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S181 至高vs究極vsさいつよ

さいつよー>最強

そろそろ試運転。

ネタを考えてた?いいえw全く溜め込んでませんw。


ディベート(討論)ー>ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論することをいう。<-ういきより。

条件:1.公的な主題:公的な主題について行われる

2.意見の対立:異なる立場に分かれて行われる


アーロンとヘイデンにとっては今日は単なる日常でもあり、新たなる日でもあった。


至高vs究極


また2人の闘いが始まり、勝者には新たな幕開けが待っている。今日の為にお互いが苦心したものを持ち寄り、どちらが優れているのかを決めるのだ。


今回、先に見せるのはアーロンだ。


「ホウ。これは。」


出された品にヘイデンが思わず呟きを漏らす。アーロンが出してきたのはヘイデンにとってオーソドックスで見慣れたものであり、しかしヘイデンが思いつける限りで最高品質。その品を手に取りヘイデンは話し出す。


「このあからさまにムダと言える洗練されたフォルム。さもすれば野暮ったさが強調されがちなものを素材の品質が見事に高貴さを醸し出す事でこれこそが正しいのだと思わせてくれる。これこそが源流なのだと押し付けるでもなく遥か高みにある事を示す事で誰もを納得させる。まさしく至高。」


ヘイデンの評価にアーロンは僅かに口角を上げ応える。ヘイデンはそれを苦々しく見ながらも手にした品のあまりの出来にその不遜な態度を批判する事が出来なかった。


しかしヘイデンも負けてはいられない。スッと感情を切り替え、それはもう大事に大事に箱の中から品を取り出す。


「これは!」


アーロンはそう言い放ち、震える手でヘイデンの取り出した品を手に取る。


「この感触!間違いない!既に廃番になり現存するものもない筈の・・・。しかしやけに新品に見える。さすがに色褪せていたりするものだが・・・。そうか!復刻か!」


アーロンはハッと顔を手にした品からヘイデンの方へと向けると、ヘイデンはニヤリと笑いながらも気づいたアーロンに『やるな』という表情も見せ、こう言う。


「特注品でな。メーカーに依頼したんだ。今の最高品質で作られたかつての最高傑作。時代が変わり材質が変わった中で消えた最高傑作も、こうして今の技術を使って再現して見直せばその良さが分かる。」


「そうか。突き詰めれば私達が憧れたものはこれを通して見たイメージ。それを思い出させてくれる。これがお前の言う究極か。」


「じゃあ、次はあっしっすね。」


「・・・」


「お前は誰だ?」


「誰って。ノエルです。嫌だなぁ。いつもこの会に参加してるじゃないですか。」


「そんなわけあるか。この会は俺たち2人でやってるんだから。」


「いや。でもですねぇ。お忘れですか?あんたたち、これ、いつもこの店でやってるじゃないですか。」


「ああ、そうだが?」


「ほら。俺、ここでバイトしてるでしょ?だから毎回注文受けて毎回話聞いてんですよ。だから、俺も毎回参加してんですよ。で、俺、ヘヘッ、黙って見てられなくて。あんたたちにもこれの良さを知ってもらいたくて。」


そう言ってノエルはゴソゴソとリュックから品を取り出して見せる。


「・・・」


「あれ?どうしたんすか?こういうの大好きなんですよね?」


「いや、お前、それ、プラモじゃないか!」


「そうですよ?これが俺の"さいつよ"です。どうっすか、このフォルム。これが今の流行りっすよ。それにほら、そっちと違ってアタッチメントで付け替え可能ですよ。でね?俺のはこの部分がね?特別なんですよー。でね・・・」


アーロンとヘイデンはしばらく黙ってみている事しか出来なかった。



「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。ディベート(合意交渉)は同じ基盤の上でしか成立しないという事ですね?」


「概ねそう。」


「ディベートとは対象となる課題を要素化して問題点を抽出しその解決を図り、互いにとって受け入れられる状態にする為の交渉を指します。実際には現実的な制限により譲歩等の不均衡を生じ、また、互いにとって受け入れられる状態というものは互いの利害関係のみを重視すると言う事でもあり、互いの利害関係というのは互いを含む集団全体の利害関係とは一致しない可能性があるので、合意というものが必ず正しいという保証にはなりません。

