S068 1と0と完全とは似て非なる悪魔の世界
「知性が足りないとはどういった事かと言いますとこの場合は思考回数が足りないという事です。私達は現在どれだけの時間を積み重ねてきたのでしょう。長い歴史の中でどれだけの行為がどれだけの回数行われ成功と失敗を繰り返したのでしょう。個人の能力の限界により未知の行為である事も長い歴史の中では繰り返されるものの一つである事の方が多いでしょう。本当に今までの私達が到達した事のない未知の行為というのはほんの極僅かです。しかし既に既知である行為も記録が残っていたりいなかったりと全てを把握出来ていないでしょう。これは一つの損失と言えます。記録が詳細に残っていればどれだけの失敗が成功に変わったかを思えばその損失は小さくない事が分かるでしょう。チャレンジアンドレスポンスの欠点は結果に対して"自分から見て"問題なければ成功とみなしてしまうという事です。自身の判断能力次第で成功と失敗を定義してしまい、実際には失敗していてもその失敗の要因を把握出来ていなければ"成功した"とみなせてしまうのです。これまで未知だった公害病が発生した時などが分かりやすい様に、成功したと思っていても実際は失敗していてその影響は深刻な被害として後になって表面化します。自身にとって未知である行為を行う時にチャレンジアンドレスポンスを行う事になるのですがその際に過去の事例を参照しそれを基に推論し結果を予測する事を怠るとこれまでの積み重ねを無駄にする事になります。勿論自身の経験を基に判断はしているのでしょうがそれだけで対処して良いかは別なのです。
しかし競争原理がそういった過去の事例を参照する時間を与えません。そんな時間を省いた方が誰よりも早く結果を出せ、表面上過去の事例を調べなくともどうにかなると思えてしまえばそういった手間は省くのです。そしてそれが周囲から見ても成功してしまえばその成功が基準となりデファクトスタンダード化し似たような事には似た対処を行う事になりそのような手間は省かれていくことになります。そしてその似たような事であっても実際には違いがあるために内部に潜む問題に対処出来ていないものが後から問題を表面化しようやく反省して過去の事例を参照するという状態へと戻ります。
悪い見方をすればチキンレースと同じです。どこまで省けるかを試しラインを超えたらアウト。ギリギリまで省けたら最も優秀と言われる、という危険な遊びをしている事になります。果たしてそれは知性ある行動と言えるでしょうか。
そして人間とは学習する生き物です。大体この程度なら省いても大丈夫だろうという経験則を持ってしまい、周囲も同じように振舞い常態化します。そして社会とは遅延を伴ったフィードバックシステムです。結果に対する反動は遅延がかかり後から生じてきます。行動の結果としてすぐに分かる結果と認識の外にあったがためにすぐには分からない結果、結果としては分かっていたがその影響が未知であったものなどが後になってから影響を及ぼしてきます。ゴミ問題、温暖化が代表的なものでしょう。小さな量が発生しているのは分かるが総量が自然循環の許容内にあったがために問題にならないものも総量が増す事で基準を超え問題として表面化し、それは今までその個人が行ってきたチャレンジアンドレスポンスを行う際の事前の思考の外、想定外にあったという事です。では起こってしまったものは仕方ない、で済ましてよかったものでしょうか。それでは何の反省もなくこれからも同じような事が繰り返され、許してしまったならより早く実行してしまえば後になって問題が表面化してもその分の費用は払わなくてよく、遅れて実行したものは費用を払う事になり、その差分だけ優位に立てる、と考え競争原理を促進し誰も過去の事例や個人の経験則を重視しなくなり、場合によりそのような費用が本来は必要だが現状で取り決められていないから今ならより多くの利益を得られると考え気づかれない内に実行してしまおうとするのです。
この時の人間の精神を考えてみれば、他者より早く行動し出し抜く事を思い、早く実行する事で何か利益を得るのではないかと経験則から期待しより優位に立とうとする精神となり、その利益を求める方向性全てが他者他物への依存となります。自身の思考により利益が出る事を確定するのではなく、状況に合わせて早く行動する事で利益が得られるのではないかと思う様になり深い思考を放棄するのです。状況だけに注視するようになって、その時間を使って資料を集めるなどして確実な利益の出し方を考えるでもなく、誰かの失敗、誰かの計画、誰かの齎す利益に対して誰よりも早くレスポンスを返す事だけを考えるようになるのです。そして、状況に依存している事すら忘れて状況を悪用されて操られるようになりますが既に思考放棄しているので気づけない場合が多いのです。その判断に使用できる情報を事前に集めて判断する習慣を放棄して条件反射のような行動を取るようになっているからでありだからこそそういった人物は好ましいとされあえて生かされる事があります。そのような人物が有能だ、よりよい生活が出来る、という実績を作れば真似をして利益を得ようとする人物は考える事もなく同じ様に行動するようになり、その集団は状況を作り出すだけである程度操れる扱いやすい存在となります。
こういった自分で行動しているように見えて実際には他者に操られているだけになる状況に陥らない為にどうすれば良いのかを考えます。操られる状況になっていると判断するための判断能力を得るには自身で現状を把握する方法を得る必要があります。他者から教えられる良くある手っ取り早いノウハウというのはそういったものを省いている事が多いからです。
