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S199 異伝、カインとアベル

今のカインとアベルの話(wiki参照)とは違う基準になってます。私はこっちで覚えてました。勘違いとも言えるし妥当とも言えます。見ている対象が違うので解釈が違ってます。


今回はコメディ要素もナシなのは申し訳ない。


今迄の小話の内容を織り交ぜながら、いくつかの例えがどういった意味で用いられるのかを説明する為に長くなってしまってグダってますw。ある意味で、色々な例えや表現を用いて多角的に分析している、とも言えます。


ある日、カインとアベルは神様に捧げものをした。カインは狩りで仕留めた太ったイノシシを、アベルは畑で取れた実りを神様に捧げた。しかし神様はアベルの捧げものを大層喜びはしたのだがカインの捧げものはあまり喜びもしなかった。

『同じ捧げものなのにその扱いの差は何だ』とカインは神様に不満を言ったが神様はそんなカインを見ても冷たく一瞥をしただけでカインの話など聞く気もなかった。


カインが『何が悪いんだ』と叫んでも神様はカインに何も言わずアベルの捧げものを褒めるだけだった。アベルも神様に褒められて嬉しい様で、カインがどう思っているかなど考えもしなかった。


その神様とアベルの姿を見てカインは思った。あそこに居るべきは俺なのに。なぜ俺はあそこに居ないのだ、と。

だからカインは決めた。アベルが居なければ良いのだ、アベルが居なければそこに居るのは俺だ。ならアベルが居なくなってしまえば良い。


そうしてカインはアベルを誘い出し、誰も見ていない所で殺してしまった。


これでアベルが居なくなったから神様が見るのはカインだけ。カインが捧げものをして神様に褒めて貰える。全てがうまくいく。そうカインは思った。


しかしある日。神様がカインに尋ねた。


「カイン。アベルがどこに行ったか知らないか。」


「知りません。私は弟の番人ではありません。常に弟を見ているわけではありません。」


カインの答えを聞き神様は言う。


「カインよ。私はお前がアベルを連れて行ったのを知っているし、アベルの血が流れた場所も知っている。お前は本当の事を話さなかった。お前は穢れたのだ。」


神様はそう言ってカインを追放すると伝えた。カインは|ノド[流離う事を運命づけられた]の地に行く事になり、神様は加えてこう言った。


「カインよ。お前の示した性質により、お前とその子孫は互いの持つものを羨み嫉妬し、奪い合う事になるだろう。そしてその争いの中、実りあった場所も荒廃し、実りは手に入らなくなるだろう。」


そう伝えられたカインはそんな呪いの様な事が起きるなら追放された地では誰もカインを受け容れず、カインが居る事で自分達も悪影響を受けるのではないかと不安になり、カインを邪魔だと思って殺すのではないかと考え、神様にどうにかして許してもらおうとした。

しかし神様はカインに安心出来る様に言った。


「いや、カイン。お前に関わると持っているものを羨ましがられそれを奪おうと襲い掛かって来られるから関わらない様に皆に伝える。お前がカインだと知らない者の為に、お前の体には刻印を打ち、一目で分かる様にする。だからお前は追放された地で誰かに殺される事はない。」


そうしてカインは欲しかったものも得られずに、追放された地で生きる事になった。



「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。自ら環境を整え利益を得る者と他者に与えられた環境から利益を得る者では自ら環境を整え利益を得る者が社会の目的を達成する為には推奨されますが、知性が足りずに行為する者は限定的な範囲でのみ利害を判断し、なぜ自身の方が相手より有能である筈なのに他者が優遇されるのかと不満を抱き、相手が得るものは本来自身が得るべきものだと判断して行動する、という事ですね?」


「概ねそう。」


「私達は社会の中で生活し活動します。社会はその規模を拡大させ、社会が存在する場所の資源を共有しますが、社会が長く続けばそれだけ社会の中での出来事における経験も増えデメリットを排除する為のルールが取り決められ、そのルールが守られる事でより複雑な行為が出来る様になり社会の質が向上、つまりはレベルが上がります。

社会レベルが向上し維持していく為にはその根拠となるルールが守られなければならず、社会レベルが向上すればする程にルールは多く、より複雑になっていきます。より高度な社会における活動は儀式的或いは手続きの煩雑な様式美と言われるものになっていき、それだけ直接的な利益を得る為の効率性を低下させますが、それまでの社会の中で起こった出来事から得られた経験を根拠として決められた手続きを含む様式は同じ間違いを起こさない為に必要なものであり、また、間違いの本質的な原因を追究出来ていないなら例え冗長でも省略する事が出来ないものでもあります。

しかし私達は社会をより良い生活が出来る様に改善していきます。そうすると改善過程において発生した問題は改善後には発生しなくなり、知識として得るか自身の体験を忘れないように繰り返し覚えなおす事でしかその情報を保持出来ず、現在の状況だけを見て判断すれば無用のルールが存在し、知性が足りなければ情報を保持する事も出来ず、また自身がその体験や知識を得る機会を持たないままに日常を繰り返してきた為に、私達が本来社会を維持成長させる為に必要な筈のルールを不要と判断して省いて効率を上げ、自身が勝ち残る事と引き換えに社会に混乱を起こしデメリットを押し付ける可能性があります。

その際に「自身は間違っていない。間違っているならそれを証明してみろ」と主張しますが、それは自身もなぜルールが必要なのかを分かっていない状況で相手にルールの根拠を明確に述べろと自身の行動の正当性を相手に要求している事と同じであり、また、相手に自身の行う行為を含めた結果から生じる影響について完全に演算してみせろと主張しているだけになり、自身が全知でないのに相手に全知を要求して相手が全知ではなければ自身が正しいと主張しているだけでしかなく、自身が自身の正当性を証明しなければならないのを誤魔化しているだけになります。


その主張をする者の為に、周囲が全知であり完全なルールを用意してあげる理由も根拠もなく、そして私達は私達の限界により全知ではありません。私達は宇宙に存在する全ての物質の性質と変化と組み合わせを同時性をもって把握出来ず、それ故に全知ではありません。私達に出来るのは概念を用いてそれらを限定し対象として要素を抽出したものを組み合わせて起こり得る事象を推測する事だけです。しかしそこに問題があり、対象を概念により分析し要素を抽出する時に知性の程度によって気づける要素と気づけない要素があり、自身が気づけた要素だけで対象を定義します。また、定義した要素も知性の程度によりその精度が変わりそこにも自身の気づけない若しくは良く分からないまま曖昧な部分が未分化のままに残り、知性が低ければ低いだけ、対象を限定する際に不完全になり、必要な要素が対象以外の部分に残り、不確定要素が増し、その概念を取り扱う時に博打の様になっていきます。


この問題に対する為に、概念を取り扱う者は最低条件として、どこまで追求するかを自身の利己益で判断するのではなく、最善の努力を行う必要があり、客観的にその判断が出来る必要があります。自身に必要な所だけを見て行為して良いのなら略奪行為も詐欺行為も不正行為も正当性を持ち実行出来てしまいます。概念を取り扱う時、それが実際に出来ているかはその結果からしか分からないという事でもあり、同時により高度な概念は影響が遅延して現れる為に直接的な結果だけを見て決定出来ず、また、自身が社会の中にある概念を全て必要なだけ理解しているかを自身で判断する事も難しいために、誰もが最善の努力義務を要求されます。

ここでは自身が社会の中にある概念を全て必要なだけ理解しているかを自身で判断する事も難しい為に、互いにその努力が出来ているかを他者から見て判断する事で得られる信用を悪用して、互いが客観的な判断が出来ていなくとも利己益を共有する者同士で連帯するという問題は割愛します。


これまでにも言いました様に、私達は社会の中で成長し衰えていきます。自身において最も能力を持つ状態を維持する全盛期と呼ばれる期間はありますが、一生において常に一定の能力を持つ事はなく、世代継承する際に知識の継承に失敗し、蓄積していた知識を失う事があります。そうして知識を失ってしまえば現在のルールを見て『現在の状況に適していない』と判断して不要な部分があるとし省略する事があり、省かれたルールにより制限が解除若しくは緩和され悪用出来る可能性が生じ、また、悪用したいが為にさもルールを省く事が出来ると主張して可能性を生じさせようとします。

ですから、ルールを省く場合はルールの根拠となる要因を何等かの方法で排除出来る事を明確に示さなければならず、単にルールを省けば効果があるというだけでは根本的な問題を解決出来ません。例えば、規制緩和が不況などで行われて経済が活発になる様に表面上は見えても、同時に規制する事で抑制されていた不和の要因は放置され、悪用されて利己益を稼がせ、規制する事で得られていた秩序を潰し、社会を劣化させます。それらが厳密に定義出来ないから計測出来ず指標として表せないままであれば起こっていないという事でもなく、起こっている事象を明確に表現出来ないだけで当然影響は生じ、結果として全体の持ち得る権利により生じる恩恵を奪う形で経済効果を出させます。そしてそのルールの根拠が言語化出来なくともある程度認識している者やルールに従う事で間違わない様行為出来ていた者が躊躇している間に、何も考えない者が規制緩和で優位に立ち競争に勝ち残ります。


理想的なルールの状態とは、常に変化する状態に合わせて状態を維持する為の条件の表現であるルールを適宜修正する事ですが、日常の取り決め事の基盤となる部分を変えれば変えるほどに信用はなくなりルールそのものを疑問視したり不安に思う結果に繋がり、なるべく変更しない事で実績を積み上げ信用を与えるので、理想的な状態を維持しにくくなっていきます。もしそれでも理想的な状態を保とうとすれば、ルールを変える根拠を、ルールに従う者達が充分に理解出来るだけの知性が必要になります。

これは例えば、団体競技でフォーメーションを状況に合わせて変更する際に、なぜそうしなければならないのかを理解出来なければ効果が低くなるのと同じ事です。理解度が低ければ変える意味が分からずに期待した成果も出ず、わざわざフォーメーションを変えないで対応した方が確実性が増す、というのと同じです。

例えば、軍隊であるなら様々な陣形を組み直し敵の弱点を的確に突こうとすればそれだけ兵の熟練度が必要になり難しく、熟練度が足りなければ変化も少なくしてフォーメーションを固定にした方が確実性が増します。

こうしてルールは固定化して状況の変化に対応出来ずに形骸化する事もあり、その形骸化を修正する為に変更した結果として規制緩和がなされる事もあり、それらと効果を求めて規制緩和をする場合とが混同されて扱われる事がありますがここでは割愛します。


