S070 天才画家の一生
トレッツェリは貧乏だ。今日買うパンにすら困窮する程に。
だが彼にも希望はあった。彼には絵の才能があったのだ。
彼の描く絵は多少なりとも価値がつきなんとか食べる事が出来ていた。
それも昨日までなのだが。
パトロンのように絵を買い上げてくれていた商人が買い上げてくれなくなった。
姿絵のバイトも最近はなくパトロンだった商人にも借金が返せていないので新たに借りる事が出来なく困っていた。
だがこの絵がコンクールに入賞すれば。
今回のコンクールの入賞作品はギュスターヴ子爵が開催する展覧会の目立つ場所に飾られる事になっており一気に有名になれるのだ。そうすれば新たなパトロンが付いてくれるだろうし絵の価値も上がりこの貧乏生活ともおさらばだ。
「グッ・・・、ゴホッ、ゴホ」
ここ数日体調が芳しくなく咳が止まらない。多少寒気がするがこんな時に休んでいては大事なコンクールを逃してしまう。この絵さえ完成すればゆっくり休めばよい。
そしてトレッツェリは筆を動かす。今日の絵具のノリが良い。それもそのはずパンを買わずに良い画材を買ったから当然だろう。この絵を見ればまた姿絵のバイトや商人も絵を買ってくれるだろう。それに今はとても調子が良い。咳が止まらないのは気に入らないがそれでもいつもよりうまく描けている。
さあ、もう一息だ。
そうしてトレッツェリは寝食を忘れて描き続けた。
そしてコンクールの数日前。大家がトレッツェリを訪れてみると彼は冷たくなっていた。神父と彼の関係者に連絡が行き、その中には彼と懇意にしていた商人も含まれていた。大家は家賃がどうだの手間がどうだのとブツブツ言い彼の僅かばかりのなんとか親戚と呼べる者達は目を逸らして話を聞いていた。友人達もここ数日彼の体調が悪そうなのはなんとなく知っていたが部屋に籠りっぱなしだったので彼がそれほど弱っていたとは分からなかった。
そんな中、商人は彼の死を惜しむかのように言った。
「ああ、私がもう少し彼の事を気にかけていれば。大家さん、彼のため込んでいた家賃も神父への謝礼も私が払いましょう。部屋の片付けも私が請け負います。」
それを聞いた大家は喜び、彼の親戚もほっと胸を撫でおろした。誰もが商人の気前の良い提案に賛同し、駆け付けた神父もその行為を善行だと喜んだ。
そしてトレッツェリの葬式も済み商人は自宅で独りほくそ笑む。
俺にもチャンスが回ってきた!
以前から貴族や他の商人に紹介して姿絵を描かせてきた根回しが役に立った!
話題性!才能!希少性!申し分ない!
貧乏ながらも才気溢れる少年は情熱を胸にコンクール入賞を目指すも病に倒れる。彼という才能を失った事を商人は彼の死を惜しみながらその才能を世に知らしめるために彼の作品を大々的に宣伝するのだ。
ああ、堪らない!金だ!金の匂いしかしない!
彼から絵を安く買い上げる為に多少金を貸すのを渋ったがそれが良い様に転んだ。彼が他の商人に金を借りれないように根回ししたし他の商人も他人の商売の邪魔をする気もないからそこは阿吽の呼吸でうまく対処してくれた。
彼が自身の価値を知らなかった?それはそうだろう。そうなるように根回ししたのだから。自分の絵がいくらで売れるのかも分からない事までこちらの知った事ではない。私しか買わないのなら私が値段を決めれば良い。ただそれだけだ。安く仕入れ高く売る。それこそが商売の基本だ。
若くして死んでくれたのも良い。作品の数が少なければ少ない程希少性は増し高くなる。彼を紹介した貴族達も自分達が持っている肖像画に箔が付くから喜ぶだろう。
そうだ。今度のギュスターヴ子爵の展覧会に飾ってもらうのはどうだろうか。子爵もトレッツェリの事は知っている。若い天才が夭逝した事を悼む子爵。子爵も評判を上げる事が出来、私も絵を売り込む事が出来る。そうだ!それが良い!