判断能力を得る方法の一つは先導者に判断材料の見極め方を教えて貰う事です。信頼できる人物が居てその人物が信用出来るからその判断の仕方を基礎として受け入れても支障ないと断定しそこに他の判断材料を識別する知識を組み込みながら大きくして基準を満たす判断能力を得る事になります。もう一つは自力で、世界を見て自身がどのように感じてどのように認識するかから物事がどのようなものかを把握していき手に入る知識で補完しながら大きくして基準を満たす判断能力を得る方法です。前者は信用出来る事が前提条件でありながらもその効率は良く後者は前提条件はありませんが個人の能力の限界でクリッピングされやすく、そして非効率です。社会の中での知識の蓄積を活かすと言う意味では前者の方法を行う事になり、誰かが既に発展させてきた知識を受け入れるだけで良い事になり、社会の基本方針に合致し先に往く者が後から続く者の為に知識を残しそれを受け継ぎその先へと進む事で人の一生では到達出来ない基準にまで届こうとする方法です。欠点は先に往く者の中に悪人が混じる事で本来引き継ぐべき情報を意図的に隠し有利な立場に得て搾取しようとする問題が生じる事です。また、悪人がその本来与えるべき知識を占有し自分達に従わないなら与えないという態度を取る事で対立を生み知識の継承に支障をきたす事です。後者の欠点は社会のレベルが高度になればなるほど蓄積された知識により先導された者の基準まで到達するには膨大な時間を有し、個人の能力の限界で到達が難しい事です。後者のような人物は大器晩成型として知られ、到達出来た時はその応用力は高いものになりますが成功率は低くどこかで挫折し前者の方法に移行するか前者の方法を行う事が出来ない環境のまま過ごす事になります。大抵は両方のハイブリットになり前者だけで足りない部分を後者の方法で補い補完する方法になりますが前者の知識がより詳細であればあるほど後者の方法を行う必要がなく自身の知性がそれを望む事でもなければ判断能力を高めようとする行為を行おうとはしません。
つまりチャレンジアンドレスポンスが本来望まれる基準に達していない場合には思考回数そのものが足りず推論の精度は低いままとなる事が多く、社会に蓄積された知識を活かす確率は低下します。快感原則と競争原理がそれを助長し判断能力を低下させたまま、誰かに作られた環境を維持し続けますがやがて現実の変化に対応出来なくなりもう一度作り変える事になりますがその時には低下した判断能力で行う事になり新たに作り替えられたシステムは劣化する可能性が生じます。判断能力の低下はどうして起こるかと言えば使わない能力は退化するようになっています。人の個体という限られたリソースを最適な形態へと維持するために余計だと判断したものは省かれやすいのです。脳のシナプスもより知的好奇心を刺激されたものへと偏るように使用されない回路は効率を優先して休眠します。その状況を長年続け2代、3代と継承していくにつれそういった習性を示し性質となっていき、判断能力が低下した状態が恒常化します。これがなぜ悪いかと言われる理由になります。使用する概念のメリットとデメリットを理解してこの場合は"なぜ"という発想と共に扱わない事で思考放棄が日常化しやがてそこに存在する不正や欠陥や瑕疵や矛盾に気づけなくなります。」
エールトヘンが話を区切るとマスター・ララが引き継ぐ。
「誰かが撒いた餌を食べる様に本人に自覚のないままに行動し確かに利益を得られるのかも知れません。ですがその時はそれを仕掛けた者はそれ以上の利益を手にしていたりするのです。例えばモラルの崩壊。そうする事で木を森の中に隠すかのように紛れ込み特定を不可能にするという手法は良く使われます。それまで長い期間行い続けた犯行をほんのわずかな期間他者にも利益を得させる事で痕跡を辿れなくすることで逃げようとする者は後を絶ちません。犯行現場に自身の足跡があって不都合なら大多数に侵入してもらい足跡を上書きしてもらえば良いのです。そうすれば実際に取り調べが始まった時には誰がどれだけの量をどれだけの期間行って来たかを知る方法がなくなります。もし他者に与えた利益が自身の持っている財産から捻出する必要がないか少額で長い年月において得た利益がそれらを上回るのなら快感原則上犯行を止める事はなく根本的な問題を解決出来ないなら沈静化した後にまた繰り返し行われるでしょう。ではどの規模で行われるのか。そこが重要になります。」
言い終わってマスター・ララはエールトヘンを目で促し、エールトヘンが話し出す。
「私達は生死を繰り返し相克の中何度も社会を成長させ衰退させ勃興させ崩壊させてきました。私達が破滅せず生存する限り社会の崩壊にも意味が付随しその効果を見出す事が出来ます。どれだけの悪事を重ねれば崩壊するか、どれだけの無関心で社会の悪化を放置すれば崩壊するか、という経験則を私達に与えてくれ、そうなった場合の損失と元に戻す労力を体感させてくれるのです。その影響は大きく、同じ間違いをしない為の行動をお互いに争いながらもう一度集団を成していく事になります。残念な事に私達の知性が高ければ争う必要はないのですがそういった人間だけで構成されているような都合の良い環境はまずありません。もし自身が高い知性を有していたとしても相手がそうであるとは限らず、同じ場所に居るものが高い知性を有しているとは言えないのです。そして社会を崩壊にまで追い込んだ後の私達はその原因が私達の悪心により行われた凶行である事は漠然ながらも気づいており他者をたやすく信用できず社会の存在という担保すら持ち合わせていないのです。社会の崩壊を受けて、早く社会としての機能を取り戻すために秩序の回復を試みているか、社会がなくなる事で制限が外れ治安機構による抑えがない間に欲望を満たしてかつ新たな社会において優位な状況に立とうとしているかすら分からないのです。
そして不信感の為、錯覚を与えやすい行動を取った者は諍いの原因を作り互いに言い争い不和の関係を広げます。例えば他者の居る場所に近づこうとするだけで諍いの原因になります。社会の中で一定の治安が維持されていればそれは単純な興味本位や確認であったとしても、その行為の担保となる社会がない為に、近づこうとしている事が他者に襲い掛かるため、その為の下調べである可能性と混同され区別の付けようがないのです。そうやって社会があった時より厳しい互いの監視の元に一定の信頼関係を得て集団を成し社会を作り規模を広げていくことになります。
