S069 ポイント持合制推定有罪
エールトヘンの話がおさらいしてから主題に入っているのでクドいです。
マイケルは今日も機嫌が悪かった。どうにも最近街に住み着いた連中とイザコザになる事が多い。
マイケルは自警団の顔役でイザコザの仲裁をするのだがどうにも相手側も良い印象を持っていないようで街で会えば顔を背けるなりして挨拶すらしない。
そして今日も見つける事になる。
確かイザベラと言ったか。
あの女はいつも何か一つ足りない事が多い。
今も井戸から水を組み上げたが蓋をせずに立ち去ろうとしている。子供が落ちても危ないし何か有害なものが落ちても問題なのだ。皆が共有しているものなのだからルールを守ってくれないと困るのだ。
マイケルは立ち去ろうとするイザベラを呼び止め、したくもない説教をする事になる。
「なあ、イザベラ。何度言ったら分かるんだ。共有設備なんだからしっかりルールを守ってくれないと。」
「あら、マイケルさん。御免なさい。私ったら駄目ねぇ。罰金とか勘弁してね?」
イザベラはそう言いながらしなを作りマイケルへとすり寄った。マイケルも若い女にすり寄られまんざらでもないのだが顔役のメンツというものもありゴホンと咳をしてやんわりと押しのけようとするとイザベラも事情を分かってくれるのかサッと身を引いてくれる。
浮いた手が若干寂しさを醸し出すがどうこうするでもなく元に戻しイザベラに注意をすると、イザベラが周囲をそわそわと見ながら話を聞いているのでマイケルは問いを投げてみる。
「どうした?なにか気になるのか?」
「あ、いえ・・・、別に。」
マイケルはイザベラが周囲を気にしているのはきっと皆の前で説教をもらっているのが恥ずかしいからだと考え程々にしておいてやるかと話を切り上げる事にした。
「じゃあな。次はちゃんと、な?」
「は、はい・・・」
イザベラが項垂れているのをマイケルは見て『少しキツくしすぎたか?いや俺の若い頃は・・・』と思い返してその場を立ち去った。
そして数日後、今度はジャンが悪さをした。自警団の警らで店に護衛料を寄越せと言い出したらしい。直接ではないが『守ってやってんだからこれくらいいいだろ?』と商品を持っていこうとしたそうだ。ジャンもここに来て数年になるから少しは信用出来ると思ってきた矢先にこれだ。こんな事が何度もあってはいけないからお灸をすえる必要がありそうだ。
「おい、ジャン!歯ァ食いしばれ!」
事実かどうかを確認してからマイケルはジャンを殴りつけ、ジャンは口から血を垂らしながら睨みつけるが何も言い返さない。
その様子を見て少しは反省しているなと思ったマイケルは立ち去りながら背中越しにこう言った。
「あんまりなめんじゃねぇぞ。次はちゃんと、な?」
「あ、マイケルさん。これどうぞ」
そう言ってジャンはリンゴを投げてきた。マイケルがどうしたのかと聞くと田舎から送ってきたのでお裾分けだと返ってきた。
マイケルは少し悪い気になりながらもりんごを貰って立ち去った。
そうやって数ヶ月が過ぎた頃、盗みが起きた。犯人は捕まったのだがマイケルにはとてつもなく不幸な出来事が起きた。
共犯の疑いがかかったのだ。
何の間違いだ?とマイケルが思っても周囲はどうもそうは見てくれないらしく風当りは強かった。衛兵の取り調べも本来は自警団には仲良くしているから冷たい態度はとらないのだが今回は違っていた。そうこうしている内にこんな噂が聞こえてきた。イザベラや新しく街に来た連中がマイケルの事を悪し様に罵っているという噂を。
例えばこうだ。マイケルはイザベラにゾッコンで嫌らしい目つきでいつもねめ回し事ある毎に身体を触ろうとしていた。何人かマイケルがイザベラに高圧的に接して体を触ろうとして避けられている所を目撃したそうだ。
例えばこうだ。マイケルは表面は正義漢振ってはいたが裏ではジャン達に辛く当たり時には憂さ晴らしに暴力をしていた。ジャン達を使って護衛料を巻き上げていたそうだ。誰かが見ていたらしいがマイケルがジャンから護衛料として巻き上げてきたリンゴを受け取っている所を見ていたらしくそれが気に入らないからジャンを殴りつけたそうだ。
同じような噂がサムから、エヴァンから、マリーから広まっているらしくいつの間にかマイケルの評判は最悪だ。わずかな知り合いや自警団で知り合った連中とは気ごころが知れているので分かって貰えるのだがそれはほんの一握り。新しく入ってきた連中を中心に噂は噂を呼びいつの間にかマイケルは自警団を利用してやりたい様に暴れるならず者で他の自警団からも軽蔑されているらしい。そういえば最近自警団の面々が辞めて行ったり他の自警団に鞍替えしているのはそのせいかと納得できた。
