S035 はなさんかじいさんには何かが足りない
最初だけコメディ調。
後はエールトヘンのお小言ですが今回は長くクドいですので読まなくてもいいんではとか思ってしまいます。
むかしむかしある所にじいさんとばあさんがおりました。
じいさんとばあさんはそれはもう仲良く暮らしておりました。
そう、仲良く暮らしておりました。
おり、ました。
ある日じいさんは街を歩いていると枯れた木を見つけました。
周りを見ると他の木は花をつけ見た目も美しくその木だけが寂しく見えました。
その木を見てじいさんはこう言いました。
「枯れ木に花を咲かせましょう」
そう思いじいさんはもっていた灰を懐から出して枯れ木にかかるように盛大に振りまきました。
灰が宙を舞う中、一陣の風が吹きました。
すると灰は風に流され、一人の若い女性にかかってしまいました。
じいさんはその女性に謝り、じいさんは女性に精一杯の謝罪としてお茶に誘う事にしました。
するとその女性はじいさんの魅力の虜になってメロメロになり熱烈アタックをしたのです。
そうして若い女性とじいさんが仲良くしている所に、じいさんは何をやっているのかと様子を見に来たばあさんがその光景を見てびっくり仰天しました。
さあ、ばあさんに見つかったじいさん。アワアワ言いながら言い訳を考えながら震えていると、有無を言わせずばあさんから一言。
「じいさんの人生に花咲かせてどうすんだ!」
ばあさんは怒りのあまり、じいさんをアッパーカットで宙に舞わせ、その勢いで若い女性に掴みかかろうとしましたが、落ちて来たじいさんが必死に止めました。
「はなさんかじいさん!そいつ殺せない!」
「儂が悪かったから!せめてその子は助けてやってくれ!」
「というような事態になるような世界なのじゃろうか?」
ローレンシアはそう言った。
「無いとは言えませんがあまりにも起こりにくい事ではありますね」
エールトヘンはお茶の飲みながらそう答えた。
「そもそもそのおじいさんはうっかり魔が刺してしまった、という事ですね。
そう、人間生きていれば良からぬ事を考えてしまう事もあるでしょう。
しかしそれ自体は悪い事ではありません。
自由は権利ですので。しかし同時にその自由を行使するための義務が伴います。
おじいさんはその義務を忘れた、という事です。
つまり、抑止力を持たなかった、という事です」
「抑止力?」
「そうです。抑止力。
自身が自身の行動の善悪を判断する材料を持たない時の指針です。
その一つが宗教になります。
なぜここで宗教を挙げたかと言えば、それはマナーやモラルを、そして私達が社会の中で集団を形成して行動するための規範を与えるからです」
「宗教がなくても生活はできるじゃろ?」
「ええ。もちろんです。
しかし、それでは足りない場合があります。
その際に、誰か個人若しくは一部勢力の基準を他方に押し付けるとそれは強要であり脅迫の類になり争いの元になります。
そのため、グローバルな視点による私たちの共通認識から導き出したものが宗教の規範となります」
「でも『皆仲良く』とか『勤勉であれ』だとかあいまいなものじゃろ?その信憑性も疑わしいものに見えるじゃろ。それに神は絶対だ、という視点。どこに根拠があるのじゃ?」
「そう、それで良いのです」
「何が?信憑性が無いことか?神が絶対だと根拠もなく信じる事か?」
「そうではありません。疑う事です」
「じゃが『信じろ』と言うのじゃろ?なら疑うのは間違いだとされるじゃろ?違うのか?エールトヘン」
「物事には段階があり、それをすべて混ぜ込めばお嬢様の言う通りになります。まず、個々人において知性に差がある、という事はお分かりになりますね?」
「無論」
「そして、知識にも差がある、という事も理解できますね?」
「知性と知識の差とはなんじゃ?」
「知性とは知ろうとする性質です。単純に物事を片付けようとする者を『知性が低い』などと言います。知識とは知として集められた情報の識別能力であり、また、その違いを表す情報です。例えばリンゴがあったとします。リンゴというだけで解決する問題にはそれだけで対処できますが、その品種まで必要であるならその知識が必要になります。知識を得、より高精度の情報により識別する人物の知ろうとする性質は高い、と判断され、それを『知性が高い』と言います」
「それで?」
「では、物事を判断する能力が足りない者に、つまり知性の低い者に、常に正しい選択をしろ、と要求して、言われた相手はそれが出来るでしょうか?