そしてディベートはそれを扱う人物の性質でその結果に差を作り出します。ディベートを行う人物が性善説で語られるべき存在か性悪説で語られるべき存在かどうかが結果に影響します。理由はその根底に存在する基盤の違いです。『するはずがない』という前提が、社会を維持成長させていく為には守らなければならないルールがある、という者と、バレなければ社会的には『した事にはならない』と考えてルールを守らず、社会的に『した事になってしまうルール破り』は『するはずがない』という者では、選択できる選択肢に差が出来るからです。

私達はそれまでの社会における経験の積み重ねから価値観を得て、それを共有する事で会話を行う際にあえて伝えなくとも良い情報を省略します。しかしそれは同時に価値観を共有しない者と会話をする際には、今まで自身が使用してきた言葉が、たとえ同じ言語を使っていてさえも同じ意味を持たない事を意味します。同じ言語を使って同じ言葉を話しても、同じ世界観を持っている証拠にはならないのです。性善説で語られる人物というのはそれまでの生、つまりは血統における積み重ねからしてはならないルールを的確に明文化出来なくともそのルールに従わなければリスクが生じる事を薄っすらとでも感じる事が出来る為に、誰かに制限されずとも自身で制限を掛け選択肢を狭めます。そしてその選択肢を狭めるルールの根拠は直接的なものだけでなく間接的なもの、つまりは遅延のかかるものや大きな枠組みを維持する為に必要な制限であったりする為に、本人の能力が足りなければ、誰かに問われても明確に答える事が出来ません。最悪は「そう決まっているから」と返す事になります。

ではそれに対して性悪説で語られるべき人物というのは、形として明文化されたルールを守るだけで良いと思う者であり、その思考の基盤においてルールを守り自身で社会を作っていくのだと言う考えを持たずに『誰かが作ってくれたルールの上で行動していれば何をしても許される』と思い込んでいる者になります。仮に私達が私達の作り出した技術を明文化して安定する社会を作り出したとしても私達自身を制御出来なければ技術革新や新たな外部要因により例外を作り出し、その例外が今までの状態を壊し、今まで使用してきた言葉をこれまでの定義のままに使う事を出来なくしてしまいます。その際に互いに認識を合わせる必要が生じ、ディベートが発生し、その結果として定義が更新され、新しい言葉の定義とセットで私達は生活していく事になります。

しかし互いの世界観の違いから、合意したにもかかわらずその定義したものに対する認識の違いが問題になります。例えば、社会に常に参加する意識がある者は社会を維持していく為には明文化出来ないルールもある事を知っていますし、宗教などの戒律としてそういったものを漠然と捉えて方向性を示す基準を受け入れている者などはしてはならないものは明文化されていなくとも存在している事を知ってします。しかし、その様な基盤のない者は言葉の定義に制限が少なく、同じ言葉を使っても行ってよいと思うものに違いを生じさせます。その原因は私達の精神は形に見えず、その表現として物理的な制限を受けながら現実に現れるからです。同じものを見ても同じだけの概念で構成された行動や物品として見ている可能性も少なく、しかし一定の基準を満たしていればそれを見た皆が形に見える、明文化出来る基準を満たしているので問題がないと思い、そこに明文化していない概念は達成されていると推測するしかない事実があり、明文化されていない為に、実際に明文化されていない概念や条件が問題になるのならばそれを証明する必要があり、証明が難しい為にその部分に関しては個々人の判断に委ねるしかない実情が、欲望の誘惑を発生させます。

もし守るべき戒律があり、漠然とした指針として「盗まない」、「奪わない」と方向性を持つ者は行動において明文化される部分にあえてその条項が含まれていなくとも戒律に抵触するなら実行しません。しかしその様な戒律を持たない者にとってそういった制限はなく形に見える部分である明文化出来る条件や要素の基準のみを満たせば良いと思い、なぜ強制されもしない要素を守るのかと疑問に抱き、明文化されていない部分を自身の利益を優先して選択します。しかし、私達は全知ではなく、そして社会の中でルールに従っていれば何の問題もないという保証を誰も与えてもくれません。現状のルールとはおよそそれで間違いがないという程度のものでしかなく、そしてその根拠を元にルール化した時にそのルールを支える明文化出来ない要素と関係性により維持されます。それを考慮せずに行動する事は明文化されていない要素や条件との関係性を壊し、現在の明文化しているルールそのものの信用性を失わせ形骸化させます。

