S196 次のステージ
ジェロームは笑ってこう言った。
充分な資産を溜め込んで次のステージに上がる準備が出来た、と。
その言葉を聞いた管理者アレクは深い溜息を吐きそうになった。
この短期間でまともにやって出来るわけないだろうが。
と心の中で呟きながら。
アレクは管理者になって自身の管理する地域の法律を整備し、教化し、その基本原則として戒律で『奪わない、盗まない』などをしつこく繰り返してきた。そのシステム上で基本法としての戒律を基盤としてその上に乗る法律の取り決めを遵守したならどうやっても行為から得られる上限というのは低くなり、その分だけ、個人的な目標とされる充分な資格を持って次のステージに進む事が出来る基準を達成するには、アレクの計算では12ターム掛かる筈だった。
しかしこのジェロームは6タームで出来たと豪語した。これはつまり、ズルをした、という明白な実証に他ならない。
勿論、何か素晴らしいアイデアを出し世界を変えるだけの影響を与えたならその利益で6タームで到達などは充分に考えられる。しかしこのジェロームという男はそんな事もしていないし、凡庸で、ただ計算が出来るだけのつまらない男という評価しか得られていなかった。
すると何をしたか、という事だが、基本法となる戒律を無視し、集団の中で強要や騙しを繰り返し、通常よりも多くの利益を稼ぎ、その稼ぎをまた悪用して他者より優位に立ち更に不正な手段で稼いだ、という事だ。
なんとも悩ましい、とアレクは眉間を指でつまみ目を閉じた。
この男の先祖も昔はまともそうに見えた。ここに来て、日頃の生活の不自由さからある程度解放されて喜んで、『教えをしっかり守ります』とまで言って泣いていたのを覚えている。しかしどうだ。たった10タームにも満たない間にその思いも忘れ、そしてその性質の問題からか容易く不正行為をし、そして今、目の前にいる。
だからアレクは聞いてみた。
「お前は他者から通常の報酬より多く受け取った事はあるか?」
「ありません。」
「お前は他者に過度な金品を要求した事があるか?」
「ありません。」
「お前は情報を偽ってものを売った事はあるか?」
「ありません。」
「お前はこの後に価値が下がるというのが分かっていて現状の価格で売った事はあるか?」
「ありません。」
これだ。証拠もないなら罪になる事を犯してないと白を切ればそれでどうにかなると思い込んでいる。それが最初の約束を果たしていないというのも既に忘れている。いや、こいつの場合は、そもそももうそれが分かってないのか。環境が与える外部からの刺激でようやく『してはいけない』事と『しても良い』事の区別が付いていたのに、この場所へ来て苦しみから逃れてその刺激がなくなって、行動しても誰からも痛みを受けないからしても良いと錯覚する様になったんだな。教えを忘れないように何度も繰り返して世代継承していれば枠組みから外れない様に行動も出来たし、かつて受けた苦しみから得た経験を忘れないように何度も覚え直し繰り返して世代継承していればかつてと同じ失敗などしなかっただろう。そして自身が弱者として他者に同じ事をされて苦しんだ経験すら忘れて、与えられた恩恵で能力を得て同じ事を他者に行う。
アレクは目の前でその醜悪な様を見せつけられ、しかし目の前のジェロームは自身が能力があるからここに立って要求出来ているのだと、その顔付きや態度からその考えがありありと見える。
(結局、この男は何も理解出来ず、そしてまだこの場所に来るには資格が足りなかったのだ)
アレクは目の前のジェロームを見てそう思い、こう告げた。
「失格だ。お前を次のステージには進ませない。財産も没収。もう一度やり直しだ。」
「そんな!どうして俺だけ!俺を虐げるのか!あいつらは良くて俺はダメなのか!あいつらを贔屓するのか!それでも管理者か!」
分からない者に何を言っても分からない。それこそ懇々と説明しても、自身がなぜここに来る事が出来ているのかを分かっていないから一から全て再教育しなければならないが、それこそジェロームを贔屓しなければ出来ず特別扱いなど出来ない。ここに来て次へ進むステージを要求する者は自身の才能で『どの様な条件を揃えてここに立てば次のステージに進めるか』を考える事が出来た者達で、それが出来ていないジェロームを次へと進ませる事もなければ、ジェロームだけ特別に、他より贔屓してそれを再教育して教える事もない。世界を見てどうすれば良いかを知る事が出来る知性。それが次の段階へと進む為に必要な条件であり、決められたルールを使って他者に勝つ事ではなく、与えられた環境の中で決められたルールを用いていかに自身の住む環境を良くしていけるのかを示した結果として他者に勝った状態こそがそもそも求められているものだ。それが分からないジェロームに今、何を話しても『自身はちゃんとやれている。』と言うだけで何の進展もないだろう。
