S202 話がかみ合わない(2/3)
私達の社会は何度も崩壊し、勃興してきました。その度に何がダメだったのかを追求し、凡そのしてはならない物事を決め、ルールに盛り込み改善してきました。しかし私達の知性が高くなければ抽象概念を高度に理解出来ず、形で以て教える事になり、表現としての形はいくつかの概念を盛り込み、錯覚出来る可能性を排除し切れず、また、同じ形を成す別パターンの事象と区別を付けるにも高い知性が必要となり、また、形にしてもそれを受け容れ判断する者の価値観の精度により理解度が変わり、それが正しく理解されていないと分かるのは間違った時のみです。
そうした私達、個々人が自身は間違っていないと思いチャレンジアンドレスポンスし、間違っていても罰せられない為に正しいと思い込み、迷信や風習が与える価値観を根拠に正しいと肯定し、それらは地方や地域にローカライズされた価値観で行われ、大きな問題でなければ見過ごされ、しかし確実に誤差を生み、社会を保とうとする状態から逸脱させます。
そうならない為にも社会に属する者は社会の規模に相応しい客観的な価値観を身に付ける必要があり、それが出来ていなければいない程に故意や過失として間違う可能性を排除する為の対策が多く必要とされコストを増大させ、刑務所で収容可能数を超えたが為に囚人を監視出来ない状況と同じような状況に陥る可能性が高くなります。
知性が低く世界観が狭い者は利己的な価値観が強く、しかしそれが客観的に見て間違いであるかどうかを少ない情報と置かれた環境から本人自身が気づけず、無自覚に罪を重ねる場合がありますが、本人はそれが当然であるかの様に思い込み、認識の違いから他者がそれを指摘しても自身に非があるとは思わず、逆に他者を言い掛かりをつけてくるのだと錯覚する事があります。
しかしです。私達はそれぞれが自身の置かれた環境で経験を積み価値観を形成します。環境により得られる情報に偏りが生じその影響を受けて価値観も偏向します。また、個々人の知性の程度により得る情報量も違い、また得た情報からどれだけ情報を吸収出来るかも違い、それぞれの環境で凡そ同程度といった、場合により最低限の精度品質を満たした者同士という程度の繋がりで結ばれています。その違いがはっきり分かるのは元々繋がりのない地域の者同士でコミュニケーションを取った時ですが、現実には大小関係なくどこででも発生している事になります。結果として、互いに間違いではないが決して全てのパターンを考慮して取り決められた客観的な価値観を有しているとも言えない者同士の主張にはそれぞれにそれぞれが認識できていない問題などに対する瑕疵が存在し、無自覚なまま主張します。結果として、相手よりも大きな価値観でより客観的な視点で主張している者と互いの偏見とも言える同程度の価値観で主張している者との区別が付き辛く、そして自身の認識を超える価値観で判断されたものをより小さい認識を持つ価値観で判断しようにも、そのより大きな規模の価値観で判断するには未経験で基準が分からず、そしてなぜその様な価値観で判断しなければならないのかが分からず、単に今までの様に自身に都合の良い偏見を主張して利己的に都合の良い結果を欲しているのだと錯覚して、『今迄の自身と同じ様に』他者に要求を受け容れさせたいだけの言い掛かりだと思い込んで他者のより客観的な価値観から生じた主張を受け容れずに否定する場合があります。
主観において交渉を見た場合、より利己的に、自身から見て都合の良い様に解釈するならそれは単に、互いが互いに自身に都合の良い主張をして相手を黙らせて受け入れさせる、ものだと曲解出来てしまいます。そう解釈するかどうかはその本人の性質によるものですが、そう解釈出来てしまうという事でもあります。勿論、場合により、実際にそうした交渉ばかりが行われるならそれがさも当然の様に受け取られがちですが、結局はそれを肯定して得られるメリットとデメリットを天秤に掛けるとデメリットが大きければその方法は忌避される結果になります。形だけ真似て強引に交渉して強制的に取引したとすればそれはもう取引ではなく、基本的には『恐喝』や『搾取』、方法によっては『強盗』などに分類され、一般的に『交渉』や『取引』とは呼ばれません。
その違いは私達の主観が見る形だけには反映されません。
例えばです。火事になり延焼を防ぐためにその家屋の周囲の家屋を取り壊したとします。周囲の家屋を壊す事で大火事に成るのを防ぐのが目的ですが、その知識を持たない者が見ればどう映るでしょう。その様な者の目から見れば単に家屋を破壊しているだけに見えます。或いは火事の混乱に乗じて家屋を破壊している様に見えるでしょう。もしこの知識を持たず知性の低い者が自らの主観のみで判断したとして、その者が壊された家屋の住人であれば訳も分からず自身の住処を壊されたと思い込み、逆恨みするでしょう。その者から見て家屋を壊す理由が、壊す者の気分や壊された本人への攻撃以外を思い浮かばないからです。
もしその家屋を壊された者が善良であり、かつ社会の中でそれなりに経験を積んでおり、社会との関係も良好ならば『自身には分からないが何か理由があるのだろう』とそれまでの信頼関係を基に判断するかも知れません。しかし知性が足りなければその様に思う事もなく、自身の持つ価値観から判断し、先ほどの様な、家屋を壊した者がその者の利己的な考えで実行したのだと思い、恨みに思うでしょう。
例えばです。ある土地が先に定住した遊牧民族のものだったとして、後から別の民族が来たとします。後から来た民族は土地が空いていると思って定住しようとしますが先に定住した遊牧民族には必要な土地で分け与えるだけの余裕がない場合、後から来た民族を追い払おうとするでしょう。しかし後から来た民族は遊牧民族が多くの土地を必要とするのを知らなければ単に近くの村を襲い焼き討ちする攻撃的な者達と思い込み対立するでしょう。この場合、先住者の生活に必要な領域に勝手に入り込んだ民族に非があるのですが、その理由に思い至れないのであれば、先住する民族も、後から来た民族も、互いに自らの生活する為に必要な土地を守る為に対立出来てしまいます。こういった時、互いにコミュニケーションを取る手段がない、言葉が通じないなどの要因が更に事態を悪化させます。また、後から来た民族がその土地を手に入れなければ破滅するしかないとして、先住する民族の主張を受け入れるかとなると、あえて自身達の主張が正しいのだと思い込んで、錯覚して生き残ろうとする可能性があります。
