S073 商人から見た世界
アビーは今日も付き合いで忙しかった。
とにかく仕事を円滑に進めるには皆と仲良くなる事が肝心だと教えられたからそれとなく付き合いをしている内に結構楽しくなってきて今も続いている。
皆も皆で付き合いは良いし遊びにいけば歓迎してくれる。
そうやって今日も釣り仲間と釣りを楽しんできた後だ。
今日の釣果はそれほどだったが何事も付き合いだ。釣れる釣れないも運任せなんだから気楽に楽しんでいた。
そんなアビーの後ろから声がかかる。
先日、狩り仲間のアランと一緒に飲みに行った店の子だ。茶色のウェーブのかかった髪が色っぽい、たれ目でどこか甘えたな所がある娘でアランのお気に入りだったはずだ。そんな娘が何の用かと思ったが知らぬ仲ではないので軽く挨拶して用件を聞いてみた。
「ねぇ、アビーさん。今からウチの店来てよ。暇なの」
「いやあもう色々あって疲れてるから。ごめんな」
「アビーさんに相談したい事があるのよ。アランさんの知り合いなら信用出来ると思って」
「でもなぁ・・・」
「今日は奢るから。ね?いいでしょ?アビーさんは信用出来るってアランさんが言ってたし」
そうまで言われるとアビーも若干良い気になり少しくらいなら良いかと頼れる男を気取って「仕方ないなぁ」と言いながら店へと向かう事にした。すると茶色の髪の娘、確かリタだったか、アビーの腕に自分の腕を絡ませて胸を押し当てて来て、アビーは頬がずり落ちない様に気取るのに必死だった。
そんなこんなで店で少し過ごした後に良い気分になっているアビーにリタは話を持ち掛けてきた。
なんでも今度アランとゴルフに行くのだがリタは下手でアランが時折不機嫌になる事があるらしい。だから練習をしたいのだそうで、いつの間にか上手くなった所をアランに見せて驚かせたいらしい。そして良く知らない男性だと不安でもアランの知り合いであるアビーなら頼れるからお願いしている、という事のようだ。
酒も良い具合に入って終始横で胸を押し当てているリタにアビーはニヤニヤとしながら見てない振りをしながらもその豊満な胸に視線は釘付けだった。店に入って上着を脱いだリタの胸の谷間はその奥に何か隠しているのではないかとアビーの探求心を駆り立てるのだった。
話半分、胸半分で聞いている内にいつの間にか気づいたらOKしていたらしくトントン拍子で話が決まっていた。いつOKしたっけ、と思いながらもまあこの胸をもう一度見れるなら良いかなどと思わなくもないから気にもしなくなっていた。
そしてさすがに奢りで長居するのも悪いから早めに帰る事にして良い気分のままリタに別れの挨拶をした。リタはアビーがOKしてくれた事に感謝して頬にキスまでしてくれた。まあ、時折来ても良いかなー、なんて思いながら帰るアビーの背中が遠くなってから、リタの同僚のロビーナが話し掛ける。
「ねぇ、アランって人じゃないじゃん。乗り換えたの?良いわねぇ、人気者は」
「そうじゃないの。アランがね、あの人遊び人だからどこにでも付いてくるから色々良くしてもらえってアドバイスくれたの。まあ今日のは私のおごりだけど先行投資よ。それに見た?あの目。胸ばっかり見てもうね、笑いを堪えるのに必死だったわ」
「遊び人のようで遊び人じゃないのかも。なんか気の毒ね」
「元々遊び歩くような性格じゃなさそうなのになんか無理して遊び歩いてる感じがするわね。背伸びしてるっていうか良く見せようとしてるっていうか。遊び慣れてなさそうだからすぐ何かと丸め込まれそう」
「つまりは良いカモってことよ。でもそんなに遊んでるの?」
「えーと、アランとは狩り仲間らしいわ。他に釣りでしょ、ゴルフ、テニス、バーでトランプする事もあるらしいわね。その付き合いであちこち飲みに行ってるらしいし。他の人はそんなに遊んでないのにあの人だけしょっちゅう遊んでるらしいわ。でも遊び慣れてなさそうなのがねぇ・・・」
「良いじゃない。スレた男相手に愛想振りまくより楽なんだから。遊び慣れてたら今日の話だってうまく躱されたんじゃないの?」
「まあね。いつものか、とか思われたらうまくいきっこないし」
リタとロビーナはクスリと笑い合い戻っていった。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。個人から見た世界と世界から見た個人のギャップですか。個人は思い込んだ価値観で世界を見ているが、世界つまりは周囲は客観的な価値観でその個人を見ているという事ですね。この場合はそのアビーという人物は皆と付き合い遊んでいるが、皆のその姿しか見ていない。そして皆も自分と同じようにしているはずだと思い込み、自分の行動が他よりも突出してしまっている事に気づかない状況というものですね。」
「そうなの?」
「ええ、そうです。お嬢様はどこにひっかかりを感じていたのですか?」
「あ、えーと。騙されている所?」
「ああ。水商売の女性が男性を騙す際のトリックですか。確かにそこも問題ですね。男性の庇護欲を煽り都合良く操ろうとしている所などは確かに注意すべき点です。それらも本来は社会の中での助け合いのために培ってきた精神を保身や利己益の為に悪用するという事になります。そうしてそのような行為がはびこった後に、実際に助けが必要な者が助けを求めても周囲は騙されるのではないかと思い助ける事を躊躇するか無視するか無関心を装い、その者は助けられることなく被害し社会はその存在意義を失います。
