S038 お嬢様勉強会 ~思考の在り方~
ここでの"魔導学"は好きに置き換えてください。
長くクドくなりました。すいません。
まだコメディはないです。一区切りついてませんw
「我思う故に我あり」
そう言いエールトヘンは話を始めた。
「知性を得た獣、人はまず自分を認識しました。その時から人は自分と世界との間の隔たりを知るようになりました。どこからが自分でどこからがそれ以外かを知る事が出来ました。
最初に知ったのは自分かそうでないか。
次にそれ以外の中から自分に何かしらの影響を与えるものを知りました。
暖かさを与えるもの、暑さを与えるもの、冷たさを与えるもの、寒さを与えるもの、美味しさを与えるもの、不味さを与えるもの、痛みを与えるもの、気持ちよさを与えるもの、そういった自分で感じる事が出来るものを。
次に気持ち良さを与えるものとは別に痛みを与えるものが同時に存在出来る事を知りました。この時から人にとってそうでないものは二つに分かれました。
次に二つに分かれたはずのものが、まだ気持ちよさを与えるものや痛みを与えるもの、そしてそれ以外の何かに分かれる事を知りました。それは数を増し、人は自分だけでなく、数多くの何かがある事を知りました」
ものを認識するという事はどういったプロセスを取るのか。
人はまず自分を認識し、それ以外を認識します。
次にそれ以外の中に存在する対象を識別します。
ではどの様に識別するのか。
この場合は視界を考えましょう。
私たちは知識の浅い段階では対象を"ようなもの"として認識します。どこからどこまでが対象になるかの識別が出来ない状態です。
つまり、どこからどこまでか分からない、という事です。
例えば、カップに入ったミルクを指して「ミルク」と教えたとしても、その相手がどれをミルクと思ったかとなり、カップをミルクと思ったか、内容物をミルクと思ったか、カップと内容物でミルクと思ったかその時点ではまだ分からない事になります。
そしてここでミルクと教えられて識別した側は、その対象物を特定するために、自身の視界の中にあるものを、視界の端、外側から排除して対象を特定します。つまり、「ミルクではないもの」を排除して残ったものが「ミルク」だと識別します。つまり「ミルクではないものではないもの」を「ミルク」と識別するという事です。
私たちは経験により初めは曖昧な条件からより詳細で具体的な条件へと知識の精度を高め、最終的には他者と共有できる精度で識別をします。この例では、カップに入ったミルクを「ミルク」と認識していた状態に、ビンに入ったミルクを知り、どうやら今までミルクだと思っていたものは間違いで、"今までミルクだと思っていたもの"から「カップ」という「ミルクではないもの」を排除したものが「ミルク」のようだ、と精度を高める、という事です。
ここでは話を簡略化するために自分から始めるのではなく見ている視界を主として進めます。
ある対象を認識するにはその対象と違うもの、つまりはその対象と他を分離するだけの情報が必要になります。透明な水を分けようとしても定まりません。ですが、水が泥水であり、上澄み水と濁り水に分離されるようになるとそこに違いを見分ける事が出来、認識できるようになります。
例えば、「白色」を考えましょう。これはその認識から最初は「白色のような」ものとして始まります。ですがやがてそれ以外の色を知り、「白色」と呼べるものへと認識が収束します。定義がより詳細になる、とも言えます。つまり「白色」とは「白ではなく青ではなく緑ではなく黒ではない(赤色)色ではなく、白ではなく赤ではなく緑ではなく黒ではない(青色)色ではなく、白ではなく赤ではなく青ではなく黒ではない(緑色)で色ではなく、白ではなく赤ではなく青ではなく緑ではない(黒色)色でもない」色であり、「赤ではなく青ではなく緑ではなく黒ではない」色として認識する事になります。
そこから始まり、やがて対象をほぼそうだろうと認識できる精度を持った時、効率を上げるために認識の仕方を変えます。対象をほぼそうだろうと認識できる精度で認識出来、他と分離できたなら、今度はその対象の特徴を捉え得られる情報から対象を認識するようになります。例えば、「白色」を今まで「赤ではなく青ではなく緑ではなく黒ではない」と認識していたものを、以前に「白色」として認識したものの情報と照合して一致しているかどうかで判断するようになる、という事です。これは情報の収束の結果としてものを識別しようとするのですが、それは幾度かの試行の結果、得られた情報に法則性、特徴を見出し、それを認識するようにして効率よく「白」と識別し認識するようになります。その状態に収束するために、白を認識するには白以外の情報と定義が必要になるという事です。そしてこの識別された情報を概念と呼びます。つまり「白色」という概念は以前に「白色」として認識した情報であると同時に「白色ではない色ではない色」として定義されます。そのどちらを使っても白色と認識出来ます。