ここで火事の例えに焦点を当てます。火事の延焼を防ぐ為に周囲の家屋を壊したとします。その状況だけではそこに本来ある正当性を証明する事が出来ません。ですが、この状況をもう少し限定して見てみましょう。
対象とするのを行為者に限定してみましょう。すると行為者は体を動かしているだけに成ります。これでは運動しているだけで、行為としてはそれ以上の認識が出来ません。勿論体を動かすのにも種類がありますが、ここでいう『家屋を壊す』という行為にはどうやっても結びつきません。これは概念を適用しようとして対象と対象以外を分ける際に限定する範囲が適切ではないからです。
では次に『家屋を壊す』という行為を行っている者が家屋を壊すために棒を持っていたとします。棒を対象とする行為と棒を用いて自身の表現を拡張して行う行為とがあり、棒を用いて自身の表現を拡張する場合は行為者と棒とを一体のものであると認識して定義します。この時、自身の表現の一部として取り込む際に、そこに自身の望まない行為に繋がる概念を含まない為には、取り込むものを意のままに操れる事、そして起こり得る結果から自身が他者に意図しない行為を認識させてしまわない事、それはつまり経験を積むか経験を基に推論出来る様になるかのどちらかで自身の行為を客観的に判断出来る様になる事が必要とされます。
もし意のままに操れない場合は行為者の意図しない行為に繋がり、過失を生じさせます。棒を操って叩こうとしたが棒が手からすっぽ抜けてどこかに飛んでいき、ものを壊したり他者に当たり怪我をさせるといった可能性が出てきます。行為を拡張する事でメリットが得られる反面、デメリットも生じているのです。
ではメリットはどういったものでしょうか。棒を扱う事で自身の行為が拡張されます。棒が長ければ自身の手の届かない所に棒が届いてその場所にあるものに干渉し『行為出来る』様になります。また。同じとされる行為に複数の表現が生まれます。『叩く』という行為は以前は『手で』叩くだけでしたが、棒を行為の表現に加える事で『棒で』叩くという表現が生まれます。そしてこの2点からそもそも『叩く』とはどういったものなのかを精度を上げて追求出来る様になり、『叩く』とは『手を用いて他物にぶつける』行為ではなく『自身の操れるものを用いて他物にぶつける』ものだという認識に変わっていきます。ここから更に扱うものの種類が増えれば、得られる結果の違いから行為を分け、『斬る』、『打つ』、『突く』などを定義する様になります。そして多くの結果から『叩く』という行為がより抽象概念に近づけば、以前には『叩く』と表現しなかったものもその事象の特徴的な部分を焦点として適用される様になり、『足を叩きつける』、『札束を叩きつける』などの表現が生まれます。
このデメリットとしては『叩く』が色々な表現を持つ様になり、『叩く』という言葉だけでは正確に伝わらなくなる場合があり、それを悪用して錯覚させるという不正行為が起こる事、または、過失として錯覚して間違った解釈をしてしまう可能性が出てくる事です。『棒で叩く』、『手で叩く』といったものが全て『叩く』という表現で集約されてしまい、『叩く』と言っただけではどう叩くのか分からなくなっていきます。
そして私達は不足していく資源を得る為に競争し、効率を求めていきます。競争するといかに早く達成するかに重点が置かれる様になり、省けるものは省こうとします。誰かとコミュニケーションする時に『手で叩く』と『叩く』では伝える速さが違い、勝負に勝つためには『叩く』で『手で叩く』を伝えた事にする必要が出てきたりします。そうなるとコミュニケーションに用いた言葉以外の部分、つまりは『叩く』という言葉としての対象以外の部分で、『叩く』が『手で叩く』を一意に表現している様にする必要があります。
その際、これまでの経験からそう伝わる様にするのも方法であり、また、棒自体をその環境から取り除いてしまえば『叩く』を『棒で叩く』と誤認識しても棒が無い為に実行出来ず、間違いが起こらない上にそれ以外の『叩く』行動を選ぼうとして期待する行動を取らせる方法もあります。この前者も後者も最終的には言葉を受け取った側の判断で最終的に望む結果になるかに繋がりますが、この例の様に、環境の状態を含めて行為を一意に認識させる方法があり、私達はその状態が維持されているかを自身で判断しながらコミュニケーションする必要があります。また、それは同時に環境の状態次第ではこれまでの慣習などの共通認識があっても行為を一意に認識出来ない事も表します。また、それを悪用して意図的に間違いながらも過失だと主張しようとする不正行為も生じさせます。
例えば棒が壊れかけており棒で叩いたと同時に折れてしまったら行為者の目的は達成出来ず、行為としては『叩いた』として成功しても望む結果が得られないので目的としては失敗になります。叩く事自体が目的であるなら成功ではあります。では『棒で叩く』が妥当とされる目的を果たすと成功ですが、その成功した結果を欲していない時に、あえて意図的に壊れかけた棒を用いて『棒で叩く』行為をして棒が壊れる事で妥当とされる目的を達成出来ないようにして、本来の自身が望む結果を手に入れようとする場合があります。
例えば誰かに他者を『棒で叩く』事を強要され、しかし自身は棒で叩きたくなく、叩いた場合にその他者が大きな怪我をするのを欲しない場合、壊れかけた棒或いは壊れる様に細工した棒で他者を『棒で叩いて』、強要された指示は達成し、かつ叩いた他者に大きなけがを負わせる事態を防ぐ、という場合があります。この時、『棒で叩く』行為であっても、目的が変わっており成否の判断も変わっている事に注意してください。前提条件が変わる、或いは環境が変わる事で、表現としての形である行動はそこに含まれる概念を変えてしまい、形だけを真似ても行為は常に一意に決定出来ません。
この場合、『棒で叩く』は『他者を害する』為の一表現であり、目的とする行為を行う為の部品として『棒で叩く』という行為行動が行われています。『他者を害する』という行為を達成出来る行動を表す行為として『棒で叩く』が選択されています。『棒で叩く』事が成功したからと言ってそれが『正しい』事になるわけではない事に注意してください。自身がそれを認識していなくともそこに他物を加えた状態を含めて既に行為が識別されている状況では『棒で叩く』が他の概念により取り決められたルールに抵触しないという条件が付加され、それは社会のルールという前提条件から生じ、その場の形だけで正当性を判断する事が出来ない事を示します。