さて以前にお伝えした通りに社会が崩壊した事で利益を得た者は同じように社会を崩壊させる事で利益を得る旨味を忘れられずに同じように繰り返す可能性があると言いました。なら彼らは社会を崩壊させる時だけ利益を得ようとするでしょうか。いえ、そんな事はありません。社会の復興時から続け自分達に都合が悪くなれば崩壊させる事で永遠にコストをかけずに利益を得続けようとするでしょう。ではそれは社会を崩壊させようとする者だけでしょうか。社会を崩壊させずともより優位に立ち社会が存続する間はより優位な立場で利益を出し続けようとするでしょう。その為にまず行うのは模倣です。誰にでも出来、誰にでもその成功の形が分かるからです。なぜなら崩壊したかつての社会での成功者達を見てきたのなら彼らがしたように自分達も行えば今度は自分達がかつての社会での成功者達のポジションに居座れるのではないかと考えるのです。
そして社会の復興や成長などお構いなしに権力の中枢に座りそこから生じる利益を得るための椅子取りゲームを開始するのです。こういった者達は崩壊前から準備をする傾向があるので崩壊後は準備が出来ていて強みを発揮しやすいです。崩壊を止めるために行動していた者は崩壊した後に関しては準備が出来ておらず差を付けられます。崩壊を止められなかった時点で仕方ないとは言えますが真面目な程損をするわけです。崩壊を止めるでもなく無関心に近い状況で崩壊後の準備をした者が優位に立つのです。そして誰にでも出来る事でありますから誰でもしようとする事が出来、競争が始まりそれを正当化する為に先取特権のような権利が用意されます。
この時点で社会の崩壊というものが私達に対して持つ本来の意味が失われ別のもので上書きされてしまいます。本来はそこから受ける損失や苦痛により二度と同じ過ちをしないという意思が生まれ経験として蓄積されるべきものですが、一度この方法で権力者へと成る事が出来ると分かれば皆その方法を行おうとするのです。社会の中にいて重要なポジションに居座るが、未知なものの解明や技術の発明など難しい事をせずとも楽に生活出来る術が手に入るのです。そしてその方法は以前の社会で見たものを真似るだけですから誰にでも出来、実行しやすい。良いポジションを取ってしまえば後は楽になるので多少の不都合も損失も受け入れ多額の賄賂、媚び、労力も受け入れポジションを手に入れようとします。手に入れたポジションでその後どうしていけばよいかは”以前の社会をなぞるように”行動すれば罰を受ける事もないのです。自身の利己益の為にもう一度以前の社会と同じものを劣化再生させるのです。
こうして、本来は社会が崩壊した原因を模索しながら再構築していくはずの社会は崩壊した社会をもう一度模倣しながら何の反省もなく組み立てられ同じように崩壊する運命を背負います。変わったのは権力中枢に居座る人物などでその性質は劣化していると言えます。誰もが社会での良いポジションを得る事だけを考え社会の実状には目を向けず以前と同じ間違いを繰り返していても既に目的が利己的なものへと移行しているので関係ないのです。そしてこの社会でも社会を良くしようと献身的なもの、崩壊させないように自己犠牲的な精神で勤めるものは損をしてやがて社会は崩壊し、また原因を探る事なく今度こそは自分達が旨味を得るのだ、と同じ事を繰り返すのです。
そしてなぞるように続けた社会が未知の領域に到達するようになれば、自分達はそれらを安全なポジションで見るだけの気楽な状態になっているので全ての面倒事は他者に任せる事が出来ると考えるようになるのです。そうやって不正により権力中枢に居座る一族や集団が居る為に社会全体のモラルは低く正規の方法で生活を行おうとする事も少なく現実問題への打開策などは期待出来ません。何かあれば媚びをし賄賂を贈り対処してきたものが生き残るので問題への対処はそれらがほとんどとなります。未知の領域というのは世界との対話です。世界との対話に自分達の仲間内だけで通じる方法を用いても通用せず、しかし自分達の中でだけは対処した事に出来るのです。それだけ他者へ依存しながら社会を作っている為に社会は弱く潰れやすくまた崩壊します。その度に生き残る集団の性質は利己的になりそれはつまり原因を探る、究明する者達が減少する事を指し、やがていなくなるでしょう。そうなれば社会を崩壊させずに安定維持させる方法を解明する可能性はなくなり”死んだ社会”となります。」
マスター・ララが話す。
「そのような集団は自分達が失敗している事に気づきませんし、薄々気づいても気づかない振りをするでしょう。目的が楽をして利益を得る事であり出来ればそれが長く続けば良いと思う程度で実際にそれが得られるのですから。そしてその方法を選択しなければ未知の領域に入る事になり、生命のリスクは跳ね上がるのでより安全で確実な方法に依存したいのです。誰かが作ってくれた知識や概念に依存し続けた為にその状況から抜け出せなくなっているのです。判断能力が低下している為にそれが間違いかどうかも分からないですが確実に利益を出し安全な方法となるように形として実績があるものに縋るのです。例えるなら低レベルの社会で農耕により収穫を得られるように畑を耕す事より現物を盗むほうがより利益の出し方に実感があるので優先する誘惑に勝てないという状況と同じになります。畑を耕し種を撒き収穫するには多くのリスクがありますが、盗むだけならそれらのリスクの後の成果物を奪うだけで済むので確実なのです。未知の領域に足を踏み入れリスクを受け入れ分析して判断して可能性を見出し試行して成果を出す事と以前に誰かが行った方法を真似て利益を出す事ではその難しさに大きな差があります。なら賄賂や媚びや独占や排他を行う事で手に入るなら効率の良い事になります。そうやって良いポジションを得る者が増えれば増える程、未知の領域に踏み入れ問題の解決をしようとする者は少なくなります。苦労してもその利益は賄賂や媚びを行って良いポジションを得た者達を長く楽させるためにしている事にしかならないからです。そうして可能性は失われ無気力と怠惰、退廃と荒廃が社会を蔓延し混乱を招きやがて崩壊します。社会に属する者の性質が変化し質が低下した為に解決できる問題が減り、また、最初から失敗する事が予測されるようなものでも苦しみや生死のリスクから逃れる為に思考放棄して選択してしまい修正も出来ないままに社会を始めた時から内包しやがて表出させてしまいます。社会に埋め込まれた悪の種子はやがて徒花として咲き誇るのです。」
エールトヘンが話す。