ではなぜこれが実行されるかですが、幼少よりルールに従っていればほとんど何も問題のない社会の中で生活する事で盲目的にルールを信用し、そして実際にルールはその信用に値する結果を与えてくれます。その実績が個人の成功体験として蓄積され、そしてルール以外の部分で応用を効かせても実質的にほとんど問題がない事で、ルールにさえ従っていさえすれば何をしても良いという思考を生み出します。実際はその応用が与える影響が微小で全体の中で誤差となり吸収されてしまうからでしかなく、厳密にはしてはならない事に分類されるかも知れませんが厳しい制限も私達の生活を硬直させ、厳しい制限を掛けたがゆえに、個々の状況に対応できないケースを作り出し、厳しい制限を変える疑問を抱かせ、またその硬直性を悪用して不正行為を行う者が居るためにある程度の自由度を残す必要が生じます。

また、私達の生における問題点は、私達は世代継承を行い、その度に遺伝子に蓄積される情報以外はリセットされる事です。これは変わりゆく環境に対応する為に必要な事で、適応性を高める為に求められる事でもあります。しかし同時に現状の社会の基準にその一生の間に調整して合わせていく必要が生じ、そして私達は全知でなく、全てを明文化して伝える事が出来ません。そうすると個人の能力に大きく依存してしまい、その個人が血統に積み重ねた遺伝子上に持つ情報の精度が低く、また、ルールに従っていれば問題ないと考えて実際に必要な思考を行なわずに、ルールをなぞる様に考えるだけの本来必要とされるレベルで無思考であるならば、表面上は基準に達したかの様に見えてもその基準を支える明文化されていない要素や関係性を理解出来ません。

例えばマニュアルを見て行動するだけでは、それ以上の情報を得る事もなく、マニュアルがなぜそうなっているのかを理解出来ません。するとマニュアルが適用出来ない状況になれば自分でアレンジするしかなく、そのアレンジがマニュアルをマニュアルとして定義した条件から逸脱しておらずマニュアルがマニュアルとして使い続ける事が出来る環境を壊していないかを判断出来ません。しかし逸脱をした行動がすぐに影響を与えるのでなければその影響を感知出来ないなら成功体験として成立させてしまい、準マニュアルとして基準にしてしまいます。しかしそれが正しいかどうかを判断出来ていないので実際にはマニュアルを適用出来る環境を壊している可能性があり、いずれマニュアルを適用できない状況を作り出すかも知れません。

しかしその準マニュアルが違反であるかを証明出来ない場合、誰もその準マニュアルで行われる行動を明文化したルールで制限する事が出来ません。そしてその準マニュアルを作る基準となるのがそれまでの血統における遺伝子上の蓄積と現環境において得られる情報です。それまでの世代で暴力的な解決で生き延びてきた者は今世代でも同じ傾向を示し、他者の隙を見てものを盗むかのようにして生き延びた者は同じ傾向を示し、ルールに正しく則り生き延びた者はその傾向を示し、ルールを作る側として生き延びた者はその傾向を示します。それらの者達が、全ての条件が網羅され明文化されたルールの無い社会で、明文化されたルールの基準を満たして社会に参加する状況において、明文化されていない要素や条件をどれだけ守るかが同じである保証はありません。

先程も言ったように、ルールに従っていさえすれば良いと思う者はルールに従っていさえすれば何をしても許されると思いがちで、そのルールをルールとして維持する為の条件を見る事もなく、誰かが自身が従っていさえすれば何をしても許されるルールを与えてくれるという甘えの中に存在し、社会とは皆がルールをルールとして適用出来るなら求める基準が達成され状態が維持出来、それにより社会が維持出来る様に目指すものだという事に意識が向きません。これが例えるなら命令を聞いていればどんな虐殺や加害も許されると思ってる兵士や合法ならば社会的に許されない行為も出来てしまう社会人を生み出します。


そういった者達が参加する社会においてディベートはお互いに同じ環境内で交渉しているつもりでも、それまでの経験から生じる基盤が違う為に同じ地域で生活していたとしても同じ精度の概念を用いて交渉している保証にはなりません。いうなればディベートと称されるものはその使い方における種類とは別に性善説で語られる基盤上でのディベートと性悪説で語られる基盤上でのディベートという区別も存在し、実際のディベートはその極端な状態の間の不確かな位置により行われるという事です。

ディベートを行う時は、自身が社会の全てを知っていない為に、限定された情報を用いて行う事になります。そして互いが守るべき制限は社会の中では明文化されたルールとなり、そのルールの根拠となる部分は個々の状況に応じて特化された形で明文化されておらず抽象概念のままである為に明示されていません。この部分に互いの認識の違いが介入する余地があり、それぞれの持つ価値観で自由に選択出来てしまう為にディベートをした結果として合意しても後日に争う原因になります。