「連れて行け。」
「横暴だ!」
アレクはそう警備員に言い、警備員に連れていかれるジェロームは叫び続けた。
ジェロームが去った後にアレクは思い耽る。
そもそもそこで『自身の何が至らなかったのでしょうか?』と聞けない時点で考えが甘い。何もかも他者が決めたものに自身が罰せられない様な行動を付け足す事しか考えないからそうなっている事を考えない。誰も誰かの為にただ盲目的に従っていさえすればよい安楽椅子の様なシステムを用意して上げられない。そもそもそれに従おうとする者の理解度が足りなければ自身でそのシステムを破壊するからだ。今のジェロームの様に。それが分からない時点でまだ精神的に基準を満たさない未熟児なのだ。その様な者を次のステージに進ませる事はない。
アレクがそう考えている時に、ジェロームはこう考えていた。
あいつ、絶対許さねぇ。俺だけ認めず迫害しやがって。覚えてろ!絶対に仕返ししてやるからな!あいつが俺の下になった時、同じ様に何も認めてやらねぇ!
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。システムがどう構築されているのかが分からない者は自身がそのシステムを壊す行為をしていても気づかず、自身は正当な行為をし続けていると錯覚したまま他者にそれを指摘されて逆上する、と言う事ですね?」
「概ねそう。」
「社会というシステムはルールを決め、それに従い行動する事で集団での争いを減らし、集団である特色を活かして集団内部に属する者達に長所となる、役割分担などを用いたグローバルメリットで得られる利益を提供します。利点をより強調し欠点を低減する為に、行ってはならない行為を定義し、その上で利益が得られる行為を定義します。なぜなら全ての選択し得る組み合わせの可能性の全てをルールとして定義してはいられないからです。10の行為がありそれら全てが組み合わせられるとして、その全てをした良いか悪いかを一々定義しても居られず、それを一々全て教えている時間もないからです。そして社会の中で行われる行為というのはもっと多く、その全ての組み合わせを定義してルールとして書き表すだけの時間など誰にもありませんし、それを全て読んで覚えるという方法も現実的ではありません。
それならしてはいけない行為を先に取り決め、その中でしても良い行為行動だけを取り決めた方が効率が良くなります。自身の行動が基本原則となる『してはいけない』行為を行っていないかを判断すれば良いだけになるからです。例えば『商取引する』行為をするにしても、戒律として『盗まない』、『奪わない』というものが基本にあるなら、他者を騙して不当に金品を奪う真似や、ありもしない価値で売りつけて『盗む』かの様な行為をしてはならない、という考えに至り、商取引において、システムの中で構成員が健全に行為を行う指針となります。
ここではその基本原則を撤廃し、表面的な行動だけで行為を定義してセーフティが外れた状態というのは考慮しません。その場合は単により多くの制限で束縛するしかなくなり、システム維持のコストが跳ね上がり、システムを維持出来なくなるという結果は見えており、そこに行き着く程に知性の低い構成員で構成されている状況というのは制限を掛けてもその者の内実がまだそのシステムに参加するだけの能力を有していない、つまりは資格がないという結論にどうしても行き着くからです。そう言った意味も含めてシステムの構成員は皆がシステムの維持を目的とした行為を行う必要があり、形だけ真似て行動していれば良いという事はありません。
しかし私達はどの様な時も自身の持ち得る情報を基に判断するしかなく、知性が低ければ客観的に『してはいけない』とルールを定義する基本原則に基づいて判断する事が出来ず、気づけないままに自身は正しいと思って行為し、基本原則に違反して行為する可能性があります。
