獣に近い基準で行動する為に目の前の状況で、自身から見た世界の情報で優劣を決め何でもその分かりやすい勝ち負けで物事を量ろうとします。

しかし、社会とはそんな自身から見たものだけで構成されていません。自身の都合だけを押し通し世界全てを塗り替える様に変えようとしてもどこかで矛盾が生じます。その考え自体が矛盾を含むからです。

知識を持っていて助かった、持っていて良かった、などと思う事があるでしょう。それは社会があるからこそ発生した状況であり、その恩恵を受けた者、与えて貰った者がその知識で得られた強さで社会を潰して良いはずがありません。社会に属する事で得られた強さです。その対価は社会を潰さず維持向上させるという事です。そして自身から見た世界というものは客観的ではない為に忘れがちですが、自身が集団に属する事で得られた権利を他者も持ちます。その権利の行使を個人の理由で妨害したり禁止したりする事は認められていません。ここで客観性を持つ事が必要になります。そして客観性を持つが故に個人だけの考えでは実行可能であった事も他者との権利関係を考慮する事で実行してはいけないものが生じます。自らが知識を得られたのはその権利を侵害されなかったからであり故に既に与えられた権利の成果物なのだから、同様に自らも誰かが権利を正しく行使して成果物を得る妨害をしてはなりません。

しかし子供の頃から明確な勝ち負けを決め、個人の規模での争いの方法が習慣化したままに権力を持ちそれを行使する者は自らの行為の基準がその頃の、大抵は子供の頃の基準の精度を高めただけなので客観性を持たず考慮すべき条件が足りません。誰かに作ってもらった環境の中で得た経験により培った基準で環境を作るようになります。本来ならそれまでの過程とそこからの過程においてその事実を経験として学んで必要な条件を追加し基準を修正し精度を向上させ、やがて求められる基準に、より客観的な基準に到達する事が求められます。

これを忘れると既に自身は与えられた権利を行使して知識を得たが、それは自身の強さで手に入れたものであり、その優位を失わない為の行動は当然だと思う様になり、また、自らの行動が他者の妨害により成立している場合でもその行動を自己正当化してしまいます。自らもそうして生き残ったのだと言いながらも自らがその状況を悪化させて、以前の自らが勝ち残ったつもりの状況とは既に違う事に気づきません。簡単に例えるなら商行為を考えてみましょう。1人だけで独占して商売が出来るなら有利な条件で取引出来るでしょう。ですがそれが通例化され皆が行うようになるとその利点が失われ、その中で勝ち残る難易度は高くなるでしょう。それと同様に、ルール違反をしても気づかずに優位な立場である事を自らの能力で得た強さだと錯覚し勝ちますが、その影響で周囲が劣化しその勝ち残った方法と同じ事をするようになるとその利点は失われ、同じ事をしても必ず勝てなくなりますが、自らから見た世界しか考慮しないため自らが与えた環境の変化にも気づきません。こうして無自覚の悪意により社会は劣化します。

そのため、こういった行動は重要な地位に居れば居る程に自制する事を求められます。誰かが批判しても黙らせる事で物理上は肯定出来てしまいますがそれで問題がなくなったわけではありません。他者におしつける形で自らの前から消しただけになります。そうやって本来解決すべき人物が解決せずに周囲に押し付けるようになると、誰かが解決しなければならないが誰も解決したがらないという状況になり皆はその問題から目を逸らしてその問題に焦点を合わせずに生活するようになり問題は放置されますがこれを「臭いものに蓋をする」と表現する事があります。そのままの状態では不快な状況を作り出すので目の前から消してしまうという意味です。そして、自らの事情により放置していられなくなった者がその被害を被ります。環境被害と同じだと言えるでしょう。どこかに必ずその加害者はいますが特定しづらく明確に加害者を特定出来ない状況などが似た状況になります。