ですが、「白色」を「白色」として認識するまでの過程は一つでしょうか。
ある特定の対象は、その対象を認識するために他の対象の認識情報を必要とし、その対象を取り巻く空間の中でしかその定義が成立しない、という事になります。逆にその与えられた空間内に、それより大きい空間内に存在しているすべてのものが存在していなくとも定義が出来、認識出来る、という事です。
つまり、特定の空間に、赤、緑、白、黒の4色しかないとして、その中で「白色」を認識し定義しようとすると、「赤でなく緑でなく黒でもない」色として定義でき、それ以上の細分化が必要ないという事になります。ですが、その特定の空間を含むそれより大きい規模の空間に赤、青、緑、白、黒の5色が存在した場合、その小さな空間で定義された「白色」は白色として適用できません。そこに情報の不一致を生じます。ですが、ある程度の認識は出来る、と言い換えたほうが良いかも知れません。ただし、以前まで認識していた白色は、新たな情報の獲得により「青みがかった白色」であったかも知れません。
このように識別するという方法は、それを必要とする時空間上において問題が生じて違いを識別する必要がある所まではその精度を高める事になり、ですが、それだけではその以上の必要性がないためにより精度を高める事をしないとも言えます。
また逆により大きな空間上で赤、青、緑、白、黒の5色が定義されているとした場合に、その空間に含まれより小さい空間上で赤、緑、白、黒の4色があり、その「白色」が定義されていたとして、「白色」は「白色」の持つ情報を照合して認識する事も出来、また、「赤ではなく緑ではなく黒でもない」色としても認識できます。ですが、照合をして認識する場合、「他の色」の情報は必要なく、それを繰り返す内に情報の強度が弱り、いつしか忘れてしまう事につながります。4色しか存在しない空間において、青色は識別する必要のない情報であり、失っても問題が生じない情報である、と言えます。
よって情報を以前までに蓄積した情報と照合して一致させて認識する方法の欠点は、対象を以前までの情報と照合する方法のために、照合して識別する事の正しさを保証出来る情報の欠損に気づけない、という事になり、利点としては情報の欠損を生じさせてもある程度の精度で識別する事が出来る、という事です。
そこに認識の問題が生じます。例えば、その小さな規模の空間において「白色」が変色し「青みがかった白色になった」とします。それもほんの僅かに変色し違いが分からない程度に変わったとします。しかし「白色」と認識し、そこに問題が生じないとすればそのまま「白色」として認識でき、現状のまま継続されます。気づかないうちに「白色」の定義はわずかに変わり、それを扱う存在が気づいていないだけになります。では次に、現状の「白色」から「もう少し青みがかった青色」に変わった場合もどうなるか、と言えば、やはり、問題が生じない限り「白色」と認識したままになります。同様の問題として、「白色」と「青みがかった白色」の2物があるとします。ですがそれ以降は「青みがかった白色」しか手に入らないとします。では時間軸上の変化ではどうなるでしょうか。やがて「青みがかった白色」しか見る機会がなくなり、それを「白色」だと認識するようになります。「白色」と「青みがかった白色」の違いが分からなくなるからです。このように情報を照合して認識する場合には、その照合に使用した情報が正しいと保証出来る情報が必要になります。この場合は各色の定義情報です。
ではここで現存する色の定義情報はどれほどの確かさを持つのか、と言えばその色が現存するので維持はしやすいが、それがどれだけの特徴を持つのか決めなければその色もいつの間にか基準とする色の度合いが変化している事に気づけなくなります。そのために、その色の確かさを決める情報が必要になります。つまり定義をより詳細に、精度を高めようとした場合、個々の定義はそれを含む定義の集合の中における確かさを必要とする、もしくは他の定義との関係性や整合性が必要になる、という事です。
では先ほどの小さな規模の空間上において、「青色」の定義情報の維持のしやすさはどうでしょうか。現存しない色の定義情報はあっても、物体を見て定義情報が正しいかを確かめる手段はなく、正しいかを他の色の定義情報から補う形でしか得る事が出来ません。そこには青色がなぜ必要かという情報もありません。では時間が経過して、色の定義情報を更新する時が来たとしましょう。その際、「青色」の情報は更新されるでしょうか。現存せずまた、現状の4色の定義するにも必要ない情報であるため、更新されない可能性が生じます。そして一つの情報が欠損します。しかし4色の定義は更新され有効です。しかし、それは5色が存在した時と同じ関係性を示しているのかは期待できません。そしてまた時間が経過して更新したとします。次も4色ありますが、その4色だけの関係性を元に色情報が更新され、それは5色であった時の色の定義情報からはより乖離する可能性を有します。つまり、「白色」の定義が表すものが「青みがかった白色」に変化していても気づけない事になります。