いやあ、リザルトセット様々だ。過去の記録、教訓、実に良い。過去に誰かがそうやって金を稼いでくれたから私もそれにあやかって金を稼ぐ事が出来るしどれだけ儲けられるか、いやそれ以上効率良く儲けられるか考える事が出来る。ありがたい。普段は一銅貨にもならないから行ってないが今度墓参りくらい行ってみるか。今なら墓にキスさえしてしまいそうだ。
ああ、堪らない!トレッツェリ。私の大事な友人だった。こうも私に富を授けてくれる者は他にいない。とりあえず、2年?いや3年?もう少しいけるか?彼の死を惜しみながらその作品の良さを語れば皆、話を聞いてくれるだろう。もしかしたら名画として価値が跳ね上がるかも知れないと思わせる事が出来たらもうそれはそれは高値で買ってくれるだろう。徐々にでいいのだ。誰かが高値で買いその噂が噂を呼び皆先物買いで値を吊り上げてくれる。
さあ、稼ぎ時だ。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。リザルトセットの悪用ですか。よくある話ではありますね。以前見た誰かが利益を得た結果を見て自分も得たいと思って状況をそうなるように整えるというものですね。元の記録が映像などの外側から見たものしか残らない為に自身から見てどう見えたかで判断して同じ事をすれば同じように利益が得られると思い行動する方法ですね。その欲望を満たすための根拠も簡単なもので"以前に誰かがやったから""自分がやっても許される"というようなものです。誰かが成功させているのだから自分も成功させられるのではないか、と考え、その結果を目標にして違法にならない程度に状況を変えていくのです。崖から突き落とすのが罪だというなら落ちやすい崖の景色が良いと言いながら誘えば良く、その一回でどうにかならなくとも常日頃からそういった努力を行う事で結果へと近づけていけば他の要因と重なり都合の良い出来事が起きる可能性は上がるでしょう。そして起きてしまえば自身は罪に問われずに不幸な出来事が起こったと嘆く事で表面上は取り繕えるのです。そしてこれは自らの能力を頼みに利益を得る事よりも他者が失敗する事で得られる利益の方が労力は少なくて済むから行われてしまうのです。こういった事は私よりマスター・ララの方が詳しいでしょう」
そう言ってエールトヘンはマスター・ララを呼び出しマスター・ララは多少の受け答えはあれどもいつもの如く平然と話を引き継ぐ。
「ああ、まともな行動に見せかけた蹴落とし合いの話ですか。よくある事ですね。本来は互いに失敗しないように助け合うのが社会の基本ルールなのですが社会の中で甘やかされて育つとどうすれば社会を維持し向上させられるか、どうすれば社会が潰れ維持出来なくなるかなどを考えなくなるのです。今までそう言った事を考えずとも誰かが作ってくれたシステムは稼働し、自身が多少なりともズルをしても社会はそんなちっぽけな事では壊れもしません。そこにエールトヘンの言う魔の誘惑、でしたか、ルールを破っても罰せられずに利益を得られるのではないかという欲望を抱くのです。しかしそれはごみ問題などのようにグローバルな視点で制限されていた問題であり、そしてその結果は遅延がかかり後から問題として表面化します。その時々で成功したかどうかを判断出来る事でもないのです。しかし、社会の成り立ちやシステムをどう維持するかなどを考えた事もないものからすればそれがそこまで大きな問題に発展するかなど分からないのです。そして考えれば気づいてしまうから考えないのです。そして考えれば競争に負ける事が分かっているから考えずにそのまま習性としてその血統に染み付くのです。
例えばです。リザルトセットは良い使い方も出来れば悪い使い方も出来ます。簡単なものでは証拠の残らない悪意は立証出来ない、というものです。簡単な個人の経験則でもこれは覚えてしまいます。使うかどうかは別として。ではエールトヘンどうぞ。」