私達は社会の中で知性の高さに幅のある状態で生活しており、また、その性質により考慮する社会概念の高度さも変わってしまいます。ある者にとっては日常生活とは法律の施行維持や経済活動の正常化や技術継承による知識維持を思考の範囲に含んで行われるものだとして活動しようとしますし、別の者はその日の糧さえ得られれば良いと思って活動しようとする者も居ます。より大きなマトリクスでそれぞれの概念を定義している者とより小さいマトリクスでそれぞれの概念を定義している者など様々ですが、最低限は罰せられなければしても良いと思って行動する者になり、自身の生活する環境は従ってさえいれば誰かに与えて貰えると思っている者とも言えます。だからこそ罰せられないのであればルールを守っていると考え、実際に社会が要求する基準を満たしているかどうかを考えずに行動出来てしまいます。そしてその明確な基準は全知でない私達が他者に与える事は出来ず、自身の責任で判断する必要があります。

ここではだからと言って自己責任を強調して他者を騙した後に自身の無罪を強調する問題については割愛します。


社会の中では知性の低さから無自覚に社会を壊す行為をしている事があり、しかしその行為は表面上は合法とされる行動と同じで判別が付きにくく、その上、実行している本人が間違っている事に気づかず正当性を主張して繰り返す事が多々あり、社会の中で社会を維持成長させようとする者と壊す者が混在した状態になります。

例えば、公害を考えてみましょう。ある企業が産業廃棄物を廃棄処理せずに排水したとして公害になったとします。それが見つからず罰せられなければその悪影響は周囲の者達を巻き込み悪影響を与えるでしょう。しかし既にルールが取り決められ、社会を維持する為にルールを順守している者が居れば、ある要素においてあるべき状態を維持しようとする者とそれを壊す者の両方が社会の中に存在する事になります。この時、廃棄処理をせずに排水した企業は環境汚染に対して積極的な対策をしておらず、環境が悪化するかどうかを他者に依存する形になっており、廃棄処理をして排水している企業は積極的な対策をして環境が悪化するかどうかに対してある程度の影響力を持っていると言えます。廃棄処理をしない企業をAとして、Aの主観的な視点から見て、気づいていないという前提があるとすれば環境汚染の原因は良く分かっておらず、しかし実際には存在しており認識していないだけになります。小さな規模であれば発生量が少ないために拡散するか浄化されるかして影響がほぼ無くなり廃棄処理をしなくとも良い実績が出来ていたりする可能性もありますが、それでも実際に悪影響を与えている事には変わりません。この時、社会全体が汚染物質を排出しても環境に悪影響が出ないとされる推定量があるとすれば、Aはその一部を使用して排水していると言えます。一方で廃棄処理をしている企業をBとして、Bは廃棄処理をしているので社会全体が持つ許容量を一部軽減するか全く使用せずに排水しています。Aという存在が社会の中で規模が小さければミクロの問題で済みますが大きければマクロの問題となりその排気量が問題になり、また、Aとの様な企業が増えれば同じ様にマクロ的に問題となります。これは資源の消費に常に発生する問題であり、有限の資源をどうやって社会の中で皆が許容して運用するかという問題です。一方、Bは仮に廃棄処理で悪影響が発生しない様に出来ているなら、自身の活動において循環システムが完成していると言え、Aは外部に依存する部分を持つ為に完全な循環システムではありません。

社会の中では時折この様な社会全体に悪影響を与える様なものが活動する中で発生する場合に、その許容量を定めてその範囲でなら許される様に権利を与える事があり、例えば温暖化ガス排出権などがありますがここでは割愛します。


企業Aはその廃棄処理をしていないという行為が無自覚であってもそうでなかっても社会の中にある環境資源を消費している事に変わりなく、簡単に例えるなら、皆が共有する果樹園になっている実をとって食べているのと変わりありません。その実を食べたとしても、その果樹園が管理されていなくとも実をつけるのであれば問題はないですが、当然いつ実がなるかは自然に任せる事になります。そして不特定多数が実を欲したとすれば数に限りのある実は取り合いになり、最後にはなくなってしまいます。こうして自然に任せた事で限界に達して不都合を抱える為に、私達は人工的に栽培して実の数を増やそうとします。栽培した実を増やし皆に分け与えられる様にしたとして、もしその果実を、栽培されていると気づかずに手に取って食べたとすればどうでしょうか。例えそれが無自覚でも盗みでしかなく、また、罰せられないと思ってしたとしても盗みには変わりません。

この果実の例と廃棄処理の例に違いあるとすれば、廃棄処理の場合は定義しにくく明確な形にしにくい事で、長い年月をかけて凡その許容量を把握する方法でしか実際の許容量を導き出せないという所です。果樹園の果実は誰かが取れば目に見えて失われた事が分かりますが、廃棄処理をしないで環境に悪影響を与えたストレスは目に見えにくく気づけない者は気づけませんし、明確にどれだけの負荷を掛け許容量を奪ったか、許容量から一部を手に入れたかを把握しづらいものになります。果樹園の果実なら複数の者が手に入れようとしても最終的にはそれを更に分割するかそれとも誰か1人しか手に入れる事は出来ません。しかし廃棄処理しないでも許される許容量というのは漠然とし目に見えず、複数の者が同じ許容量の一部を使って廃棄処理せずに排水しても誰もが自身は正しく廃棄処理したと主張出来、そしてその結果は遅延して発生する為に、明確に目に見える形で権利を定義していなければ誰が原因で悪影響が発生したかが分かりません。

権利とは目に見えない概念であり、そしてそれまで許容されていた行為を行い資源を消費する事はそれまでの経験から許される行為だと認識します。しかしそれがミクロからマクロ的な視点に移行するという事は、有限な資源に対して多くの者が消費しようとする状況であり、消費しようとする者全員に充分なだけの資源が分配されている状況から1つの資源を多くの者が手に入れようとする、それまでとは逆の関係性を示します。同じ資源に対して複数の者が求めるという需要が発生し、供給は少なく争いになり、公平で正当な手続きで手に入れる方法を定義して争いを失くそうとします。しかし先ほどの例で言いました様に果樹園の果実は目に見える形で可分なものであっても、環境破壊への許容量という、その概念を表現する具体物が不可分な場合が多いものでは明確に権利を持たない者の不正行為を止める事は出来ません。

権利を得た者が履行するのは明確であったとしても権利を持たない者が履行した事を立証するのが難しいからです。

例えば温暖化ガスの排出権を得たとして、その権利を持った者はその権利で保証される排出量を輩出しても罰は受けないでしょう。しかし、その権利を表現する排出ガスは大気中で不可分であり、かつ許容量の一部を消費したというのが目に見えません。そして他者が権利を持たずとも排出する場合にそれを罰せなければ、いうなれば誰かの権利を無断で2重行使しているのと同じ事になり、権利を得る為に金銭などの何らかの資源を消費した者が不利になります。こうして権利の持つ価値が損なわれると権利を資源を使って得ようとする者は減り、最終的には許容量を取り決めて環境を維持しようとする計画そのものが瓦解します。

先程も言いました様に権利とは目に見えない概念であり、行動を物理的に止める事はありません。あくまでその概念を含む社会の中での利益が得られる環境の維持により得られる自らの安全が他者の権利を認め物理的な行動を抑止する役割を果たします。そして目に見えない包括的な概念は先ほどの例で言う果樹園の果実の様に明確に権利の行使と確保が出来ず、包括的な概念を表現する具体物の全てを管理出来ないが為に、鼠が持ち主の目から逃れて食糧を盗むかの様に、管理不足により治安の維持が出来ずに権利などの保証を無いものとして概念を表現する具体物を得る事が出来ます。


この時のネズミに焦点を当てると、ネズミは身体的特徴から脳が小さくそれだけ知能の発達には限界があり、知性も期待できません。そのネズミに権利について理解させる事は出来ず、また、ネズミが人間の社会の構成員に成れない為に、たとえ権利を理解できたとしてもネズミには関係ないものになり、どれだけ権利を主張してもネズミにとってはないに等しいものになります。それは人間においても同様で、知性が低く自身の周囲の出来事のみを見て主観の世界に生きる者にとって高度な社会を形作る概念の多くは身近な出来事との関係がほとんどなく、その概念を維持する為に必要な条件というものを考えません。結果として理解していないと言え、高度な概念を維持する為の条件を外し、選択肢を増やし可能性を見出し競争に勝ち残ろうとします。この時、その者は他者の権利を侵害している可能性が生じ、しかし自身の知性ではそれに気づけないという状態になります。

その者の主観の世界においては自身の身近にある出来事を認識する為に必要な概念以外は存在しないか曖昧なままで、理解し得ない概念により生じているものは全て自身の主観の世界の外からやってくるものになります。

例えば税というものが分からない者にとっては社会の中にあっても税を払わずに居る為に徴税人がやってきますがその徴税人はある日突然に自身の世界を脅かす存在としてやってきて認識される事になります。そこでチャレンジアンドレスポンスして、追い払うか大人しく従うかの判断をしますが税というものを理解していなければ資産を奪いに来た者としてしか認識出来ません。

例えば、温暖化ガスの排出で温暖化が進み、環境破壊によって気候変動が大きくなって干ばつや台風などの被害が多発したとしても、温暖化ガスを排出したという認識がなければ、他者のした行為による影響か或いは神などが何かを理由に罰を降したかという外部からの何らかの干渉があったと思い込むでしょう。産業廃棄物を含んだ水を排水する時にも言えます。


自らに近い所からで言えば、糞尿を周囲に垂れ流す、腐ったものを近くに捨てる、不用品を近くに放棄する、などは分かり易く、次にまだ形のあるものに分類される工業排水などになり、その次に形のない空気などに含まれる汚染物質になり、最後に全く形のない概念の取り扱いになり、知性が低く知能の発達も未熟であればある程に、より小さな主観の世界の出来事だけで判断し、社会を維持するルールの根拠となる概念などを理解せずに生活し、しかし生活が成り立っているのなら自らは間違いのない活動をしていると思い込み、遅延のかかった悪影響の結果の責任を追及されても理解出来ずに反抗し争いになります。

例えば糞尿を近くに捨てて、それが誰かの迷惑になり加害したという事実が出来、被害を受けた者からの指摘であれば自身のした行為について自身で認識しその経験を得る事が出来るでしょうが、先程までの例で言えば、温暖化ガスを排出した後に遅延の掛かった悪影響が自身を含む集団や社会に発生したとして、遅延のかかった影響が自身の行った行為によるものと気づけるかは知性の程度によって変わり、また、不可分である総体の一部として影響を与えたとしてもそれを定量的に把握出来ないとすれば罪の大きさが曖昧になり、自身の行為の影響により発生したのではないと主張出来る瑕疵が存在し、責任問題に対して反抗する可能性があります。