元々が全ての概念を私達が空間上に一意に表現出来ない事から時間軸上に手続きとして表現する様に拡張する事で全てではなくとも多くの概念を一意に表現する方法を得て、行為を一意に識別しようとします。問題の起こる行為は他の行為と混同されない様に区別される様に様式が決められ、利便性において問題にならない限りは分けられますが、利便性において精密な手続きや表現方法を行うのが問題になる場合には多少の混同もその状況での判断が出来るのであれば区別されずに残され、それを悪用する者が出てきますが割愛します。
手続きとして分けられた行為はその一部の形だけを見て明確に実行している行為を識別出来ず、目的を達成する為の行為に含まれる部品として形に見える行為のみを識別できる場合がほとんどです。それらを見て何の行為を行おうとしているのかは推測出来ますが、確実ではなく、そして、同じ形に見える行為を含む別の行為とそれだけではどの行為を行っているのかの識別は出来ません。つまり2つの行為があり、そのどちらも手続きとしてある様式を取り形が同じであるなら、その形を見るだけではどちらの行為であるかは分かりません。
また、多くの事象を基にして問題が発生しない様に集約してルールを取り決め、その多くの派生パターンに対処出来るルールを基にして行為が発生した場合、なぜそのルールでなぜその行為になるかの根拠をその時に発生している事象だけで特定出来ません。
こうして特定の行為は、状況を判断する者の経験により得られた知識か知性を伸ばして得た知識を基に判断するのが前提になり、それが出来る様になって初めて常識を身に付けたと言われる様になります。勿論、特定分野や専門分野については別ですが、それでもその分野内においてはある行為があればこういった解釈をする、という暗黙の了解の様なものが出来上がり、それを当然の様に判断出来て初めて1人前と言った様になっていく事もあります。
しかし経験で以て知識を得る、例えばある行為を見て、それが何か分からずに他者に教えて貰う場合、理由を教えず結果だけを、形だけを教える時があり、その者の知性が低ければ教えた貰った形だけを真似ていれば欲しい結果は得られるのでそれ以上の追求をしなくなります。教えた側はとりあえず問題が発生しない様にして、そこから経験を積みながら理由を知り、自身で知性を高めて更に追求して、なぜ教えた様な形に、様式になっているのかをその根拠を覚えてこれから発生する状況に適切に対処出来る様判断能力を得て貰う意図があったりもしますが、それを怠った場合、問題が発生します。
私達はその場の状況を見て対象と対象以外に分けて概念を識別し行為を識別します。例えば『手を上げる』行為行動をしたとします。この時、『手を上げる』という行動がどの行為を表現したものかを認識しようとしますが、そこに関連あるものとして部屋の隅に花瓶があると仮定しその花瓶やまた、テーブルの上に小道具があったとしてその小道具などを認識する対象に含める事はないでしょう。勿論、それが『手を上げる』という行為に関連するものならば対象として認識するのも間違いではありませんが、『手を上げる』行為として認識するのに関連するものではありませんから、関連付けて対象の一部として認識する事はないでしょう。
この様に対象と対象以外を分けて行為を認識し、対象以外に花瓶やテーブルの上の小道具を含んで行為を認識するのに必要なものだけに焦点を当てて情報を限定しますが、もし『手を上げる』が『手で叩く』という行為の表現の一部であったとすればどうでしょうか。私達は『手を上げる』段階ではその形だけを見て行為として認識します。ここでは『手を上げる』です。しかしそれは別の行為の表現の一部として組み込まれる場合が多く、単体で使われる事はほぼありません。何かの目的を達成する為に、欲しい結果を得る為に行為しその表現として行動するのですから『手を上げる』だけでは目的を達成できる事は稀であり、そこから派生する行動を推測します。
もし、単に体をほぐす為に背筋を伸ばし『手を上げる』のであればそれで目的は達成し、それ以上の何もありません。しかしそこから手を振り下し『手で叩く』行為に移行する可能性があります。そうすると行為を認識する対象が行為者と叩かれる対象物となり、概念を適用する対象となるものが増えます。また、『手を上げる』という行為自体が何かのサインであり、それだけで意味を持つ場合があります。例えば、テーブルと言ったものが机であり、そこが教室であり、丁度授業中であったとするなら、『手を上げる』行為をして質問がある事を告げるサインとして使用出来、意味を持つ様になります。この時、他の行動と区別を付ける為に『手を挙げる』などの表現を用いて何をしようとしているのかを分かり易く伝える定義が行われます。
そして、『手を挙げる』という行為を知っている者は、例えそこが教室の様な『手を挙げる』行為が意味を持つ限定された環境でなくとも、その方法によってコミュニケーションを取ろうとする事もあり、また、それを知る者は教室でなくとも、挙手するという行為により何か質問がある、何か発現したい、という意思表示として受け取ろうとします。ですが同時にそれは見た者、観測者のそれまでの経験により推測した判断であり、時に違う行為が行われている場合があります。一部の者の間で『手を挙げる』に別の意味を持たせ、他者がその取り決めを知らないのならその行為により伝わる情報が分からず、そうやって限定された者同士でコミュニケーションを取る事が出来ますがここでは割愛します。
『手を上げる』という行動をして表現した段階で、私達はそれが大抵は行為を完成させていないと認識して次の行動を待ちます。そこから派生する行為の中で注意しなければならない、例えばその手を振り下して叩いて来て加害するなどの行為を重点に意識して対処出来る様に準備しながら、そして背伸びしたり腕を必要以上に延ばして筋肉をほぐしていないと認識したならそれが『体をほぐすために手を上げたのではない』と該当しない行為を認識から除外し、残る選択肢のどれになるかを注視します。
ここでは『手で叩く』行為を行為者が選び、そしてその対象をテーブルにした場合を考えます。行為者は手を上げてから手をテーブルに振り下して『手で叩く』表現します。この時、それを見る観測者が近くに居たとして、実際にテーブルを『手で叩く』までは対象がテーブルであるかどうかを注意する事になります。観測者がテーブルを挟んで真正面に居る場合、行為者が体を前傾させれば観測者に手が届くのであれば、それは『他者を手で叩く』或いは『観測者を手で叩く』行為になり、観測者が加害されない様に注意するべき行為になる為、実際にテーブルを叩くか最早そこからはテーブルを叩くしか選択はない、という状況になるまでは認識内に留め置き、結果で以て行為が『テーブルを手で叩く』ものであったと結論付けます。
