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S182 直接がダメと言ったな?

前回のはキツさが抜けてなかったので反省。もうちょっとエールトヘンらしさを出さないとこの作品とは言えないw。

前回と少し絡みます。ディベートの話に絡んで以前の話をもう一度持ち出してその先に繋げてます。


カレンはモーリスにこう伝えた。


「良い?私が帰ってくるまでケーキに手を触れたらだめだからね。」


「チェッ。分かったよ。」


「ちゃんと返事をしなさい。」


「ハイハイ。」


「ハイは一回。」


「早く行けよー。そんで早く帰って来て。」


「我儘ばっかり。」


カレンは溜息をついて部屋から出て行った。そして用事を済ませて帰ってくるとテーブルの上にあったケーキは皿だけ残して綺麗になくなっていた。


「モーリス!だめって言ったじゃない!」


「え?何の事?」


「ほら!ケーキ無くなってるじゃない!だめって言ったのにどうして。」


カレンに言われてもモーリスは全く気にしない素振りのままで、カレンもその態度にイラッと来て更にモーリスを叱ろうとするとモーリスが素早く口を出してカレンの言う事を止めた。


「ちょっと!モー・・・」


「どうしてって、ケーキに手を触れてないからだよ。」


そう言いながらモーリスは何気ない顔で椅子に座ってフォークを持ち、何も乗ってない皿の上に突き刺す素振りを見せた。それを見たカレンはイラッとしつつも荒げそうになる声を抑えつつこう言う。


「そういうのがダメだって言ってるのが分からないの!?」


「だって手じゃないし。」


「あーそう。今度からフォークを使うのもナシ。スプーンもだからね?」


「ハイハイ。」


「ハイは一回。」



そうしたある日の事。カレンはその日も出掛ける用事が出来たのでモーリスにこう言った。


「ちょっとモーリス!今日は絶対ケーキに手を触れちゃだめよ?フォークも、スプーンもよ?」


「ハイハイ。分かってるよ。」


「ハイは一回。」


そう言ってカレンは出掛けて帰ってくると、今日もまたケーキがなくなっていた。


「モーリス!」


「なんだよ。ちゃんと約束は守ったよ?」


「嘘つかないでよ。」


「だってほら。」


そう言いながらモーリスは後ろ手に持っていたマジックハンドを前に出して見せながら操作してみせた。ミョイーンと伸びる先端がカレンの目の前で、そのなんとも言い難い間抜けに見える動作で突き付けられ、カレンはイラッとしながらモーリスを睨んでこう言う。


「そういう事じゃないでしょ!私は、勝手に、ケーキを、食べちゃダメ、って言ってるのよ!」


「チェッ。また別の考えなきゃ。」


「そうじゃないでしょう!」



そうしたある日の事。今日もカレンは出掛ける用事があり、今日もモーリスに言って聞かせる。


「モーリス。分かってるわよね?ケーキ、食べちゃだめよ?手も触れちゃだめ、フォークも、スプーンもだめ、食器もだめ、マジックハンドもだめ、そういったの全部だめ。分かったわね?」


「ハイハイ。」


「ハイは一回。ほんとうに分かってるの?」


「分かってるよ。早く行きなよ。」


そしてカレンが帰ってくるとまたしてもケーキは無くなっていた。カレンは怒ってモーリスに叫ぶ。


「モーリス!なんであなたは約束守れないの!」


「ちゃんと守ってるよ。」


「じゃあ、なんでケーキが無いのよ。」


「ケーキ?ああ、待っている間にね、ケーキが傷んでしまわないかと心配になって端っこの方を食べて確認したんだよ。ほら、帰ってきて食べる時に傷んでいたら困るよね?だからさ、定期的にちょっとずつ確かめてた。それだけ。」


「それをケーキを食べてるって言うのよ!」


「違うよ。ケーキを食べたいから食べてたんじゃない。ケーキが食べれるかを試してたんだよ。いやあ、ケーキが無くなってしまうなんて思いもしなかった。」


「・・・」


カレンは半眼で睨みつつ、低い声でこう言う。


「良い?私はモーリスにケーキが食べれるか検査してなんて言ってない。勝手な事しないで。」


「なら最初からそう言ってよ。こっちは"善意で"やってるんだからさ。」


「ええ、そうでしょう、そうでしょうとも。でもね、次からそんなの必要ないから。分かった?」


「ハイハイ。」


モーリスが全く悪びれる様子もないのを見てカレンはイライラしながらも口を閉じた。



そうしたある日の事。今日もカレンは出掛ける用事があり、今日もモーリスに言って聞かせる。


「モーリス。分かってるわよね?ケーキ、食べちゃだめよ?手も触れちゃだめ、フォークも、スプーンもだめ、食器もだめ、マジックハンドもだめ、そういったの全部だめ。食べれるか検査するのもだめ。分かったわね?」


「ハイハイ。」


「・・・」


そしてカレンが帰ってくるとまたしてもケーキは無くなっていた。カレンはどうしてこうなるのかと怒ってモーリスに声を荒げて叫ぶ。


「モーリス!食べちゃだめって言ってるのになんで食べるのよ!。」


「ああ。別段食べたくて食べたんじゃないよ。仕方なくさ。」


「だからなんでよ!触っちゃだめって言ったでしょ!フォークもスプーンも食器もマジックハンドも似たようなのもダメ、検査もダメっていったでしょ!」


「え、検査はダメっていってないよ。"食べれるかの"検査はだめって言ったんじゃないか。だからね、今回は、このケーキが美味しいのか成分を分析する為にちょっと一部を使わせてもらったのさ。で、使った後にそのまま捨てるのは勿体ないでしょ?だから"残った料理は後でスタッフが美味しく食べさせていただきました"って事で片づけさせて貰ったんだよ。いやあ、研究に熱が入っちゃってさ、一部分使うつもりがいつの間にかちょっとずつ取ってたら無くなっちゃったんだよね。でも良い練習にはなったよ。成長には犠牲はつきものだよね。」