そして翌日、マイケルは拘留される事になった。容疑者の白状した話ではマイケルから手薄になる時間帯、逃走経路、店内の配置など具体的な情報を教えられたのだそうだ。その店はマイケルからの護衛料を強要されたが断った事があるらしい。事実関係が明らかになるまでマイケルは牢に入る事になった。
すると衛兵がマイケルの牢の前までやってきてこう言った。
「今からある男に会ってもらうが余計な事を話すなよ。いいな」
マイケルは衛兵に強引に引っ張られながら牢屋から出て取調室に放り込まれた。そこで待っていたのはマイケルと同じように後ろ手に縄を掛けられたみすぼらしい男と面と向かって会う事になった。なんだこいつは、と思いながらもその男を見ていると衛兵が男を尋問するようにこう言った。
「こいつか?」
すると男は突然こちらを見て眼をひん剥き品定めするかのように上に下にと見回した後しきりに頷き
「ああ、こいつだ!こんなやつだ!」
こいつは本当に何を言ってるんだとマイケルは思ったが突然首根っこを掴まれ引きずられるように部屋を連れ出されまた牢に放り込まれる事になった。
牢屋に放り込まれて数日。時折面会に来ていた友人からは嫌な知らせを聞いていた。
罪が確定しそうだと。
いかんせん風評が悪すぎてどんな主張もかき消されるそうだ。犯人がマイケルを見て情報を与えた男だと認めたのもかなり大きく、現場にマイケルにつながる何かが出て来なくともなぜかマイケル達が居る自警団の詰め所から盗まれた店の品物まで出てくる始末。もうマイケルには何がなんだかわからなくなっていた。なぜそんな物が詰め所から出てくるのか。なぜ面識のない犯人はマイケルと会った事があるかのような物言いだったのか。なぜ自分がイザベラ達にいやらしい行為をしようとしていた事になっているのか。なぜジャン達をこき使って護衛料を集めていた事になっているのか。
そしてついにマイケルの罪は確定しそのまま牢屋で2年程臭い飯を食う羽目になった。それでもマイケルはなぜそんな目に会わなければならないのか分からなかったし納得もしていなかった。だが牢の中から何を言っても無駄で新たな証拠でも出てこない限りこのままなのだろう。
ジャンは自宅でイザベラに話し掛ける。
「時間かけた甲斐があった。これであの自警団は俺がトップだ」
ジャンのやってやったという顔を見ながらイザベラは微笑んで答える。
「ええ。これでようやく私達も足掛かりが出来たのね。でもここの人たちバカだから簡単に騙されるわね。もうちょっと早くても良かったんじゃない?」
「あんま油断してると気づかれるぜ。これくらいが丁度良いんだよ。ほら、お前はともかくサムもエヴァンもジゼルも、後はそうだな、あいつ名前も知らないがおんなじ考え方なのかよく手伝ってくれる奴もだけど、周りに調子合わせて外面良くしていたからだぜ?だから信じて貰えたんだよ。しかし違うグループ同士で協力するのもいいもんだな。同じ目的でも普段話す機会もないから共犯を疑われないってのが良い。この調子で俺らの立場も向上させていくぞ」
「で、しばらく良い子ちゃん?」
「何言ってるんだよ、ショバ代強要していたのはマイケルじゃないか。俺は元々良い子なんだよ。しばらくはな」
「そう言う事にしておくわ。それでマイケルが出てきたらどうするの?」
「どうもしない。その頃にはここは俺のモンだ。それにもう自警団なんて出来ないだろ、アイツ。そもそも衛兵もバカだよな。夕暮れに中肉中背の男がフード被って話し合ったって相手が誰だか分かりゃしないのに窃盗犯の言う事真に受けて面白れぇ。まあそこまで状況作るのは大変だったけどな」
「私達も他人の振りしてたものねぇ。で、マイケルのしでかした事の謝罪であなたが訪れて一目惚れで、っていうオチにしたけどずっと我慢してたんだから。だから、ね?」
いつから知り合いだったのか分からない2人の話は夜通し続いた。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。相互信用の悪用ですか。人は集団行動を取るためにある程度は他者を信用しなければならない事を悪用して利益を得ようとする方法ですね。これは正しくても正しくなくてもかつてのリザルトセットと照らし合わせて成立してしまうので注意が必要ですね。結局はそこに関わる人間の性質に問題は起因するわけですが。」