主観の世界は能動受動にかかわらず本人の意思により行動が選択されます。例えば『食べる』という行為をする際にものを口へ入れますが、私達は行為を表現する為に基本的に自身の体を使う事しか出来ず、自身の体で出来る行動でしか行為を表現できません。意識的に行為を区別しようと取り決めれば普段の行動からは考えられない奇抜な動作で行為を一意に表現する事が可能ですが日常生活においてその非効率さの為に、また、選択の種類の無さから同じ行動で違う行為を表す事が多くなります。更に道具などで行為の一意性を確保する事もありますがここでは割愛します。
例えば、求愛表現を考えれば分かる様に、分かり易い表現を示すとすれば、片膝を付き相手の手を取り目を見つめて告白する、或いは公式の場で着る様な服を着て日常で行われる行為との違いを出すと共に花束や指輪を贈って告白する、と言う様に体しか使えない場合はオーバーアクションが必要になり、それを何らかの理由で補い道具を使って行為を一意に区別出来る様にします。ここでも、表現である行動だけを真似て行為を真似ていない場合がある可能性は割愛します。
私達は自身の体で表現出来る行為の少なさから違う行為を同じ行動で行う事があります。例えば、大工が釘を打つ時に効率を上げる為に釘を口に咥えます。また、熱を出した時に体温計を口に咥える事もありますし、手だけではものを保持するのに足りないと紐などを口に咥える事もあります。味見をするのも食べ物を口に含みます。
しかしこれら全て『ものを口に入れる』という行動をしており、それを他者から見れば判別の付かないものかも知れない可能性があります。その判断を助長するのが私達が同じ人間であるという事実とそれに基づく経験であり、その経験の集大成と言える知識です。しかしそれも個々人の居る環境により違いが生じ、ある地域で取り決められた行為の表現は他の地域では通じない事もあり、その表面の行動だけを認識したとしても表現を通して成立するはずの行為に必要な条件をその行動を認識した者が知っているかとは無関係です。つまり、同じ環境に居ない者程、表現である行動から行為を推測する事が困難になっていきます。家族なら同じ家族の行動を見て何の意図があるのか分かるでしょうが、それを隣人、同じ地域人、同じ国、同じ世界の人にも同じ水準で判断しろと言っても情報の足りなさからより関係が疎遠な者程難しくなります。更にもし人間ではない知的生命体に行為の表現である行動から一意に判別しろと言っても情報の足りなさからより難しくなります。その行動がより共通の行動であり周囲に認識されるのであれば判別はしやすくなり、ある家族に特有の行動、ある一族に特有の行動、ある民族に特有の行動、ある国人に特有の行動、という様にもしその特有の行動が世界の中の大半が取る行動であり行為がほぼ推測される様になればその行動はほぼ間違われる事なく一意に特定される様になります。
しかしそうなるまでに多くのサンプルを得て行為を行動から一意に特定出来る様になる必要があり、より関係が疎遠な者程多くのサンプルが必要になります。実際にはより近しい人間程、その遺伝子上にそれまでの経験の結果を持っており、また、同じ環境下で起こる行動選択の可能性を知っているが為に、余計な起こり得る可能性を排除する事が出来る為に、多くのサンプルを必要としません。
私達である人間以外の知的生命体がもし私達の『食べる』という行為の表現である行動を見て特定しようとする時、私達をブラックボックスと見てそのメカニズムが分かっていないと、それだけ根底にある基本情報が欠けている為に多くのサンプルが必要になります。サンプルとなる情報が足りなければその知的生命体から見て、『食べ物を口に入れる』、『釘を口に入れる』、『体温計を口に入れる』、『紐の端を口に入れる』、『味見する為に食べ物を口に入れる』をどう判別して行為を特定すれば良いかを知る事が難しくなります。
その時、それは外部から対象を認識しようとする視点ではありますが情報が足りない為に正答と思われる、或いは妥当と思われる判断が出来ない状態にあり、未だ未分化な客観的な視点と言えます。その未分化な分だけ、選択の自由が残され、対象を見る者である観測者の性質や能力により判断が変わります。