「結果として繰り返しの度に誰かがかつてしていた事を真似てその誰かが居たポジションを占めようとする者が増加する傾向にあり、また、それを繰り返すがために同じ行動ばかり取り習性へとなっていきます。そのため、何度やり直しても同じ結果へと辿り着き、また、ポジションを強引に取る事でアドバンテージを取ろうとするから争いは絶えず、その後も遺恨が残り繰り返す意味がなくなりますのでこれらを抑制する方法がなければ社会を崩壊させるメリットというものは正規の手段からはなくなります。社会を崩壊させるメリットを持つのは崩壊させ一度社会の枠組みが壊れる事で罪から逃れる事が出来る者、記録がなくなり罪を追求されなくなる者、次の社会で良いポジションを得ようとする者など不正を行う者達だけとなります。
更に問題になるのは、そのような者達がそのまま同じ間違いを繰り返す事もないのです。本来あるべき対処とは別に、自分達が不正を行っているという証拠を隠蔽しながら他者に知られる事なく、だが公然と行いそれが日常となるように改ざんしていくのです。それが伝統だ、それが習慣だ、それしか方法がない、仕方がない、などの言葉で丸め込むように思考放棄させ論理性による根拠を提示せずに受け入れさせようとするのです。勿論それらの言葉で表されるもの全てがそうではありません。それらの言葉で表される状況と混同させる事で受け入れさせるのです。
閉鎖的な小規模な社会では特に有効な手段になってしまい、その原因はより多くの人物によるブラッシングがされないから間違っていても利害関係が一致していれば受け入れられてしまい、そして先程の言葉で他者へと押し付けるように受け入れさせるのです。
酷い例えを挙げるとすれば、ある村で一定の年齢に達した娘は村の名士に初夜を捧げなければならない、それを受け入れなければ村から追放する、というようなものもあり、また、生贄を捧げる風習がある場所で「皆が幸せになる為なんだ」と言って受け入れさせるようなものもあります。それら全て本来あるべき危機的な状況において重要人物の発言が絶対的な条件となり危機的状況を脱してきたという経験則の悪用や生贄にされるような善人の他者への思いやりにつけ込んだ仲間意識の悪用です。
年齢が若く知性が未熟な場合はそういった嘘をおかしいと思えるだけの知識量を持たない、持っていても物理的に屈服させられて抵抗出来ない為に受け入れるしかない状況になる事が多く、またそうなる状況を作り出せる事をリザルトセットを見て誰でも思いつくからこそ深刻な問題になります。人は未熟と成熟を繰り返します。つまりどのような知者も子供の内は弱く儚い存在へと戻ります。その時に知性の低い悪人に襲われると自衛する事すら難しいのです。悪人は普通にやりあっても勝てないと思えば待つのです。相手が子供に戻るのを。相手側は社会の問題を解決しようとしていたりわざわざ他者を襲う気もないなどは全く考慮せず、自身が勝つために相手が弱くなる時をひたすら待ち、それは泥棒が盗む隙を窺っているかのように、好機と思えば襲い掛かるのです。襲い掛かり方にも様々なものがあります。物理的なものは当然ありますが洗脳するのも一つの方法です。必要な知識を与えないのもあります。そうして悪人が望む楽して利益を得るために都合の良い環境を作るのを邪魔する要因を排除し欲望を満たそうとします。
そうして悪人はかつてそこにいた知者を押しやりポジションを奪い成り済ます事が出来てしまいます。その後の行動はかつてその知者が見せてくれたのですからその真似事をしていれば同じ発展をし同じ段階までは同じやり方で問題が表面化しないでしょう。そして表面化する時には既に手遅れであり悪人は社会の崩壊に合わせて逃げるだけです。
勿論ポジションを奪い取るだけでなく、社会にある知識を偏向させ錯覚を用いて受け入れさせ、実際には根拠のないものも「伝統」や「慣習」で受け入れさせ、受け入れがたいものも「他に方法がない」、「仕方ない」と言って受け入れさせようとします。こういった手法は誰にでも出来る為に都合が良いのです。
閉鎖的な小規模な社会ではそういった方法が行われる事がありますが現実的にはもう少し高度な方法が用いられます。根拠を厳密に証明できない、恐らくは間違っていないであろう解、現実的な打算の産物などのブラックボックス法によりある程度の特定は出来るがその詳細までは全て把握出来ないものとして扱う事でそこに干渉出来る余地を残しその余地の差分だけ自分達の都合の良い状況を作り出します。結果としてアレはアレ、コレはコレ、と一つ一つは限定すれば使用出来るが合わせて使おうとすると矛盾を含む知識をあふれさせる事になります。その間に自分達が楽して利益を得る根拠を隠すのです。邪魔な知識は社会に残さず都合の良い知識は残し、一部を変える事でかつて誰かが考えた知識やアイデアを自分達がアイデアを出して発明した事にして成り済ますのです。
ブラックボックス法は外側から少しずつ詳細を調べていく方法です。つまり、自分達に都合の良い段階で止めてしまえばその先に不都合があったとしても追求されずその瑕疵が利益を生むのなら利用できるという事です。それは同時にその利益を生じさせるという事が他の誰かの損失を生み出している事になるという事です。あたかも合法的に社会活動をしているようにみせかけてその実、相手から搾取する事も可能になるのです。相手が気づかない間は。そして大抵は気づいても証明しづらい為に訴訟などに発展出来ずに泣き寝入りさせる事が出来るようなものが大半になります。
例えばある1人の男性を詐欺の対象にして育てたとします。未成年は保護の対象であるとしたなら、未成年で失くしてしまえば良いのです。子供の内から知性が発達しないように周囲で気を配り知的好奇心を抱きそうなものや現実問題となるような考えなくてはならない物事を遠ざけます。するとニーズもエクスキューズもない為に知性を発達させる機会は少なくあまり育ちません。教育の仕方もあえて分かりにくい方法を選んで本人から拒絶するように忌避感を植え付けてしまえば効率が良くなるでしょう。そうして歳を取り成人したなら詐欺行為を行うのです。まるで好景気のような状況だと錯覚させられて育てられたならその感覚で金銭を浪費するでしょうし、交渉事のやり方も多少なら損をしてもまた利益を得れば良いという楽観視で行うでしょう。そうやって浪費して周囲に利益をばら撒いた後に財産が底をつきその男性は気づくのです。嵌められたと。教えられたような状況はなく浪費したものを取り戻すにははるかに大きい労力が必要で、不況であればそれは特に大きくなります。そして新たに利益を得るのが難しいからこそ周囲はそうまでして詐欺行為をして利益を奪ったのだと認識するのです。さて、それらの行動を追及して浪費した分の財産を返してもらえるでしょうか。取引が合法であり支払われた額も多いかもしれないが合法の範囲であるなら違法とは言えない、という結論に至り奪われたものを取り返す事が出来ません。当事者同士ではそこに詐欺行為があったのは事実として存在していますが客観的な証拠を提示出来ない為にとぼける事が出来るのです。こうやってかつてあったものを歪めて利益を得ようとするのです。
