S172 推してダメなら惹いてみろ
キティは紹介を頼まれてアーリーンを口説いていた。アーリーンが知らないキティの友人が偶然キティとアーリーンが一緒に居る所を目撃したらしく、「おい、あれは一体誰なんだ。紹介しろ」としつこかったからだ。しかし友人であるマーティンがそんな事を言う程にアーリーンはちょっと皆から目を向けられる。だからアーリーンもそういったものを嫌がるのでキティとしてはどうしたものかと考えるのだが、さりとてマーティンからの頼み事だ。マーティンに頼まれたのに断るとマーティンが嫌な顔をしそうでキティはどうしても断る事が出来なかった。キティにもちょっとした欲はあり、もしアーリーンの事を話す機会が増えればそれだけマーティンに会える。アーリーンがマーティンに会ってみたりする時にはキティだって居るだろう。幸いなことにマーティンはアーリーンの好みではない。アーリーンが憧れるアーティストを知っているキティだからこそマーティンとアーリーンを合わせても大丈夫だとキティは思いマーティンを勧めてみる事にしたのだ。
「ねぇ、アーリーン。私の知り合いがさ、今度遊びに行かないかって。」
「ええ?また?あ、ごめん。キティはあんまりそう言った事言わなかったわね。」
「フフッ。いつも大変そうね。でもね、それはアーリーンが魅力的だからよ。皆、アーリーンと遊びたがっているわ。アーリーンだって遊ぶの嫌いじゃないでしょ?じゃあ、今度一緒に遊びましょうよ。」
「えー。でも、最近遊び過ぎてもう充分だわ。しばらくは大人しくしてないと怒られちゃう。」
これは予想外だとキティは焦る。アーリーンが会ってくれないとマーティンと会う機会が減る。だから思わずこう言ってしまった。
「そういえばアーリーンってあのバンド、好きだったでしょ?なんかさ、マーティンがもしかしたら今度のライブのチケットが手に入るかもしれないって言ってたわ。」
「嘘!?あれ、かなり手に入りにくいのよ?ふーん、そう・・・。ちょっと会ってみようかな。」
マーティン、頑張れ。思わずそうキティは天に祈った。
「というような事は起きるのじゃろうか?」
「なるほど、自身の主張を受け入れてもらえない時は相手が関心を持つもので惹きつけるという事ですね。」
「概ねそう。」
「悪く言えば、欲しい結果を得るために餌で釣るなどとも言います。自身の主張というものはそのものの知性が低いほどに、欲望に流されやすいほどに、主観に近づき客観性を失い、願望の様なものになります。例えば子供を見ればわかる様に、欲しい結果を求めてねだったりしますが、大人から見て社会のルールや収支のバランスを考えていない場合があるのと同じで、欲しい結果を手に入れた後の事を考えていません。すると他者と利害で一致しない場合は他者の利益を損なっていたりする可能性があり、相手に自らの主張を受け入れてもらえません。もしそれでも相手に自らの主張を受け入れてもらうためにはどうするかとなれば、相手に強制するか相手と利害を一致させるかになります。
前者は相手にどちらのデメリットを選ぶかを決めさせるともいえ、例えば、強盗が凶器で命を奪うと脅して代わりに金品を奪うという状況は、命を奪われるか金品を奪われるかの選択をさせているとも言えます。この場合は相手と利害を一致させておらず、社会の中では争いそのものや争いの原因になるので基本的に禁止されています。
しかし社会が高度になるにつれ、私達は行為の判別をし辛くなっていき、明確に違反かどうかを決めきれずにグレーゾーンと呼ばれる違法性も正当性も割合で含むものが増えていきます。様式や場所で行為を限定したならその限定した状況とそうでない状況のどちらとも言える状況があればあるほどに明確に2つを分ける事が出来なくなります。高度な社会程、概念は多くなり、行為に付随する概念も増え、それぞれを条件として満たしているかを判断する必要があり、しかし私達が持つ制限がそれを識別出来るだけのバリエーションを許さず、競争する為に効率を求めて誤認してでも行為の効率化を図り、それを性善説を前提に実行するので、それだけ明確に違反かどうかを判別出来なくなっていきます。利便性を優先すると場所や時間において誤認出来る状況を性善説を前提にして効率を上げて誰もあえて悪用しないという判断のもとに行われる様になり、行動を見て行為に含まれる条件が求められるだけ達成されているかが分かりにくくなります。そうするとそこに錯覚出来る要因が出来、それを悪用して利益を稼ごうとする者が現れ、また規制を強くする事になります。私達が私達としての性質を改善しながらルールを緩和して、緩和した為に悪事を行う者達が現れ、その者達が悪事を行っては社会が潰れると自覚してようやく緩和した事で行える不正行為をしなくなる一方で、不正行為をしてはならない事を分からせる為にもう一度規制を強化して性質の改善を試みるという繰り返しをしていく方法でしか、効率と、高度な概念を正当性をもって行為する事の両立は出来ません。ですから性質を改善しながら、性悪説で語られるべき者達を性善説で語られる者達に近づく様にシステムは組む必要があります。