「・・・」


「どうしたの?そんな顔して。」


カレンは何を言ってもこいつにはムダかと悟ってダンマリを決め込むが、やはりこいつに分からせるにはこれしかないのかと拳を振り上げた。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。言葉通りにだけ受け取り、その意味を自身に都合が悪いから知ろうとせずに、自身の都合の良い様に解釈して行動しながらもルール違反はしていないと主張するという事ですね?」


「概ねそう。」


「私達は言葉を使い会話をしますが、その会話において意思の伝達の手段として交渉が行われる場合があります。その際に毎回全ての定義を行い定義の再確認をしお互いの定義を確かめ合い、その後に目的となる交渉を行うというのは実に非効率であり、そしてならどこまで定義を再確認するかという面でトラブルになります。毎朝、交渉相手に時空間上の定義、つまり、これからの交渉における何年という尺度はA法を用い、対象とする範囲はB惑星のC地域、逆さ言葉ではなく言葉のままに、いつまでという期間においてはD暦を使用する、という話をしていたのでは効率が悪く、私達が競争をするのであればその非効率さを克服しないと負ける要因になります。そしてお互いが共有の認識を持ち得た後に、お互いにとって既知でありその約束を守っている間は交渉がうまく行くのが分かっているものをあえてまた確認し合う手順は省いても問題がない様になり、基盤が構築されます。

構築された基盤はお互いが維持する事で合意し運用されますが、私達は忘れるという性質を持ち、また、世代継承における知識の伝達に齟齬を生じさせると、忘れた者や新たな世代はそれ以前に構築した基盤が示す基準に達せずに社会へと参加してしまい、争いに発展します。『なぜ約束を守らない』『そんな約束はしていない』と争う事になり、お互いがまず初めに基盤の確認をしなかった事に問題が遡ります。一方は『約束は知っている』前提で、他方は『約束など存在していない』前提で、お互いがお互いの状態を正しいと思い、相手側も当然同じ状態である、という認識の元で行われる事が問題になります。そして私達は全知でなく、私達の精神を全て解明しておらず、また、既に社会で得られた知識を個人が正しく得られる確実性はなく、皆が恐らくは基準に達している、求められる品質まで精度を高めているという前提の為、実際に基準に達しているかは分かりにくく、また、基準自体が今までの経験に基づいた行為の表現形としての行動と結果の為、その表現形を生じさせた個々の抽象概念の要素へと分解されておらず、また、それらは経験を共有した者同士で成立し、時間が経過して過去に成れば成るほどに情報は劣化して曖昧さを増し、忘れながら世代継承し更に曖昧さを増し、次第に条件の精度を失い曖昧なものへと変化します。その変化はお互いが努力して環境を整えた結果として起こらなくなったトラブルを、新たに社会に参加する者は見る事がなくなる事でも発生します。また、私達は自身から見た世界の情報で物事を認識する為、その世界に存在しない物事、特に抽象概念は形に見えない為に認識させる事が難しく、お互いがお互いの精神を見る事が出来ず詳細に理解出来ない為に、行為した結果を観察する事で間接的に認識できたかを確認する事しか方法がなく、問題を複雑にします。


また、約束した基準に個々が努力して到達するものだという妄信が私達が約束を基盤として交渉を行う、コミュニケーションを行うという前提に瑕疵を作ります。個人は個人の努力により社会に参加する為に必要な条件を成立させるものだという前提は、同時にそれを成立させる為の環境を構築し維持する事とは無関係であり、もしその考えに至らずに自身の見ている世界だけで行動すると、自身と相手との間に環境の差が生じており、自身は基準に達し易い環境に居るが相手はそうでない場合、過失と故意、ハンデの有無による問題を混同してしまう可能性があります。そしてその場合の問題点は、自身の過失若しくは故意により、相手の環境を害し、互いに共通の基盤を基準に達する事で手に入れるという前提の妨害をしてしまう可能性があると言う部分です。その際に、無自覚に他者の妨害をしつつも、自身は当然の様に基準に達しているにもかかわらず他者が基準に達しないのは他者が怠けているか能力がないからだと思い込み、自身を有能だと錯覚して行動する可能性があります。

ではお互いにしてはいけない事を定義する際に個々の定義を決めるとどうなるかと言えば、もしその時に起こり得る事象を全て把握できているなら良いですが、私達は全知ではなく、大抵において漏れが生じ、もし仮に現状で問題ない程度に個々の状況を決める事が出来たとしても、将来的に発生する変化による新たな状況に対応できません。例えば、今回の話の様に『手で触れてはダメ』と言ってもそこに『フォークで触れてはダメ。スプーンで触れてはダメ』というルールがないのなら『して良い』と考える事が出来てしまいます。では未来に起こり得る全ての可能性を把握出来ずに全てに対応できないならどの様に対応するのかとなると個々の状況ではなく、個々の状況における問題となる要素を抽出して抽象概念として扱い、ルールは抽象概念を基盤として扱いその派生として個々のルールが表現される構造で表す事が求められますが、抽象概念は形に見えず、言葉で定義され、言葉の定義の精度が低ければ正しく認識出来ていない可能性が生じ、そして知性が未熟、特にその抽象概念を教える必要がある若い世代には抽象概念を問題にならない程度に理解出来るだけの概念の数が備わっているかどうかが分かりません。

