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S174 人類家畜計画

s167のヴァリエーションです。


年末に上げるのがコレカwと言いそうになりますw。


ジョスリンは移民だ。元居た場所で貧しい暮らしをしていつ生活出来なくなるか不安な状態だったのだが、ゴッセグ人が新しいコミュニティの形成を計画して、ゴッセグ人と移民とで共存する地域を作ると宣言したのでその計画に参加して移住したのだ。恋人のサイラスと共に。

初めは良かった。ゴッセグ人も新しい土地に慣れないジョスリン達移住者に親切にしてくれた。初めはとても良い人たちに見えたのだ。思えばそれは自分達に都合良く操れる者達が欲しかっただけだったのだろう。ジョスリン達が慣れてくると次第に指示は命令の様なものになっていった。ジョスリン達の立場は弱い。移民だ。もしゴッセグ人の不興を買えば権力を持つ者達は皆ゴッセグ人なので暮らしていけなくなる。さりとて移住する為にほとんどの財産を使ったジョスリン達は反抗して出ていくにも多くの資金が必要になるので受け入れざるを得ないのだ。そもそも元の場所に戻ってもだ、以前と同じ生活どころか更に悪いと言える蓄えた財産を使い切った状態になるのだ。戻るに戻れず、仕方なく提案とは名ばかりの命令をジョスリン達は受け入れていた。命令を聞いていれば暮らしていけるのだ。

しかしそんなある日。ジョスリンに転機が訪れた。ゴッセグ人のドランゲがジョスリンを見初めたのだ。当然ジョスリンはドランゲのアプローチを受け入れるはずがない。サイラスとの幸せな暮らしを夢見て移住したのだ。どんな時もサイラスと乗り越えてきた。これからもサイラスと乗り越えていくのだ。ドランゲが何を言おうと受け入れる気もないし、それにサイラスだって守ってくれていた。

しかしさらにそんなある日。サイラスが死んだ。表向きは事故死だ。物盗りに襲われたらしい。そのあまりにもタイミングの良すぎる事故死をジョスリンは信じる事が出来なかったが、ジョスリンの仲間達もそうは思っていても強く発言する事も出来ず、明確な証拠があるわけでもなく、そして命令を聞いてさえいれば暮らしていけるのだからと特に不満を漏らさなかった。


表向きだけ。


ゴッセグ人にしてみれば移民の女は自分達の子を産む為に良い様に使い、男は働かせるためにあるのだと暗に示したのだとしても。


その日以来、ドランゲは誰にも邪魔される事なくジョスリンに会いに来る。そして先日ジョスリンと婚約までした。「仲の良かった友人に死なれて大変だろう。オレが守ってやる」などと言ってズケズケとジョスリンのプライベートに土足で乗り込んできたのだ。断れば出ていかざるを得ず、しかし出ていくだけの資金もなく、ジョスリンは今日もドランゲを笑顔で出迎える。


「ドランゲ。今日も来てくれたのね。嬉しいわ。」


そう言ってにこやかにドランゲの恋人の様に振る舞うのだ。内心でどう思っていても。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。生殺与奪の権利を持たれてしまえば、自身が何を思おうと従うしかないという事ですね。」


「概ねそう。」


「或いは本来約束されていた状況へと続く未来が相手に都合よく書き換えられてしまうという事でもあるという事ですね。お互いが同じ言葉を使ってもそこに付随する価値観が変われば、お互いに同じ言葉を使っても想定する状況や状態が変わります。例えば『共生』という言葉があります。


例えば藻類と地衣類が『共生』しているなどと言われます。藻類が作り出す養分の一部を地衣類は貰い、地衣類はその養分を使って生活しますが、その際に藻類に必要な栄養を作り出し、藻類はそれを受け取って自身の成長に使うというシステムが成り立っています。これを聞けばお互いに助けあいながら生活しているかの様に見えますが、実際は違います。藻類にとって地衣類は必要なく、ただ自身の生活を補強するだけの栄養を貰っているだけであり、また、地衣類は勝手に生えて藻類を閉じ込め、藻類から養分を奪っているのです。藻類にとって地衣類は別に必要なく地衣類が藻類を閉じ込めて藻類の生み出す栄養を利用しているだけになります。しかし互いに互いが必要な栄養を供給している部分だけを強調して見れば、さも互いが互いにその状態を了承して生きているのだと曲解する事が出来ます。