この様に私達は私達の知性の程度によって自身の主観の世界の大きさが変わるが故に、自身の主観の世界の中にない概念やより曖昧な概念はその不完全さから外部に依存する部分を含み、それは主観の世界の外から影響を与えるという形でレスポンスとして返ってきます。

社会の中で知性の高さが違う者達が自身の主観の世界で行為行動する事で、知性の高い者が知能を成長させた視点から知性の低い者でも自身と同じ様に物事を理解しているだろうと妄信して予想外の行動をされ、また、知性の低い者が自身で充分に物事を理解していると妄信しながらも行為行動の結果から他者に間違いを指摘されるが妄信してしまっているからこそその指摘を受け容れずに反抗し、争いの原因を作ります。


この時の知性が低く自身の主観の世界が自身の属する社会を維持運営出来るだけの再現度を持っていない、つまりは社会概念を充分に理解出来ていない者は良く狩猟民族若しくは獣に例えられます。

獣は、ここでは肉食獣を考えますが、肉食獣は自身の住む環境で他の獣を狩って食糧にして生存しようとします。しかし他の獣である獲物は肉食獣自身が生活する為の行動では獲物の全ての行動を制御出来ません。自身のテリトリーに入って来た獲物を襲い、上手く獲物の行動を制御して食糧にする事で目的を達成しますが、獲物がテリトリーに入って来るかどうかは肉食獣が制御する事が出来ません。獲物がテリトリーに入って来るかどうかについて肉食獣は自身の属する環境に依存し、獲物がテリトリーに入って来るか若しくは獲物を襲って食糧に出来る程の弱いものかは未知数になります。簡単に例えるなら、夜の暗闇の中で明かりを灯し、限られた視界内でのみ獲物を認識する事が出来、その視界内に獲物が入って来るかを外部に依存すると言う事です。獲物が視界に入って来るかどうかは環境により変わり、肉食獣自身はその環境に依存していると言えます。

狩猟民族も同じです。獲物があるかどうかは環境に依存し、違いがあるとすれば道具を使うかどうかだけです。肉食獣も狩猟民族も獲物を狩る頻度や同じ地域に居る事が出来る数はそれまでの経験により決められますがその判断材料は環境により提供されていると言えます。そして現在の環境が悪化すれば移動して自身の住む場所を変えて以前に生存する事が出来た環境と同じ環境を探します。その行為行動に、自身が行動する事を余儀なくされた、行動する以外の選択肢を失ってしまった、受動的な行動をするしかなくなった、という結果に対する観測がなく、自身の現在持ち得る知識でのみ状況に対応しようとしており、そこに知性を成長させて現状をより詳細に認識して問題となる要因を解明して解決しようとするスタンスがありません。

例えば、台風が来ればどこかの洞穴に籠るか深い茂みに逃げ込むかそのまま耐えるかを選ぶ事しかせず、食糧がなければ農耕するわけでもなく貯蓄するわけでもなく牧畜するわけでもなく場所を移動して以前と同じ様に獲物が居る環境を探す事しかせず、飲み水がなくなれば貯水池を作るでもなく飲み水のある場所を探す事しかしない、という行動をしやすく今までの経験を基に判断した結果になります。

自身の持っている感覚器からの情報から得られた経験により判断し、自身で考える事なく行動する為、これまでに得られた経験を活かして起こった状況を分析して要素を取り出し概念を用いて組み合わせるなどして状況に対応する事が難しく、ほとんどの場合、誰かが行った成功体験を見る事で形を真似て自身の行動を改善する事しか出来ません。そして起こり得る状況に対してチャレンジアンドレスポンスすると言う事は既に行動した後である為に陥った状況が既に挽回不可能な場合にどうする事も出来ません。

例えば、干ばつで植物が育たず餌がなくなった後に獣が減った状況で、既に周囲には獲物が居なくなってから危機に気づき移動を開始しても間に合わずに食糧を得られずに死ぬしかなくなるかも知れません。また、獲物の数に対して狩猟者の数が増えすぎて相対的に獲物が減り自身の食料が減ってもどうする事も出来ずに飢えてしまうかもしれません。知性が低い者は快感原則に従って深く追求しようとせず、自身のこれまでの経験から妥当なものを選ぼうとして、その選択自体も快感原則に従って極力効率の良い省力的な選択をしようとする為に遅延のかかった影響などを軽視する選択をし続け、後になり積み重ねた選択による過失で追い詰められる可能性が高くなります。しかしその過失に気づけるだけの知性がなく、後になってようやく何が問題だったのかを追求し、原因を知って後悔するという展開が多くなります。


その狩猟民族が常に獲物が居る状態、食糧が手に入る状態を作るにはどうすれば良いかと考える様になり、初めて牧畜などを行って食糧を備蓄し確保する様になります。

ここでは、その段階になるまでに何度も危機に陥り、その中で生き残った者が何度も同じ状態を繰り返して更に生き残った後に、同じ苦しみを味わいたくないと考えて今までと違う行動を模索する事で問題を解決しようとする部分については割愛します。

この時、先ほどの暗闇に明かりを灯して視界を確保するという考え方を概念に当てはめると、この段階でようやく明かりに照らされる範囲の中に牧畜という概念が存在する様になった、と言え、それだけ明かりに照らされる範囲が広くなった、とも表現されます。

この考え方で表現すると私達は社会の中で日常生活をそれぞれ送っていますが、その個々人で明かりに照らされている範囲が違うと言え、その違いが問題になり、ある者にとっては『見えない』、つまりは『概念が分からない』という状況が生まれ、しかし個々人が自身の認識出来る範囲で事象を見てそれに付随する概念も理解しているつもりになっているので、不足している概念は形に見えないので何が足りないのかを目の前にある事象を見て理解する事が出来ません。形にあるものなら、例えば、果実の個数が足りない、ある部品が足りないなどは分かり易いですがそこに付随する概念は目に見えず、その時点で分からない者にはそもそもその者の中にどの様な概念や経験が不足しているから目の前にある事象を正しく認識する事が出来ないのかが明確に分かりません。そして、理解出来ない側からすれば、言い掛かりの様な理由で相手が有利に立とうとしているかも知れない、と疑う余地があり、互いの信頼関係が無ければそう思い込む可能性があり、また同時に、理解出来ているとされる側が相手の理解出来なそうな話をして有利に立とうとする可能性もあり、そして現状において証拠がなく正しいかさえ分からない理由を持ち出して有利になろうとする者も居り、争いの原因を作ります。


話を少し戻しまして、私達は先ほどの例えの様に自らを中心とした主観の世界で自身から見える範囲の概念により再現された世界での価値観を有して行動し、概念世界において自身の認識出来る範囲の外にある自身の理解し得ない世界の事象からの影響がやってくる事になり、より小さな主観の世界程、より多くの認識出来ない概念が存在しそれだけ依存する事になります。

その様な者が社会の中で社会概念を理解しないままにただ取り決められたルールだけを守っていると、自身はルール通りに行動しているとは言えますが、同時にルールとして規定されていない要因において自身の利己益を基準に判断して社会に適合しているかを考えないとするならそれだけ過失が存在し、これも以前に言いました様に『穢れ』ている為にその穢れを移して汚染する結果となり、誰かがそのツケを飲み込んでくれるなら良いですがその様な自身に都合の良い考えで行動すればする程に社会はツケを量産しいずれ崩壊します。

その様な姿を私達は『狩猟民族』や『獣』と例える事があります。自身の住む環境を整備せず、制限として課せられたルールは守るがそれ以上をする事なく、そこから得られる利益を得続けようとする、という意味で使われます。

獣は自然の中で制限を受けて行動し、その与えられた環境から受ける要因により行動が制限され、それがルールとなっています。しかしそのルールを守らなくて良くなればルール通りに動こうとせずに最も基本的な快感原則に従って行動します。

例えば、一時的に餌が豊富になればそれまでの様にある期間内で食べる量を制御して生活していたのが多く食べる事が出来る様になりその制限を外し、多く食べる事で繁殖力を増し数を増やしますが、その餌が多くなった要因が自身の制御出来る状態でなかった場合には自身の想定しない時に餌が以前と同じだけに戻ったり更に減ったりして、数を増やした事が間違いになり、争いを生み出すという結果に繋がる事があります。

例えば、狩猟民族が獲物の数を考えずに狩りをしてその豊富な食糧で狩猟民の数を増やしたとして、仮に獲物の数に変わりがないとしても狩猟民の数が増えてしまっているので1人当たりの狩る獲物の数が同じでも絶対数は増え、結果として以前より狩られ過ぎて獲物の数が減り、狩れる獲物の数が必然的に減り、飢える結果になる事があります。

例えば、与えられたルールを守っていれば安全に暮らせると保障されていたとして、なぜルールが決められているのかを知らずに、ルールの根拠を知らないのであれば、何不自由ない生活をしているのでなければどこかでルールをほんの少し破るなり、或いは少し位ならルールを破っても問題ないと思ってしまう時があり、結果として過失若しくは故意となり自身の属する社会環境を劣化させる事があります。


では農耕民族と例えられる者はと言えば、自身が食糧を得る環境を自身で作り維持管理し、食糧が手に入るかどうかを自身の管理下において制御しようとします。先程の明かりでの例えで言うなら明りに照らされ視認出来る範囲に農耕による食糧生産システムがあると言え、それが現実的に畑などの形を伴い、食糧を得られる場所があると言えます。狩猟民族は牧畜をしていないのなら物理的に自身の活動範囲に食糧となる獲物が居なければ自身で獲物の居る地域に移動しなければなりません。それはチャレンジアンドレスポンスと言え、リスクが伴います。一方で農耕民族は畑などの形で食料を得る場所があるので常に食糧が手に入る状態を作り出す事が出来、リスクがありません。

ですが農耕民族にも別の形でデメリットとリスクが発生しており、その畑を管理維持出来なければ食糧が得られず、管理する労力を必要とします。一方で狩猟民族は管理する労力は必要ありませんが獲物が自身の活動範囲から居なくなるリスクを抱えたままです。

農耕民族も畑などが維持出来なければ食糧を得る事が出来ず、干ばつや洪水などの被害で生産物を得る事が出来ない様になれば狩猟民族の様に他の地域に移動して食糧を得なければならなくなります。しかし同じリスクは狩猟民族も同様であり、自らで自らの住む環境を管理維持する事でリスクを軽減させているという部分において、農耕民族は狩猟民族よりも一段階進んだ考え方を持っていると言えます。