「ある人物Aが別の人物Bに助言をしたとします。人物Aは別段騙す気もなく人物Bに何か教えたとします。教えた内容が後になって間違いだったと分かり、人物Bがそれに気づいて問題無く事を済ませるか気づいていなくとも問題無く事を済ませる結果になれば後で小言を言われるかも知れませんが問題無いままに終わります。しかし人物Bがその助言で行動を変えて間違ってしまい失敗してしまったとします。人物Aは小言は言われるかも知れませんが信頼関係があるなら人物Bの損失が軽微ならそれで済みます。さて、どうであれ失敗したとしましょう。ではその失敗の責任を人物Aは取る必要があるでしょうか。人物Bが損失を被ったので人物Aに責任を取らせたいが人物Aがした助言を人物Aに認めさせなければその根拠を示す事が出来ません。人物Aとしてもそんなに重要な事なら他人の助言だけで判断せずに自分で調べろと思って人物Bの言い分を聞かないでしょう。こうして発言の証拠もなく追認も取れないのであればその発言の責任を取らなくとも良い事を知ってしまいます。その会話が行われた2者間では当然ながら事実であるため関係に影響はありますがそれを第三者や法的機関で扱おうとすると証拠が必要になるのです。
例えば人物Bが遠くに買い物に行くと言い出し人物Aに「天気はどうなりそう?」と尋ねたとします。人物Aは自分の知りうる範囲で「たぶん晴れると思う」と答え人物Bがそれを信用し出かけたとします。ですが雨が降り人物Bは濡れ品物も濡れて価値を落とすなどした場合、人物Bは不満を持つでしょう。些細ともいえる事ですが人物Bはそれを人物Aに不満を述べ人物Aが謝って済むのなら問題は解決ですし謝らないのなら揉めるでしょうし、そもそも人物Aは謝る理由がないと考えるかも知れません。人物Bも自分で確実に確かめればよかったと思えばそれで済むかも知れません。
ではこれを悪用してみるとどうなるかとなります。人物Bは人物Aに「天気はどうなりそう?」と尋ねたとします。人物Aは人物Bに損失を与えたい為に実際には雨が降ると知っているが外の様子を見る限り晴れだと言っても問題なさそうなので「たぶん晴れると思う」と答え人物Bがそれを信用し出かけたとします。実際には雨は降り人物Bは濡れ品物も濡れて価値を落とすなどした場合、人物Bは不満を持つでしょう。しかし人物Bが仮に人物Aの悪意に後で気づいたとしてこれを証明出来るでしょうか。
例えば人物Aが人物Bに分岐路で道を聞いたとしましょう。本来は右に曲がれば目的地だと知っていても左だと教えるかも知れません。利害関係があり一致していれば信用出来るでしょう。不一致なら信用出来ないかも知れません。無関係でも信用出来ないかも知れません。そういった時に存在する社会の基本的なルールは善意から成り立っておりそれに従わないものには何の指針にもならないからです。ほんの気まぐれで、ほんの悪戯で、間違った道を、左だと教えるかも知れません。場合によっては誰かの失敗は自分の相対的位置を押し上げる結果になるから勧んで嘘を教えるかも知れません。この際にこれも証明しづらいものです。そもそもが道を聞かずに自分でしっかり調べてから行動しろというものももっともですが常に準備が出来る状況というのは難しくその時に周囲が信用出来るかどうかは危機的状況においては重要な問題になります。
人の本質は危機的状況になればさらけ出されると言われるように日常では隠されている事がほとんどです。相手が窮地に立たされた時の行動はそこにある利害関係が明確に現れ、利害関係では説明できないもので善意などを知る事が出来、窮地に立たされた者、その状況を見る者、それぞれの性質を知る事が出来ます。ただし、ここでも偽装は行われるのでよりスケールの大きな利害関係を把握する必要があります。その行動を見た他者がどう思うかなどもその行動の要因になり得るのです。そして見ていなくともその行動の結果を広められる事で得られる影響を考えて行動する事もあるのです。
では危機的状況という社会の基本ルールがより示されなければならない時ですらそのような状況になると言うのに日常での行動をその行動そのままに信用出来るでしょうか。行動から行為を推測しますが行動が少なくとも2つはある行為のどちらであるかをどうやって推測できるでしょうか。