ここでは『正しい』とは何かなどは漠然としたままで解釈してわざわざ定義を辿る事はしません。どこまでも連なる鎖を辿る事が今の課題ではありませんので」
「連なる鎖?」
「ですからそれはまた違う機会にでも。因果律の話とその連鎖ですね。それはさておき、知性の低い者が居たとして、どうやって正しいか正しくないかを認識させるのか、という問題が生じます。
子供に高度な知識や概念を与えようとしても理解出来ない、という問題です。
それは母親と子供でも同じ事です。
知識を与えられる対象が持つ知識や知性が低いために、正しさを判断できない。
その場合、母親が子供に対して嘘や誤誘導をしない、という前提条件が必要になります。
つまり、教える情報は間違いではない、絶対的なものだ、と思わせ、従っている限りは安全だと示す必要があり、その教える情報が正しい根拠を与えずに覚えさせる事になります。
故に知性の低い者を導く時には『神は絶対に正しい』と『信じさせる』所から始まります」
そこでエールトヘンは一呼吸をおいてローレンシアを見る。
「それはなぜか。
例えば母親を信じられない子供がいたとしましょう。
母親は子供にものを教えます。
が、その母親を信じられない子供は母親の言う事には裏があるのでは、罠があるのでは、と疑い聞こうとはしません。場合により、生きていく為にどうしようもない物事に関しては'仕方なく'受け入れてその教えられた通りに行動するでしょうが、あくまで警戒しながら初めは行動回数を最小限に抑えるように行動するでしょう。その結果の実績としてある程度信用できると判断してようやくそれを疑いなく受け入れ行動する、というようになります。さて、仮にその行動が社会の中で問題なく受け入れられる行動だとします。初めから信用して受け入れた場合の行動と、ある程度信用できるまで抑制した行動の末に疑いなく受け入れた行動は、最終的には同じレベルの行動です。つまり、最終的な状況に至る時間が違い、後者はそれだけ時間もそしてリソースも消費しています。効率的ではありません。そのために教える側は「絶対に正しい」と信じさせる事でその非効率な部分を取り除くのです。パラメータを整え、過渡応答の時間を最適化しより早く安定状態へと収束させる、とも一面を見ると考える事が出来ます。その収束した、つまりは教えた行動を行っている間でも経験を積み、その行動に問題がないという判断は出来ます。また、どのような方法にもそこに悪意を含ませて相手を貶める方法があります。この場合はあえて信用出来ないと思わせながらものを教える事で時間をかけさせその差により相対的優位を得る、という方法ですがここではそういった部分は考慮しないで話を進めます。切りがありませんので。『神は絶対に正しい』とする部分にも同様に悪意を含ませる事が出来ますから。
それともう一つ。先ほどからの続きとなりますが、知性の低いものに高度な概念を教える事が出来ないために社会の中での行動をなぜ正しいのかを教える事が出来ません。『皆仲良く』などと言ってもそれがなぜ必要なのかを知るにはそれを理解するだけの知性が必要になり、その知性を育む段階では非常に難しいのです。そのため、『絶対に正しい』と信じさせる事で、まずその行動を受け入れさせ、安全を確保しながら社会の中で経験を積ませ知性を育み、一定の知性になるまで育てる事で対象に、この場合は子供ですね、子供に理解させる、という試みです。要は初めから教える事に問題がなければ『神は絶対に正しい』などと言うことは必要ないのです。お嬢様はこの段階ですね。『神は絶対に正しい』という前提で始めた事、それにより教えられる行動や規則を、なぜそう定義され、またなぜその行動で、正しいとされるのか、と自身で考える段階だということです。結果として、自信の思考でなぜ正しいかと知り、その教えられた行動は自身の正しい知識として初めて身に付く、という事です。そこまでたどり着かせるための指針の一つが宗教、そして教育です。盲目に信じる事は神に対しての冒涜に他なりません」