ではこの時、『テーブルを手で叩く』行為だけで目的は達成されたでしょうか。鬱憤を晴らしたいが為に何かを叩きたかった、というなら行為はそれで完結しています。しかしそれだけの為に『テーブルで手を叩く』という行為が行われる事はありません。大きな音を立てて脅す、それだけの力があると見せつける、或いは音を立てて注意を向けさせる、或いはテーブルの上に実は虫が居て殺したかった、『叩く』という分類には入るが力任せではなく、テーブルの上にある物を誰よりも早く取りたかったから『叩く』という表現に近い行動を取った、など。テーブルを叩いただけでも、そこにある状況次第で意味が変わってしまい、『テーブルで手を叩く』という行動表現の持つ行為としての意味は、観測者の判断能力に委ねられます。
ここではあえて観測者が自身に都合の良い様に解釈して意図的に事実を捻じ曲げる場合があるのを割愛します。
例えば、『テーブルの上の虫を叩く』行為をしたつもりの行為者を見る観測者がテーブルの上の虫を認識できていなかったとしましょう。観測者は『虫が居た』という情報を持たないのですから、その情報がない状態で行為者の行為を推論する事になります。その場合、大きな音を立てて注意を向けさせる、或いは大きな音を立てて脅す、と言う様な判断をするでしょう。場合により、何かを急かす際にテーブルなどを叩く者や機嫌が良い時に何かを叩いてリズムを取る者が居り、それと同じかと判断しようとするかも知れませんが、より過去の経験や得た知識に良く一致するものを優先して判断材料にして行為者の行為を推測しようとします。
また、行為者が観測者を脅したい為に、テーブルに虫が居た事にしてテーブルを大きな音が出る様に叩く場合もありますがここでは割愛します。
この様に、行為者と観測者が居たとして、行為を一意に識別する為に必要な情報が両者になければ行為者の行為は観測者に正しく伝わりません。行為者は行為が一意に識別出来るだけの情報を持つ様に行為しなければ他の行為と混同される可能性があり、観測者は行為者が行いたい行為を識別できるだけの情報が得られなければ正しい識別が出来ません。私達はそれをどちらかの知性で補ってコミュニケーションを取るのですが、そこに起こる認識の差、例えば大抵において恐らくそうだろうという行為だと判断しますが、あえてその錯覚を利用して観測者を騙す方法があり、出来る限り、相手に錯覚させない様に行為を行う必要が出てきます。コミュニケーションは、能動者が相手に誤解を与えないように行い、それを受動者があえて誤解しようとしない場合にのみ成立するものであり、楽観的にどうにかなると考えて行って良いものではありません。互いの善意で足りない情報を補う限り、そこに意図的に錯覚させようとする悪意が加えられる可能性を排除出来ず、争いの元になります。
私達の行う行為は私達の生存できる状態を維持する為にあります。維持する為の条件が多々あり、それらを同時に成立させなければ目的である生存出来る状態を維持出来ません。人間は死んでから蘇る事など決して出来ませんので、死ぬ程の変化を受け入れられず、その為に制限が生じ、自身がどれだけ自由を望もうとその制限を発生させている根拠が変わらない限り制限を外せません。
人間は生存できる状態を維持する為に死なない範囲でしか自由に選択出来ないのです。以前にも言いましたが、私達はこの宇宙に存在し惑星に住み、たんぱく質から構成された肉体を持ちます。私達は私達を構成する要素が変わらない限り、この制限から逃れられずその制限の中で生存出来る状態を維持する為に必要不可欠な行為を要求されます。
何もしなくても死なないのであれば私達は食事を取る必要もありませんが、そもそもが私達の意思とは、多くの分岐された状態変化の中から一つの方向性を示した性質が生まれ、その性質を繰り返す内に一定の状態を保つ機会が多くなり、状態を保てる性質から派生した行為行動の内で状態を保つのに成功した行為行動を繰り返してその性質を強めた個体が世代継承し、状態を保つ為に有利になる行為行動を取る個体が成功体験を積み重ねる事で成功し状態を保つ事が出来た行為行動をある種の感覚を持ち、状態を保てなくなる行為行動をある種の感覚を持たないと感じて、より状態を保つ行為行動をし続けられたものが残り、その他が淘汰される事によって状態を保つ行為行動に一定の重み付をして行為行動が淘汰されていきます。
私達に当てはめれば、生命の原初においてある種の行為行動を取った個体が生という状態を保つ事に成功し、失敗した個体は淘汰され、成功した個体のみがまた行為行動を繰り返す内にまた失敗する個体が淘汰され、そうしてある種の行為行動を優先して取り続ける性質を持つ様になり、やがて
今の私達という多細胞生物であり高等生物をされる存在が持つ感情とは言えない程の未分化な重み付をし、生という状態を保つ為に必要かは分からないが生という状態を保つ為の行為行動に特定の重み付をし、生という状態を保てない行為行動に別の重み付をし、生き残った個体は生という状態を保つ行為行動を今の私達の感情で言う『気持ち良い』という感覚を得、生という状態を保てない行為行動よりも優先して行い、『気持ち良い』という感覚を得られない行為行動をより行う個体から淘汰された結果、『気持ち良い』という感覚を得られる行為行動を優先して取り続ける個体のみが生き残る事によって、『快感原則』という性質を持つようになっていきます。
快感原則に則り、生という状態を保てる行為行動を優先し、生という状態を保てない行為行動を忌避して生きる私達は、その状態を保つ為に必要な条件から逃れられません。無い状態を有る状態へと保つには、混沌とした状態から特定の法則を持った整然とした状態を保つにはそうなるだけの条件が必要であり、世界が流動するのであればそれを維持するエネルギーが必要です。私達はたんぱく質からなる肉体を保つ為にエネルギーを必要とし、『食べる』という行為、他の有機物を体内に取り入れて自身の肉体の材料にするという行為により自身の体の細胞を入れ替えて自身の意識を、自身の生を保とうとします。これは私達の成立根拠からして逃れられない制限です。
一方で私達は生という状態を保つ為に他の有機物を取り入れる過程で争い、やがて生存リスクが高すぎる為に同種と言える様な存在同士での争いを避ける様になり、生存する為には同種或いは近縁種での争いは避けるべきだと気づき、『食べる対象』から外します。そうして『生』を繰り返す中で、同種や近縁種以外も同様に『生きている』と認識します。