そうやってある特定の集団に都合の良いルールを基本部分に盛り込みながら社会が再構築されていきます。するとやはりその矛盾に気づく者が出てきます。気づかれると争いが起こりその嘘を盛り込んだ集団を排斥する流れになり勝てば排斥、負ければ嘘のルールを押し通すやり方を押し付けられます。この時点で権力中枢を抑えられていれば集団の持つ自衛手段である部隊や軍が嘘のルールを押し付ける為に利用され排除する事が出来なくなります。そのような段階にまで汚染が進んでいるとすればもっとうまく計画的に行動する事を強いられるでしょう。そう出来ない場合は気づいた者は2つの選択肢を与えらえれます。利益を共有して黙っているか脅されて黙っているかです。そして社会で声高らかに嘘を指摘するものは影を潜めるのです。
そしてそのような社会を作り出そうとする者はそもそも矛盾に気づく事自体をなくす事が出来ないかと考えるのです。気づかれないなら指摘されず社会の根幹に盛り込んだ嘘で利益を継続的に得る事が出来社会が続く限り安泰でありそうであれば長く社会を続かせようと考えるようになるのです。知性を劣化させ、思考能力、判断能力を低下させる事によりそもそも問題を考える回数を減らさせればそこにある矛盾を指摘出来る答えを導き出す可能性は低下します。それと同時に自分達に役に立つ程度には知性を持ち知識を得る事が出来て貰わなければならない。そして知識を得るには知的好奇心から得る方法と欲望を満たすために得る方法の2通りがあり、後者により成長させた知識というのは利益になるなら知識を得るが利益にならないなら知識を得ない、という行動を取るようになり、実に都合よく操れるのです。手に入れる事が出来る知識だけを見て行動し存在を隠された知識を求めるような事をしないのです。存在を隠された知識というのはそれを解明する為には多くのコストを必要とし利益の面から非効率だからです。
同じ様に自身の持つ知識の整合性の維持も同じです。誰かの作った知識をそのまま扱うだけで利益を得る事が出来るなら実に都合が良くそれを罰せられないなら別の知識との間に矛盾が潜んでいても気にしないのです。そして利益を求めて行動するだけの人物は操りやすくその行動に疑問を持つ事が少ないです。判断能力を持つ人物は自身の行動に対してその行動は正しいのかを常に問い掛けるのでいつかは矛盾に気づく可能性を持ちますがそもそもがそんな事もせずに利益を追及する者が矛盾に気づける可能性は低くたまたまどこかの特定の集団に不都合な場面を見る事になる偶然かそれとも既に用済みだから必然として見せられるかのどちらかになります。そして競争原理により利益を追求させる事で思考する事自体が不利である状況を作り出し、より効率的に行動するためにパターン化した行動を取るまでになった行動を行わせて思考の入り込む余地を奪うのです。
ここまでパターン化して行動する様になった人物を「虫」などと表現する事があります。現実の状況を分析する事もなく利益を得るための行動を繰り返すだけの少し考えれば社会のルールとは一致しない事が分かる行動も容易く行う人物を指します。虫と似たようなものでカニを考えればわかりやすいかも知れません。捕まえても今までそうしてきたようにハサミを振り回してどうにかしようとするだけで状況を分析も出来ずその対処も出来ない"可能性の死んだ"状態だと言えるでしょう。命令であれば無抵抗な市民の虐殺もしてのける兵士、それが不正である事をしっていても手続き上問題なければ受け入れる役人、盗まれた金銭だと知っていても計算して受け入れる銀行員などが例になるでしょう。
このように問題を注視されると批判されるのでうまくオブラートに包みながら隠蔽し視点を逸らさせながら社会を再構築していくのです。税金の使われ方、利息などの金融システム、社会の中での慣習など、一つ一つはさも正常に機能するかのようにみせかけながらもそれらを精細に調べ多くのパターンから検証していけばその間違いに気づけるものもそもそもがそれを考える時間もリソースも与えなければ気づかれないのです。早い段階で策定し受け入れたもの程社会の中で基準と化しそれが問題もなく社会を機能させているのならそこに疑いを持つ可能性は減り、またそこに問題があったとしても簡単に取り除ける事もなく、代替えの方法を模索する難しさとそれを取り除いた結果が更なる状態の悪化につながるリスクを誰も背負えないのです。このように社会の根幹部分にあり、取り除く事で社会そのものが機能を失う可能性のある状況において、その状況を作り出し不正に利益を得る人物を「寄生虫」と表現します。心臓や脳に寄生した寄生虫を取り除くには生死のリスクが高くその代償は小さくないでしょう。このような状態になる前に取りつかせない防疫が必要なのですが私達は現状において低い知性の為にそれに対処する術を持たず、取返しのつかない状態になる前に排除する方法しか持ちえません。そして排除出来ないとそのまま不正に利益を得る状態を続けさせる事になるのです。
そこに至るまでに他にも嘘を飲み込ませる方法があります。新しく解明した知識において必要以上に追求しない方法です。私達は世界を調べ概念を定義し事象を集め法則化する事で世界を知ろうとします。その際に深く追求する事で特定の集団が利益を得る事が出来なくなるとすればそれを追及しなければ常に利益を得る事が出来る状態を維持する事が出来ます。また、追求しない状況を常態化させ知識とはそういったものだと常識を作り出す事で深く追求させず思考させないようにして全体の中に嘘を混ぜ込みます。その一連の行動の中にパターン化が存在します。パターン化はパターンをそれ以上分析して法則化しない事で一個の情報として扱いそこに存在する情報をグロスのままに照合し近似率を計測します。つまりブラックボックス法です。必要な情報のみを取り出し必要がなければそれ以上の精度を必要としません。これは扱う情報が限定されている場合には有効な方法ですが扱う情報が複雑になるにつれ問題の生じる方法でもあります。