また、ディベートとは本来は社会の中で行われるもので社会というシステムを維持運営する目的に不一致な合意を認めないものです。しかし全てを監視出来ず、また、ディベートを行う者が全知ではない為に自身の過失によっても故意によっても社会へ悪影響を与える合意を行う可能性があります。また、ディベートを現実的な形にする為に妥協の産物として行う事があり、結果としてディベートした参加者の間でのみ合意が取れる条件で交渉が成立する場合があります。そしてそのディベートが慣習化する事で、互いに合意が取れるならディベートは成立するという錯覚が、ディベートの本質を変えてしまい、ディベートとは互いに合意さえ出来れば自身の属する集団の権利を侵害しても成立出来ると誤解を与えてデファクトスタンダード化します。

ディベートや議論における明文化されず見えない要素は、そこに参加する者達が互いの利害関係が一致しない多種多様な者で構成され、その意見を合意によりまとめる事が出来れば、自然と社会に属する全員に対する合意によって生じる不利益は解消されているという前提で条件をクリアしたとみなされます。これはディベートなどが発達してきた基盤が宗教的な要素の強い基盤で行われてきたがために、明文化されず見えない要素は無条件で達成されている前提の元で行われたからです。しかし時代が進むにつれ、高度な社会になる中でルールを明文化し細分化していくとその細分化したルールを守りさえすれば日常生活に明らかな不都合は見えない様になり、皆が従うだけになりそのルールの根拠を見ずにディベートして良いと思い始めます。そしてルールが明文化される中、宗教が政治と一体化している状態から分離されると宗教を基盤としたルールが適用されずに明文化されたルールのみが残り、増々ルールの根拠となる部分を考慮しなくなります。こうして、明文化されたルールの根拠を含めてディベートの条件とする性善説に則ったディベートと明文化されたルールのみをディベートの条件とする性悪説に則ったディベートが出来上がり、その差異が私達の不和と無理解を助長させます。


例えば、『刃物を使って殺してはいけない』というルールだけがあったとして、性善説に則ったディベートを行う際には『殺人をしてはいけないこと』という明文化されたルールの根拠があり、その派生として主要因である『刃物を使って殺してはいけない』という明文化されたルールが出来、そこに方向性が確立され、同様に明文化されていなくとも『薬物を使って殺してはいけない』、『言論を使って殺してはいけない』、『経済を使って殺してはいけない』などの派生を応用として行う事が出来ます。しかしそれは宗教などの基盤を持った者にしか通用するものではなく、明文化されたルールのみに従えば良いと考えている者には同じ基盤がありません。『刃物を使って殺してはいけない』だけがルール上で制限されているものであり、『薬物を使って殺しても』『刃物を使って殺してはいけない』事に該当しないから合法、『言論を使って殺しても』『刃物を使って殺してはいけない』事に該当しないから合法と考えて、取れる選択肢の幅は多くなります。そうして性悪説に則ったディベートでは性善説に則ったディベートよりも多くの選択肢が生まれ、しかしそれが許されるのは私達が私達を管理しきれない、若しくは本人の能力の限界により、過失や故意を違法という判断を下して制限する事が出来ないからに過ぎず、根本的に社会に許容されるからではありません。しかしそうして管理出来ないが為に性悪説に則ったディベートはその強弱の違いがあっても、性善説に則ったディベートよりも利己益を上げる事が出来、競争力を確保出来、他者に打ち勝ち、その打ち勝てかつ罰せられずに合法であるという事実によってそのディベートによる合意が正しいものだと事後事実によって証明します。しかしそこに本来それが社会に許容されるかどうかの根拠はなく、しかし罰せられない為に"合法化"されデファクトスタンダード化します。

これは基本原則を考慮した展開を許さない罪刑法定主義の瑕疵でもあります。私達は私達の為に完全なルールを誰かが用意してくれるはずもなく、自らで判断しなければならない筈ですが、罪刑法定主義は私達がすべての違反を明文化出来ているという前提に立ち、それを実現するには私達あ積極的に仮死を見つけて事前に法定化しかつ瑕疵を悪用しないという性善説の上に成り立つがために、その様な人員で構成されているという理想論を適用出来ない現実では常に抜け穴を悪用されて社会に悪影響を及ぼしながら利益を稼ぐ方法が生まれてしまいます。そして罪刑法定主義は技術革新による社会の変化に対して脆弱性を持ち、手続きを変えるだけでそこにそれまでなかった組み合わせが存在する可能性により社会にとって悪影響を与えるにも関わらず合法という判断を下すしかない結果を生み出します。そうして、誰かに瑕疵を作らせてそれを悪用する悪事もデファクトスタンダード化します。