例えば先ほどの『口に入れる』の例では、『釘を口に入れる』を『釘を食べようとした』と判断して『対象は釘を食べる生物だ』と誤認識するかも知れないし、それが常識的に考えて有り得ないと思えるのは"同じたんぱく質からなる体を持つ有機生命体"だから自身の持ち得る、サンプルとして提示されていない情報を基に判断出来るからです。それでも違いを特定して妥当な答えへと近づこうとすればより多くのサンプルを得て、どういったものを『食べる』のかという傾向を調べ要素を抽出し分類分けをしていく必要があります。その結果として外部から見る視点においても『食べ物』という定義が出来、初めてそこで『釘は食べ物ではないから食べない』という判断が出来、『釘を口に咥える』は『釘は食べ物ではない』から『食べる』行為ではない、と判断出来る様になります。
しかしより高度な社会程より多くの概念により構成され、そこで行われる行為を外から見て判断出来る様になるにはより多くのサンプルが必要になり、そうなるまでに混乱を起こす可能性が存在します。そこには経過措置と言われる、妥当と思われる判断が出来るまでの、観測者の自由意志による選択が許される期間が出来、観測者が利己益を優先すれば当然の様に妥当と思われる判断に辿り着かない選択をして、本来あるべき妥当な判断とは違う偏向した判断をする可能性がありますがここでは割愛します。
私達から見て私達の行為は、私達の持つ快感原則を基本情報とし、加えて私達が行為を表すのには自身の体だけでは全てを一意に表せない事も要因として、似た行動や同じ行動で違う行為を表現しますが、それを判別するのに自身の経験を用い他者の行動を外部から見て、自身がその行動を取る時の選択肢を当てはめ、他者の行動から行為を逆引きして推測します。しかし観測者がより大きな枠組みから成る論理的な価値観を持ち客観的な判断が出来るのでなければ、観測者の利害関係や利己益を優先して判断が偏向する事が多くなります。
例えば、先ほどの例であれば私達が私達の行動を見て『対象は釘を食べる生物である』と誤認識する事はほぼないと言え、そういった誤認識は私達の常識、つまりは『共有する価値観』が違う時にだけ生じ、たんぱく質からなる有機生命体が釘を丸飲みして消化し栄養に変える事は出来ないから『食べる』為に釘を口に入れたのではない、と判断出来ます。しかしここでもし『釘を食べる為に口に入れた』という選択と『釘を食べる為に口に入れたのではない』という選択のどちらかがそれを選択する当事者の利害に影響する場合、あえて『釘を食べる為に口に入れた』とという判断を選択する可能性があります。
例えば、御遣いで『肉を買う』という行動においてA肉とB肉があったとして、どちらも肉であるから『肉を買う』という目的を果たせ、もしそこに基本原則として最善の努力義務があれば『同じ価格でより品質の良いものを選ぶ』という選択に辿り着きますが、もし御遣いを頼んだ者と頼まれた者の利害関係が不一致、単純に仲が悪かったとすればあえて『同じ価格でより品質の悪いものを選ぶ』かも知れず、また、最善の努力義務に拘る程に努力する価値がないと判断すれば目的を果たす条件さえ満たせばよいと思い、『買える範囲で品質をあまり気にせず選ぶ』という判断をするかも知れず、或いは同じ選択を怠惰でするかも知れず、また、肉の販売店と共謀してバックマージンを受け取っているなら『品質が悪くてもあえて高い肉を選ぶ』かも知れません。また、性質が悪いなら『高い肉を買った事にして安い肉を選ぶ』かも知れません。
この御遣いで『肉を買う』という例にある行動は、元々『肉を買う』という行為を仲間に依頼していた為に、あえて運命共同体に不利益になる選択はしないだろうという理由で行われていたものが、その条件が外れて選択肢が増えた事により行われる可能性が生じており、そして問題は、その増えた選択肢における悪い選択を、今までその悪い選択を思いつけなかった者がその行動を見る事で今より更に利己益を得る事が出来る可能性を知り、真似る様になってしまうという事です。しかしそこにどれだけその様な選択の自由があったとしても、『肉を買う』という依頼をした者の意図は当然あり、それを外部から見て定義を満たしているならその他の条件は好きに決めて良いと錯覚して良いわけではありません。その錯覚は単に自身が定義の情報を知らないだけである可能性が考慮されていません。自身が自身の持つ情報の、それも都合の良い所だけ見て勝手に判断して良いのであればどの様なルールも存在出来ず、あえて知ろうとしなければ何でもありになってしまいます。