例えば天気予報では効果があります。私達が気象情報に求めるのは晴れか雨かという簡単なものだからです。降雨量もかつてあった記録と照合出来れば高い精度で予測できるでしょう。しかしそれを全てのパターン予測にあてはめてよいかと言えば別になります。しかしパターン予測の前例として天気予報がある、という事を強調してパターン予測を適用すべきではない事例にまで拡張しようとするかも知れません。パターン予測の欠点はコストがかかるという事です。多量に存在するパターンを照合させていくことで精度を出しますがその量が一定量を超えないと精度が出ずそれ以下にする事が出来ません。そのためコストの削減はあまり期待出来ません。最も天気予報などではそこから生じる被害に比べるとコストは安いとみなされる可能性は高いです。次に現在存在する法則化された方法を駆逐する可能性があります。コストをかける事で精度を出せ法則化された既存の方法よりも精度が高い影響で既存の方法が廃れてパターン予測が信用されてそれだけが残る状況になるとそこにも問題が生じます。その独占状態を排除する要因がなくなります。また、パターン予測もコスト削減と効率化の為に手法を考案され改善されるとするならそれは一部の法則化により行われるでしょう。つまり、パターン予測というコストのかかる方法で既存の方法を一旦駆逐してから独占もしくは寡占状態を作り場所を奪った後に法則化する事で安定した状態を得る事が出来る、という見方も出来るという事です。そしてその精度においてもそれを扱うものたちの利害と不一致な場合にはそれ以上の追求はなされないでしょう。
ではパターン予測を私達の生活に当てはめる事は出来るかと言えば難しいでしょう。行為は形に残らず行動のみが形に残ります。全ての行為を一意に特定出来るように形へと展開出来ればそれは可能になりますがそれを可能にした所で人は間違いを起こします。間違った行為による行動なのか正しい行為による行動なのかの区別をする必要がありそのためのパターン予測が必要になります。成功した場合と失敗した場合の全ての起こり得る事象を記録したパターンが必要になり、一定量を超えると精度が増していき、足りない程に精度は低くなります。では全ての事象とはどれだけの量なのでしょう。新しい知識や技術により人の生活の中での行動は変化します。その変化に合わせて作り出される新しい手続きや類似した行動を全て事前に把握してパターンとして準備出来るでしょうか。
このために王国ではモデル地区や実験区を作り起こり得る事象を把握してから王国全体へと展開する方法を行っていますがもし先に発明した者が権利を持ち利益を得る事が出来る法律上で行われる場合は事前のパターンを予測する事が出来ずに予測は精度を低下させ付け込む隙を生み出すでしょう。パターン予測は既知の領域については効果を発揮しますが未知の領域にはその精度を維持出来ないのです。
そしてそのために私達は世界の事象を調べ分析し法則化する事で現在を知りそこから未来を予測しようとするのです。どのようなものも使う場所を間違えると効果は期待出来ません。パターン予測はその精度を結果から得ますが形に見えない行為を予測するためにはそれを正しく分析できる情報を得る必要がありそこに瑕疵を生じます。
パターン予測においても必要な情報を取り扱う為に扱う情報を制限して利用します。その制限により精度を出していると言えますが同時にその際に省かれた情報による影響は考慮されないという事でもあり、場合によりそこに瑕疵を持つ可能性が存在します。このように行為として瑕疵を持つ行動を行う場合に人はそれが人間味を持たず機械的だという印象を受けます。本来は私達が不都合なく苦しまずに生活するための行為が私達に不都合や苦痛を伴わさせるのです。機械が組まれた行動以外の行動を取らず周囲の状況も考えずに場合によっては害を出しながら行動する様子として表現され、そこに私達は何か私達の事など考慮しない冷徹な何かに支配されるのではないかという不安を抱くのです。
それゆえに私達は世界が1と0で表されると言われると忌避感を抱くのです。数式で表されるものなどは効率を重視し私達の持つ価値観や自由があるが故の表現の潤沢さや選択肢の豊富さなどをそぎ落とすと思わせてしまい、それは数式などが状況を分析し必要な成果を得る為に必要な部分だけを法則化したものであるから同じように法則化される事で自由を失うと考えてしまいます。
いずれ世界は解明され1と0で表す事が出来るでしょう。概念定義とはそういうものです。いずれ世界が言葉で表す事が出来るのならば同じ様に1と0で表せるでしょう。その時私達という存在とそこに宿る意思や感情すらも定義され形として見る事が出来るかも知れません。それが私達の望む世界であるかは別として。解明される事を恐れるのではありません。解明されて悪用される事を恐れるのです。誰かの心の欠陥を悪用して付け込むための入り口として使用する者を排除出来ないのであれば悪用されるがままとなり解明しない方が平穏で安全だったかも知れないという状況になります。私達の事情も考慮せず技術は進み、その尊い犠牲として私達を生贄に捧げてしまう事を恐れるのです。その犠牲すら結果として貴重なデータとするでしょう。
では悪用する事で不正に利益が得られる状況で、精度を高めると不正に利益が得られなくなるとしてその利益享受者がその行為を認めるでしょうか。この享受者が権力者である場合には事態は深刻化し、その瑕疵は残したままに技術を進ませ、継続的に利益を得る状況を作り出します。そうしてその時の権力者もしくは利益を得る大多数の為に知識や技術の大系が偏向し、だが社会はその利便性を受けるという状況が出来てしまいます。不正に利益を得る方法は残るが、今まで述べてきたように思考能力と判断能力を低下させた集団ではその不正を指摘する事も難しく、指摘出来る知性を持っても物理的に弾圧され黙らされる、もしくはそもそもその方法自体を奪われているという状況にあっては気づいても対策を取る事が出来ず、そして気づいたが故に排除される危険性も考慮する事になるのです。