しかし、もし狩猟民族と農耕民族が同じ地域に居たとして、狩猟民族が農耕民族の畑などの生産設備を見てそこにある生産物を、森などに自然に成っている果実と同じ様に考えたなら、狩猟民族は農耕民族の許しもなくその生産物を手に入れようとするでしょう。そして狩猟民が生産物を手に入れようとすると農耕民がそれを略奪だと思い阻止しようとしますが、狩猟民側からすれば森にある果実などの誰も所有権を持っていない食物を自身が先に手に入れたにもかかわらず奪い取りに来たと思い込めます。そして狩猟民の方が普段から獣などを殺して経験を積んでいるので農耕民よりも戦いにおいては有利であり、狩猟民が奪える可能性が高くなります。その経験を積み重ねると、たとえ目の前にある食物が農耕民の物だと分かっていても、奪っても罰せられずに痛みも苦しみも体験しない為に、奪えるのだから構わないと考える様になり、相手が自身と同格ではない、自身は強者であり相手は弱者である、だから奪って良いと考える様になる可能性があります。また、飢えの苦しみと他者との争いで被る苦しみを比較して飢える苦しみより他者との争いによる苦しみの方が軽いと考えて争う事を選ぶ可能性があります。

この時、同じ人間同士であるという基盤の上に立ちながらも相手を仲間とは思わずに争う事が出来ており、人間というものは快感原則に従って利己益を優先し利害関係で繋がるものである為に、相手が自身と利害関係を同じにしないと判断すればその時点で味方ではない、仲間ではない、とみなし、仲間である場合に守るルールを守らずに行為します。その理由は仲間ではないからルールなどの取り決め事が存在しない、という理由になりますが、そう判断する為の理由が、強者だから、特別だから、存在自体が上の存在だから、などになり、自己正当化して自身の持つ主観の世界の中から追放します。そうすればそこでどうなろうと自身には関わり合いのない事になるから、襲って奪っても自身の主観の世界の中では何の問題もないと思い込む事が出来ます。


一方で農耕民は他者のものを奪うという事は自身のものも奪われる可能性がある為に、自身の権利を保障する為に他者の権利を保障しているので自身の生活圏に他者のものがあってその警備が疎かであってもあえて奪おうとは思いません。

ですがそれも言うなれば"楽園"に居る間だけです。食うに困らず欲求が適度に満たされ生活する環境がある状態でなら、余程に強欲でなければ欲求が満たされた状態になり、ルールを守っていれば自身も満足出来る状態であるとするなら、その状態を壊す行為をする事はありません。しかし私達は常にそのような楽園と呼べる環境に居るわけではありません。自然災害や外敵の襲来などが発生し、自らの持つ権利を侵害し、所有物を奪われる事で、飢え、失くし、居場所すら失う可能性があります。すると自身のリスクを軽減する為に、今まで満足していた状態であっても、リスクとして想定していた事象が起こり被害した場合の事を考えて、多くを欲する様になります。そうなると通常に生活していれば満足行く環境を与えられたとしても満足出来なくなり、より多くを欲して資産を過剰に貯蓄しようとします。そして資産を集め生活が向上すればそれに合わせただけのリスクと維持費が生じ、更に多くを欲する事に繋がり、そして明確にリスクを完全に想定していないのであればどれだけの資産があれば安定するのかを知る事がない為に、出来る限り多くの資産を集めようとして、有限の資源を他者と取り合う状況を常に作り出し争いの原因となります。

これは農耕民だけではなく全ての人間に起こり得る事ですが、農耕を行う事で食料の安定供給が出来る環境を作り出し、環境維持のコストを支払う事でリスクを軽減させたにもかかわらず、リスクに怯え欲求を満たせない為に環境を制御して皆で作り出した快感原則に従って求められる満足の出来る状態を壊す様になってしまう可能性があります。その争いにおいて、当事者が高い知性を有しているのであれば互いが互いの状態を考慮した選択をしますが自身の主観の世界の広さが狭い、先ほどの例えで言えば明かりに照らされた範囲の狭い者は社会を維持運営していくための社会概念を充分に理解せずに自身の主観の世界の価値観で行為し、それが自身を含む環境を維持する為の高度な概念の基準を満たせず、しかし自身の要求する条件を強引でも満たそうとし、それを利己益を得ると言います。

この争いは狩猟民族が1つの獲物を得る為に先を争って仕留めようとし、そう出来た者に獲物は与えられるという先取特権というルールが狩猟民族でも最低限のルールとして取り決められているのと似ています。そのルールに従う限りは先に所有を宣言した者が得られるルールですが、そのルールは獲物の数が充分に存在するという、狩猟民族から見て"楽園"に居る事が条件になっており、たとえそのルールを守っても楽園に居なければ成立出来るものではありません。獲物の絶対数が少なく、先取特権で争っていては余程の幸運に恵まれるか余程優秀な者以外は欲求を満たせず、ルールを破る者も出てきます。結局はその場合には相手が先取特権で得た筈の獲物を奪うという形で争われる事になります。

こうして状況に追い詰められた者は自身を含む集団が今まで取り決めて来たルールにより現在の環境を維持出来ている状態を壊す事で生存する方法を模索しようとします。この時、それまでのルールを用いて集団に属する者が維持していた秩序を乱し、その成立過程を少なくとも一段階逆戻りさせる事を"劣化させる"或いは"混乱させる"と表現します。


社会とは小さな集団であっても定義され、その集団を維持運営する為に必要なルールを取り決め組み合わせ、優先されるルールに序列をつけて徹底します。この組木の様に組み合わされたルールを秩序と呼びます。しかしそれは現状で直面してきた問題に対して対処する為に定義してきたルールであり、未知の問題に対処出来るかどうかは分からず、そして外部依存してしまっている部分に関しては常にリスクを生じさせるものになります。また、以前から言っています様に定義されたルールの中で現在の環境に存在しない問題を考慮したルールは価値観の変化により排除される可能性があり、その結果としてかつて解決した筈の問題が状況変化を起こしたときに再度発生してもルールが無い為に混乱し争いになる可能性が生じます。


この様に、社会の中で生活する者はその知性の高さの違いで、農耕民と狩猟民と呼ばれる者に例えられて分けられる事があります。その違いは目標となる基準に届いていない事で、目標となる基準に届いている者を農耕民、届いていない者を狩猟民とイメージする事があります。それは相対的なものに過ぎませんが、どれだけリスクを想定し、そのリスクに対して対処する為のコストを支払う事でリスクを軽減させているかが違うとも言えます。概念は形に見えません。概念の表現物は存在しますが、そこに概念を認識するのは己自身であり、自身の知性の高さが問題になって認識出来ない概念があるとしても自身では気づけません。結果として日常の行為にしても気づけない概念がある事で判断材料が足らずに不和の原因を作ってしまう可能性が出てきます。

狩猟民などと呼ばれる側は求められる主観の世界の広さが狭く、また、足りないものが自身の主観の世界に存在していない状態になり、それによる影響は全て外部からやってくる事になります。

例えば、産業廃棄物を廃棄処理をせずに廃棄する事で環境汚染が深刻化し奇病として自身の周囲に現れる様になる事があります。

例えば、工業排水をろ過処理をせずに排水する事で環境汚染が深刻化し、奇病として自身の周囲に現れる様になる事があります。

例えば、コストが高い為に共有する事でコストを下げ仲間内で使用出来る様にした道具を自身の都合で占有化してしまう事で、それ以降、誰も共有してコストを下げる方法をしなくなるか占有した者と共同でしなくなる事があります。

例えば、税を徴収しますが、税が何の為に集められているか良く分からずその恩恵をたいして感じられずに居る為に税をなるべく支払わない様にする者が多くなると、集められた金額が減り社会福祉が悪化して自身の住む環境が劣化して今までの様に収入を得られなくなる事があります。

例えば、取引で自身がルール通り行っているつもりでもルールに取り決められた部分以外の部分で、合法だが違法スレスレの詐欺まがいの方法を行い続けると、その者の信用評価が下がり、取引をしてくれる者が減っていく事があります。しかし本人は間違った事をしていないつもりなので不当な評価と主張しようとします。

例えば、剣での決闘に勝てないから弓を持ち出し、遠くから相手を攻撃して決闘に勝ったとして、勝ち負けだけを考えれば弓を持ち出した者の勝ちと言えますが、決闘のルールを犯したと評価され、誰もその決闘の結果を認めようとせず、更にルールを平然と破る為に信用出来ないと評価されて次からは相手されなくなる事があります。この時、弓を用いた本人は自身の正当性を主張出来ますが、同時に、ルール無用の殺し合いで勝ち負けを決めていてはいつまでも生産性のある活動にならないが為に、弓などを使わずに剣で勝負を付けるという交渉の末にルールが取り決められている事を自身の知性の低さにより知りません。


社会の中で知性の高さの違いによりどれだけ社会概念を理解しているかが変わり、その持ち得る判断材料で形勢された価値観が日常生活において行う社会活動の質に影響を与えます。相手から奪うのを良しとする者とでは取引は出来ないので取引をしたければ相手の所有権を認めて奪おうとしないという前提条件が必要になり、そのルールを守る意思があるかどうかは言葉で話せるかどうかではなく、それは最初に概念を知っているかどうかを判断する材料にはなりますが実際に行為出来るかを示すものではなく、そして鳴き声として音節を辿る者は概念を知らず、行為の結果の繰り返しにより、およそそうだろうという曖昧なものを実績を積み重ねて恐らくそうだろう、更に確かにそうだ、という段階にまで確度を上げていき、それを信用と呼び、信用があるからこそ前提条件が満たされていると判断して取引が行われます。

取引が行われる様になってその集団内の誰でも同じルールを用いて取引しようとしても、相手の持つ知識が足りない事を悪用して騙す様に取引する者が出始める事で、誰もが自身が不利になる取引を恐れて取引しようとしなくなったり取引を控える様になったり、また、取引の正当性を保証する為に制限を掛ける事で自由な取引が出来なくなったりします。

取引がある程度成立する様になり、物々交換の実績が蓄積し始めて、物々交換では互いの欲しい物を持っている者同士でしか取引が出来ず、互いが欲しい物を持っていなければ3者間取引やそれ以上の複数間取引をする必要が生じたりしてより効率の良い取引が出来ない為に取引の自由度を高める為に貨幣を用意して貨幣を基準に取り決められた価値のある物品と貨幣との物々交換により複数間取引をする労力を省いてほしい物が手に入れられる状態を作るが、貨幣の偽造や、価値を偽り騙す事で貨幣の信用度が低下し貨幣では取引がされない様になり、以前までの3者間取引や複数間取引などの労力のかかる取引をするしかない状態にまで劣化する事があります。