しかし、「白色」と認識出来るのです。その定義がいつの間にか変わってしまっていても。
問題はそれだけではなく、では目に見えない概念はどうなるのか、という事になります。目に見えない概念は物に付随する情報よりも容易く変動する事になります。物を基準に正しさを管理できないからです。情報を残すために教えるとしても、形に見えない為にどのように教えればよいのか、また、相手がどのようにその情報を認識してもそれを目に見える形で検証する事が難しい若しくは出来ないからです。
情報を維持しやすくするための基準として目に見える形で扱う事が難しく、また、2者間で、ある概念をほぼ同じ定義が出来ているかの判断も難しく、そして種の持つ限界に起因する知性のその根本的な在り方により忘れる事になった場合、忘れたかどうかに気づけない可能性があります。失った情報を思い出せず必要性を持たないまま時間が経過してしまい、対象を認識する情報を構成していた要素が欠けた事すら分からなくなる可能性を持ちます。よってある対象、概念を認識する行為はそれを構成していた要素を、根拠を示し、正しく認識している証明をする必要があります。認識に使用した情報が欠損、欠陥の可能性を有し、自身でそれを認識しているかどうかを把握できず、自身では認識しているつもりがいつの間にか必要な要素を忘却してしまい、間違いがないつもりで行動するがそれは実際には間違いである可能性を否定しきれないためです。また、概念により認識する際に対象を取り扱うに足る水準で認識出来ているかが必要になり、それにもその証明が必要になります。それは私たちが快感原則によって行動を決定する可能性がある事と自身にその対象を正しく認識するだけの情報が備わっているかが分からない事によるためです。
つまり、ある概念により認識された情報を元に行われる行為行動はそれ自体では根拠を示した事にはならない、という事です。例えば「白色」を「白色」だと認識してそう発言する事は出来てもなぜ「白色」と認識し、そうである必要性があるのかを示した事にはならないという事です。
そのため、相手を殴るなら殴って良い根拠を、相手と取引するなら取引して良い根拠を、相手と協力するなら協力が許されるとする根拠を、相手と契約するなら契約して良い根拠を、相手と戦争するなら戦争して良い根拠を示す必要があります。
決して、相手を殴るなら殴る根拠を、相手と取引するなら取引する根拠を、相手と協力するなら協力する根拠を、相手と契約するなら契約する根拠を、相手と戦争するなら戦争する根拠を、ではありません。
数ある選択肢の中から、なぜ殴る事を選んだか、なぜ取引する事を選んだか、なぜ協力する事を選んだか、なぜ契約する事を選んだか、なぜ戦争する事を選んだか、ではあっても、殴る根拠があるから、取引する根拠があるから、協力する根拠があるから、契約する根拠があるから、戦争する根拠があるから、では証明になりません。根拠、と他に何の制限もなく条件付けをした場合'殴る事が出来る'も根拠足り得、'殴る事で相手から奪う事が出来る'も根拠足り得ます。つまり主観での判断だけでも根拠と呼ぶ事が出来るのです。例えば戦争する根拠として'資源が足りずにこのままでは滅亡するから'も根拠足り得てしまうのです。
人が知性を持ち物事を認識し概念を用いて行為行動をするようになると、多くの物事は他者、他物に対して行われる事になります。自身への行為行動は主観で行う事は出来、その影響が自身の利害に一致しているので証明も必要ありません。ここではまだ一次的な行為行動のみを仮定しています。洗脳もしくは誤誘導され自身の利害と一致していると錯覚して自身に悪影響を及ぼす行為行動を取る可能性は考慮していませんし割愛します。行為行動を他者、他物に行う場合、自身の利害のみで証明は出来ず、他者、他物の利害を含めた証明が必要になります。自身の利害のみで判断した場合"出来る"と結果を出したとしても、他者の利害を考えると"実行してはならない"と判断するしかない事があると言うことです。その証明に実行しようとする人物の主観はあってはならず、もし主観で他者の利害を考える事を意識的に放棄したのならそれは思考を放棄したという事です。そして人は主観の生き物です。客観的に評価したつもりでもそこには自身の認識不足から来る情報の不足が存在する可能性があり、本人が望まなくとも、欲望に、快感原則に従わなくとも正しく客観的に認識出来ているとは限らないのです。この場合の原因は本人があえてそういった情報認識が出来る事自体が自身の利益に反するためにあえて情報を入手しないという選択をする場合と、情報の精度を上げる必要性がないために未分化のままである場合と、情報を得る機会がなく情報の精度を上げる事が出来ない場合があります。また、自身の思考そのものが既に偏向し正しい認識が出来ていない場合があり、この場合はどのような選択をしようと間違う一定のリスクが常に発生するが自身はそれに気づかない、という結果になります。そのため、人が行為行動する時は常に自身を疑う必要があるのです。自身の行動を疑問視し、行動が正しいと根拠を以て正当性を示す事が出来るかを思考する必要があるのです。