こうして1と0で世界を現わしたとしてほとんどの問題を解決したとしてもそれぞれの知識にはつながりがない状況を許容するとそれぞれの知識にある整合性の無さから生じる矛盾に気づけない状態を作り出します。アレはアレ、コレはコレ、という様にある状況では矛盾だと言えるものも別の状況では矛盾であってもその行動にそれほどの影響のないために分けて考えると目的を達成出来てしまい、そこに生じる間に利益を得る方法を埋め込むのです。全体を把握するだけの知性を持つ事は難しく、そしてそれは競争に負ける要因ですので簡単には誰も調べようとはしません。そしてそこかしこに小さな矛盾はあるも社会としては機能出来てしまう社会が出来上がり、そこから利便性を得て快適に生活出来る間はその問題を指摘しない様になります。このように出来上がった社会は本来は整合性のある一塊の集合体としてあるべき知識で作られた社会とは別のねじ曲がった社会となり"悪魔の世界"と表現されます。そしてその世界はそれまでに蓄えられた知識の量と精度により長い寿命を得る事になり、この状況を長く続く事を望まない集団はその社会に新たな知識を提供しないように行動するようになります。そして矛盾により生じる損失が表面化して争いの原因になりやがて崩壊しますがそれまでの長さが問題になります。自身の一生だけ贅沢に過ごせれば良いと思う人物にとって後の事などどうでも良くたかたが数十年の安定の為に社会を作り変えようとします。
最たるは浪費による社会でしょう。浪費する事で得られる快楽は節制を行う社会に比べてはるかに勝り、そこに何の問題もなければ誰もが欲しがるものです。腹一杯食べられるなら飢える事もなく、どれだけ使ってもなくならないなら我慢する必要もなく、どれだけ使っても減らないなら気の済むまで使い続ける事が出来ます。どれだけ使っても減らないなら誰かに分け与える事も容易ですし、無償で提供も出来るでしょう。ここに嘘を混ぜ込む要因があります。節制した社会において寄付やボランティアは良い行いとされますがこのような社会ではどうでしょうか。単に自身の自己顕示欲を満たす為か、もしくは節制した社会ではそう受け取られる為に同じ結果を欲する為のショーパフォーマンスのようなものとして行われる可能性があります。勿論節制した社会でも同様の解釈も出来ますが少なくとも財産の消費という面での受ける影響は違います。また同様に行為の基準も低下します。
例えばある一定数の活動を行う事で資源を100消費し、数値40を出したとします。この数値が50を出せば社会は維持安定出来るとしてなら行動を速め同じ期間内に倍速で行動すれば数値80を出す事が出来ます。すると目標は達成できます。ですが資源は倍程消費しています。しかし、目標は達成出来ているのです。こうして本来は能力を得て目標となる基準を達成する必要のあるものを資源の浪費で補填出来てしまいます。そして資源の浪費が快楽を生むのならこの方法を選択する事で快楽を味わいながら本来の問題を回避できるのです。資源がその浪費に耐える事が出来る間はですが。資源の浪費は目標となる基準そのものを資源を枯渇させる事で資源の自由度を低下させ難しくし相対的に高めます。浪費する事で達成できた事にしたために正規の手法で問題を解決しようとする者も減少し問題が表面化する時には既に手遅れになっている可能性が高いのです。
同じ様な考え方としてある一定数の活動を行うと利益60、負債40が生成されるとします。利益が100を超えると基準を達成したとして同じように倍速回すと利益120、負債80となります。目標は達成出来その場しのぎは出来ましたが負債80を処理する必要があります。負債40が溜まり、400になると崩壊するとして倍速に回すと半分の時間しか持ちません。このように浪費する社会というものはその継続性に問題があり継続可能な社会こそが元々私達が求めるものでありこのような一時的な社会は緊急避難的に必要な状況でしか必要ないのです。」
マスター・ララが話す。
「ですが先ほども言いましたようにこれを画策した人物は既に後の事を考えずにその人生を謳歌し亡くなっているという状況になる事が多いのでしょう。率直に卑しい言葉で表現すれば"やり逃げ"というのがしっくりくるかもしれません。利益を得るだけ得て状況が悪くなると誰にも気づかれない様に逃げ出すというものです。その為に社会の末期においては規制緩和、モラルの衰退などを行い混乱させ犯行の痕跡を隠し戦争、革命という暴力行為により犯行を証明する機会そのものを失くさせるのです。物事をうやむやにすると言うほうがピッタリでしょう。建物があったとして潰れた後ではその建物のどこに何があったかなどは分からないように、社会が壊れた後ではその内部で何がどうなっていたかを知る術はなくそうする事で罪に問われる事なく逃げおおせるのです。逆説的に社会が壊れないならいつか罪が暴かれる可能性がある為に社会は"時限式に壊れて貰わなくてはならない"から利息などの富が必ず偏在化するシステムを構築しているとも言えます。社会の崩壊は知性の劣化と知識の縮小を生み、真実に気付く者が発生する前に崩壊させる事で罪は暴かれる事なく、知識の縮小により更に特定の集団が知識の秘匿による優位を得るようになるでしょう。」
エールトヘンが締めくくる。
「そのためにはまず自らがそういった不正に利益を得るような人物にならないように自制出来るようになる事です。その上で小さな欲望に誘惑されないような精神で欲望に容易く負けるような人物の行動を把握できるように勉強する事です。前者を怠れば"暗闇を見つめる者は暗闇に見つめられている事に注意せよ"という戒めのように暗闇に飲み込まれ誘惑に負けるでしょう。お嬢様もそうならないために普段からちょっとした悪戯は認めますが浅ましい欲望の満たし方はしないように心してください。その小さな欲望が隙となりより大きな誘惑を導きます。」
ローレンシアはエールトヘンの最後の言葉を聞き、『え、やってないよね?やってない・・・、多分、恐らく、そう』としか思う事が出来なかった。