ならそれを一意に特定する為にはどれだけのサンプルが必要になり、どれだけのルールを明示する必要があるのかと考える事になり、ここの例では少なくとも販売店と客は共謀出来ないルール、価格を偽って報告する事が出来ないルール、あえて不利な差が出る選択が出来ないルール、を決めてから『肉を買う』という御遣いを頼まなければならない事になります。つまり『肉を買う』という行為が正当性を持つにはそのルールで作られた環境の中にあってその環境の1ピースであるという条件が付随します。ここでは追い込まれた状況で条件が揃っていなくとも受動的に『御遣いを頼む』場合を考慮せずに割愛します。その場合はより御遣いを頼まれた側の性質に依存する事になります。
こういった様に外部から他者の行動を見て行為を推測しようとすると観測者の知性と性質が影響を与えてしまいます。観測者の性質が悪質なら知り得る中で自身に都合の良い根拠を見つけ出し、あえて客観的に妥当な判断はしませんし、知性が足りず情報を持っていないなら妥当な判断が出来ないかも知れません。前者は本人の利己益優先であり、後者は無知による結果です。しかしそれらは行動上には明確な表現となって現れる事は少なく、どちらも混同され判別の付きにくいものですが、より多くの情報があれば判別出来る様になる可能性はあります。選択の違いにより生じる利害の違いなどの事後の結果と合わせる事で、動機と呼ばれる元の意図を推測する事が出来る場合があります。
そして観測者が自身の望む結果になる様に干渉して事象を再現しようとしたとして、それが干渉される対象にとって不利益になる場合、利害関係の不一致から期待した事象の再現は出来ない可能性があります。その際に強制して以前と同じ結果を得る方法もありますが、問題自体を解決した事にならず、大抵の場合はその影響で更に次回以降の事象の再現が難しくなります。事象の再現を成功させる事の出来る時とは、対象となる存在にとって干渉が不利益を生まない時であり、観測者は干渉しようとするならその状態を作り出す必要があります。
しかし、仮に客観的に見てそれが正しいとしても、その状況が自身になると私達は途端に望まない状況になる事が多く、その事実を受け入れられません。例えば、取引において不利益になる事を相手が気づいて居なければそれだけ楽して利益を上げる事が出来、相手が気づけない様にすればそれだけ楽して利益を上げる事が出来ます。快感原則に従って行動する私達には抗いがたい誘惑となり、自身の行動だけを考え、チャレンジアンドレスポンスしてその経験で行動し、それ以上を考えない知性の持ち主なら、そこに間違いを見つけられずに正しいと思い込めます。
しかし、その者は社会の中に居て、社会のルールに従い行動しています。社会に入る時に社会を壊さない約束はしたはずですし、ルールを守る約束もしたはずです。ならその取引をする者が商人だとして、その商人は自身の生活する為に必要なルールである"取引"が何の問題も無く、常に"取引"という行為が再現される様に行為する必要があります。この時点で、再現を妨げる行為を付加する事は出来ない筈ですが、それはその商人が自身の行動のレスポンスだけで対応しているのであれば理解していません。その付加してはいけない根拠は、自身の行動と他者の行動を含めた集合の総体から生じる結果から逆引きの様に導き出されるものであり、問題が表面化した後にその問題を発生させない為にはどの様なルールが必要かという理由で根拠が作られるからです。
そして社会はそのルールの根拠を教えてくれる者は少なく、場合により自身の利己益の為に隠すので、個々人が自身の知性を高めてその根拠がどの様な理由で発生したのかを推測出来る様になる必要があります。
