S188 互いの尾を喰らい合う蛇
ちょいとディープステ○トがとある対立に絡んでしつこいのでここ最近はディープステ○ト絡みになる内容になってますw。
ディヴィスは考え込む。ちょっとマズイ事になりそうだと。
ディヴィスの会社は製薬会社でちょっとした有名企業なのだが、以前から抱えている問題が再燃しかけてきた。ディヴィスの会社は結構前にポカをやらかした。作った薬が後になって副作用が分かったのだ。ただ詳しい原因究明はされていない。なぜなら、ディヴィスが関係各社にお願いしたからだ。その中でディヴィスに都合の悪い事実を見つけかねないニコラスのとこの研究所に関しては、あそこもまた以前の研究で突かれるとマズイ失敗をしているからそれを黙っておくという暗黙のルールでディヴィスの所の薬の副作用で問題が発生したとは言いづらい様に原因を曖昧にしてもらった。
ニコラスは考え込む。ちょっとマズイ事になりそうだと。
ニコラスの会社は優良企業だと言われていた。しかし抱えている研究所で治療薬の開発中に感染者を出してしまい大事件になりかけた。事件を大きく取り上げてもらいたくないからこれまでの研究成果で関係を築いてきた各社と共に、「報道すればスポンサーを降りるぞ」と報道機関に圧力をかけて、そして「お前たちがスポンサーを得るために今まで誤魔化したり粉飾してきたのをバラすぞ」と脅せば、ニコラスの件も消極的な報道で済ませてくれた。
スティーブンは考え込む。ちょっとマズイ事になりそうだと。
スティーブンの会社はニュース番組を手掛けているが、あまり真正直に報道すると報道された企業が嫌がり、その企業つながりで関係各所の機嫌が悪くなり、スポンサーを得るのに一苦労だった。このままでは会社が傾くと思っていた時にスポンサーについてくれた会社があり、その会社のお陰でなんとかやってこれたのだが、ある日、『その報道をされると困った事になる。少しだけでも印象を変えてくれないか』と相談を受けた。今スポンサーを止められても困るし、どうせニュースとしてはたいしたニュースでもなくほんの少し論調を変えるだけだ。なら良いか、と思って報道したのがきっかけで、それからいくつかの企業がスポンサーについてくれてスティーブンの会社は大手になった。しかし同時に以前の様な話が舞い込み、何かしら意向に応えるとスポンサーからのボーナスが出る繰り返しになっていてその体質が染みついてしまった。どこで間違えたのかと悩んでも遅い話で、大手でありスポンサーの威光をバックに、そして報道する際に仕入れたネタで政治家の汚職を掴んでいたりもして、それを材料にニコラスの会社のニュースも他のニュースで覆い隠してみせた。
ウェズリーは考え込む。ちょっとマズイ事になりそうだと。
ウェズリーは上院議員だ。今までうまくやってきていたつもりだし、実際うまくやってきた。勿論その中にはグレーな話もあるしそうでないものもある。それでも程よくやれていた。一部の報道機関に嗅ぎつけられたが丁度彼らのスポンサーがウェズリーと関係があり、スポンサーである彼ら経由でうまく話がまとまっていた。ウェズリーが選挙に立候補した時にも協力してくれ、持ちつ持たれつの関係で彼らに有利な法改正にも協力してきた。
ディヴィスは、ニコラスは、スティーブンは、ウェズリーは考え込む。ちょっとマズイ事になりそうだと。
自分達に関係のなかった製薬会社が新薬の開発に成功した。その所為でその会社は世界の注目の的でディヴィス達も乗り遅れたと感じている。しかし問題はそこではなく、その新薬の研究過程で発表された論文に、ディヴィスの所が問題として抱えていた副作用のメカニズムに関する情報が乗っているのだ。すぐには気づかないだろう。でもいずれ誰かが気づくかもしれない。どうにか誤魔化せないか?世間の注目を集めている論文の内容を訂正?バカげている。どうにか抱き込めないか?世界規模で収益を上げようとしている企業を?まず不可能だ。向こうに利点がない。ならどうする?