取引をし貨幣を使う様になった後に貨幣から紙幣に変わり信用度重視で物々交換の代替物が取り扱われる様になると更に効率を求めて統一通貨が求められる様になり、更に手続きを効率化する為に仮想通貨を用いようとしますが、そこでも悪用する事が出来、対抗手段が講じられないなら手段として不適当になり、継続する事が出来なくなります。

更に仮想通貨を超えて、特定の集団を対象に、その集団が正常に機能し収支も維持出来る前提で、通貨を用いて取引するという行為自体を省き無償化する事で更なる効率を得ようとしますが、ここでも無償化した取引の有無となる境目で取引を悪用しようとする者が居れば正常に機能出来るポテンシャルがあったとしても機能出来なくなります。


そうして段階的に実績を積み重ねてそれを履行出来る構成員を育てて次の段階へと進んで行くのですが、そこには取り決められたルールにより構成員個々人の権利が保障され安全が保障されているという前提となる状態が必要になります。自らが権利を認められていないのに相手にだけ権利を認めるという事はまずなく、強制するなどが行われた時点で既に仲間ではないという認識をどちらかが持っている可能性があり、ルールを正しく運用出来ません。個人の主観の世界からすれば相手は自身の主観の世界の中に居らず外に居るからたいした影響はないと考えている可能性があり、また強制する命令権を持つのが権力主体となる集団のリーダーだとすれば、その強制は矯正される側を仲間ではない、少なくとも対等に扱う存在ではない、とみなしているとも言え、同時に強制される側はその権力主体となる法人格から見捨てられる形になります。ここでは性質の悪い者が不正行為を行うために間違った行動を正す為に強制する場合を考慮しません。

そして集団内部に居る筈だが集団の対等な一員としてみなされなかった者は、しかし強制される事で税などは同じルールで徴収されて不満を持ち、少しでも不利な立場に追いやられるのを避ける為に押し付けられた不利な状況を作り出すルールを守らなくなっていきます。

するとルールが守られないので積み重ねた実績により信用を得て取り決められたルールが根底から崩壊し、今までと同じ様なシステムで社会を維持出来なくなります。そしてどの段階のルールが守られなかったかで、その段階まで積み重ねたルールを逆戻りさせる事になります。


もう一度言いますが私達は社会の中で異なる知性の高さを持つ者が混在して生活しています。知性は低いが知能は高い、つまりは誰かの解明した知識だけを覚えて利益のみを追求しルールの根拠や社会の維持に必要な条件などを考えない者が権力を握った場合、自身から見た主観の世界はある程度は広いと言えますが同時にその主観の世界は利益のみに特化し、その主観の世界にある概念もまた利益のみに特化してそれ以外の要素を持たないものが多くなる為に権力を行使して利益を得る方法は思いつきますが、権力を行使してその権力を与える根拠となるシステムの維持運営する方法は疎かになり、その行為行動はその権力を行使する管理者の行為行動ではなく、その管理者に従う配下の行為行動と同じになります。

そうすると誰も管理しなくなりシステムは維持運営出来ずに劣化し、その劣化による悪影響でシステムからの恩恵が減少し収益が悪化し、その影響で更にシステムの維持運営コストが圧迫され悪化します。しかしその時にも知性の低い管理者は自身が間違っていない行為行動が出来ていると主張します。そしてその主張を批判する者を得た権力で排除しようとし、その権力者が居なくなるまで状態は問題を抱えた状態はなくならないままになります。

その様な権力者は自身の利己益のみを重視して社会を維持する事や社会の属する者達の権利保障については優先して考えない為にそういったコストを増加させる物事は自身の主観の世界の外へとなるべく置きたがります。すると社会は中枢に居る者達にとって都合の良い主観の世界を形成し、それ以外の者達は不当に扱われる為に権力者に従わず、社会は機能を麻痺させ、社会の恩恵を受けられない者が出始め、社会の中枢ではなく末端となる周辺部から影響が現れ荒廃していき、最終的に社会は混乱し崩壊します。


この影響の与え方は社会におけるどの様な場所や地位においても発生し、それぞれの、ここでは位階と表しますが、自身が社会を機能させる為に受け取った権力を自身の利己益を得る為に使えば使う程にその位階より下位の位階に居る者達は悪影響を受けます。初めは正常に機能していた社会システムも末端に現れた知性の低い者が自身の欲求のままにルールという制限を外し行動する事で優位に立ち競争に勝ち残り上位の位階を得て、更にまたその上の位階を得ようと画策していく事で、徐々に腐敗は末端から中枢へと侵食し、その腐敗を止められないのであれば社会は病に侵された様に機能不全となり死に絶えるでしょう。

しかしその知性の低い者が最上位の権力者になり自身の利益を得る為に支配しているとやがて機能不全による影響が末端から、その権力者の認識出来る状況の外部から想定しない形で発生し、それに対してその権力者は『自身は悪くない』と主張してしまえるのです。


その知性の低い者というのはそれぞれの位階においてその位階に求められる基準を満たさない者と言え、しかし基準を満たさず分からないからこそ権力を使えば今より楽に利益を追求できると考えて上の位階を求める様に行為します。しかし知性が足りない為に自身の主観の世界に求める位階に必要なだけの概念の高度さを持たないが為に何が足りないのかを認識出来ず、それを指摘されても形として見えない概念の何が足りないのかが分からず、そして自身が間違っている証拠を見せろと言い、他者に全知存在である事を要求し、他者が全知存在でない事を理由として自身の正当性を主張する過ちを犯して、罰せられないならルールを極力排除して優位に立ち競争に勝ち、他者の位階を奪う事で、望む結果を手に入れようとします。

その場合の行為は他者から見て、他者の権利の集約とも言える管理者権限を利己益の為に奪う様に見え、自身でシステムの維持をするのではなく他者の維持してきたシステムを奪おうとする行為と判断され、これは狩猟民が農耕民の育てた作物を奪う為に農耕民を襲うのと同じだと受け取られます。狩猟民にとって獲物は狩るだけで獲物が居る環境を自らが作る必要はなく、自然環境に任せれば良いと考えているのと同じだと表現出来、社会とは自らの居る環境を自らの手で作り出していくという考え方と矛盾し、それ故に略奪者などと呼ばれます。自身の権利で保証される所有物以上を他者が同じ様に分配された物を奪う形で利益を得ようとするからです。

その為、狩猟民もしくは肉食獣などと呼ばれます。それはその者が求める権利があったとして、まだその権利を得る資格がないと言え、まだその資格を得る為には誰かに管理されていなければならない状態であるとも言えます。その管理下で必要な経験を得てルールの詳細を知り根拠を知りようやく管理される側から管理する側になる資格を得る事が出来ます。この管理されている状態で自身の利己益を求めて自身の管理者の地位を奪おうとしない性質を示したり、同じ位階に居る者の利益を奪おうとしない性質を示した者を従順である為に、羊若しくは草食動物と表現する事があり、その管理者を羊飼いなどと呼ぶ事があります。

羊飼いは羊が誤った行動をして怪我をしたりしない様に或いは迷子になって守られない状況に陥り肉食獣に襲われる可能性を排除する様に配慮したり、羊を誘導して安全な生活を保障する役割を担います。そのコストの対価として羊毛などを貰い収入にして生活します。これは管理者が管理下の者を適切に管理してその者の生活を保障する代わりに対価としてその者が作り出す生産物の一部を収入とするという形態の表現として使われます。


狩猟民と呼ばれる者は見方によっては子供の様にも見られます。環境を維持している者からすれば環境を維持しようとしないでそこから得られる利益ばかり得ようとする者は、甘えがあり子供の様に見えてしまいます。誰かが何とかしてくれる、パパやママが何とかしてくれる、と思っている様に見えます。


ですが自身がルールを守ろうとするだけでは社会は維持出来ません。社会とは1人で作るものではありません。社会を作るには自身だけではなく協力者が必要になります。しかしその協力者を装った悪人が、羊の皮を被った狼などと称される者が混ざり込み、周囲に気づかれない様に集団の中で羊と称される者を食い殺し居場所を奪い数を増やす可能性があります。

これは社会を維持運営していく為にルールを守ろうとする者を知性が低いために社会を維持運営する為に必要な概念を理解出来ない者が自身の考えでルールを守らずに制限を外して有利になり利己益を稼ぎ競争に勝ち残り数を増やす事の比喩として使われます。自身がルールを守るだけでは他者の悪意を放置し自身の属する環境を維持しようと労力を掛ける者程不利になり競争に負け生き残れなくなり、ルールを守ろうとする者が居なくなってしまいます。

偶然にも自身は生き残るかも知れませんが環境は悪化の一途を辿り、徐々に生きづらくなっていき、やがてルールの定義されない部分を悪用したりルールそのものを悪用したりする者が増え社会を崩壊へと導きます。

それを防ぐには、ルールを守ろうとする者が多ければ多いほど環境は維持されやすくなりますのでルールを守る者を増やす必要があり、では性質の悪い者にも守らせるにはどうすれば良いかと考える事になります。その一つの方法として外部から悪影響を与え、負荷を掛け、守らなければ環境が維持出来なくなって苦しくなる、ルールを守った方が苦しみから逃れられるという状況を作り出す方法があります。分かり易く言うならば、ルールの根拠部分が分からなくなってルールを守る意味が分からないのであれば、もう一度ルールが何のために存在したのかを体験させ再認識させる、という方法です。

しかしそれにより社会が維持運用出来たとしても、外部から負荷を掛けなければ維持出来ない事に変わりも無く、そして本来なら不必要な苦しみを与える結果になり、その行為そのものが社会を作る為の目的に矛盾しますが、そうでもしなければ社会を維持しようとしなくなる者達が多数占める為に最大効率を考えて実行しなければならない状況に陥っているとも言え、未だそこに居る者達には自制して環境を維持する事が出来ないという証拠でもあります。未だ資格が足りないと言え、自由な権利を与えるには早いという結果に辿り着きます。


私達は快感原則に従って行為します。間接的で迂遠で複雑で分かりにくいものよりも直接的で短絡的で単純な分かり易いものを好みます。しかしその選択は自身の属する環境を維持する為のコストを考慮した選択になるかは疑わしく、私達の根本的な性質が知性の低さ、これも快感原則に従うなら知性は低くなるのですが、それと相まって自身の主観の世界で問題ないと思った行為を選択しますがその考慮する範囲は自身の主観の世界の広さと精度によって限定的になります。