人はより大きな規模での情報の総体から得られる一定の普遍性を持つ、ほぼ間違いがないだろうと言う情報を客観的知識などと呼びます。そしてその知識と個人の持つ知識の差は偏向であり、比喩として"色"と表現される事があります。人は行為行動する時に出来る限りこの"色"を失くす必要があります。この色と呼ばれる部分は客観的知識から導き出される行為行動とは違う行為行動の根拠になる事があり、それはすなわち間違う可能性がある、という事です。その"色"は先程述べたように、個人があえて知りたくないから情報を手に入れない事で生じた未分化な情報部分による選択の差違であったり、情報の精度を上げる必要性がないために未分化のままによる選択の差違であったり、情報を得る機会がなく情報の精度を上げる事が出来ない事で生じる選択の差違であったり、自身の思考そのものが既に偏向し正しい認識が出来ていなかったりする為に生じる選択の差違であったりします。しかし、自身の持つ認識に関する事で、それも情報が欠損している、情報がなくなっている事を自身では認識する事が難しい。ない、足りない事をどうやって証明するかとなり、それは客観的知識との照合による差が必要になります。ですが、その本人の持つ知識において本人は自身の判断が客観的知識とほぼ同じであると錯覚している場合、照合は行われません。そして、本人の認識能力の高低により客観的知識を認識する精度は変わってしまい、実際には客観的知識と明確な差がある場合でも自身の認識する情報が客観的知識とほぼ同じ精度を持っていると錯覚出来ます。故に人は主観の生き物です。人がどれだけ自身を客観的視点で見ていると認識しても、その認識に必要な知識、情報に本来あったはずの要素が欠け、失なっている事を自身の持つ情報だけでは差分により欠損を識別するという方法が取れないために認識する事が出来ず、自身の行動が認識できる事を理由に正当化する事は出来ないのです。つまり人は常に自身の行動にその根拠を証明する必要があるが同時にその根拠を完全に証明出来ない可能性があり、また、完全に証明出来ていると錯覚している可能性もあるため、自身が証明する際には出来うる限りでより良い精度を示す必要があります。これを努力義務と言います。また、認識した結果、ルール違反である行為行動であったりルールに違反するのではという忌避感を感じる行為行動であったりする際に、努力義務の結果として概念を認識して間違いがないと判断した結果を否定して、現状で取る事が出来る選択肢から自身でより良い選択を行う必要があります。これを善性と呼びます。努力義務は自身が自身の欲求によって都合の良い認識をしていないか、善性は自身が認識する情報の不足から誤った解を得ていないか、という部分で必要とされます。ここでは利害における不都合から来る拒絶を考慮せず割愛します。
一方で客観的知識と個人の持つ知識の差の全てが正しくないわけではありません。客観的知識が拡張されより普遍的になるためには新たな知識が必要とされます。その知識を生み出すものがその個人の持つ客観的知識との差になります。それはある個人が客観的知識より詳細に対象を識別出来る事により、新たな知識として獲得されます。その知識が客観的知識へと、私たちの知識の総体へと還元され客観的知識はより普遍的に、より大規模になっていきます。つまり、行為行動の根拠部分では個人の持つ足りない情報の差をなくし、客観的知識へと近づくようにより詳細に識別するように努力し、出来るなら客観的知識より詳細に識別する事が望ましいと言えます。