助け合う為に集団行動を取っているはずがいつの間にかお互いを疑い助け合う事無くバラバラに行動し形に見える利益を中心にまとまり集団のルールを無視するか忘れる事になります。知性を持たずなぜそうなっていたかを考える事なく行動する者がリザルトセットを見て保身や利益を得る為にチャレンジアンドレスポンスしてルール違反をして利益を得る、というのがその話の中の女性の行動になります。社会の中で外敵に脅かされる事なく生活するうちにその行動がそういった生命に関わる重要なルールの為に存在する事を忘れ行動するのです。知性が低く考えない者はその生活の中で体験したものや見たものを思い出して条件反射的に行動する事が多いです。その行動の結果が保身につながればそれで良くそしてかつてルールを遵守していたのもその時はそれが体験や見たものから得た経験として必要なものだと認識出来ていたからです。そして世代を重ねその危機意識が低下し、その世代では同じようなリスクを抱えない事により、かつてのルールを軽視するようになります。親から子へ、もしくは先達から後発へとルールを厳しく教えられても体験がなく、そして考えない為になぜ必要かが分からず軽視するようになります。
今回の話の原型を考えてみましょう。ある女性が本当に深刻な悩み事を抱えており、丁度客の中にその相談が出来そうな人物がいたとします。そして女性がその客に相談を持ち掛け客も知り合いの頼み事だから相談事に乗ったとします。その状況は外から見ればどう見えるでしょうか。その客は女性の相談事に乗る為に店にちょくちょく顔を出すかも知れません。庇護欲をそそられるからかも知れませんし、女性が自身のプライベートの事を話してくれて今までより仲良くなったと思えるからかも、そしてそこに欲を見ているかも知れません。そのような内情は外からは見えません。外から見えるのは客がその女性のコネで店にちょくちょく顔を出すようになった、という事だけです。こうして一つのリザルトセットが出来上がります。
最初は本当に相談事があっただろうものが、その表面上をなぞるだけで集客のテクニックへと変わります。
そして考えない者はそのリザルトセットにあるものを集客のテクニックだと錯覚し実行し、それを見た者もそれを真似て常態化します。考えない為にそれが何をしている事になるかを分からないのです。
本来はその行動は緊急措置が必要な事を表す為のもので、その行為は本当に助けが必要だと示す為のものです。社会の中での助け合いの為に女性が男性に助けを求める時のための行動です。男性は同じ社会の中での助け合いとして応じてきた経験を世代を通じて積み重ねているかも知れません。その為に男性は女性からの困っている状況を示すサインだと認識し、かつてそうやって女性を助けてきた経験を積み重ねている程に応じる事になるでしょう。しかしこういった悪用がはびこる事で男性側はそこに嫌な体験、手痛い経験を積み重ねる事になり、やがて女性からそのようなサインを示されても助けなくなるでしょう。そうして社会はつながりを失っていきます。そしてその女性たちが本当に困った時にも誰も助けてくれない状況が、自分達の手で作られるのです。そしてその女性達は自分達がそうやって自分達にを追い詰めている事にも気づいていないのです。それを考えるよりも眼前に迫る生活出来ないという生死のリスクを回避する事にしか注意を向けられない状況に陥る為です。勿論、欲望を理由に行なう者もいるでしょう。優れた容姿で集客に困らない者はそうでしょう。しかしそれでもこのような手法をテクニックの1手法として用いるでしょう。そして本当に困った時には既に自分達でどうにもならない状況へと変えてしまっているのです。
さて、ここで知性が低く考えない者はその生活を通じて得た体験や経験で物事に条件反射すると言いました。ではこのような行動を止める事があるでしょうか。この人物の行動において集客のテクニックとして使っている行動は、本来は困っている時に助けを求める為の行動です。そしてこの人物においてはその2つを混同するように錯覚させる事で利益を得ようとしています。つまりはこの人物はその2つの内、助けを求める為の行動であるという事を認識していないかそれを軽視しているという事になります。普段から集客のテクニックに使用していてもいざ本当に困ったら同じような行動をしたら皆が助けてくれると思っている可能性があります。しかしそれが常態化していないならまだ誰かがそれを本当に困っているのだと思ってくれるかも知れません。ですが常態化した後では単なる集客のテクニックだと思う様になり誰も本気で対応しないでしょう。そしてそうやってどうにもならない状況を経験した後に、かつてその世代より前と同じようにその重要性を再認識してルールを守るようになるでしょう。これも悪い循環ですが血の引き締めの一つと言えるでしょう。しかし必ずそうなるかと言えばそうではありません。その人物がその行動を行う理由が状況に対して条件反射していると言えるいわば受動的な状況であればそのルール違反を止める事で生活出来ないのであればもう一度ルール違反をするしかなくなります。そして同じ事が繰り返されます。また、意図的に繰り返すかも知れません。本当に困った状況というものが思ったより重大な被害をもたらさなかった経験を得る事でルールを守らなくてもどうにかなると思う可能性も存在します。