しかし私達が競争し効率を求めると穀物などから肉体へと変換するよりも他生物の肉を直接取り入れた方が効率が良く、また快感原則からより効率が良く生の状態を保ちやすい『気持ち良い』選択を取り続けようとしますが、私達はその生の状態を保つ為に同種や近縁種をその対象から外し、自身の『生』を認識する事により、他生物もまた『生きている』と認識し、他生物の『生』を保てない様にする事でしか自身の『生』を保つ事が出来ないと認識するが、『生』という状態を保つ為には他生物に危害を加えない事が自身の『生』を保つ為に必要だという矛盾を抱える事になります。
これらの自身の存在を維持する為の状態を保つ為に行わなければならない自身が受け容れた禁則事項を違反する形で生じる行為を『罪』の中でも『原罪』と呼び、避けられない罪と定義されます。
その原罪には『見る事』、『聞く事』、『嗅ぐ事』、『触る事』、『味わう事』、つまりは五感も含まれ、それは私達が錯覚する生き物である前提条件から導かれ、なぜ錯覚するのかは私達が全知存在ではないからです。そして私達が『生』の苦しみから逃れようと、気持ちよくなろうとする中で、自身が苦しまない為に他者を苦しめるのも間違いだと気づき、互いに互いの権利を認め合おうとする過程で多くの概念を作り出して、表現である行動に行為としての意味を持たせるからです。
最も錯覚しにくいのは最も未分化な状態の時と言え、それは獣同然の時で、そこに多くの概念は多重に定義されておらず、シンプルでそれだけ間違いにくいですが、正当なものと不正なものの区別が付かず、いつまでも争い続け苦しみから逃れられない為に私達はより精度を高めて分化して行動を分析し行為を定義します。定義した行為を認識出来なければ定義した行為により分化した違いが分からずに争いを起こし、痛みを覚えて定義した行為の違いを認識し、それを繰り返しながら、行動を行わずとも行為の違いを認識出来る様に経験を積み重ねていきます。
ある程度のチャレンジアンドレスポンスを繰り返した結果、行動に含まれる要素となる概念に重み付をして、似た事例に対して同じ様な判断が出来る様になっていきます。また、多くの事例の違いから差分を得て、より状況を判断する能力を得ようとする、判断出来る知識を得ようとする性質が培われ、『知性』として身に付けていきます。
社会には知性の程度の違う者が存在し、同じ集団内で長い期間をかけて互いの認識を擦り合わせないと知性の高さも認識も違うままに共存する事になります。かつて快感原則に則り性質を強めて行為行動を収束させてきたとしても、現状に合わせた最も適応できる行為行動が何か模索する上で選択に幅が出来、結果として性質を強める者と弱める者が現れ、生き残る者と淘汰される者に分かれていきます。
しかし私達は全知存在ではありません。現在行おうとする生き残る為に最善の行為行動が本当に正しいのかも分からず、過去の実績から『およそそうだろう』と認識しているに過ぎません。
例えば、もしそれが陸か船かの区別が付かず船に乗り込んだ鼠が沈没する船から逃げようとして海に飛び込むのと同じだとするなら、自身が生存の為の行動だと思っているものも自滅行動でしかありません。もし船が確実に沈没するならその自滅行動を避けるには、自滅行動を取る段階であれば、現状を正しく認識して海に飛び込むのは自滅にしかならない事を知る知性が必要で、更に言ってしまえば、まず船に乗らなければ、それまでの生存に繋がるとされた行為行動もこれまでと同じ様に有効なものとして実行出来ます。船に乗らなければ良いのであるとするなら、まず船を認識して『陸から遠く離れるもの』だと認識する必要があります。
知性が低ければ事前に概念を手に入れる事も出来ず知識を手に入れる事も出来ず『陸から遠く離れるもの』を認識出来ずにチャレンジアンドレスポンスによる経験でしか違いを知る事が出来ません。しかし実際に陸から船に移る段階は、自滅行動を取るしかない問題が発生する時とは違う場合が大半で、知性が低ければ何が悪かったのかを知る事もなく、かなり前に自身の気づかぬうちにリスクを受け容れてしまっているのが分からずに、現状で自身の持ち得る選択肢を自身の持つ判断能力で選択して行為行動しようとして結局は生き残れる選択が出来ないままにそこに可能性自体がないにもかかわらず可能性に賭ける事になります。これは知性が低いために現状の認識が出来ず、自身の狭い世界観で行動を強いられるからです。鼠の認識として水に飛び込んですこし泳げば生き残れるという認識しか持たず、池の様なものか海の様なものかの違いを認識できていないからこそ行動出来てしまいます。これは知性が低いためにチャレンジアンドレスポンスの結果として生き残った個体が経験として蓄積した情報を元に判断しているからです。
では船の沈没が港などの陸と繋がっているか陸に近い所で起きたとして、チャレンジアンドレスポンスで生き残った鼠が経験を積んだとします。やがて『溺れる事のない』陸と『溺れる事のある』船の違いを把握出来たとして、船が沈没するかどうかは鼠が制御している要因ではないので鼠にとってはいつ起こるか分からない事象です。鼠が陸から遠く離れた海で溺死する可能性を減らすにはそもそもが『船に乗らない』のが一番良く、『陸』と『船』の違いが認識出来るなら『船に乗らない』という選択が選べるようになり、生存リスクを下げる事が出来ます。ですが『陸』と『船』の違いを認識出来たとして、『船に乗らない』という選択をするのが自身のリスクを下げる結果に繋がるかを知性が低ければ『溺れる可能性がある』という推測に繋がらず有効に活用出来ません。その推測が出来なければやはり『陸』と『船』の違いが分かったとしても船に乗り込んでしまい、リスクを抱えたまま沈没する船と共に死ぬ結果を避けられず、死ぬかどうかは船が沈没するかどうかという自身では制御出来ない要因に依存する事になります。
しかし、知性を得て『船に乗らない』、或いはチャレンジアンドレスポンスの結果として『船に乗らない』結果、溺死する事なく生き残った個体が優勢になり数を増やし、その中からまた『船に乗らない』という選択をした個体が生き残りながらその性質を強めたとして、知性により得られた性質ではなく、経験則によって得られた性質である為、同種の問題に対して同様のアプローチをする事でしか問題は解決出来ず、知性を高めて概念を知り推測して同種の問題を解決する事が出来ず、また生死を賭けたチャレンジアンドレスポンスを実行する事になります。結果的には生き残る個体が出て来て性質を強めたとしても、よりリスクを回避する為には非効率極まりなく、そしていつか失敗して死に絶えてしまうでしょう。