因果律は不可逆です。その利害関係などを予め知っていなければその因果を逆には正しく辿れません。つまりその状況には存在しない情報によりその行動の根源を推測しなければその行動がどのような行為で行われたかを知る事は出来ないのです。例えば人物Aと人物Bが夫婦だとします。しかしそれはその人物を信用して良い情報になり得るでしょうか。かつてはそうだったでしょう。それは信仰という指針が社会を支えそこに加わる人員にその人物が理性により根拠を導く事が出来なくとも信仰という代替物で行動を律し制限していた時にはそれは信用に値する根拠だったでしょう。しかし信仰という枠組みを外した結果として夫婦というものは単なる経済連結体でしかなくなります。また、自身が長き血統の末に生まれた者であり親は一世代前の自分であり子は次世代の自分であるという考えも取り払ったとすればこの夫婦という概念には単純な利益のみのつながりしかなくなります。そうなった時、夫婦であるという情報は、他の情報で信用を補完されない限りは信用出来る根拠にはなり得なくなります。つまり、夫婦であるという利益を生み出す枠組みより他にそれを悪用する事で多くの利益が得られ、更にそのペナルティも回避できる方法があるならそちらを優先する可能性があるという事です。
これまでに言いましたように概念定義は繋がりを持ち、ある定義が変われば他の定義も影響を受け変えざるを得ない状況になり何かを変えたのなら更新する必要がある事を覚えておいてください。何か規制を増やしました、減らしました、あるルールを決めました、失くしました、というその部分だけが変わるのではなく全体に影響がある事を理解してください。より大きな枠組みが外れたならそれはより大きな範囲に影響し、モラルやルールが低下すればその影響は全体に波及します。かつて"協調"と読んでいた者もその劣化により名称は"協調"のままでもその実質が"妥協"にすり替わっていたりその変質は徐々に周辺から及ぶのです。劣化を始めた部分だけ見ればその劣化は中心から生じますがその影響を受けて劣化する側からすればそれは周辺から浸食されるように組み替えられる事になります。そしてある概念定義を変質させたいならそれ自身に直接影響を与えると気づかれる可能性が高い為にその周辺から間接的に影響を与えるのです。そして瑕疵が出来たとしても周囲がそれに気づけないならそれを悪用して利益を上げ、最終的には定義そのものを変えてしまうのです。
それら全て、リザルトセットという過去の結果の蓄積を用いる事で結果を予測出来、予測する事で計画的に実行出来るのです。
話を戻しまして本人にその気はなくとも相手を騙す結果になってしまった事で、誰かに損失を与える事が出来る事を知り、そしてそれが社会での日常においてたまにでもあるが発生してしまう事で互いに許し合う程度のものであるならその間違ってしまった行為が許される事も知ります。そして間違ってしまった結果として損失を与えたが許された行為とあえて間違う事で損失を与える行為との間に同じ行動が行われるのならそこに差を見出す事が出来ない為にその行為が利益を生み出しペナルティを受けないなら実行する価値があると考えてしまうようになるのです。その後は快感原則と競争原理により都合良く利用した者程優位に立ちそういった行為を平然と行う者が残るようになるのです。」
そこでエールトヘンは話を区切りマスター・ララを促す。
「例えばその集団の中で誰か退場しなければならない、企業なら退職、共同体なら移籍、追放というような状況においてその集団の性質がどのような行動を発生させるかが変わります。善良な者達、というのはもはや理想論ですが互いに助け合い、それぞれが節約、節制、更なる労働による手間をかけて経費の節約などの材料処理費用の削減による人件費の捻出などでお互いを支え合うかも知れないでしょう。しかし人は劣化するものでやがてそうではなく、保身の為に他者を欺き貶める事で相対的優位差を作り出し、自分だけは助かろうとするようになります。なぜならその状況というものがそれより規模の大きい集団を取り囲む環境に対して起こった問題によって生じている場合が多くその行動は受動的なもので、本来の問題を解決できず放置しているのであればやがて問題は蓄積し影響は大きくなり受動的な対処ではその影響を吸収し切れなくなるからです。具体的には資源の枯渇、不況などの経済の悪循環になります。