そしてこれは残念ながら助ける側もしくは行為の対象となる側が善人であればある程に常態化します。この行為に成功すれば集客出来、成績が上がります。そうなれば競争原理においてルールを守る側が不利になり生き残れなくなり消えていくでしょう。そして常態化します。これらは社会の中にある無形資産となる善意と助け合い意識の切り売りを一部の集団が行ったとみても良いかも知れません。それらを利益に変換した結果、得られる状況は助けを求めてきたら騙すつもりかも知れないと考えるのが常識になる状況です。そして関わる事のリスク、騙す目的である場合のリスク等により関わり合いになる事はリスクを抱える事だと認識しそこに時間を取られる事も競争に負ける要因だとして無関心となり社会はつながりを失います。そして自身に助けが必要になった時に初めて何をしていたか気づくのです。
この話の女性の行動もそれが常態化する前でなら個人から見た世界と世界から見た個人のギャップと言えます。個人としてはそれを集客のテクニックとして使用しているが、周囲は困っているから助ける必要がある問題だと認識します。
さて、男性側の話になります。まず知るべきは自分から見た世界とはその価値観と見たものに影響されるという事です。この話の男性は自身の行動の範囲内での周囲の人物しか知りません。言うなれば"アビーから見た世界の住人"しか知らないのです。それが他者の見る世界と差があるかどうかを確認する事をしていないがためにそのズレに気づく事がないままに、自身は普通に行動しているつもりが周囲からは異常もしくは暴走している行動だと見られる事になります。そして他者を客観的に見る事が出来ていない事になります。そしてそこに問題が生じない限りは必要がないとも言えます。つまり、ここに差を悪用して利益を得る間が存在します。悪人的には"飯を食うネタ"と言えるものです。こういった間を悪用されて不正を行われる事を避ける為に普段から自身の見る世界と実際の世界にズレが生じていないかを確認する必要があります。以前お話した勇者もこれを悪用して利用されるのです。状況を把握していないがために嘘の主張を信じ、その人物の世界ではそれが正しい事になってしまい、周囲と差が出来ますがその嘘を気づかせる何かが発生しない限り騙されたままの可能性があり、その結果として悪人の行動に加担する事になります。
そうならない為に自身の見ている世界、認識している世界をまず疑う事が必要になり、それを確かめる方法が必要になります。その過程で誰が信じる事が出来、誰が信じる事が出来ないという判断を積み重ね、普段は考えなかった事を考えるようになり、自身の中に一定の基準を持つ事が出来ます。そして自身の認識している世界と実際の世界のズレを把握して調整もしくは多角的に分析するのです。自身の認識している世界と実際の世界のズレをなくしたとしてもそれで間違いがなくなるとは言えません。現状の世界が間違ったまま運用されている可能性があるからです。それを知るためにも自身の持つ基準が必要になります。」
そこでエールトヘンは話を区切る。そして話の途中で入ってきたマスター・ララが楽しそうに話し始める。
「先ほどの話の男性は先日エールトヘンが言いましたポイント持ち合い制の話と同じ状況になります。本人の気づかない内に他は皆1点分の贅沢ポイントを加点されている状況ですが彼だけは9点分の加点になっていると考えれば良いでしょう。そこに付け込む隙があります。環境の限界により誰かが出て行かなければならない場合には、何か能力を示した、という基準からどれだけ失敗したかという基準で選ぶ事になります。簡単に言えばテストで100点、90点取ったという基準を使うのではなく、赤点を取った、赤点でもあちらが30点、向こうは25点、という部分に焦点を当て選択します。誰かが出て行かなければならない状況では自分の能力を向上させるより誰かに失敗して貰ったほうがはるかに効率が良く、より確実に生き残れる可能性は上昇するでしょう。
そして先ほどエールトヘンが言いました"アビーから見た世界"が重要になります。個人から見た世界の出来事は世界にある全ての情報で分析されるわけではなく個人の持つ情報で分析判断されます。つまり手に入る情報に嘘が混じっていてもそれを検証出来なければ真偽の判断が出来ないのです。そして相手を信用している度合いによってそれを信じてしまい間違った判断をしてしまうという事になるでしょう。
例えばそのアビーが「少し遊びすぎたな」と言ったとしてそのアビーの状況が好ましい者は「そんな事ない。皆やってる。俺もだ」と自身の実状とは違ってもそう答えてアビーがそのままの行動を続けるかそれ以上遊ぶ状況を作り出そうとするでしょう。アビーが周囲を信じ、そしてアビーの周囲がその状況を好ましいと思ったなら同じような受け答えが行われ、"アビーから見た世界"では皆、少なくともアビーの友人は面白おかしく遊んで暮らしている事になるでしょう。そしてそれが問題になる時、他よりも目立つアビーは対象になりやすいのです。
エールトヘンが言いましたポイント持ち合い制という状況を考えれば9点溜まったアビーはその集団の事情により誰かが退場しなければならない場合には真っ先に退場する対象として選択されるでしょう。そうやって誰かを犠牲にして生き残ろうとする事が良くあります。