今回の話であれば、男性はルールの根拠を考える事なく行動すれば問題ないと思い込み、そこに自身の思いつく限りの利己益を加えたのでしょう。そうするとなぜその行動で合法なのかという正当性を成立させる条件を自身の知らない内に逸脱している可能性があり、そしてそれを自身はルール通りに従っているから合法だと思い込んでいると思われます。その者になぜ間違いとされるのかを理解させようとすれば事細かく、それこそ多くの情報を与えなければならず、それだけの時間が他者にはありません。その者の為に生きているわけではないからです。そして全ての事象を詳細に理解している者は皆無であり、その意味でも教える事が出来ない場合が多くなります。ここでは専属教師などの職に就く者は対象外とします。それだけの費用を皆が出せる事もなく、そしてその専属教師が充分は水準に達しているかどうかも未知数です。」
エールトヘンは締めくくる。
「人間の知識とは歴史の積み重ねと言えます。全知ではない存在が自身の知らない事がある中でそれでも事象を追求しようとして手に入れた断片と言う事も出来ます。それは概念上に私達から見た世界の再現を行うと言う事でもあり、私達である事を基準に構築されます。その精度が低ければ当然にその概念を用いて行おうとした行為には想定外の結果が生じる可能性があり、精度が低ければ低いほどに可能性は高くなります。
お嬢様は貴族です。自身に都合の良い、つまりは自身の利己益だけを考えて計画したものはその計画に不都合な事実を追求しない為に他者に不利益を齎している可能性があり、その利害関係の不一致から他者が自身の不利益を回避しようと行動して計画に悪影響を与え、想定外の結果になる可能性がある事をまず知る必要があります。そして貴族という管理者は、管理者に従う従事者と利害関係を一致させなるべく不満を出さない様に計画を建てる必要があります。管理者を取り囲む環境から受動的に選択させられる物事により制限を受けながらどうすればその制限を受けずに自身の属する集団が安定した状態を保てるかを追求する必要があります。その際に、不満を持たせないという事が黙らせるなどの強制にならない様に、そして不満を持てば管理者が譲歩すると従事者に思わせて傲慢な態度で自虐的に自身の属する社会を潰させない様に、管理者も、従事者もまた、互いに現状を認識して解決策を模索していく必要があります。その為には高い知性を持ち、自身の利己益さえ満たせればそれ以上の追求をしなくて良いと考えるのではなく、もう一つ上の次元で自身の行為が自身を含む環境にどう影響を与えるのかを考えられる様になる必要があり、その為にも、さぁ、今日も頑張りましょう。」
-->利点をより強調し欠点を低減する為に、行ってはならない行為を定義し、その上で利益が得られる行為を定義します。
<--セキュリティの基本。最近はファイアーウォールのルールの書き方も、ダメな方法を示して周囲の知能を低下させて自身はかつて誰かが与えてくれた知識を持っている状態だから他者より優位に立てる、という、社会を使って詐欺行為や不正行為をする人々が増えました。だから、まぁ、セキュリティの専門家ではないので鵜呑みは止めて貰いたいですが、『まず初めにポート全てをアロウ(許可)にしてその後に問題のあるポートだけデニィ(否定)にする』という間違ったやり方を教えるものが出回っていたりします。
正しくは、『まずすべてのポートをデニィ(拒否)にして使うポートだけアロウ(許可)にする』です。前者は詐欺行為や不正行為をしたいからそう教えてます。自身の認識外に問題があると前者のやり方ではまずそれをセキュリティ管理出来ません。
例えば、家があったとして誰かに忍び込まれない様にするにはどうすればよいか、と考えると家の扉に鍵を付けますし窓にも鍵を付けます。これはさも問題のある所にだけデニイ(否定)する部分を付け足して管理している、様に見えますが、そもそもが一階下の次元で物事を見て居ます。
まず、家はどういった目的で作られるかです。家を作って住むというのは雨風の侵入を防ぐ、他者が自身のテリトリーに入ってこない、という自身のテリトリーに悪影響を与えるものを侵入させない為にあります。そして出入口がなければ自身も外に出れないなどの理由により入口となる玄関や窓を付けます。つまり、まずデニィして一部をアロウするのがセキュリティの原則になります。その上でいつも出入口を開けていると不用心だから鍵を付ける(ポートを開け閉めする)、です。