そしてこの『共生』という言葉でもって、その強調した部分であるかの様に錯覚させる事が出来れば、相手が実際にはどういう事なのかを知らぬままに、欲しい結果につながる選択をさせる事が出来ます。つまりはどの様な概念もいくつかの要素を持ち、その要素の内の自身に都合の良い部分を強調して提示し、その強調した部分が相手にもメリットがあるかの様に錯覚させるが、実際には強調した部分以外の要素が相手にはデメリットを与え、そしてデメリットがメリットを上回るという方法が行えるのです。

詐欺行為などに見られる方法は大抵はこういった、本来見るべき部分から目を逸らさせる事で行われます。一番分かりやすいのは相対と絶対を入れ替える事です。デメリットがメリットを上回り結果的に損をするという事は、総合的に損失になるという事です。棒グラフで考えて見ると何本かの棒グラフがあり、それが利益をプラス、損失をマイナスとして、どちらの方向にも伸びているがその合計がマイナスになるという事になります。ではその一部に着目してみれば、一部分のみであればプラス、つまりは利益であると考える事も出来ます。そうであるならその部分だけを提示してあたかもメリットがあると思わせ、結果的にデメリットを与えようとする事が出来ます。しかし、言葉としても言葉の表す意味としても確かに"メリットはある"わけで嘘を言っているわけではないとも言えます。しかし私達が私達の持つ普遍的な価値観から判断すればそれがメリットであると判断する事はなく、私達が通常の判断においてはデメリットの方が大きいので"デメリットである"と判断する為、本当の事を言っているわけでもないのです。そしてもしその提案をされた側の判断能力が足りなければその主張を"メリットがある"と錯覚し利益になると考えて受け入れてしまいます。

ですので、詐欺行為や不正行為というのは情報の足りない者や知性の低い者を狙い行われます。分かりやすいのは大人が子供に行う場合です。それ以外にも立場や権力の上での弱者なども狙われます。この場合は、判断能力があろうとなかろうと権力で強引に受け入れさせる方法が行われる事もあります。私達が意志を示すには普段からコミュニケーションを取っている相手でなければ明確に意志を示す必要があり態度で明確に示す必要があります。それは勿論、例えば人物Aが自身の権利を守る為に態度で示さなければ相手である人物Bは自身の行為が受け入れられるものだと思うからです。態度で示さなければ伝わらず、態度で示して伝えるのが暗黙のルールになっています。しかし、もし立場の強い者から弱い者へと何かの提案がされた場合に、弱者の側は態度で示す事が出来るでしょうか。それが弱者に不利益なもので受け入れられない事を態度で示してその場面だけは避ける事が出来たとしても、その後はどうでしょうか。後になって別の形で不利益を与えられ、場合によりその不利益の方が大きいとすれば態度で示す事は出来るでしょうか。

簡単な例では強盗が被害者を脅す場合には、『殺されたくなければ金を出せ』と言いますが、これは今なら金を払うだけのデメリットで済むぞ、払わなければ死ぬというデメリットを被るぞと言っています。それと同じ様に立場の強い者が弱い者に提案をしたとして、その内容に含まれる要素に『今ならこのデメリットだけで済むぞ。断ればもっと大きいデメリットがあるぞ』と意味が含まれていたとして、はたして弱者は断る事が出来るでしょうか。例えば強者の発言や提案がその表面上は何の問題もなく合法であるかの様に見えたとして。

例えば、普段から暴力を振るう者が相手に提案し、その提案が受け入れられない様な展開になった時に不満を表すと相手からすればその後にどういった展開になるかを予想できます。もし殴られる状況になったとして、今の提案よりも殴られる方がデメリットが高いのであれば提案者が何か明確に暴力を振るうという態度や恫喝するという態度を取らなくとも相手は態度で示す事も出来ずに受け入れる場合があります。それにもし相手が断るなら、誰かに見られていない場所などの罪に問われない状況で殴って脅して、誰かに見られていて罪に問われる場所で明確に拒否する態度を取らなくする様にすれば良い、と考えるのが悪人です。その様な出来事がどこかで行われるために、場合により、ある主張をした者が次に会った時には前回の主張を撤回するなどの事が当然の様に起こったりもします。


相対と絶対を入れ替えるという方法は他にも相対的基準で見れば決して有利若しくは優位でないものをさも有利若しくは優位なものだと錯覚させる為にも使われます。例えば基準に満たないものでも絶対量としては発生しています。では相対的基準で見れば足りずにメリットになり得ないものもそれが良く分からない者に絶対量で提示してこれだけあるのだから価値があると提案して錯覚させる事が出来れば、あたかも相対的基準を満たして目的を達成出来ると思わせる事が出来ます。相対的基準で語られるべき所で絶対的基準を強調し、また逆に絶対的基準で語られるべき所で相対的基準を強調して、あたかもデメリットよりもメリットの方が上回っていると思わせる手法は悪事を行う際の常套手段になります。その主張は一部に真実を含む事になり、その部分だけを見れば嘘を言っていないからです。