この場合には別の悪事も付随します。アビーが遊び人だと言う実績があるなら、それを利用して自分達がした出来事も誰がしたか分からないならアビーに押し付けてしまえ、というようになります。そうすればアビーが既に退場していれば責任の所在があいまいになり、その原因者となる人物は責任を取らなくて済みます。アビーが居ても退場させるなら責任の取らせようがなく、そしてアビーは身に覚えのない出来事だから受け入れないでしょう。しかしアビーの評判の為にアビーがした事になればそれは集団が被る損失に計上され、原因者は償いをせずに済み、原因によって得た利益も返さずに済み、集団はその損失を補てんする事になり、一部の者が不正に利益を得る事を許す結果になります。
この話の中で周囲がアビーに抱いた遊び人という評判のように、他者の行動などにあえて自身の主張に好ましい評判や評価をつける事をラベル貼り、レッテル貼りと表現します。そのリザルトセットを受けて、他者に意図的に都合の良い評判や評価を得させる事もラベル貼り、レッテル貼りなどと表現します。
そしてここにも新たなリザルトセットが生じます。誰かを騙すなりしてラベル貼りしその人物が悪い事にして責任を押し付ければ自分達のした悪事を隠す事が出来ると考えるようになるのです。
便乗犯というものです。
この話では単なる遊び人なので便乗する例は難しいですが、例えばアビーの知らない所で横領がありアビーはたまたまそれに関係する仕事をしていた。そしてなぜかアビーがした事になった、という展開もあり得るでしょう。
例えば強盗が押し入り建屋、器物を破損させて逃げ捕まったとしましょう。その際に実際には強盗犯が破損させていないものも、強盗が破損させたか区別がつかないから混ぜてしまえと隣の建屋の人物が「強盗が破損させた」と言い出すかも知れません。最悪の場合、強盗が押し入った後だから、新しい品物に交換したいから誰かが来る前に破損させて保険で補填する、という方法も取られるでしょう。
このように曖昧な状況では色々な悪事が隠される事になり悪人程曖昧な混乱した状況を望み、善人程厳密に区別出来る状況を望みます。しかし快感原則に則れば制限のない錯覚しやすく混同しやすい状況程望まれる事になるでしょう。
そしてまた新たなリザルトセットが発生します。退場する人物を確定できるという事は自身が退場する人物に選ばれない範囲で悪事もしくは浪費を行う事が出来、快楽を貪る事が出来るようになります。つまりは先ほどのアビーの例で言えばそうやって退場させる人物が確定しているのだから周囲は1点分の加点となる遊びや浪費はしても問題がなく、可能であれば2、3点分の加点となる浪費も行うようになります。そうなればルールがルールとして機能しなくなり、浪費は続けられルールを守っているにも関わらずその集団を含む社会は損失を出し続け崩壊するでしょう。つまり生贄を捧げる事で周囲の人物は自分達の免罪符を手に入れるという状況を作り出してしまうために根本的な問題も解決されなくなる事を示します。そしてそういった都合の良い人物を見つければ、その人物を使い捨てもしくは偽装するための道具として使い、自身の悪事や浪費を隠すようになります。そして生贄さえ捧げれば楽に生活出来ると考え、生贄に選ばれない様に保身的に行動し、付和雷同し媚びを売り上司に目を付けられない様に行動する集団になるでしょう。どうにもならない問題は生贄を捧げればとりあえず目の前から消え、それがどうにもならなくなるまでは社会の規模と成熟度によって変わり自身が生きている間だけでも保てれば良いと考えて行動する様になります。
これも自分達から見た世界と世界から見た集団の差が生じている事になります。しかしその自分達という集団がその環境のほぼ全てを埋め尽くしたならそれを見る"外側"の集団が皆無となり批判されない事で抑止力を失い暴走に気づかないままになります。その問題はやはり精神の在り方です。保身を行い生贄に選ばれない事を続けた人物で構成される集団はそれでうまくいくと認識しそのまま繰り返します。その行動の制限は生贄に選ばれない様に保身するという基準だけになり他のルールは軽視されます。そして生贄に選ばれない大多数を形成した時に保身の必要もなければルールなどを守る必要もなくなります。ただし生贄に選ばれないように行動はしますがそれが本来の正しいとされる行動とは違っていても問題ないようになります。しかしそれを見る"外側の集団"は存在しない為暴走出来てしまいます。この原因は自身、そして自分達の集団における基準を持ち合わせていないからです。元々の行動を制限する根拠を外部に依存しそれに従っていただけであるからその制限が外れた結果、正誤の判断が出来なくなります。正しいかどうかを追求すれば他者と諍いを起しやすく目立ち生贄の対象に選ばれやすいならそのような行動はとらないようになり、上司の意見に対立すれば目立ち生贄に選ばれそうならイエスマンになり、上司の機嫌を損なると生贄に選ばれやすいなら媚びを売りご機嫌を取るようになります。保身、つまりは自身の行動の基準が外部にあるわけです。そういった集団が大多数を占め、どこにもご機嫌を伺う必要がなくなった時、自由に行動し始め、そして自分達が今度はご機嫌を伺ってもらう番だと思い行動します。そして誰も根本的な問題を見なくなります。」
そこで充分話したのかマスター・ララが話を終え、エールトヘンが引き継ぐ。