それらのデファクトスタンダードはそれまで順守している基準を逸脱する事になる事実を示し、その方法が許されるならと過当競争に陥りやがてディベートは限界まで極端なディベートを行う事になり、競争に勝つためにリスクを抱えて実行し、そして失敗して破綻します。それを防止する為に最初に性善説に則ったディベートの基準が存在し、そこから逸脱する事は先取特権などで利益を得てもいずれ周囲を巻き込んで破綻する結果になります。そのディベートが初めに他者の持ち得る権利を侵害しているかどうかが問題になっているのであって、合意が成立したかどうかが問題になっているのではない事に気づく必要があります。

そのディベートの極論は、当事者の利益だけを考慮して成立するかどうかだけに焦点が合わされ、端的にこう表現されます。『ここに居る皆がそれで良いと言っているんです。それの何が問題なんですか。』と。


私達はダイナミズムの中にあり、現在が静的な状態で私達が決められたルールに従っていればその状態が崩れる事がない、という保証は誰も与えてくれません。それは外部要因に依るものもあれば、私達がルールをルールとして維持出来る状態を自らの過失や故意で壊す可能性もあるからです。私達の社会は多くの要因により絶えず変動し、しかし一定の範囲内に収まり"正常に機能している"と呼べる状態を維持しながら、絶えずリスクを抱えて運営されています。その事実を考慮しないのであれば、ディベートは選択出来る選択肢が多くなり行いやすく、それが罰せられず合法とみなされたのなら本来あるであろうディベートの結果からみなされたディベートの結果が優先される事になりますが、それは同時に、今ある状態を静的なものと考え、自身が何をしてもその状態が崩される事のないものだと無条件に信じる事になります。その考えは、子供が何をしてもパパやママがどうにかしてくれるという考えと同じものであり、およそ社会人が持つべき考え方ではありません。しかし私達は精神の成熟を待たずに成人とみなされる事がほとんどで、社会の中で社会人として行動しながらその考えを改めていく事になりますが、同時に成人とみなされるという事は社会において他者の意見に縛られる必要もなく拒否する事が出来、精神を成熟させずとも権利を行使する事が許されます。そうすると自らの過失によって自らの利己益のみを追求するディベートを行う事が出来、かつ合法であるならば、社会を壊しながら利己益を稼ぎ続ける事が出来ます。そしてそれが許されるのなら同じ様に利己益目的で行う者が出始め、その競争力の差から皆が生存競争の為に行うしかなくなり、デファクトスタンダード化し、最初に逸脱した者が先取特権などと称して自らの利益が正当なものであると主張する結果へとたどり着きます。

これは私達の歴史の中で何度も繰り返された失敗の歴史であり、やがて社会が存続する条件から逸脱している為に社会を維持出来ず、争いになり崩壊させる結果へと辿るまでが一連の流れでありセットとして扱われます。しかしその過程において、私達が私達の能力の限界から気づけず、明文化出来ず、管理出来ず、デファクトスタンダード化させてしまう故に止める事が出来ず、それは例えるなら充分な教育を施せない程の子供の数を抱えた親にも似たところがあり、また、管理しきれない受刑者を抱えた刑務所で看守が監視出来ない場所で受刑者同士で行われる犯罪を黙認する事に似ており、そして社会とは監視する側と監視される側が同じ立場を持つ者であり、それを更に例えるならスポーツにおいてプレイヤーがプレイヤー同士でジャッジするという状況において、違反を止められないならルールが維持出来ずスポーツ自体が成立しない様になる、という事にも似て、いずれ社会を壊します。なぜならルールを逸脱するというのはその逸脱により差を作り有利な立場に立つ事が求める要因であり、ルールを逸脱した状態が基準になると差がなくなり、その方法でしか他者に勝つ事が出来ない者は更にルールを逸脱する方法を模索して実行するからです。そしてそうやって差を作られ不利になった者が元々得ていた権利や資産を取り戻す為にルールを逸脱する可能性は充分にあり、山頂の石が転がり雪崩を起こす様に広がる可能性を排除出来ません。

故に先取り特権などが越権による逸脱であるならばそれはそもそもが社会においては許容されないものですが、私達は私達の能力の限界と自身の知性の低さによりその事実に気づけず、そして欲望を満たしたいが為にその事実を受け入れません。その欲望を抑制するのはそれにより発生する悪影響が得られる利益より上回る場合のみであり、もし自身の認識出来る現状を形作る環境を維持する条件が他者よりも少ないという場合には他者から見ればデメリットが上回るものでも容易にメリットがあると考えて実行出来てしまいます。