「こういうのはどうしても止めれないのかの?」
「ええ、起こってからでは止めれません。その状況が既に完成しているのでそれ以前に警告して阻止し抑制するか性質を改善するように強化するしかありません。雪崩は起きてしまっていて後は被害を出すだけと例える事が出来ます。」
そしてエールトヘンは少し思案してから話し出す。
「例えば11人居たとします。それぞれが10点の信用点を持っていたとして、何か問題を起こすと自分以外の誰かから1点のペナルティを貰い全員からペナルティを貰うと退場になるとします。この時、ある一人がどうしようもない悪人で事ある毎に諍いを起すとします。悪人は周囲の人間と良く揉め事を起こしやがて他の10人からペナルティを貰い信用点を全て失い退場になるでしょう。次に、邪魔で邪魔で仕方ない人物が居たとします。別段悪人というわけではありません。仕草が酷いとか態度が酷いとか愚痴が凄いとか良く小言を言うだとかとにかく悪人ではないが居ると面倒な人物だとします。これもやがて排除されるでしょう。それが悪人ではないとしても。人は何か問題があると悪感情を抱く相手を連想しやすく、悪い事をした者がいるがそれは誰だと言われたらあの人物を連想してしまう、というように本人が意識して客観的に物事を判断する習慣を身に付けていないとどうしても感情により判断が偏向します。そしてしたはずのない事を疑われ信用を失い孤立して退場する者が出てきます。
こうして、人は他者の生存権を自由にする権利を持っている事に気づいてしまいます。
そして魔の誘惑が生じます。1人の善人と10人の悪人が居たとします。その1人の善人さえいなければ皆で悪事をし放題と考えているとします。怠惰に、享楽を貪り、より快楽を得たいのですが、その善人が以前までの習慣や歴史からの教訓を用いて説教して何かと邪魔をするとしますが、この場合にもその善人を排除出来てしまい、そして善人は排除されるのです。
この場合に使われるリザルトセットは、1人の悪人が周囲と諍いを起し他の10人全てと関係が悪化して追い出される、というものが使われ、それと混同するように画策されます。1人の人物が善人か悪人かなどは外からは判断がつかない事を利用してその人物が悪人であるかのように周囲に印象付けたり記録を残したりします。外からはそれがルール違反を指摘しているのか脅しているのかいいがかりをつけているのかなどの区別は付けづらく映像などの記録ではそのどちらか分からない事が多いです。そしてその記録の情報を補完する必要がある時に関係者の証言で補完するのですが、10人の主張と1人の主張のどちらを信用してしまうかという、トリックを用いる事になります。まさか大多数の側が間違っているなどというのは1人が間違っている可能性よりは少ないだろう、というトリックです。
その人物を排除しようとする側は"自分達は悪くない"という既成事実を作りながら行います。その善人が周囲の人物と事ある毎に諍いを、実際には間違った行動をするなだとかの説教だとしても周囲からはそこまでの詳細は変わらないので諍いがあるとしか判断出来ません。そしてその人物が他の10人と同じように諍いをしたとしてその10人全員が彼にペナルティとして1点失わせたなら彼は退場する事になるのです。こうして善人であろうと排除出来てしまうルールへと元のルールが変化してしまいます。
実際の社会ではもっと閾値は低いでしょう。10人という集団で半数程度から何らかの批判を受けるとその他の人物は対象の人物に何等かの問題があると思うでしょう。そして何か問題が起こった時に疑いの対象となる確率が上がりその影響で更に信用を失うなどの結果に繋がりやすいのです。しかしその批判をした半数が正しいという根拠はどこにもなく表面上は無実の一般市民を装いながら裏では詐欺行為を平気で行う悪人である可能性もあるのです。
元のルールは集団の中で集団行動に支障を与える人物をある程度までは許容するがそれ以上は面倒を見切れないので追い出す、というものであったのが、それぞれの思惑次第で他者を追い出す口実を作り出す事が出来るものへと変わります。結果として集団の中で更に小さな集団を形成して派閥を作り、より大きな勢力を持ちその集団の中でもっとも良い立場の者が強い影響力を持つようになってしまいます。正しいか正しくないか客観的か客観的でないか公正か公正でないかなどの価値観よりもいかに他の誰かの支持を受けられるかを重要視し、大多数に共感を持ってもらえる価値観を主張する事でその言動はより大きく周囲に影響を与える事が出来るようになり、そういった人物程良い立場に居るようになります。そして良い立場にいる事で利益を得やすくなるが故により大多数にとって都合の良い共感の持てる主張をして支持者を増やして良い立場につこうとするのです。