「個人から見た世界と世界から見た個人のギャップという事で商人の視点について話しておきましょう。以前から商人は差を見て利益を出すと話していますがなぜ彼らはそのような視点で行動するのかと言えば、彼らの行う商行為という取引行為が基本的に第三次産業に属するからです。農業などの第一次産業が生産し、工業などの第二次産業が生産、加工したものを取引するのが彼らの役割になります。そのため受動的な状況に陥りやすく、失敗しないためには情報が何より重要になってきます。農業は多少の情報による不利は生産品を食料にする事も可能な場合が多い為に失敗は第3次産業程に生死に直結しません。第2次産業も生活の一部に転用できる場合もあり第1次産業程ではありませんが第3次産業程に生死に直結しません。第3次産業の場合は入手した商品が取引の失敗で全て無価値になる可能性がありより情報が重要になります。そして生産加工する分野はその商品の取り扱いについて熟知していますが第3次産業に属する商人は多種多様な商人を扱うようになるとそれぞれの知識は必要な分だけ覚えている状態になりますが、それぞれの分野の専門家には劣ります。しかし、取引についての知識分においては各分野の専門家と同等の知識を持ち、持たない場合はそれ以外の何かで補填しないと取引に負ける事になります。それ以外の何かは信用、友好関係、家族、同族などのコネになります。ここで重要なのは商人の知識というのは取引を中心に集められ組み合わされるという事です。つまり、商人から見た世界は商人以外から見た世界とは違い、また、各分野の専門家から見た世界も同様です。
各分野は自身の分野と中心に知識を集め、関連性の小さい分野などの知識は少なくなり精度が低くなります。同時に生活に必要な知識も自身の生活を中心に集められ関連性の小さい知識は集められないか精度が低いままになります。
客観的な知識の集合体としての社会の持つ知識を全体としてそれを球と考えるなら、それぞれの構成員の持つ知識はその内部のどこかを中心としたそれより小さい球になります。
1個人だけを考えるなら個人の知識の集合を表す球体を包み込むように社会の持つ知識の集合としての球があると考えてよいでしょう。
同様に1個人だけを考えると客観的な知識の集合の分類上の離れた場所に個人の知識は散らばって存在しているとも言えます。
この1個人を考えた場合の2つの変換の違いは、後者は客観的な知識を基準としているので個人は専門知識と生活における知識という2つの基準を持つために離れた場所に知識の集合が存在する事になり、前者は個人の知識を基準としているので客観的な知識の分類が個人の知識を基準としてばらばらに配置されるマップになります。「食べる」という概念と「走る」という概念があったとしてそこに「モラル」が含まれるなら「食べる」為のモラル、「走る」為のモラルというようになります。客観的なモラルという概念から見れば内部の該当する部分は「食べる」為のモラルに該当する、などというようになります。
客観的な「モラル」は社会の中での共通なものであり大きなものになります。個人の基準として「食べる」時のモラルやマナーは個人が最も重要だと思うものからその客観的な概念である「モラル」へと接続されますが重要度が下がり必要かどうかの閾値を下回るとそこで接続を途切れさせます。閾値の下になるという部分を水面下に潜り見えなくなる、と言い換えても良いかもしれません。同じように「走る」という概念もモラルやマナーという部分で個人が最も重要だと思うものから客観的な概念である「モラル」へと接続し必要だと思う所までをその要素として取り入れます。それ以降については先ほども言いましたように水面下に潜るように対象ではなくなります。
必要でないと思えば切り離し、必要であるなら客観的知識から知識モデルとして参照し、必要なだけ取り入れます。先程の表現で言えば閾値を下げモデルの構造を水面上に出して参照するようになります。その際に個人の価値観によりどの部分を優先するかが変わる為に取り入れるモデル内部の関係性は考慮しつつも必要な部分だけを取り入れる為にその関係を維持する条件が少なくなります。勿論ルールに従うだけの者はマニュアルを取り入れるようにそのつながりを考えずに手順などの形だけを取り入れます。例えば食事の前に手を洗うというマナーがあったとします。これは手に菌がついている状態で食べ物に触れる事があれば手から食べ物に菌を移す事になりそれを食べる事で食中毒などの原因になるからですが、こういった根拠を知らなくともルールを取り入れる事によりその問題は防げます。
しかし、その根拠を知らない為に単に手を洗えば良いと思っていると、殺菌するにはどれだけの精度で「手を洗う」必要があるのかを考える事がない為に洗い方が不充分となりやがて食中毒を発生させてしまうかも知れません。逆に根拠を知っていた場合には「菌が付着して食中毒が発生する恐れのある行動」を注意し避けるようになります。そうして「菌が付着して食中毒が発生する恐れがある」という根拠を元にいくつかの行動がつながります。落とした食べ物を食べない、食器はしっかり洗う、加熱殺菌は必ず行う、唾液や汚れのついた食器で食べ物を触らない、などがつながり連想されるようになり、また、個々の状況から連想される事にもなります。物を落としたなら汚れがついて菌が付着しているだろうから食べない、洗っていない食器を使うと菌が繁殖しているだろうから使わない、というように連想出来るようになります。