そう考えて、ディヴィス達はその時系列は別として1つの答えにそれぞれが辿り着く。
弱みを握れば良い。
私達は互いの汚い所を隠し合う事で今の権力を保っている。ならあいつらも巻き込んでしまえば良い。そう考えてディヴィス達は示し合わせる事もなく、しかし示し合わせたかの様な連携で行動を始めた。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど。互いが互いの失敗を隠し合い現状の生活を保ちながら、それを指摘する者を排除するか仲間に引き入れるかして延命を図るという事ですね。」
「概ねそう。」
「その様な者を表現する時に私達は"互いの尾を喰らい合う蛇"という表現を使います。私達は社会を営む上で皆が人であろうとし、罪を犯さずに生活していこうとします。しかし私達の生は幾度と繰り返され、その中で成功する事もあれば失敗する事もあります。その失敗の中で受け入れるわけにはいかないものも存在し、どうにか隠そうとする事があります。これは社会における信用を崩し、それらが明るみにならなければならないのであればある程に社会は疑心に溢れ、維持する事が困難になっていきます。その為に私達は隠された罪を暴き、皆が正しいとされる行為をする事で利益が得られる様に社会を作ろうとします。しかし社会において互いの権利を守ろうとし、また、社会が高度である程に制限は増し、行為行動から得られる利益もそのコスト分が引かれる様になります。そうすると規制緩和する事でコストが削減出来、より多くの利益を得られる状態になり、欲望或いは保身の為にその誘惑に勝てず、利己的な目的で制限を外し、つまりはルールを破り行動する事があります。
そうした場合、自らの罪が暴かれては問題になるので当然隠そうとし、1人では難しいなら他者に協力して貰い、罪を隠そうとします。しかし無実の者が有罪者に協力する事は少なく、協力し合えるのは関係性が切れない者同士となり、大抵においては互いが利害関係にある場合です。つまり、相手が罪で裁かれ不利な状況に追い込まれると自身の生活に影響が出る、若しくは相手が罪で裁かれる時は自身の罪も明るみに出て裁かれる、という場合になります。
この自らの罪を隠す、という部分が自らの生命の危機を回避する為に行為する、つまりは私達の持つ根源的な欲求により、理性と呼ばれる社会概念の与える倫理観などの価値観を無視して行動する部分が、自らの野性として表される欲望により突き動かされると解釈されます。
また、それよりももっと純粋に自らの欲望の為に多くの利益を得るために積極的に罪を犯し、理性を無視して行動するとも解釈されます。
この欲望に根差した罪の在り処を私達は"尻尾"というもので表現します。尻尾は私達にないものであり、尻尾は動物の象徴でもあり、野性や獣性の象徴であり、私達の生物としての欲求を表す象徴として表されます。私達が人であろうとする社会では私達の行為は理性によるものであるべきで、野性や獣性によるものであってはならず、そこに理性を優先せずに欲望を優先して行為する者が居たとして、その者の行為が理性に依らず欲望に依るものだという証拠を得た時に、私達は『尻尾を掴んだ』と表現します。私達が持っていてはいけない部分を持っているという意味でもあります。そしてその罪を暴かせないようにしている者に対して『尻尾を掴ませない』と表現します。
では尻尾を掴ませない方法、つまりは自らの罪を暴かせない方法はどんなものがあるかと言えば偽証して貰えばそれで証拠が得られない可能性があり、良く行われる方法になります。これを『尻尾を隠す』と表現します。例えば犯罪の目撃者が黙れば残るのは加害者と被害者だけであり、被害者が脅されて訴える事が出来なければ罪は暴かれず加害者は裁かれる事もありません。また、目撃者がいなくとも被害者を脅してしまえば黙らせる事も出来、そして不正行為であれば自身が黙ってさえ居れば他者が気づけないならそのまま利益を稼ぐ事が出来ます。
この時の表現として、自身の不正行為を黙っている者を「自らの尾を喰らう蛇」と表現します。また、互いに互いの不正行為や罪を黙っている者達を「互いの尾を喰らい合う蛇」と表現します。尾は先ほど言いました様に、欲望の表れで本来は社会に属する者が行為する時に持っていてはいけないものを表します。自らの口、つまりは黙るか偽証するかで自らの罪を隠す事を、自らの口で尻尾を覆い隠して隠す、と表現します。また、他者の口で自らの尻尾を隠す、つまりは他者に黙ってもらうか偽証して貰うかで自らの罪を隠し、そして自らの口で相手の尻尾を隠す、つまりその対価として協力した相手の罪を隠す事を、互いの口で互いの尻尾を隠すと表現します。