詐欺行為の基本的な方法は、気づかれればしない、知っているならしない、気づかれていないならする、知らないならする、です。もし相手が知らないのであれば目の前で行っても止められません。それがルール違反や明確に犯罪行為と呼べるようなものでも相手が理解出来ていない方法なら公然と行えるのです。そして、失敗した時の逃げ道として、『私も気づいていなかった』や『勘違いしていた』や『この部分を重視してた』などの発言で故意を過失だと主張出来る様にするのです。私達は間違う生き物です。その間違いを全て追求していてはいつまでも争う事になり、前提として皆がその様な過失を行わない様に努力する様に生きていくのが暗黙のルールです。そこを悪用するのです。誰かから見て別の誰かの人生全てを監視しているはずはありません。ある人物の前に居る別の人物がどの様に生きてきたかを全て見てきたわけではありません。そうであるならその人物が同じ場所に居るのだから大体似たような生き方をしてきただろうと推測するしかなく、そこを悪用出来るのです。この際に性善説で表される性質に近づいて行っている人物は知性が低いと相手も同じような性善説で表される性質に近いのだと錯覚して、相手の嘘をそのまま受け入れてしまいます。


個々人が違う人生を生きている様に、ある人物にとってはそれまでに周囲の人物の生活において、明文化されていなくともお互いに守る暗黙のルールが出来上がっていても、別の人物にとってはそうではないかも知れません。するとある人物にはその暗黙のルールが生きていく上で有益で守るのが当然だと思っている状況で、そう思っていない人物はそのルールが与える錯覚を悪用出来ます。性善説で語られるべき人物というのは、基本的に多くのルールをそれまでの経験やその結果からの推測による暗黙のルールを守っていく事で出来上がっていきます。しかしその様な過程を踏む事なく欲望を満たす事を優先する人物にとっては、"罰せられなければ全て合法"なのですから付け込む隙が多々あるのです。


今回の話の様に、ある集団にとっての『共存』と別の集団にとっての『集団』という言葉の意味する所の違いがあるにも関わらず、どちらも同じ『共存』という言葉を使い、そしてそれがあえて『共存』という言葉を使えば錯覚を与える事が出来るという思惑で使用される場合があります。そうして相手の提案を受け入れた時に、自身がどの様な状態になるかを考えなければ、相手との力関係により、相手の提案が実現された時に得られる改善された状態よりも、そしてその提案を受け入れる前の状態よりも、更に悪化した状態へと追い詰められる可能性が出てきます。

これがなぜ起きるかと言えば私達がかつて誰かが考えた行為を表現した行動を見て真似るからです。行動から行為を一意に推測するのは難しく、同じ性質をしているか同じ様に考えた事があるかその結果を知識として得ているかでなければ行為を推測出来ません。すると別の見方をしてしまいます。例えば、先導者が居て誰かを導きどの様に行動して生活していくのだと教えてその者の暮らしを安定させようとしたとして、その行為を理解出来なければその行動を見て、誰かに偉そうに命令して行動を制限して意のままに操っていると見る可能性があります。そうするとその見方をした者は、誰かに対してマウントポジションを取り相手に強制して利益を得てよいと思い込むようになります。しかしその2者にとってはどちらも『先導』なのです。

そして更にこの様な錯覚がある事を知り、個々の出来事の都合の良い部分をあえて強調して自身に都合の良い解釈をしようとします。つまりそこに客観性はないのです。しかし一部を強調してさも自身の主張が正しいかの様に振る舞う事が出来、また、自身の主張の補強材料にする事も出来、その主張を聞く者の知性が低ければ、さもその主張する者にとって都合の良い部分だけを強調した提案を、客観的に見ても妥当な提案だと受け入れてしまう可能性が出てきます。

そうした誤誘導をされるのを防ぐには相手の意図がどこにあるのかを知ろうとする必要があり、多くの情報とそれを判断出来る知性が必要になりますが、だからこそ情報を制限し、そして必要のない情報の過多により実質的に正しい情報を得られない様にする事でも情報を制限し、間違った解釈をする様に印象操作し、そして知ろうとする機会を奪う事で知性の成長を妨げて、自身に都合の良い様に操ろうとする悪人が現れます。