その際に誰を貶めるかという考えに意識が変わり、どうすれば差を作る事が出来るかという考えをするようになります。派閥の作成で自身の主張が与える影響を大きくしようとしたり、失敗を庇い合う為の派閥であったり、賄賂を送ったり媚をしたりと方法はいくつかあるでしょう。その中に証拠の残らないように嘘をついて他者に失敗させ差を作り相手を貶め自身は生き残ろうとする方法があります。勿論、証拠の残らないようにという基準もありますし、相手が錯覚しやすい話し方で情報を伝えるというものもあります。証拠が残らなくとも嘘を言って失敗させた場合は関係が険悪になり相手側の主張により疑いを持たれ信用度が低下する危険があるために同等の立場にいる相手には行わない事が多い手法です。こういった手法は主に、新たに入ってくる人員と既に居る人間という関係など一定の差が存在する場合にその信用度の差を利用して行われる事が多く証拠が残らないために「確かに伝えた」と主張すれば単純な利害関係上では「嘘をつく必要も感じられないからその主張を受け入れよう」とし、また、新人についてはその信用度がない為に、言葉の意味を間違えたり聞き違えたりして「失敗した責任から逃れようとしている」と受け取られる事があります。そうすると新しい人員は簡単に差を作られてしまい、誰かが退場する必要のある状況ではより簡単に退場させられるでしょう。そして錯覚しやすい話し方で指示を出して失敗させる事も行われるために管理する側がそういったリスクを把握していないと簡単に詐欺行為が行われ常態化します。
ここにもリザルトセットの悪用は存在します。こうやって排除出来る事を知った後に、ではそうやって失敗させて差を作る事で、端的に言ってしまえばその場での生存権をたやすく侵害出来る事を知ったのですからそれを悪用しない手はありません。より立場を明確にして譲歩させ従わせる事で、賄賂を要求し、配下のように使い、その人物の手柄を横取りするようになるかも知れません。従わなければ退場してもらえば良いのです。そうして、その一部だけでなら良いのですがその一部を含む集団全体がその旨味を知る事で全員もしくは大多数が加担する犯罪の温床のような場所が出来上がります。どう行動すれば自らのリスクは回避しながらより多くの利益を得る事が出来るかをリザルトセットを見て決める事が出来るのです。
しかしそういった人物たちはもう問題の解決が出来ないという事です。問題の解決を諦めていかに自身の保身を、そしていかに環境を悪用していかに自身の利益を得るか、そしてそれはやはり保身のための貯蓄であるために、誰ももう問題の本質を見ていないようになっています。また、既に自分達では問題の解決が出来ないと分かっているからこそそれ以外の方法で生き残るための利益を確保しようとしているとも取れます。
しかし人は見たいものだけを見ます。その旨味により短期的にでも利益が出て、しばらくは相手を騙してアイデアや技術を盗む事が出来てその場しのぎで問題を先送りして来れたとしてもやはり本質的な問題は、継続的に問題に対処し状況を打開しようとする行動すらしない自分達、である事からもはや目を逸らしかつての成功体験にしがみつきそれを実行し続けようとするのです。それが間違いであったとしてもモラルもない為にそれを止める意識もなくそして罰せられないから実行します。こういった事は閉鎖的な社会では良く起こる事で村社会のルールというものはそこにいる人員により簡単に変質してしまいます。大きな母集団で全体のルールを特定の個人や集団が変えようとするとその影響が広がる前に検証が入りますが小さな規模では容易く他の勢力から妨害されないだけの勢力が出来上がります。10人居て7人が支持して強行すれば他の3人では止める事も難しい、という状況などが発生し得るのです。小さいが故に伝達も早くその意思決定も迅速であるがゆえに簡単に決定する事が出来る事の欠点とも言えます。
勿論大規模な集団でも発生します。少しずつ準備をし、思想を歪め、常識を偏向させ、欲しい結果を得るための習慣を受け入れさせ、そういったものに従わないと非常識だと思わせるような風潮を作り反対するものの行動を抑止した後に堂々と行われる事が多いですが。」
マスター・ララは話を終え、エールトヘンが締めくくる。
「この様にリザルトセットは正しく使えば私達の遺す、遺してきた遺産として有効に活用出来るのですがその使い方次第ではいかに悪事を気づかれる事なく実行するかにも利用出来てしまいます。そして貼っている問題の影響により生じている新たな問題や制限が自身に優位な立場を与えるのならその問題を解決せずにその状況を利用し利益を得ようとします。しかしそれはその本来の解決すべき問題を静観もしくは助長する事になり、必要であれば助長して有意差を更に得ようとするでしょう。そうなると問題を発生させる側となり社会は更に混乱するでしょう。