また、人が自らの意思によって行為行動を行う時に数ある選択の中から選び、行為行動するために認識したとします。その認識が正しければ行為行動が正しくなるか、と言えばなりません。まず、その選択をした事が正しいかを証明する必要があります。例えば吊り橋効果を考えてみましょう。魔導学で吊り橋効果が実証されているとします。では魔導学で吊り橋効果が実証されているから使ってよいか、となれば別の話です。魔導学が証明しているのはその効果であり効果の保証をしているに過ぎません。使用する許可を無条件に与えてはいないのです。吊り橋効果で興奮と恋愛における動悸の乱れを錯覚させる、という手法が正しいか、と言えば正しくありません。それは相手を錯覚させて価値観を誤認識させ受け入れさせているからです。もし仮にそのような効果を使用しなくとも相手を自分に惚れさせる方法があるならそれを選択するべきであり、また、そうできるように努力する事がまず必要な事です。その錯覚により相手は価値観を錯覚し、本来なら選択をしない選択でその使用者に恋愛感情を抱いたとしましょう。それは、その錯覚がなかった場合と同じ結果に至る事が保証されているなら問題はないですが、違いがあるならその対象者は本来あるべき状態を失った結果、損失を被っている可能性を持ちます。そしてそれは使用者の利害によって対象者の権利を侵害したとも言えるのです。個人Aが吊り橋効果を使って個人Bに対して吊り橋効果を狙って行動したとします。個人Bには個人Cという仲の良い異性がいたとして、個人Bは将来的には個人Cと結婚したいと思い、個人Cもそれに否定的ではないとします。そして個人Cと個人Aを、厳しい見方になりますが、その立場、身分、能力や資産などによって評価した時に個人Cの方が優れていたとします。しかし吊り橋効果で個人Bが錯覚し、個人Aに恋愛感情を抱き、結果として結婚した場合、その吊り橋効果がなかった場合には個人Cと結婚した可能性が高いとすれば、それは個人Aが自身の利益を優先し、個人Bを侵害した事になります。つまり、意図的に狙って良いものではありません。それを実行した事が個人Bに知られたなら、それは結婚という重大事項に対して行われた深刻な詐欺、重大な裏切りとも呼べるものになります。この場合、重要な事項であるにもかかわらず騙す行為をした相手をこれ以降も信用する事が出来るのか、という問題も発生します。同水準の出来事には常に同様の騙しが行われる可能性があり、その可能性に常に注意しながら行う生活とそういった危険性を考慮しないで行う生活では当然ながらリスクの違いがあります。相手に対して加害されるリスクを押し付けながら行なう行為行動は正しいと言えるのか、となります。
'出来る事'と'する事が許される事'は違います。殴る事が出来るから殴る、では一緒に居られません。社会を構築するルールに反します。また、根拠には利益と損益を考慮し、それは個人のレベルから社会、そして世界のレベルまでを含めた規模の根拠が存在します。個人の利害、家族の利害、集団の利害、地方の利害、国の利害、世界の利害が同時に存在し、該当する行為行動の規模において満たす必要のある規模が決まります。殴るという規模なら、個人と取り巻く周囲の環境までを考慮する事で大抵は問題がなくなります。身分などによる影響はここでは考えない事にします。つまりその行為する本人は個人の利害と家族の利害と集団の利害を考慮する事になります。一方で、それを取り巻く集団は集団に属する個人の利害を、家族の利害を、集団の利害を考慮する必要に迫られます。その行為が成功失敗にかかわらずどう影響を与えるかを考慮する事になるのです。
戦争という規模であるなら、それぞれに属する個人が個人の利害を、それぞれに属する家族が個人の利害と家族の利害を、それぞれに属する集団が個人の利害と家族の利害と集団の利害を、それぞれに属する地方が個人の利害と家族の利害と集団の利害と地方の利害を、それぞれに属する国が個人の利害と家族の利害と集団の利害と地方の利害と国の利害を、そして戦争という行為行動は国家間で生じる世界規模のものですから、それぞれに属する国が個人の利害と家族の利害と集団の利害と地方の利害と国の利害と世界の利害を考える必要があります。そしてその戦争という行為の成功失敗にかかわらずどう影響を与えるかも考慮する必要があるのです。
この場合、全体の意思が統一されている、若しくは利害が一致している規模では、それぞれに属する個人が個人の利害を、それぞれに属する家族が家族の利害を、それぞれに属する集団が集団の利害を、それぞれに属する地方が地方の利害を、それぞれに属する国が国の利害を、と縮退する事が出来ますが、この例ではまず起こり得ません。不和により発生するものが戦争です。
出来る事は行使するために必要不可欠な条件ではありますが、充分な条件ではありません。出来る事を示す条件だけでなく更にする事が許される条件をも満たしている事を確認してようやく社会の中で行って良い行為行動になるのです。
また、それは出来る事を示す条件を満たしている行動の集合から、更にする事が許される条件で絞込を行って残った解、選択肢が実行して良いものであり、その中からは自由に選ぶ事はできますが、その中以外から選ぶ事は間違いになるということでもあります。そして個人の認識における不確かさから出来る限りはその中でより良いものを選ぶ事が望ましい事になります。