それを避けるため、或いは最終的にはいずれ破滅するにしてもそれまでの時間を長くする為に知性を高めて事前に推測する様になる必要が出てきます。その為にはチャレンジアンドレスポンスの結果を分析し違いを把握し情報を得て現状認識が出来る判断能力を得る必要があります。そして違いを分析し情報を得て判断能力を身に付けたとしても、既に失敗して取返しが付かないのなら意味はなく、事前にその能力を得る為に知ろうとする性質、知性を高めなければなりません。
ですが知性が足りず快楽を優先する場合、チャレンジアンドレスポンスの結果で成功したならそれで良いからそれ以上考えない為に、どれだけ経験を積んでも、回数を重ねても行った行動から情報を得ずに判断能力が身に付かない場合があります。この場合、そもそも概念が足りないかもしくは精神的に他者に依存して自身ではそれ以上何も考えなくとも良いと考えているかのどちらかの場合が多く、前者なら経験が足りないか普段からの思考が足りない事になり、後者ならまだ自律行動を取れるだけの精神の成長を迎えていない事になりますがここでは一旦取り上げません。
鼠が『船に乗らない』選択をして生存リスクを下げようとしてもそれだけで確実に『船に乗らない』行動が出来るわけではありません。なぜなら鼠にとって環境とは制御出来ないものであり、多くの要因に依存しています。ネズミより強者は多く居り捕食対象になりやすく、また、それ故に食糧が手に入りにくく、鼠にとっての良い環境というのは中々ありません。その中で同種の生存競争に勝ち抜いた個体だけが強者が少なく食糧を手に入れられる環境に居残る事が出来、敗者はリスクの高い場所へと追いやられます。強者が多い場所に行って食糧を手に入れようとするか強者が少ないが同時に食糧も少ない場所でまた生存競争をするかの選択に迫られ、やがて、その内の1体が飢えに耐えられずに船に乗る様になり、食糧を得て生き残る事で『船に乗らない』という性質を薄れさせます。
これは主に、『船に乗らない』という性質を強めたのが、知性を高めて判断能力を得たからではなく、チャレンジアンドレスポンスの結果として経験により得たものが原因だからです。『船に乗らない』選択をした個体が生き残り、『船の乗る』選択をした個体が死に絶えたととして、結果的に『船に乗らない』選択をする性質を有する個体が生き残ったが為に性質として持っていただけで、他の優先事項を満たす、ここでは生存する為の条件を満たす為に、飢えを満たす為にあえて忌避していた船にまでテリトリーを拡げるチャレンジアンドレスポンスをして生き残ろうとするのを止める事が出来ません。
勿論、この過程には『忘れる』という要因も影響します。戒律やルールを覚えていようと日々の中で繰り返すなどの対処をしないなら経験により覚えているものはその経験を得られなくなる事でいずれ忘れてしまいます。私達は環境に適応しようとして不要な情報を削除し優先する情報をより多く覚えて居ようとするからです。
そうして『船に乗らない』という選択をする為の根拠部分が薄れ、例えるなら閾値を超えるとアラートがなる場合に想定出来るリスクが閾値を下回る結果としてアラートが鳴らない様に、行って良い行動だと認識する様になり、いずれまた『船に乗る』選択をしようとします。
これは知性を得て判断能力を身に付けて『船に乗らない』という選択をする個体も避けられないものです。無自覚か自覚かの違いはあり、自覚出来る時点で無自覚よりも『船に乗らない』という選択を取り続けようとする事は出来ますが、環境の悪化に伴い船に乗る事で活路を見出さないと生き残れないとするなら、その状況に追い込まれた個体の中で一部がやがてリスクを承知で船に乗る選択を遅かれ早かれする様になるでしょう。
ですが、この過去の失敗例の繰り返しでも稀に成功へと繋がり、新たな可能性として変化する事があります。
例えば、この鼠の例では船に乗らない鼠程、生き残り易いという様に解釈出来ていますが、これは古い時代に船が安全に航海するのが難しかった前提になっています。その時代から進んで、造船技術が発達すると簡単には難破したり沈没しなくなっていきます。船という閉鎖空間において食糧を確保する難しさと人間に排除される危険性は変わりませんがそれでもリスクは減り、船という新たな空間に適応出来れば、『船に乗らない』という性質を強めた個体よりも可能性の面で選択肢に幅が出来、生き残り易くなる可能性があり、もしかすると個体として優勢になる可能性が出て来て、それまでの同種の価値観の基準が変わり、生存し易い個体、つまりは数を増やしやすい個体、同種の中で大多数を占める個体になるかも知れません。
この様に、個体の行為行動はそれ自体の認識だけで行為の結果は決まらず、環境と対になり初めて結果が確定します。行為が行為者の期待通りの結果になるのは環境が成功体験を得た時と同じ状況である時のみです。環境が変わってしまえば当然それまでの行為の結果は変わる可能性があり、期待した通りの結果になるかは環境が違えば違う程に博打の様になっていきます。
話を少し戻しまして、火事の際に延焼を防ぐ為に周囲の家屋を破壊する場合を考えます。行為者が棒状のものを振り回して家屋を破壊している状況を見ると、その個人のみを見ると棒を持って暴れ回っているだけになります。そこに行為の対象物となるものを付け加える事で初めて『何かものを破壊している』と認識出来る様になります。ですがこの時点でもまだその行為の正当性があるかどうかは分かりません。壊そうとするものが自身の所有物なら正当性はあるかも知れません。また、その空間が凶器を振り回してはいけないというルールがない場所なのかも分かりません。
正当性とは自身の参加する集団内で起こり得る問題に対処する為に取り決められるものであり、そこで発生する諸所の問題に対応する為のものですから全ての禁則事項はその状況の中に存在していない可能性の方が高くなります。ただ1人だけのルールなら武器や凶器を振り回してはいけない場所というのは定義しなくて良い筈です。自身が自身の判断で振り回すかを決めれば良いだけだからです。
しかし他者との利害関係が発生する集団内での行動としては、他者を容易に加害出来る状況を作り出すわけにもいかず、容易に武器を振り回せない様にルールを決める必要が出てきます。