そして権力者がそうやって相手を黙らせる事で自信の行動を正当化しようとした場合には、その配下も同じ行動を取っても良いと考えそれが常態化する傾向にあります。あえてトップがそれを禁止し、その矛盾を何かの手段で対策しないと配下はその行動が許されるのだと思い真似します。対策には賄賂、暴力による脅迫、教化による自制心などがありその対策もまた、配下は真似しようとするのでまたその行動を禁止しようとすればその対策が必要になります。つまりは派生に派生を重ね収拾がつきません。そのため補助となる対策がなくとも構わない対策を行う必要があります。最も単純にはそもそもが相手を黙らせる事で正当化しようとしない、次善策としてはそれでも必要になったのならその行為が意図的に悪意を持って実行したのではない事を理解できる程度の知性を持つ者を周囲に配置する、というようになります。

例えば殺し合わない様に始めた社会でも場合によっては誰かを殺す必要が出てくるでしょう。その際に殺さなくても良いものを意図的に悪意を持って殺したのならともかくそれしか方法がない状況になってしまっているとして、その違いを判別できる知性を持つ者を育成しておく必要があるという事です。勿論殺さなくて済むのが最も良い方法でしょう。しかし社会の規模が大きくなるにつれ制御は難しくなり、大きさが増すにつれその局所的な偏りは生じさせる差を大きくしその結果として許容範囲外になる事があるでしょう。そうならない様にシステムを組む、というのは前提として当然ですが社会は世界の中にあり世界は私達が生きていくためのいくつもの条件を私達に課します。加えて私達自身の生の在り方による条件が加えられ、そこに生活などの、システムを運用する上で生じる変化があり、それら全てを完璧に制御できる事はまずありません。なぜなら悪意でシステムの死角を突こうとする者を排除できないなら絶えず変化が求められる状況に追い込まれるからです。

その際に原因が故意か過失かを理解できるかどうかが錯覚を生まない方法になります。過失であればだれにも出来ない事なら受け入れるしかなく、誰かが対処できたのなら方法の改善で対応し、しかし故意なら対策が必要になり模倣犯や便乗犯を抑える対策も必要になります。そして故意でありその不正をただす事が出来ないなら社会はそれを原因に争いを生む事になります。

よって権力者は自制を必要とします。自身の行為を錯覚させる行動により周囲はそれを真似ようとします。仮に人が行動により誤差を0.1%生むとすれば農民の影響力を1とするならその誤差量は0.001で済みますが、権力者の影響力を10000とすれば誤差量は10となり、農民10人分の影響力を誤差で生じさせてしまいます。その誤差で死ぬ事になる者が存在するでしょう。

そのため、権力者は農民と同じ感覚で生きてはいけません。自らを律し錯覚を与えない行動と、行動を起こす前に入念な計画を立案し実行する際にはほぼ完全に対策が出来ている事が求められます。しかし完全に行う事は難しいでしょう。だからこそ権力者は最善を尽くす努力義務を持ちます。そして自身の行動が絶えず意図しない損失を生む事に恐れを抱いてはいけません。どのように行動しても損失は生まれます。その中で状況を分析判断し一定の価値観と基準を手に入れ精度を上げる必要があるのです。」


エールトヘンは一区切りしてから話す。


「ですのでお嬢様。社会に出て行動なさるようになるまでに、自身の行動を良く考えてどういった行動セットで行動するかを決めておいてください。錯覚させる事がなければ付け込まれる隙は生じず、事前に対策を決めておけば不測の事態にも対処出来、その隙を狙って加害される事もないでしょう。されたとしてもそれが予測の範囲に収まればリカバリーも可能です。予め対処を決めるという事はその際に覚悟が決まっており心の余裕が生まれるかも知れずパニックにならずに済む可能性もあります。パニックになれば更に相手の望む状況になるでしょうからリカバリーも難しくなります。出来る限り知識を手に入れて自身が陥る状況を把握する様に心がけてください。

では次は農業改革の話ですね。」


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