このように「食べる」や「走る」の、ここではルールにしておきますが客観的な知識の集合から知識モデルとして取り入れる部分が対象の概念につながりますが個人の価値観もしくは優先順位で形を変えます。その差が客観的な知識と比較して問題ない差であれば周囲からは許容されるでしょう。そしてその部分に注目して同型もしくは近似であると同定されたのなら各概念の一部にあるそう判断される部分は連想の対象になると言えます。スポーツで野球やサッカーのモラルやマナーは連想の対象となっても食事のモラルやマナーはその時には連想の対象になる事は少ないでしょう。
個人の持つ概念に伴う要素としての概念は個人の価値観によって形を変える事になります。「食べる」時のモラルやマナーはその地方、集団の習慣により偏向しますが、基本的な部分では同じになるでしょう。私達の生命の活動に関わる条件は同じである為に基本的な部分で違いを生じる事はあまりありません。しかし、私達は形を真似る事で行動する方法を覚えてしまっています。その時には考えない為におかしな方法を取り入れているかも知れず、自らの行動を省みて考える事でしかその間違いには気づけません。その際に自分達とは違う集団を見るか、論理的に問題点を分析し把握するかのどちらかを行う事になりますが、やはり考えない場合には前者である自分達とは違う集団という形に見えるものでしか気づく事が出来ません。
これを中心から伸びる樹枝状の立体モデルと考えましょう。あるいは分子模型を見るようなものでも構いません。枝と節点からなり、中心から伸びそれぞれの関係性によりつながる1つの塊と見ます。その塊の大まかな形は専門分野や得意分野、生活に密接する知識などで偏向し、楕円などになるとしても大抵は球状と言える形になるでしょう。社会において余程の事がなければ各分野の基礎知識を持ち簡単な対処なら出来る程度には能力があるはずでその知識と経験により小さな球状を作り出し、得意分野や専門分野などの知識と経験が突出するような形になるはずです。
また、私達は生きており、そして忘れる生き物です。中心に私達の核があるとして、私達は知識を維持する為に絶えずエネルギーを供給して各つながりを維持し必要であればつながりを伸ばし進化、必要であれば退化を繰り返し、そこに忘れるなどの外的な要因を加えて退化する事になり、その均衡を維持出来る状態で個人の知識が維持されると言えます。
少し話は逸れましたが基礎的な事を先に言っておきました。
では商人の知識はどのように構成されるのかと言えば、取引が主体となります。取引が生活の知識と合わせて重要になり、取引に重みを置いて各分野の知識を集める事になります。そして各専門分野の人物の知識は物の生産加工に重みを置いてその先に取引の知識を持つ事になります。より自身に重要なもの、自身に近い知識と言うものが逆になると言う事です。そのため、商人は生産加工に携わる事がない為に、自身の役割ではない為に、そういった知識は疎かにしがちになります。そしてその行動の基本も、取引においては差を見つけて利益を生む行動が主体となるので考え方もそうなります。
しかし生産加工に携わる人物の考え方はまず良い物を作る。その後に他者の製品との差を見るという順序になり、商人とは逆になります。ものとして基本的な事項はルールとして守り、その後に競争の為に省いたり付加価値を付けたりしますが、物として売り上げを上げる為にあえて劣化品を作ろうとはしません。物としての最低限の機能は有しているが強度が足りなかったり使いにくかったりする物をあえて作ろうとはしないのです。
商人は違います。まず差を見つけて売り利益を得る考え方ですので物として最低限であろうと機能するなら強度を下げようと使いにくくなろうとも関係がないのです。売れてしまえば自身の所にはその物は残らず、訴えられなければその差分は全て利益になります。そして物が使いにくいというなら、自身は他の良品を高値で買って来れば良いだけです。言ってしまえば、それまでの社会の中にあった信用を商人の独断で切り売りした事になりますがそれも社会の中にある不定形財産で法定されていません。売る際には以前と同じ品質であるかのように宣伝して売る事で他者を錯覚させて損失を押し付ける事が出来ます。
この2者の視点の違いとして、生産者はその品質を高める事で利益を得ようとしますが、商人などの取引主体とする者は品質を落としてでも差を作る事で利益を得ようとします。そして商人が競争に勝つにはその方法が主体となり、品質を上げながら差を作り利益を得る方法を商人が能動的に行う事はまずありません。商人は生産者ではなく生産に関わらない為に商品の品質を上げる手段をほとんど持たず、そして知識も取引主体で必要な部分のみである為に品質向上の為に微差を競う生産側の知識を持ちません。
生産者側に良い見方をすれば、生産者側は利益を得るための品質向上の為に労力を惜しまず商人は品質を下げてでも差を作り利益を出そうとする。商人側に良い見方をすれば、生産者側は採算度外視で効率の悪い事をし商人は無駄を省き効率を上げます。