特定の集団に利益を約束する人物、特定の弱者に保障する人物、大多数に向けての甘い理想論とも言える約束など、実際に実現可能かどうか、社会の実状に一致しているかなどは優先度を下げられ、いかにより多くの支持を得られるか、そしてそこからどれだけ利益を得るかが優先されるようになります。良い立場になったならより多くの利益を得る事が出来る為に指示してくれる集団に利益を約束するなどは平然とし、そしてその利益とは社会での不公正により生じたとしてもより大きな勢力を誇る事で小さな批判はねじ伏せます。その際に使用するのもリザルトセットであり、社会の中でかつてこうやって取り決め事をしてルール化しているのだからそれに従っていれば問題はない、だからルールに従っていて違法ではないのだから罰せられないから正しいのだ、と逆説的に正当性を主張するようになります。
例えば作文を考えてみましょう。400字詰め原稿用紙4枚に収めるとします。ではそのルールに収まった作文内容が全て良いものだと言えるでしょうか。そしてその作文を評価して大賞を決めるとして、その集団の大多数が嫌う人物が居てその人物を悪しざまに批判する作文がありそれを大多数が推薦し大賞を取ったとしてその作文は内容に優れたものなのでしょうか。それとも大賞になった時点で内容が劇的に変化でもするのでしょうか。
このようにルールとはそれを取り扱う前提条件がありその条件を満たしていない時点でその有効性を失うのです。この例では集団の善意、論理性に大きな依存をしているがためにそれらが崩れルールを適用しようとしても求める結果が望ましい結果とは違う結果へとつながる事になります。
そしてその善意や論理性などの形に見えない不確かなものに依存するという不確定な要素を排除したいがために利益などの形として見えるものを重要視したがる傾向にありますが、しかし利益なども結局は信頼や信用という不確かなものの上に成り立ち、根本的な要因を解決しなければ同じ争いを繰り返すでしょう。
私達は私達が争わなくて済むようにお互いに守るべき取り決め事を作り遵守する事で敵対する意思がない事を、争う意思がない事を示します。しかしそれら取り決め事も概念定義です。作る際に作る者の能力と情報の限界で偏向し考慮されない事実に対して正しい解決を提示出来ない矛盾を含みます。しかし私達はそれでも取り決め事を決めどのような行為行動が社会活動なのか、敵対行為なのかを明示する必要があります。誰かの主張するあやふやなものではなく、出来る限り誰から見てもそうであると言える客観的な定義が必要とされるのです。誰か個人の行為はその人物の価値観により偏向し、大多数の中の一部には受け入れられないかも知れず、また逆もあるでしょう。ではそのどちらも間違っていると断言出来るかと言えば別の話であり、そういった争いを失くすために皆で基準に出来る定義が必要となり取り決め事が必要になります。しかしやはり先程も言いましたが能力と情報の限界、つまり私達は不完全であるがために全ての事象を見て最も正しい解決方法を示した対となる因果律を作る事が出来ません。それを扱う事すら出来ないのです。しかし争いをなくすためにより正確なものを必要とする矛盾を持つ事になります。
まず全てを明文定義出来ません。優しさとは何か、健康とは何か、正義とは何か、争いとは何か、愛とは何か、殺意とは何か、欲望とは何か、高貴さとは何か。私達は私達の意識の成り立ちから概念定義をブラックボックス法としてしか定義出来ません。世界から対象となる部分を抽出してそこにある情報を必要な精度で定義するのです。大体このようなもの、という所からこれでほぼ間違いがない、と言えるようになるまで磨き上げるようにぼやけた全体像をはっきりとさせるのです。そして一枚の絵からそれぞれを抽出してその構成する部分を定義するように物事を決めていきます。この時、精度を高めようとすればするほど難易度があがり、それぞれの定義が互いに干渉するようになり矛盾を取り除かなければ精度が出ないようになるのです。そして矛盾を取り除けないなら精度は出ず、そして精度が必要ないなら矛盾があっても使用出来ます。しかし矛盾は違う主張を認める事であり争いの原因になります。争わない為の取り決め事では問題になります。個人だけで使う取り決め事で他者に迷惑をかけないならその時々の判断でどちらの定義を使うか決めてよいでしょうが他者と関わり合う場合はそうもいきません。