そうして、社会の中で行って良い行為かどうかが決まる為、個人の主観から始まる価値観の中に、なぜそうルールが取り決められているかは小さい世界観では入っていません。自身の行為を行おうとする環境、そして他者との関係に焦点を当てる事でようやく、自身の利己益からなる価値観による行為が、自身の存在する集団内で適した行為になっていきます。
これを集団内で生活する事で自身が行ったり他者が行ったのを見た経験により、培っていくのか、それとも知性を高めて事前に知る事で得ていくのかの違いはあれど、最終的には自身の行為が集団内でどの様に認識されるかを判断出来る様になっていきます。ここでは力でもって強引に他者に自身の価値観を押し付けて受け入れさせる事で自身は集団から何も強制されずに自身の利己的な価値観のままに行為し続けられる可能性があるのについては割愛します。
では『何かものを破壊している』行為だと他者が認識したとしましょう。それが行為者の所有物ならだれも批判はしないかも知れません。ここでは行為するべき場所に相応しくない、或いは行為の表現が相応しくない、などのパターンは考慮しません。
しかし行為者の所有物ではないものだとすればどうでしょう。それだけではまだ明確に特定出来ません。誰の所有物でもないものを破壊してもそこに別の概念を加えなければ違反行為にならないかも知れません。別な概念とは脅迫の為にあえて目の前でものを壊すなどの示威行為や威嚇行為などがあります。
ですが所有物が他者、この場合は観測者の所有物だったとすればどうでしょうか。この時点で行為者と観測者は利害関係にあり、また、集団内の取り決めでは他者の所有物を理由なく破壊する事は犯罪行為に該当する筈であり、行為者の行為は違反行為、犯罪行為になり観測者にとっては止めさせたい行為になります。
ですが、ここに被害拡大を防止する為に、延焼を阻止する為に、延焼する恐れのあるものを取り除く、という目的が加わったとします。その根拠は延焼を防げなければ集団内に大きな損害を発生させ集団自体が危機に晒される可能性があり、それと比較するならいくつかの個人の所有物を壊す損害は軽微であり、集団に属する者は集団を維持する為にそれを容認する前提になっている、というものが存在する筈です。
こうして個人だけを見れば『体を動かしている』から他物を操り『棒を持って振り回している』へとなり、更に他物を対象に加えて『棒を持ってものを壊している』、多々のパターンから生じたチャレンジアンドレスポンスの結果から導き出した対策を加えて『火事の延焼を防ぐために家屋を壊している』という、多重に概念が定義された状態が出来上がります。
ではこの中のどれが適当かとなると、ここに私達の快感原則に則った性質である『人は見たいものを見る』というものが影響します。
それが集団内の取り決めだとしても家屋を壊された者にとっては損害であり、それを補うのにも大きな苦労が発生します。その苦労を避けようとするならあえてその行為を『棒を持って家屋を壊している』という部分だけに焦点を当て、『所有物を壊したのだから弁償しろ』と主張するかも知れません。
また、知性が低く、また知能の低い者にとっては『火事の延焼を防ぐために家屋を壊している』という事が分からず、自身の持ち得る情報から判断して『棒を持って家屋を壊している』、自身の生活を脅かす行為をしている、と認識するかも知れません。知性の低い者から知性の高い者の行為を見た場合、或いは子供から大人の行為を見た場合、この様な見え方をする可能性があります。また、逆に、判断を見誤り、利己的に行為している者を社会的行為していると錯覚する事もあります。また、そうやって錯覚させようと悪用する場合もあります。
この例でもわかる様に、『棒を持ってものを壊している』という形だけに見える行為も、その置かれる状況次第で犯罪行為になったり正当性のある社会的行為になったりします。
ここでは、『火事の延焼を防ぐために周囲の家屋を壊す必要がある』から『火事の延焼を防ぐために周囲の家屋を壊して良い』と考え、火事を起こし特定の壊したい家屋を壊すという悪用方法などは割愛します。
行為とは社会が高度になり複雑になるにつれ、行為が発生する状況だけでなくそれを含めた環境の状態を考慮する必要が出てきます。言い方を変えるなら行為とはその行為を定義した集団の規模までを対象として識別するものであるという事です。
行為は手続きとして時間軸上に、物質を存在させる理由から空間軸上に定義され、状況に合わせて形式が変化します。遅延した場合の手続きの変化や早くする為の簡略化、手続きに関わる場所の変更や行為の場所の変更など、社会の中で定義される行為は社会の規模と概念の発展度によって変化していきます。
先程の例にもある様に、『棒でものを破壊する』というものが、その周囲状況が火災現場で破壊対象が延焼する可能性のある家屋に限定されたならばその破壊行為は正当性を有する社会的行為に変わる事から分かる様に、行為とは発生する状況次第で含まれる概念が変わりますがそれは唐突に何の脈絡もなく発生するものではありません。火災現場で延焼する可能性のある家屋を壊す必要があると認識した為に、『棒でものを破壊する』行為に及ぶのですからそこには原因が存在し、その原因に対しての対応となる表現として『棒でものを破壊する』結果へと繋がっています。
この様に私達は行為する際に何かの原因を持ち、その原因によって行為し結果を成し、必然的に何かの行為には原因が、言い方を変えれば動機があります。これを原因と結果の関係と定義し、『因果』、或いは『因果関係』と呼びます。
行為は発生させる原因を持ち、空間上で様式を成して表現され、形を持って表現されますが、私達は空間上に行為の表現として形として行動を表しますが、私達の体で表現出来る限界とそれを道具を用いて拡張したとしても私達が競争して効率を求めるが故にどうしても同じ或いは似たような行動が多くなり、ある様式で表現される行動はいくつかの行為の一部分として扱われ、その一部分となる形として表現される行動からはその行動に至りその行動を表現として用いるいくつかの行為があるとまでしか限定出来ずに曖昧なままか、場合により別の行為だと錯覚出来ます。
ここでもあえて自身の見たいものを見て欲するものを欲する場合に状況判断から妥当とされる行為として認識せずに自身にとって都合の良い行為だと誤認識しようとする事がありますが割愛します。
行為とはどの様なものでも厳密に言えば社会の規模での概念要素を含んでおり、行おうとする行為によっては無関係な要素はどの様な状態でも構わないので無考慮となり、関係する要素の中で環境が無変化或いは変化が誤差だと保障する要素も考慮から外した残りの要素についてどの様に行為の要素として存在しているかを判断する必要があります。