そうなってしまえば、錯覚させられた者が得られる本来の権利は歪められ、不当に扱われる事になります。例えば家畜は家畜としての一生を送る事が出来、生活の不安がないとも言えます。しかし家畜として扱われるという事は本来持っている権利を本人の意志なく奪われているという事でもあります。家畜は家畜として生を享受しますが、しかし家畜がもし家畜としてしか生きられないのでもないのに家畜でしかいられない様に権利を奪われているとするなら、その現在の家畜の幸せというのは家畜として扱われたものの本来の幸せではないと言う事になります。」


エールトヘンは締めくくる。


「高度な抽象概念程そこに含まれる概念の要素は細分化されたものになり、知性の程度でその抽象概念に含まれる要素の精度が変わってしまい、知性が低ければ低いほどに"およそそのようなもの"と考えるものになっていきます。するとその曖昧さがいくつもの解釈を生み出し、その解釈の都合の良いものを選択してそうだと思い込もうとする事があります。そして、その解釈が出来る事を悪用して他者を誤誘導して利益を稼ごうとする者も居り、そして、都合の悪い概念などをその間違った解釈が正しいのだと印象操作してしまう事も行われます。お嬢様は貴族です。民衆の性質が改善されていなければいない程に、未だそういった悪事を行おうとする者が居ます。そして行う事で得られる利益が大きければ大きい程に誘惑は強くなり、その性質が悪質に近ければ近い程に誘惑に負けて実行してしまいます。民衆が悪事をしない様にする為には、民衆に悪事とはどういったものなのかを認識させる必要があり、知性を高めさせてより精度の高い認識を持たせる必要があります。その為にはまずお嬢様がより多くの知識や概念を手に入れて客観的な基準を知り、その差でもってそれぞれの主張や提案がどの様な意図で行われているのかを判断出来る様になる必要があります。その明確な指針を手に入れる為にも、さぁ、今日も頑張りましょう。」


これはまだ明確な研究結果が出ていませんが、恐らくは利益にならないので研究されていないと思われる内容ですが、地衣類は樹木に着生します。現在の認識は樹木に付いているだけで樹木からは栄養を奪っていないらしいです。しかし本当にそうなのかは疑問です。地衣類はその種類において、着生する樹木が特定の樹木である事がほとんどであり、なら本当に樹木に付いているだけなのかと考えられます。地衣類は菌ですので多少の樹木の凹凸なんてそれほど関係ないはずです(人間の見ている表面とはミクロの度合いが違う)。もし付いているだけならあえてその樹木を選ぶ必要がないからです。ですでの個人的な見解ですが、特定の樹木に付く地衣類はその樹木から栄養を取ろうとしているのではないか、と思ってます。"ただ付いているだけ"という見解のお話ですが樹皮(死んだ細胞)からは栄養が取れないから、というのと樹が弱り樹勢が衰えたから表面に地衣類が付くようになった、というものがあったと思います。これを人間と白癬菌の関係に見ると樹勢が弱ったから樹につくようになったとは必ずしも言えません。人間の肌の表面に白癬菌が付き肌の細胞から栄養を取りながら増殖します。細胞はその影響で死滅してフケなどの鱗屑になります。白癬菌はそのままでは肌の奥深くに侵入してこようとします。それを防ぐために体は常に細胞を作り続けて白癬菌を内部へと侵入させない様にしようとします。これを例えると、川の流れの中で上流に向かって泳いでいる魚が居たとして、その魚が上流に辿り着いていないとすると川の流れが速いから泳ぐ速度と吊り合って上流へと進んでいない様に見える、という様な感じです。つまりはまだ体が若く新陳代謝が活発なら白癬菌は表皮で止まり真皮には中々辿り着けない。だから表面上はさして影響のない様に見える。しかし新陳代謝が衰えると白癬菌が真皮にまでたどり着いて常態化して真性になります。すると常に菌に感染した状態になります。丁度これと地衣類が樹木の表面に付着しているのが似ていると思いませんか?菌糸を伸ばして樹の内部にまで入り込もうとしているかも知れません。しかしあくまでこれは個人的見解ですので注意してください。


樹木と菌根菌の関係というのがそういったもので、マツタケとかが良いとか言われている印象操作もその類ではないかとも邪推出来ます。樹はマツタケに寄生されているだけ。それを良いと言って栽培させるのは寄生させるのを助長させているだけとも言えます。そういったのが良いのだと印象操作している者がどこかに居るかも知れません。自分達が寄生するのも悪い事ではないのだと主張する為に。


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