いつかは一枚の絵を部分事に詳細に定義出来て全体を説明できるようになるかも知れません。ですがそれが私達に適用出来るかと言えば難しいと言えます。まずその一枚の絵をスナップショットと呼び変えますがその一瞬の切り取りにしかなりません。私達はダイナミズムの中にあり、刻一刻と世界は変化します。次の瞬間にそのスナップショットから抽出した定義が使えるかどうかは分からず時間が経過するにつれその信用度を下げるのです。
私達は未熟から成熟を繰り返しその知性と知識が変化しある範囲を持ってしまいます。争いや不正により格差を生みそれを一層広げます。そして新たな概念定義、技術の進歩、環境の変化により概念定義そのものも変化を求められ、以前とは違う定義に置き換わるかも知れません。その維持にかかるコストが運用上許容できるかが問題になり、完璧に近い精度で定義を運用出来る可能性は現状で低いと言えます。しかし争い事を避けるために定義は必要であり、行為を決めるために形に見えないもの程必要であるにも関わらずあいまいに定義する他なく、行為を形として表現するための手続きなどを明確にする事でその意思を示すように定義付けます。しかし社会の中で行動の自由を優先するとある行為と別の行為の手続き、行動が混同出来るようになってしまい錯覚させ、また、錯覚させる事で間違わせて利益を得ようと画策し争いの元になります。
社会の中で明文化出来るのは私達の社会活動の一部でしかなく、その根拠には行為という直接的に形として表せないものを含む事を忘れてはなりません。明文化したものを全て履行したとしても実際に社会に適合した行動を行う事は出来たかも知れませんが適合した行為を行えたかどうかは言えないのです。しかしそれでも私達は争わない為に定義しなければなりません。それが合法か違法かを。
定義を決めた後はそのルールを破った場合の罰則が必要になります。罰則の重さを個々人に任せていてはそれも争いの原因になります。感情、利害関係により罰則の重さが変わるならそれこそが争いを生む原因になるのでどれほどの罰ならどれだけの量が妥当という客観的な基準が必要です。その罰則の重さにより抑止力になるかならないかが変わり、軽過ぎれば欲望を満たすために平気でルールを破るようになり、また、重過ぎればルールを破る事を恐れて誰もその行為を行おうとしなくなり、場合によりその行為を行う者を厳しく追求する事で処罰の対象にして貶めようとしたり交渉の材料にしたりするかも知れません。
その為に私達は2つの方法を主に選択する事になります。慣習を基に定義するか最初に起こった事例を判例として定義するかです。前者は今まで起こった事例からこれだけの量なら適切だろうと判断する方法となり、後者は起きた事例と同じ量にしなければ公平性を維持出来ないから同じにする方法になります。どちらも長所と短所があり、どちらもその短所を悪用される場合が目立ちます。実際に問題が表面化するという事はその短所が問題になっているからであり、問題にならない長所は日常が正常に過ぎていくならばそれが当然であるかのように取り上げられる事はないからです。
慣習法はそれまでの事例を基に量を決める為にその取り扱う者の意思の介入する自由度が大きく根拠があいまいに見えがちになり、判例法は最初に起きた事例を基に量を決める為に平等であるかのように見えます。慣習法はそれまでの事例を基に量を決めますがそれを判断する者の裁量によって決められるために時代に合わせて適切な量を決める事が出来、判例法は最初に起きた事例にその量の根拠を求めますので時代の移り変わりによる影響を考慮せずに決める事になりその効果に疑問を生みます。
慣習法と判例法は簡単にその長所と短所を比較したいのであれば君主制と共和制を考えれば分かりやすいです。