王国の初期段階では民の知性の成熟度が低い為にこういった悪用が当然の様に起こる為に与える知識に制限をかけていました。私達は思いつかない事は実行出来ないのです。また、ある行動が錯覚を与える事が出来る、と知らなければそれを悪用する事もないのです。極稀に偶然で実行出来たりもしますがそれは故意に実行しようとした結果とは違います。その状態で悪事を思いつき実行出来た場合はそのような性質を示し傾向を示すと言えます。そして錯覚させて騙そうとする性質もまた普段からその考えをしなければ出来ず、他者を貶めて優位に立とうする性質を示す事を簡単に知る事が出来ます。しかし社会も長く続いてしまえばそういった情報は社会に蓄積され制限をしてもやがて知る事になります。そうなると利点としては同じ失敗をしなくなる、ですが欠点は偽装して失敗を隠し、また、偽装して悪事を隠すようになります。そうなればその行動だけを見てその物の本質は見抜く事は難しくなり社会がより高度に、知識が豊富になればなるだけ数多くの情報が存在し、数多くの選択肢が生じ、その行動の元となる行為を推測する事が難しくなります。1回目と2回目は違う、という事です。一度も行われた事のない物事というのはその結果がどうなるかを予測しづらく、周囲もその行動からの結果を予測して行動するような事はしません。しかし1度経験して結果を知った事からは結果を予測出来、その結果を知らない時とは違う行動を取る可能性があります。この様に派生する行為を収束させるためにリザルトセットを利用して行為を収束させ間違いをなくし経験を活かす事が正しい方法ですが同時にリザルトセットを用いればその結果から生じる利益が予想出来、より自身に利益をもたらす行動へと行動を変える事が出来ます。
簡単な例では火事による被害が分かるならそれに対して事前に準備して迅速に消火するというものがリザルトセットの活用法でしょう。悪い活用法ではその際に皆が消火活動に出向き監視の目がないから火事場泥棒をするというものです。どちらもリザルトセットから生じそれぞれの状況を連想する事でその行為を生み出します。前者は偶然でも近くに消火のための水などがあり早く消火できた、ならその結果をどう活かせば火事そのものを早く消火できるようになるか、というものであり、後者は監視の目が少ない時に盗みに成功した事があり火事で人手が少ない時はその状況に似ている、というものです。
そして自身の属する社会がどのように維持されているかも考えない者の行為行動の根拠というものはモラルやルールの面での根拠が弱くリザルトセットを見る事で得られる利益を予測して行動する際に容易くモラルやルールを破りやすいのです。それは結果的に本来の問題を解決せず、影響を抑えて社会に貢献する事を選択せず、問題を放置し悪化させるか助長して悪化させるかを選択するようになるのです。
例えば火事場泥棒が発生した地区では火事が発生しても泥棒が盗みをしないように人員を残す必要が生じます。その結果として消火が遅れる事になり問題は悪化する事になります。このようにリザルトセットそのものが大きくなるにつれその選択肢も増えその対処は完璧に対処しようとすれば総当たり的に検証する事になり効率の良いものではなくなり、守る側、意地する側が非常に不利になります。
攻める側は100万回試行して1回でも成功すれば勝ちになるとすれば守る側は100万回試行して1回でも失敗すれば負けるのです。これほど不利な勝負はなくこれが社会の維持が困難な理由になります。内部の人員により行われる場合もあり社会はより崩壊しやすく個人から見て簡単には壊れないように見えてもその実際は非常に脆いものなのです。成功とは数ある組み合わせの中で条件を満たした数少ない組み合わせであり、それ以外は失敗になります。わずかな違いで失敗につながり、その成功を積み上げて形作るのが社会になります。
私達はその失敗を補填するために対策を取り社会システムが正常に機能するように行動しますがそこにもリザルトセットを悪用するものが存在し、取り決めたルールを悪用してその死角をつくように行為し、私達はそれにも対策を取り、行為が一定のルールで行動出来るように収束させる事になり、その為に何度もルールを修正する事になります。しかしルールを裁定する側は現実的問題が表面化するという状況に受動的に行動する事を迫られそれに対応するという制限があるためにルールを悪用して利益を得ようとする者への対処を完璧には出来ません。そしてルールを悪用する事で利益を得る者を見逃す事態になるとそれを真似る者が増加しシステムは常に損失を出す事になり、損失の増加は財政を逼迫し先細りする社会になります。