蛇は狡猾に獲物に忍び寄り襲い掛かるという表現として使われ、相手を欺く象徴として使われます。」
エールトヘンは締めくくる。
「私達は死にたくなければ生きていかなければなりません。その時点で私達は受動的な状態へと追い込まれていると言え、死の恐怖を克服できないのであれば、考えは保身へと偏り、また、他者の保身を利用出来る優位にあるのならそこに欲望を叶える事の出来る付け込む隙を見出し、私達は私達の描いた理想とはかけ離れた行為をしてしまいます。死の恐怖を克服出来ない者に性善説で語られるべき人物になる素養はなく、しかし私達は性善説で語られるべき人物により作られる理想的な社会を実現しようとする為に、死の恐怖を感じないで済む社会を作り出して死の恐怖を克服しなくとも理想を実現出来るシステムを作ろうとしますが、私達の限界として私達は忘れ、そして快感原則に則って行動した結果として何の問題もないのであればそれ以上を知ろうともせず、状況に対応出来ずにシステムを維持出来なくして崩壊させます。知性が足りない事でそれまでに蓄えられた知識から正しく情報を得られなくなり、痛みによってしかもう一度理解する事が出来ない様になっても社会は死の恐怖を克服せずとも理想を実現出来る様に組み上げる際に痛みを感じる状況が発生しない様に作られる為に、再度痛みによって理解するという方法も行えずに、知性の足りないままに痛みで経験しないままにシステムが維持出来なくなるまで状況を放置して悪化させます。お嬢様は貴族です。管理者というのは配下の者がどの段階にあるのかを知り、その者に合わせた指導をする必要があります。まだ知性が足りず論理的に物事を学べないのであれば実際にさせてみたり例えを使って漠然とした所から教えていき、時には失敗した経験と痛みにより覚えさせ、それが出来た後に、それまでの経験と知識により他者の経験や本などに蓄積された知識で論理的に判断出来る様になるまで指導する必要があり、最終的には配下の者が多くの実経験や痛みがなくとも論理的に知識を得ていく性質へと世代を重ねながら変質していく様に社会を構築していく事が求められ、高い知性が必要がなります。その為にも、さぁ、頑張りましょう。」
<--ここは妄想
どこぞの連中に都合の悪い事を書くと、ストックでもなければ次まで期間が空いたりします。そこはご了承くださいw。ほんとうは2日前に書き上げれたんですよ、これ。
-->ここまで妄想
今回は、ウ○グル、チベ○ト(ついでにイ○ド)応援キャンペーンも兼ねてると言えるかもしれません。
アスクレピオスの杖
<-蛇が2匹。蛇はだまして加害する象徴。それを「2」というシンボルで打ち消している。「蛇の様に言葉巧みに騙して傷つけるが加害するのが目的ではない」となります。
・ウロボロス
うぃきさんより
ーー>太陽神ラー(レー)の夜の航海を守護する神、メヘンがこれに当たり、ラーの航海を妨害するアペプからラーを守るため、ウロボロスの様にラーを取り囲んでいる。
<--ここは一説になりますが、法を司る集団は集団を運営するにあたり、それを邪魔して荒稼ぎしようとする無法者からあらゆる手で攻撃を受け、一時的に劣勢に追い込まれ、集団を瓦解させない為に不正を暴くなどの行動を控えた、と意訳できます。
ーー>キリスト教や一部のグノーシス主義では、ウロボロスは物質世界の限界を象徴するものとされた。これは、環状の姿は内側と外側とを生み出し、そこに境界があるととらえたため。また、みずからの身を糧とすることが、世俗的であるとされた。
<--性善説で語られるべき存在になれない私達の限界を示すものだから。どれだけ善良に行動しようとしてもいつか必ず失敗し、その失敗により保身しなければならない事態に追い込まれ、不正を隠して生きなければならないからウロボロスは物質世界の限界を象徴する。また、現状の妥協を受け入れて世の中で起こる不都合を必要悪として受け入れ諦めながら結果的に将来自身にその悪影響が返って来るのが分かっていても止められない自虐的な生き方を止められないから世俗的である、とされる。
ーー>ヒ○ドゥー教では、世界は4頭のゾウに支えられており、そのゾウは巨大なリクガメに支えられ、さらにそのリクガメを、みずからの尾をくわえた竜が取り巻いているとされている。