以上の事から、ある行為はその行為自体を正当化出来ない、という事です。"殴る"という行為行動は"殴る"事を正当化出来ず、殴って良い根拠を示す必要があります。"戦争を仕掛ける"という行為行動は"戦争を仕掛ける"事を正当化出来ず、戦争を仕掛けてよい根拠を示す必要があります。
大抵において、戦争を仕掛けてよい根拠は提示されません。それは殴るという行為行動が個人の取りうる単純な行動であり、頻繁に繰り返される可能性があり、その結果もそれだけ集積し影響が比較的分かりやすく、快感原則と社会のルールからも比較的容易に'して良いか悪いか'、良悪の判断はできますが、戦争という世界規模もしくは大陸、大きな地方規模までの利害を含めた判断というものを出来る人物がほぼいないからです。戦争においては主に"欲望のままに"か"資源枯渇など必要に迫られて"という理由が持ち出される事が多くなります。ではその根拠を示さない行為行動と受動的になり自由を失う事で他に選択肢を持たないが一見選択したように見える行為行動が正しい事になるのか、となります。
そういった行動を正当化しようと事後の結果、つまり結果論で正当化しようとする場合があります。"勝てば官軍"や"終わり良ければ全て良し"などです。ですがその行為行動に正当性を与える事はありません。結果論的に、戦争に勝ち資源を手に入れ問題を回避したとしても、それはそれまでに行った選択の間違いを正した事になりません。殴って罰せられず相手から奪う事に成功したから殴る事が正当化される、なら誰もルールは守らないでしょう。それと同様に戦争を仕掛けて勝ち資源を奪う事に成功したから戦争が正当化されるなら、誰もルールを守らないでしょう。
資源が枯渇した場合外界から資源を奪ってくれば良いのなら不節制が許されます。そして資源の浪費がまた枯渇を発生させ、枯渇を理由に戦争を行う。この行為に正当性があるか、という事です。
問題が解決できないから相手を打ち負かして黙らせればよいなら問題を解決するための思考をしない事が許されます。ある問題をその問題が解決できるまで詳細に識別する必要がなく、問題が発生すればとりあえず相手を打ち負かして押し付ければ良いからです。
また、戦争に至った経緯がどのようなものでも認められます。過程を考慮しなくなります。戦争とは人災であり、社会に発生するエラーの蓄積がやがて社会の持つ自制では制御できなくなる事で社会は崩壊の危機に直面しその崩壊から回避させるためのその場しのぎの何かを得るという行為が戦争です。資源の獲得、人減らしをする事での収支の安定、狂った思想の暴走先の提供、間違いの原因を物理的に排除するなどがあり得ます。戦争とはそういった問題を自身では解決せずその補填を他国、他者に押し付ける行為であると言えます。他者に押し付ける事が出来たから正しい、と言う存在とは一緒に居られません。その本人の都合でいつ襲い掛かってくるか分からない狂人と一緒に居たがる者はいないはずです。結果論とは常にそういった要因を含みます。
正しい結果論の使い方は、間違いではない過程を重ね最終的に結果に至るが、条件を揃える事が出来ずに充分な成果を得る事が出来ない時、その失敗した対象が自己の免責を求める行動をした時に対して、条件を揃える事の出来なかったのだから、実際には認識不足などによりどこかで間違っていたのだと諭す時に使うものであり、過程などどうでも良くどのような手段であっても利益を出す条件を揃えれば良いとしたいがための口実として"結果が全て"だと言う事ではありません。大抵は後者の錯覚が使われる事が多く、それは前者を錯覚して後者の様に受け取った者がそのように行動すれば自身の行動を正当化出来ると更に錯覚したものです。そもそも、"結果が全てだ"と言い過程を考慮しない事が正しいと主張するのなら、その主張が正しい事を証明する必要があります。ですが大抵はその証明はありません。過程に間違いがあると分かっていても結果が望ましいように出ているのだから正しい、と強引にしてしまいたい、という事になります。いわば客観性の放棄と言っても差し支えありません。
この間違った結果論で行動するようになれば、その過程における問題点がある事によって結果論でしか対処できないという状況を受け入れ改善する事が出来ない状況を作り出します。なぜならそれ以上その系を詳細に識別する必要性がないと示しているのであり、その詳細を調べようとするとコストがかかり、負ける要因になるため誰も問題解決の行動を取る事が出来なくなります。そして結果論で行動して問題がない、と思えている間はその行動が正しいと認識されたままになります。実際には問題を詳細に識別して解決した場合の過程が存在するはずですが、先ほど言ったように、調べる事で競争に負ける要因となるために調査が不可能になる、という事です。