社会を良くしようとする対策もその悪用により、当初に、それは以前に実施されて効果があった実績であり、予測された効果が期待出来ない事を意味し社会は対策も講じる事も出来ずに悪化し争いを生み崩壊します。このようにリザルトセットを活用する際に悪用される事も考慮する必要があり、それを怠れば悪人程利益を得る事になります。しかし対策を取れば実行出来る計画の選択肢は狭まります。悪人に悪用されないように計画を組み上げる事になるからです。そして問題によりその制限があるために対策を取れない場合は仕方なく制限を外して対策を実行しますが制限を外したが為に悪人に利用され利益を与える事になります。そして多くにおいて問題に対処するために制限を外すしかない事態に陥る事がほとんどなのです。なぜなら問題が発生した時点で既に受動的な立場に立たされているからです。
火事で例えるなら、普段は盗みに対処するための人員を残していても対処出来ていたが大火事になり人手が足りない。そうなると人員を全て消火に回すしかなく、その状況になると『今がチャンス』とばかりに泥棒が動き出すのです。」
そこでエールトヘンは一度話を区切り、改めて話し出す。
「こうしてその社会は崩壊するのですが、そうならない為にも最初の段階でどれだけの派生を予測出来るかが重要になり、その精度により派生しうる行為行動は抑制され一定の範囲に収束します。その思考を事前に行ない行為行動を決定する事こそが貴族に求められるのです。行動する時にはほとんどの問題を解決、出来るならば全ての問題に対処出来るようにしてから行動する、それが求められる行動です。ですが同時に競争原理とは相性の悪い方法でもありますが、それが出来てこそ能力があると言えるのです。そのためにもリザルトセットから過去の教訓を学び、今後の行動に活かせるように、さあ、お嬢様。続きを頑張りましょう」
夭逝なんて普段使わない言葉を使ってしまったのでちょっとだけ蘊蓄を。
"夭"の字ですが"ノ"と"大"で構成されています。
この"ノ"はnotの意味だと思ってください。"跳ねる"、"跳ねのける"、という意味合いがあります。意味としては抽選から跳ねる、というような、"ではない"というような意味です。違う解釈をするとその元に意味に傷を付ける、でも良いかも知れませんが大体前者で良いはずです(白と百もここから分かるかも知れません)。
だからたぶんですが"夭"の字は大きくならずに、大成せずに、という意味を付加するために付けられるのだと思います。
で、ですね。"稼ぐ"という字があります。"木"これは木片、でも左は"ノ"木片なわけです。つまり木の家を失くしてしまう、という意味を持っています。木の家というのは社会を一つの大木と表現する事があります(例としてはユグドラシル)。それを潰すやり方で収入を得る方法を"稼ぐ"と言うのです。世の中であえてそれを知りつつも知らないものを騙しつつ"金を稼げる"などと平然と宣伝しているものが多くありますが、そこにある言い訳は、「私達はしっかり"稼げる"と言った。だからそれに釣られてきた者が社会を潰しながら収入を得たのであってそれにより社の実績として利益を得た我々は悪くない。社会を潰しながら実績を出したのはあの人物だから我々は悪くない」というようなものです。言葉遊びの域を出ていませんがそれでもそこにしがみつくのが現代人です。
今は終末。終末の獣、知性はなくとも知識だけはある存在が溢れているのでこういった事も平然とします。罪悪感などは"考えない"から持っておらずあったとしても生きる為だと目を逸らして行動するだけです。
そういえば前話で法律の話を書きましたが今日ちょっと金額の話があって連想してしまったので書いておきますが、破産法におけるブルーカラーとホワイトカラーの違いを決める額というものがありまして、それを超えると知的作業を行っていたり責任ある立場だとみなされ破産法の対象になりにくい、というものがあります。いくらかは書きません。その金額以上を貰い、行動に自由度がある職業、というのは注意が必要です。従業員で雇った振りをして請負などをしている事にして失敗させその賠償を求めるために募集をかけている可能性もあります。まあ、ブラックの一形態です。そうして社会保障の枠組みの外におびき出してから失敗させその失敗を理由にゆすりたかりをする、というのが一種の金の稼ぎ方になっているので何か職につくときは注意が必要だな、と思います。昔、求人票を見た時に思った事ですがズバリその額を給与の最低賃金にしていたりする求人票などが平然と在り、あそこはブラックからグレー求人で水増しして数があるように見えているだけの不毛の荒野だなぁと思ったものです。