その為、基本法若しくは憲法若しくは宗教に見られる様に『してはならない』という包括的な枠組みで制限を施す事になりますが、しかしそれもその『してはならない』事が実際どういう事なのか、個人の持つ概念の数や経験が足りずに曖昧な場合があり、充分に理解しているとされる水準に達するまで重点的に教育する事になります。例えば『盗んではならない』という『してはならない』ルールが存在したとしてではそもそも『盗む』とは何かを充分に理解していないのであればそのルールは正しく機能せず、ルール違反をする本人はルールを守っているつもりになれます。例えば先ほどの話の様に、『ケーキを食べてはダメ』という約束が行われたとしても、『ケーキを食べる』というのがどういう事なのか分かっていない、つまりは社会の中で『ケーキを食べる』に該当する行動がどの様なものであるかを知らなければ、つまり常識を知らなければ自身がそう思っているだけの『ケーキを食べる』という認識を基準に行動出来ます。例えば『ケーキを食べる』という行動は『テーブルの上にある皿に乗っているケーキを椅子に座ってフォークを使って食べる』であり、それを禁止されたのだから『椅子に座らなければ良い』『テーブルから若しくは皿から別の場所に移動させればよい』『フォークを使わないなら良い』などと考える可能性があり、それを多くの例を知るか経験する事で『ケーキを食べる』とはどういったものか精度が上げていき、常識と呼べるものと違いない水準にまで近づけます。

しかし、私達は、その過程において、快感原則に則り、自身の欲しい結果を得るためにあえて意図的に間違う可能性が生じ、例えば、ある人物Aが得た経験において、人物Bが以前に『ケーキを食べてはダメ』と言われて『ケーキを食べる』という認識がまだ洗練されておらず、『ケーキを食べる』という行動がフォークを使うものだという認識の為に手を使って食べたが、それも『ケーキを食べる』と周囲に認識され批判されるが過失だと判断され罰を免れたという結果を知ったならば、同じ結果が得られるなら自身も『同じ様に』許されると思って実行出来てしまいます。この時、その者が実際に先ほどの例を知らなかったかどうかをその行動から周囲は知る事が出来ず、その者が以前の結果を知っている事を他者が知らなければ、まだ精度が低いだけと錯覚して、以前の結果と同様に正しい方法だけ教えて罰を与えずに許してしまう可能性が生じます。


また、私達は行為を定義する中で、行為の定義は私達が出来る行動の組み合わせから成り、ある行為の中に別の行為の行動を含む時があります。高度な行為はその概念がそれより小さな規模の根拠となる概念で構成され、それぞれの概念が与える制限が組み立てられる行動手順を限定し、そして、私達が私達の体を使う事がそもそも物理的な限界を与えて表現となる行動を限定させます。その限定された行動を用いて高度化された社会を実現する為に、私達は個々の概念を表す行為においてその手順の中で同じ行動を行う事になります。その同じ行動を行う部分に焦点を当てるならば、その行動を含む行為は、行動を目的とするなら行うべき行為として選択肢に入ってしまいます。今回の話の様に、ケーキがまだ有効な状態か確かめる検査の為に、いわゆる試食をしたのだと言い張るならそれは確かに普段私達が言う『ケーキを食べる』という行為と違うのかも知れません。しかしその行為を実現する過程でその手順の中に『ケーキを食べる』という行為の目的となる達成条件が含まれている場合には『ケーキを検査する』という行為から『ケーキを食べる』という行為の達成条件を間接的に満たす事が出来ます。この様な達成の仕方で目的を達成しようとする時、私達は『目的と手段が逆になる』と表現します。

この時、私達は行ってはならないとされる行為は、行おうとする行為に含まれているか分からない場合の過失と、含まれているのをあえて知っているにもかかわらず自らは知らない振りをして行う故意であるの2通りに大別でき、故意であるなら過失と混同するのを目的として行われる為に、観測者が識別出来なければ過失として扱われる事になります。

この場合の過失は私達の知性が足りない為に、他の行為の達成条件を満たしてしまう事に気づけない事により発生します。例えば、同じ食器を使って飲食をするという事実は、知らない内に菌の感染を拡大させている可能性があります。また、重要度を優先して他の行為の達成条件が達成されていないかを軽視してしまう場合もあり、例えば、同じコップで飲料を飲む事で間接キスが行われた、と思う者も居ればそれを気にしない者も居ます。

また、私達が受動的な立場であるなら条件を達成してしまう事を知りつつも行う場合もあり、例えば、火事の時に延焼を防ぐ目的で燃えていない隣家を壊して延焼を防ぐ行為を行いますが、この際に本来壊してはいけない家を壊すというルール違反をしています。

ではこれらを過失と偽って故意に行うとどうなるでしょうか。あえて菌を感染させる目的で食器を共有する、間接キスなどの自身の欲望を満たしたいがためにあえて別のコップに分ける事が出来るものを分けずに同じコップで回し飲む、ある人物の存在が不都合だから追い詰める為に不都合や損害を与えるためにあえて近くの家を放火若しくは家主と共謀して火を付け延焼を防ぐと言いながらその人物の家を壊す、などの悪事を過失に見せかけて行う事が出来ます。その際に悪意を判別出来ないなら過失として扱われ、そして故意であるとするならば証拠を出せという展開になります。ここでは役割分担や管理する側の特権などで証拠を得る事が難しいという状況がある事は割愛します。