「でも知性を育むためにあえてその冒涜を行わせるという事になる?」
「そうなります。教育はその対象となる者の利益となるように与える、と前に言いましたがその利益を最大限にと考慮すれば現在理解出来ない物事も含めた結果を加味した行動を教える事になります。
例えば知性が低い者がいたとして、その者は暴力によって資産を得て暮らしているとします。ですがそれにより周囲に被害を与える事になります。そしてその考えで動く多数の人間の中ではそれは当たり前になり、正しい行為だと思い込みます。しかし、それでは手に入らない利益、利便性があったとして、その実現の為にその暴力行為が支障にしかならない場合、果たしてその行為は正しいのでしょうか。例えば貨幣を用いた交換、物々交換でも良いでしょう。暴力行為で相手から奪う者とは誰も取引はしません、と言うより出来ません。たとえその暴力行為を行う者が物々交換を求めたとしても、対象物をその人物の前に出すだけで物々交換を止め、奪われる可能性があるからです。そしてその人物はその利益と利便性を失います。自身では手に入れられないものを手に入れられる可能性を失う、という事になります。また、個々人は自身の安全を考慮すれば、襲い掛かってくる人物を側に置いておくリスクは取れませんので排除などされる可能性も発生します。また、農業を考えてみましょう。作物を生産する事で飢えるリスクを軽減できますが、やはり襲い掛かってきてそれを奪う人物がいるとできません。ですので、暴力行為はだめだ、という事を教える事になります。しかし、個人のレベルで深くものを考えずに行動して効率良く利益を得ようとすると暴力行為はかなり優先される事になるでしょう。それを分からせるのが教育であり、マニュアル通りに暗記させる事が教育ではありません」
「じゃが、幼い頃に教育をしっかり行い高度とされる知識を与える事はあるじゃろ?」
「ええ、勿論あります。ですが、それはまだ実際にその教育を施す事が成功したかどうかわからないのです。その教育の過程で教えたそれぞれの知識と現実が一致しているかどうかが把握できていません。そして行われた教育が、実際に理解させながら行われたのか、単に暗記させただけなのかを判断し、それが出来る教育者に教育を行わせる必要があるという事です。それぞれの定義、適用できる条件、行った結果の影響とその反動、それらを目的を達成するために必要な水準で行う方法を考え実行出来るか、という事でもあります。また、最初から高度な知識を与えるという事はその知識に辿り着くまでの過程において生じた問題をその過程の中で生じた順序や優先順位を知らないままに高度な知識とされた側からまとめて扱うブラックボックス法になる事が多々あります。例えば、窓から見る景色に物体がいくつか並んでいるとします。それは窓から見える分には並んでいるようにも見えますが、実際にその場所へ行くとそれぞれが奥行きの軸方向に違いが生じているが、やはり窓からはその違いが分かりにくい。しかし、その奥行きの更に奥の方から窓の方へと歩いてきた場合には、窓からその物体を見ると並んでいるようには見えても実際には奥行き方向での違いが生じている事を認識できている、という事が分かります。要は高度な知識として存在するものも情報が縮退してその過程において必要だった条件を表す情報を失っている可能性があります。それを認識できているか、という事になります。教わった事は教わっただけの事、それで世界の全てを教えてもらった事にはならず、また、教わった事で世界の全てを理解した事にならず、教わった事で世界の全ての物事に問題が生じないという事にはならない、誰もそれで良いとは言っていない、という事です。事象の終着点に到達するまでは、つまりは全事象がそれぞれに与えあう影響においてその条件を変動させる過渡状態からほぼ間違いがないだろうという安定状態へと収束するまで、教わった事が『絶対に正しい』事にはならず、誰もそれを与えてはくれないのです。まあ、そこは天才と秀才の違いにもつながり話が逸れるので割愛します。そして、宗教とはその事象の終着点において、おそらくは正しいとされる物事を教えるものです。また、それは私たちが生きていくために、滅びないために満たさなければならない条件を教えている、とも言えます。そのため、私たちはその条件を満たすために絶えず判断し、どうすれば条件を満たす事が出来るかを考える必要があり、、その結果の繰り返しの果てに事象の終着点を迎え、滅びないで済む安定状態を手に入れる事が出来る、という事です。そこには努力義務が付随され、『勤勉たれ』という言葉で表されます」