しかし社会は完成されておらず、誤認出来、錯覚させる事が出来る状況はより多くの利益を得る事が出来ます。していないのにしたかの様に振る舞って受け入れられればそれだけ利益が多くなります。逆に、していないのにしたかのように思われて損失を受ける場合もあります。前者の様に自身が誤認されて利益が得られる様に行えば利益は増え他者に競争で勝ちやすくなり、後者の様に他者を誤認させて損失が発生する様に貶めればそれだけ競争に勝ちやすくなります。そして過度な生き残り競争はこういった行為を顕著に行わせ、"生き残れば勝ちだ"と大義名分を言わせます。そもそもが元々のルールが高度な社会を維持したまま生き残る為に必要なものだったとしてもです。
そして私達の社会が制限を強化して何をすれば間違っているのかを明確にしつつも時には緩和して個々人の性質に委任して維持できるかを確かめる事を繰り返すとその結果を見て方法そのものの瑕疵につけこみ、悪事を成そうとする者が現れ、方法そのものを実行出来なくなる場合がある事はここでは割愛します。
少し話を戻しまして、後者である利害関係を一致させる方法というのは、自身の主張を相手に受け入れてもらえる様にするには相手側にメリットがある様にしなければ、相手側としては損失を生じさせるのでは受け入れがたい為に、自身の主張が相手の存在する環境に影響を与えるのであれば利害の一致が不可欠となります。ここでの利害ですが、グローバルには社会が維持出来るかどうか、ミクロでは利己益が得られるかどうかになります。社会概念を理解できるだけの知性が足りず社会を維持出来る為の行為の取捨選択が上手くできない、若しくは欲望に流されてより主観的な判断により利己益を優先するとグローバルな基準となる社会の基準は軽視され、利己益を得る選択を行う為に、当事者同士が合意してもその合意により行われる行為が第三者の利益を侵害する状況になりやすく、新たな争いの要因を振りまく事になります。例えば、その所有権を持っていない2者で合意して、第三者の財産を勝手に売りさばくなどが分かりやすい例です。この例の一つとして国や企業のトップが管理する団体の所有物を特定の者に不当に利益が生じる様に取引するなどが考えられ、背任罪として扱われます。利権もその一形態です。より個人の規模での視点であれば、親が子の持つ預金を勝手に引き下ろして使い込むなども該当します。
社会が高度になれば必要な資源も数が増え、また、用途も多様化し、それだけ確保しなければならず、社会が大規模になれば相対的に1人当たりの資源量も減ります。高度になればなる程に、大規模になればなる程に、個人の持つ快感原則とは利害が一致せず、より快感を求める為に社会の与える制限を外したがります。廃棄処理を省けばそれだけ利益が得られ、処理の手間も省けます。しかしそれは他者も巻き込んで問題を発生させている事になり、高度な社会程、そこに属する人員の知性の高さが求められます。社会を維持する為にどんなルールを守れば良いのかが分からないならそれだけ利己益を求めて合意出来、結果として他者に負担を押し付けている事にも気づけずに自身の正当性を主張して、自身は間違っていないのになぜ批判するのだと更に主張し争いの原因を作りながら更にまた争いの原因を追加する事になります。
今回の話の様に、自身の欲しい結果を求めて交渉していますが、自身の主張では欲しい結果が得られない事が分かり利害が一致していないと判断した後に、利害が一致する様に別の提案をする場合があります。そしてその提案が2者間では利害が一致して話はまとまっていますが、第三者の男性に負担を押し付ける形になっています。
この様な合意と同じ事が日常でも行われている可能性があり、そして当事者同士が悪人で故意に行われる事も、また、過失で気づけない為に行われる事もあり、様式だけを見て、それが実際に社会に適合する活動かを判断する事は出来ません。その活動がどの様な状態や環境の中で行われたかが重要になり、正当性があるかどうかはそういった情報を含めて判断する必要があります。」
エールトヘンは締めくくる。
「同じ社会で同じ思想を持っていたり、親と子などの似た性質を持つ者というのは価値観が近くなり、合意は得られやすくなります。その基盤となる利害関係が一致しているからですが、社会には多種多様な主義思想や価値観を持つ者が居ます。社会の中で優先する要素が違えば違う程に意見は会わず、それだけ厳密にお互いの認識を共有する必要が出てきます。たとえそれが当たり前と言えるようなものでもです。その当たり前と思える出来事への経験や認識が、そもそも経験が少なかったり忘れていたりして前提として考えるには不確実な場合があるからです。しかし社会の中で一々確認をしていては効率など向上しない為に、だからこそ常識などと呼ばれる共通認識が必要になります。社会の中で属する者はまずその共通認識を得る事で日常における交渉の基盤として用い、暗黙の了解としますが、そこに悪用出来る瑕疵が存在するとも言えます。お嬢様は貴族です。民衆を管理する為には民衆が社会の共通認識を悪用しない様に見守る必要があります。共通認識を歪めて特定の集団に都合の良いものにしようとしていないか、あえて明文化していない部分を悪用しようとしないかを確認する必要があります。しかし社会に起きるすべての活動を監視する事など出来ず、民衆の自制を期待する事になり、民衆が自制を得るには、個々人が共通認識の根拠を知る必要があります。なぜそう決められているのかを知ればメリットとデメリットが見えてくるので、個々の状況において不正行為をしようとする者を判別出来、また、自身も過失で行うリスクを下げる事が出来ます。それには民衆の知性を高める必要があり、その為にも、頑張りましょう。」