<--現代語に意訳すると、世界は善良で能力を持った者(像は力が強く温厚で争いを好まないがいざとなれば勇ましく戦う)が支え(4頭は世界の四方をつまりは社会の全分野で活動するという意味)、その者達を確かな基盤となる政府(だが行動は遅く、世の中の変化には対処しにくい)が支える。しかし世の中はその様な者達も含め、何かしらの不都合を抱え、大抵の者が自身の何かしらの罪を隠し生きている。という様に訳せます。
・ヨルムンガンド
うぃきさんより
ーー>雷神トールが巨人のヒュミルとともに船で釣りに出た際、ヨルムンガンドを釣り上げ、鉄槌ミョルニルで斃さんとした。しかし『ギュルヴィたぶらかし』では船が沈むことを恐れたヒュミルが釣り糸を切ってしまったため、海中に逃がしてしまった。
<--為政者は社会に中に隠れている罪人を利益を見せておびき出しそれを罰しようとしたが、あまりの数の多さに社会が崩壊しかねないのである程度で止めてしまい、残りを不問にした。<-定期的に罰せられる者を見せる事で抑止力にする
ーー>トールはミョルニルを3度投げつけ、ヨルムンガンドをうち倒す事に成功するが、最期に吹きかけられた毒のために命を落とし、決着は相打ちという形で終わることになる。
<--為政者は今回こそは社会に隠れている罪人を裁こうと徹底的に行動するが、同時に為政者とその関係者の過失や不正なども指摘され、互いが罰を受ける形で決着する。
独自解釈なのでヒン○ゥーをバカにしているわけではないし軽んじているわけでもないので多少の不手際は目を瞑ってくだされば幸いです。
・クンダリニー
うぃきさん参照しました。
クンダリニーとは、私達が快感原則に則って行動し、その根源の1つとして性欲が存在し、その方向性が世代継承を行わせるエネルギー、そしてその源を指す。
Kundalini(Kn,da,li,ni)で、物質体の行動原理が与える制約(欲求)と行動、という感じになると思います。女性形なのは私達がそこに見る"良くわからない"原理に突き動かされる受動的な振る舞いをする事になるから。能動的に制御するわけではないから。
クンダリーニによる解脱は危険視されていて、欲望を制御出来なければ暴走するだけになります。
これをなぜここで取り上げてるかと言えば、丁度今の世界がそうなっているから、です。利益という、快感原則に則って行動する際に気持ちよくなれる餌で釣って能力を伸ばす事が暴走のきっかけになるからです。
ここ数話でディープステ○ト絡みで、世界のお金○ち層に都合の悪い事を書いてますが、クンダリーニ・ヨーガ(欲望に餌を与える形で能力を高める)がなぜ危険なのかが良くわかる結果になってます。
なぜそれが危険か浅薄なものと言われているかはこれまで書いてきました。利益が得られなければそれ以上追求しない、知的好奇心に基づいて自ら追求していこうとする意思や習慣が身に付かない、という部分がクンダリーニ・ヨーガの間違った到達点になるからです。
最初は欲望を釣ったとしても、やがてそれを昇華して、性欲に限らず欲望をいう原動力を社会生活に一致させ、自らの生活を含めて高める基準を持つ、という所まで到達すると成功になり、解脱の入り口に立ちます。
で、もう一度言いますが、これをなぜここで取り上げてるかと言えば、丁度今の世界がそうなっているから、です。クンダリーニ・ヨーガに失敗した層にとっては、自らの罪を暴かれるのが問題になります。自らを悪人と定義する者が居るのはマズイ。なら、排除する、そもそも相手側の主張が間違っている、相手側が悪人であり自分達に都合の良い主張をして押し付けようとしていると主張して押し付ける、という選択肢を選んで実行して成功すれば、自分達は悪人ではない、合法なのだ、と主張出来ます。だから自分達のしたい様にする事を悪事や好ましくない事だという連中は、存在してもらっては都合が悪い。だから宗教とは胡散臭いものだ、役に立たないものだ、というラベル貼をしようとします。だからウィ○ルに見られる様に、チベ○トに見られる様に、宗教の主張が正しいとされれば自分達の欲望を叶える事が出来ないから強引にでも黙らせ服従させようとします。そして、その他の者達も、同じ様に自身が不正して利益を得るには宗教が不都合だから、それを黙ってみている、という状況が生じます(全ての人がそうだとは言ってません)。
宗教をやれとは言いませんが、宗教を軽視するもしないも、まず宗教を理解してからでも遅くはない、と言えます。なぜ私達が今までそれに拘って来たのか、だけでも知っておくと良いと思います。