その結果として、過程における間違いが肯定され、その間違いにより不正に利益を得る行為行動も正当化されるようになります。そして、それはその系が結果論で肯定される限り続き、不正な利益を得たいがためにその間違いを指摘しないままに最大限の期限で継続させる行動も発生させます。その被害を被るのはその間違いの押し付け先であり、また、社会でもあります。
例えば、"第3セクター詐欺"などが顕著かも知れません。ある地方の自治体がとある事業を興し、国に援助金を貰ったとします。しかし計画の甘さから結果として倒産したとします。その経営者は財産の一部もしくは大半を失うかも知れません。会社は再生法に則り新たに動くとします。国が予算を割いて投入した援助金は回収できず、その大半を免除する結果にたどり着きます。そして債権を回収するために作られた建造物、もしくは知的財産権などの権利物は捨て値に近い値で売られます。そしてその負担は国へと還元されます。つまり、これを悪用するならば、まず生贄にする人物を一人用意します。脅すなりその後の生活の最低限の保証をするのでも良いです。その人物にその会社、自治体のトップをさせます。援助金がもらえる条件を満たし援助金を貰い、それを地方の経済に消費して利益をロンダリングして自分たちの元に集めます。そして計画が元々甘いがために採算が出るとして他より優先して援助金を貰っている状況により実際には採算が取れない自体に陥り再生法を申請します。経営者は資産のほとんどを失うかもしれませんがそもそもそれほど持っていない、という状況になります。債権の回収の為に捨て値で所有物件などを売りますが、売り先は、生贄を用意した集団であり、自分達で作るよりはるかに安い価格で建造物を手に入れる事が出来ます。そしてその建造物を維持管理する人材に自分たちの集団から人材を出し雇用を確保し、その雇用にかかる費用も利益として取得します。経営者になっていた生贄は、その多大な利益を地元にもたらした事もしくは最初の契約条件により生活の保障がされる、という方法です。そして回収できなかった費用は国の負担となり、利益を得た集団から押しつけられる形になります。これは結果論の悪用です。結果を出す過程にある瑕疵を用い、目的とする行動から得られる利益を求めるのではなく、瑕疵により生じる利益を不正に入手するという手法です。この手法への対処が出来ない場合、同じ手法を行う者が後を絶たずに乱立する事になります。過程を考慮しない場合、同様の事が行われる可能性があります。よって結果論と称して事後の結果で正当化する事は出来ず、結果論を主張するならば結果論の正当性を証明する必要があります。しかし過程における瑕疵の存在を見つけなくとも結果には正当性がある、と言ってしまう事と同義であるためこの間違った結果論は正当性を主張できる事はありません。単に結果として成功したが、どこが正しくどこが間違っていて、どこに問題があったかなどが全く分からなかったが自分たちに損失が出ていないから成功とする、と言っている事になります。つまり他への影響は全く考慮されておらず、行動による結果そのものは制御不能状態であり、いつ損失を自他ともに出すかは分からない、と言っているとも取れます。この場合は国が負債を抱え破綻する事の影響が巡り巡ってやってくる可能性を否定できない、となります。
そして更に間違いが量産される事になります。間違った結果論を受け入れる事で、結果論として成立させてしまえばその過程に間違いがあったとしても成立した事に出来、あえて結果論として成立させる事で間違いを正当化させ不正に利益を得る事を正当化できるようになってしまう、という事です。これが間違った結果論、そしてデファクトスタンダードの持つ誤りです。それら全て自らの認識できる範囲に間違いがない、問題がなくなったから成功したように思えるというだけのもので、社会の中で行ってよい行動とは別になります。そこに本来あるべき正当性はない、というのが結論になり、その悪影響は他者が被る事が多い事になります。例えば、資源を獲得しさえすれば良い、とするなら農業は大きなリスクを抱えます。仮に収穫まで1年かかるとしましょう。それに対して奪うという行為行動は1日もあれば可能です。勝てば官軍、奪う事を成功させてしまえば正当化されるならかなり効率の良い事になります。それでは誰も農業をしたがりません。同様に戦争もです。戦争して勝ってしまえば資源を奪う事を正当化してしまえるなら、技術開発、交渉、研究などはどれも効率の悪い事になり、奪われるのならば誰もしなくなり、また、誰もが戦争により奪う事を選択するようになれば誰も技術開発、研究などを行わなくなります。戦争がその効率性を維持できるとすれば、他者が戦争という行為が無益であり非生産的であり効率の悪いものだと認識してそれを行わないようにしており、その結果として技術開発や研究、各種分野の生産活動をしているからであり、戦争によって得る利益は誰かが戦争を否定して獲得した資源に他なりません。その時点でルール違反が発生しているという事です。'戦争をしない'という前提で始めた後に、自身に都合が悪くなったからルールを破り戦争を仕掛ける、という行為を事後の結果で正当化して良いか、という問題になります。それが正しいなら契約をした後に自身に不利益が生じるなら暴力行為で結果を覆そうとすることも成功すれば許される事になります。そんな危険な相手と取引をしようとするものもおらず、奪われるなら奪われる危険がなくなるまで奪われる対象となるものを生産しようとはしません。