慣習法のために王が罰を裁定するとして、実状と対象者を見て罰の量を判断する場合、王様の能力次第で正しく罰せられるかどうかが大きく変わります。暴君であれば正しいかどうかではなくより賄賂を寄越す側、国に多く税金を納める側などを基準にするかも知れません。また、面倒事を起した両者に実状と関係なく通常より厳しく罰を与えるかも知れません。名君と呼ばれる程なら問題のみならずその裏側にある問題まで解決するかも知れません。罰は罰で与えつつもその原因が当事者だけの問題ではなく社会として取り組むべきものなら王として行動する事でこれ以降起こりうる問題を先に解決してしまうかも知れません。ですがどちらも慣習法の長所と短所でありそのどちらかを選ぶ事は出来ません。
判例法のために複数の裁判官が裁定するとして、実状と対象者を見て罰の量を判断する場合、裁判官の能力は初回以降は重要度が下がります。初回はこれ以降の罰の量を決定づける要因となるので裁判官の能力が問われ、その失敗は簡単には取り戻せません。初回を妥当に済ましたとしても2回目以降が適正になるかは保障されていません。時代の変化、法律の変化により妥当な量というものは変わります。個人の能力が与える罰を左右する事は少なくなりうまく機能すれば平等になりますが同時に適切な罰を与える事が出来ているかには疑問が生じます。
もし仮に短所を悪用して利益を上げようとするならどうするでしょうか。
慣習法の場合、慣習法に従う国の裁判官は個人の与える影響力が若干大きいのでその人物に賄賂、脅しなどの何らかの干渉を行う事で罰の多寡を変えられるかも知れません。より大きな手段としてはそもそもが自分達に重要な案件が裁判にかかる事を想定してその時のみ自分達に都合の良い結果を得るための人員を先に配置してしまうかも知れません。縁故でのつながりなどである特定の集団に対してのみ罰の厳しさが変わるなどがあり得ます。また個人の感情で容疑者に対して罰の量を増減するかも知れません。
判例法の場合、初回の判例が重要になってきます。これをいかに間違えさせるかでそこから得られる利益が変わります。もし権力者側が利権を確保する為に裁判官を味方につけて、配下の者を使って犯罪させてそれを予定調和で判決する事が出来れば本来あるべき判例とは違う結果を作り出す事が出来るでしょう。そうなると次回以降、利益と損失のバランスが崩れて利益が上回るなら犯罪の抑止力が足りない為に問題として表面化しない程度に繰り返される事になるでしょう。また、初回の判例を基準にするため、急激な時代の変化に対応できず、対応出来ない遅れの分だけ現実と差が出来、そこに利益を見出す事が出来てしまう事もあります。高度経済成長により10年程度で価格が倍になれば給料も倍程度になっているはずであり、そうであるなら罰金刑は実質半分の効果しか期待出来なくなってしまいます。
このようにどちらを使っても短所を悪用され混乱させられる可能性があります。だからこそそうならない運用というものが重要になります。その運用に当たって他の物事との連携が重要になり、また、その他の物事と言うものも同様に短所が存在し、そこにも悪用されない運用が必要になります。こうやって短所を補いながら長所を活かして運用するものが社会であり、その実現の為にそれぞれの概念定義の精度とその繋がりの密さが必要とされるのです。概念定義の精度が低ければそのあいまいさに付け込まれ悪用され、つながりが疎であれば容易く変質させられ悪用させられます。だからこそ私達は整合性を保った一つの大きな知識の集合を欲し、その普遍的な基準で私達自身を律しようと欲するのです。不確かな存在であるからこそその時々の確かさを集めて基準にしようとし、不完全だからこそ揺るぎようもない完全な基準を求めるのです。
そして自分達の作る概念定義とそれにより形作られる社会の脆弱な事を知るが故にそこに魔の誘惑を受けるのです。私達は社会の構成員であり社会を支える者です。社会は短所を補い長所を活かすように作る必要があり、構成員の行為の集合により社会は形作られます。つまり、その構成員が社会の短所を悪用して利益を得ようとすれば簡単に社会は崩れてしまうのです。内部の犯行というものは外部の犯行よりも簡単に実行出来その影響も大きいのです。本来は間違いや欠陥や破損などを確認して報告或いは修繕するはずの構成員によりそれらの活動を放棄した上で更に瑕疵を作られたり悪用されて不正に利益を得られるのです。社会は損耗し崩壊するのも当然でしょう。