これを逆さにしてアロウしてから一部をデニィするというのは、周りに何もない平地に居て、北から他者が来てトラブルになったから北に壁を作る、今度は東から他者が来たから東に壁を作る、今度は南から、という様に対処療法でセキュリティをするという事で何もかも事後になり、詐欺師の思うツボです。4面全て壁を作って安心したら、次は天井から、天井を塞いだら次は玄関から、玄関に鍵を付けたら次は窓から、窓に鍵を付けたら暖炉があってその煙突から、という様に、散々不正行為をされてからようやくまともなセキュリティが得られる事になります。
これらは一回目のチャレンジアンドレスポンスに起きる現象で、その経験を踏まえて社会では知識を提供する様になっているのに、それを悪用して自身がかつて誰かに騙されて奪われたから、同じ様に他者から奪ってやれ、そして、『騙された方が悪い』、『気づかない方が悪い』、『これも勉強料だ』と自身の都合でやりたい放題しようとします。ここでの問題はその考えを持てる者が社会の中に居るのが間違いだ、という事で潜在的犯罪者気質の者がまともな人間の振りして社会の中に混ざっているという事です。教育の一環で間違いを指摘する為にする事はあるでしょうが、それを悪用して利益を得てよいわけではない。そして仮に教育が目的だとして、そもそも先に気づける様な教育をしたのか、という部分が欠けています。しかし、楽して贅沢したい者にこういった事を言っても意味はなく、そして自身がかつてそうされたんだと主張する者に言っても、逆恨みしているだけかも知れなくても自身が間違っている事を受け入れがたいから受け入れる事もまずないしその証拠が残っている事も稀だから尚更受け入れない、という状況で、社会を混乱させます。
とりあえず、セキュリティの基本は全てデニィ、それから使う所だけアロウ、です。これは法律でベースが憲法でデニィ、派生が一般法でアロウ、の組み合わせになっており、また、宗教基盤では戒律がベースでデニィ、生活ルールが一般法でアロウ、になってます。だから十戒などは基本的にデニィで書かれてます(奪わない、盗まない等)。禁止された中でして良いものだけが残る。だから新しいものは何かを加える時に、ベースに違反していないかを常に判断して行動する、というのが社会の基本ですが、現代人はそういった教化された繰り返しをしていないのでそれすら分からない、というのが結論ですw。
そしてきつい物言いになりますが、それが分からないのは言ってしまえば有史から考えても単なる2000年の怠慢と怠惰の結果です。自身がそれだけ何も考えてこなかったから。その上に科学という技術をポンと渡されて、誰かから罰を受けないのだからして良い、という奴隷根性で行動出来るからです。
そんなの難しいだろう、と言うかもしれませんが、残念ながら、ここに少なくとも1人、その程度のラインは越えている者が居る、というのが答えですw。だからと言って自身が偉いとか言いません。そもそもそんなラインで止まっていて良い世界ではないので。でも、失礼ながら私も含めた現代の精神未熟児が集まる社会でそんなものに従っていてはまともに生活出来ません。隠れてコソコソ社会を潰しながら利己益を稼いだ者が得をする様に作られていますから。
じゃあ、その事実を突きつける誰かが居て、それが不都合ならどうするか。もう分かりますね?それがこの世界が出来ている現状ですw。
ーー>私達から見て私達の行為は、私達の持つ快感原則を基本情報とし、加えて私達が行為を表すのには自身の体だけでは全てを表せない事も要因として、似た行動や同じ行動で違う行為を表現するが、それを判別するのに自身の経験を用い他者の行動を外部から見て自身がその行動を取る時の選択肢を当てはめ、他者の行動から行為を逆引きして推測する。しかし観測者がより大きな枠組みから成る論理的な価値観を持ち客観的な判断が出来るのでなければ、観測者の利害関係や利己益を優先して判断が偏向する事が多くなる。
<--太極陰陽の話が分かり易いかも。光をどこまで突き詰めても闇が残り、闇はそれだけ深くなる。意味合い的には正しいと定義した行動に付加できる価値観を悪用され、合法とされた行動でもそこに悪用出来る自由度が残り悪用される。そして合法であるが故に皆がそうする様になる(したいしたくないは別として)。するとその悪用で被害する者は延々と加害される。また、どこまで言っても定義でしかないのでそこに選択の自由があるなら、行為の当事者以外の考えで持って行動から行為を推測され、観測者の性質とまだ残る起こり得る可能性により誤認識が生じる、という事です。