先程の言葉にある"終わり良ければ全て良し"で"終わり"とは言いますが"終わり"として示した時間は次の行為行動の始まりの時間であり、そこで何もかも終わったわけでもなく、また、その結果が次の過程に影響を与えないとも保証されていません。自分の作業が終わったから他がどうなろうと知った事ではない、と言う考えは社会の中で役割分担する生き方ではなく、また、"終わり良ければ全て良し"が自分とその協力者の主観でしかないという事に気がつく必要があります。そんな考えで何事もうまくいくのであればゴミ問題は発生せず、公害も発生せず、誰もが幸せに生きられるでしょう。例えば水銀を考えてみましょう。排水処理をせずに水銀を海に垂れ流したために公害病が発生しました。ですが、それを行った当事者はそうなる事を知らず、垂れ流しました。その時はすべてうまくいっており、"終わり良ければすべて良し"だったのです。しかし、公害病として発生し多大な賠償金を払う事になります。もし因果関係が分からないままであったとすれば、利益を得るために発生する損失となる排水処理費用も利益として計上され、その損害は水銀により健康被害を受けた者に押し付けられます。社会の中での行動は社会の中での整合性が求められ、決して"なるようになる"や"終わり良ければすべて良し"などと考えて、思考を放棄しリスクコントロールをせずに制御不能である事を肯定しないようにする必要があります。
ゴミ問題も同様です。人口が増える前までは当然のように周囲に廃棄していた物も自然のサイクルがゴミの生成量に対して分解する速度が追い付かなくなった場合に発生するようになります。それまでは認識していなかった情報がそこにあり、それまでのバランスを崩す事で問題が表面化します。その時には既に遅く、それまでにリスクを把握しておく必要がある、という事になり、"なるようになる"では済まされず、また、チャレンジアンドレスポンスやトライアンドエラーでも、既に起こしてしまった事を元に戻せる事はないのです。どのようなものも行ってよいかを判断する知識が必要になるという事です。
「という事で、まだ思考の在り方で話す事はあるのですが一旦ここで休憩にしましょう。休憩後に、人が陥りやすい錯覚の例として人間原理について話す事にします」
エールトヘンはそう言い話を締めくくった。その言葉を聞いたローラは瞑っていた目を開けて静かに立ち上がりお茶の準備をし始める。ローレンシアは『あいつ絶対寝てた』と思いながらようやく休憩できる事を素直に喜んだ。
こういった事を知らずにヤンチャして、後になって知った者というのは「こちらを罠にはめるために教えなかったんだ。そうに決まっている」と言い出すのですが、"自分があまり考えずに行動した"という事実は受け入れたくないがために、"相手が悪い"と言うことで'自分は悪くない"と思い込みたい、という責任逃れを行おうとしている事になります。それは論理、理性から来るものではなく快感原則により蓄積された結果情報に縋り、生存できた、痛い思いをしなかった、行動に"後付け"で根拠をつけているだけです。"自分は悪くない、間違っていない"という前提を無条件に受け入れ、ではそれを正当化するためにはどうであれば良いのか、と逆向きに推論を行う事で発生する選択と行動です。また、それは以前にあった結果から、それと混同しているか、混同させて逃れたいという部分もあります。それらの区別がつきにくいから、あえてそう発言する事でどうにか逃げようとしているとも言え、それを区別するのがとても難しい場合があります。だからこそ、そう発言されるようになる、と言えます。
ジェイド(ヒスイ)は国内では2種類に分類されるが海外では3種類に分類されると聞いた事があります(根拠部分不充分)。ここに差を生じさせる事が出来ます。知らなければ大損させられることもあるでしょう。こういった知識があるかないかは結構重要です。
ここは後で追加するかも知れませんが多分しません。話としては長くクドすぎるので。思考の在り方としての要点は書きましたが充分ではないと思います。論理性の欠如による知識整合性のない場所のワープや、情報同士が互いに補強しあう関係において情報欠損の波及効果による劣化などを書いてません。