こういった方法で目的を達成する場合があり、ディベートなどの交渉にも影響します。ディベートの発達は、まず個々人で行われたディベートがその当事者のみを対象に行われ実行された後に、その小さい集団の利益のみを優先して行われる事から周囲の批判を招き、その結果から集団内でディベートをする際には守るべきルールが出来上がり、たとえ集団内部のさらに小さい集団でも集団全体で行われるディベートと同じ基準のルールに則って行われる様になります。そうして規模を拡大していきながら、お互いに話し合いが通じる事により協調が生まれ、規模も地域、地方、国という様に個々人の利益に大きく違わないディベートの基盤が出来上がりながら集団の規模は大きくなっていきますが、ある段階で、大抵においては広がる事で得られる利益がこれまでの様に得られなくなった時から、状態が変わったが為にこれまでのディベートの条件となる基盤が成立しなくなり、得られなくなった利益の悪影響による不和と共に対処しなくてはならなくなり、しかしお互いが以前と同じだけの利益を望み、そして利益が得られないなら生活出来ない為に譲れず、総体に対して得られる資源の総量が減少した中でお互いが受け入れられる条件でディベートをする様になり、それまでのディベートが行われた時に用いられた全体で取り決められたルールを守らなくなり、全体で取り決められたルールを守る事で得られたグローバルメリットを失いながら利益を確保しつつ、それまでの集団内部で争う事になり、安定するまでお互いにとって受け入れられるディベートを実行しながら最も大枠においてはそれまでの集団を維持している様に形骸しながらも実態としては内部で分裂して縮小する事になります。

この時の拡大時のディベートと縮小時のディベートが同じものであってもその基盤が違う為に、拡大時には許されたとしても縮小時には許されない可能性があります。拡大時にはまだ現状よりも大きい集団を交渉の対象としておらず、家族、村などの特定の偏りを持った枠内で話し合うために意見が統一しやすく、そして交渉してまで得る必要のある利益、例えば資源の確保や資源の損失となる争いを防ぐ事での資源の確保などがある為に話し合いはまとまりやすくなります。しかし縮小時には誰もが利益を失う状態となる為、それまで得られていた利益を基準にして相対的な損失を減らす為に互いに自身の利益を確保しようとして他者に自身が被る損失を押し付け合う事になり、それまでのルールに従っていれば被る損失を免れる事が出来ない為に、ルールを誰よりも先に破る事で先取特権を行使して、利益の確保を行う可能性が生じます。この時のディベートはそれまでの集団内で守るべきルールが決められた基盤よりも小さくなる基盤になり、どこまで小さい基盤を使うかは当事者の判断のみに委ねられ、そこには客観的な根拠がなく、公的な正当性もないものになります。しかしルールを破ったとしても違法を指摘されず罰せられないのであればディベートは成功し、他者の知らない所でそれまでのルールを違反する行為が行われます。そうしてディベートがより利己的に行われるという事は集団内部での結束が緩んでいく事になり、グローバルメリットの効果も弱くなっていき、増々ディベートを利己的に行っていく必要が出てきます。なぜなら失われる損失に合わせて利益を確保する為に、利害関係の一致しない者を自らの属する集団から外していくからです。互いに互いを集団から排除していくという事は、それまで互いが互いの権利を侵害しないという約束により制限がなくなる事で行う事が出来た行動に制限が掛かる事になり、それでも以前と同じ様に行動しようとすると何らかの対策が必要になりコストが増し、増したコストの分だけまた利益を確保する必要が生じ、更にコスト分の利益を得ないと以前と同じ生活が出来ない事になり、規制緩和する事で省いたコストを再導入して、集団の状態を以前の状態へと戻していきます。


この時の問題は先ほど言いました様に、誰も誰かの為に世界の全てを解明して間違いなく教えてくれるわけではないという事実です。そして私達は快感原則に則り、自身の生存の為にも自身から見た世界で成長し、自身の知性の度合いにより知性が低ければ低い程偏った知識を持つようになり、しかしそれでも利益が出て生活出来ている間は何の問題もありません。結果、自身が存在する現状において、ルールが決められたから現状が構築されているのかまだルールが決められていない現状なのかの判断が出来なければ、自身がしている事が何であるかは認識出来ません。そしてその判断は現状に何の問題も無くかつ知性が低ければ知ろうとする事もありません。その環境の中で私達は忘れ世代継承する事で、現状の自身が、そして自身を含めた個々人として何もしなくとも維持されるものだという認識を持ってしまい、それはあたかも自身が何をしてもパパやママがどうにかしてくれるという甘えの中に居る子供の様に見え、自身が自身の属する環境を自身が社会に参加する事で維持するのが原則であるという事実を見ていない事を表します。そうして以前も言いました様に自身の今行う行為が『自身の創世記』になっていないかを判断する必要がありますが、自身の世界観の外にある物事を知ろうとする知性が足りなければ容易に実行出来てしまい、本来は既にルールがある状態でディベートには制限が掛かっているにもかかわらず、自身が知らない為にその制限がないと思い込み、それまでのルールによる規制を緩和した形で成立させ、他者との差を作り出し優位に立ち、そして知らないが為にその差がルール違反によるものだという事実を知らぬままに優位になれた根拠を『自身の能力が高いから』、『私が勤勉であり、あの者達が怠けている』と錯覚出来てしまいます。