「虫」は「むし」であり「無死」と読める為にアンデッドという意味も含みます。
社会が崩壊する前を考えます。社会が崩壊するとてつもない苦しみを味合わない為にそれを阻止しようとする者達はいるでしょう。しかしそれを阻止できないと思う者が大多数でしょう。そして崩壊してくれた方が利益を得る事が出来ると思う者もいるでしょう。この状態において崩壊後を考えて行動したほうが個人としてはリスクが軽減されます。崩壊前に阻止しようとしてリソースを注ぎ失敗した場合には崩壊後はたいしたリソースもなくリスクの高い生活を送る事になります。一方でそのような博打を打たずにリソースを蓄え崩壊後に堅実に足場を築く方が個人としては生き残りやすくなります。では崩壊前に阻止をしようとする者達はどれだけの数がいるのか、となります。この時点で社会は劣化している事が分かります。本来なら全員で崩壊を阻止する事が一番効率が良いはずですが、崩壊させたい者、崩壊後に優位に立ちたい者、保身のためにリソースを温存し阻止を手伝わない者などがいるために阻止できる可能性は皆無に等しくそしてそういった者達が次の社会では権力を持ちやすいので同じような展開を続けます。そして崩壊させたい集団は計画通りに進み予定通りまた利益を得るのです。
社会がこの悪循環を抜け出すには社会を繰り返す事で不正に利益を得られる状況を失くす必要があり、それを続ける事が出来たらようやく崩壊を阻止する事にリソースを注ぎ始め、そして可能性が上昇しいつかは問題を解決して次のレベルへと進む事が出来る。というのが理想論です。その理想論を語る状況すら作れない私達とは一体なのなのか、という事で、今の世の中が「美しい」、「すごい」などと自己満足させるような言葉で誤魔化し続ける姿をその外から眺めるとどう見えるのか、という少し冷めた目線も必要になってきます。
そういえば少し前のニュースでウェ〇ーニューズ(WN)とNHKの天気予報と比べてWNの方が優れてるんだ、詳細に小さな区画の情報を出せるんだ、というものをやっていました。ここでは確かにWNの方が優れていたのでしょうが、それ以外に国がむやみやたらと国民を煽るような情報を出す事が出来ず、一民間会社のWNは外れてもたいして信用低下はない、という安心感から具体的な内容を攻めても問題ないという事を、なぜかそういった事が分かっていなければならない報道機関がそんな事も考えずに報道していました。国の関係機関としての印象が強い所がむやみやたらと「ある地区で大雨で洪水になるから避難しろ」と限定した言い方をして外した場合に国民がどういった行動を取るか考えなかったのか、という事で、その場合、「国が嘘ついた。損害賠償しろ」という状況に発展し、当たったら当たったで「良かったね」程度で済まされるのでしょう。そういった責任を伴う立場では出来ない発表をWNがしたとして国の側が特段に劣っているという報道をするのはどうなのだろうかと言える。そして後ろ盾の規模と資産状況も考慮されるべきで両方あって丁度良いと言えなくもない。
--->ここからは個人の妄想論です(風邪のため機嫌が悪いので少し攻撃的です)
'_'はパディングで無視してください。空白トリミングされるので。
わたしは | あなたを | 愛します。
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わたしは | 愛します| あなたを。
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前者は"私はあなたを愛します"と書いてその"私"と"あなた"は同一視点にあります。私とあなたには同じ性質なら同じルールが適用される基本があります。
後者は"私は愛します。あなたを(あなたが私をどう思っているかは知らないが)"という意味になります。"愛します"という言葉を点として対になり同じルールが適用されるかどうかは無関係になりつまり相手の事を考えていない発言になります。"愛します"の言葉でクロスします。
このように言語構造そのものが精神に影響を与えます。後者の構造で毎日幾千幾万と繰り返される会話はその性質をより他者を考えない行動へと変えていくでしょう。
言葉そのものが投げつけるように組まれるからです。その言語を使う集団は個人主義だとか言われるかも知れませんが、単に言語の影響を受けた事すら分からない本当に個人主義かどうかも分からない集団になります。
言語というのはその発言に責任を持つなら前者のように最終的な発言をする前に自身でその発言を検証する必要があり、そう習慣づけるように組む事で自身の発生させるリスクを低減する必要のあるものです。すくなくとも前者と後者のニュアンスの違いくらいは簡単に使い分ける事が出来るものである必要があります。
文章で読めばどちらも解釈は同じように見えるかも知れませんが、言語は発音され口語である事も含めて考慮される必要があります。前から処理され影響を次に来る語に与え最終的な行為を形として示す流れになります。
主要なもの程先に示され影響の小さいもの程後に回す事になります。別に前者は"愛します"が小さくなっているとは言いません。後者が自分の"愛してる"という意思が"あなたを"よりも重要だとされているのが問題だと言っています。つまりは後者はより自己満足に偏り主観で語られるという事です。相手を考慮せず自身の主張だけで済ませるのです。
相手に意思が伝わっていないなら後者は的確でしょうが、意思を伝える時に後者はどうなんだ、と言えます。"愛し(てい)ます"という感情が相手より優先していると言え、なら相手をないがしろにしているのではないのかという解釈がされますし、実際そう行動する事もあるでしょう。後者の構文ではとりあえず意思を示しておけばリザルトセットにあるように無難にこなせる、と考えるかも知れません。
そうならないために前者の構文での発言が必要になります。"私"と"愛する"の間に"あなた"があるので"あなた"を無視して愛を定義する事が出来ません。私が愛と定義するものとあなたが愛と定義するものでフィルタリングしてようやく愛を定義出来るのです。
<---ここまで個人の妄想論です。