そう言い、エールトヘンはお茶をもう一口含み、ローレンシアを見る。
ローレンシアは今日もウンウンと唸りブツブツと呟く。
それを見たエールトヘンは微笑みながら話しかける。
「さあ、勤勉たれ、です。次はダリアの淑女教育でしたか。
少し休憩してから次のカリキュラムへと進みましょう。
お嬢様なら直に分かりますよ。経験を積みながら、一つ一つ、定義と現実を一致させ、ずれを失くしていけば良いのです。
そう、淑女教育の一環ですが、女性の挨拶の方法として膝を曲げスカートを少し持ち上げる、という方法があります。これは正しくは作法としては『膝を曲げる』というのが正しい。ではなぜスカートを持ち上げるのかと言えば、膝を曲げ腰を落とした分、スカートの裾が地面につく。スカートが地面について汚れるのはマナーとしてよろしくない。ですのでスカートを持ち上げる。ではどれだけ持ち上げるかと言えば、元々のスカートの裾が足首の位置になるのでそこまで持ち上げる。持ち上げすぎて肌を晒すのはマナー違反になるのでそれ以上は持ち上げない。つまり、なぜ、何のためにするのか、という情報を知っているならスカートの持ち上げる高さが決まっている事が分かりますが、単に淑女の礼とは『膝を曲げスカートを持ち上げる』事だと教わっただけではその情報は消失しており分からない。もし礼がそれ以降も変わらずに絶対的なものであれば、知らなくても問題がないかも知れません。ですが状況が変わった場合に果たしてそれで良いのか、という事を考えた際にその消失している情報がなければ、状況に対応した方法が出来ない、という事になりかねません。足りない情報の分だけ失敗する可能性が生じ、賭けをしている事にもなります。さきほどの話はそういった事です。では休憩です」
その言葉にほっとしたローレンシアは『明日は知恵熱でお休みにして欲しい』と心の中で願うのだが、実際に熱を出さない限りはエールトヘンの優しい微笑みを裏切れないために明日も大変だろうなぁ、と考える。
そして後になってローレンシアは『はなさんかじいさん』の話がどうなったのか聞いていない事を思い出すがとりあえず触れないままでいようと思った。
はなさんかじいさんの中で、「灰を被る」とあります。
これは女性に対して行われる教書の中の表現です。
植物が病気になったり、挿し木をしたりする時に灰をつける、散布する事があります。
消毒の為です。
で、「灰を被る」という表現は「汚れたから消毒して綺麗にする」という事になり、
教書の中では、病気になったいとこの所へ一人で見舞いにいった女性がその場でレイプされ、誰にも言えないが伝えないといけないので灰を頭から被る、という動作をします。
今回の話はそれにちなんだものです。
普通に読んだら分かりませんが、そういった表現を知っていさえすれば裏側を読めたりします。
-->そのため、私たちはその条件を満たすために絶えず判断し、どうすれば条件を満たす事が出来るかを考える必要があり、、その結果の繰り返しの果てに事象の終着点を迎え、滅びないで済む安定状態を手に入れる事が出来る、という事です。
<--どこぞの洗脳ネタを含んだ「養女戦記」というもののアニメの中で、あえて言葉の与える印象を錯覚するように言っているものがありますがそのセリフの一つとして、
「主よ、信心なき輩に祖国が侵されるのを救い給え 遥かな道の果て、我らは約束された地に至らん」
の内、「遥かな道の果て、我らは約束された地に至らん」の部分を差します。