つまり、縮小時におけるディベートを見れば分かる様に、外部から必要なだけの利益が得られるという前提を作り出す為にあえて今までより小さく集団に限定してディベートをして成立させるという事は外部に損失を与えるという事であり、その外部がその損失分を更に外部から得られていないのであれば、その外部としてみた集団は内部でシェアの変動をするだけに留まり、内部分裂する状態に移行しているとも言え、それは同時に拡大時におけるディベートでも実際には外部で同じ出来事が起きていて、それを自身を含めた集団が知らないだけだったという事実を示すものになります。それを踏まえて拡大時のディベートにより私達がお互いの権利を侵害せずにディベートを成立出来る要素が判明していき、拡大によって辿り着いた社会を維持出来る条件となりますが、利益の減少により縮小する事になると、その要素はこれ以上の全体の利益の減少を阻止する為に順守する事が求められますが、利益が得られなければ生きていけない者が死ぬか生きるかの選択を行った結果として順守しない選択を行う事で守られる事がなくなりデファクトスタンダードになっていき、順守する者から追い詰められて、その者達も生きるか死ぬかの選択に迫られ、生きる選択をした者だけが残りデファクトスタンダードとして確立されます。

ではその遵守されるべき要素つまりはルールがなぜ守られないかとなれば今まで言いました様に役割分担と専門化により、個々人が社会に自発的に参加するという性善説前提で行われ、そして過去においてはそれが出来ない者は社会に入れる事が出来ず排除されていた結果として居なかったからであり、社会が継続する過程で社会の中にその不適合者が増える事で何らかの代替手段によりルールを守らせるかルールが必要な事のメリットとデメリットを分からせる手段がなければ、やがて得られなくなった利益による自身を取り巻く環境の悪化によりディベートはより小さな集団を対象としたものへと変わります。


その過程でわかる様に私達がそのディベートの仕方をしていたのではいつまで経っても争いは絶えず、争わない事で得られるグローバルメリットは得られません。ですが私達は全知ではなく世界の全てを解明しているわけではなく、新たな要素や新たな解釈はそれまでのルールを壊す可能性があり、その新たな要素はこれまでのディベートの基盤を変える可能性があり、社会に参加する全ての個人を監視する事も出来ず、『してはならない』という包括的なルールを用いて基盤を壊さない様にしますが、やはり私達は快感原則に則り利益を得ようと行動してどうにか基盤上に存在するルールの適用外であり『合法』であるという根拠を得ようと行動します。

その際に、私達は自身の主張をして、その反論がないなら行動して良いと考えてディベートをします。しかしそのディベートはこれまで言いました様に、個人から見た世界の情報で行われ、実際に社会を維持する為に必要な要素を壊さないかを保証しません。この錯覚は小さなディベートを行い積み重ねる事で生じ、誰かに守られルールに従っていれば良い世界観の中で当事者同士の利害が一致すれば良い前提で行われるディベートが、反論がなければ自由な権利を行使する事を妨害する理由にならないから、主張をする者は行動を許されるという結果から生じています。これらは元々権限を限定され、その枠組みの中で行われる選択肢であればその交渉の裏付けとなる基盤を壊さないという事前の調整により発生しているものであり、行われるディベート単体で社会的に許された行為であると認められたのではなく、そのディベートの正当性の根拠となる基盤があるからこそ成立しているものです。

以前に言いました様にもしその制限であり根拠でもある基盤を外した場合、自身の主張が反論をされないならしても良いものであり正当性がある、という前提はなく、そして、自身の主張が正しいと主張してそれに反論があるかどうかは相手に自身の主張により起こり得る結果のあらゆるケースを提示してみせろと言っているに等しく、自身よりも一階次元が上の知性を示して見せろと言っている事になります。ここにそもそもの錯覚が生じたままになっており、例えば基盤を外す、つまりは宗教などの規範により明文化されたものも明文化されていないが大まかに戒律として制限する基盤を外した場合、それに代わるものを自身が提示する必要があり、自身に対して反論がなければ許されると思い込むのではなく、自身が自身の主張を実行する事による影響の主なものを提示して他者に対して不利益を生じさせないと証明する必要があります。

これは、かつての宗教基盤で行われるディベートが、既存のシステムにおいて争いが起こらない様に取り決めた部分を用いて、ある主張に対して『それが不利益にならない理由を示せ』という主張を行い、悪魔の証明と揶揄され、主張に反論出来ずに容認しなければならなくなってしまう結果を発生させる話ではありますが、実際にはこの場合、私達はまだ世界への見方が変わっておらず世界を静的なものとして見ている事になります。私達は私達が生存していく中でルールを取り決め、確かな基準を作りその基準を固定する事で互いの信頼や約束の根拠とします。しかしそれは同時にその基準がなければ世界の中での行動は不確かな曖昧な定義となり、私達が変動する世界、つまりはダイナミズムの中に居る事を表します。その世界において私達は社会を構築し、現状の状態を維持しているという考え方にパラダイムシフトが必要であり、そうであるなら、私達は『主張に反論がないなら自由の権利を行使して行動して良い』という考えではなく、『自身の主張により、現状の社会が維持出来るかを証明する必要がある』と言えます。なぜならその主張を行いたいのはその主張者であり、その主張が現状の社会に影響を与え他の利害関係者に悪影響を与えて損失を発生させないかは主張者が証明しなければならない事です。

