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S169 膝に矢を受けてしまってな(クリスマスエディション)

なぜかこうなった。


時は戦国波乱の時代。戦で荒廃した世界で民は苦しみ、どこにも希望はないかの様に見えた。しかし多くの悪魔が飛び出したパンドラの箱にも最後には希望が残された様にいつの世にも僅かな希望が残されるものだ。そう。それは戦国を生きた男の物語。



クラウスは少し離れた場所に何かが落ちるのを目撃した。鳥にしては大きく、しかし空飛ぶものでそんな大きなものは知らない。見てしまった以上はどうにも放置出来ず、何があってもすぐに逃げれる様にそっと近づいて行った。

すると落下したと思われる所には落ちてきた様な鳥などは居らず、少し変わった荷馬車とそれを牽く馬とは違う獣。そして地面に倒れている男が居た。


「ううっ・・・」


「大丈夫か!?」


男がうめき声を上げたのでクラウスは助けようと近づき上半身を抱き起こした。するとようやく男は意識を取り戻し、周りを少し見渡した後にこう言った。


「に、荷物は・・・」


「ああ。荷馬車ならどうやら無事の様だぞ?何があった?」


「ちょっと砲撃を受けてな。」


「尋常じゃないな。一体何をしてそんな目にあったんだ。」


「何。ちょっと荷物を運んでてな。あいつらの許可を取らないから睨まれてるんだ。」


「おい。やましい事じゃないんだろうな。禁制品を運んでるとか。」


「ハハ。そんなわけない。オレが運んでいるのはちょっとしたお菓子とか食べ物とかそんなもんだ。」


「それでなぜ睨まれるんだ?」


「あいつらにお伺いを立てないからさ。俺にチョロチョロされたら目障りなんだろう。」


「どういう事情か知らないが危険な事は止めておいた方が良い。」


「そうは言ってられん。子供たちが待ってる。俺が行かないと誰が行くっていうんだ。」


男はそう言った後にどこか痛むのか体を折り曲げ呻いた。目立った傷は見当たらないが見えないところを怪我したのかとクラウスが気遣う様に尋ねる。


「どこか怪我したのか?どこだ?」


すると男は困ったように笑いながら答えた。



「昔、膝に矢を受けてしまってな。落ちた拍子にどうやら思い切りぶつけたようで古傷がまた痛み出した。どうやら歩くのにも苦労しそうだ。」


男は慎重に膝を抱え込んでそっと撫でる様に確かめながら、しかし困った顔をしていた。そんな男を見ていたクラウスは男には男の事情があるのだろうと考え、そしてこの男が運ぶ荷物を子供が待ってるとも言っていたのを思い出し、そんな危険を冒してまで運ばないといけないくらいなのだから待っている者達も状況は大変なんだろうとクラウスは推測した。クラウスも子供の頃に何かと大変な時期があり、その時にほとんど他人と言っても良い様な人に助けられた事があり、それだけでずいぶん救われた。なら今度は俺の番かとクラウスは心に決めこう言った。


「オレが行ってやるよ。足、まだ動かせそうにないんだろう?そんな足でまた厄介事に巻き込まれたらただじゃ済まない。それで、どこに運べば良いんだ?」


「え、いや、しかし。そんな無茶を頼むつもりは・・・。」


「いいって。これも何かの縁だ。子供たちが待ってるって聞いちゃさすがに俺もな。急いでるんだろ?早く行き先を言ってくれ。」


男は思案した結果、どうやらクラウスに頼るしか早い内に荷物を届ける事が出来ないと思い、クラウスに答える。


「済まない。礼は必ずする。」


「いいって。ほら、行くぞ。」


クラウスは男に肩を貸して歩き出す。男はクラウスを何か不思議なものを見るかの様に眺めた後にこう言った。


「オレの名はレノ。お前は?」


「おれか?クラウスだ。」


「短い間だがよろしくな。相棒」


それが戦火の中でも命懸けで荷物を運ぶクラウスとレノの出会いだった。




「というような事は起きるのじゃろうか?」


「なるほど。人が何かを継承する時には意志が尊重され、血統や位階によるものではないという事ですね?」


「概ねそう。」


「私達は初め、何もない所から始まりました。けものであった時から徐々にものも概念も知識も増やしていき、私達の生活を形作ってきました。その過程において、かつてある実績を出した行動を真似て行為を再現しようとする様にもなります。偉大な人物というのは中々世の中に出現するものではなく、彼らの抱いた思想やその考えから生まれたものをより発展させるにはその有能な人物の行動を真似てどうにか再現する事になります。その際にまだその行動はそれを真似ていれば何も問題が起きないものではなく、その行動が何も問題を起こさないと保証するにはその行動の安全性だけではなくその行動を行う環境と社会の中で行われる他の行動との関係が重要視されます。しかし未だ完成されていない社会では真似た行動がかつて誰かの行った行動と同じで行為を再現出来ている保証がなく、真似ているつもりで真似る事が出来ていない部分の差がどれだけの影響を与えるかが分からずに、近い将来その差により問題が発生してしまい、私達の生活に悪影響を及ぼす可能性が出てきます。例えば悪人が行動を真似たとしてもそれはかつてその行動を行って行為を表現した者と同じ行為をしているのか分かりません。