どこかは言えませんがそういった水増しや悪事を働くための偽装を除いてまともな求人はあの時でも1割もあれば良いほうだったと思いますが不況も深刻になっている現在ではそれもどれだけのまともなものが残っているのでしょうか、と言えます。追い詰められた者が悪事を働くしか生活出来ない状況になったとしてそれを悪用して悪事を働かせて得させた利益を吸い上げるロンダリングシステム、という方法も一つのビジネスモデルと言えるかも知れません。それが合法か違法か、という面でとある権力側にいれば合法にされるのですよ。こういったものは。誰もそれを批判できないから。
あまり額など詳しく書くと色々問題があるので書きませんのであしからず。ただ、その額が私が知った当時と今も変わりがないとして、世間の価格の変動はどうなっているのだ、貰う給与の額はどうなのだ、という事になります。給料が1.5倍の額に増えるが物の価格も上昇しているがための措置でしかなかった場合、そういった法律根拠の額というのは現実と乖離して以前の基準で評価された生活よりも貧しくとも同様の判定がなされる、という事が起こってしまいます。これが判例法での欠点だと前回書きました。あなたの知らない所であなたを罠にはめるための行為が進行していたとしてもそれが大枠すぎてあなたの目の前にないならあなたは気づかないかも知れない、という事であり、本来はその分野毎にそういった不正が行われないように律するのですが現状は逆に利益を稼ぐために使われる、という事です。
彼ら自身自分達も同じ条件で生き残ってきたんだ、と自負があったりもしますが単純に他がルールを守る中モラルやルールを崩し不正を行う事で生き残ったとしても同じ事が言えるのです。能力がある場合と状況は同じになり混同しやすく人は見たいものだけを見る。そして自分達が利益を得る側になった時に自分達もその状況から這い上がってきたのだ、と主張する事で肯定する。しかしその環境は自分達が潰してきた後だ、という事はそもそもがどうやって成立していたのか分からないからどうあっても分からない。そして後発の者と言い争う事になり、先ほどの主張を繰り返して受け入れさせようとするがそんなものは後から来た者にとっては搾取に等しいから受け入れられず争いは激化する、というのが今のスタンダードです。それを個人主義と錯覚して語った所でやっている事は一緒なんですが。
-->ここから風邪ひいてるせいか攻撃的です。
本来個人主義を語るには個人主義以外を熟知する必要がありそれも分からないなら個人主義もあいまいなものでしかありません。同様に民主主義を知るには他の主義思想を知る必要があり、共産主義は敵だとか社会主義は悪しきものだなどと戯言を言っている時点でナンセンスです。私が述べている事も全体主義思想を一部に取り込んでいますが元々が一つの社会での問題点によりそれをどう解決するかを特徴づけたものがそれぞれの思想でありそれぞれに長所があり短所があります。それを一部だけで悪しざまに述べる時点でたかが知れると言いますか自身の思想すら実の所把握していないのではないかと言えます。相手を倒してマウントポジションを取れば良い的な考えで主義思想を語った時点で問題の焦点がズレていると言えます(一応言い訳しておきますがどこぞのトップがそれにこだわった発言を近年でもした事があります。ですがそれを批判しているわけではありません。一般論です)。私のような(ひねくれ)者から見れば今の社会で述べられる民主主義は偽物です。建前だけでその実は自由という名の元にいかに不正を行うかだけでありその為に掲げられる自由と民主主義と言えます。主張される権利と義務がアンバランスです。そしてそれが故に夢を見させる事が出来、夢を見させながら問題から目を逸らさせて不正に利益を得る機会を作る、というのが本質でしょう。
ですがチャレンジアンドレスポンスの結果、誰からも批判されず、また周囲も同調する事で自分達が正しいと認識しがちである為にこれが民主主義、これが個人主義だと錯覚出来るのです。
<--ここまで風邪ひいてるせいか攻撃的です。