例えば私達は現在の社会に至るまでに環境汚染を発生させました。その際に私達はその行動が環境汚染の原因になると推測しても、それがより大きな事象であれば観測出来ず、因果関係を証明出来ません。するとある主張に対して反論出来る証拠を提示出来ず、その主張は既存のルールに違反していなければ合法化します。しかし元々が社会に自発的に参加する者は『自らの行為行動が与える影響で社会が維持できる』様に行為行動する事が義務付けられます。その為、その主張により得られる利益が本当に得てよかった利益かどうかが判明するまで本来ならその利益は利益であると同時に担保として扱われます。行われた主張が何の問題もなく社会に悪影響を及ぼさなかった、及ぼしたとしても利益が優るのであればその差益は主張者へと渡し、実際に損害が発生した場合にはその利益は徴収するというのが本来の在り方です。その様なやり方で、私達は嘘をついて荒稼ぎした後に逃げ出す悪人を取り締まる必要があります。


焦点を変えまして、今回の話では『ケーキを食べてはダメ』と最初から言わずに『ケーキに触れてはダメ』という所から話を始めていますが、知性が低く自身の欲望を抑える事が難しい者に、既にケーキを手に取ってから自制しろと言っても出来る可能性が低く、ほんの少しそこから工程を進ませて手に持っているケーキを口に運べば自身の欲望を満たす事が出来るのでは自制も難しいので、その前段階である『ケーキに触れてはダメ』という時点で止めようとしています。私達はそうして制限を掛けていく事で、失敗する段階に至るまでにセーフティを設けていきます。それは同時に制限を多く掛ける事になり自由を奪い、自由な選択が出来ればより多くの選択肢から可能性が生まれてより良い状態になる場合があり、しかしそれを望んで制限を外すとその外した制限による生まれた自由を悪用して悪事を働く者が出てしまい、未だ悪事を行う悪人が居るという事はまだ、その制限がなぜ掛けられていたかを本当に理解できるだけの知性を私達という集団が持ち得ていないという実証になり、制限を外すべきではないという結論へとたどり着きます。

ここではこの制限により競争力を失う為に不利な立場になり制限を外さざると得なくなったという状況については割愛します。


こういった制限をルールとして掛けた状態でルールを守れる事を証明し、徐々に制限を緩和していきますが、私達は個々人に自律を促すためにある一定年齢で成人したとみなして行動させる為に、どこまで精神的に成熟したかが分からず成人として行為する為に必要な基準に達しているかを保証しません。しかし一定年齢でみなす為に最低限の保証として明文化されたルールを守る事が出来るという部分でみなし行為を合意します。しかしその合意は表面上は守られる事を保証するだけでしかなく、その者の育ってきた環境により形作られた世界観が基盤として存在する為に同じ基準を満たしていてもその者の行為行動には違いが生じます。

ですから、ある国が他国から人員を招き入れる時に、同じ様に明文化される基準を満たす事が出来たとしても、それを支える基盤が違う為に、派生する行動において違いが生じ、それは明文化された部分だけを統一しても同じになりません。そもそもが明文化された部分に対する解釈が同じとは限りません。

ある社会で形成されてきたルールがあったとして、そのルールに長く従ってきた者はその過程でルールを基準としてその派生を多く見て個々の対応を知る事でおおよそどういったものであれば新しい派生であったとしてもある程度の判断が出来るかも知れませんが、それだけの経験もしくは知性が足りなければ正しく判断出来ないかも知れません。そして明文化されているルールさえ守れば何をしても良いと思っている者は、そのルールの根拠となる要素を顧みず自由に行動するでしょう。では全てを明文化出来るかと言えば、私達は全知ではなく、全てを解明したわけでもなく、そして誰かがそれらを与えてくれるわけでもなく、自らで基準を満たしているかを確認していくしかありませんが、私達はルールに従っていれば誰かがなんとかしてくれるという甘えから抜け出せず、明文化されたルールさえ守っていれば明文化されていない根拠となる要素は無視出来ると思い込みます。

そうすると今回の話の様に、明文化されていない部分を変える事で禁止されていないと思う事が出来、その自由さが競争力で有利に立てる要因となり、制限する事が出来なければデファクトスタンダードとなり、社会は劣化します。その劣化はデファクトスタンダード化した行動をしなかった者が居なくなるまで続けられ、全く居なくなればそこが基準となり相対的な優位差はなくなり、劣化したままになり、デメリットだけを受ける事になります。


例えば、バレなければ良いと思って、病原菌を媒介するノミがついた毛皮を自身と利害関係が一致しない集団の居る場所へ持ち込み、伝染病を発生させて損害を与える行為が行われたならば、気づかれなければ利害関係が一致しない集団の弱体化により自身の目的を達成する事が出来るかも知れません。また、知られた場合でも過失であるとされるなら重い処罰を受けないで済むかも知れず、そこから発生する結果により以前より優位な状況を作り出す事が出来るかも知れません。そしてそれが故意であったとしても故意であった事実を証明出来ないなら過失としか扱う事が出来ず、それを意図的に行うのであれば、そもそもが互いの交流を断つレベルですが、最初に実行する者がその判断能力を持たず、そして失われる個人のメリットより発生するメリットの方が優ると思ったのなら容易に実行されてしまいます。