ですがこの際の無駄の省き方に問題があり、その無駄を決めたのは売る側であり買う側ではないという事です。以前から言っておりますように明文化されるのは極一部の明確に出来る部分だけです。物の機能や品質として決められるのは基本的に最低限かそれに近いものだけです。そして生産者側の努力により品質が向上した場合には大抵はそこに付加価値がついている場合があります。つまり最低限の基準より上の基準で物が提供されているとして買う側はその基準を信用して買う事になりますが、商人が差を得ようとすればそこにある差は利益を生み出す元になるのです。そしてその差を生み出す事の影響がどうなるかを考える事もないのです。
この商人の思考は第3次産業に携わる者の特徴でもあります。その思考の根本的な部分として第3次産業に携わる者は第1次産業や第2次産業のように社会に必要不可欠な物資の生産に携わる者ではなく、そして余程の特殊な事情がない限りは誰にでも出来、代えが効く為に弱い立場にあり些細な事情で代えられる可能性があるために生き残るのは差に敏感な者だけになります。また、簡単に切り捨てられる可能性があるために商人の側も利益のみの関係と割り切って簡単に切り捨てるようになります。そうなれば商人は生産側の事情は考慮しなくなり差だけを求めるようになります。自身がその才覚で切り捨てられるリスクを背負いながら生き残ってきたという感覚を持ち、他者も同じ条件だと思う様になります。つまりは自身がいつ切り捨てられるか分からないのだから他者をいつ切り捨てても良い、と思います。
しかしです。商人のその活動の基盤はどこにあったでしょう。商人が活動するには第1次産業と第2次産業という生産活動を行いながら取引をする市場が存在しており、商人の活動自体はその市場が存在するからこそ成立していたものでしかありません。しかし商人の思考、知識は取引主体であり品物の専門的な知識などは持ち合わせず、そして切捨て、切り捨てられるという希薄な関係を主とするために市場そのものがどうやって成立しているかを考慮しなくなります。そして商人の行動は取引で利益を得る事が出来なくなれば別の場所へ移動しそこでまた活動するという行動になります。その際に取引相手との関係は希薄な事が多いですから、出来る限り譲歩させて差を作り出し利益を生み出してから移動するという行動が効率の良いものとなり、その行動をする商人だけが生き残るようになります。また、その逆もあります。商人は切り捨てられない為に譲歩させられこれ以上譲歩が出来ず商売として成り立たない為に別の場所を活動拠点として選び移動するという事もあります。どちらにしても取引相手との関係は希薄であり第1次産業や第2次産業で材料などの取引をしている運命共同体とも言える関係とは異なります。
ここでリザルトセットから例を出しますが、商人からは生産者側の状況を把握するのが難しいと考え、生産者側で材料などの高騰により取引が難しい為に取引を渋る場合があります。それとは別に、優位な立場を利用して取引を渋り価格交渉を有利に進めようとする場合があります。その行動に至る根拠を知らなければこの2つの例は同じ行動を見る事で混同され、前者の理由で取引を渋っているが商人側は後者の根拠で取引を渋っていると錯覚する可能性が生じます。こうして取引を有利に進めようとした人物が生産者側の問題を根拠にして行った事をきっかけに、それは単なる譲歩を引き出す為の手法だと認識され、商人側はそこにある事情を軽視し、それが常習されるようになります。こうして商人側は自分達から見えない本当に起きているか分からない事情により譲歩させられる時はそれは交渉の仕方だと判断し事情を考慮しなくなり、立場が逆転するような事があれば同じ手法を行う様になります。
こうして商人の基本的な考え方と行動が出来上がります。そのような商人が大きな権力を持てばどうなるかと言えば、有利な立場で差を生み出すために譲歩を要求し、生産側の事情は考慮せず、変化を生み出すために活性化を狙って差を作り出し、状況が混乱してそれ以上利益を得る事が難しいと判断したなら別の場所に移動する行動を取ります。それが商人として培ったノウハウだからです。しかしそれは社会基盤を破壊する事で差を生み出す結果となり、商人の行動が社会のルールを守らない為に起こる事でもあります。自身の才覚で生き残ってきた考えがありますがそれは社会システムを維持しようとしている者がいたその上に成り立っていたという事実には気づかないか、薄々と気づいていたとしてもこれまでの競争の中で切り捨ててきた考えであるために考慮しないのです。しかしそれらは商人の視点であり、商人としての個人から見て世界です。そして自身に起きた経験とそれに対するレスポンスしか考慮しない、という事実は、自身だけが不条理な状況にあったとしても、逆に幸運に恵まれた状況にあったとしても、それが一般的に起こり得る状況なのだと錯覚するという事です。
そうして局所的に発生した偶然と必然により冷徹なまでの状況を潜り抜ける事になった商人が居たとしてその商人の見る世界では他者を切り捨て切り捨てられるのは日常となり、その基準で行動するようになり、競争原理により周囲もそれに追随する結果となり、一般的な商人の世界はその劣化した基準で行動する者だけになります。そうなる前にその個人が周囲を見て考え、自身に起きた事が稀な出来事でそこを抜け出したなら行動を変える必要がある、と思うかその周囲の人物がブレーキ役をするかする必要がありますが、競争原理は考える時間を奪っていきます。そして考えない為にやはり基準は劣化します。また、厳しい境遇を潜り抜ける事でそれに対する不満もあり『なぜ自分だけ』という考えの元に行動の基準を捨てきれずに優位な状況を作り出そうと周囲から見ればモラル違反、マナー違反だと言える行動も平気で行います。