それらを踏まえて私達はディベートを行う為、現実に行われるディベートは理想的なディベートからかけ離れたものへと変化します。理想的なディベートは公的な課題、つまりはお互いが同じ基盤上で利害関係が成立し、使用される言葉の定義も互いの定義に含まれる差が誤差と言えるだけの影響しか与えないという前提の元に成立します。社会が多様化すればするほどにその様な前提は成り立たず、それぞれがそれぞれの世界観の中にある価値観で言葉を定義し使用しディベートを行うために同じ言葉を使い、互いに合意出来てもそこに付随する条件が変わってしまい、後になり問題につながる可能性もあり、また、そもそもその前提を考慮しないでどの様な場合にも"合意"さえ出来ればディベートは成功するという考えでは互いが利己的な思考で合意出来た場合、つまりは私的な合意であってもディベートは成功してしまい、それは公的な課題を達成させたディベートとは違うものになります。この原因は同じ基盤上に居ない事が原因となり、その基盤が誰かに与えられた者と自身が当事者として蓄積してきた者では認識に差が出るからであり、宗教などを根本に根差した世代継承を重ねた者は宗教基盤の上でディベートを行った実績を持つが故に、明文化されない部分にも同じ基本原則を適用しますが、その基盤がない者に同じノウハウを理解させるのは至極難しいものになります。全ての事例で全てに対して的確なアドバイスを延々と続けて同じだけの実績を作らせる必要があるからです。それが出来ないのならば社会の中で生活しながら徐々に適応させるしかなく、しかしその知性の度合いによっては見たままに受け入れ、ディベートとは当事者間の合意があれば成立し、罰せられず合法であれば何も問題ない、という所にまで劣化させてしまいます。

そして私達は私達を常に監視し続ける事が出来ず、当事者間の利益でのみ調整された合意を知らずに黙認する結果になり、その結果による行動は問題が表面化するまで社会で行われ続け、問題が表面化して判明した時にはその蓄積を当事者は取り戻す事が出来ず社会で負担しなければならないがそもそも社会にその負担を受け入れるだけの余力がないのが通常となり、押し付け合いになり争いの元になります。

私達がそこに抱える問題の本質は公私の区別が付かない事です。私達は社会に参加する際に社会の中に居られるルールを守ります。しかし全てにおいて全てに対しての詳細に明文化されたルールに則って行動出来ません。効率を重視すれば制限はない方が競争に勝てるために最低限の制限を課すのが競争社会においては基準になってしまいます。厳密な制限を省いた結果、基本原則に見られる大まかな方針から自身で詳細な定義へと展開し制限をかける事で自身の行動が社会の中でルール違反にならない様に自制しますが、そこには個人の裁量が影響し、その自由度が基本原則から詳細な定義へと展開するかどうかすら選択させてしまいます。

その曖昧な枠組みの上でディベートを行ったとしても、公的な基準を達成しているかどうかは疑わしくなり、どうすれば公的な基準を達成するかを追求するならば論理性の追求が求められますが、そもそもディベートをする者達が論理性の追求が目的でディベートをしているかどうかがまず分からず、互いの利益を得るのに必要な合意をすれば互いが邪魔をせずに利益を得られるからディベートをしている場合には、論理性の追求など必要なく、自分達以外の他者から見て"合法"に見えるのであれば最大限の利益が得られる様に合意を行ってしまいます。そうすると私達が自由な裁量が大きい権限を持てば持つほどに、ディベートによる"合意"はより利己的な合意を行う事が出来、それは社会の中で、そのディベートによる合意をしなかった者達にとって不都合な要素を多分に含む可能性が非常に高く問題になります。この場合の利己的なディベートを行う者は、更に不都合に対して批判をする者達を含めてディベートをして新たな集団での合意を行い、問題を指摘せず批判しない者達を集団には含めずにディベートによる合意を元にした行動を取り利益を稼ぎます。その際に、知性が低い者若しくは高度な社会において専門分野以外の分野において相対的に知性の低い者がディベートが行われた集団の外部に居た場合、その者の権利が侵害されていても気づかない場合があり、"バレなければ訴訟も批判もされないから合法"という状態が出来上がります。しかし以前にも言いました様に、社会とは役割分担をしてそれぞれがそれぞれの役割における健全性を維持するという前提において成り立つために、その合意の在り方は厳密に言えば違反であり、しかし合法として片づけられ誰もその間違いを指摘せず批判もしない為に公然と行われ、社会の中で社会を壊す行動が許容されてしまいます。