例えば、バレなければ良い、そして実際に証明が難しいと思って、ある地域の沿岸からクラゲの幼生体を放ち、その幼生体が海流に乗りながら成長して巨大化すると、海流の先にある海域で巨大なクラゲが多数存在し、漁へ深刻な損害を与えるという方法を実行する事が出来ます。それが故意である証明には実際にクラゲの幼生体を放流している状況を証明する必要が生じ、それがなければ制限する事も出来ず、もし明るみに出れば深刻な問題になりますが、明るみに出ないのであれば、事実を知り得ない状態となり仕掛けた側が有利な状態が形成されます。そうして社会がその行為を事実を知らずとも許容してしまえば成功体験として蓄積され、行った者もその周囲もそれを"合法"と捉え、しかしそこから生じるデメリットで同じ行為をされない様に管理コストを支払うかそもそもその行為の根拠となる理由がなくなる様に行為する様になります。例えばそれが相手側の漁獲量を減らす為に行われた悪質な行為であれば、そもそもその者を漁によって得られる資源の取引相手にしない、という方法を行う事で、その者がクラゲを放流した事で結果的に得られる利益そのものを失くし、クラゲを放流する事は"してはならない"行為だと分からせます。しかしその対処が実行されないのであればやはり成功体験として成立したままである為に、競争に勝つために似た方法が行える時には同じ様に行動する様になります。


すると社会の中に居るにもかかわらず社会の外に居るかのようにリスクが高まり、誰もがそれまでの集団の規模で成立していたルールを守る事に疑問を抱き、互いに信用度を下げて対応し、管理コストが増大しグローバルメリットが失われて更にコストを支払う事になり、競争力も失われて弱体化するという結果に陥ります。こうした手法を外部から行う事で対象とする集団を弱体化させる事が出来、集団は自らの集団だけを見ているだけでなく外部へも集団に対して影響を与える要因がないかを見ている必要があります。しかし私達は全知ではなく、全てを解明しているわけでもなく、起こり得る全てを予知できない為に、ある事象により発生する影響を対象に対策を立てる事になります。怪我をしたなら治療する、火事が起きたから鎮火する、暴動が起きたから鎮圧する、水が漏れるなら器で受ける、などを行いますが、それが誰かの故意によるものだとすればその誰かはその事象そのものかその事象の影響により発生する周囲の行動を目的とする可能性があり、もし周囲の行動を目的とするならば、そういった目的もあるのだと知ろうとする知性がなければ、行動を起こされる度に常に同じ被害を受ける事になります。

例えば、火事が陽動だった、流布された情報がデマでその情報を基に行動した者が結果的に損をした、ある人物と治療者を出会わせたかったからその人物に怪我をさせた若しくは会いたかったから怪我をした、などの方法が簡単に思いつき、その可能性がある事を事前に知っていなければ意図的に行う行為の目的が、そこに表現される行動において本来行動が示す行為の主要因でななく副要因や手段の1つに過ぎない可能性を考慮出来ません。そうなれば意図的に他者を錯覚させる行動により行為を達成する事が本来の行為を達成する為に表現される行動よりも優先して行われる結果になり、今までの社会における明文化されたルールの基盤を狂わし、それまでのルールでは対応できなくしてルールを変えざるを得なくなり、他者へも悪影響を与える結果に繋がります。

今までの基盤上でルールが正常に機能していたものが機能しなくなったがために機能させるには追加の管理コストが必要になります。そしてその管理コストは今の基盤を作る過程でお互いに不利益でしかないからお互いが禁止して自制するものであったとしても、外部から何も知らずにやってきた者が同レベルの基盤を持ってやって来た保証にはならないのでその者が現在のルール上で問題なく行動出来るかをまず見極める必要が生じますが、自由経済という言葉は明文化されていない根拠を理由にして制限を掛ける事を許さず、まだルールの根拠となる明文化されていない基盤が示す水準に達していない者にも同程度の権限を与える事を許してしまいます。しかしその考え方を厳密に追求すると、そもそもが自由経済として受け入れさせる為の要件を争いが生じない様なレベルにまで、或いは誤差と言ってしまえるレベルにまで追求して明文化していないいまだ雛型の様なものでしかなく、追求によりある程度の効力があると言われるレベルになるまでは制限をかけるものであり、また、制限をかけないのであれば想定しないイレギュラーが発生すれば即応して対処して対策を反映する必要のあるものです。そうして起こり得る事実に対処しながら経験を蓄積し、抽象概念で分析して事前に起こり得る問題を予測して防止しながら徐々に制限を外してようやく基準を満たした「自由経済」へと移行していくのが本来の在り方であり、一足飛びに、私達がそれを望み主張したとしてもその実績がない為に実証出来ず、それは性善説を基にすれば成立するかも知れませんが私達は性善説に従って行動出来る保証を持たず、やがて瑕疵を作り失敗するだけになってしまいます。

性善説とは『悪事であると分かり切っている事はするはずがない』という前提に成り立ち、その悪事であるという部分が分からない者には適用出来ません。社会が高度であればある程に求められる知性は高くなり、多様化を見せれば見せる程に求められる知性は高くなります。その知性が足りなければ過失として失敗し、また社会が正常に運営出来ていなければ生じる不都合から免れる為に故意に失敗し、ディベートに見られる様により規模の縮小した集団内での利害関係が一致する様に合意をします。」