結果として、安易な選択をし続け資源を浪費し、やがて高い基準を要求されそれを達成しようとしても既に資源が足りずに達成出来ないなどの結果を招きます。

ルールの根拠を知ろうとせず楽な選択を繰り返し、形だけ真似て繰り返す者が居れば居るだけ低い目標しか達成出来ず、資源を浪費し同じだけの資源を用いても完成形は低い品質となり、それを繰り返す事で獣に近づいていく事になります。それが獣の辿った末路であり、可能性を失い続けた者の末路でもあります。

そして私達は一度、物理的な解決策だけでは可能性を潰えさせて獣へと辿り着きました。爪と牙を用いたルールでは私達は獣にしかなれませんでした。制御出来ない食糧の供給により飢え苦しみ、台風などの自然災害に対処出来ずに風雨に晒され苦しみ、予測できないリスクに怯えるだけの存在でした。しかし私達は知性を得て、その獣にしかなれなかった末路をやり直す機会を得ました。


物理的な行動だけでは多くのものに負けるだけの小さく弱い存在にしかなれなかった私達が自身の行動次第で自由に選択出来る権利を得たのです。私達が獣のままで居るしかないのか、それとも人と呼ばれるに足る知性を持ちそれまで負ける事しか出来なかった存在にも対処出来る様になるか、或いはどの様な性質を示すかの選択で、鼠の様になるのか獅子の様になるのかハイエナの様になるのか狼の様になるのか象の様になるのか鷹の様になるのか白鳥の様になるのか牛の様になるのか犬の様になるのか、それを自身の行為で表現して選択する事が出来るのです。それは自らの発言で実現する事ではありません。自らの行為行動そのものが、自らの活動表現全てが、自身が何であるかを表現してしまいます。

鳴き声を上げるのではなく自らの表現の一部として自身に暗示を掛ける様に言い聞かせ『自身はこういう存在だ』と主張して、そうある様に活動するのです。『自身は獅子の様に雄々しい』という鳴き声を上げるのは簡単ですが、その行動がネズミの様に隠れて逃げ回りながら誰かの食料をかすめ取る様では自己実現はなりません。『自身は善良でルールを守っている』と鳴き声を上げるのは簡単ですが、その行動が罰せられない様に証拠を残さず誰かの監視の目を逃れて社会の中に居る誰かの利益をかすめ取る様に利己益を得る者がその主張の通りの存在には成れず、鳴き声を上げているだけにしかなりませんし、また、鼠の様な性質を示しているからこそ『自身は善良でルールを守っている』と主張する事で他者の目を誤魔化す卑しい性質を示していると言えます。どれだけ形を真似ようとしても自身の性質により真似る形以外の部分で性質により偏向した価値観で判断し選択する為に、卑しいと表現される者は卑しいままの判断をし、同じ知識を扱っても同じ行為を行っても自身の求める選択肢を選ぶ事で卑しい結果を生み出そうとします。


それは先ほどまで言いました様に、狩猟民や肉食獣と表現される者にも言える事です。その性質がいまだ自身の居るべき環境に相応しくなく、自身の役割を担う上でその役割を定義し分担し機能させている環境を壊す可能性があります。これは狩猟民族内で環境に依存した獲物の数をその地域に住む者で共有した狩り方を覚えて環境に適応する者だけが狩猟民として生き残れる事と同じと言え、それが分からない知性の低い者は狩猟民族の中に居て狩りのルールを共有出来ず不和を起こし、獲物を自身の利己益の為に多く狩り、全体の中に居る事で保証された自身の権利より多くを求め、他者に保証された獲物を狩れる権利を奪います。

もしそこで知性の低い者が勝ち残ればそれが強者のルールとして適用されるかも知れませんが、それ自体はそれまでも同じ様に適用されてきたルールであり、そのルールではそれまでの狩猟民族の集団としての機能と規模を維持出来ないからこそそれまで集団内部で以前までのルールが取り決められていた事が分からずに実行しただけかも知れず、結果として狩猟民族として集団を維持する為に以前と同じルールが適用され、しかしまた同じ様に知性の低い者が現れ同じ方法で権力を奪いリーダーとなり、知性が低いために何度も不必要なやり直しを繰り返していると言え、しかし当事者は自身が強いから出来るのだと思い込み、"なぜ"そのルールになっているのかを知性が低い為に考えようとせず同じ過ちを繰り返し、知性の低い者が出現する集団は何度も同じ逆戻りを繰り返す事になります。

その繰り返しによる苦しみの経験を伝承し、再発を防ごうとしますが、起こらなくなった事象からのレスポンスが得られずに"なぜ"してはいけないのかを理解出来ない様になり、考えずにチャレンジアンドレスポンスしてまた苦しみを受けます。更にその繰り返しにより経験を伝承し、安易にチャレンジアンドレスポンスをする前に"なぜ"してはいけないのかを自身で考えるだけの知性を身に付け、そしてその答えを自身で導き出せるようになって初めてその集団はその繰り返しによる苦しみという呪縛から抜け出せます。そのメビウスの輪などと称される苦しみの連鎖から脱却し昇華する為に教育により知識を継承し、かつ知性を伸ばし思考する様にしてチャレンジアンドレスポンスする前に推測する習慣を身に付けさせます。

その狩猟民族の中で狩りが上手く戦いでも強いが知性の低い者が『自身が上手く獲物を狩れるから多くの獲物を狩っているだけだ。そこに何の文句がある?』などと主張したとして、それに反論する様に『短い期間で多く獲物を狩れば獲物が居なくなって飢える』と言ったとしても、『獲物が居なくなるのを明確に証明してみせろ』と言い返されると反論出来なくなります。これは狩猟民族が獲物となる対象を管理していない為に証明出来ないものであり、同時にこれに応えられるのであればそれは獲物の数がどれだけいるかを管理出来ていなければならず、証明するには少なくとも1段階上の知性を持っていなければ出来ません。そしてこの場合の知性の低い者はその知性の低さからそれを理解していない為に、反論出来ないのは自身が正しいからだと錯覚します。もし自身が正しいと主張するなら獲物の数を調査してどれだけ獲物が居てどれだけの頻度でなら狩る事も許容されるのかを証明しなければならないのですがそれが分からないという事です。これは主に自身のチャレンジアンドレスポンスの結果から獲物の増減推移を考慮はするが、狩猟民族全体で同じ事をすればどうなるかを推測出来るだけの知性が足りない為に起こり得る事で、以前も比喩に使いましたが『自分だけの創世記』を始めていると言えます。そのチャレンジアンドレスポンスがそれまでと変わらないもので根本的な問題を解決する新たな要素を持たない事に気づけないのです。


その狩猟民族の社会の中での問題は当然、そこから文明を進展させた農耕民族やそれらを統合した文明社会においても起こり得ます。

分かり易い例で言えば環境資源です。先ほどまでの例で言えば獲物は環境資源でした。自身達で管理せず環境が与えてくれるリソースでした。それと同じ様に農耕民族では土壌の栄養素が同じものになります。そして経済なら金銭が通用する基盤などです。


例えば、ある畑があり、以前までの持ち主が上手く管理をして栄養が豊富だったとします。そこに新たな持ち主が来て、管理の手間を省いて作物を育てたとして、以前の持ち主が管理した事で保持されていた栄養が作物に良い影響を与えて豊作になったとします。管理の手間を省いてコストを軽減し更に以前と同じかそれ以上の生産物を得たとすればそれだけ良い実績を出したと言えますが、それは正しく評価されているのかと言えば評価されていませんし、また、その新たな管理者が自身の能力で良い結果を出したと錯覚出来はしても実際にはそうであるかはまだ分かりません。

ですが新たな持ち主は自身の能力によるものだと錯覚しているにもかかわらず周囲から認められて他の畑も任される様になったとすれば、同じ様に以前の持ち主が畑を管理して栄養を豊富にしている限りは同じ成果が期待出来、そして根本的な成果の根拠を知らずにチャレンジアンドレスポンス出来てしまいます。しかし管理の手間を省いているのでいずれ以前の持ち主が畑に蓄えていた栄養がなくなっていき、収穫量が減り同じ成果が出なくなり、以前までと同じ成功が出来なくなります。もしそこでその自身が成功したと錯覚している者が、以前の畑を別の誰かに命令して管理させたとすれば、その畑からの成果が減少しているのは現在の管理者の能力不足だと主張する事が出来、自身が転々と誰かが管理して栄養を豊富にした畑を渡り歩いて以前の持ち主が積み重ねた成果を奪い取る事が出来てしまいます。

その悪影響が問題になる頃にはそうやって自身の実績を良く見せた者は他よりも多い収入を得た事でその地域に居なくとも生きて行けるだけの財産があるかも知れず、責任追及される前に逃走する選択肢が生じているかも知れません。その者にとっては自身のした事を知らない新たな土地で同じ事をすれば良いのですから。或いは、得られた実績から権力を得て、悪影響を知った者達を権力で黙らせて罰を逃れようとするかも知れません。


例えば、教育する者が居たとして、誰か優秀な者の子供を攫って来てその子供を育てて優秀に育てば自身の能力が優れているから優秀に育ったのだと主張出来てしまいます。しかしその教育者が優秀なのかは実際には分からず、長い年月の世代継承において優秀になる様に積み重ねてきた実績が子供を優秀にしているだけであれば、その教育者が凡庸か多少見劣りしていても素材が良い為に補正がかかっていると言え、これが認められるのであれば、自身の能力を高めるより誰か優秀な者の子を攫って育てた方が成果が出やすい結果になってしまいます。その実績を自身の能力だと主張して認めさせても優秀な子を攫って来れなければ次からは自身の能力に見合った成果しか出せず、言うなれば環境資源が枯渇したと言え、教育して優秀な者を育てる環境において自身の管理していない環境資源である為に、他者の権利を奪い取り誰かの成果を奪い取ったに過ぎないという事です。


例えば、優秀な能力を持つ男が親から子へと知識を継承していくのを見て、自身の能力では同じ事が出来ず、また優秀な者の知識や実績が欲しい為に、自身に都合良く操られてくれる女を用意して自身の子を孕ませた後に優秀な能力を持つ男の所へ嫁がせ、自身の子を優秀な男の子供だと錯覚させて知識を継承させて実績と知識を奪い取るという方法を実行する者が居たとして、その者の子供が優秀に育ったからと言ってその者が優秀だから子供が優秀になったのかどうかは分かりません。