これらは基本的に社会を悪用したディベートであり、よくネズミなどに例えられますが、そこに良心の呵責や宗教的な戒律による制限がなければ実行するのに何の躊躇も必要なく、そしてそれが実行出来る精神には法律などの基本原則、例えば憲法に挙げられる曖昧な表現を現実に落とし込み詳細な定義へと展開する能力が足りない事の証拠でもありますが、元々ただルールに従っていればすれば楽に生活出来ると思っている者にとってその能力はそもそもが重要ではなく、罰せられないのなら最も楽な選択を行うので気にも留めません。」


エールトヘンは締めくくる。


「私達はディベートを日常で行いますが、その日常が基本的に誰かに作ってもらえた環境の中で行われ、その枠組みから外れなければ問題無い様に作られる為に普段は意識しなくとも良いがために、どうやって環境が維持されているかを考えません。そして考えない為に自身のディベートが自身の属する環境を壊すかも知れないという部分に意識が向きません。その枠組みから外れる場合は自身がどうすれば枠組みを維持出来るかを考える必要がありますが、そもそもその充分な論理性と知性を持たず、現状の自身が枠組みから逸脱しようとしている事すら気づかない事が問題になります。そうなると正しいかどうか、して良いかどうかは個人のチャレンジアンドレスポンスに依存し、何も不都合が起きなければ成功体験と認識して、個々のケースの都合の良い部分だけを見て、同じ様に発生する歴史上で確認されたあらゆるケースにおける不都合な部分を見ない結果になり、枠組みを壊す結果へと繋がります。しかし私達が競争する中で、してはいけないものかどうかを躊躇すれば競争に負ける要因になる為に焦りから実行し、同じ過ちを繰り返す結果へと辿ります。

お嬢様は貴族です。お嬢様の行うディベートはお嬢様の立場から見て配下となる者達を同じ集団として見たものである必要があり、お嬢様の権限がお嬢様の配下となる者達により支えられているにもかかわらず、お嬢様が配下となる集団の利益を無視したディベートを行うのであればそれは職権乱用であり、私的な行使であり本来許されるものではありません、しかしお嬢様を含めた環境が外部からの影響を受け常に正しい条件を成立させながらディベートが成立できるかは不確定要素の為に確定しません。その影響により譲歩が必要になり、配下との利害関係が一致しない時、配下がお嬢様を信用するかどうかはそれまでに蓄積した信頼関係に依存します。故意ではなく過失であるなら許せるものも故意であるなら許せない為に配下は不信を抱き、それが次のディベートへと影響します。お嬢様が1人で全て出来、厳密には生まれてから独りで知識を解明し技術を解明し、社会が持ち得る高度さと同じ所まで自身の手で成長出来るならばお嬢様は他の者の手を借りずに生きていけますのでディベートは個人の利己益のみで構成されても誰もそこに不満は出さないでしょう。しかし実際にはその様な存在は私達には存在せず、社会に属したからこそ得られた知識と技術を使って社会を壊すというのは、社会の中のルールを守って社会を維持する事を受け入れたからこそ与えらえた恩恵という事実を覆し約束を破るものになります。ですので、行うディベートがどの様な権限で行われるかを把握して公私の区別と行われる段階を判断する事が求められます。その能力を身に付ける為にも、さぁ、頑張りましょう。」


前半の話はマ○ンガーZの超合金DXロボとかを出し合って話していると思ってください。その引き合いにガン○ムプラモとかを出して対抗している感じですw。

バカげた話も当事者にとっては真剣なものだったりします。



モーセの十戒

・主が唯一の神であること(あなたが信ずる主義思想があなたの根本であり、その場その場で都合の良い主義思想を振りかざさないこと)

・偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)(形に見えるのは概念の表現形であって、概念そのものではない。形通りに作った、定型通りに行動したから概念そのものを無条件に表現できたと思わないこと。絶えず自身の表現は概念を的確に表しているのかを自身に問うこと)

・神の名をみだりに唱えてはならないこと(形ばかりの理想を掲げて論理性を失い、主義思想の為、国の為、皆の為などと自らの都合を押し付ける悪用をしないこと)

・安息日を守ること(過当競争は効率最重視となり本質や目標を見失わせるので現状を見返す余裕を持つこと。私達は争う為に社会をつくるのではない。争わない為に社会を作るのだ)