そうならない確固たる社会システムを作るとするならそれは自由とは真逆のものになります。行動を制限し自由を制限し位階を定め立ち入る場所、出来る行為、与えられる権利に厳しく定義して、居る必要のない場所に居る必要のない人物が居ないようにするなどの措置が必要になってきます。制限する事で知性や知識が足りない所為で無自覚に悪事に加担させられる可能性を排除する事で構成員の安全を保障しながら権利を保障し、行いうる行為の中でだけ自身の行動に注意をしていれば良い状況を作り出すのです。その構図として貴族と民、という構図が用いられます。この方法は民主主義などの階級制度を用いない制度では活用出来ません。誰がルーラーで誰がフォロワーなのかの区別が出来ないからです。そして自由への制限はその制限の理由が分からない人物にとっては不当な差別にしか見えずその社会の構成員の質が低下すれば自然と崩壊してしまうシステムでもあるのです。システムを形作る行為の根拠を説明できる者もいなくなり、制限を撤廃する事で自由を得たい集団を止める事が出来なくなるのです。
そしてその精度を高めて完璧なシステムを構築できれば誰もが自身の行為を忠実に行うだけで暮らしていける社会は実現するでしょうが、それを計画立案し実行し整備する人員の事を忘れている事にもなります。社会に変化がないならそれで良いのですが、私達自身が変化し技術の進歩、環境の変化なども考慮すれば常に誰かがそれを制御する必要があります。
それに対する答えが王制であり、慣習法となります。優れた大多数を教育する事は難しくとも優れた1人なら教育する事は容易い。ならその1人に全体を管理してもらいその細部の微調整を配下で行うというシステムが王制になります。変化に対応するためにその判決は事ある毎にその結果に差を生じさせますがそれは現実に対応するためになり、その変化により情勢を制御しようとするのです。同時にその時々により気分的に変化させているようにも捉えられ、制御が不充分で問題が解決されない時は制御される側である民は不満を募らせます。短所は先程言いましたようにそのトップに立つ人物が悪人であるなら正しい判断がされずに混乱するという事です。その状況と、問題に対応出来ない状況というものが混同され民はどちらの場合でもトップの、この場合は王への不満を募らせたり、風評に操られ王が不正を行っているのではないか、と思う様になり、最悪は反乱になります。ここではそれが外部もしくは王を排して代わりにトップに立ちたい人物の策略かどうかなどは割愛します。
このような問題点から慣習法ではなく判例法が選択される場合があります。しかし判例法も同じ問題を抱えているのです。まず知っておくべき事は判例法は慣習法という下地があるからこそ存在するものだという事です。慣習法による蓄積の結果として大体の方針が示された後に起こった事例を基に妥当な罰を定義するのです。そしてそれを基準に微調整を行います。先程言いましたように最初の判例を間違わせる事や判例が妥当だとしてもそれを用いる環境側を変化させる事で悪用出来てしまいます。その際に優れた1人を教育したとしても止められる状況は作り出せず、状況は制御不能になります。どれほど優れた裁判官が居たとしても最初の判例を適切に処理したとしてもそれを適用する環境そのものを変化させてしまえばその適切とされた判例も適切ではなくなります。そして最初の判例に倣うという前提条件が外れないために罰が軽すぎる状況になったとしても現状に合わせた罰の量を決める事が出来ないのです。
本来であるなら判例法というものはほとんどの問題が解明され解決された後でなければ成立出来ないものですがそれでも個人の裁量で罰の量が変わるという事実を否定するために選択される事があるのです。同様にたった1人の善良で優れた者、そしてそれに従う善良な少ないエリートの元に統治される事を前提とした慣習法もまた、私達が欲望に飲み込まれ、魔の誘惑に負ける事を知りながらも選択される事があるのです。」
そこでエールトヘンは一旦話を切り、話を締めくくる。
「ですのでお嬢様。どのようなものも悪用される危険性がある事をまず知ってください。判例法だから慣習法だから優れている、などという事はありません。本来はその両方の特性を兼ね備えた法律というものが必要なのです。その2つに分離した理由はそれぞれが表面化した問題に対しての答えとして生じたものだからです。慣習法では個人の自由度が大き過ぎある特定の集団の良いように使われ、その教訓として判例法を用いますが判例法でも同じように特定の集団の悪用を止める事が出来ずに、その教訓として慣習法が必要とされるのです。そこにある問題は私達の在り方であり、慣習法だから判例法だからではありません。それについてはまたにしましょう。」