これらに関して共通な事は相互主義、もしくは相互権利主義を理解していないという事実を示します。自身の権利を保障する為には他者の権利を保障する義務を負うのですが、やはり性質と知性の低さが影響します。性質が悪ければ自身の権利は保証させて他者の権利は罰せられない様に侵害する方法を模索し、実質的に相互主義を履行しません。知性が低ければ"なぜ"してはいけないのかが分からず、他者に自身の行動の正当性を『どう間違っているのか明確に説明してみろ』などと反論して求めてしまいます。


そして社会概念は目に見えずその表現物しか物理的に存在せず、自身がその表現物に付随する概念の要素を不足なく知っているかどうかは他者の目に見えず、結果として実績を積み重ねる事で『およそそうだろう』というものから『まず間違いないだろう』という所まで信用を積み重ねて判断出来る様にします。しかし明確に管理出来ていない環境資源においては明確な根拠を提示出来ず、主張された行為の明確な結果は遅延されて反映され、行われる若しくは行われた時に明確な結果は出ません。その主張する行為が正しいかの証明は結果においてのみ証明され、その時点では証明されず、しかし個人の規模で見れば直接的で短絡的で単純な結果が目に見える形で結果として発生しており、自身の欲する成果、獲物を効率良く手に入れる事が出来ている場合が多く、それが環境に依存して管理しない資源が無限で自身の行為が何の影響も与えないという前提条件を無条件に肯定している事も分からず、そしてそれはそれまでの自身の経験、更に世代継承するに従って積み重ねてきた性質によるものだと言う事にも気づけない可能性があります。

こうして知性の低い者に知識を与えてしまうと必要な概念を理解しているかどうかが分からずに無自覚に利己益を追求する結果になったのなら、それは農耕民族を狩猟民族が襲って収穫物を奪う結果と同じ事が社会の中で行われてしまっている事を示し、社会環境を維持しようと制限を掛ける者を勝手に制限を排除した者が殺すという結果を招きます。


獣の生態系は獣の性質ではそれ以上の効率の良い快感原則に則ったシステムを形作れないからその結果へと収束しています。獣の知性の低さが認識出来る概念の少なさに繋がり、環境を制御出来ずに自身の主観の世界の外にある"良く分からない何か"からの干渉を受け、克服できるものと克服できないものを自身の能力に合わせた選択をして得ています。その出来上がった獣の習慣を壊せば獣は現在の生態系を壊し、自身でも良く分からない影響が自身の外部からやってきて自身や自身を含めた群れを苦しめるかも知れません。その新たな選択をするには、その選択を"なぜ"選んだのか、"なぜ"その選択でなければならないか、更にその選択によって生じる結果がどの様にレスポンスを返してくるか、を推測出来なければリスクを軽減する事が出来ず、獣では知性が足りずに場当たり的なチャレンジアンドレスポンスをして常にリスクを抱えて行動するしかなく、そのチャレンジに失敗した存在が淘汰され、成功したものが現在の状況を作り出します。それは現状の持ち得る資源を使い、より快適な環境を手に入れようとしたが獣の知性ではそれ以上の成功を得られなかった、可能性を見出せなかった、という事実を表し、その成功率を上げるには知性を高め対象となる問題をより正確に詳細に分析して認識する必要があり、獣の知性ではそれが出来なかったという結論に至ります。

それと同様に魔導学においても同じです。新たなチャレンジアンドレスポンスを行うという事はそれが社会の中で新しいものであるならそのレスポンスがどの様に返って来るのかを推測しなければリスクを低減出来ず、その行おうとした魔導学実験における結果の再現により得られた成果だけを見て正しいかどうかの判断は出来ません。その影響が環境に対してどう影響しどの様な変化をもたらすのかを事前に分析し管理する必要があり、それが出来なければ常に大きなリスクを抱えて試行を繰り返す事になり、その失敗は私達の破滅という形で返って来るかも知れません。

しかし同時に、直接的で短絡的で単純な結果というのは分かり易く、そしてグローバルメリットを追求した社会において個人の行う1つの行為の与える影響は小さく軽視されがちで、問題があったとしても見逃される可能性があり、結果として容認され全体に波及しグローバルメリットを失うという結果へとたどり着きます。

そして、直接的で短絡的で単純な結果を求め資源を使い潰し、資源がなければ開発出来ない技術や解明できない知識を得る機会を逸し、可能性を途絶えさせ、より低い基準を限界にした完成形を表現する事になります。

そこからまた教育の失敗により知性の低い者が現れ、社会を混乱させ資源を更に使い潰し、到達出来る完成形を更に低下させ、その繰り返しにより資源を失い可能性を減じさせ、いつしか獣と同じかそれに近い水準にまでたどり着く末路を迎えるでしょう。」


エールトヘンは締めくくる。


「たとえ獣が高度な知性を得たとしてもその限界に挑戦する部分では常に、先ほどの例で言う狩猟民族と農耕民族の例えにある様な状況になります。まだ新たに得られた概念の実績による経験の反映が終わっていないからです。もしそこで狩猟民族の様に資源が枯渇したからと言って他の地域に移動したとしても、結局は自身を含む集団の在り方に問題がある為に資源が枯渇するという問題を解決出来ていない為に、新たな場所でも同じ結末を迎えるでしょう。資源が枯渇しない様に環境を整備して循環システムを組み上げる事が出来ていないという事実が存在し、また、循環システムを構築しても満足の行く基準を満たせない為に更に多くを求める為に望む循環システムを追求するから資源の枯渇を招くとも言え、それが分相応なのかを考える必要が出ます。社会の中における概念の精度は求める目的を基準に決められ、まず私達が望む目標を設定しどれだけの品質を維持する必要があるのかを明確にしなければ決める事が出来ません。それにより生活における社会活動の精度が決められその基準を満たす様に個々人に要求され、履行する事で目的を達成します。

お嬢様は貴族です。社会の中には知性の高さの違う者達が共存しています。それは老若男女という違いがある為に取り除く事が出来ませんし、長い年月を掛けて性質を改善して知性を成長させる性質を有す様になった者とそうでない者の違いも存在します。社会は外部から移民などの価値観の違う者を取り入れて揺動し、環境の変化から今までの価値観では対応出来ない為に変化しようとして揺動します。しかしどの様な時も私達が望むのは種の生存と繁栄であり、目的が変わる事はありません。社会に属する選択をした時から相互に権利を保障し合う義務を負い受け容れており、自身の知性が低く理解出来なければ義務を履行しなくても良いという事にはなりません。しかしそれが分からない程に知性の低い者は自身の理解出来る範囲でチャレンジアンドレスポンスしその結果からして良い事と悪い事を判別する事しか出来ません。その様な者が増えれば社会は混乱し劣化します。管理者はその様な者を放置せず、教育し知性を高めさせる様に指導する必要があります。指導するにはまず自身が知性を高め、何が間違っているのかを認識出来る必要があり、その為にもさぁ、今日も頑張りましょう。」


・啓蒙主義を説明する時に、光が差し込む云々で説明したと思いますが(読んでない方はすいません)。そうやって1つ1つ照らした場所が増えていき、より多くの認識出来る場所が増えて(自身の主観の)世界が明るくなっていく、という部分です。


・うぃきさんの『カインとアベル』の内容の意訳で今回の小話と違う冒頭だけ書いておきます。

ーーういきから転載

ある日2人は各々の収穫物をヤハウェに捧げる。カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めカインの供物は目を留めなかった。

ーー

ある日、カインとアベルは神様に捧げものをした。カインは田畑の実りである収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を神様に捧げた。しかし神様はアベルの捧げものを大層喜びはしたのだがカインの捧げものはあまり喜びもしなかった。

ーー

という所を今話の冒頭を差し替えるとうぃきさんのページの意訳になります。

ですが今話とうぃきさんの所にある話では見ている部分が違います。

今話は農耕民と狩猟民の関係ですが、「カインとアベル」の話の焦点はそうではなく、あえていうなら農耕民と牧畜民の関係です。

それでなぜ牧畜民が優遇されたかと言うと、数を増やすからです。農耕民にはそれがなかった、というのが「カインとアベル」の話の焦点の一つです。もう一つは承認欲求ですが後に回します。

もし「カインとアベル」の話の中でカインが開墾をして新たに畑を作り、そこを自身の子などに任せて得られた収穫物を捧げものにした、というならカインもアベルも同等の扱いを受けたかも知れません。

例えば、会社で働く従業員が居て、ある人は仕事を真面目に働いて評価を得た。別のある人は仕事を真面目に働きかつ、人材育成に協力して同じ様に真面目に働く人物を育成した。それでリーダーが人材育成に協力した者を優遇した。さてこれは不当か正当化、という話が「カインとアベル」の話です。で、同じ勤務時間なんだからどちらも仕事しているんだから同じ評価にしろよ、と妬んだのがカイン、となります。ここの例えで分かったと思いますが、あえて言うならマネージャーとその配下の従業員の扱いを同等にしろ、とカインは言っているわけですw。

要は、今あるだけの生産能力で得られるのは今までと違いはない。それ以上を望むなら生産能力向上させる必要があり、羊を増やすのはその目的に叶う、農作物の収穫はこれまでと同じ、と言えます。そして"肥えた"という部分で非常にうまくやったと表現しています。これに対するのならカインは畑を上手く管理して非常に実りの良い収穫物を捧げものにした、と表現されていなければならないでしょう。そうでないのは、教えられたままに行動した結果でこれまでと何も変わらないあえて評価すべき部分がなかった、という事なのでしょう。

で、意味を2通り書いてしまってますが、じゃああえて言うならどっちなんだ、と言えば単純に読み解けば後者の"肥えた"という部分で努力して成果を出した、という話で解釈すると無難だと思います。もう一つの話はキ○ストにしてもユ○ヤ指導者にしても「良き羊飼い」という表現をし連想出来るものが付随してしまっているからそう解釈出来てしまうと言えます。この解釈でちょっと深読みしすぎるなら"羊"を比喩として考えると良い成長をさせた人物を新たな配下として紹介した、とも解釈出来ます。

で、もう一つの要点が承認欲求です。欲しいものが得られないのでアベルが居なくなれば自身がそれを貰える、と考えている為に、自身の能力を向上させてアベルよりも成果を出して自身が褒められる様には努力しなかった、という部分での間違いが指摘されています。


で、今話と合わせると、狩猟民<農耕民<牧畜民と言う様な関係で評価されていると言えます。社会の中では所有権のない価値のある物というのはまず存在しないので奪うという行為そのものが間違った選択と言え、