・父母を敬うこと(父母は現在の自身より経験を積み社会のルールを知っているのだから自身よりも多くの情報でもって自身を分析してくれるので意見は尊重すること(ただし性善説が基本))

・殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)(皆で争わない前提で約束したからこそ築けた社会の中で都合が悪くなったからと言って安易に他者を侵害するな)

・姦淫をしてはいけないこと(容易く自身に与えられる権利を越権した欲望を叶えないこと。それは争いの元になる)

・盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)(社会をつくる際に互いの信用が必要であり、社会が約束する権利を侵害してはならない)

・隣人について偽証してはいけないこと(お互いが信用出来るという前提が社会を維持させる。自らの利己益の為に客観性なく発言するのであれば皆が同じことを行い社会は維持出来ず争いになる)

・隣人の財産をむさぼってはいけないこと(弱者であったあなたが社会の中に入る事で生存する事が認められた。社会はあなたを搾取せずあなたがあなたの権利を主張出来る様に認めた。そのあなたが相手より強い権力を得たからと言って搾取をするのは間違いだ。それが許されるならあなたは社会の初めから搾取されるだけの存在であるのが妥当である、今の自らを認めるならば隣人の苦境を悪用して譲歩させるな。)

<--十戒が掲げるのは社会に参加する為に守るべき基本的な基準。その大枠の中で可能な選択を続けて社会を成長させる事が社会を潰さない結果になる。

<--新興ユダヤはこういった戒律を守らないのが特徴なので注意。あいつらユダヤを名乗っておきながら守りませんからね。彼らはそこから生まれた社会の中の技術などの恩恵を使うだけ。基盤を作らずその上で基盤の事を考えずに利益を稼ぐだけ。有能だと言いながらユダヤ名乗るんならこれくらい自分で気づいて基準に到達しやがれとか言いたくなります。<--ここは偏見。でもおおよそ合ってる。だから新興ユダヤに対してはこう言えるわけです。「モーセの十戒を神殿の奥深くに隠し、自らに都合の良い戒律を作っている」と。彼らは神に従わず、神に仇成す存在、とラベル貼も出来るんですがそれは攻撃的で卑怯なのでしませんw。


-->そしてそうやって差を作られ不利になった者が元々得ていた権利や資産を取り戻す為にルールを逸脱する可能性は充分にあり、山頂の石が転がり雪崩を起こす様に広がる可能性を排除出来ません。

<--宗教的な代表は「聖戦」です。そして自身は気づけずに「正当な行為」として行って他者の権利を侵害した結果、他者が同じ様にルールを逸脱して実行すると「なぜおまえたちはテロ行為をする」とか言うのが現代社会のテンプレですw。だからテロ行為はなくならない。なぜなら自分達に都合の良い事実をディベートして合意した者達がその合意で不利益を被る者に押し付けるからです。


ーー>これは基本原則を考慮した展開を許さない罪刑法定主義の瑕疵でもあります。

<--で、遡及法だと後付けで罰すると騒ぐんですが、大抵は憲法などに見られる大枠から展開すると逸脱している場合がほとんどですが、抜け穴使って誰かがに作ってもらった社会を壊しながら荒稼ぎしてウハウハしたい連中はそれに不満を述べるわけです。俺が稼げてお前は稼げないから嫉妬してるんだ、とかなんとか言って。


というわけでディベートも含めて元は宗教基盤で養われたものであり、その基盤を取っ払うなら別の何かで補填しなければ有効な手段になりませんよ、となります。それを科学で補うなら論理性で追求する必要があるんですが、そもそも楽して生活したいから科学を受け入れた者にとってそんな面倒な不都合は必要ないわけで。そこが科学にしても宗教にしても問題になる部分です。ここでの要点は、科学を基準にディベートを定義してそれがどう定義されていればディベートとして認められるかを追求したものを使用しないと科学を基準においた社会でディベートは成立しない、という事実です。今の社会で行われるディベートはそもそも過去に行われたディベートをそのまま使用しているに過ぎず、その基盤は宗教基盤であり、その基盤を撤廃して科学でやるのだと言うのだから科学で追及したディベートの定義を用意しなければ、そこに正当性はありません。ですがそもそもが曖昧なままになぁなぁでやってきた馴れ合いの科学社会ではそんな面倒な事をして自分達の不都合を表に出しはしません。出すと曖昧な部分を使って荒稼ぎ出来ませんから。科学的な証拠を印籠の様に見せて「控えおろう!」と言えば皆が平服して従うのが理想なわけです。


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