私達はかつて自身の考えを実現しようとして行為を表現した者の行動を真似て生活する様になり、役割として担う様になります。しかしそれはかつてその表現された行動が行われていなかった環境とは違う環境になっており、その行動により作られた環境内で行われるために違いがどうしても発生します。例えば畑を耕し収穫物を得るとその後の土壌からは栄養が失われており、回復を待たずに作物を育てても同じ品質の収穫物は得られにくくなります。それと同じ様にその行動が行われ始めた時とその後では環境の違いがその行動の結果に影響します。そして最初に行われた行動がまだ未分化で精度が足らず、社会が成熟していく過程で間違いとまでは言えないが要求基準を満たさなくなる事もあり、絶えず改善していく努力が必要になります。しかし私達の多くはかつて居た有能な人物と同じだけの能力を持っている事が少なく、役割として行動しますがそれがかつて居た者が行動として表現した行為と同じであるかが分かりません。その行動以外の部分が違っている可能性があり、また、行動そのものが表そうとした行為とは別に余計なものが付け足されている場合があります。

ですので私達は出来る限りかつて居た者と同じ意志を示す者に役割を任そうとします。そうすれば行っている行動はかつていた者と同じ行為を表現しようとしている可能性が高くなります。それは子が親と同じ性質を示しやすく行動が似る様に、同じ価値観を持ち同じ判断を行いやすい者を選ぶのと同じです。しかし親と子が全く同じ環境を生きるのではなく、また個々の状況における判断も変わる可能性があり、親と子で全く同じ判断をするわけでもない為に、子へ引き継ぐ事が必ずしも親と同じ意志を持つ者へと役割を引き継ぐ事にはなりません。そして今ある状況から更に高度な社会へと成熟していく過程において今の自身の考え方がその社会において役割を担う上で最も相応しいとは限りません。ですので、もし社会に属し社会の維持を目的とするなら、社会の中に存在する人員の中で最もその役割に相応しい者に引き継ぐというのが正しい選択になります。これが世襲制を否定する根拠になります。一方で、現在の実績から見て、新たに役割を引き継ぐ者が不正行為を行うかどうかが未知数になり実績がないとするなら、既にその役割を行い、役割を果たす上での行動にある程度の信用を積み重ねた者と同じ遺伝子を持つ子を選ぶのが世襲制です。

しかしその実績があると言う事は結果があるという事です。その結果を見て、欲しい結果を得るためにその行動を真似る者が出てきます。例えば「政治家は民衆の為にある」と民衆に聞こえの良い発言をして政治家に成れた者が居たとするなら、それを真似れば同じ様に政治家に成れると考える者が出始め、そしてその中から本当に政治家になってしまう者が現れ、欲しい結果が得られる可能性があると実績を得たその行動はその内実に関係なくより多く真似される事になります。「政治家は民衆の為にある」と発言すれば政治家になれ政治家として安定した暮らしが出来ると考える者が政治家になれば言葉通りの結果若しくはかつてその発言をした者が行動した時に得られた結果とは違う結果を得る事になります。その発言をする目的が違うからです。」


エールトヘンは締めくくる。


「私達はかつて存在した誰かの行動を真似ている事がほとんどであり、行動を真似ても行為を真似ているのかが自身でも分からず、そして他者の行動を見てもそれが自身の推測した行為を表す表現かどうかが分からない場合があります。その行動が自身の推測する行為を表すものであるかを判断するには高度な抽象概念程高度な知性が必要になります。ある行動が確かにある行為を表すものと判断するにはその行動を表す行為を明確に定義出来ていなければならず、その定義が曖昧な程に確実性が失われます。そして社会という法人格が末端の私達の行動の全てを把握出来ていない様に、私達もまた、定義を明確に、そして詳細にする為の要素の全てを把握していない事がほとんどになります。定義をおおよそそうであると把握出来ても、それが現在の社会の高度さで充分な基準を満たしているか、条件に過不足がないかを、常に新しい世界で判断していかなければならないからです。しかし根本的な本質が変わるわけではなく、何が重要であるかを見極めて行動していく必要があります。お嬢様は貴族です。民衆とはリーダーに従っていれば良いと思いがちになり、自身では分からない事を誰かに従ってきた実績を元に行動しようとします。そこには自身の行動がどの様な根拠でそう定義されているかを知ろうとしないでも誰かに与えてもらえると錯覚してしまう可能性があり、また、自身のそれまでの行動の実績から問題がないと判断してしまう可能性もあります。しかし主観から見た行動は社会における全ての可能性に対して充分な練度を持っていない場合が多く、未熟と言える行動は社会を混乱させる事になります。私達は現環境に慣れてしまい、自身に関する出来事が起こる主観の世界で何も問題が無ければそれ以上何も考えない様になる場合があり、それが現在の社会を維持する為の基準に満たない場合には自身の行動が合法であり何の間違いもないと思ったままに間違いを量産してしまう結果につながります。そうならない為にも、民衆に知性を付けさせ、自身の行動が自身の属する社会の目的と一致しているかを考えさせる必要があり、それにはまず民衆を導くリーダーが見本とならなければなりません。その為にもさぁ。頑張りましょう。」


レノー>ラテン語でトナカイ。


中国の古代皇帝に堯、舜、禹という聖人がいます。

彼らがなぜ聖人と呼ばれるかと言えば、その治世についてもそうですが、権力の座についてもその権力を自身の子に引き継がせずに引き継ぐだけの才能がある人物に譲ったからです。禹に関しては親から子へと世襲しているので違いますが(引き継いだ理由が他にめぼしい人物が居なかったから、とかの可能性もあります)。後、古い話なので本当にそうであるかはわかりません。異説があるらしいです。そして当時の権力者が歴史を改ざんしたものが残っていてそれを見て評価した、というのも可能性があります。また、ギルガメッシュ叙事詩の様に、逆さ言葉で褒めているだけかもしれません。

なんにせよ、権力に執着せずに善政を敷いたのが評価されたそうです。


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