その為、商行為のみを行わせる場合には制限が必要になり、それを外せばいずれそのようになります。基本的には商行為は生産、加工などの活動と分離してはならず、分離してしまえば生産、加工の事情を考慮しないようになり、技術を退化、品質を劣化、規模の縮小で差を生み出しコストを低減し利益を出す方法を容易に行います。それは自身以外はどうなっても構わず自身の出す結果と利益のみに周囲を使い捨てる行動になります。
例えば団体競技において優れた監督が居たとしてもやりたいままにしてうまくいっているからと言ってそれで良いと言えるかは別です。勝つために反則スレスレのラフプレーを連発させ、選手に指示を出して相手側の主要な選手に怪我をさせて退場という形での1対1のトレード、選手生命を短くするのが分かっているようなカーブなどの変化球を多用させる、などの方法で周囲を使い捨てる方法が許されるでしょうか。
また、貴族など権力者が商行為をしてもいけません。商行為での利益を優先する裁定を下す可能性があるからです。重要な取引相手であり、その人物に罰を下すと自身の商取引にも大きな影響を与えてしまうから罰を加減するのでは法の絶対性が揺らぎ効力を低下させます。それを見る民衆もそうやって利益を得ても良いのだと錯覚するからです。もし商行為をするなら自らの商行為に関係しても変わらない裁定を行う必要がありますがほとんどの場合グレーゾーンを抜けないでしょう。
そして商人に行政に口出しさせてはいけません。どのようなものも自身の利益を優先してしまうからです。商人はそれが間違いかどうかをそれまでの思考や行動の形成の仕方により判断しません。差を生み出せば利益が生み出す、という社会全体から見れば漠然とした考えで全てを推し量る為に向上させて得られる利益よりも容易に実現出来る劣化させて差を作る利益を優先するからです。どちらもその短期での計上は同じでありその差の大きさは劣化させる方法がより大きくなります。その影響により状態が変わる事は元々自身の考えに含まれないのです。規制緩和はそこに属する構成員の資産を吐き出させる手法として使うようになりますし、貿易協定は自身の実績としての利益のみを計上し、その結果として内産が弱体化しても気にもしません。やはりそれは商人としての自身の責任ではない、と考えるのです。しかし元々その地位にあるという事実はその問題も含めて対処するのが常識であったとしても自身の経験と見てきた世界でのやり方を踏襲するのです。
しかしそれは自身から見えない場所で誰かがルールを順守したり環境維持を含めて活動していた事により行動がフォローされていた事には気づけない為に、重要な地位についた後も気づけず、その結果がどうなるかを考える事もなく、以前と同じ結果を得ようとし、実際に得て、そして誰もフォローしないために状況は悪化するという悪循環を繰り返します。つまり、ごみ問題と同じように自身の行動が生み出す自身が認識出来ていない余波となる影響を全く考慮出来ておらず、後になって影響が現れる事はいままでの行動を基準にする為考えません。
そのため、商取引をさせる場合にはその対象となる商品の分野での生産に携わる経験を得させる必要があります。その行為が実際には状況を悪化させて活動の規模を縮小させている可能性を検討させる必要があります。しかしそれでも制限のない競争によりそういった事を考える商人は生き残れずに消えて、自身の利益を中心にその場しのぎのような考えをする商人が生き残ります。今までは自身の知らない影響については誰かがフォローしていたからで、誰かに任せる事でリスクも低減しコストも削減出来るなら効率が良くそれだけ優位に立てます。そしてそれを自身が有能だと錯覚するのがほとんどとなります。人は思いつかない事は出来ず、気づけず、そして考えない事で気づく可能性もないのです。結果から類推する事は出来てもその結果に遅延がかかり社会の中での多くの行動の結果と一緒にグロスとして扱われ問題として表面化する時には原因を判別しにくく、そしてそれが明確に誰の責任かと追求できるのは稀になるため、このような商人の行動がチャレンジアンドレスポンスの結果として修正される事は滅多にありません。
そして、多くの行動の結果と混ざり合う為に明確な責任を取らなくて良い為にリスクが低下しているが利益は得られる行動として選択されるようになります。また、自身がそう選択しなくとも代理となる誰か別の人物と内密に契約してそう選択させる事で利益を得られる状況を作り出します。」
エールトヘンが締めくくる。
「お嬢様は貴族です。このように商行為を行う際には注意が必要になり、また、領内で商行為をさせる時にはその管理が必要になる事を覚えておいてください。商人が場を荒らして利益を稼いで逃げるという事態を想定して担保を取るのですがもし担保を取らない施策を行うならそれに代わる対策が必要になります。しかし担保を取ると後発の者は不利でしかなく、担保を作る機会がない為に商売の機会も作れないという事態になります。そういった施策の長所短所を理解して時代の機微に合わせて実行するのが貴族と言えます。さあ、その為に今日もがんばりましょう。」