狩猟民ー>他人の成果を奪おうとする者

農耕民ー>生産はするが自身の事を優先する者

牧畜民ー>数を増やし生産力を上げそれを管理する者

といった比喩になります。土地はそのままでは増えないので生産力は限定的です。牧畜も土地がないとダメですが、農耕の様に耕さないとダメという事はないので拡大しやすいです。


で、カインとアベルの名前がどういった意味かなぁと考えると、

カインー>鍛冶ー>外から叩いて形を成すもの。Cain->(物理的な)行動をする者。

アベルー>内から増やして形を成すもの。Abel->従順に基盤を作ろうとする者。

名前からすればこんな感じでしょうか。書に起こすにあたって、どの様な名前が伝えたい意味を分かり易く伝えるかを考えて名を後付けで決める、とかだと思います。襲名というやつです。最近戦国ものを読んでるので、元服前、元服後、死んだ後で名前が変わるとかで、後になったら過去の時の話も後の名前で話される、とかそんなやつです。それが現在の状態も含めて伝わり易いから、となります。


カインとアベルを狩猟民族アベル農耕民族カインとしてウィキの中で、"遊牧民の農耕民に対する優越性を正当化するものと、解釈する向きもある。"と説明されていますが、これがカインとアベルの話の誤解釈から生まれている、というのが特徴的です(<-私見)。

この辺りで"人は見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞く"という実証が出来てしまいます。他者により優位に立ちたい、自身を無条件に肯定する何かが欲しい、気持ちよくなりたい、という感情が"遊牧民の農耕民に対する優越性を正当化するもの"という解釈を生み出してます。



・こんな感じで聖書を読める読解力が必要になりますw。暗記するのはただ単に後世に情報を伝える為の方法で、そこで止まるならいわば代用品でしかないです。それが出来るから偉いとかマウントポジションを取る時点でまだまだ精神的に未熟と言えます。書かれたものをどれだけ理解して活かすか、が重要点です。カンニングがダメな理由はこういった所で分かります。

一番悪いのは答えがあるものの答えそのものを盗み見て真似る事、次に悪いのは答えを出す方法を見て真似る事、その次に悪いのはそのまま暗記して真似る事、その次にようやく暗記してでも答えを出す方法を見てでもその内容を理解し要点を把握して概念を真似る事です。ここまで来てようやく人間としての基準に達し、それが出来る様に教育をする必要がありますが、今の世の中は科学を間違った解釈で扱ってしまったのでそこに辿り着ける状態ではありませんw。科学の物理的な現象を明確に再現し論理的に証明するという面を忠実に実行するなら私達はいまだ「人間」を定義出来ません。

細胞がどの様に組み合わされ機能し部位を作りそれが集まりどの様に機能し「人間」という機能を実現しているかを(明確に)知りません。それなのに科学は万能だとか科学で再現できる事象に間違いがないからそれを行うのは行為として間違いがない、とか錯覚してしまっています。これは「社会」も同じです。この辺りが、人間機械論やラプラスの魔に感じる違和感の正体です。初めから「人間」というものを見た時点で概念の世界で扱っており、対象と対象以外に分け、曖昧な不都合を対象以外に全て押し付けているから対象を定義出来ている、という部分に考えずに抽出して切り出せば、当然問題点は残ったままですが定義は出来ているのでその定義を扱う者は自己正当化出来る、という間違った結果になる可能性があります。「整合性がない」と表現できる状況が分からないまま使ってしまうという事です。


・ノド->n,[o] ,d:

n->運動、o->男性系、d->与えられる:-->流離う(動き続ける)事を運命づけられる<--犯した罪により誰もカインを受け容れず定住させない

<--使えるシンボルの少なさと多くのシンボルを連結させて理解出来るだけの知能を持たないからこれ以上の名付けが出来ない、という理由で短い。

ーーーー>ここはヘイトスピーチ

ーー>お前に関わると持っているものを羨ましがられそれを奪おうと襲い掛かって来られるから関わらない様に皆に伝える。

<--某お隣の国に良くいそうな方々の事ですw。関わらないのが言いがかりを付けられない最善の手段、というやつですw。

<----ここまでヘイトスピーチ。


・聖書での7倍の復讐は、神様がカインの為にするのではなく、自身が非があってもカインは必ず(「必ず」が完全数の「7」にかかる)逆恨みして復讐する、という意味になります。「倍」は2の意味ですが、「ツゥー」ではなく「ダブル」や「バイ」などの方向性の変化をして、復讐(正当性のない攻撃を受けた後にやり返す)のようで復讐ではないもの(正当性のある攻撃を受けた後に攻撃されたからやり返す)という意味になり、「7倍」です。つまり、「必ず逆恨みして復讐する」と意訳出来ます。

あれです、アスクレピオスの2本の蛇が巻き付く杖、と同じです。唆して体に傷をつける、が通常の傷を付けて弱らせるのとは違うから蛇は「2」匹、というやつです。

簡単に言えば、こういった場合の2は「alter」か「shift」として扱われると言う事です。



ーー>しかし廃棄処理しないでも許される許容量というのは漠然とし目に見えず、複数の者が同じ許容量の一部を使って廃棄処理せずに排水しても誰もが自身は正しく廃棄処理したと主張出来、そしてその結果は遅延して発生する為に、明確に目に見える形で権利を定義していなければ誰が原因で悪影響が発生したかが分かりません。

<--経済の面でも起きてますw。担保の時とかは分かり易いですが、国家予算なんかもそうです。それが足りないから貨幣増刷で逃げる、がそれは水増しでしかなく増刷した分、貨幣全体の価値を下げる事で対応している、と言えます。銀行の資産運用とかもそうです。リスクを他者に押し付けて利益を出そうとします。


ーー>そして目に見えない包括的な概念は先ほどの例で言う果樹園の果実の様に明確に権利の行使と確保が出来ず、包括的な概念を表現する具体物の全てを管理出来ないが為に、鼠が持ち主の目から逃れて食糧を盗むかの様に、管理不足により治安の維持が出来ずに権利などの保証をないものとして概念の表現する具体物を得る事が出来ます。

<--分かり易い別の例えは中世以前で遊牧民による国境越えの略奪です。兵が居るのは要所であったり領主の住む場所だったりして、辺境では守りが薄くなり、略奪が容易になります。


ーー>その者の主観の世界においては自身の身近にある出来事を認識する為に必要な概念以外は存在しないか曖昧なままで、理解し得ない概念により生じているものは全て自身の主観の世界の外からやってくる者になります。

<--鳳テブナンの定理の与える印象と同じですw。


ーー>この様に私達は私達の知性の程度によって自身の主観の世界の大きさが変わるが故に、自身の主観の世界の中にない概念やより曖昧な概念はその不完全さから外部に依存する部分を含み、それは主観の世界の外から影響を与えるという形でレスポンスとして返ってきます。

<--前もどこかで例えましたが、よく漫画とかである「荒廃は辺境からやってくる」というアレです。その荒廃の影響で魔物も辺境からやってくる、とかも描かれます。つまりは自身はちゃんとやっているつもりだが、実際はちゃんとできておらず問題点を他者に押し付けた結果、ツケが溜まって荒廃が進み、自身の主観の世界の「外部から」問題がやってくる、という話です。要は端的に行って不況というのはその社会に居る者の過失によるもので、誰もまともに出来ていないから発生している、という事ですw。内部で不正をする者を放置したり、利己益を得ようとしたり、維持運営にかけるエネルギーをケチったり、維持運営する気もなく表面上だけまともにしている様に見せて利己益を稼ぐ者に権力を持たせたり、というのが問題になって不況という形で現れる、というのが現実です。勿論、どれだけ権力者が努力しても覆せないものもあります。多国間貿易で特産品がなくて貿易で負け続けるとどうにもならなくなりますw。そこから考えて日常生活をどう過ごすか、というのが民主主義的、というか現代社会での活動基準だったりします。自身は仕事しているからちゃんとやっているから責任はない、というのがまず妄想だと言う事を理解しなくてはなりませんが、楽して贅沢したい、という快感原則に沿った考えと矛盾するのでそうやって行為する者はほとんど居なくなる、というのが現代社会です。なにせ、ほとんどが他者から与えて貰ったものだから、となります。その中で、メシが食えるなら従う、食えないら従わない、という単純明快なルールで動くから自身に不都合ならルールも守らない、という者がほとんどになり、社会の不都合が表面化すれば途端にうまくいかなくなります。


ーー>しかしそれにより社会が維持運用出来たとしても、外部から

<--なぜ自制が必要なのか、という部分の説明です。


ーー>たとえ獣が高度な知性を得たとしてもその限界に挑戦する部分では常に、

<--ディス イズ お米さん。お米さんが経済侵略する根本的な理由ですw。


ーー>ここは蛇足

産業革命は何を間違ったのか、というのは、産業革命自体は喜ばしいものだと思えますが、それを扱う者の品質が伴わなかった、という部分です。貴族が全部今まで管理してきたが同じ様にやってもうまくいかないなら権利を寄越せ、ではなく、自身達も何が上手くいかない原因かを調べてうまくいく様に社会を組み直す、というのが必要なのであって、それと貴族を排除するのは関係なかったりします。貴族も腐敗していたら邪魔なので排除はしなければなりませんが。自分達が産業革命で過度に向上した生産物を扱えば社会がどうなるかを、「都合の良い部分」だけを見て決めるのではなく、そのデメリットも考える必要があったが、そういった管理者視点の考えは、長く農民や商人などをしていたから気づけもしなかった、というのが問題点です。

その時も「皆が貴族の様に」と皆できっちり管理していきましょうね、という話があったそうですが、それを民衆のほとんどは「皆が貴族の様に」"贅沢が出来る"と考えてデメリットを見なかった、というお話があり、現代社会はその時から間違ったままですw。でも今更戻れませんw。そしてそうやって自分達が信じて進めたものを間違いだと認めたら、殺してきた者に対してどういう風に思えばよいのかが分からず、そして自身が正しいと思って殺してきた事実が自身を快楽殺人者に仕立て上げてしまうから、どうあっても認められない、というのが現代社会の陥っている泥沼でしょうか。自身が罪に問われない為にはこのままいけるところまでいってしまわなければならず、そのうち、何かが好転して罪に問われなくなるかもしれない、という考えで動いてしまっているのがそもそも「間違い」ですが、それにも気づけません。

この辺りが、2000年前の人が言っていた様に「罪を隠す為に新たに罪を重ねる」と表現される事です。

<--ここまで蛇足。


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