言い方を変えれば、行為はどの様なものでも厳密に言えば社会の規模での概念を表すマトリクスの中の一部であり、行動を表すサブマトリクスの変化以外の部分が、環境により保障されて変化しない、若しくは変化してもサブマトリクスを社会的行為として成立させられる程度の誤差であるとするなら、計算する必要があるのは残りの関連する部分だけに縮小する事が出来る、と言えます。
もし行為を形だけ見て一意に識別し、そこから得られる成果も決定出来る状況を作ろうとするなら、私達は全知存在でなければならず、行為が起こった時点の社会で起こる全てを把握すると共にその状況に至った過去から過程を知っている必要があり、現実的ではありません。
もし行為を形だけ真似て常に一定の成果があると定義しようとすれば、現実の状況がその成果を定義した事例と違う差がある程に、そこに現実との過不足による乖離が生まれ、行為を定義して安定させようとしている状態にその差は蓄積していき何らかの対処を要求される結果になります。分かり易く例えるなら、商取引において想定の時価と現実の時価がズレているのに気付かず取引するとそこに生じる差が結果に影響を与え、いずれ補正する必要が出てくるのと同じです。
ここまで行為に焦点を当てていますが、行為は無条件に成立するものではありません。行動という形に見える表現に概念を定義して行為を表現するわけですが、最も単純な状態を考えると獣の時が分かり易く、ほぼ『行動=行為』という状態になります。しかし獣であっても求愛行動に見られる様に通常の行動だけでは表現出来ないものを通常の行動を特定の方法で用いる事で行為として表現しています。
獣が互いに信頼している時に喉元をこすり合う行動はその形に信頼を表す意味はありません。喉元に何かが付着してこすり落とす時にも喉元を樹木か何かこすりつけるかも知れませんし、こちらの方が行動としては効果があります。この時点で既に行動に行為を定義してお互いの共通認識にしています。
また、特定の鳴き声など威嚇以外にも意思疎通を図る為の行為として用いられたりします。それらのどれも互いにその行為を認識出来ている、ルールとして取り決めているからこそ成立するものです。喉元をこすり合わせるのが信頼の証になっていない種族に信頼の証として喉元をこすり合おうとしても行為の意味が伝わらずに別の何かと錯覚されます。
こうして見ればわかる様に、私達が普段から多用し認識している行為とは表現として形に見える行動を実行しますが、その行動自体に無条件に行為を表す何かが付加されているわけではありません。
つまり、行動は行動であり、それ以外の何物でもないという事です。
また、魔導学において再現可能というのは行動とされる形に見える部分のみであり、再現したとしてもそこに行為を再現出来たわけではありません。
基礎魔導学における現象は獣の時の行動の様に、行為がほぼ直結しており、あたかも行為も再現出来ている様に見えますが、そもそも行為は行動の上に多重定義されるものであり、私達にとって重要なのは高度な概念を再現出来たかです。
例えば魔導学を使い酸素を発生させたとします。その時、その酸素を封入したものを商品として売り出して多大な利益を出したとします。では次に酸素を発生させて封入して商品にして売り出したとして多大な利益を出す事は100%再現可能なのか、と言えば、そうなりません。あくまで再現可能とされたのは酸素を発生させる事で、封入して商品にして売り出すのは過去の事例を真似ており、ある程度の期待は出来ますが、私達の社会の中の利害関係により発生している他の概念に影響されて確実に同じ事象を再現出来るかを保証しません。偶々、前回が新規性、希少性といったものでニーズを掴み、独占性により優位に立ち利益を得る事が出来たというだけであり、それと同じ状況を再度作り出せなければ同じ結果にはならないのです。
この様に、形に見える部分だけで私達の社会的行為は完全再現出来ません。出来るとするなら全知存在になり、社会の中の全ての情報を制御する場合のみです。但し、疑似的に似たような状況は作り出せ、特定の情報を制限すればその情報の制御権が得られ、そこから派生する事象を制御する事で望む結果を作り出せる事が出来ます。しかし、その行為に正当性があるかどうかは別になります。
正当性は利害関係から定義する必要のあるもので、社会の中で権利の保証をする事で生まれます。対象物の所有権などを有する場合、その対象物を所有権の認める範囲で自由にして良い正当性を持つ事が出来、その範囲であれば他者の権利侵害に繋がらないのがほぼ確実であり、社会の中で他者の権利侵害をしない社会的行為だとみなされます。
行為とはそれ単体では行為の成立が不完全であり、また、ある行為自体がその行為自体に正当性を与えません。相手を殴ろうとして殴れるのだから正しい、は正当性を持ちません。商品が売れるから売って良いのだ、は正当性を持ちません。社会の状態を維持する為に同時にいくつもの条件を満たして社会的行為になっているかが要求されます。
例えば、『貨幣取引する』場合、大抵の者はその行為を分析しません。なぜなら論理的に知っているのではなく経験則で知っているからです。それで欲しい結果が手に入り、かつての失敗事例を自身で体験したか教えて貰ったかで知識を得て、結果が手に入るのだからそれ以上を追求する事もないからです。誰かが形作ってくれたシステムの中の一部である行為をそうして覚えるわけですが、形にはその形を成立させる基盤が必要で、その時点で他の概念が加わります。また、多くの行為の一表現として行動が含まれる様に、そしてある行為の中にその部品として他の行為が含まれる様に、表現した形には意図しない概念が含まれてしまいます。
そして、行動だけを見れば『貨幣取引』するのであれば、形に見えるのは『物々交換』であり、そこに『貨幣』など存在していません。貝殻、石、金属などの『物質の塊』と、『食糧』などの欲しいものがあるだけです。
ですので、その概念を理解出来ないものにとっては、そこらの石ころと欲しい食べ物などを交換してくれると錯覚し、本人にとってはそれが正しい見方なのですが、そう見えてしまい、貨幣として認識されているもの以外の石ころなどと食べ物を交換して貰おうとする可能性が出てきます。そして拒否されれば、また本人の狭い世界観の中の価値観で、『差別だ』などと思い込めます。自身の主観の世界から見ればこういった解釈も出来てしまうのです。