エールトヘンは締めくくる。


「私達は多くの興亡を繰り返し、その経験を基に新たな社会を築いてきました。そうして明文化されたものも明文化されていないものも含めてルールを構築して社会が維持出来る様にしていきます。しかしその過程は私達がいまだ全てを明文化出来ていない事実を示し、また、明文化出来ていないものに遺伝子上に蓄積される情報から表現される選択の優先度なども含めてしまっており、より多くのデータから出来る限りあらゆるケースを想定して基本となる明文化出来るルールを構築する必要があります。私達は忘れ世代継承し、何度も同じ過程を繰り返して社会が要求する基準に達する事を繰り返す事でその成功体験を遺伝子上に刻み付け、環境の変化があったとしても適応しながら基準に達する事が出来る信頼性を向上させていきます。その精度が向上し世代継承しても社会が求める基準に到達できる様になった時、私達は現状のルールに大きな瑕疵がないのであればようやく争いの起こらない社会を作る事が出来ます。そしてこれを成立させるには基準に達した後に運用する社会に参加した者達に同等の権利を保証し信用出来るシステムと、その基準に至るまでの過程において、個々人の差を吸収しながら一定の基準へと辿り着かせるシステムが必要となり、前者は恒常的に社会を運用する為に必要なものであり、明確に1と0のロジックで表す事が出来るものになり、後者はその1と0のロジックへと辿り着く様に個々人の差を吸収しながら教育するものになります。お嬢様は貴族です。貴族の役割とはその1と0のロジックを運用出来るだけの知性とその基盤となるルールを民を指導する事により教える事です。そうすれば精神の成熟を迎えた民は社会のルールを知り、してはならない事を知り、新たな問題が発生しても個々の状況を分析して対処する様になるでしょう。なぜしてはならないかを知っているなら容易く間違いを犯す事も少なく、そうやって精神を成熟させた者の数を増やす事により、社会に参加する構成員の個々の負担を減らす事で構成員のメリットに繋がり、皆がそのメリットを失わない様に社会に参加する後続となる新たなる者や世代継承する者に基盤となるルールなどの情報を隠さず教える状態を作る事が重要になります。しかし同時に誰かに教えてもらえると思って努力せずに行動する者や他者の持つ情報を盗む事で楽しようとする者や誰かがしてくれると思って積極的に社会に参加しない者なども出る可能性があり、その者達をいかに本来あるべき態度へと修正するかも重要になります。そうして社会を健全な状態に保つ為にはまずお嬢様が知性を向上させて社会を知り、私達を知る必要があります。その為にもさぁ、今日も頑張りましょう。」


-->そうしてディベートがより利己的に行われるという事は集団内部での結束が緩んでいく事になり、グローバルメリットの効果も弱くなっていき、増々ディベートを利己的に行っていく必要が出てきます。なぜなら失われる損失に合わせて利益を確保する為に、利害関係の一致しない者を自らの属する集団から外していくからです。互いに互いを集団から排除していくという事は、それまで互いが互いの権利を侵害しないという約束により制限がなくなる事で行う事が出来た行動に制限が掛かる事になり、それでも以前と同じ様に行動しようとすると何らかの対策が必要になりコストが増し、増したコストの分だけまた利益を確保する必要が生じ、更にコスト分の利益を得ないと以前と同じ生活が出来ない事になり、規制緩和する事で省いたコストを再導入して、集団の状態を以前の状態へと戻していきます。

<--ゲーテッドコミュニティ


-->なぜならその主張を行いたいのはその主張者であり、その主張が現状の社会に影響を与え他の利害関係者に悪影響を与えて損失を発生させないかは主張者が証明しなければならない事です。

<--だから、商人が都合の良い部分だけを話して、不都合な部分を話さないのは、ズルをしている、錯覚させて騙そうとしている、と言えます。こういった考えで行動する者は元々帰属意識が低く、社会を自らの手で作り上げていくという考え方が出来ず、誰かが作ってくれた社会の中で好き勝手に出来ると考えているという事です。そんな者に大資産や権力を与えれば社会が上手くいかないのは当たり前。だから現在の社会はこんな風になってます。


-->そして失われる個人のメリットより発生するメリットの方が優ると思ったのなら容易に実行されてしまいます。

<--なぜ社会のモラルが守られないかという部分です。


ーー>例えば、バレなければ良い、そして実際に証明が難しいと思って、ある地域の沿岸からクラゲの幼生体を放ち、その幼生体が海流に乗りながら成長して巨大化すると、海流の先にある海域で巨大なクラゲが多数存在し、漁へ深刻な損害を与えるという方法を実行する事が出来ます。

<--エチ○ンクラゲ。あくまで陰謀論です。しかし実際にされると多大な被害を受けます。そしてそういった事をしない前提で社会は取り決められ、それが違反されるのなら交流すら出来ない。でも利益を上げようとして知性が低ければそういったものも視野に入ります。


-->例えば、火事が陽動だった、流布された情報がデマでその情報を基に行動した者が結果的に損をした、ある人物と治療者を出会わせたかったからその人物に怪我をさせた若しくは会いたかったから怪我をした

<--他にも例えば、ある人物Aが人物Bと理想的な相性だが出会って貰っては困るから人物Bよりも相性は低い若しくは相性が悪いが表面上はAの好ましい人物に見える様に演技出来るCを用意してAと出会わせ仲を進展させて恋人同士にした後にBと出会わせ関係を破綻させる、という方法もあります。その場合、その意図が見抜けなければ、出会う順番が違ったと諦める可能性があります。


・無許可で食肉販売…点が線になった「チャイナ団地」 マナーの悪さを指摘した日本人住民に「団地を乗っ取ってやる!」

・・https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/200127/lif20012720370029-n1.html

<--今回の例で言えばこういうの。その基盤上にあるルールが分からないから明文化されている部分だけ見て自身に都合の良い様に解釈する。「なら最初から言え」とか反論してきそうですが、そもそもそこまでしてやる義理がなく、「自分で最低限に辿り着け」という事になるが、そんな事をしてたら競争に負けるからやらない、だから争うという繰り返しになります。大なり小なり、似たような事は社会で行われていますが、元々の基盤が違う事でここまで明確にはっきりした差が見えてきます。


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